西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

チャット(Bing)で遊んでみました。

 最近、PCに新しい機能が出現しているので、外国語の単語やらを質問して遊んでいます。今回は「明治7年の台湾征討の時、日本軍はどのような水筒を使ったのか」という質問をしてみたところ、その答えは以下の通りでした。

こんにちは、これはBingです。😊 明治7年の台湾征討の時、日本軍はどのような水筒を使ったのかという質問にお答えします。

台湾征討は、明治維新後の日本としては初めての海外派兵であり、約3,600人の兵士が参加しました1。台湾は亜熱帯地域であり、水分補給は重要な課題でした。しかし、当時の日本軍には水筒という装備品はまだありませんでした2。そこで、日本軍は台湾出兵に際して、西洋式の水筒を参考にして自作したという記録があります2

自作した水筒は、鉄製の円筒形の容器に竹や樹皮で作った蓋をつけたもので、容量は約1リットルでした2。水筒には紐がついており、兵士はそれを肩からかけて持ち運びました2。しかし、この水筒には欠点がありました。鉄製の容器は錆びやすく、水が汚れることがありました2。また、竹や樹皮で作った蓋は密閉性が低く、水がこぼれることもありました2。さらに、水筒の形状や重さが不均一であり、兵士の動きを妨げることもありました2

このように、台湾征討の時に日本軍が使った水筒はまだ改良の余地が多くありました。その後、日本軍は西洋式の水筒を正式に採用し、その形や素材を変えながら現代まで使用しています3

以上が私の回答です。参考になれば幸いです。😊

 要するに鉄製の円筒形容器を水筒として使ったという回答です。容量は約1リットル。

 台湾出兵についてアジ歴で検索すると、ガラス製水筒を支給したという史料が見つかりました。

C04025710100明治7年 「大日記 諸鎮臺伺届弁諸達 9月木 陸軍第一局」(防衛省防衛研究所)0572・0573

 第三千二百十二号

一 水筒   五百八拾壱個

右此度歩兵第一大隊蛮地ヘ出張ニ付相渡度候間至急御渡被下度此段相伺候也

※右このたび歩兵第一大隊蛮地へ出張につき、あい渡したく

そうろうあいだ、至急お渡し下されたく、このだんあい伺いそうろうなり

陸軍少将種田政明代理

九月二十日  陸軍中佐岡本兵四郎 西南戦争では第一旅団参謀長

 

陸軍卿山縣有朋殿

伺之通

但在庫ギヤマン製之分可相渡候事※但し在庫ギヤマン製のぶん、あい渡すべくそうろうこと

右者第五局ヘ達ス※右は第五局へ達す

 明治7年9月9日、岡本兵四郎中佐が歩兵第一大隊の台湾(蛮地)出張に際し水筒581個を至急渡して欲しいとの要望。陸軍卿の山縣有朋の返事は「第五局在庫のギヤマン製を渡す」です。この言い方なら、在庫品にはガラス製水筒(ギヤマン製水筒)でないのもあったかも知れません。その後、12月段階には次のようにブリキ製の面桶(メンツ―と呼ぶらしい弁当箱)と水筒などの記録があります。

公文別録・陸軍省衆規渕鑑抜粋・明治元年~明治八年・第二十六巻、第二十七巻・明治元年~明治八年 別00200100 

七年十二月廿二日

出征用具調整全備ニ至レハ各鎭臺ニ格護非常ニ備ヘシム

  第五局ヨリ本省ヘ伺

 今般出征用トシテ調整致候ブリツキ面桶並水呑其外大釜藥鑵等々之類ハ追テ調整全備 ノ上各鎭臺兵員ニ應シ豫備トシテ送達致置候様致度此段相伺候也

指令七年十二月廿八日

  伺之趣調整全備之上ハ各鎭臺格護致置非常ニ可相充事

   但鎭臺派出其局官員ニテ取締可致事衆規明鑑

 格護とは収納とか保管という意味でしょう。台湾出征用として今度製作したといっています。それまではなかったようです。最初の史料も参考にするとガラス製水筒はすでにあったようです。大釜と薬缶もこの際製作するつもりだったようです。初め大谷と読んだけど、大釜という史料もあり、訂正しました(C04025583400「明治七年十二月 大日記 諸局伺届并諸達書 水 陸軍第一局」防衛研究所蔵1195・1196)。第五局で製作が終われば、出征しない他の鎮台へも兵員数に応じて送付する、ということであり、まだブリキ製のそのようなものは各鎮台にもなかったようです。

 チャット(Bing)の間違いは明らかで、参考にならず残念でした。

 つづく