鹿児島城の大手門は本丸の東側の一直線の石垣面の一部分が内側に入り込んだ内枡形です。主に枡形内側の石垣三面と床面には銃砲弾跡らしき多数の窪みが残っていて、西南戦争時のものとみられ、今回はこれについて記述します。
【御楼門付近の発掘調査中の写真。調査初期の状態で、まだ石垣は草蒸した状態。報告書から。】
本丸石垣の外側三方は堀になっていて、橋を渡って枡形の内部に入る仕組みです。ここには1873年(明治6年)に焼失するまで木造の御楼門が建っていました。鹿児島城跡は明治4年に鎮西鎮台(熊本鎮台)分営が置かれ歩兵4個小隊がいましたが、前述の火災により同年解散しています(「鹿児島市史1」参照)。したがって、1877年(明治10年)の西南戦争時には御楼門の建物はない状態でした。
この地は1884年以降、鹿児島県立中学造士館、尋常中学造士館を経て、1901年(明治34年)に第七高等学校造士館となりました。1945年6月、空襲により校舎が全焼したため11月に出水郡高尾野町の出水海軍第二航空隊の旧施設に一時移転し、1946年には第七高等学校に改称しました。旧校地に復帰したのは1947年9月でした。その後のことは略します。
近年、御楼門の建物を復元しようということになり、それに伴い鹿児島県教育委員会が枡形の内外を発掘調査しています。枡形に限って述べれば、石垣面の土や草を除去したところ以前は見えなかった多数の大小の窪みが明らかになり、石垣面の石の隙間は漆喰できれいに補填されていたことが明らかになりました。石垣と床が接する場所からは埋まった溝が現れ、また、枡形の床面はきれいに成型した石材が敷き詰められ、その床面には窪みがいくつか確認されています。詳細は発掘調査報告書が刊行され、だれでも奈良文化財研究所の「全国遺跡報告総覧」を通してPC上で見ることが可能です。書名は「鹿児島(鶴丸)城跡」です。
西南戦争の痕跡というのは報告書でも述べられていますが、それは石垣面に残る多数の窪みのことです。
【正面突き当りの石垣下部。大きな窪みは砲弾が直撃したものか。】
枡形周辺が西南戦争の戦場になったのはいつのことでしょうか。以下は「征西戰記稿」鹿児島戰記からの概略です。
薩軍の大部分が熊本県内に出払っている隙に、官軍は別働第一旅団・同第三旅団、第四旅団を鹿児島県に派遣し、4月26日から鹿児島市に到着し始めています。彼らは城山や市街地周辺に防禦線を構築し、薩軍が熊本県内から帰来し襲来することに備えていました。御楼門に近い場所での戦闘を掲げてみます。薩軍は5月5日、新昌院谷(新照院谷のこと。城山の西側)・草牟田(城山の北西側)の両道というから主に西側から城山に向かって攻撃し、撃退されています。御楼門のある東側は戦場にならなかったようです。5月7日、城山の西から南に位置する甲突川の官軍守線を襲い、撤退しています。5月18日には甲突川の西側にある武大明神の丘・二本松とタンタド(城山の北東側)の上から官軍に向かい砲撃し、24日は逆に官軍が甲突川に架かる西田橋・高麗橋から西側に向かって攻撃しています。下図は5月9日に官軍側が作成した両軍の配置図です(C09080858100密事探偵報告口供書類 明治10年4月25日~10年8月3日(防衛省防衛研究所蔵)。上から左下に流れるのが甲突川で、川の左岸などに点々で示すのが官軍守備線です(原史料は赤点ですが、PCでは白黒で公開)。甲突川に架かる橋は上流から新上橋・西田橋・高麗橋・武ノ橋で、市街地や城山・琉球館(私学校の右側)周囲に×印を並べた外側に薩軍がいました。図の左部分、薩軍がいるのは丘陵地帯で、武の丘・尾畔山・原良山などです。以上のように5月段階には御楼門周辺で激しい戦闘はなかったようです。
次に6月を見てみます。6月22日から25日までは鹿児島市北方の重富に上陸した官軍が南下、吉野・雀宮さらに城山の北約1kmの催原楽まで進撃していますが、御楼門付近は平穏でした。一方、城山の南西側方面では24日に官軍が甲突川の四つの橋から進撃したように、引き続き官軍の勢いが増して6月中には薩軍は次第に鹿児島市から遠ざかっていきました。7月には薩軍を追って鹿児島湾北部沿岸から大隅半島側に戦場は移ってます。
では、御楼門跡の西南戦争の痕跡はいつの時点の戦闘を反映しているのでしょうか。下記で引用しますが報告書にあるように9月段階の戦闘の痕跡でしょう。
