西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

竹田市片ケ瀬を歩く

 先日、片ケ瀬の由布 晃さんという方(詩人)から西南戦争に関する珍しい墓地があると連絡を頂いたので、今日出かけた。詳細は由布さんがいつか紹介する予定だからこれ以上触れない。自家用車は電話番号で位置情報が表示されるので簡単に由布さん方に着くことができた。

 そこから軽トラに同乗し、林の中の草ぼうぼうの荒れ地を進み、止まったところからは由布さんが草刈り機で竹や草を刈って進行。そこまでは軽トラが道でないようなところの草を踏み倒し、道の外に滑り落ちそうな路線だった。

 墓地は片ケ瀬の秦今朝富さん(後でお会いしたが、鹿児島士族の位牌という板切れ5点を見せていただいた。残念ながら氏名は記載されてない。この付近で戦死したのだろうか。明治32年に供養した際のものらしい)という方が管理しているが、由布さんによるとこの付近の墓地の子孫はもうこの辺にはいないということだった。

上の写真。左下は尾根の狭さが分かる。右下は秦さん(左)の家の前の道路で(右は由布さん)。背後の山は小富士山(456m)、道路は緒方町に続く旧道。

 ここは岡城跡の南を流れる玉来川の南にあるが、北側斜面に植林された杉林のために岡城跡方向の見通しは悪い。墓地の東方も歩いて(地図の緑色)ほとんど端まで見たが戦跡は確認できなかった。台場跡や傷ついた墓石が転がっているかと思ったがなかった。尾根の南側の車道が半円形に取り巻く谷底を桜やアジサイで飾り付け、公園のようにしようとしているとのことだった。狭い尾根筋の南側は垂直の崖が続いていた。

 そのあと最初のふりだしに戻り、見晴らしのいい丘の縁辺に行って遠景写真を撮った(赤い矢印)。最近にわか雨があったので、空気が澄んで近景も遠景もきれいだった。空の下の方が汚れた薄茶色になっていても「きれいだ!」と言うのをテレビで見るが何を考えてるのだろうか。

遠景は九重連山、中景が岡城跡(建物が見える)、手前に玉来川が左から右に流れ、墓地はさらに手前の写真左の明るい杉林の付近にある。遠景の平らな地平線は阿蘇外輪山の続きで、九州が南北に分かれていた時代に九州海峡(即席地名)を埋めて丘陵になったもの。

 

西南戦争後の野村忍助 

 はじめに

 「野村忍助自叙傳写本」やアジ歷史料などをもとに西南戦争後の野村の動向を跡付けてみたい(高橋信武2003「野村忍助自叙傳写本」pp.120~pp.145『西南戦争之記録』第2号)。以下、太字が上記自叙伝の引用部分、〇が記述概要である。野村は忍介あるいは忍助という表記があるが、ここでは自叙伝で使われた忍助を用いる。

明治10年

佃島監獄に入る 其後宣告あり除族懲役十年の命を受け佃島監倉に送らる國事犯を以て罪人二百人向ケ原射的場を開拓す工事凡そ一ヶ年にして工を終る一等を減ぜられ獄中に在りて和歌あり

  世を思ふ友ならなくになそもかく 月や獄舎のまとにとひ来る

獄中に在りて古松簡二、羽田恭輔、土橋一蔵と親交す十年役の一回祭に会ひ西郷先生を祭る文は古松之を草す

 

 向ケ原射的場とは現東京大学構内にあった施設のことであろう。発掘調査が行われており、報告書が出ている(原祐一他2009「東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書9 東京大学本郷構内の遺跡 浅野地区Ⅰ」)。ここでの国事犯の労役について探したところ萩原兼善の日記(「旅日誌」pp.807~pp.844『鹿児島縣史料 西南戦争 第三巻』)があった。これは鹿児島県宮之城出身で分隊長として従軍し、懲役一年に処せられ市谷監獄に収容された萩原の日記である。初めは労役として市谷付近の開墾作業をしていたが、明治11年8月8日から懲役刑が満了する直前の10月3日まで上野向岡狙撃場開墾作業に従事している。隔日作業でおよそ夜中の2時から3時頃獄を出て作業し、午後3時から5時頃に引き揚げ、1時間くらいで帰り着く生活だった。野村忍助が向ケ原射的場で作業した時期は監獄に入ってから一年間だったようであり、そうだとすれば野村の労役時期の後期が萩原と時期的に重なるだろう。野村は作業内容を詳しく記さないが萩原の作業状況が参考になる。

