西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

討薩戰誌 2

二十八日ヨリ三日二日迠休戰

【2月28日から3月2日には玉名市・玉東町では大きな戦いはなかった。】

三日黎明陸軍少將野津鎭雄三大隊ノ兵ヲ卒ヒ植木口ニ向ヒ陸軍大佐野津道貫二大隊ヲ卒ヒ吉次嶺ノ賊ニ向フ植木口ノ賊ハ砲臺ヲ稻佐ノ岡上ニ設ケ我軍ノ前面ヲ禦キ胸壁ヲ木ノ葉岳ノ半膓ニ築テ我左翼ヲ狙擊ス我兵正面ノ麦田ニ散布シテ仰テ岡上ノ賊塁ヲ攻メ砲ヲ安楽寺村ニ備ヱテ賊ノ砲臺ヲ擊ツ此時ニ当リテ賊大ニ左右ノ翼ヲ張リ一ツハ木ノ葉岳ノ絶頂ヨリ進ミ一ツハ稲佐ノ南ナル坂上ヨリ進テ我両翼ノ側面ヲ襲ハントス我軍忽チ之ヲ暁リ同シク二隊ノ幹兵ヲ左右ニ分遣シテ賊兵ヲ迎シム是ニ由テ戰地三方ニ分ル山上ノ砲声実ニ天地ニ鳴動シテ激戰数刻薄暮ニ至リテ賊兵刀疲レ勢屈シテ火ヲ放テ走ル此夜我軍進テ木ノ葉口ノ賊ハ嶺ヲ下テ我兵ヲ迎ヱ戰ヒ敗レ又嶺ヲ踰ヱテ走ル我軍尾擊シテ賊將篠原国幹ヲ仆シ

 

四月未明木留村ニ至ルトモ地理ニ暗ク孤軍深入ノ不利ナルヲ以テ退テ原倉村ヲ保ツ四月植木口ノ官軍田原坂ヲ攻ム賊坂ノ半服ニ砲障ヲ築キ未タ成ラサルニ我兵急ニ進テ之ヲ取ル又坂上ノ賊ニ向フ賊険ニ據リ防戰ス我軍進ム喇叭ヲ鳴シ大兵一時ニ吶喊ヲ發シ攻登リ両軍相接スルヿ僅ニ半丁ニ過スト𧈧ノモ賊ハ塁甚タ堅フシテ拔ス此時ヨリ

【四月ではなく四日。田原坂の戦いは凹状の坂道を上る官軍と周辺に隠れた薩軍との戦闘、という風に語られることが多い。本文のように両軍は50mほどの距離で戦い、薩軍の台場はおそらく丘陵の上面や縁辺部にあったのではないか。田原坂の凹道は加藤清正遠慮深謀によるものであるといわれるが、農村地帯に行けばどこでもそうなっている。田原坂だけを見て考えず、広く肥後国を歩いて欲しい。もし深慮なら清正は大忙しだっただろう。】

同十八日ニ至ル迠晝夜連戰不休

有明海から山鹿まで両軍が対峙していたのであり、田原坂だけが戦場ではなかった。】

六日ヨリ我軍植木口ノ兵ト吉次口トノ兵ヲ合シ二俣村ニ營シ日々ニ増加スル所ノ大兵ヲ以テ屡攻擊スト𧈧ノモ賊亦極メテ防禦ス術(ジュツ)ヲ盡シ固守シ動カズ然レノモ我兵遂ニ舟底村ノ南ヨリ賊ノ胸壁數所ヲ拔キ寸得レハ寸ヲ保テ尺ヲ得レハ尺ヲ保ツ已ニ田原ヨリ植木ニ至ルノ通路ニ近キ將ニ賊ノ背面ヲ囲マントス此ヨリ先キ賊屡銃器ヲ棄テ白刃ヲ提テ我カ備ニ迫戰スル叓アリ東京巡査自ラ請フ刀剣隊ト為リ機ヲ見テ賊ノ兵中ニ突入シ縦横ニ乱殺ス又大砲數十門ヲ二俣村ニ備ヱテ谷隔テ莅ヒ賊塁ヲ擊ツヿ隙ナシ此ニ由テ賊ノ勢日ニ縮テ我兵鋭氣日々ニ振ヒ賊塁ヲ拔クヿ旦ニ至リ抑ニ田原険タルヤ髙瀬ヨリ植木ニ至ル第一ノ要地ニシテ熊本城ヲ距ルヿ四里木ノ葉ノ東南半里ニアリ右ニ金鉾ノ山脉ヲ帯ヒ左ニ山鹿ノ大道ニ枕ス

