satsumareb’s diary

これは高橋信武が書いています。

第七聯隊第一大隊西南戦記綴(5月)

(戦記は5月4日から月日を本文の頭に書くように変更になっており、転写の間違いではありません。少しずつ説明を加えていきます。印刷の場合、印刷してしまえば補正できないが、この場合は何度でも訂正・追加できるのがいい、という考えでやっています。)

    五月一日

夜間第二大隊ノ哨線右翼ノ方ヘ援隊トシテ第一中隊ヲ出ス人民稍荷檐遁鼠スルヲ見ル

 鹿児島市内は5月3日までに「居民ハ妄リニ疑懼ヲ懷キ或ハ兵線燹ニ罹ルヲ怖レ四方ニ逃遁スル者日ニ幾千人市街忽チ人跡ヲ絶ツ」(「戰記稿」)状態となった。

    五月二日

大哨兵ヘ第三中隊ヲ出ス(右翼ノ方ヲ受持)夜間ハ第二中隊ヲ援隊トス

午後十二時三十分第四中隊ヲ西田町通リ横井近傍マテ行軍セシム帰路ハ適冝迂路ヲ取リ帰ル異状ナシ

午後第九時戒厳ノ命アリ左ノ如シ

加治木ヘ千人蒲生ヘ二百人程賊入込ノ報アリ故ニ軍艦ヲ差向ケラレ海路ヨリ動声ヲ窺ハシメラル

賊若シ襲来スルトモ今夕ノ方策ハ現ニ保守スルトコロノ胸壁五ヲ嬰守スヘキヲ以テ展眸ト乄出シタル甲突川端ノ兵ハ啻ニ本軍ノ凖備スベキ時間ヲ支ヘ引揚ベキナリ

哨線内ヘ潜行巡察ヲ出ス

人民ノ遁去スルモノ既ニ夛シ嶋津家ヘハ賊ヨリ立遁キヲ言入タリト云

    五月三日

大哨兵ヘ第壱中隊ヲ出ス夜間ハ第四中隊ヲ援隊トナス

此日中尉石川昌世ヲ大尉ニ少尉試補内山功林従順ヲ少尉ニ任ス中尉岡千仞ヲ副官ニ課セラル

 第四旅団(2日時点の総員は3,414人)が鹿児島に到着し、4日から城山の岩崎谷から多賀山・鳥越から海岸までの守備を始めた。

五月四日天曇之ヨリ先キ諸道ノ官軍既ニ熊城ノ囲ミヲ解キ軍勢大ニ振又賊等頻リニ破レ官軍追擊スルヿ甚タ急ナリト賊亦官軍ノ鹿児島ニ入ルヲ聞テ師ヲ班シ将サニ来リ囲マントスルノ報ヲ得既ニシテ而乄賊ノ先鋒近郷ニ達スト則チ本日午前第九時三十分第三中隊ヲ斥候トシテ敵状ヲ探ラシム稍々アリテ帰リ其ノ異状ナキヲ報ス而乄正午十二時第二中隊ヲ大哨兵ニ第三中隊ヲ援隊タラシメ然リ而テ哨兵線地形悪シキヲ以テ急ニ哨兵線ヲ甲突キ河ノ川岸ニ側フテ伸張シ第三中隊ヲ増加シテ益備ヲ嚴ニシテ守ル而乄亦第四中隊ヲ援隊トナシ之ニ随テ大隊本部ヲ仙石馬塲ニ轉移ス

