西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

勝海舟が見た米国サンフランシスコの要塞

 コロナの前年、サンフランシスコに行った。1860年、咸臨丸でサンフランシスコに着いた勝海舟が港の入口にある要塞を見学したことがあると書いていたのを思い出し、現地で「地球の歩き方」を開いてそれがどこにあるのか検討し、Fort Point(要所要塞)とアルカトラズ島に行くことにした。

 勝の文章が何に書いていたのか思い出せなかったが、今日、たまたまそれが「勝海舟全集」だったことが分かったので、この二ヶ所について現地でもらった説明書や海舟全集の該当部分を紹介したい。

勝海舟全集12』勝部真長・松本三之介・大口勇次郎編1978 頸草書房

「海軍歴史 巻の八」 本文引用部分はpp.212~213。※は高橋の記入。

 咸臨艦米国渡航の中

1 地勢見聞雑記(※サンフランシスコについての記述だが略す)

2 砲台

 港の入口、右に礟(※砲)台有り、大礟数十を架す(※Fort Point 要所要塞のこと)。その製悉く磚造(※煉瓦造り)、銃眼を以て三層にうがつ。上面平端、小礟を置くべく、全長六、七十間ばかり、幅これに応ず。外望するに、後面衛兵を容るに足るべし。また左方山腹に常火灯有り、出入の船舶、以て標的とす。入る時はこの山下に沿い鍼を取るべし。港口大川の水を流出すること甚だ急なり。故に風良ならざれば、潮候をまちて入るに便あり。

 港内右方、礟台をへだつること一里ばかり、山腹に兵卒舎あり。総将これを司る。これこの地の衛兵なるべし。また左方港内小島(※アルカトラズ島)に礟台あり。磚造と石造なるもの二座、皆大礟数十を備う。山上に礟卒舎、指揮官並びに士官の舎有り。この礟台は街市と斜に対し、入港せし船舶を擊つに便にす。これより以内は銃備なし。街市の港岸は、ことごとく大材数千をもって大棧を架す。貨物を揚ぐるに便す。故に大小の商船皆ここにつなぎて、端舟を用いることなく貨物を陸揚げす。

 この地の気候たいていわが邦と等しく、少しく温気を覚ゆ。唯、その欠けしところは清水乏しきに在り。故に居人みなその屋上雨水を取り、これを家下の窖に貯え日用に供す。

 聞く、この地昔時(二十年前)は一僻地にて、人口寡少、樹木繁茂し、野猪狐狸の巣栖たりしと。

測量船将貌魯古云う、吾、十五、六年前この地の到りし時は、人口未だ少なく、一日山腹に出でて猟せしことありしに、終日にして野猪十二、三頭を得たり。今、その猟せし地を想うに、当今街市の中央なるべし、と。当時人口およそ六万二千余、金銀鉱を検出の後よりして諸国の人種群集し、終に一繁昌の部落と変ぜしなり。今ここに来りてその居人を見るに、多くは永住の体少なく、広大美麗の家屋たりとも上、中、下層を区別し、一家一主の居宅少なく借家体をなし、あるいは一家を分隔し、夜間の人口に比すれば婦女少なく、人気厚利をむさぼり、物価最もたかし。しかのみならず金銀夥多なるを以て、物価わが邦に比すべからず(※以下略)。

 次に3から22、「咸臨艦米国渡航の下」があるが略す。海舟は時には数値を羅列し、ゆく先々で熱心に記録している。

3 在港官吏の定員  4 市街の景況  5 飛脚船  6 瓦斯灯  7 病院 8 貨幣鋳造局  9 活 板  10 防火器  11 馬車  12 舞踏  13 劇場  14 撃剣  15 造船局  16 総督の官舎を訪う  17 風車  18 機械製造所  19 修船場の装置  20 咸臨丸の修繕  21 甲比丹マッキ氏の注意

 22 火丹号着港(以下、咸臨艦米国渡航の下)

 

 要所要塞(Fort Point)

