西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

「籠城日誌 討薩戰誌 全」3

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【上図は「新編西南戦史」の付図(2月27日の官軍出撃戦闘要図)である。横向きを修正できないまま掲載する。白川西岸の千草学校を二手に分かれて進行して攻撃したとしている。北側からの一手は観音坂を通った筈だから図中の内坪井町という字の北側の東西道路を通ったとすべきだろう。図のように現在の白川公園に攻撃目標の学校があったのだろうか。】

仝二十八日ヨリ三月二日ニ至ル

小銃ノ戰ヒ無シ毎日賊ノ花岡山ノ砲台ト互ニ戰争熾ナル而已

29日・31日・2日は城の東側では戦闘がなかった。1日、坪井地方に食料を集めに行き19日分の玄米を獲得している。】

    仝三日

始メ戰争ヲ聞ヤ二月二十四日宍戸看獄ヲシテ髙瀬ノ旅團ニ使セシム賊中ヲ忍ヒ辛フシテ仝二十七日髙瀬ニ達シ直ニ三好少將刀木少佐隊長(十四聨)ニ面會城中ノ難苦ヲ告ケ加フルニ糧米ノ乏キヲ以テシ依テ日ヲ期シテ賊ヲ破リ熊本ニ来リ援クルヲ聞キ仝二十七日仝所ヲ発シ本日帰台城中是ヲ聞キ大ニ勇ミ鋭氣十倍ス

【熊本城西側金峰山の南西に百貫港がある。224日、百貫沖から大砲の音が聞こえたので海軍軍艦が来航したと思い、監獄宍戸正輝と県吏二人を派遣したのである。彼らは衣服を変え、下馬橋から抜け出て金峰山南麓の高橋から同じ北西麓の河内を経て陸路で高瀬の第十四聯隊と南関の官軍本営に達した(「明治十年西南戦史」陸軍中将緒方多賀雄遺稿)。

     仝六日

午前ヨリ髙瀬ノ砲聲ヲ聞ク

【この頃、熊本城救援を目指して南下中の官軍正面軍と、それを阻止する薩軍との間で激闘が続いていた。玉東町二俣や東に隣接する植木町田原坂付近、そこから北東側にある山鹿地方での戦いである。2月末以降は高瀬では戦いはなかったが、熊本城からすれば田原坂付近も高瀬と同じ方向である。】

 仝七日

午前八時頃賊四方ヨリ迫リ砲撃花岡山安政橋向フ并ニ出甼下肥取阪上ニ砲臺ヲ築キ三方ヨリ破烈丸ヲ発スルヿ熾ナリ殊ニ肥取坂ノ彈丸吾炊事ノ塲ニ近キ因テ尽ク頭上ニ破烈シ實ニ百千ノ雷ノ一時ニ落ルカ如シ耳忽チ聾トナル此勢ニ炊夫等大ニ恐レ置ク處ヲ知ラズ依テ暫時盡ク工兵方向ノ材木ノ中ニ入ル如是烈戰ト𧈧官軍橈マズ防戰ス依テ十一時ニ至リ賊全ク退去ス此日死傷十余人

肥取阪は白川に架かる大甲橋とすぐ下流安巳橋または安政橋とも呼ばれる橋の間にあたる白川右岸の場所。】

    仝八日ヨリ十日ニ至ル

賊ノ三方ノ大砲頻リニ来ル晝夜止ム時ナシ是カタメ両三人死傷在リ且髙瀬ノ砲声日々聞ヘサルナシ

     仝十一日

午後二時賊又四方ヨリ破烈丸ヲ城中ヱ射撃ス本日長六橋際ニ砲臺ヲ増ス故ニ四方ナリ我各所ノ砲臺ヨリ賊ノ砲臺ヲ擊ツ適々埋門ノ砲臺ヨリ發スル彈丸賊ノ肥取阪ノ砲臺ニ的射シテ之ヲ崩ス是迠大砲彈丸ノ發射スル今日ノ如キ熾ナル為ニ炊夫二人ヲ傷ク其外嶽ノ丸等ニモ死傷アリ