 仙石馬場は千石馬場のことで、西田橋に隣接する東側の地域。5月6日部分に地図を示すので参照して頂きたい。

五月五日天曇此ノ日午前第四時頃賊暁霧ニ乗シ我左方隣線ヘ襲来ル砲声最モ烈シク殊ニ喊聲雷ノ如キヲ聞キ之ニ應シテ益守リヲ嚴ニシ戦数時ニシテ賊敗走ス既ニシテ而乄賊数十名許我前面田畝ノ間ニ出沒スルヲ發見シ我兵ヲシテ射擊セシム然レ共巨離甚タ遠クシテ敢ヒテ功ナシ此ニ於テ各部隊持受ケノ部署定マリ神勘𣘺(※新上橋)ヨリシテ下西田𣘺マテ右半大隊定例二十四時間ヲ以テ各中隊交代ヲナシ其假番ノ部隊ヲ以テ援隊トナシ而テ大隊本部ヲ神馬塲ヨリ通リニ移シテ以テ緩急之ニ應スルノ便ヲナス

 鹿児島に来て初めて薩軍の攻撃を受けたが、これは別働第一旅団ではあるが、茨木の持場ではなく隣の守備隊の持場であった。薩軍が攻めたのは新昌院谷と草牟田の両方からだった。

五月六日天晴ル本日右翼第二中隊左翼第三中隊ヲシテ交代セシム第一第四中隊左右援隊タリ先キ我使フ処ノ課(※諜)者帰リ来テ賊状ヲ報ス明暁ヲ待テ襲来スト此ニ於テ益警戒ヲ嚴ニシテ之ヲ守ル既ニシテ賊襲来セス

f:id:goldenempire:20210602151413j:plain

    上図は5月6日段階の官軍による鹿児島防禦図。部分拡大して下に示す。

f:id:goldenempire:20210602151700j:plain

 城山の西半分は守備範囲外になっている。私学校の右下に細長いのは琉球館。

五月七日天晴ル右翼第一中隊左翼第四中隊ヲシテ交代セシム第二第三中隊援隊タリ此ノ日輜重及ヒ小繃帯所ヲ天神𣘺ニ移ス

 本戦記には記載がないが、4月27日に旅団に合流した独立第一・第二大隊の甲突川の持場に薩軍600人程が襲来したが撃退している。

五月八日天晴ル此ノ日右翼第一中隊左翼第四中隊ヲシテ交代セシム第二第三左右援隊タリ之ヨリ先キ第四中隊長児玉通良肥后國松𣘺戰争ノ際銃創ヲ被リ爾来病院ニ入テ治療シ創疾既ニ癒本日帰隊ス

五月九日天晴ル大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシメ第二中隊第三中隊援隊タリ之ヨリ先キ第四中隊二等兵卒原與作四月十七日肥後国八代ニ 於テ古麓村進擊ノ際軍人ノ態度ヲ失ヒ處スル所アラントシ口供ヲ取テ聯隊ヘ護送ス此ノ時仝中隊軍曹中島修藏仝兵卒石川京松ナル者原與作ノ所為ニ関渉スルヿアルモ敢ヘテ其罪ナキヲ以テ呵許セラル第一中隊伍長稲田忠行第四中隊兵卒敦賀才次郎先キニ肥後路ニ於テ戰争ノ際銃創ヲ被リ爾来病院ニ入テ治療セシム創痍既ニ癒ヘテ此日帰隊ス

五月十日天晴大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ナサシメ第一中隊第四中隊援隊タリ第二中隊伍長(黒塗り)第四中隊伍長(黒塗り)去ル明治九年中軍律ヲ犯シテ☐等セラル然レ共爾来大ニ悟ル所アリテ專ラ職務ヲ體認シ何レノ日ヲ立功償罪ノ念夙ニ脳裏ニ侵入シ幸ニシテ今日ノ役ニ投シ十年憤怒一劔ニ漏シ終ニ其ノ積志ヲ達シ功ヲ以テ其罪一等ヲ减セラルヽヿヲ得第三中隊兵卒歩哨勤務中軍人ノ職掌ヲ誤失シ故ニ口供ヲ取テ聯隊ヘ何分ノ處置伺ヒタリ此夜援隊トシテ少尉吉松直枝一小隊ヲ率ヒ来リ而シテ賊夜ニ乗シテ進擊ノ勢アリト之レニ依テ應スルノ凖備ヲナセリ

