西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

討薩戰誌 3

四月一日拂暁原倉ノ官軍大舉シテ吉次峠ニ向フ賊険據リ防禦スルト𧈧ノモ我軍密ニ横山平山ヨリ銃鎗ヲ以テ半コヲ山ノ賊塁ヲ拔ク是ニ由テ吉次峠ノ賊遂ニ守ルヿ能ハスシテ潰奔ス我軍一ハ賊北ルヲ追木留ヲ衝キ一ハ行賊營ヲ焼テ三ノ嶺ノ頂上ニ坂上リ賊第一第二ノ峯ヲ棄テ第三ノ峯頭ヲ固守シテ防戦ス

【官軍は横平山から半コヲ山つまり半高山に攻め入って奪い、続いて尾根続きの低い部分にある吉次峠を攻め、高所からの攻撃に耐えきれなかった薩軍は南側の三ノ岳に退いた。】

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(※半高山を南側の吉次峠から見た風景。左遠景に木の葉山が見える。(「玉東町西南戦争遺跡調査総合報告書」宮本千恵子編から。次も同じ。)

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(※二俣古閑官軍砲台跡出土遺物:筒状の物は大砲の点火装置の摩擦管。輪っかの付いたのは摩擦管に差し込まれた部品で、これに紐を付けて離れた位置から引っ張り砲身内部の火薬に点火、爆発させる。点火後は摩擦管は空中に飛び出す。)

二日三日四日休戰

 

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(※上図は三の岳にある台場跡分布図。図をうまく取り込めないが。黒丸1は官軍、他は薩軍の台場跡。「三の岳の戦跡」古財誠也『西南戦争之記録』第3号から。次も同じ。)f:id:goldenempire:20210314091433j:plain(※三ノ岳の官軍台場跡1。南側の三の岳頂上側を向いて土塁部分があり、内側はくぼむ。背後の小さな削られたくぼ地は休憩所だろう。当時の記録に円塁という言葉が出てくるが、この台場跡のようなものだろう。円形と思うのは間違い。)

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(※同じく三の岳。三つある峯のうち、北部にある。吉次峠方向を向いて造られた薩軍の台場跡3~8。)

五日末明山鹿口ノ兵鳥栖ニ向ヒ賊ノ左翼ヨリ進佐野村田島村ノ賊塁拔キ鳥栖ノ賊ノ本營ニ乱入シ小銃五十挺彈薬貳万発ヲ奪ヒ戰ヒ已ニ八分ノ勝利ナルニ及テ賊石川村方ヨリ紆回シテ吾右翼ノ側面ヲ攻撃スルニ由リ鳥栖ヲ守リ難ク兵ヲ佐野田原ニ退ク

鳥栖には国指定の石器製作跡があり、中央に円墳2基がある。古墳の頂上一帯に薩軍の台場群が残る。縄文時代の石器石材の産地で報告書に西南戦争の名が登場しないところをみると、西南戦争を認識せずに史跡にしたようだ。植木町の古財誠也さんは「とんのす」と言っていた。】

六日暁霧ニ乗シテ各隊ヲ配布シ鯨波ト共ニ髙瀬口正面ノ荻迫村ヲ攻撃シ午後ニ至リ巡査四十名白刃ヲ提ケ賊塁ニ乱入シ殺傷甚タ夛ク胸壁両處ヲ拔ク然レノモ地形不利ニシテ賊紆回ヲ(?)ケ少シク兵ヲ退ク

