西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

姫岳の遺構

 大分県臼杵市津久見市に跨る姫岳に残る中世と西南戦争時の遺構に付いて略図を作成したので紹介したい。姫岳は標高619mで周囲から頭一つ飛び出た峰として遠くからでも見分けが容易で、臼杵市内では一番高い山である。

             北西側の掻懐から見た姫岳

 前回、臼杵市甲﨑山の戦跡②で掲げた姫岳の遺構図作成では、既存の縄張り図に西南戦争時の遺構を書き加えればいいかと考えていたのだが、そもそも縄張り図が存在しなかった。前回の踏査では縄張り図の存在を前提に中世の遺構確認を後回しにしたため、今回再度出掛けて新たに曲輪を2基確認し、それらも加え図化した()。

 大分県森林基本図5000分の1図の等高線と今回(昨日10月13日)作成した遺構配置図とを合成したのだが、森林基本図の等高線は素直に受け取れないと思った。目測で上左図の曲輪5の上部から頂上までは18mの比高差があると考えたが、森林基本図では30m位あるように描かれている。しかも方位を基本図と合致させると曲輪5の位置が尾根上に来なくて、尾根の西側空中に浮く形となる。それで作図した遺構図を回転させて森林基本図の等高線に合うようにした。頂上の等高線は新たに遺構図(右に拡大している)でも頂上から1m低いところに一本書き加えた。いずれ本格的な測量でもしてくれればと思う。

 下の地図は念のために、森林基本図の上に国土地理院地図の尾根線を赤色で加えてみたもの。尾根筋が重ならないことが分かる。

姫岳の遺構に関する研究史

 姫岳の遺構について触れた史料を年代順に掲げる。

1.1934年久多羅木儀一郎「姫嶽の戰」『臼杵史談』第十四号 城跡の状況についての記述はない。

2.1943年「史蹟名勝天然記念物調査報告書」第十二輯に姫嶽の地理という項目で久多羅木儀一郎が執筆している。「山頂は楕圓の饅頭形をなし、面積凡そ七八十歩、一面にスダレヨシが密生し、其の間に點々と小松が生ひ立つて居る。尤も往時は、恰も奈良の若草山聯想さる〃やうな芝山であつたと云ふ。されば城塞としての遺構らしきものは、全く見かけない。現在山頂には「姫嶽大權現」と刻した角碑(高さ一尺二寸五分幅六寸)と、陸地測量部の標石とが建てられてあるのみである。」文中に城塞としての遺構らしきものは、全く見かけないとあるように彼は当時の大部分の人と同じように中世山城の遺構がどいうものか知らなかったらしい。台場跡についても触れていない。今から80年も前だから、台場跡は今よりも残り具合は良かったはずである。あるいは気が付いたが無視した可能性もある。

3.1980年「日本城郭大系16 大分・宮崎・愛媛」新人物往来社)この地域は小野英治担当。姫岳についての本文をすべて引用する。

姫岳は臼杵津久見の境をなす山で、豊後守護大友持直(第十二代)と周防の守護大内持世が戦った姫岳合戦で有名である。

 永享七年五月、大内持世は豊後に攻め入り、敗れた大友持直は府内を逃げ出し、六月二十九日に姫岳に籠もり、これを大内持世は、幕府より遣わした伊予の河野通久の来援を得て襲撃した。

 この時の合戦で、河野通久は大友方の木付城主木付親公と組み討ちして共に戦死したが、大友氏の臼杵氏三代親教を始め多数の戦死者を出した。その勝敗は不明であるが、大内軍は撤退し、河野軍の残党が付近の山中に逃亡、土着した。

 幕府は伊予の河野通久戦死の賞として永享七年十月二日に臼杵荘をその子大正丸(教道)に与えたが、以降、大友・河野両氏の臼杵荘をめぐる争いが多年にわたって続くことになる。

 そして永享八年四月、大内持世は再び豊後に来襲し、持直の根拠地である姫岳中腹の東神野を攻略し、六月十一日姫岳をついに陥れ、持直は逃亡する。姫岳合戦はここに一応終了するが、のち大友持直は根強い抵抗を続けた。

 この合戦で大友氏は二分して争い、十三代は幕府公認の親綱が継承したが、十四代は持直の弟親隆が継ぎ、十五代は持直派の親繁が相続、親綱派の親隆の長女と結婚し大友家は一本化することになる。

 姫岳はかつて、その周辺村落でさえ“八戸や神野も世界の内か”といわれたほど山と谷の深いへんぴな所で、そんな天然の地形を利用した山城で、人工的な設備はほとんどなかったようである。ただ籠城戦に耐え容易に落城せず、兵糧にも困らなかったのは、背後の津久見湾からの海賊衆による物資補給があったためといわれている。

 小野英治は大分県を代表する城郭研究者の一人である。姫岳砦という名で記されている。人工的な設備はほとんどなかったようで、とあり、現地を見ていないらしい。おそらく久多羅木の書いたものを参考にしたのだろう。しかし、職業として調査したわけではないので、すべてに完全を期待するのは贅沢というものだ。むしろ仕事の合間に多数の城跡を調査した努力に敬意を表したい。