 上記文中に登場する土橋一蔵は大橋一蔵(1848-1989:明治22年の誤記だろう。そもそもこれは「野村忍助自叙傳」というのがあり、それを写したものを高橋が活字化したものだが、どこかの段階で大を土に誤記したのである。

明治13年5月 

  明治十三年 出獄 〇明治十三年五月特典を以て赦免せらる

 野村忍助の赦免の時期は書物によって異なるが、自叙伝が正しいのではないかと考える。赦免にあたり鹿児島出身で終生殖産興業に熱心だった前田正名の周旋があったという。その後30余日ほど東京に留まり、その間に松方正義(内務卿)に呼ばれ、松方が戦後の鹿児島を視察したところその惨状は言うに忍びないものだった、殖産興業を試みたらどうかと促され、野村は駒場農業試験場の見学に出かけている。またしばしば川村純義と会い、「交情頗る厚し」という状態だった。この頃、東京にある間は同郷の野村正明と鹿児島の戦後復興について話し合っていた。帰郷しようとした際、前田がやって来て、参議の山縣有朋大隈重信が会いたがっているので訪問するように勧められている。大隈は病気で会えなかったが、6月初旬頃、山縣に呼ばれ、山縣は戦争中の話をしたかったようで、再会を待つので早期の上京を促している。

 一旦鹿児島に帰った際の7月に学校建設について会議を開き、賛同を得ている。8月には上京し川村純義・西郷従道大山巌・今井兼利(工兵局長。野村は学校用地として鹿児島城内の旧分営跡の払い下げを希望していた)・樺山資紀(警視総監)・渡辺千秋(鹿児島県令)に会うなど、赦免後すぐに政府側要路の人物との会見が立て続けに行われている。結局交付金が出ることになったが私立学校ではだめだとの方針が出され、それを受諾して12月帰路に就いている。地域や人心が荒廃した鹿児島県にとって指導者たりうる野村の存在は政府側からは無視しえず、かつ使いようによっては貴重な人材だった。

 途中大阪に立ち寄り、玉平宏通・川口純・村上一策(大分県人。彼の口供があるのでいつか活字化しよう)等と汽船会社設立を協議している。

明治14年1月 鹿児島県各地の代表を集めた公立学校についての協議は曲折を経て賛同を得る。5月、磯の海軍西洋館の払い下げを願出ている。

C09115275100「明治十四年公文類纂 後編 九(防衛省防衛研究所蔵)

    