今日午後賊人夫者ヲシテ城中ニ使セシム且本夜片山邸或ハ京町其外所〃ニ矢文ヲ送ル其文ニ曰シモ同文(使ノ者持来リ)

  今般政府妄ニ暗殺ヲ謀リ自ラ国憲ヲ犯スノ罪有之尋問ノ爲西郷陸軍大將外二名衆ヲ師ヒ此ニ至ル然ルニ当縣鎭台名義辯ゼズ城ヲ閉テ逆ヘ拒キ人民ヲ妨害ス其罪甚シ我衆憤怒シ將ニ日ヲ刻シ城中ヲ塵ニセントス然ノモ糟昧脅従ノ輩其事情閔ム可キニ有リ諸々前非ヲ悔ヒ兵器ヲ捨テ来服スル者ハ必シモ其罪ヲ問ス且山鹿髙諸瀬諸道ノ東軍我悉ク之ヲ擊破ス各縣義兵ノ起蜂ハ巣ヲ破ルカ如シ然ルニ公等猶孤城ヲ守リ糧竭キ援堪ヘ危キヿ瞬息ニ在リ公等其速ニ向背ヲ决セヨ

     三月    鹿児島本陳

 

      熊本籠城諸君 

 

是ヲ見テ人臍ヲ噛ンテ笑ハサルハ無シ

【埋門は城域北部にある。薩軍の投降勧告書について。

薩軍は矢文を11日、12日に城内に打ち込んだ。また直接人が持参している。三行目の糟昧脅従ノ輩の糟は原文では左を月にしているがこのような活字がなかった。投降勧告書をもたらしたのは人夫者としている。「薩南血涙史」では「死囚をして書を齎し城中に投ぜしめたり。城兵頻りに銃を發すれども死囚屈せず、終に城中に達することを得たり。」とある。「征西従軍日誌」では「また、夫卒をしてもってこれを送り来せりとなり」とある。

内容は「西南戰鬪日井注附録」・「熊本鎭臺戰鬪日記」・「征西戦記稿」・「征西従軍日誌」・「薩南血涙史」にも略同文が載っているが、この籠城戦誌は全体的に説明が多くなった部分が見られる。この文に対する官軍側の反応について「熊鎭日記」・「戦記稿」は触れていないが、「従軍日誌」では筆者巡査喜多平四郎が上官に対して勧告書に返答したのかと問うと情勢は返答し易くないと答え、書き写そうとすると止めておけ、お前の死体が敵に取られた場合に不都合だから、と言われた。しかし、喜多は秘かに写し取ったと記している。内容が記録によって異なるのは、微妙に異なる何通もがもたらされたと考えたい。】

    仝十二日

暁ヨリ小島ニ当リ軍艦砲声ヲ聞ク午後五時巡査隊長池端某等二人突然隊下數名ヲ引テ突出賊ノ屯所段山ヲツク之ヲ見テ仝隊長モ亦數名突出馳セテ共ニ力ヲ合セ進擊賊能ク防ク依テ大ニ戰フ勝敗ナシ此時夕陽ニ至リ已ニ兵ヲ揚ントスルトキ台兵モ援テ賊ヲ擊ツ砲声山川ヲ動カス夜ニ入進ンテ段山東半地ヲ取ル賊新八幡ノ能塲ニ在リテ防ク官軍是ニ對スル其間五六間官軍ハ僅カノ小楯ヨリ戰フ故ニ死傷夛シ官軍荒手ヲ入替ヘ終夜擊戰止マズ

【小島は熊本城の南南西約5.5㎞にある集落で、そこから海までは3.5㎞である。小島方向の八代海から軍艦の放つ大砲の音が聞こえたのである。この日、たまたま城内北西部の片山邸からの砲弾が段山の人家に命中して火事になり、敵兵数名が逃れ出るということがあった。警視隊の川路・池端両警部は好機会到来とみて十数名で段山に進撃したのが発端となり、両軍とも援軍を出して翌日まで続く大激戦に変化してしまった。官軍は12日の死傷者は34人以上、13日の戦死者40人・負傷者93人を出し、段山から薩軍を追い払うことができた。】

