西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

「籠城日誌 討薩戰誌 全」1・2

 

 

 手元にある西南戦争に関する写本を何回かに分けて紹介します。和紙に木版画の方法で青い罫線を入れたものです。各頁の写真を付けておきます。本文は毛筆で書いているようです。二つに折った紙を綴じた袋綴じという冊子で、表紙から裏表紙まで数えて全部で52頁、表紙の寸法は縦24.7cm、横16.2cmです。 写本の前半を占めるのは籠城日誌で、熊本鎮台が置かれていた熊本城で、1877年(明治十年)の西南戦争の際に籠城した官軍側の立場で書かれたものです。後半部は討薩戰誌で、熊本鎮台救援に駆け付けた官軍がかかわった戦闘に関する記録です。

 西南戦争西郷隆盛が率いた薩軍約15,000人が2月15日から17日にかけて鹿児島を出発して東京を目指す途中、熊本鎮台が籠城しゆく手を阻み西南戦争が始まりました。戦いは2月から4月は熊本県中部と北部で行われ、4月下旬になると薩軍熊本県中部から撤退し南下したため、5月は県南部と鹿児島市周辺、さらに薩軍の一部が宮崎県経由で大分県に侵入したため大分県内も8月中旬まで戦場になりました。宮崎県内では8月下旬まで、鹿児島県内では9月まで戦闘が続き、24日の鹿児島市城山の戦いで戦争は終了しています。

 

 

本書は肉筆であるため、現在使わない字や、現在の目からは誤字ではないかとみられるものもあります。当時は「何々して」というのを「何々乄」と書いたり、「事」を「ヿ」あるいは「叓」と記したりしていました。また、本文には句読点がないのもそのままとしました。日々の記述本文の直後に、他史料との比較と解説を【】内に太字で加えて進めてゆきます。史料紹介だけでも価値はあるが、多少の説明もあった方が理解しやすいのでこのような体裁にします。日々の記述本文だけを読んで頂いても結構です。

「籠城日誌 討薩戰誌 全」

籠城日誌

    二月十四日

薩賊国境ヲ出シ報アリ軍人盡ク籠城

仝 十八日 

午後二時号砲三発シテ閉城ヲ心得シム此時賊之先鋒日奈久ニ有リ賊城中ニ使ヲ送ル樺山中佐應接

【号砲の記録は別(「西南戦争 隈岡大尉陣中日誌」)にもあるが、それが3発だったことがこれでわかる。「征西戦記稿」では鹿児島県庁が派遣した西郷以下の上京の趣旨を告げる使者(専使という)が熊本城で参謀長の樺山資紀中佐と面接したのは19日とされる。翌日の出来事を前日に記録できるわけがないので、この史料は後日手を入れて誤記したものであろう。】

     仝 十九日

午前十一時城中俄然トシテ火起ル折シモ西風烈シク遂ニ火ヲ防クヿ能ス諸城盡ク灰盡トナル唯宇土櫓ヲ残ス已此時所貯ノ糧米モ盡ク焼失依テ四方ニ人ヲ馳セテ粮米ヲ購求ス此日ノ夕ヘ東京巡査二百余人来着亦賊千五百程川尻甼ニ来ル報有リ此日熊本城中一円類焼

【19日、西郷以下は鹿児島賊徒とされ征討命令が出され、その知らせは電報で届いた。加藤清正の築いた熊本城の建物のほとんどはこの火災で焼失した。城からの延焼もあるが、官軍は城下町が薩軍に利用されないように火箭(かせん・ロケット)なども使い焼き払った。】

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仝 二十一日

午前巡査三百余人長嵜出兵ノ分レナリ并ニ小倉營ノ兵三百余名来着城中四方砲臺胸壁盡ク凖備各兵ヲシテ之ヲ守ラシム而シテ城外周圍ノ諸橋ヲ絶チ城兵凡ソ二千五百其余人夫共ニ三千人午後薩賊ノ巡査隊来リ船塲橋ヲ架セントス我軍砲擊シテ之ヲ退ク此日京町新甼盡ク兵火ニ罹ル