8月15日に宮崎県延岡市和田越の会戦で敗れた薩軍は、18日に包囲網の一画である可愛岳(えのだけ)の官軍本営を破り、二週間の山中移動を経て9月1日、鹿児島市に帰ってきて、私学校に休憩していた新撰旅団・警視隊一個大隊そのほか少数の官軍を撃退し、城山一帯を奪回しました。4月段階とは逆に、今度は官軍が出払っており、薩軍が鹿児島市内のほとんどを制圧できたのです。わずかな官軍は私学校の東約150mの米倉に立て籠もり、応援の官軍が来るまで持ちこたえていました。しかし、薩軍の兵数は数百人しかおらず、城山を中心に狭い範囲を守ることしかできない状態でした。
前記の報告書から石垣の写真・図・説明文を引用します。
【上の写真は橋を渡って突き当り面(Ⅲ面)の石垣清掃後の状態。石垣の左上から中央部下にかけて連続的に暗く映っている部分は窪んだ所です。なお、向かって左の石垣がⅠ面、右がⅡ面です。】
【上はⅠ面です。正面石垣(Ⅲ面)に比べると窪みは少しです。】
【上はⅠ面(左)とⅢ面(右)の接した部分。下はⅢ面。】
石垣に残る窪みについて報告書の記述を見てみましょう。
私学校跡の石塀には西南戦争の銃弾痕が無数に残る。この弾痕は明治10 年9月1日~24 日,特に9月20 日以降の官軍の攻撃によるものと考えられる(鹿児島市史Ⅲ 上村行徴日記)。弾痕は③と同様が多数残る。①は白化した大型の金属片が残存する。先端は石垣に食い込んでいるために全体像については不明確であるが,信管と弾体(弾殻)が分離する四斤砲の信管ではないかと思われる。着弾面の幅,深さから威力のある火器であったことは間違いない。②は着弾面の幅に対して非常に深く,貫通力のある火器であることは間違いない。内部に金属片も一部残る。また,二重凹状は旧日立航空機(株)立川工場変電所の機銃掃射跡に類似する。④は石垣面Ⅰ面側のⅢ面寄りに炸裂したような痕跡から曳火式信管による四斤砲の弾体(弾殻)片と考えたい。ただし,砲弾片が圧着していないと③と区別はつかないと思われる。
砲弾痕パターンと対比させると以下のような想定が出来る。
①西南戦争時の四斤砲(榴弾,榴霰弾,霰弾の区別は不明)
②第二次大戦時の機銃掃射痕
③西南戦争時の小銃弾痕(エンフィール・スナイドル等)
④西南戦争時の四斤砲弾体(弾殻)片
ただし,西南戦争時の御楼門部枡形内の戦闘状況の記録を示す史料は無く,また,第二次大戦の機銃掃射がおこなわれた伝聞はあるが記録はない。石垣に残る砲弾痕については,今回の調査目的外であり,悉皆調査等を実施していないことから推測の域であることは了承されたい。
前述したが,今回の調査目的に石垣面の調査は含まれていない。しかし,御楼門建設によって石垣を観察出来る面積が少なくなることや,御楼門建設に先立ち石垣のクリーニング作業によって認知されていなかったおびただしい砲弾痕の状況,また県立埋蔵文化財センターで石垣面についても現地説明会等を実施したことから今回,考察をおこなった。
冒頭の私学校というのは正しいのでしょうか?本丸の北側にある私学校の石塀弾痕について述べ、御楼門の記述に移り変わっていくということでしょうか。上記で御楼門石垣の窪みが似ていると指摘された日立航空機立川工場変電所の機銃弾痕を下に示します(写真はネット「廃墟系」から)。
指摘にあるのは二重凹状の窪みとされるものが混じる点だけです。さらに言えば窪みがまばらにある点は石垣面と似ているといえます。しかし、御楼門跡Ⅲ面石垣のよう幅広く列状をなす痕跡は立川にはありません。別に機銃掃射でなくとも、砲弾の破片でも二重凹状の窪みといわれるものはできる筈です。
実は調査中に現地を見たのですが、その時、調査員の弥栄久志さんから床面の窪みの中には門に対して斜め方向の楕円形をなすものがいくつかあり、ちょうど官軍の大砲があった斜め左前方約150mの米倉や肝付邸付近からの砲弾が地面に衝突した痕跡らしいと説明していただきました。なるほど、合理的な解釈だと思いましたが、報告書では床面の窪みの解釈は見られないようです。
【上の写真は調査中の御楼門から官軍がいた肝付邸・米倉方向を見て。矢印は四斤砲弾が床面に衝突したと想定したもの。】
【上の文書は9月6日段階の米倉と肝付邸付近の官軍配置。新撰旅団の砲兵もいました。下記は解読文です。
C09085907300「新選旅団第四大隊本団達留」明治10年6月20日~10年10月18日(防衛省防衛研究所0636~0641
肝付屋敷東角堀外ノ臺塲ヨリ同所右之方門前之臺塲 第二大隊壱中隊