 ケーブルカーは観光客でにぎわっていた。市街は凹凸のある山や谷の地形を無視して、碁盤の目状に直線道路が交差している(グーグルマップ使用)。地図を一見したのでは分らないが、平坦な京都の碁盤の目道路とは全然違う。斜面に強いケーブルカーが必要だったわけが分かる。

それを利用し市街地の北部に移動し、海岸部で昼食した。空に異常にゆっくり行ったり来たりする軽飛行機があった。後ろの方に長方形の旗のような保険の広告を靡かせていた。「カネを節約するのは好きですか?」

  

日本では見たことがない宣伝飛行機だった。面白かった。

下の写真は金門橋とその下にある要所要塞。橋は1933年から1937年に建設されているので要塞が作られた当時はもちろん橋などなかった。要塞の建物は橋を造るときには作業員の宿泊所になっている。

狭い海峡の両側に要塞を築き、後年そこに橋がかけられるのは明石海峡と同じである。兵庫県舞子台場は勝海舟設計、弟子の佐藤与之助が現場を担当して1863年から1865年に築造した石造の台場である。勝は数年前に見たサンフランシスコの要塞を思い出しながら設計したのだろう。

舞子台場跡の写真はウィキペディア明石藩舞子台場跡)から転載。復元図では略されたようだが、陸側の石垣面には何か所か出入り口があり、そこから屋上に上り下りしたらしい。要所要塞の屋上のようになっていたのである。

下は要所要塞(フォート・ポイント)でもらった説明書の片面。要塞の絵の周りにある説明文を、DeepLを使い翻訳文を掲げてゆきたい。グーグル翻訳よりもずっと良くなっている。

 

1860年代の要所要塞

太平洋の憧れと誇り

1817年から1867年の間に、国の沿岸防衛体制は大西洋とメキシコ湾岸に約30の要塞を設置した。要所要塞は、この時代に西海岸で建設された唯一の要塞である。1857年の新聞記事には、この砦の「普通以上の芸術的な技術を持つ堅固な石組み...」と賞賛されている。太平洋の賞賛と誇りになるであろうことを、私たちはあえて予言する。

この図解では、その構造や理想的な使用方法など、さまざまな面を紹介している。砦を見学していると、この砦には何百人もの兵士が住んでいたことを思い出す。

要所要塞は、1812年の戦争後、米国の主要な港湾を守るために採用された第三体制沿岸要塞の優れた例である。下の図(※要塞の絵の左下にある小さな図)は、東側と西側の塁壁が追加される前に作成されたものである。要塞には、大砲を収納するケーズメイト(丸天井の部屋)が3段に分かれていた。バーベット層(※防御室と訳した)には追加の砲と、敵の大砲の砲撃の衝撃を吸収するための芝草被覆があった。入り口は鉄格子のついた出撃港だけだった。 1853年に工事が開始された。地元産の建築素材がほとんどなかったため、石材使用の考えをあきらめるまでは遠く中国から花崗岩が輸入されていた。近くの煉瓦工場では、約800万個の煉瓦が作られた。

完成すると同時に、要所要塞は改造を必要とした。南北戦争の東部での戦いで、石造りの要塞は施條砲に弱いことが証明された。1870年代には、南東の断崖絶壁の上にある大きな土塁、東砲台が、この地点の要塞を補った。

灯台

この灯台は、霧に覆われた海を航海する人々の道しるべとなるよう、自然の岬に建てられたもので、3基目である。最初のものは、1852年の建設直後に要所要塞の建設に伴い取り壊された。2つ目は岬の先端にある要塞の北側にあり、継続的に浸食され続けていた。現在の灯台1864年から1934年まで使用され、金門橋の土台がその光を遮るようになった。

