satsumareb’s diary

これは高橋信武が書いています。

「籠城日誌 討薩戰誌 全」4

 


 四月四日

曇天此夜暗シ時已ニ九時頃ニ至リ人ヲ出シテ高瀬旅團ニ使セシム又能ハズシテ歸ル

【「熊本鎭臺戰鬪日記」によると、この日「士卒九名ヲ出シ坪井草塲町ノ學校ヲ火シテ其近傍ヲ偵察セシカ賊兵凡ソ十名草塲町北方ノ砲臺ヨリ遽カニ發射シ爲メニ兵卒一人ヲ傷ク」とある。3月27日に攻撃した草場学校からは、4日段階では薩軍の姿は消えていた。】

    仝 六日

糧已ニ乏シキヲ以テ籠城一般粥食ヲ給ス各兵隊ハ朝壱度其余司令官始メ隊外ハ朝夕二度其余平事ト𧈧モ粟飯也其割米一舛ニ粟三合ヲ加フ

【6日の「熊本鎭臺戰鬪日記」によると、「米一升ニ粟三合ヲ加フルナリ」とある。

    仝 七日

今暁南方ノ砲声甚タ近シ疑ラクハ是川尻或ハ宇土ナラン且ツ軍艦砲モ亦タ烈シ其響キ西山ニ轟キ雷ノ如シ依テ明天突出兵一大隊ヲ出シテ賊ノ後ヲ突キ官軍ノ道ヲ開キ且ツ城中ノ情ヲ告ント軍儀一决ス合シテ曰賊中ヲ突キ死傷顧ルヿ無ク壱人モ官軍ノ在處ニ達スルヲ要スル而已

【4月4日、衝背軍先鋒は熊本城から8.5㎞の緑川南岸に達していた。南から宇土町・緑川・川尻・白川・熊本城の位置関係である。この7日作成された一大隊を出兵させる案は北方に進撃するもので、京町本丁の北隣の出町を放火し、出町から植木を目指すものだった。しかし、その後に南方の川尻の戦闘が猛烈になるとともに戦場が近づいてくる状態となってきたため、当初案を変更し南方の川尻を目指すことになった。】

    仝 八日

昨日進擊ノ軍議决スルニ依リ今暁三時諸隊尽ク兵粮ヲツカイ第四時千葉城下ニ整列進擊隊一大隊ト一中隊ト小川大隊長之ヲ司ル外ニ巡査一小隊之ニ従フ突出隊一大隊ハ奥大隊長之ヲ督シ第五時前先ツ進擊隊ヲ三分シ一ツハ直ニ安政橋ヲ突キ其ニ分ハ左右翼トナリ廣丁髙田原ヲ進ミ各安政橋ヲ目途トシ鳴ヲ潜メテ進ム時ニ夜已ニ明ントス本道ノ一手安政橋ニ達スル迠賊之ヲ知ラズ此時安政橋ノ胸壁ヲ一時ニ発炮砲声天地ヲ振ハス橋下ノ賊不意ヲ擊ル大ニ狼狽一発モ放ツヿ能ハス兵器彈薬ヲ捨テ走ルアリ或ハ裸ニシテ川ヲ渡リ迯ル在リ此時突出ノ一大隊ハ直ニ安政橋ヲ渡リ水前寺ニ至ル時夜已ニ明タリ夫ヨリ健宮ニ至リ一大隊ヲ三分シテ各所ヨリ川尻ニ出ツ此所ニ賊モ官軍モナキヲ以テ直ニ進テ宇土ニ至リ賊尻ヲ突キ無恙官軍ニ達スルヿヲ得ルト云フ死二人ナリト云フ(此隊傷二人)進擊隊ハ猶賊ヲ八方ヘ追擊退散ノ賊夛ク長六橋ニ上リ大ニ官軍ヲ砲擊本岡山長六橋ヨリ大砲ヲ発ス實ニ安政橋ヘ彈丸飛散スルヿ霞ヨリモ甚シ右翼ノ軍ハ髙田原ノ楠丁辺ニアリテ長六橋ノ賊ヲ擊チ左翼ノ軍ハ半ハ分レテ狐森ノ賊ヲ擊チ又ハ直ニ九品寺村ヨリ退キシモノ此処ニ止ル(安政橋ノ賊長六ニ迯ケタル者)其半ハ新屋敷大江村ヲ擊ツテ子飼邉ニ至ル此時九品寺村ニ米庫アリヲ揚ケンセシニ当縣士族ノ教導ヲ得テニ依テ之ヲ知ル(生捕ノ賊ノ口書)子飼ヨリ大ニ進ミ来ル時退キテ新屋敷ヲ守□る故ナリ(始メ官兵子飼ヘ進ミシガ聚糧ノ)此時官軍大半兵ヲ哨兵ニ出シ少シク在ルヲ囲ミ砲擊甚シ官兵防クヿ能ハズ道ヲ分ケテ退ク賊之ヲ見テ追擊此時大尉某十四五名ヲ引テ援ク依テ退クヿヲ得タリ五六人(此時死傷)