20日夜12時、東京警視隊(綿貫少警視)400余人が入城。九州北部の熊本鎮台小倉分営には第十四聯隊(乃木希典少佐)が配置されていたが、乃木は山縣有朋陸軍卿の命により2月11日にその一部を福岡県久留米に移動するよう指示し、他の部隊には戦闘準備を命じた。空虚となる小倉には広島鎮台の二個中隊が入ることになった。熊本城の戦いは22日に本格化するが、21日午前7時、薩軍の一部が城下の坪井通町を通過するのを熊本城北東部の千葉城から官軍が小銃で射撃した件は、「征西戦記稿」では「是役ノ第一初戰トス」とある。これに先立ち、薩軍先鋒が到着していた熊本城の南南西約6.5㎞に位置する川尻町に対し二個中隊(第三中隊長は隈岡長道大尉)が午前1時に偵察に出ている。長岡は交戦したとは記さないが、薩軍側記録は異なる。「薩南血涙史」では、官軍は「川尻に到る偶々薩軍の哨兵に會し未だ其の誰何を受けざるに一兵倉皇先づ砲擊す。薩軍大に激す然りと雖も夙に禁約の存するあり故を以て應射せず直前肉薄、以て其の事由を詰らんとす官軍益々亂射す薩軍勢ひ已むことを得ず或は斬り或は斫ち忽ちに其の十數名を殪し・・」とある。長岡の陣中日誌によると午前六時に帰城しているので、交戦があったとすればこちらが初戦だろう。官軍側としては最初に発砲したと記録するのは不都合と考えるだろうし、薩軍側も同様だろう。実際はどうだったのか。なお、当時は銃でも砲でも砲撃という言葉も使っていた。この日は小銃射撃のことである。本文にある船場橋云々は他の記録類にはない。

    仝二十二日

今暁三時南坪井ヨリ新甼ヨリ新堀門ニ迫ル(千葉城ニ迫リ山嵜ヨリ下馬橋ニ迫リ)三方ヨリ押来リ一時ニ発砲官軍之ニ應シ大小ノ砲ヲ発シ砲ナシ(此日賊大)大ニ之ヲ防ク砲聲天地ヲ鳴動シ彈丸飛散霞ノ来ルカ如シ夜已ニ明ケ城中ヨリ賊徘徊スルヲ目下ニ狙擊シ之ヲ仆スヿ無敗依テ賊退キ小楯ニ依テ戰フ午後賊遂ニ段山ニ迫リ新八幡ヨリ我片山邸ノ胸壁并ニ漆畑ニ迫リ官軍少シク苦戦夜ニ入賊ノ砲聲少シク减ス

千葉城は熊本城域の東端に位置し、現在NHK熊本局がある。熊本地震で大きく破損した飯田丸五階櫓石垣の南側にあり坪井川を跨ぐのが下馬橋であり、21日に撤去されていた。新町は城域西側低地部に、その北東方向にある新堀は城域と北側の京町地区を人工的に堀で遮断した部分である。東西方向に堀切状に掘削された堀底を国道31号が通る。段山は熊本城域西端の藤崎台の西側にあり、当時は藤崎台と同程度の高さの丘陵地で、ただ幅10程度の堀で区切られていた。薩軍一番大隊(篠原国幹)が進出し、引き続き藤崎台の官軍と交戦が続いた。当時は小銃射撃を砲撃とも言った。】

    仝二十三日

今暁猶段山ノ戰ヒ熾ナリ賊大ニ迫リ我胸壁ヲ敗ントス然モ官軍能ク防戰賊志ヲ得ス故ニ花岡山ニ砲臺ヲ築井テ城中ヘ乱射ス城中弾丸飛散諸營是カ為ニ破毀セラル〃者甚タ夛シ官軍スルヿナシ賊遂ニ段山ニ依リ胸壁ヲキツキ屯集ス昨ヨリノ戰ニ官軍死傷三十余名此戰ニ傷ク(樺山中佐與倉中佐)本日夜ニ入リ熊本城下兵火ニ罹リテ一宇モ残スヿナキニ至ル本日戰ヒ午前十時ニ至リ賊ノ砲聲稍衰ヘ十一時頃ニ及テ全ク止ム

