西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 4月 

 4月3日、第三旅団は先日攻撃に失敗した鳥巣をまた攻撃する計画を作成した。

  第三旅團ハ有泉村ヨリ鳥栖村ニ進入ノ目的ヲ達スルヲ得サルヲ以テ四月三

  参謀佐尉官ヲ各所ニ派遣シ攻擊ノ方略ヲ考按セシムルニ先鳥栖村ノ本道北

  田島村ノ臺地ヲ占領シ此處ヨリ正面攻擊ヲ盛ニシ而シテ後左右側ヨリ突入ス

  ルニ若カスト因テ三浦少將北田島村ニ進入ノ議ヲ决シ部署ヲ定メ方略ヲ授ク

  ル左ノ如シ(「戰記稿」)

 北田島口には安満中尉の第四中隊を含む5個中隊、援隊が9個中隊、別に山鹿駐在が4個中隊という割り当てを決定し、翌4日の攻撃計画は整った。        

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4日、当初の部署により「田島口ニ向テ進軍シ已ニ岡山ノ臺ヲ領シ次ニ北田島村ノ賊ヲ掃攘シ方ニ南田島村ニ至ラントス」る。

  第十四聯隊日記ニ曰ク我カ第一大隊ノ右半大隊ハ久ク休戰連日諸衛兵ヲ爲

  ニ過キサリシカ本日南田島進擊ノ令出テ午前一時山鹿ヲ發シ第一中隊ハ岡山

  ニ進ミ散兵ヲ左翼高江出分並ニ久米等ノ諸村ニ配布シ高江出分兩村ノ賊壘ヲ

  攻擊シ漸次進テ河ヲ渉リ力戰スレノモ賊壘高地ノ絶壁ニ據テ甚タ堅固加フルニ

  我カ進線平坦廣獏ニシテ占據スヘキノ地物ナク終日對戰終ニ目的ヲ達スル能

  ハス第二中隊ハ北田島ノ岡山ニ在テ一般ノ援隊タリ夜ニ入リ大哨ヲ岡山ノ左

  方ニ布ケリト(戰記稿)

 高所の南田島からの射撃を避ける術がなく、官軍は退却するしかなく、岡山の台に守線を布くだけで終わる。関係地図に等高線を強調して示す。岡山の台というのは田島(戦記では北田島として出てくるが)の背後に岡という地名があるところだろう。神社があるのでもしかすると戦跡が残っているかも知れない。高江という村の北岸に高江出分という村があるのは、高江の人が分村したのだろう。低い場所への定住は遅い。

 しかし、実際は南側の水田地帯にも歩兵が分布していた。

  防禦線を右翼寶田村より、左翼高井村の間に定め明暁を待て南田島を略し

  の巣に入らんことを期す、(略)此とき、近衛砲兵は北田島に砲列を敷き砲

  擊するに、其彈丸屡味方の散兵線上近くに落下し、危險名狀す可らざるを以

  て予は馬を馳せ砲列に至り注意せしに、小隊長曰く表尺は御覧の如く伸長す

  れども彈丸動もすれば其手前に落下するを遺憾とすと、是れ全く平常演習に

  使用せし火砲を携帯せしを以て、砲腔自然に膨張せし所以に因るならん

  (「西南戰袍誌」pp.39)

 宝田村は前図左部分にある。背後の岡山の台地から放たれた砲弾が、前面水田地帯に展開する歩兵の上で炸裂していたのである。青銅製の砲身は使い込まれると内側が削り取られて内径が大きくなり、砲弾が当初のようには遠くに飛ばなくなったのである。

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 当時の小銃弾は1,000m位は飛んだし、300m弱位は狙って命中したので南田島の高い場所から射撃されれば中間の水田地帯を攻めていくのは明らかに不利である。それでこの日4月4日は岡山の台の左方、つまり東側に哨兵を配置することになった。

