最近、西南戦争中に桐野利秋が野村忍介に出したという書状を入手したので紹介する。
書状の内容
軸装され桐箱に入れられ長年経過した書状である。箱の長軸側面には古びた紙に部號:空白、筆者:桐野利秋、書畫題:書簡、と黒インクで書かれている。書状は薄水色の和紙に貼り、書状自体は幅44.0㎝、縦18.3㎝で、紙面に明白な折り目は観察できない。本文は以下の通りである。一行ごとに空白を入れて示す。
先日ハ一報被下難 有諸事ニ参集ヲ 願上候處実ニ愉 快ニテ咄し致候就而ハ 竹田ノ報國隊モ 余程ノ好都合ノ 由是又可成進ム 様願上候鶴崎 地方ハ如何ニ候や 可成早ク同地ヘ 御進之處ヲ願 上為後日候
四月十三日利秋
野村忍介殿 ※「諸事」・「為後日候」は読めなかったので、大分県立先哲史料館の大津祐司さんと三重野誠さんに教えて頂いた。特に大津さんにはいつもお世話になっており、お礼を申し上げたい。
書状の中身を現代文にすると次のようになろうか。
先日は報告を下さりありがとうございました。色々なことがうまくいくように願っておりましたところ、本当に愉快だと話したことでした。つきましては竹田の報国隊も随分都合がよいとの事で、これまたなるべく順調に行くよう願っております。鶴崎地方はどのような状況ですか。後日の展開のために、なるべく早く鶴崎に進軍するよう願っております。
四月十三日 利秋
野村忍介殿
内容から見て書状の日付4月13日は旧暦であろう。4月なら野村忍介率いる薩軍奇兵隊はまだ大分県内には侵入していないからである。書状の日付を新暦に直すと5月25日となる。薩軍奇兵隊が延岡を拠点に初めて大分県内に侵入したのは5月12日である。大分県南部の佐伯市重岡に侵入した奇兵隊約800人は翌日13日に竹田に進んだ。
西南戦争中の桐野の書状は「西南記伝」に池上四郎・別府晋介宛があるのを把握できたが、それは新暦4月3日の日付であり、野村宛のように旧暦ではない。新暦も旧暦も使っていたということだろうか。また、池上・別府宛の書状は一行7字前後の大きい字形である。一行の字数は6字から8字で、10字が一ヶ所あり、一行の字数と大きな字で書かれている点は池上・別府宛と似ている。
また、展覧会に出品された目録中に桐野の書状の活字化されたものがある(昭和二年十月「西南戰役遺物展覧會目録」會場 山形屋呉服店 主催 鹿兒島新聞社)。引用する。
日州球摩の陣中より母へ贈られし書状、信作は陣中の署名に係る久とは夫
人の名榮熊とは今の利義の事也
彌御揃御母上様御初皆々様御兩家内御機嫌可被成御座目出度御儀奉恐悦
候次に私事も無異球摩の内江代と申處ヘ滞在仕候間乍憚御安心可被下候
又五四日之中より熊本の樣出軍仕筈に御座候間決御氣仕思召被下間敷家
内中安否伺旁迄忽卒中奉伺候折角時分皆々樣無御痛樣奉祈候不取敢如此
御座候謹言
四月廿九日 桐 野 信 作
母上
久殿
さよどの
さた殿
榮熊殿
武彦殿
二白御伯父樣ヘ別段書狀差上不申候間可然被仰上置可被下候也
4月29日江代から家族に宛てた書状である。ここでは新暦を使っている。利秋の妻は久(ひさ)、利秋の弟の子供榮熊は後日、桐野利義と改名して桐野家を継いでいる。
他にも新納軍八宛の書状があるが、鮮明な画像を見ていないので参考にできない。
薩軍の鶴崎攻撃について野村忍介等の「野村忍介外四名(奇兵隊)連署上申書」が概説的である(「鹿児島県史料 西南戦争」第二巻)。
顧フニ大分県庁下亦空虚ナラン、機失フヘカラスト、復タ一中隊毎ニ壮
士二十名総員百六十名ヲ撰抜シ、鎌田雄一郎・嶺崎半左衛門之ヲ率ヒ、