【荻迫では県道建設の事前調査でこの頃官軍が籠って射撃した跡が発掘されている(山頭遺跡)。道路部分の戦跡はその後工事で深く削られて残ってないが。そこは丘陵地帯にある自然のくぼ地(かつては水が流れて川のように低くなったのだろうが)を利用しており、その幅は10㍍前後・深さ1㍍位であり周辺と共に畑になっていた。発掘場所の土層断面を見ると、くぼ地の底には厚さ50㎝位の耕作土が堆積し、その上面に小銃の弾薬や薬莢が多数分布し、その上に現在に至る表土が堆積していた。これはくぼ地が畑として永年使われた後、たまたま戦闘に好都合だから兵士が体を隠して射撃した痕跡だろう。遺物群の下に50㎝も土層が堆積しているのは、このくぼ地が西南戦争時に掘られたのではないことを示している。軍事専門家がこれを工兵隊がすべて造ったと理解し、公表しているのには驚いたが。このくぼ地には所々土俵でも積んで土塁状にしたらしく(土塁はその後の農作業の邪魔になるから撤去されているが)、その内側に薬莢が帯状に密集して出土した。推定土塁の片脇には遺物空白域があり、ここは出撃や堀畑内の通路として利用したと考える。f:id:goldenempire:20210314115751j:plain

七日山鹿口ノ官軍鳥ノ栖ヲ攻撃シ幾ント鳥ノ栖村ニ迫ル

 

八日天色猶暗黒ナルニ乗シテ荻迫口邉田野口進撃シ木留口ハ三ノ嶽ノ半服ヨリ邉田野村ノ右ノ山ニ據ル處ノ賊ヲ襲フ遂ニ賊ノ胸壁ヲ然レノモ賊亦来テ之ヲ復シ吾軍少シク退テ之ニ對シ激戰ス荻迫口モ胸壁二ヶ所ヲ取リ大砲ヲ以テ荻迫村ノ人家数戸ヲ焼ク今朝ヨリ熊本城兵破烈弾丸ヲ以テ城北ノ数所ヲ焼キ焰煙天ニ漲リ砲声終日絶ズ熊本ノ近況ハ賊髙麗門外ニアル寺院ノ石塔ヲ以テ石塘口ニテ壷井井芹両河ノ合流ヲ塞キ留メ大水ヲ以テ牧嵜田畑寺原田畑ヲ侵シ熊本ヨリ西方ニ及ヒ東北ノ通路ヲ絶チ城兵ボ突出スルヲ防キ城ヲ囲ムノ兵ヲ减シテ新兵ヲ南北ニ出シテ一ハ八代口ニ上陸スル官軍ニ当ラシメ一ハ植木口ヲ應援セシメ而乄川尻ノ病院ヲ御船ニ移シ出町縣ヱモ始メハ賊ニ与スル者凡貳千余人ナリシカ元知事細川護久ケヨリ説踰ノ書翰来ルヲ見テ非ヲ改ムルモノ少ナカラス或ハ勢ヲ勢察シテ退キ或ハ戰死シテ自今ニ至リテハ其数僅ニ七八百ニ過ギズ旧知事ケモ縣士ノ頻ニ不義ニ陷ル者アルヲ憂ヒ先日再ヒ人ヲ熊本ニ遣シテ大義名分ヲ正シテ懇ニ説踰セシメタルニヨリ過ヲ悔ヒ正皈スル者アリト𧈧ノモ新ニ賊ニ與スルモノ更ニ壱人モ無ト云又縣下ノ人民賊ノ為ニ大ニ憾害ヲ蒙リ怨嗟ノ声絶ヘス日々王師ノ至ヲ渇望スル勢ナリ

【ここまでの記述は熊本城を目指して南下したいわゆる正面軍に関する記述である。討薩戰誌は主に戦況を記しており、原文筆者の個人状況に関する記述がほとんど見られないのが特徴である。川をせき止めて熊本城の周囲を湖のようにした件は「征西戰記稿」と「明治十年戰争日記」(小川又次肉筆・高橋蔵)の3月19日に登場し、「薩南血涙史」では3月26日のこととしている。小川は「賊花岡山下ノ河流ヲ□(※この字は後刻の添付写真参照)ス爲メニ嶌﨑及野砲営前面ノ田畑流水溢レテ湖水ノ如シ」とある。「西南の役見聞記(吉田如雪正固遺稿)」では3月27日の記事に「昨日より石塘下祇園ノ際を磧を置きて小川を塞ぐ」とあり、血涙史と一致する。もう一つ、「一巡査の西南戦争 征西従軍日誌」では3月29日にこれに触れている。以上のどれも本文のように「髙麗門外ニアル寺院ノ石塔」を利用したことは記さない。】