  五日第三旅團ハ昨日ノ戰既ニ北田島村ヲ占領スト雖モ賊尚ホ南田島村及ヒ

  野村ノ臺ニ據リ壁ヲ堅フシ溝ヲ深フシ遥ニ鳥栖村ノ本據ヲ護シ容易ク進ムヲ

  得サラシム而シテ南田島村及ヒ佐野村ノ臺タルヤ岡山村ノ臺ト對峙シ中間北

  田島村ノ凹處アリ地勢頗ル嶮惡此間凸道一二條ノ通スルアルノミ其左右ハ斷

  岸ニシテ攀援スヘカラス故ニ三浦少將諸將校ニ告ケテ曰ク之ヲ攻ルハ朝霧ニ

  乗シ壘下ニ達シ急遽吶喊銃槍戰ヲ爲スニ若カスト是ニ於テ進擊隊ノ順序ヲ定

  ムル左ノ如クシ午前四時三十分開戰ヲ命

 「戰記稿」の部署計画によると、右翼の進路は佐野台(南田島の西側)に向かい、左翼は援隊にあて、安満隊他一個中隊は中央隊で南田島の台に向かうとある。5日の攻撃は予定通り行われ、薩軍は不意を打たれて2km程南側の鳥巣の方に敗走した。安満の隊は当初南田島の台に向かう、という部署だったが、順調にいったので鳥巣まで攻め込んだものと考えられる。官軍は南田島から追いかけて鳥巣の本営を奪ったが、薩軍は村の東南端に踏みとどまった。その位置は二子山石器製作遺跡を含むかも知れない。台場跡を示す図を再掲しておきたい。

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 4月4日、5日の戦いを薩軍側の記録で確認しておきたい。「野村忍介外四名(奇兵隊連署上申書」(「鹿児島県史料 西南戦争 第二巻」)pp.928~967当初からは山鹿方面を担当した野村等が戦後、監獄で書いたものであり、月日の記録は記憶に基づいているので間違いはあり得る。下記の前半は隈府についてだが、田島・鳥巣と連動しているので掲げる。