五月十一日天晴本日大哨兵交代時限更ニ午前第十時ト定メラル大哨兵第一中隊第四中隊援隊第二中隊第三中隊タリ此日旅團本陣ヨリ酒肴送ラレ之ヲ哨線ニ配與シテ累日ノ戦労ヲ慰サム

五月十二日天晴大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ナサシメ第一中隊第四中隊援隊タリ爾来大哨兵交代更ニ午前第八時ト定メラル之ヨリ先第二中隊兵卒(黒塗り)第四中隊兵卒(黒塗り)軍人ノ體度ヲ失ヒ犯罪ノ作業其罪遁レ難キヲ以テ裁判課ヘ逓送セラル

五月十三日天曇此ノ日大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代セシム第二第三中隊左右援隊タリ而シテ大隊本部ヲシテ鍛屋町通天神馬塲ニ轉シ緩急叓ニ應スルノ便ヲナシ第二中隊兵卒(黒塗り)先キニ裁判課ヘ送致セラレ其犯罪ノ處業軍律ニ當ラサルヲ以テ本隊ニ於テ停住申付ラル 

五月十四日雨降ル大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ヲナサシム第一中隊第四中隊援隊タリ第三中隊兵卒(黒塗り)先キニ犯罪アルヲ以テ裁判課ヘ護送セシム而シテ此日第壱中隊ヲ斥候ト乄谷山村ニ遣ハシ敵状ヲ探ラシム路上僅カニシテ谷山村ニ至ラントシ賊先キニ之レヲ望見シ火ヲ民家ニ放チ戦ハスシテ遁レ去ル帰報時既ニ午後六時三十分ナリ

五月十五日天曇大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシム第二第三中隊援隊タリ

五月十六日天晴大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ナサシム第一第四中隊援隊タリ此ノ日第二中隊兵卒(黒塗り)猥リニ人民ノ所有金ヲ私シ加之人部等ノ如キ賤夫ト賻奕スルノ科ニ依リ一等懲罰ニ處セラル皆戴罪服務タリ

五月十七日天雨大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシム第二中隊第三中隊援隊タリ此ノ日酒肴ヲ配與シテ数日ノ軍務ヲ慰サム

 この酒肴とは、前日に勅使東久世侍従が各旅団に慰問として配ったものである。

五月十八日天晴大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代セシム第一中隊第四中隊援隊タリ開戦以降死傷ノ人員簿ヲ聯隊ヘ致シ先キニ第三中隊兵卒群立ヲ犯スノ科ニ依リ除隊ノ上徒刑三年ニ處セラレタリ此ニ於テ各兵卒大ニ軍人ノ名誉ヲ害スル最モ懼ルヽ處アリテカ其奮勵前日ニ比スレハ実ニ百倍ヲ加フト恐クハ夫レ必シモ大ニ悟ル処アルナルヘシ嗟☐隆恩ナルカナ苟モ人臣トナツテノ危難ノ間ニ處シ誰カ天皇陛下ノ為メニ死力ヲ致シテ逆賊ヲ討セサル者アランヤ況ヤ如此ノ賜ヲ受ル者ニ於テヲヤ此ノ日賊頻リニ大砲ヲ放チ官軍亦之ニ應ス砲戦数時ニシテ休ム

 この日薩軍は鹿児島在陣の官軍の周囲を囲み、巨砲数門を武大明神の丘、二本松、タンタトウの上に置き各所を砲撃している。

五月十九日天晴大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシム第二中隊第三中隊ヲシテ援隊タラシム

五月二十日天曇大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ヲナサシメ第一中隊第四中隊ヲシテ援隊タラシム既ニシテ児玉大尉先キニ傷処ノ銃創再ヒ発シテ病院ニ入ル

五月二十一日天晴ル大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシメ第二中隊第三中隊ヲシテ援隊タラシム此ノ日ヨリ援隊ノ半ヲ健康保護ノ為メ散歩ヲ許サル

五月二十二日天晴ル大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ナサシメ第一第四中隊ヲシテ援隊タラシム先キニ島津氏後代ノ寶刀紛失シタト此ニ於テ各中隊詮議取調ノ命下ル