四月六日髙瀬発翌七日宇土本營着其以来同月十三日迠本地景况四月三日賊魁別府新助逸見十郎太等賊兵凡一千五百人ヲ卒ヒテ人吉ヨリ大口ニ出テ八代ニ向フテ両道並ニ進ムカン為メ曩ニ鹿児島ニ至リ徴募スル所ト云フ(逸見十郎太別府新助ノ兵ハ我軍後ヲ衝)偶八代ヲ護スルノ官軍一中隊坂本ニ至ル次スルヲ聞キ突然衝キ来ルニヨリ吾並衆寡敵セス且地利不便ナルヲ以テ一旦小川ニ退キ宮地ニ屯在スル処ノ一中隊及ヒ他ノ二中隊及ヒ他二中隊警ヲ聞テ趣キ援フ故ニ賊一時披排スト𧈧ノモ此夜再ヒ来リ迫リ官軍頗ル苦戰

【此の日の記録には原文筆者の動向が記載されている。4月6日に玉名市高瀬を発って翌日宇土の官軍本営に到着。】

仝七日ニ至リ賊尚ホ進テ止マス八代甚タ危シ之ニ由テ我兵賊右翼ニ紆回シ大ニ之ヲ側擊ス是ヨリ先キ八代ノ士族ヲ募リテ該地ノ警備ニ供ス此日台兵ヲ合シテ奮闘賊ヲ仆スヿ多シ賊遂ニ敗レテ大口ヲ指シテ走ル此日川尻口ノ賊川尻ヲ渡リテ六彌太ヲ襲フ我憤激シテ之ヲ敗ル又賊ノ左軍河堤ヲ潜回シ雁回山ニ登リ我中軍ヲ襲ハントス然レノモ豫備スル処ノ官軍山上ヨリ擊ヲ之ヲ走ス

【六彌太は熊本市富合町の緑川支流の浜戸川を渡る場所にあり六彌太渡とも呼ばれた。南側の廻江から杉島に渡る地点である。六彌太から南方の雁回山、別名は木原山頂上までは3.5㎞程である。】

仝八日熊中城糧食既ニ乏シク且援兵ノ形狀ヲ詳カニセサルヲ以テ奥少佐一大隊ヲ師ヒテ圍ヲ衝テ間道ヨリ宇土ニ出ス城ヲ囲ムノ賊其不意ヲ襲ハレ狼狽防クニ遑アラス城兵死スル者僅ニ二名ナリト因テ城中ノ確情ヲ得タリ

【熊中城糧食既ニ乏シは熊城中糧食ニ乏シの誤記だろう。】

十三日惣軍進撃右軍ノ先軍ハ邉塲及ヒ吉田ヨリ河ヲ渉リ進撃河堤之賊ヲ扣全軍尾撃直ニ御船ヲ衝ク賊支ルヿ能ハズ火ヲ放テ走ル右軍遂ニ御船及ヒ犬塚山ヲ取リ哨兵ヲ嚴ニシテ之ヲ衛ル賊二名屠腹火中ニ投シテ死ス面白焼爛スルヲ以テ其姓名ヲ得ズトモ必賊魁ノ内ナランカト云夜ニ及ンテ賊来テ我軍ヲ襲フ我兵撃テ之ヲ走ラス中軍ハ六彌太ゟ十二斤アルムストロング砲廿拇臼砲及ヒ數門ヲ以テ河尻町ヲ砲撃ス賊大ニ苦ム左軍ハ大曲ゟ河ヲ渉リ進ンス新川ニ至ル賊豫メ河堤ニ據テ土塁ヲ築キ我兵ヲ狙撃ス我兵奮闘数回ニ及ノモ地利大ニ不便ナルヲ以テ向岸ニ達スルヿ能ハズ由テ其夜戰闘線ニ營ス