  二十三日田島ノ軍転シテ鳥ノ巢ヲ守ル、二十四日熊本々営ノ使高井(※高江

    こと)ニ来リ令ヲ伝ヘテ曰ク、隈府ハ枢要ノ地タリ、今ニシテ取ラスンハ

  将サニ我ニ先ントス、敵若シ之ニ拠リ二重峠・大津ヲ控扼セハ我軍進退ノ障

  碍タラン、速ニ之ヲ拠守セヨト、乃、伊東・伊地知二中隊及ヒ中原五十郎・

  大山誠之介・佐土原藤吾・本田早苗・永井半之丞各小隊、熊本協同隊一分隊

  隈府ニ転シテ守備ヲ設ク、三十日近衛鎮台凡ソ二大隊ナル可シ来リテ隈府ヲ

  攻メ、一ハ背面ノ山上ヨリシ、一ハ新町街道ヨリス、我兵拒キ戦フコト数刻、

  佐土原隊袈裟尾原ニ在リ、地広ク兵寡ク塁間空疎百歩或ハ五十歩ヲ隔テ兵士

  五名或ハ七名ヲ以テ守ル、是ニ於テ官兵ニ囲マレ太タ苦戦タリ、佐土原曰ク、

  寡兵以テ大敵ニ当ル可ラス、然レトモ難ヲ見テ逃ルヽハ丈夫ニ非サルナリ、

  諸子努力セヨト、奮闘砲丸ニ中リテ死ス、半隊長阿萬南八郎亦尋テ斃ル、此

  時救応ニ備ヘタル伊東ノ一小隊官軍ノ右翼ヨリ進テ横撃之ヲ走ラス、山上ノ

  官軍之ヲ見テ退軍ス、此日中隊長伊地知彌兵衛奮戦亦砲丸ニ中テ死ス、二十

  七日官兵鳥巢ヲ攻ム、我岡上ノ塁ニ在リテ之ヲ瞰射ス、已ニ十時ニ及フ頃突

  然岡ノ下ニ迫リ火ヲ民家ニ放ツテ去ル、日熊本々営ヨリ野村忍介ニ命シ出

  張本営ヲ設ケ之カ長トナリ各隊進退ノ事ヲ司ラシム、翌日官兵暁霧ニ乗シ復

  鳥巢ヲ襲フ、正面ノ官兵平野・神宮司両隊ノ間ヲ衝突シ進テ最高ノ地ヲ占メ

  両隊ノ背後ヲ乱射ス、両隊ハ不意ヲ襲ハレ力ラ支フル能ハス、死傷ヲ顧ルニ

  暇アラス先ヲ争テ敗走ス、是ニテ正面ヲ守リタル各隊モ一戦ニ及ハスシテ

  散乱ス、官兵勢ニ乗シ益進ミ直チニ我本営ヲ乗リ取ル、時ニ野村・別府ハ本

  営ニ在リ、総軍ノ大敗ヲ見テ鳥巢ノ左翼植木守線ノ隊ニ馳セ、山口隊右小隊

  (小隊長徳尾源左衛門※この場合ニ段書きできないのでカッコに入れ小文字にするのは、前出例

   と同じ)ノ半隊・救応隊小隊長大牟田佐太郎)ノ半隊・別府隊ノ左小隊(小隊長松元

   直之丞)・重久雄七隊ノ右小隊ヲ引率シテ旧塁ヲ恢復シテ雪ント、直ニ鳥巢ニ

  向テ進ミ民家ニ迫ル、官兵崖上ノ樹間ニ隠見シテ発銃拒戦シ飛丸霰ノ如シ、

  我兵激戦既ニ☐ヲ移セトモ勝敗決スルノ色ナキヲ見ヤ、抜刀大呼肉薄シテ之

  ニ迫ル、長崎道義・瀬ノ口才蔵・鎌田左一郎・山下宗信各一分隊ヲ率ヒテ植

  木ヨリ来リ援ク、救応隊小隊長大牟田某・半隊長今村某身ヲ衆ニ先テ刀ヲ閃

  カシテ奮戦ス、此際ニ当リ縦横交闘両軍相弁スル能ハス接戦最励シ、官兵支

  ル能ハス一散ニ敗走ス、是ニ於テ総軍益々押詰メ先ヲ争テ進ミタルニ、中隊

  長平野正介・川久保十次・水間新七等敗兵ヲ集メ本道ニ在リテ激戦スルニ会

  シ、半ハ其正面ヨリ半ハ官兵ノ背後ヲ遮リ、平野等ニ力ヲ協セテ攻撃ス、

  兵窮迫出ル処ヲ知ラス亦一時ニ敗レテ走ル、我軍愈勢ヲ得北クルヲ追フ凡ソ

  半里余、官兵止リ戦フ、時ニ神宮司半隊ヲ率ヒ植木ヨリ来リテ官兵ノ左翼ヲ

  衝ク、官ノ援隊亦来リ戦復猛烈ナリ、野村・別府策ヲ廻ラシ兵士二百名ヲ分

  テ二隊トナシ、両翼ヲ遶テ敵ノ中服ヲ衝カント、右翼ニハ徳尾源左衛門・吉

  村五郎兵衛一隊ヲ率ヒテ進ミ山口十藏・ 重久雄七之ヲ指揮ス、左翼ニハ竹

  添節・松本直之丞一隊ヲ率ヒテ進ム、川久保ハ此機ニ乗シテ中心ニ衝入ラン

  ト正面ノ兵ヲ励シ、挺前銃丸ニ中リテ深手ヲ負フ、時ニ日方ニ暮ル、両軍交

  モ塁ニ拠リ終宵砲戦ス、本日役一敗一勝頗ル快戦ニシテ官兵斃ルヽ者途ニ満

  チ、我軍小荷駄ヲ奪ハレ死傷二十余人ニ及ヘリ、

 3月27日のこととしているが、鳥巣が官軍に奪われ、同じ日に薩軍が取り返したのは4月5日の戦いしかない。薩軍は植木方面に援軍を要請し、官軍に逆襲して成功した。上申書の記述が4月5日のことだとすると、この日の薩軍の対応状況が詳しく分かる。

 安満の部隊はこの後しばらく登場しないが、「戰記稿」から第三旅団の動向を簡単に追いかけておこう。

 4月6日、南田島を占領したので、鳥巣に向かう手前の村を一つずつ奪いながら前進することにし、古閑村・上生(わぶ)村を取り、植木口との連絡を強化した。

 4月7日、南田島の北西側に位置する平井村と宝田村から古閑村を攻めて取り、古閑村の前面に防禦線を設けた。

 4月8日、第三旅団牙営を南田島村に移す。

 4月9日、鳥巣西側の石川村を奪おうとしたが、暗夜に道を迷って集合場所に来ない部隊があり、攻撃は中止となった。東側の菊池市では市街地隈府町を第三旅団の佐久間中佐(大津口)が率いる部隊が翌朝までかかって占領し、追い出された薩軍は半分は隈府の南西約3kmの広瀬村に、半分は南東約11kmの大津町に移動した。