大砲と配置

要所要塞は、予定された141門の大砲を搭載することはなかった。1861年10月までに、要塞とその周辺には24ポンド砲、32ポンド砲、42ポンド砲(右)の69門が設置されていた。戦後、陸軍は下部の小区画に強力な10インチのロッドマン砲を設置し、128ポンドの固体弾を2マイルにわたって発射することができた。最大時には102門の大砲を搭載していた。また、要塞には「加熱」炉があり、鉄の大砲玉を真っ赤に熱して大砲に装填し、木造船に向けて発射して燃え上がらせることができた。※当時の大砲は球形弾であり、水切りのように飛び跳ねて敵艦に衝突することを狙っていた。

稜堡と防潮堤

要所要塞の堡塁には、攻撃者が要塞を突破するのを阻止するために、それぞれ15門の小型の大砲が設置されていた。

堡塁は主構造物から突出しているため、防御者は胸墻から下を覗き込んで姿を見せるのではなく、自陣の壁に沿って守られた位置から射撃することができた。 陸からの攻撃から要塞を守るため、正面の小さい壁の西端に小さな大砲の砲台が設計された。建設はされたが、大砲は搭載されなかった。

要塞のある土地は海から15フィート以内まで削られていたため、防御のために護岸(右)が必要だった。全長1,500フィートのこの構造物は、印象的な土木工事の熱量である。花崗岩の石をはめ込み、その間は鉛の薄板で塞がれた。1869年に完成したこの壁は、100年以上にわたって金門の大波に耐えてきたが、1980年代に崩壊が始まった。 国立公園局はこの壁を再建し、波の力をそぐために海側に玉石を配置した。

駐屯部隊

南北戦争中は、第3米国砲兵隊、第9米国歩兵隊、第8カリフォルニア志願歩兵隊の500人もの兵士がここに駐留していた。

戦闘の主要な舞台から何千マイルも離れた場所で、隊員たちは訓練、砲撃練習、検査、見張り、保守作業などの日課に明け暮れた。下士官は3段目に窓枠を挟んで24人が寝、将校はその1段下に一人用または二人用の宿舎があった。石炭の暖房燃料を補うため、兵士たちは海岸で流木を集めた。要塞の司令官であったウィリアム・オースティン名誉少佐は、1861年の報告書でその状況を要約している。「夏の間、要塞は霧に包まれ、湿気と強風が絶えず、その結果、リューマチとひどい風邪が非常によく見られる。

 

1 崖壁 2 小銃射撃小窓 3 出撃口 4行進場 5 熱射炉 6 枠室 7 火薬庫 8 将校の宿舎 9 下士官の宿舎 10 最上階室 11 芝生敷防護室 12 胸墻壁 13 灯台 14 西稜堡 15 東稜堡16 砲台

 以上が説明書の片面である。なかなか詳しい内容で、見学者に理解してもらおうという態度が窺われる。挿絵も上手である。

 次は裏面。最初は全体。次に拡大してゆく。

要所要塞

太平洋沿岸全域のカギ

南北戦争が始まると、新しく建設された要所要塞は、米国陸軍の最も洗練された沿岸要塞の代表的な例として登場した。軍部は金門での位置を 「太平洋岸全体の鍵 」と宣言した。

煉瓦造りの重厚な壁は難攻不落の様相を呈していた。しかし、その一方で東海岸の要塞がそうであったように、石造りの壁を打ち抜くことができる新しい旋條砲が使用されるようになっていた。要所要塞は一度も戦火を交えることはなかった。この要塞は過ぎ去った時代の記念碑として、また海岸防衛のための駐屯地での生活を体験できる場所として残されている。

金門の哨兵

サンフランシスコ湾の入り口は、古くから人間が住む場所だった。最古の住民であるオローン族やミウォク族の祖先は、食料と交通手段を湾の水に頼っていた。要所要塞から1.6kmほど離れた湾岸には、4,000年前のオローン族の村落跡が確認されている。