五月二十三日天晴ル大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシメ第二中隊第三中隊ヲシテ援隊タラシム

五月二十四日天晴ル此ノ日第二中隊長大川矩文等竹村進擊ノ命ヲ奉シ此ニ於テ午前第二時兵ヲ軍門ニ勒シ凖備整テ而シテ先ツ発ス時ニ夜甚タ暗黒ニシテ道路咫尺ヲ辨セス諸兵牧ヲ含テ間道ヲ進ム既ニシテ賊ノ塁下ニ迫リ火ヲ民家ニ放チ不意ニ乗シテ仰テ攻ム烟々空ヲ蔽ヒ勢雷電ヲ覆ス賊守ヲ撤シテ山上ニ遁ル而シテ賊亦急ニ散兵ヲ以テ之レヲ拒ク飛弾雨注ノ如ク我兵輙スク攀チ登ルヿ能ハス而乄亦官軍遥ニ大砲ヲ発シテ我軍勢ヲ援ク然レ共賊頗ル要領ヲ得テ敢テ退屈セス益々兵ヲ増シテ我道路ヲ絶ントスルノ勢アリ官軍最悪シ矩文等又兵ヲ引テ帰ル時ニ午后第四時ナリ此ニ於テ酒ヲ営前ニ縦テ戦労ヲ慰サム

 最後の行にある矩文は第七聯隊第一大隊第二中隊長大川矩文大尉のことである。しばしばこのように姓ではなく名が出てくるので、本戦記は各中隊長の戦記をそっくり含んだ部分が多いに違いない。「戰記稿」では「午前三時五十分諸道一薺ニ進ム」とあり、本戦記に登場する部隊に限ると、第二中隊は右翼が西田橋より本道、中央が高麗橋より武岡の麓に進路を定めていた。砲隊は高麗橋と武橋の各大砲が応援の射撃を行った。最終的には武村背後の山を麓から進撃しようとしたが薩軍の猛烈な射撃を受けて退却しており、別働第一旅団の戦死は永田少佐を合わせ32人だった。

 この日の戦闘は午前7時までだったとあり、戦記の記述とは異なる。

五月二十五日天晴ル大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシメ第二中隊第三中隊ヲシテ援隊タラシム午前第三時第四中隊其ノ一小隊ヲ遣シテ賊状ヲ探リシム仝四時三十分帰隊ス

五月二十六日天晴ル大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ナサシメ第一中隊第四中隊ヲシテ援隊タラシム

 官軍は台場の修繕のため付近の山から竹を伐採していた。

  別働第一旅團ハ胸壁修繕ノ爲メ午前九時若干兵ヲ涙橋近傍ニ出シ竹ヲ伐ラ

  シム時ニ賊突然歸路ヲ遮ル我兵寡少ニシテ頗ル危シ急ニ若干兵ヲ出シ赴援

  セシム賊復タ戰ハス蹤ヲ晦シテ去ル我下士卒二名輕傷ヲ受ケ小銃九口ヲ失

  フ(「戰記稿」)

五月二十七日天晴ル大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシメ第二中隊第三中隊ヲシテ援隊タラシム小繃帯所ヲ仙石馬塲通リヘ轉ス

五月二十八日天晴大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ナサシメ第一中隊第四中隊ヲシテ援隊タラシム

五月二十九日天晴ル大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシメ第二中隊第三中隊ヲシテ援隊タラシム

五月三十日天晴大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ナサシメ第一中隊第四中隊ヲシテ援隊タラシム此ヨリ先キ第四中隊附島村少尉試補三月二十八日肥後ノ国松𣘺ニ於テ戦争ノ際銃創ヲ被リ爾来長﨑病院ニ於テ創痍ヲ治セシカ創痍既ニ癒テ此日帰隊ス

五月三十一日天晴ル大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシメ第二中隊第三中隊ヲシテ援隊タラシム