 明治17年に「明治十年戦地事情書」という書類が野々島村から県令に提出されている。

               合志郡

                  野々島村

   明治十年三月十九日夜、賊軍ノ隊長(村田某或ハ別府某トモ申候)凡弐

  余ノ兵士ヲ率シテ、当野々島村エ入込ミ滞留仕候。尤山鹿方ヨリ来リ同四月

  十五日午前四時比直ニ木山町ノ方エ引取申候。同二十日当村字西原・巡り・

  八反田エ出兵仕、何方モ数日炮戦御坐候エ共、勝敗ハ相分リ不申候。同四月

  五日未明ヨリ、官軍御進撃ニ相成賊軍敗走シ、大鳥居村ノ方エ引揚ゲ候ニ付、

  賊ノ兵器等官ヨリ御分取有之内賊軍直ニ獲カエシ切込ミ候ニ付、官軍一手ハ

  南田島ノ方エ、一手ハ山本郡古閑村方エ御引揚ゲニ相成、此日ノ戦イ官軍

  数十人御打死御坐候。賊軍ノ戦死モ有之タル由ニ御坐候エ共、実否相分不申

  候。且又火ハ官ヨリ御軍用ノタメ御掛ケ仕成候由、戦時間ハ未明ヨリ十時比

  迄ニテ御坐候。

   三月十九日ヨリ同四月十五日迄、野々島村字八ツ丸内ニテ、玉薬製造場

  ヶ所、病院一ヶ所、炊出場九ヶ所、ニノ大小荷駄一ヶ所、四ノ大小荷駄一ヶ

  所、本営一ヶ所、元北村内ニ炊場二ヶ所、元東村エ五ヶ所、此分ニテ御坐候。

  前条ノ通、四月十五日午前第四時比賊軍木山町ノ方ニ引払イ申候由。当今ニ

  至リ年月相隔リ委敷儀ハ相分リ不申候エ共取調候処前条ノ通ニ御坐候。此段

  上申候也

               合志郡野々島村

   明治十七年四月二十五日 人民惣代 勝 田 茂三郎㊞

               人民惣代 中 光 正 時㊞

               右戸長  中 山 守 善㊞

   熊本県令富岡敬明殿  (pp.604)

 野々島村には薩軍本営が八ツ丸(八通丸)にあり、その他病院や弾薬製造所、炊き出し場、輜重担当などが置かれていたのである。

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 上図は「西合志(こうし)町史」にある西南戦争図で、地名・道・両軍の陣地分布などが示されているので、現在の地図に陣地跡を写そうと思うが、地名の比較が難航しできない。地図の北部には両軍の台場がいくつも描かれているが、かつて台場跡を確認した二子山石器製作遺跡には陣地の印がない。下図は戦争図の主要な東西・南北の道筋を現在地図に落としてみたもの。大体こんなものか。八通丸にあったという薩軍本営は寺を利用したのだろうか。

f:id:goldenempire:20210621142604j:plain   上図の左は町史に描き写した地名・字境・台場・戦場だが、薩軍の台場は描き洩らしている

 4月10日、官軍は前日中止した石川村を再び攻撃したが失敗し、攻撃隊は古閑村と有泉村に退いた。石川方面攻撃の官軍は戦死36人・負傷80人だった。植木方面からも鳥巣を第一・二旅団が攻撃し、こちらは戦死8人・負傷21人だった。安満の第九聯隊第三大隊第四中隊は3月30日以降戦闘に参加していないのは、北田島での惨敗の影響が続いていたのだろうか、と思ったが実は守備線についていた。第三旅団本営附の少尉亀岡泰辰「西南戰袍誌」に「予は本日本營の留守居に當りしが午前十時頃に至り賊我空虚に乗じ板井弘生倉邊に來襲せんとする情報あり引續き弘生臺の安滿伸愛大尉の持場に襲來せりと報ず、此地は我背後に當り樞要の地點なるを以て司令長官大に憂慮し予に視察を命じ且つ極力防止に努むべく守備隊長に傳へよと命ず、直に馬を馳驅して戰場に至るに戰將に酣にして彈丸雨注さい乗馬して奔走する能はず、下馬して馬を攻擊反對側の樹蔭に繋ぎ、徒歩して高井出分に至り大尉坂本基柱少尉渡邊當次共に本營の派遣員等に協力して兵を督勵し防戰に盡力す、此地若し敗るれば本營の退路を遮斷せられ其危殆なる寒心に堪へざるものあり、幸にして防禦其効を奏し十二時頃に至り敵は徐々に退却ス、後ち聞く所に依れは隈府の敗兵其退路の安全を保たんが爲め一時之地を押へたるものなり云ふ然れども其攻擊の狀況猛烈にして唯一時の抑留策とは認め難きものあり安滿大尉は予の至るを見て切に應援の兵を出さんことを乞ふ、然れども予の受けし長官の命を傳ヘ且つ本營の近傍には僅かに本營を守護するに足る一二中隊あるのみなるを以て今應援を請求ふも到底不可能なるを以て獨立必死防戰あらんことを勸誘して請に應ぜず、・・」とある。この時点では中隊ごとの戦闘報告表は第三旅団には存在しないようである。

 4月11日に安満隊の記録がある(原文は「熊本県公文類纂七-一七四」で猪飼隆明・地元委員協力1994「西合志町史」の近現代pp.615・616に収録)