 海軍省所轄西洋造建家御拂下之願

  凡ソ學校ヲ建築シ之ヲ維持スルニハ若干ノ資本ヲ要スルハ勿論ノヿナリ最モ人才ヲ陶冶スルニハ學校ニ由ラスシテ他ニ捷徑ナキハ特ニ喋々ノ辯ヲ待タス而シテ善良ナル學校ヲ設ケンニハ先ツ巨大ノ費用ヲ為サ﹅ル可ラス然レノモ其費用ヲ集ムル又容易ノ事業ニ非ラサルナリ殊ニ當縣下ノ如キハ明十ノ兵燹後惨状纏綿タルノ有様ナレハ未タ充分ノ學校ノ設立ナキモ専ラ資本ノ不充分ナルニ依ラサルヲ得ンヤ然レノモ眼ヲ轉シテ天下ノ形勢ヲ通観セハ蓋シ今日ハ是レ一日モ猶豫シテ時節ヲ待ツノ日ニ非ラサルナリ故ニ私共賤劣ノ身ヲ顧ミス國家ノ為メ聊カ微力ヲ盡シタリ學校創立ニ従事仕幸ヒニ貸本ノ如キハ漸ク維持ニ充ツルノ目的有之候得共建築等其他ノ諸費ニ乏シキヲ以テ過般陸軍省所轄ノ旧営所跡ヲ學校用トシテ御拂下ノ儀奉歎願候處御憐情ノ厚キ速ニ御許可ノ命ヲ蒙リ於茲乎直ニ修覆等ニ着手シ該営所ヲ熟々實検仕ルニ同家屋儀所々破損シ或ハ甍棟破壊シ且ツ假リノ営所ニテ脆弱ナル材木ヲ用ヒタレハ又朽腐ノ期モ遠カラサルベク然レノモ懇ニ修覆ヲ加ヘタラハ敢テ學校用ニナラサルナキニ非レノモ只多額ノ費用ヲ今ニ要スルノミナラス又数年ヲ出テスシテ屡々修覆ヲ加ヘサル可ラスサレハ限リアル資本ノ漸ク維持ニ足ルアルモ遂ニ共ニ消費ササル可カラン歟况ンヤ又脆弱ナル材木ヲ以テ材料ニ為シタル家屋ハ天災ノ損害ナキモ預メ保ス可カラス然レノモ堅牢ナル家屋ヲ建ントセハ又資本ノ足ラサルヲ如何セン是ヲ思ヒ彼ヲ考フレハ獨國家ノ為メニ悲痛ノ聲ヲ發セサルヲ得ス謹ンテレハ當時磯ニ在ル海軍省所轄ニ属スル西洋風ニ模造ノ一舘アリ窃カニ恐察仕ルニ目今御不用ノ樣ニモ相見ヘ該舘ノ如キハ實ニ天下ノ至大幸福ナラント奉存候間仰キ願クハ何卒前述ノ情實ヲ御洞察被下其筋エ戯シク御取計ヒ被成下度此段伏テ奉歎願候也

                   公立學校創立委員

                   鹿兒島縣鹿兒島郡草牟田村

                   百九拾三番戸平民

  十四年五月             野 村 忍 助

                   仝縣仝郡冷水通町六十番戸

                   士族

                    永 田 彦 兵 衛

                   鹿兒島縣鹿兒島郡加冶屋町

                   六十六番戸士族

                    脇  田    寛

                   仝縣仝郡下龍尾町七十五番

                   戸平民

                    早 川 兼 知

                   仝縣仝郡シ水町五十九番戸

                   平民

                    伊 集 院 英 輔

  前書之趣願出候付証印仕候也

                   池ノ上町戸長

                    新 納 時 中

                   冷水通町戸長

                    野々山平右衛門 

                   下龍尾町戸長

                    新 納 時 成 

                   清水馬塲町戸長

                    小 久 保 往 来 

         鹿兒島縣令渡邉千秋殿

 

 上記の払下げ願を渡邉県令が海軍卿に上達した。

C09115275100「明治十四年公文類纂 後編 九(防衛省防衛研究所蔵)1446・1447

(前略)當縣平民野村忍助外五名ヨリ願出候處當管内ノ義ハ十年非常騒乱ノ際各所ノ學校概子兵火ニ罹リ夫カ為今ニ廢學ノ子弟不尠實ニ憫然ノ至ニ付前述ノ事情御洞察被成下該建物ハ特別ノ御詮議ヲ以テ無代價ニテ學校用ニ御下附被下度別紙願書圖面相副此段相伺候也

 明治十四年六月十五日  鹿兒島縣令渡邉千秋

       海軍卿川村純義殿

 

 そして7月12日付で願いについて採用許可の決済がされている。ただし、土地は海軍の所有であり、建物だけを払い下げることとなった。解体して移築したのだろうか。これ以前の明治10年11月、西洋館は臨時病院として使いたいと鹿児島県から申し出があり、許可され貸し出されていた。海軍にとって不要に近い建物だったらしい。

 6月には磯の西洋館の無償払い下げを受け、教員を東京から招聘している。8月にはそこを仮教場として椎原與右衛門を校長とした。同時に県内各地で講演会を開き農業振興や議会設置を主張、賛同を得ている。

 この頃、熊本から古荘嘉門・松崎迪(すすむ)らが来県し政党を組織するよう勧めた際、野村は次のように答えている。

  我県の如きは國の辺隅に僻在し人智未だ開けず之を他県に比するに開明の進路殆ど三四歩を遅れたり予輩之を憂ヘ学校を設け教育を盛にし農事会を起し殖産の業を開き然る後事に斯ヽ從はんと欲す