サン・ホアキン

1769年、ガスパル・デ・ポルトラの陸路探検隊がサンフランシスコ湾に到着した。1776年にはスペインがこの地域にヨーロッパ人初の入植地を設け、使節団とプレシディオ(軍事拠点)を設置した。イギリスやロシアの侵攻を恐れたスペインは、湾の入り口の最も狭い部分で、現在、要所要塞がある高い白い崖を要塞化した。1794年に建てられたサン・ホアキン城は、9~13門の大砲を収めた日干し煉瓦建築である。この小さな要塞は、メキシコがスペインから独立し、この地域を支配するようになった1821年までスペインの植民地を守っていた。1835年、メキシコ軍はソノマに移動し、カスティーヨの日干し煉瓦壁は風雨で崩れるに任された。1846年、メキシコと米国との間で戦争が勃発した。7月1日、米国陸軍士官ジョン・チャールズ・フリーモントとキット・カーソンと10人の従者からなる一隊は、カスティーリョを襲撃し、大砲を打ち込んだ。彼らは砦が空っぽであるのを発見した。1848年、メキシコとの戦争で米国が勝利した後、カリフォルニアは米国に割譲された。この年、サッターズ鉱山で金鉱が発見され、何千人もの探鉱者が訪れた。49年組(※金探しに流入した人達のこと)のほとんどは海路で到着し、1849年時点では1850年カリフォルニア州が31番目の州になったとき、米国陸海軍関係者はサンフランシスコ湾の安全を確保するために一連の要塞を推奨した。

海岸の防備は、要所要塞をはじめとするいくつかの戦略的地点(下の地図参照)で行われた。

要所要塞と南北戦争

1853年、米国陸軍工兵隊が要所要塞の工事を開始した。港の面積を最大限に守るために設置された。砲弾が水面を跳ねて敵艦に向かうように、最低の砲兵層はできるだけ水面に近いところに置くことが計画されていた。(※投げた石が水切りしつつ飛んでいくように、球形弾が跳びはねて敵艦に衝突するようにした。要塞自体なるべく海水面に近くなるよう地形を掘り下げて造られた。)作業員は90フィートの崖を海抜15フィートまで爆破した。7フィートの厚さの壁と何層にも重なった筐体構造は、第3次世界大戦の要塞の典型だった(この解説書の反対側にある図を参照)。1854年、ジョセフ・F・K・マンスフィールド監察官は「この地点は太平洋岸全体への鍵であり...たゆまぬ努力が必要である」と宣言した。

200人の作業員は、多くの失業中の鉱山労働者であり、要塞の上で8年間労働した。

1861年、戦争が迫る中、陸軍はこの要塞に最初の大砲を搭載した。太平洋省司令官アルバートシドニー・ジョンストン大佐は、湾岸地域の防衛を準備し、最初の部隊を要塞に送り込んだ。 ケンタッキー生まれのジョンストンは、その後、指揮官を辞任し、カナダ軍に参加し,彼はシローの戦いで戦死した。 戦争中、砲兵たちは決してやってこない敵のために見張りをした。南軍の襲撃船CSSシェナンドー号はサンフランシスコを攻撃する予定だったが、港に向かう途中に船長は戦争が終わったことを知った。それは1865年だった。サウスカロライナ州のサムター要塞やジョージア州のプラスキー要塞など、大西洋岸の同様の要塞が戦時中に大きな被害を受け、旋條砲に対する石造りの壁の有効性が問われることになった。

部隊はすぐに要所要塞を去り、陸軍が継続して占領することは二度となかった。しかし、この砦は風雨から身を守るために十分な重要性を持っていた。1869年、花崗岩の防潮堤が完成した。翌年、要塞の大砲の一部は、より保護された近くの断崖にある東砲台に移された。1882年、要所要塞はメキシコとの戦争で有名な英雄にちなんで、ウィンフィールド・スコット要塞と正式に命名された。この名前は定着せず、後にプレシディオの砲兵隊に適用されることになった。

新世紀へ

1892年、陸軍は鋼鉄製の元込め装填式旋條銃で武装した新しいエンディコット(※人名)系のコンクリート要塞の建設を開始した。8年以内に要所要塞の102門の滑腔砲はすべて解体され、屑として売却された。 1906年地震(※サンフランシスコ地震で中程度の損傷を受けた要塞は、その後40年間兵舎、訓練、倉庫として使用された。米国沿岸砲兵隊の兵士は第二次世界大戦中、地雷原と金門に張り巡らされた対潜水艦網の警備に当たっていた。