  客歳鹿児島賊徒御征討ノ際官軍ヘ随従尽力ノ始末御問合ニ付有筋左ニ上伸

  候

  私儀第五大区五小区合志郡合生村九百六拾七番地住、士族緒方二三ト申モ

  ニテ、客歳三月鹿児島賊徒本県ヘ闖入ノ際、官軍第九聯隊第三大隊第四中隊

  ニ被召仕台場建築ノ夫使、其他烽火ノ周旋、或進軍ノ先導、各地ノ探偵等ニ

  至ル迄、隊長ノ指揮ニ応シ各位ト共ニ尽力セシハ、各位ノ親シク目撃スル所

  也。然ルニ四月十一日午前七時頃、賊将鋭を尽シ隈府街道ヨリ襲来ノ報ヲ得、

  安光大尉ノ内諭ヲ以テ、直チニ該大区六小区富出分村神社接近ノ地マテ潜行

  シ、窃ニ社内ヲ窺フニ果シテ賊兵屯集シ、隊長ト認ベキモノ弐拾名許、他兵

  卒五拾名余、且薬師小屋ニ百名、福本神社ニ百名、高江村ニ百名、凡三百六、

  七拾名ト認、迅速帰営、之ヲ安光大尉及ヒ古川・田ノ両中尉ニ報ス。則安

  光大尉慰労金三円ヲ給与セラレタリ。感泣恩ヲ謝シ坐未タ久カラス、将ニ十

  時ナラントシ、賊兵果シテ風雨ニ乗シ、該村神社西面ノ小径ニ傍以(※「添

   い=カ」の注記あり)、進テ各所ノ竹林・桑園ヲ侵シ、直チニ官軍ノ台場ニセマ

  リ、激戦時ヲ移シ砲声天ニ轟キ硝煙空ヲ蔽イ、弾丸雨注、実ニ万死一生ノ際

  ニ臨ミ、隊長ノ指揮ニ応シ断然身命ヲ抛チ、台場守衛罷有候中、山肩日已ニ

  没シ、各所烽火起リ賊兵遂ニ敗、兵ヲ野々島及ヒ黒松・大池ニ退ク。是ニ於

  テ翌十二日官軍兵ヲ小合志原ニ進ム。

  自分儀モ前同様従軍、胸壁建築ノ周旋ヲナセリ。賊兵遂ニ拒可ラサルヲ覚リ、

  壁ヲ捨テ走ル。是ニ於テ同十五日官軍兵ヲ熊本ニ進ム。前同様従軍、龍田山

  ニ到初メテ暇ヲ賜フ。同十七日該村滞陣以降ノ諸調等アリ。安光大尉・古川

  ・花田ノ両中尉、浅井曹長、大庭・田口ノ両給養掛及ヒ各位自分ト共ニ九名

  ニテ、万般無遺漏計算等皆済退去セリ。然ルニ、同月某日内藤大隊長・安光

  大尉両度謁ヲ賜ヒ、万般忠誠ヲ尽シ奇特ノ至リ、尚一層忠勤ヲ励ス樣親シク

  言賞アリ。依テ更ニ別紙写ノ通リ御辞令一葉下シ賜リ、難有拝戴仕置候。前

  記ノ通有筋始末書ヲ以テ奉上申候事。

          第五大区五小区合志郡合生村

          九百六拾七番地住士族

  明治十二年卯一月廿日        緒 方 二 三㊞

   村用掛

    工藤五七郎殿

    緒方喜三郎殿

 

  内藤・安光・古川ノ三将校ヨリ下シ賜リ候御辞令文意ノ概略写

        記

                  緒 方 二 三

  其方儀是迄不肖ノ筋モ無之、依テ第九連隊軍事用向筋申付候事

  右ノ通ニ御座候事

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 文中の内藤は参謀部の内藤之厚少佐である。安光大尉とは安満のことである。彼が何時大尉に昇進したのかは分からない。古川は第四中隊の古川治義中尉のこと、花田も第四中隊の花田耕作中尉である。安満の中隊は「戰記稿」に記載がなくとも依然として前線にいたことが分かる。緒方の住所、合生(あいおい)は二子山石器製作遺跡の北東側の川の東側の地域にある。この4月11日の戦闘は「戰記稿」には記載がない。その後、4月14日、官軍のある部隊の本営が緒方の家に置かれた。

  昨十二日御達ニ依リ取調差出候兵卒ゟ伍長ニ伍長ゟ軍曹ニ撰拳可致者ハ現

  當口出張之安満井上栗屋之三中隊ニ配リ該隊下士捕欠相成候上残余之者ハ他

  隊ニ御附相成候而も不苦候旨申出候条此段及御廻答候也

 

    第四月十四日  内藤少佐 参謀部御中

  追而本文之義遅刻致候ハ防禦線付換ニ取懸リ只今☐候仕合ニ有之候并ニ左

  本営ヲ相生村緒方二三方ヘ轉 移候条此段御届候也

  但相生村緒方二三ナル者ハ元弘生村大酒造家ナリ

  (C09084868000「第一号自三月十日至四月卅日 来翰綴 第三旅團参謀部」1364・5)