(※半頁空白がある)

正面ハ岸髙ク各深ク遥ニ木ノ葉岳ノ高山對ス眞ニ天険ノ地ニシテ若シ之ヲ捨ル時ハ通路平坦ニシテ熊本以北賊ノ恃ヲ以テ防クノ険阻ナシ是賊田原ヲ以テ埋骨ノ地ト定メ死守シテ敢テ動カサル所以ナリ

【官軍は二俣村で大砲を3月7日から使用し始めた。現地には畑の中に二俣瓜生田官軍砲台跡と南側の二俣古閑官軍砲台跡がある。12日黎明第二旅団砲兵第四大隊第二小隊黒瀬義門大尉の二分隊が二俣に着。同時に少尉試補西村精一が一分隊を率い右翼に着いた。西村の一分隊が古閑砲台だろう。13日東京鎮台予備砲兵第一大隊が加わる。二俣の20日時点の砲数は12門だった(アジ歴C09083955900「明治十年 戦闘報告 第二旅団」。彼らの戦闘報告書類は8月18日の可愛岳の戦いで紛失したというから、後日改めて作成したものである。薩軍に襲われた第二旅団本営に置いていたのだろう)。玉東町の発掘調査では、大砲の点火装置である摩擦管多数が出土し、二俣瓜生田官軍台場跡で四斤砲車の轍跡を二列、つまり砲車一台分を田原坂丘陵を向いた状態で検出している。】

十九日休戰

【官軍は翌20日の進撃を計画し、諸隊長を木の葉に集めて協議した。小競り合いはあったが全体としては小休止だったが、休戦ではない。】

二十日大雨時暁官軍一声ノ鯨波ト共ニ銃鎗ヲ以テ二俣村ノ向ナル賊ノ胸壁ノ内ニ突入シ一挙シテ十餘日落チサル堅塁ヲ拔ク賊常ニ以爲ク我兵ノ進擊スルヤ必ス大砲ヲ連発シ喇叭ヲ鳴スヲ以テ合圖トナスト然ルニ今朝ハ大砲喇叭ヲ用ヒス不意ニ進兵シタル故賊ノ狼狽譬フルニ物ナク未タ睡眠中ニ在テ其儘突殺サルゝ者モアリ又自刃シテ死スル者アリテ賊ノ死體塁ニシテ胸壁ノ中ニ充満セリ賊ノ左翼已ニ敗レテ残賊植木ヲ定テ遁逃スルヲ我軍尾擊スルヿ酷タ急ニシテ其勢恰モ烈風ノ如クナルヲ以テ賊遂ニ植木ヲ保ツヿ能ワス器械彈藥及ヒ榴重ヲ棄テ大ニ潰テ向坂ヲ越テ走ル我軍追テ夜啼ノ小崖ニ至リ隊伍ヲ整頓シテ將ニ熊本ニ向ハントスルニ当リ賊俄ニ我カ左右ヨリ襲来シ先軍ハ中軍トノ中間ヲ切断シ戰ヒ頗ル困難ナリ然ルニ田原坂ノ賊モ官軍モ已ニ左翼ヲ破ル進テ向坂ニ至ルヲ見テ谷ヲ踰テ逃レ植木ノ西ナル舞尾村ニ屯スル我中軍ヲ襲フ時ニ我兵皆四方ニ分レ戰テ中軍ノ兵甚タ寡ク一時混乱ノ狀アリト𧈧ノモ將校 剣刀ヲ振テ士卒ヲ激励シ討テ賊兵ヲ退ク我先軍亦向坂ヨリ兵ヲ植木ニ引揚ケ賊植木ニ残處ノ大砲數門小銃数日百挺ヲ奪ヒ彈藥數百箱ヲ焼キ天已ニ晩ルゝヲ以テ戰頭線ヲ植木滴水円大寺ト定メ上木葉村ノ第一第二旅團本營ヲ七本ニ移ス