十六日午前一時ヲ以テ発ス、行ク凡ソ十三里余大分ヲ距ル僅カニ半里計、
官兵来着守リ已ニ厳ナルヲ聞キ、忽チ方向ヲ転シ鶴崎進撃ニ決シ、鎌田
兵士十五名ヲ分テ之ニ馳ス、時ニ鶴崎ニハ警視隊ノ着艦ニ際シ、兵士上
陸或ハ湯沐シ或ハ喫飯スルニ会フ、我兵直チニ分署ヲ雷撃シテ数名ヲ斬
ル、是ニ於テ満街喧噪シテ巡査事不意ニ出ルヲ以テ兵器ヲ取ルニ暇アラ
ス大ニ狼狽逃走ス、我兵縦横奔馳一時ニ数十名ヲ斃ス、巡査隊長潰兵ヲ
招集シテ銃槍ヲ列ネテ方陣ニ備フ、兵員凡ソ数百人、此際我隊鎌田重傷
ヲ負フ、且本隊未タ達セス、故ヲ以テ退軍ス、途ニ本隊ト相会シ遂ニ犬
飼駅ニ退ク、十七日竹田ニ抵ル、
というものである。野村は間違えているが警視隊は鶴崎に上陸したのではなく、東方約17㎞の佐賀関に上陸し鶴崎までは陸行している。また、また薩軍が竹田に帰着したのは18日である(高橋信武「松岡用務所日記」)。大分県庁を抑えようと進んだところ、市街の外側で官軍が配置についているのが判明し、目的地を東方の鶴崎警察署に変更した。攻撃目標が代わったので小勢の警察署のために百数十人全員で行くのは多すぎると考えたのか、190人が鶴崎手前の乙津に留まることになった(「鹿児島県史料 西南戦争」第一巻PP.675に「残リ賊百九十名ハ近傍乙津ト云フ処ヘ屯シ」)。本隊と別れ、鎌田雄一郎が15人の部下を率いて鶴崎町に進入した。ところが予想外だったのは約250人の豊後口第二号警視隊(東京警視隊)が当日佐賀関に上陸、直ちに鶴崎に進んで町中に休憩していたことである。薩軍は夜11時暗闇の中を小勢で警視隊が休憩している複数の宿に突入した。薩軍側は竹田士族一人が捕らえられ死亡し、隊長の鎌田雄一郎が負傷した。官軍側は死者2人・負傷者4人が生じており、薩軍側は戦果を過大に評価している。
警視隊が休憩していた旅籠の一つ、佐伯屋が翌年大分警察署に提出した「薩賊乱入之際手續書」の控えが子孫宅にあり、史料紹介されている(北川徹明「旅籠佐伯屋と鶴崎の西南戦争」『西南戦争之記録』第3号)。内容は省くが、室内での狼藉の跡が生々しくわかる具体的な被害状況が記されている。
薩軍は戦闘を切り上げ全員が南下して17日午前4時、大分市松岡に到着・休憩し、川舟を集めさせて大野川を遡り戸次に上陸し竹田へ向かった。この前後の状況を地元の小区用務所が記録しており、これを紹介したのが「松岡用務所日記」である。竹田では士族を一堂に集めて脅迫し報国隊という部隊編成を強要し、5月19日に約600人で成立している。
その頃の桐野利秋
桐野は熊本平野撤退後、4月23日に奇兵・振武・行進・干城・正義の各隊と熊本隊・協同隊などと阿蘇外輪山西麓の矢部を発した。各隊は胡摩越あるいは那須越を越えて熊本県球磨郡水上村江代に27日に到着している。薩軍五番大隊兵士だった平田盛二の「日誌」(「鹿児島県資料西南戦争」第三巻PP.708)にこの時の桐野が登場する。
一今日矢部濱町ヨリ熊本之内管村かこひと云所エ転営相成、午後一時ヨリ
同三時比ニ着シ一泊シ候事、
同 廿四日 雨
一今日午前五時管村出立、シバサント云フ大山ヲ越ヘ、午後六時ニ及テ鹿
兒島県ノ内尾前ト云フ村ヘ着シ、一泊シ候、尤右大山エ雪有之、相喰ミ
候、
丑四月廿五日 雨
一今日午前六時尾前出立、当所ヨリ桐野先生エハ別レ、栗支尾ト云村ノ那
須源六ト云家内ヘ立寄相休ミ、午後六時ニ及テ人吉之内岩野ノ高野村ト
云処エ着シ、一泊シ候事、尤此道エ野タケト云フ高岡ヲ越候事、