  脇道にそれるが緒方の情報を掲げる。

 明治33年に熊本県士族緒方二三が加藤高明外務大臣義和団事件処分に関する建白書を提出している(B04011153000義和団事変ニ付帝国ノ利権獲得ニ関スル建言雑件 第一巻(1-7-10-5_001)(外務省外交史料館)」)。また、緒方二三と同名の人物(熊本県益城郡杉谷村杉島千四百四十七)が明治37年に陸軍大本営付の中国語通訳になっている(C09122000300、明治37年自2月至5月 大日記 副臨人号 自第1号至第212号 共4冊(防衛省防衛研究所蔵0357~)西南戦争に登場する人物と同じ人だろう。

  4月12日、第三旅団の14個中隊は石川村・鳥巣村の略取を期して攻撃したが、退却している。山鹿市の南東に位置する菊池市(隈府わいふ口)は第三旅団の佐久間中佐が担当し、薩軍と交戦しつつ次第に第三旅団牙営から遠ざかっていった。この後16日、佐久間が負傷したため厚東中佐が代理を務めることになる。

 その後数日間は第九聯隊第三大隊第四中隊の記録はないが、4月14日に熊本城の籠城が解放されると、正面軍や山鹿口の官軍が対峙していた薩軍は鳥巣や植木・木留周辺から一斉に撤退し大津方面や熊本平野に移動した。第三旅団もすべて大津口進撃隊に合流している。鳥巣は戦闘で奪ったのではなく、薩軍は自発的に撤退したのである。

 4月19日、大津口第三旅団は他の官軍と連携し南は御船町から熊本市健軍、大津市に連なる延長30km前後の戦線を構えて薩軍を圧迫した。

  十九日第三旅團漸次諸隊ヲ進メ一團舉テ大津ニ向ヒ是日牙營ヲ伊萩村ニ移

  防禦線ヲ定ムル左ノ如シ(「戰記稿」) 

 安満大尉は川村景明少佐が司令官の右翼7個中隊の一つとして岩迫村を端にして旅団右翼の配置についた。別に援隊は古閑原と小林に屯在し、左翼援隊は湯舟村や鞍ヶ岳に派遣された。また、遊軍は伊萩村・片川瀬村と妻越村に屯在。隈府分遣は小川原村、砲廠部は湯舟村。以上で大津町に前進する計画である。第三旅団の右翼には大津口第一・二旅団(右翼・中央は御領・出分村、左翼は鳥越・岩迫谷、援軍は右翼が群山その他、予備隊が二子・豊岡・鶴田・羽田)が進んだ。大津町の西側が第三旅団の右翼だった。

 4月20日、城東会戦といわれる両軍初の会戦が行われ、官軍の勝利に終わったが、官軍の死傷者は700人に上った。この内、第三旅団は戦死14人・負傷35人である。この時の第九聯隊第三大隊第四中隊の具体的な動向は記録されていないが次の史料で一端が窺える。

C09081000400「明治十年従五月 送達書元稿 大坂征討軍☐?0207征討総督本営罫紙※欄外上部に「安満」

  九連隊第三大隊第四中隊

   第三             二等兵 生駒半兵衛 

  右四月廿一日竹宮進擊之際左上脾射入銃創兼骨傷ヲ負ヒ即日入院治療ヲ加

  処百治無功本月五日頃ヨリ膿毒症ヲ発シ悪寒慄冷汗淋漓嘔吐下痢食思欠損等

  ノ諸症ヲ発シ漸々衰弱ニ陷リ遂ニ本月十五日午前三時死亡候也

 

   明治十年五月十五日    陸軍々醫中泉 正㊞

 これは治療に当たった軍医の報告書である。中泉正軍医は2月21日に野津・三好両少将の文では当地に着しているが、当地とはどこか(C0908290110「十年二月廿一日~三月三日 来柬録 征討総督本営)。別の記録には4月17日には高瀬軍団病院(玉名市)に勤務している(C09080996900「明治十年従五月 送達書元稿 大坂征討軍?」)ので当地とは高瀬を含んだ地域である。熊本平野での負傷者は高瀬で治療したと分かる。

 第九聯隊第三第田第四中隊の二等卒が4月21日に竹宮進撃の際に負傷したという。竹宮は熊本市東部の水前寺公園周辺の健軍地区の事。城東会戦の激戦地である。第四中隊がこの付近の戦闘に参加していたのだろうか? 城東会戦は20日一日で終わったと思っていたが、そうではないようだ。20日の第三旅団を「戰記稿」から見ておこう。