4.1985年「津久見市誌」橋本操六が担当し、姫岳の遺構に付いて記述なし。

5.1990年「臼杵市史」第3章中世で「臼杵と大友氏」という題の中で姫岳合戦という部分があり、執筆した橋本操六は遺構について記述していない。

6.「大分県史」中世編Ⅱでは渡辺澄夫が執筆し、姫岳の遺構の記述なし。

7.2003年「大分の中世城館」第三集地名標・分布図編・小柳和宏編(大分県埋蔵文化財センター)では遺構図はなく、地名表の中で触れている。遺構の状況欄では「山頂部に立地する単郭の城郭で、一条の堀切がある。」、備考欄では「永享7年、豊後国守護大友持直と周防国守護大内持世の戦(姫岳合戦)が行われた舞台。」とある。堀切があると述べている。

 以上のように文献で研究する人たちは現地や遺構について無関心で、現地を踏んだとしても遺構の存在に気付かない。一方、城跡研究者の小野・小柳は遺構の有無に言及しているが、それだけである。

8.実は2009年に発行した西南戦争戦跡分布調査報告書」大分県埋蔵文化財センター)では自分が姫岳の遺構を以下のように執筆している。太字部分。

 初めて行った当時の記憶では山頂は広々していると思っていたが、今回再び登ってみて随分狭いと気付いた。南部の曲輪は存在が疑わしい。この記述では城跡や西南戦跡についても観察が足らず、陸軍省の石柱にも触れておらず、不十分な報告だったと思う。

 

西南戦争時の遺構

 ブログ記事「臼杵市甲﨑山の戦跡②」でも書いたが、頂上には2基の台場跡がある。台場跡1は北東の縁辺に沿うように弧状に土塁がめぐる。南西側に内側の窪みがあるが、この部分の南東外縁に土塁が見られ、先程の土塁と繋がるようである。台場跡1の内部は二段になっていて、南西部が一番深く、現状で地表から約50㎝ある。

台場跡1の弧状土塁部を南から撮る。右側は堀切に続く斜面。

 台場跡2は小型で痕跡的である。二つの台場跡の土塁部分はその気でないと気付かない程低く、1号で高さ10㎝程、2号ではそれ以下である。ただ、周囲の地表に比べ小礫が目立つので台場の土塁部分だと気付くわけである。

     台場跡2の土塁外縁に巻き尺を置いた。

      要塞石柱の左側に台場跡2が写っている。

中世の遺構 

 以下は中世の遺構について。 

堀切を東から撮る。底に鉄棒を突き刺すと55㎝で硬い面に達する。もともと深くなかったようだ。右は曲輪1

             曲輪2を北から撮る。

頂上南部から南側の碁盤ケ岳(標高716m)を見る。右は石灰岩採掘地。どこかに姫岳に続いて官軍の台場が築かれた筈だ。

         曲輪3を横から撮る。

帰り道に道端から撮ったもの。夜明け城跡の手前に荒田峠の峰が見える。峠城跡は過日発見したもの。

 姫岳に台場を築いて滞在したのは1877年6月10日から13日までと考えられる。※12・13日に在陣したかどうか確証がなく、検討中。当時の天気が気になり小川又次の「陣中日誌稿(明治十年戦争日記)」をみた。当時臼杵周辺に滞在していたので参考になる。

6月10日前後の天気。

5日晴天・6日晴天・7日晴天・8日晴天・9日晴天・10日晴天・11日雨天・12日~16日晴天。つまり11日は雨が降ったのである。官軍は天幕を携帯していた筈だから、姫岳では設置したのではないだろうか。1875年陸軍発行の「工兵操典巻之八 野堡之部」に、布幕の説明と図がある。〇布幕 當式の布幕は長サ五米八五其幅三米九〇ありて歩兵十六或は騎兵八員を容るとあり、長さ5.85m、幅3.9mである。蛇足的に想像してみた。台場跡1の窪みは長年の風雨で外縁部が浸食され拡大したと考えれば、布幕の大きさに合致する。

まとめ

 臼杵市甲﨑山の戦跡②で述べたが、官軍は6月10日の前夜、川ナシ峠に野営したのであり、そこは姫岳と同一ではない。王の字の火焼きが行われる立石山の尾根筋のことである。

「征西戰記稿」が「十日右翼兵ハ大迂回ヲ爲シ臼杵賊ヲ夾撃セン爲メ姫嶽ニ露營シ天明ヲ待ツ午前五時左翼及ヒ中央ハ正面ヲ攻擊シ海軍ハ警固屋村ノ港ヨリ之ヲ砲射ス・・」と姫岳に露営したとするのは正確を欠く。姫岳に近いことは間違いではなく、大まかな地図しかなかった編集時に、姫岳にしとこうと筆が滑ったのだろう。後世の人たちは皆、官軍の戦記を疑わず臼杵攻撃の前夜に姫岳そのものに露営したと理解している。姫岳に官軍が来たのは正しくは臼杵の戦いが終わった直後である。 

  以上で6月10日から13日まで官軍が在陣した姫岳についての記述を終えたい。