【北上する衝背軍の記事である。犬塚山は「西南戦争の流れを変えた緑川・御船の戦い」(吉本昭三郎)挿図で緑川と御船川の合流点の内側、南東から北西に走る道路の東側とされている。地理院地図では万ヶ瀬という集落があるが、この付近は標高16m前後しかなく、山といえる状態ではないが位置比定は正しいと思う。4月13日、薩軍の三番大隊長だった永山弥一郎は御船で官軍の進撃を防御できず、農家を買い取って家に火をつけて自殺した。大小荷駄の税所佐一郎も行動を共にしている。死体の記録は他には知らない。六彌太ゟ十二斤のゟはヨリと読む。】

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(※犬塚山の位置)

十四日左軍ハ小舟數十ヲ住吉ノ津ニ浮ヘ海路ヨリ二丁ヲ襲フ形狀ヲナシ全軍直ニ中央ヨリ新川ヲ渡リテ進ム賊支フルヿ能ハスシテ去ル之ニ由テ我軍終ニ川尻町ヲ略取ス賊軍益狼狽シ我軍奮戰殆ント無人ノ境ヲ行ガ如シ午后三時山川中佐一中隊ヲ卒ヒテ遂ニ熊本城ニ達ス右軍ノ先軍モ亦江津川ノ堤ヲ遡リ行々賊兵ヲ敗リ水前寺口ヨリ遂ニ城中ニ達ス

【「玉名歴史」92号に載せた別働第四旅団所属岩尾淳正の従軍日記に住吉から二丁を襲おうとした件が登場する。二丁を襲うふりをした偽計ではなく、多数の小舟を集めて進軍したが川の中ほどまで来たとき対岸から銃撃され小舟を漕ぐ民間人が負傷し、その他の者が怖じ気づいて引き返したと書いている。もともと岩尾らの部隊は長崎から宇土半島北岸に上陸しここで初めて戦闘に加わっており、別働第四旅団とはいうものの八代から北上したほかの構成部隊とは違う。】

十五日總軍熊本ニ入ル是ヨリ先キ城下四民ノ邸宅兵燹ニ罹リ畧盡クルヲ以テ大兵ヲ合スルノ地ナク本營ヲ川尻ニ置ク十五日植木口ノ賊モ亦悉ク木山ヲ指シテ走ル該道ノ官軍進撃遂ニ熊本城ニ達ス城中賊ノ圍ヲ受シヨリ五十有五日ニシテ圍始メテ解ク賊軍ハ悉ク木山ヲ經テ矢部ニ遁ルト云フ是ヨリ先キ八代已ニ無事ニナルヲ以テ守兵残シテ全軍川尻口ニ向フ此夜八代口甚タ苦戰熊本城連絡既ニナルヲ以テ直ニ数隊ヲ派シテ八代ヲ援フ未タ其勝敗ノ報ヲ得ズト𧈧ノモ熊本ノ賊敗走スルニ依リ該地ノ賊モ自ラ走ル■シ

球磨川下流域(猫谷・川谷・宮地・古麓・今泉山・遥拝山・龍ヶ峯など八代市街の東側の山地)では薩軍が退かず、官軍は交代部隊を派遣する余裕ができたものの弾薬補給ができなかった。】