  右翼第三旅團ハ牙營ヲ下中久保田村ニ移シ昨日議定セシ如ク午前五時諸隊

  テ大津町ノ臺上ニ登リ銃砲ヲ劇射シテ賊壘ニ迫ル賊兵堅ク守テ動カス我右翼

  ノ兵最モ奮進勇鬪遂ニ其第一線ノ數壘ヲ拔ク然レノモ賊退テ猶ホ第二線ヲ死守

  ス是ヲ以テ我兵容易大津町ニ侵入スルヲ得ス(略)詰朝大舉シテ大津町

  略取センヿヲ期セリ

 20日薩軍の抵抗が強く、大津町を占領できなかった。第三旅団の右には第一・第二旅団が並んでいた。彼らは21日は熊本空港の南東3kmの川原村の薩軍を攻撃したが、逆襲を受けて現熊本空港のある高遊村まで退いている。その後、大津口から第三旅団古田少佐隊が来たので共に川原村を占領したとある。診断書にある竹宮から高遊村までは11km、その付近で21日に戦いがあったことは記録されていない。「征西戰記稿」がすべてを網羅して記しているのではないということか、診断書が正しくないかだろう。

 4月22日、第三旅団は大津市街の南側を西流する白川を渡り、牙営を外牧村に置き、阿蘇外輪山南斜面の矢部浜町(ここに全

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薩軍終結しつつあった)に向けて警備し、敵情を探るため斥候を各所に出している。また、前日戦った河原(川原)村・日向キ村・布田村・鳥ノ子村・外牧二(※ニは?)・内牧村に厚東中佐と河村少佐の11個中隊が、阿蘇カルデラの西部の入口の黒川村に友田少佐の一分隊が、鳥ノ子村・錦野村・布田村・瀬田村に内藤少佐の8個中隊が、他に大津町・鞍岳・二重峠(中津隊が薩軍に合流したときに登ってきた峠。古来肥後・豊後の官道)・隈府町・外牧村に6個中隊がそれぞれ守備線を構えた。この内、安満隊が属したとみられるのは内藤少佐である。上の地図のもっと北側に二重峠・鞍岳がある。なお、第一・第二旅団は第三旅団の右にいた。

    阿蘇カルデラの東端に位置する坂梨には3月上旬から桧垣警視の警視隊が大分から進んで、カルデラの西端の二重峠方面を警戒して警備についていた。薩軍も植木付近で官軍正面軍と戦っているとき、既に大分方面から官軍が進入してくることを警戒し二重峠を守備していた。警視隊隊長桧垣の動きは遅く、やっと18日になって黒川・二重峠に進んで戦いを挑んだが、佐川大警部(官兵衛)他33人の戦死者、34人の負傷者を出して坂梨に退却していた。

 その警視隊は4月24日、山縣参軍から熊本に進めとの命を受け、25日第三旅団の目の前を通って大津町に、26日には御船に移動し別働第三旅団に編入し第五大隊と称することになった。それまでは大分側にいた警視隊が消えたので、第三旅団が前面に出る形となった。三浦少将は山縣に掛け合って曰、黒川以東の広範囲の警備は第三旅団では出来かねる、他の旅団を派遣して空白を埋めるか、さもなくば第三旅団が移動して埋め、現今の防禦線を他の旅団に譲るかの二つしかないので採決を仰ぐと。

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 横平山・田原坂方面を担当した第一・第二旅団の各中隊は日毎に戦闘報告表に記入しているが、第三旅団の場合は5月18日からしか確認できない。

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 岩村・鳥巣・大津などの戦闘報告表を探したが見つからなかったので、ついでに各旅団の戦闘報告表を比べてみたら必ずしも全て同じ様式を使っていたのではないと分かった。事例掲示は略すが、第一・二・四旅団と別働第一旅団は同じ木版で印刷したものを使用し、これらは外枠が太い一本線である。別働第二旅団は外枠が太細の二重線、別働第三旅団は前記の版が「戰鬪」である部分は「戰鬥」になっている。以上は、裏面が備考欄になっているが、表面だけに記入する型が第三旅団・別働第五旅団と新撰旅団である。但し、新撰旅団の報告例は少なく、それらは木版ではなく、直角に交わるべき線が斜めになっていたり、突き抜けていたり統一性がなく手書きしたような感じである。上図で理解しやすいと思うが、各旅団の編制月日が異なるし、それも当初から持参していなかった旅団もありそうで、複数回にわたり戦闘報告表が供給された記録がある。 

 4月24日、山縣参軍は現熊本県庁東側約8kmの木山東部灰塚に諸旅団長を集めて各進撃の方面を決定した。この時、薩軍は矢部浜町に集まっており、直後に人吉あるいは宮崎県に向かって移動を始める。薩軍は人吉に入ると、大口・佐敷・人吉北方山間部・延岡・大分など人吉盆地の四方に部隊を進ませ官軍の侵攻を防ごうとした。この前後、官軍の追撃はなぜか緩やかに見える。後日、山縣は次のようなことを述べている。「灰塚の軍議に手間取らずに薩軍を急追していたなら、もしかしたら一撃で薩軍を粉砕することができたかも知れない。西南戦争に関してこのことだけが気にかかる点である」(「戰記稿」)