追 加

本日戰ニ生捕七人体ノ者(内四名ハ人夫)賊ヲ仆スヿ無數現ニ安政橋下ヨリ上下河原ニ仆レタル者三十四人川向フ所〃ニ畑中ニ仆レタルヿ若干ナルト云うフ官軍モ死傷若干アリタリ

【奥少佐の率いた第十三聯隊第一大隊の人数は戦後の10月段階では795人だった(鎭臺日記附録の熊本鎭臺諸隊人名表による)。兵士一人につき、小銃弾藥150発と餅4個・握り飯1個・馬肉50目(目は約3.75㌘)・水吸器(水筒の事。ブリキ製水筒とガラス製革貼り水筒とがあった)を携帯させた。下のブリキ製水筒写真は「佐賀の乱と武雄」(平成二十七年度武雄市図書館・歴史資料館 特別企画展)図録から。熊本城飯田丸跡の発掘調査では密集した状態で水筒破損品が出土しており、材質は報告されてないがブリキ製水筒らしい。写真の水筒は昔は田原坂の弾痕の家で展示されていたとの事。弾痕の家は当時の家だと勘違いされるが、西南戦後、古材を集めてそれらしく建築したものである。

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    四月九日

昨日米ヲ獲タルニ付粟粥ヲ廃シ換ヘテ米粥トナスニ飯モ亦タ二割ニ减ス始メ粟粥ヲ給スルヤ城中ノ貯米ヲ算スルニ米粟合セテ四月十八日ニ盡ク依テ粥食ヲ行フ如是同廿二日迠達スル算也シガ昨日獲タル所ノ米ニヨリ殆ント五月下旬ニ達スル算ヲ得タリ

【やけに食糧事情に詳しい記述である。原文作者は何者だったのか。】

    四月十日

慰勞金ヲ給フ其文ニ曰

当臺守城已ニ五旬ヲ経ルト𧈧ノモ人不撓守備倍嚴ニシテ最初ノ戰闘以来曽テ賊ノ侵襲ヲ受ケズ我兵數回ノ攻擊毎戰捷ヲ奏シ殊ニ一昨日突囲進擊ノ如キハ十分勝利ヲ獲ルト謂フベシ是偏ニ各隊各部同心戮力我カ  天皇陛下ノ爲難苦ヲ不厭各其職ヲ勉励スルノ致ス處屡勝利ヲ得賊勢挫折シ不日其成功ヲ奏ス可キ必ス然ニシテ深ク感賞ノ至リニ候進テ其筋エ上申ニ可及候条此旨篤ト可申聞此旨相達候也

    明治十年四月十日  陸軍少将谷干城

 

右者別帋添ルト𧈧モ畧ス

夜十二時俄ニ砲声ヲ聞高瀬ノ官軍進ミ来ルト覺ヱ漸ク以テ近ツキ已ニ三ノ嶽ニ当リ砲火ヲ見ル夜明ケ而シテ砲聲止ム

 

    仝十二日

南北共ニ砲声熾ナリ北方ハ無程止ム南方ハ倍烈シ宇土邉ニ当リ火ノ手揚ク炎焼天ヲ焦ス砲声轉シテ木原山ノ麓ニ聞ユ午后ニ至リテ止ム

【木原山は熊本平野の南側に東西に展開し、最高地点は標高314ⅿ。伝説では鎮西八郎為朝が城を築き、弓の練習で雁を射るので雁が山を避けて飛んだので雁回山とも呼ばれる。縄文時代には麓まで海が入り込み、曽畑貝塚・阿高貝塚・黒橋貝塚・御領貝塚などが山裾に分布する。】