四月九日荻迫口植木口休戰午後辺田野ノ山上及ヒ高林ノ賊塁ヲ進擊シ大砲ヲ以テ林中ノ人家ヲ放火シ 木台塲ト名クル所ノ胸壁ヲ拔ク然ノモ之ヲ守ルノ道ナク兵ヲ始メノ線ニ退ク同夜山鹿口ノ官軍隈府ノ賊ヲ破リ之ヲ取ル此戰ヤ賊ノ敗ルノミ先タチ密ニ三軍ヲ紆回セシメ伏兵ヲ設ケテ賊兵隈府ノ後ロナル一ノ石橋ヲ見テ之ヲ狙擊ス故ニ賊ノ横死山ノ如ク流血川ヲナス云

【一字空白がある。此の日、山鹿市の南東にある菊池市市街地の隈府から薩軍が撤退した。】

十日終日大風雨休戰滴水村ノ前面ニ柿木台塲ト名タル一ノ胸壁アリ賊ト相距ルヿ五間或ハ十間ニ過ス其距離ノ接近ナル胸壁ヲ隔テ互ニ談話スベシ賊ノ守兵甚タ多カラズシテ之ヲ拔ク手ヲ反スヨリ易シト𧈧ノモ其後ロニ又一ノ堅壁アリ之ヲ取トモ守リ難キヲ以テ敢テ之ヲ攻ス只我胸壁ヲ髙クシ賊ヲ眼下ニ見下シテ其頭上ヨリ狙撃スルニ由リ賊亦急ニ土俵ヲ積ミ上ケ我高塁ニ對ス然ノモ官軍再ヒ土俵ヲ築キ賊遂ニ守ヲ棄テ去ル

【第一旅団の10日の戦記に「荻迫村ニ一ノ柿樹アリ初メ賊之ニ拠ル後チ官軍之ヲ奪フ賊中之ヲ呼テ柿ノ木台塲ト云フ最モ著名トス賊ノ之ニ拠ルヤ固フシテ拔ケス官軍對壕ヲ穿チ進ム彼我ノ距離二十米突ニ過キス我工兵作業中僅カニ頭首ヲ顕ハス者アラハ皆賊ノ狙擊スル所トナル故ニ死傷夛クシテ甚タ苦シム又昼夜彼我舌戰アリ」(C09083521600第一旅團戦闘景況戦闘日誌(防衛省防衛研究所)0651)。荻迫の山頭戦跡で幅10m強の長い塹壕を、官軍が激戦の最中に造ったというのは如何に現実離れしているかが理解できよう。

十一日休戰

 

十二日映晴未明鳥栖ヲ進撃ス一軍ハ上生(アブ)古閑ノ方ヨリ進テ鳥栖ヲ衝キ一軍ハ小野口ヨリ進テ石川山ヲ取ントス然ノモ賊ノ防戰劇シクシテ午前九時頃兵ヲ退ク此日賊ノ擊ツ所ノ小銃二発シ一発ハ空砲ナリト云フ荻迫口ハ昨夜賊陳ニ進撃ノ気アルヲ察シ我軍警備ヲ嚴ニシ竢ツ處ニ未明ニ至リ賊軍喇叭ヲ吹キ金鼓ヲ叩キ一声打方ヲナシ我胸壁ニ迫ル我軍忽チ之ニ應シ仝シク進軍ノ喇叭ヲ鳴シ郡銃雨ノ如ク発ス是故ニ賊辟易シテ進撃ヲ止ル

 

十三日休戦夜ニ入テ西山ノ賊川尻口ノ敗ヲキゝ纔カニ哨兵ヲ留メテ退散ス此日熊本ノ方ニ当リ大小砲声終日絶ヱス輜重(此日)ヲ(官)取(軍)纏(戯)メ(大)居(砲)タル(四)故(五)我(発)大砲(ヲ発)ノ音(シ鯨)ヲキ(波ノ)ゝ(声)之(ヲ)ヲ(揚)進軍(ケ此)ノ(時)合圖(賊明)ト(日)疑(兵)イ(ヲ)非常(引揚)ニ(ン)狼狽(爲ニ)シタル由シ