 灰塚会議の結果、

  御船ヨリ飯田山及ヒ船底山マテ別働第二旅團〇船底山ノ麓ヨリ南田代及ヒ淺ノ藪マ

  テ熊本鎭臺兵〇淺ノ藪ヨリ川原マテ第一旅團〇川原ヨリ田原山マテ第二旅團〇田原

  山ヨリ黑川マテ第三旅團   (「戰記稿」)

と決定した。このうち船底山とは船野山のことであり、田原山とは灰塚の北東2.2kmの田原付近の山であろう。浅ノ藪は標高480mの城山の南東1.6kmにある。この結果、熊本鎮台が正面攻撃の本軍となり、第三旅団は左翼攻撃本軍、第一・第二旅団は少し下がった第二線の位置となり、別働第二旅団は人吉北部方面からの通路である那須口に備えることになった。

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    4月25日に三浦少将が山縣参軍に報告した第三旅団の配置図を見つけた(022.11.28)。赤で示した一点破線が第三旅団の防禦線である。地図の北が下方になっているので、北が上になるよう

に回転してみる。上部に横方向に走るのが白川であり、屈曲して右下に走る部分はカルデラ内の平地を流れる部分である。上図の北東部防禦線があったと思われる付近の地図に推定防禦線を重ねて掲げる(下図)。現地踏査で何らかの遺構が確認できるかも知れない。

    熊本鎮台は4月26日、薩軍が去った直後の浜町に入り、28日には一部が馬見原に進んだ。三浦はここでも山縣に提案し認めさせている。

  熊本鎭臺ヲシテ獨リ濱町馬見原ヲ守備セシムルモ固ヨリ其防禦十分堅固ナ

  トスルヲ得ス故ニ分守ノ法ヲナシ臺兵ハ專ラ濱町ヲ守備シ本團ハ位置ヲ轉シ

  テ馬見原一方ヲ守備シ臺兵ト相連絡シテ大野越ニ及ホシ本陣ヲ高森ニ移サハ

  第一第二旅團及本團ノ矢部口ニ備フル所ノ第二線守備ハ之ヲ撤曾テ危殆ノ憂

  ナク(略) (「戰記稿」)

 4月30日から5月3日にかけて第三旅団はカルデラの南部にある高森に進んだ。馬見原の地を熊本鎮台から譲り受けることになったためである。30日作成の第三旅団部署表には安満の第四中隊は「五月二日安滿粟屋堀部ハ高森ニ瀧本沖田平山ハ下市村ニ到リ命ヲ待タシム」とある。

  いつの時点か分からないが三浦梧楼のいたずらの話がある。彼の回顧録「観樹将軍回顧録」による。

   この戦争中、山県の事について面白い話がある。一体山県は極めて注意

  い男で、とかく極度に干渉して困る。それで山県が来ると、いつもがんがん

  喧ましく言うから、皆毛虫のように嫌っている。それ来たというと、参謀な

  どは皆逃げ出すという始末である。

   ある時山県がまたやって来た。我輩の本部の前にいるので、参謀などは

  弱り切っている。

  「よしよし、乃公が一つ追っ払ってやるから安心しておれ」

  と言っている所へ、山県が出掛けて来た。そこで昼飯を饗応したが、その

  仕役に出したのが二、三人の捕虜である。何しろ鹿児島を出る時、湯に入っ

  た切りだ。櫛風沐雨に何カ月というもの曝されて来たのである。その汚ない

  ことおびただしい。

  さすがの山県もこれには驚いた。ジロジロと様子を見ておったが、

  「三浦、これは賊じゃないか」

  「賊だ、生捕った奴だ」

  「ひどいことをするじゃないか」

  「いや何でもない。夜分蚊が出て仕方がないから、蚊燻しをやらせておる

  心配はない」 

  「もし火薬庫に火でも点けられたらどうする」

  「なに大丈夫だ。気遣いない」

  「大丈夫か、気遣いないか。剣呑だぜ。」

  と言っておったが、気味が悪いか、すぐさまここを立って往った。

  「さあ皆安心しろ、山県を追っ払ってやった」

  とて、大笑いであった。山県は我輩のいたずらを真に受けたのである。

 蚊が出るというから梅雨明け後の季節で、山鹿・阿蘇よりも後のことだろう。藩時代からの知り合いだから山県も怒れなかったのだろう。