【花岡山は熊本城の南西にある。頂上から天守閣まで約2.0薩軍が大砲を置いたのは頂上から200位東側らしい。現在、花岡山の頂上(標高132㍍)には仏舎利塔が建っている。2月22日夜半、鹿児島から四斤山砲12が到着し薩軍花岡山と日向崎に据えて城中を砲撃し始めた。四斤山砲の場合、榴弾の到達距離は2.6㎞とされるが、使用するにつれて砲身内部が磨滅し、遠くまで届かなくなったとされる。】

 

    仝二十四日

賊全ク不見只龍田山麓ヨリ出甼ヲ向テ通行スルヲ見ル量ルニ山鹿髙瀬ノ官軍ヲ防ク為ナラン

且昨日賊ノ人夫一人ヲ生捕ル此者ノ申口モ薩賊ハ全ク植木ニ向ヒ僅当地ニ残リ余者当地ノ士族賊ニ加リ守ルト云フ

【龍田山は城の北東にある標高151のなだらかな山で頂上から熊本城天守までの距離は3.4。】

    仝二十六日

賊今朝ヨリ植木向フヿ陸續蟻ノ如シ午前十時髙瀬方ニ当リ砲聲熾ニ聞ヘ此時城兵ノ後ヲ突テ援兵ヲ導ン為埋門ニ聚レハ忽チ砲声止ム故ニ此儀止ム此夜警部巡査両人敵情ヲ探ラン為城外ニ出ツ賊警備嚴ヲシテ能ハスシテ歸ル

    仝二十七日

午後三時臺兵巡査隊合テ一大隊トナシ坪井屯集ノ賊ヲ擊二手ニ分レテ進ム一手ハ観音坂藪ノ内ヨリ一手ハ厩橋ヨリ髙田原ヲ進ムニ城外ニ出ルヤ否賊タチマチ発炮官軍大ニ進テ之ヲ擊ツ千葉城或ハ天守臺ヨリ大砲ヲ発シテ賊ノ屯集(所)ヲ擊ツ賊退テ千反畑千草学校ノ胸壁ヲ保ツテ能ク防ク吾千葉城ニ登テ此戰ヲ見ル此時左翼ノ官軍ハ廣丁ニ在リ右翼ハ髙田原ニ在リ此邊賊ノ胸壁監固ニシテ進ムヿ能ス忽チ見ル大廻大尉池田川津ノ両警部剣ノ付テ千葉学校ノ賊砦ヲ突ク已ニ胸壁ヲ奪ハントセシニ惜哉兵續カザルニ依リ其功ヲ為サス豈ニ圖ンヤ大廻ハ傷キ両警部ハ戰死ス是ヨリ數刻日已ニ西山ニ没ス故ニ盡ク兵揚ク此日ノ戰死傷十余人  

 

【「熊本鎮台戦闘日記」によるとこの日の攻撃目標は草場学校だった。つまり千草学校とあるのは誤記だろうか。熊本市草場町は上通りを挟んで藪の内の東側にあり、それほど離れていない地域である。現在の白川公園の地が学校だったのか、現時点では調べていない。攻撃目的は「賊攻圍及ヒ兵員ノ多寡ヲ諒知セン爲メ」としているが、「熊本籠城談」によると草場学校という施設が城のすぐ東側にあり、薩軍が台場を築いてここからいつも射撃してくるので、邪魔でしょうがなかった。しかも、籠城しているだけでは兵隊の士気が下がるので出撃し、城を出てこれを攻撃することにした、とある。指揮官は大迫尚敏(なおはる)大尉だった。自分を始め馴染みのない人には知らない地名がいくつも登場するので説明する。観音坂は城域北端を区切る深い堀切の坂道付近の一本北側にある東西道路のことで、東側に下る部分らしい。藪ノ内は後述する厩橋のひとつ上流の橋の東側地域である。厩橋千葉城の南側にあり、電車通りに北西からぶつかる路線にある。高田原(こうだばる)は熊本城の南東側にある城下町部分で、白川の右岸で厩橋の南東側に広がる地域である。千反畑は千葉城の東方、白川の西岸地域である。】この日原文の筆者は千葉城のあった小山に登ったという。27日に負傷したのは熊本鎮台の大迫大尉であり大廻という人はいない。また戦死したのは池田警部ではなく池端警部であり、川津警部という人は不詳。人名の間違いから見て原文筆者は熊本鎮台や警視隊構成員について詳しくなかったとみられる。この日、官軍は目的地を占領できず日暮れに撤退している。】

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