    仝十四日

昨夜半ヨリ川尻ニ当リテ大小砲声聞ク次第ニ近ツキ今朝ニ至リ兵火甚タ熾ナリ川尻ヨリ薄葉邉迠ノ間一円火起きル砲声倍ニ烈シ此時天守台ヨリ見ルニ二本木ノ賊走リテ水前寺ニ向ヒ退ク陸續山ノ如シ城中ヨリ大砲ヲ発テ之ヲ擊ツ實ニ愉快ト云フベシ午后城中ニ兵ヲ勒シ已ニ発セントメナリ(官軍ヲ迎ンタ)豈ニ圖ンヤ官軍一大隊計リ旗ヲフリ喇叭ヲ吹キ山嵜練兵塲ニ来ル依テ城中ヨリ先ツ参謀士官出迎ヘテ其隊長ヲ引キ而乄兵ノ人員ヲ調ヱシニ賊壱人人夫ニ紛レタリ之ヲ縛シテ悉ク城中ヘ入ラシム后薄暮ニ至リ安政橋ヨリ一大隊来リテ城中ヘ入ラシム此時猶建甼出甼ノ賊走ラズ故ニ兵若シテヲ出シ京町口ヲ残シ三方ヨリ建町ヲ攻擊ス午後七時ニ至ルト𧈧ノモ賊能ク防禦スルヲ以拔ケス尽ク兵ヲ揚ク

【最後の方、「兵若シテヲ」は「兵若干ヲ」を写し間違えたらしい。先頭を切って熊本城に達したのは別働第二旅団の山川浩中佐の部隊だった。籠城軍は喜んだが、後塵を拝した他の官軍将校たちは囂々と不満を漏らし、山川中佐は後で旅団長の山田顕義少将から譴責を受けることになった。事前にあった黒田清隆参軍の命に違反したからである。つまり、15日に川尻東方にある木原山にのろしを揚げるのを合図に熊本に突入せよと諸旅団に命じていたのである。「征西戦記稿】には「山川中佐獨リ之ヲ守ラスシテ擅ニ挺進セリ・・」とさんざんである。宇治川の先陣争いの西南戦争版ともいえる。】

      四月十五日

午後三時植木口ノ声砲ヲ聞ク忽チ火ノ手所々ニ揚ル無野出邉ニ火起ル此時出町賊一時モ我胸壁ニ発炮弾丸来ルヿ雨ヨリモ甚タシ戦フヿ三十分間賊出町火ヲ付ケ而シテ迯去リ午后三時出町ヨリ官軍斥候四人来ル故ニ賊カトウタガフ(此時城中賊ノ迯去リテ)我砲台ヨリ之ヲ見テ已ニ大砲ヲ発セントセシニ四人斥候旗ヲ振リ官軍ナルヿヲ示ス依テ之ヲ迎ヱ問賊已ニ植木口退去シ是ニ来ル間一度モ戰フヿナシト云フ夜ニ入リ植木ノ官軍大半来ル山野燎火ニ輝キ白日ノ如シ

本日二本木邉ノ土人ノ咄シヲ聞ニ賊ノ者西郷昨日長持ノ中ニ入リ甲佐ニ迯シト云フ故ニ長持ニ入リタルト云フ(西郷破烈ニテ髙股ヲ傷シ)本日旅團ノ土産トシテ白米千俵生牛二十頭ヲ籠城中ノ者ヱ贈ル依テ牛肉ヲ配賦シテ始メテ腸中ヲ観ハス

 

       御沙汰書寫

 

 

鹿児島縣逆徒益兇暴ヲ逞フシ熊本城ヲ閧シ攻擊ニ及候處殊死力戰屡ニ賊徒ヲ擊ツ破能ク孤城ヲ堅守候段叡聞ニ達シ候處深ク苦勞ニ被思召候依テ爲慰勞酒肴下賜候条猶此上奮勉兵士ヲ卒ヒ励シ速ニ平定ノ功ヲ可奏旨御沙汰候事

  但士官兵隊ヱモ此旨可相達事

 

 以上が籠城戰誌です。次回は討薩戰誌を紹介します。原文筆者と写本作成者についてそこで考える予定です。末尾の画像で分かるように同じ罫紙に連読して写されています。

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