これによると桐野は4月25日朝には宮崎県東臼杵郡椎葉村不土野の尾前にいたことになる。山都町管村囲から尾前までは山の尾根筋を通ると約20㎞の距離がある。平田はこれを13時間かかっている。その後、尾前から南に進み熊本県境の不土野峠までは川沿いに13㎞ほどあり、峠から南西の江代までは5㎞くらいの下り道である。桐野が尾前から江代に移動するのに1日弱は要しただろう。したがって、桐野が25日朝に尾前を出発していたなら、早くても25日遅くか26日には江代に着いたのではないだろうか。桐野は江代に本営を置き、28日に諸将を集めた会議で各隊の配置方面を決定した。
5月11日頃、高知県の藤 好静、村松政克が延岡に密航して来た。野村忍介が応対し、藤らの希望により江代の桐野の所に案内させている。その時桐野は「最早日向ハ兼テ思ノ通リ我手ニ入リ候ニ付従此豊後ニ入リ竹田ヲ手ニ入日向ニテ大砲ヲ鋳立細島ヘ臺塲ヲ築キ大砲ヲ据ヘ海軍ヨリノ砲發ヲ防キ竹田ヨリハ大分ヘ兵ヲ出シ筑前筑後豊前ヲ乗取リ肥前ニ廻リ長﨑ヲ占メ暫ク鋭ヲ養ヒ外國ヨリ軍艦二艘ヲ買求メ馬関ヘ進ミ官ノ海軍ト勝敗ヲ一瞬ニ决シ摂津ヘ進撃ノ見込ニ候」と述べたという(C09080861100密事探偵報告口供書類 明治10年4月25日~10年8月3日(防衛省防衛研究所蔵)。
野村宛書状を書いた5月25日は江代出発の当日あるいは直前であろう。野村はこの頃延岡の奇兵隊本営にいた。延岡から日向・山陰・坪谷・湯山峠を通って江代まで約120㎞というのが大雑把な距離である。乗馬でも最低1日は掛かるだろう。
江代から宮崎へ
熊本から撤退した西郷隆盛は人吉を本拠とし大本営と称していたが、官軍が迫ってきたため五月下旬には宮崎市に移動した。同じころ江代の桐野も宮崎に転営している。桐野が宮崎に行くときに通った経路は、宇野東風「硝煙彈雨丁丑感舊録」PP.121に「桐野利秋は、江代を去りて延岡に出で、尋で宮崎に至るといふ」とある。「薩南血涙史」5月29日の部分では「是より先き桐野利秋は宮崎に本營を移し鹿兒島方面及び豊後口等の諸軍を遥に統監し」とあり、正確な日は記さない。
桐野は宮崎市で旧宮崎県庁であった宮崎支廳(当時、宮崎県は廃止され、鹿児島県となっていた)を軍務所と改め、大区事務所を郡代所、戸長役所(いわば市役所)を支郡所と変更し、28日に各戸長副戸長に令達しているのでおそらく28日以前に宮崎に来たはずである。結局、宮崎市には5月27日頃から7月31日までおり、戦況の悪化に伴い8月3日には日向市耳川北岸に移動していた。最近、宮崎県埋蔵文化財センターが耳川下流域両岸の戦跡分布調査を行い、多数の台場跡を確認しており、報告書刊行がまたれる。
おわりに
桐野は大分に進んだ奇兵隊の情報をどう把握したのだろうか。多分、奇兵隊員が野村の手紙を騎馬で持参し、その際大分の状況についてやり取りしたと思われる。書状の冒頭に「先日ハ」とあることから、野村の手紙を受け取ったその日にこの書状は書かれたのではなく、何日かたってから書かれたものだろう。「報國隊モ余程ノ好都合ノ由」とあるから、19日に報国隊が結成されたことも野村の手紙やあるいは持参者からも聞いていたのである。25日に書いているので、その時点では5月16日に一度鶴崎に突入したけれど撤退して竹田に帰ってきたことも知っていただろう。とすれば、野村は竹田侵入に成功したという情報を桐野にすぐには伝えておらず、報国隊ができた19日以後に初めて伝えたらしい。書状には「鶴崎地方ハ如何ニ候や可成早ク同地ヘ御進之處ヲ願上為後日候」とあり、一度撤退した鶴崎への侵入を促している。
以上、桐野利秋が野村忍介に宛て書いた書状について紹介したが、これが偽物かどうか、残念ながら筆跡から判断する能力は持ち合わせていない。