satsumareb’s diary

これは高橋信武が書いています。

赤松越を本道とする布告

 古代の駅路以来、豊後と日向の行き来は梓山を通っていたが、1873年明治6年)に少し東側の赤松峠を通るように変更された。その布告を紹介する。

 梓山は大分県佐伯市宇目と宮崎県延岡市北川町の境界に東西方向に横たわる山脈の中央部にあり、標高は725mである。駅路は二地点を最短距離で繋ごうとする傾向がある。例えば、よく知られているように九州縦貫自動車道が福岡と熊本の間で、駅路とほとんど同じ場所を通過している。古代の駅路も現代の高速道路も早く目的地に着こうとして建設されたものであり、偶然にもほとんど同じ地域を通過したのである。梓山路線の場合、最短距離ではあるが平野部を通るのと違い不便であり、1873年明治6年)には東側にある谷筋、赤松越を通る路線に変更されている。現在はさらに東側に国道10号が新設されていて、赤松越は廃道となり、荒れるに任せた状態である。

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 布令書の内容

第三百八十号

西海道豊後國ヨリ日向國ヘノ往還重岡驛熊田驛ノ間梓越ヲ廃シ自今赤松越ヲ以テ本道ト定候條此旨布告候事

 

 明治六年十一月十五日右大臣岩倉具視

   布令書明治六年十一月一千七十八号〇二 

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 上図は手前が北、向こうが南である。1877年7月上旬の両軍の対峙状態を示す。赤が官軍、白が薩軍。赤松越は路線名である。主に谷底を通るが峠を越える場所もある。それが赤松峠である。1877年(明治10年)の西南戦争では、官軍が峠を含む尾根筋に多数の台場を築いており激戦が行われ、今もそのまま残っている。6月24日には薩軍が熊田方向から北上し、赤松峠や左右の広範囲に展開していた官軍陣地に攻撃をかけ、一時は峠を突破する状態だったが、弾丸不足のため撤退している。この日の戦闘では官軍側には小川又次少佐その他、薩軍側は野村忍介・増田宋太郎その他が登場している。

 現代の地理認識では、西南戦争の激戦地は随分国道から離れた山の中にあると思われがちだが、当時はそこが主要路線だったのであり、国道10号が通る山間部は当時は随分なへき地だったのである。