要所要塞の保全

 1926年、米国建築家協会が、優れた軍事建築であるとして要塞の保存を提案した。資金が足りず、この構想は立ち消えになった。1930年代の金門橋の計画では要塞を撤去することになっていたが、主任技師のジョセフ・ストラウスが要塞を保存するために橋を設計し直した。

ストラウスは、「古い要塞に軍事的な価値はないが、それでも石工の芸術の素晴らしい例である......」と述べている。「国定公園として保存・復元されるべきである。」

第二次世界大戦後、保存活動が再開された。1970年10月16日、リチャード・ニクソン大統領が要所要塞国定史跡を創設する法案に署名した。要塞は、金門を守ってきた年月を物語っている。

要所要塞は完成後に起きた南北戦争では使われなかった。唯一回危機があったが南軍側軍艦が攻撃しようと進軍中に戦いが終わり、ついに南北戦争の戦場になることはなかった。

次に要所要塞を見学した際の写真を掲げる。

上の左:バーベット層

要所要塞の屋根は「防護室」と呼ばれ、兵士たちはここに搭載された21門の大砲で、陸や海からの攻撃を防ぐことができた。アン・バーベット」と呼ばれる大砲は、厚さ7フィートのパラペット(外壁)を越えて発射できる台車を備えていた。要所要塞のバーベット砲は、金門に入る木造船を沈めることができた。

要所要塞の砲列を通過しようとする敵艦は一隻もなかった。

左下地図の説明文

サンフランシスコ湾を侵略船から守るには、十字砲火作戦が必要だった。3カ所(要所要塞とその北側対岸にあるライムポイント、サンフランシスコ湾のアルカトラズ島)に設置された大砲が、金門を通過する入港船に向けて発射されるのだ。

下の説明文:バーベット層には武装した歩哨が砦を守り、金門に入る船を常に監視していた。

右の青い部分:「昨日、ハワイ諸島のエマ女王とその一行は、ハーバーの要塞を訪問した。埠頭から要所要塞に向かい、第二砲兵隊の素晴らしい楽隊が素晴らしい音楽を奏でながら、要所要塞をくまなく視察した。

検査の後、中隊はバーベット砲台からの砲撃練習に立ち会い、ライムポイントの麓が目標だった。射撃は絶妙で、すべて直射で、1発の砲弾が標的の東端で炸裂した。」アトランタ カリフォルニア 1866年10月4日

上は屋上の平面図。文中にもあるように、二つの突起部分は当初はなかった。下は砲弾運搬車。

上は展示していた銃弾など。おそらく南北戦争頃のもの。

下は細長い鉄板を湾曲させた状態で地面に敷き、鉄板の上で大砲基部の下にある車輪を転がして射撃方向を変える仕組み。窓の高さを考えると砲身はやや下向きにして砲撃したのだろう。

下はナポレオン砲。

上は大砲に砲弾をねじりつつ入れる棒・砲身掃除棒など

上は臼砲

アルカトラズ島

 次はアルカトラズ島で撮った写真。この島は最後が監獄だったので、それが展示の中心だった。アルカトラズ島に行く連絡船乗り場は長蛇の列だった。解説書は日本語のものがあったので掲げ、部分拡大も掲げる。 

要塞が廃された後、監獄になったので、下の要塞時代の模型は現状の形ではない。要塞時代の展示は少なく、大砲は一門だけあった。島の上を歩いてぐるっと一周してみた。

上はアルカトラズに展示している大砲。市街地から目と鼻の先だったが、あれから数年たったので島に渡るのに船で何分かかったのか思い出せない。要所要塞・アルカトラズ島の大砲は本物ばかりで、せいぜい模型を置いてあれば上出来の日本との大きな違いを感じた。

おわり。