 これによれば野村の一見一貫しない行動が実は計画的に進められていたことが分かる。

〇14年~15年 新聞社を創立せんとす 鹿児島新聞社創立 〇十五年一月始めて号外を發行す

 鹿児島新聞の後継である南日本新聞の「南日本新聞のあゆみ」によると創刊号は明治15年2月10日に出ている。ただし自叙伝では15年1月とする。同社構成員は監督野村忍助・社長市来(旧姓野村)政明・編集5人・探報2人などである(出原政雄2003「鹿児島県における自由民権思想―鹿児島新聞と元吉秀三郎―」『志學館法学』第4号pp.75~pp.100 志學館大学。民権運動の広報紙である。

〇15年1月から3月 鹿児島県内の民権運動の一つとして党員1万人余で自治社を結成し、九州改進党鹿児島県部が発足し、3月に熊本で九州大会が開かれる。

〇15年4月 監獄で知人となった大橋一蔵の招きに応じ、後年(大正元-1912-)年に「薩南血涙史」を出すことになる加治木常樹と新潟に行く。この時、鹿児島県人の動向と共に野村の行動は密かに観察され、政府に報告されている(C07050109500「公文別録・地方巡察使・明治十五年~明治十六年・第二巻・明治十五年」A03022957200総理府本館蔵)。それが次の史料である。

  議官申報第十七號

  

鹿児島県其他景況ノ一班左ニ開申仕候也

  明治十五年五月廿七日 

  大分県ヨリ

  参事院議官渡辺昇花押

 

  太政大臣三條實美殿

  鹿児島県下改進党ノ巨壁タル野村忍助ハ昨今各地方経歴ヲ企テ其目的トスル所ハ曽テ獄友タリシ新潟県大橋一蔵ヲ訪レントスル由相聞候付テハ其筋ヘ注意ノ儀御内示相成候様此度近来該黨ノ挙動タル専ラ党員募集ニ盡力スルハ勿論客月十五六日頃同縣下西本願寺出張所ニ於テ黨員惣会ヲ開キ曽テ熊本ニ於テ組織シタル改進黨々則ニ依リ長﨑本部ヘ派出委員ヲ撰定シ且ツ地方部役員撰挙及ヒ地方部規則起草委員ヲ設ケ彼是評議ノ末乃チ長﨑本部委員ハ野村政明和泉邦彦長友竹三久畄米昌縷ノ四名ニテ壱名四ケ月交代ト定メ地方部ハ高橋為情山口某柏田盛文田中直哉柳田兼定長谷場純等ニテ其他役員廿名斗リヲ撰ヒタリ(以下略)

 

 同様の秘密報告は全国的な規模でなされており、鹿児島だけが特に取り扱われたわけではない。

〇15年6月頃京都で松方正義に会う。

〇15年7月、朝鮮暴挙(壬午軍乱)を聞き、8月西南戦争に参加した福岡出身の平岡浩太郎と同志達を連れ朝鮮に渡る。避難帰国していた花房朝鮮公使と共に渡海しており、公的ではない非公式の軍事組織を率いて行ったのである。しかし決着がついたために活躍の機会はなかった。

 自叙伝は壬午軍乱の記述で終わっているので、以後の動向は別方面から調べねばならない。

 明治16年から18年は後日記したい。

 明治19年、官営札幌製粉場が野村等に払い下げられた下記の史料がある。 

公文類聚・第十一編・明治二十年・第四十四巻・民業門三・工事類00331100 

  命令書

  札幌區南貳条西六丁目壱番地士族

           宮 原 景 雄

  札幌區南貳条壱丁目拾壱番地平民

           後 藤 半 七

  札幌區南壱条三丁目貳番地平民

           岡 田 佐 助

  札幌區南三条西三丁目拾三番地平民

           谷   吉 三

  東京府築地飯田町拾弐番地寄留 

  鹿児島縣士族

           野 村 忍 助

  新潟縣中頸城郡春日新田平民

           小 林 十 郎  

  札幌區南壱条南五丁目十番地寄留

  鹿児島縣士族

           木 原 慶 助  

  今般札幌製粉塲地所建物其他ノ物件悉皆拂下候ニ付左ノ各条遵守スヘシ

    明治十九年十一月三十日

          北海道廳長官岩村通俊

 