【西山とは熊本城から見て西方にある山だろう。】

十五日午后鳥ノ栖植木木留諸口賊皆木山方エ退兵ス我軍三道並ヒ進ミ追撃スト𧈧ノモ及ハス僅カノ賊兵ト境ノ捨及ヒ暮ノ坂ニ相戰ヒ忽チ之ヲ破リ先軍同夜熊本ニ入ル

【14日遅くか15日に北部地域にいた薩軍に、八代から北上した衝背軍が熊本城に入ったという報知がもたらされ、薩軍は一斉に撤退し始めた。午後一時植木・荻迫・鐙田・木留・万楽寺・辺田野から三ノ岳・大多尾越(三の岳のすぐ南側の峠)に至る薩軍の陣地から黒煙が天に漲り、各地で官軍が斥候を出して偵察したところ薩軍の姿が消えていたので官軍は一斉に前進し始めた。】

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十六日惣軍進テ熊本城ニ入ル又二隊ノ官軍両道ヨリ大津ニ迫ル一軍ハ杉水ヲ過キ少シク進ム所ニ賊我右翼ヨリ横矢ヲ入レ其機會ニ乗シ左翼ヨリ切リ入タルニヨリ官軍頗ル苦戰ニテ初ノ線ニ退ク又一軍モ大津ヲ指テ進ム所ニ賊両方ノ山上ヨリ夾擊シタルカ故ニ支ヱ難ク同シ初線ニ退ク

【杉水は菊池市隈府と大津町の中間。隈府にいた野村忍介率いる薩軍が移動してきていた。】

十七日十八日休戰

【4月20日に城東会戦と呼ばれる戦闘が東は大津町、西は御船までの広い地域で行われた。これは両軍が初めて全兵力で衝突した戦いであり、次に同様の戦いがあったのは8月15日の宮崎県延岡市和田越一帯の戦いだった。討薩戰誌は城東会戦で終わる。】

 于時明治十年十一月六日(※時に明治・・・)

 晩暮ニ及ンテ寫之畢(※之れを写しおわんぬ)

 

        北村正人印寫之

北村正人氏と同名の人が一件だけアジ歴で検索出来た(「明治36年 叙位裁可書 叙位

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巻十」A10110129600)。それは内閣総理大臣桂太郎が「陸軍歩兵特務曹長勲八等大西今太郎以下十五名叙位ノ件」を奏上した明治36年の文書である。これにより当時彼が警視庁警部だったことが分かる。添付された履歴書(冒頭を掲載した)によると、北村正人氏の出身地は熊本県下益城郡下郷村であり、明治11年1月に四等巡査に採用されている。前年の西南戦争中は警察に勤務してなかった。しかし、明治13年には「鹿児島賊徒征討之際盡力候ニ付為其賞金貳圓下賜候事」とあるように戦争中は官軍側に立って何らかの尽力をしたのである。今のところ彼が写した元の史料を誰が記述したのかはわからない。

そもそも籠城日誌と討薩戰誌を作成したのが同一人物かどうかも不明である。討薩戰誌には筆者の行動をうかがえる記述が存在する。4月6日に高瀬を出発して7日に宇土本営に到着したという部分である。熊本城の囲みが解けたのが4月14日だから、籠城していたのなら4月6日に高瀬にいるわけがない。とすれば、二つの記録は別人が作成したということになる。籠城日誌では残り少なくなってゆく食料の詳細な記録が何度も見られ、一般兵士や籠城した家族では知り得ない情報だろう。

薩軍の新募部隊約1,500人が球磨川経由で八代を南から衝いている時、兵数不足の衝背軍に対して正面軍は第一旅団の二個中隊を6日に派遣した。永田少佐・井上少佐・村井中尉が率いている。別に一個中隊を八代市鏡町に派遣した。これらに討薩戰誌の原文作者が混じっていたのではないだろうか。

 

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