米蔵正面ノ両門前臺塲 但夜間ハ三拾名ヲ川向胸壁ニ分遣ス依テ援隊トシテ砲隊ヨリ三拾名ヲ出スベシ 第二大隊二中隊
米蔵左(右)側面門外臺塲 第一大隊壱中隊
米蔵西角塀外臺塲 第壱大隊二中隊
米蔵裏面ヨリ肝付屋敷境界外面臺塲 第四大隊四中隊
第四中隊ノ右翼ヨリ肝付屋敷ノ周囲ニ沿ヒ米蔵ノ境界ニ至ル 第壱大隊第三第四中隊
砲隊
但兵員配布之上余リアラハ援隊トナスヘシ
援隊 輜重隊
右之通リ守線之持塲ヲ相定候条厳重守備可致候事
明治十年九月六日 在鹿児嶋米蔵
新撰旅團
参謀副長
立見少佐
第一大隊長
第二大隊長
第四大隊長
砲隊長
輜重隊長
中】
【上図は9月14日現在の状況です。右から私学校・鎮台焼け跡(御楼門のある所。本丸)・二ノ丸です。二ノ丸には二か所に薩兵が七八人いると観察しているものの、鎮台焼け跡と私学校にはいないようです。県庁・二ノ丸から照国神社方面の隊長は山野田一輔でした(「西南記伝」中2)。】
上記文書は米倉・肝付邸付近守備の新撰旅團司令長官が9月14日に提出した報告です。「賊兵堡塁竹柵其他一二ノ防禦物ヲ築設スル日〃倍密ナリ(略)縣廳跡旧私学校ヨリ我胸壁ニ向テ少シク放射セリ」とあり、薩軍が防禦物を築き続け、御楼門を含む縣廳跡・旧私学校から射撃していたことが分かります。防衛研究所の推奨する文書名は「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09082992200、来翰録 明治10年5月14日~10年9月31日(防衛省防衛研究所)」ですが、これは上に掲げた本来の史料名とは言えない表記です。単に「来翰録」とするのではなく、「十年九月 来翰録 日知屋村出張本営」としなければ文書の性格が分かりません。いつも抱く感想をここで述べさせていただきました。
一方、石垣面にある多数の窪みはどう解釈したらいいのでしょうか。特に幅広い帯状の窪み群ができた原因があるはずです。石垣を眺めていて、写真を撮り、画像を見て帰宅後も考えてみました。そして見過ごしていた現象に気づいたのです。
その後、2018年7月14日に鹿児島県考古学会で「考古学からみた西南戦争の構築物・武器」と題して講演する機会を頂きました。その中で御楼門の石垣面の窪みについての解釈を次のように発表することにしました。
上の写真は正面石垣(Ⅲ面)南部です(この時、適当な写真がなかったので佐倉桜香さんのつぶやきの写真を名前を明記して借用しました。上図はその時の物です。)。この写真を見て上部の幅広い窪みの帯には簡単に気が付くでしょう。よく見るとその下にも同じ傾きで窪みが並んでいるように見えます。さらにその下にももう一列。
本丸を奪った薩軍は、出入り口である御楼門をそのままの状態にしては置けないと考えたでしょう。9月1日かその直後に、ありあわせの材料で低い土塁状のものを作ったのではないかと思います。上の図がその状態です。官軍は遮蔽物の上部に向かって銃砲擊を浴びせたのが、最下段の窪み列だと考えます。もちろん遮蔽物にも多数が命中した筈ですが、それは石垣面には残る訳がありません。
やがて、日時がたつと次第に土塁状のものは高く、長くなったのでしょう、中段の窪み列が遮蔽物の高さを示していると思います。
最後の段階の遮蔽物の規模を反映するのが上段の列でしょう。最も窪みが多い点から見て、この期間が最も長かったのでしょう。あるいはこの段階は射撃を受けることが激しかったのか。南側の石垣(Ⅰ面)と正面石垣(Ⅲ面)を連読的にみると遮蔽物がⅢ面からどれくらい離れていたのか推定できます。銃砲弾痕跡から考えて少しずつ遮蔽物を積み上げたのではなく、三回に分けてそうしたとみるべきです。
では、Ⅲ面の南寄りに遮蔽物を作った理由は何でしょうか。Ⅲ面右側から遮蔽物に入るには危険性があります。それを避けるために曲がり角の石垣上部を撤去し、梯子で上り下りしたのではないでしょうか(Ⅰ面石垣がⅢ面石垣に接近した上部に配水用の凹形の石があります。現在、この上にある3個くらいの石は表面がきれいですが、これは調査後に古い石と取り換えたものです。撤去された石は銃砲弾の跡が著しいものでした。したがってこの部分を当時取り外して梯子を架けた、というわけでもなさそうです)。以上、憶測を重ねてみました(ネットでみると憶測とは「根拠もなく、いいかげんに推測すること。当て推量」)。でも、解釈はしておくべきだと思います。(いつか続きを書きたいと思います。)