西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

豊薩戦争・戸次川の戦いの頃の山城跡か?

 最近、西南戦争に関して小川又次日記に関連し大分市戸次から吉野に至る「吉野越」、あるいは「吉野峠」とも呼ばれた周辺を踏査している。熊本鎮台が1877年6月に臼杵攻撃のためにたった一日だけ露営したところである。戦闘はなかったが、野営地が襲撃を受けることは想定せねばならず、もしかしたら激戦地になったかもしれない。それで台場跡があるかもしれないと考えたからである。ずっと前、峠の東やらを何回か探してみたが台場跡は見つからなかった。

 明日の天気予報が雨らしいので、今日も出かけた。午前中は25度、晴れ。薬草のサド(アクセントの位置は佐渡と同じ。いたどり)が沢山あった。子供の頃、食べたことがあるので、何本かちぎって皮を剥いて食べた。一週間早ければ最盛期だっただろう。下の地図で戸次の南東側に大分市吉野があり、それへの路線のどこかを戸次から官軍が通過している。

 上の地図に示した🔴は官軍の台場跡である。は不確実なもの。

    官軍が吉野越に進軍した日には、別の官軍部隊が吉野の北東にある松原に通じる松原峠に野営しているが、写真の中で遠方にある峰付近の事だとみられる。中央向こうの伐採斜面の手前下方に左から右に臼杵に向かう車道がある。この道は西南戦争頃にはなかったとみられ、永らくこの峠の路線が使われただろう。

 今日2023.4.11は下の地図に示す帆足家墓地の脇から尾根を登って行った。その墓から10mくらい高いところに台場跡があった。上方から下を向いて撮影したが、何のことやら分からない。画面の上に車が写っている。道路を見下ろす位置にあり、台場を置くには適地だろう。

 そのあと初めの数十mは木立が疎らで(下の写真手前)、その先は森で登りとなる。

 頂上に着く前に竪堀のようなものを見つけた。頂上の東側には遺構はないことを確認し、西側斜面を北側から調べてみた。初めの竪堀と同様のものが計8本あった。下方にどこまで続くのかは確認していないので、図は概略である。また、斜面の途中に曲輪とみられる平坦面が二つある。北側の曲輪1は両端に竪堀が上の方から挟むような形で下に走っている。曲輪の平坦面規模は13.5m×2.5m。曲輪1の下方でひとつの竪堀が始まっている。南側の曲輪2は北側のよりも低い位置にあり、同じく6.5m×2m。それらは両側の竪堀で挟まれており、竪堀はさらに上方から始まっている。

 北から四番目の竪堀4の写真を掲げる。上側から撮った。底は大部分埋まっているため浅いくぼ地に見える。築城当時のままで観察できるわけではない、当然だが。後で述べるが約450年間に上部の幅は広がり、内部は相当埋まっている。 

 下は曲輪1の北部から竪堀の接合部写真だが、写真では伝わらない。

 この290m峰はヒョウタンのような平面形で、くびれた部分は地図では分からないが土手のように細くなっている。上面には人工的な削り出した平坦面は認めず、人工的と見たものは竪堀と曲輪二ヶ所だけである。竪堀群は16世紀後半頃の山城にみられる畝状竪堀と呼ばれるものである。下図は500m方眼である。

 現在の地図を拡大して示す。峠の字がある標高290mの峰が城跡である。

 下図は昭和17年発行、明治35年に測量し昭和7年に修正、昭和17年に発効した地図である。スタンフォード大学のネットで複写した。国土地理院に申し込めば入手できるが時間がかかるので。峠南側付近を北西から南東に走る山道が見られるが、これが西南戦争当時の路線ではないだろうか。

 登り口にある帆足家の人(敬一さんと京子さん)から伺ったのだが、鎌倉時代に東国からやってきた源氏の部隊の一部が平家の逆襲を防ぐためにその先祖がこの峠に住むように命令されたのだという。帆足家と城との関係が分からないのでこの山城跡を帆足家と結びつけることはできない。峠城跡と呼びたい。遺構は西側斜面に集中し、頂上には人工的平地は認めなかった。応急的な築城だったのだろう。西側を警戒していると考えるべきで、臼杵方面から伸びた勢力が戸次方面を警戒して築城した可能性、あるいは1587年に薩摩が豊後に侵攻した豊薩戦争の際、麓の戸次の大野川流域や鶴ヶ城で大友と島津の決戦ともいうべき戸次川へつぎがわの戦いが行われているので、その直前に薩摩の侵攻に備え大友方が築城したのだろうか。

 戸次川の戦い関係の論文・市史などの文献を読んでみると峠城跡の位置を含んだやや広域の説明は見られない。大友方は鶴ヶ城や峠城跡だけでなく、もっと他にも築城して戦いに備えたのかもしれない。竪堀といえど一日二日で出来上がるものではなく、島津が築いたとは思えない。なお、縄張り図を作成する予定はない。