田原坂丘陵は「く」の字に曲がった平面形をしており、前日まで二俣の前方にある屈折点の上面に官軍は達して接近戦を繰り返してきた。20日早朝、付近の薩軍台場で眠っている敵を奇襲して勝負がついた。すると丘陵先端部の薩軍は背後を奪われたので守地を放棄して退却し、官軍は一気に植木まで追撃し、さらに右折して熊本を目指して追撃した。その後、向坂において逆に背後を突かれて官軍は植木に退く。田原坂は突破したものの、この後、熊本城に達するにはまだ一月弱を要することになる。】

二十一日植木口休戰山鹿口ノ官軍進テ山鹿ヲ攻擊ス賊田原ノ賊コレヲ聞キ戰ハスシテ逃去ル

【官軍は植木を中央として向坂の薩軍に相対し、左翼は山鹿、右翼は滴水・原倉から海岸まで延びていた。21日午前一時、薩兵数百人が植木左翼に襲来したのを始め、各地で戦闘があり、官軍の死傷は91人だった(「征西戦記稿」巻十の六)。】

二十二日官軍木留荻迫植木ヲ進擊ス然レノモ賊ノ防禦固フシテ破ルヽヲ得ス

20日田原坂薩軍が敗れた後、山鹿の薩軍は南東側に13㎞程菊池市隈府付近に移動した。薩軍の台場群は鳥栖(とんのす)を右翼とし、向坂を中央、木留を左翼として三日月状に展開していた。】

二十三日木留植木荻迫口ハ前月ニ同シ吉次口一圓ハ原倉ヨリ進ミ一軍ハ横山平山ヨリ進ミ幾ント半ヨリ山ノ絶ニ至ルトモ賊塁ヲ拔クヿ能ワス退テ初メノ線ヲ守ル

【※絶頭の頭は消され、頂が上に加えられている。3月3日、初めて吉次越・半高山を攻めたのは西側からだったが、以降はまず北側にある横平山を奪い、引き続き半高山を攻撃する方法が取られた。半高山を奪えたのは4月1日だった。】

 

二十四日激戰左翼ハ進テ木留甼ノ近傍ニ至ル

 

二十五日朝五時賊大挙シテ植木木留ヲ攻擊シ我胸壁ニ迫ルト𧈧ノモ我軍奮戰遂ニ之ヲ討チ退ク久シウシテ中央ノ荻迫ノ近傍ニ当リ砲声鯨波並ニ起リ八時頃ニ至リ賊深谷ノ中ヨリ進テ滴水村ノ砲塁ニ攻メ登ル我軍忽チ援兵ヲ以テ之ニ應シ稍ク賊ヲ追ヒ退ク然ノモ吾昨日占メ得タル荻迫口戰地ノ半ヲ失ヘリ二十五日正午十二時ヨリ進擊植木口ハ大砲ヲ以テ之ヲ攻擊シ鯨波ヲ揚ケ声援ヲ為シ大ニ右翼ヲ進メ円大寺ノ本村ヲ焼キ賊ノ砲台数所ヲ拔テ木留ニ迫ル中央モ亦進テ荻迫ニ迫ル

 

二十七日大砲ヲ以テ木留及上古閑村ヲ焼キ風猛烈ニシテ火勢殊ニ熾ナリ

 

二十八日木留口ヲ進撃ス賊上古閑村ノ岩上ニ據リ烈シク防戰ス官軍進テ賊塁ニ迫ルト𧈧ノモ絶壁削ルカ如ク路上攀リ可キナキヲ以テ木留ヲ距ルヿ纔ニ一丁余ニシテ對陳ス

 

二十九日休戰

 

三十日夜三時一軍ヲ分遣シテ原倉ヨリ三ヶ嶺頂上ニ登ラシム官軍枚ヲ含ミ夜ニ乗シテ賊ノ第一ノ胸壁ヲ拔キ尚深ク進入スルニ賊ノ大兵山上ヨリ出テ来リ防禦甚タ嚴密ナルニヨリ敢テ戰ヲ好ス乃チ兵ヲ退ケ此日兵ヲ三ノ嶺ニ登ス其意蓋シ木留ノ前面地形険阻ナルニ因リ山上ヨリ木留ノ背面ヲ衝クニヨルナリ

【原倉から三の岳(ここでは三ヶ嶺)頂上(標高293m)までは約3㎞。この山の北麓尾根には台場跡1基が三の岳を向いてあり、官軍が築いたものである。また、頂上手前には6基の台場跡が原倉方向を向いて存在し薩軍が築いたことが分かる。】

三十一日休戰

※「新編西南戦史」の附図を示します。

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