仝十四日ヨリ二十二日ニ至ル

賊各所ノ砲臺ヨリ大砲ヲ射擊スルト旅團ノ砲声ヲ聞クヿハ日々ノ事ニテ記スルニ足ス故ニ畧ス

是日迠ノ間タハ進擊ノ折々且間々兵ヲ出シ糧米ヲ聚メ若干ノ其米ヲ得漸ク餓エザルニ至ル

    仝二十三日

夜已ニ明ントスル頃兵ヲ出シ日向嵜ノ賊ヲ擊ツ賊胸壁ニヨリ防戰スルヲ以テ暫時ニ乄兵ヲ揚ク京町モ亦進擊シ仝様タルヲ以テ同時兵ヲ揚ク

仝二十七日

暁四時京甼ノ賊ヲ擊ツ惣兵ヲ三分シ一手ハ本道ニ進ミ二手ハ左右ニ進ム左翼ハ牧嵜村ニ迫ル已ニ本妙寺ニ登ントス時賊忽チ発炮官軍彼カ胸壁黒門ニ在リ迫リテ大ヲ戰フ此時京甼モ亦戰ヲ始メ賊ノ胸壁ヲ拔ントス三ヶ所ニ築ク(胸壁柳川甼)賊防戰甚タ勉ム時ニ夜未明巡査ノ一隊深ク進テ胸壁ノ後ロニ在リ戰フ知サル故ナリ(胸壁アルヲ)賊忽チ後ロニ依リ発砲ス故ニ驚キ退キ退去ス此時死傷五六人午後ニ至リ胸壁ヲ奪ヒ始メテ手負死人ヲ揚ク是ヨリ暫時大ニ戰フ未タ勝敗决セズ此時大原ニ進ム右翼賊ヲ破リ柳川甼ニ攻登リ賊ノ後ロヲ擊ツ賊狼狽シテ退ク依テ胸壁ヲ奪フ烈戰セシニ惜哉賊之ヲ携ヘ迯ケ去シ跡ナリ(此所大地一門ヲ据タルヲ奪ハレ爲メ官軍)進テ京甼口ニ至ル賊此所ニ大ニ胸壁ヲ築キ殊死シテ戰フ故ニ拔クヿ能ハズ牧嵜ノ戰モ兵ヲ換ヘスニ攻擊スルト𧈧ノモ賊要地ノ胸壁ユヘ終日拔ケズ時日已ニ没ス忽チ牧嵜村一圓所々ヨリ火起リ火光天ヲ蕉シ白日ノ如シ砲声忽チ止ム軍人悉ク兵ヲ揚ク京町本甼入口ニ胸壁ヲ築テ守ル

【京町が盛んに登場する。京町は熊本城北側に隣接する地域で、本来は連続した丘陵地形だが城の防禦のために東西方向の深い堀で区切られている。町は南北約680ⅿあるので決して狭い場所ではない。柳川町は京町の内部、北東部のことらしく薩軍の台場が3基あったという。その北側が京町本丁で、この日は京町北端まで占領しそこに胸壁を築いたのである。】

    仝二十九日

午后京甼ヨリ髙瀬旅團ニ在ル米田虎雄ノ使来ル

     仝三十日

昨夜海軍砲声熾ニ聞ユ又松橋邉小銃砲声甚熾ナリ始牧嵜村進擊スルヤ賊西山ノ手防禦サキヲ以テ又我進擊ヲ恐ル石塘口ノ川ヲ塞キ水ヲ决テ本妙寺田畑ニ水ヲ蓄フ依テ所々水増シ海ノ如シ

【包囲された状態の熊本城を北側から解放しようとする策が進展しないので、3月19日に熊本城の南方に当たる八代海沿岸の日奈久南西にある須口(熊本城の南西約44㎞)に新たに編成した衝背軍を上陸させ、北上中だった。宇土半島の付け根南部の松橋付近まで官軍が北上していたのである。城から松橋までは16㎞、衝背軍は行程の3分の1を残すのみになっていた。4月1日になると薩軍の新たな募兵1,500人を別府晋介・逸見十郎太が率いて、人吉から球磨川を下り八代に来襲しようとしていることが判明した。衝背軍は前後の敵に対応する必要が生じ、北上の勢いは減退した。】

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