  第一条 札幌製粉塲地所代金九百五拾四円建物代金四千四百拾円六拾

      四戔六厘器械代金壱万貳千八百六拾九円九拾貳戔九厘器具代

      金四百五拾五銭七厘通計金壱万八千八百八円八拾壱戔八厘ハ

      本年十二月ヨリ明治二十二年十一月迠据置明治二十二年十二

      月ヨリ明治三十二年十一月迠向十ヶ年賦ヲ以テ毎年十一月二

      十日限上納スヘシ

  第二条 第一条ノ金額完納ニ至ル迠ハ拂下建物器械器具備品共悉皆抵

      当トシテ當廳ヘ差出スヘク地所ハ年賦金完納ノ上地券ヲ交付

      スヘシ

        但地所ニ係ル一切ノ義務ハ工塲受授ノ日ヨリ拂受人ニ於テ

      負擔スヘシ

  第三条 現在ノ製造品及原料代價ハ追テ正算金額指示ノ日ヨリ三十日

      以内ニ完納スヘシ

  第四条 小麦買入直段ハ該年東京大坂宮城ノ三ヶ所平均相度ヲ低减ス

      ヘカラス

  第五条 第一条ノ金額完納ニ至ル迠ハ臨時監査員ヲ派遣シ事業ノ実况

      及抵当現品等ヲ調査セシムルヿアルヘシ

        但工塲ノ會計ニ属スル帳簿ハ別ニ設ケ置キ臨時監査ノ便ニ

       供スヘシ

  第六条 第一条ノ金額完納ニ至ル迠工塲ノ模様替ハ其時〃当廳ノ許可

      ヲ受クヘシ

  第七条 此命令ニ違背スルノキハ詮議ノ上拂下ヲ取消スヘシ其節拂下品

      紛失若クハ毀損等ヲ生セルノキハ其代價又ハ修繕費ヲ弁償セシ

      ムルハ勿論既ニ上納シタル年賦金ハ一切之レヲ下戻サヽルモ

      ノトス

 明治19(1886)年1月にそれまでの開拓使に替え北海道庁設置が決まった。これを機に官営事業は極力民間に貸与・払い下げることとなり、製粉場の払い下げも決まった。以下は日本製粉株式会社2001「日本製粉社史 近代製粉120年の軌跡」を参考に記す。

 史料冒頭に出てくる宮原景雄は開拓使の役人を務めた経歴をもち、後藤半七・岡田佐助・谷 吉三は札幌市内の商人である。小林十郎は新潟出身、木原慶輔は鹿児島士族で当時札幌で米穀荒物類卸小売業を営んでいた。同書によると野村忍助は東京で雨宮啓次郎と製粉工場を営んでいたという。

 野村の住所は東京府築地飯田町拾弐番地寄留とある。除族された筈なので士族とあるのはご愛敬だが。下図は築地飯田町周辺の錦絵である。上が南。改印から年代を絞ることはできなかった。東京府とあるから江戸時代ではない。右上端のホテル館は明治元年に竣工し、5年に焼失しておりこれは明治元年から5年の間の風景だろう。作者の山田曜齊、別名二代目国輝は明治7年に死亡している。

 拡大して示す。野村の寄留地、飯田町という地名が付近にないので南飯田町のことらしい。明石橋の右にはハトバを含んだ場所があるが、この一画に建つ洋館の名前が読めない。この部分、南飯田町よりも海側は文久元(1861)年時点の切絵図にはさらに狭い陸地として描かれている。 

 次は三代広重の版画である。南飯田町から見た明石橋や運上所を描いており、ハトバ周辺は残念ながら絵の右外側である。

 次は明治20年3月28日付のもの。

公文雑纂・明治二十年・第七巻・大蔵省二(大蔵省罫紙 国立公文書館蔵)乾第六三一号纂00046100

  當省所管不用ニ属スル地所建物等賣却其代金ヲ以テ必用ノ建築費ニ充用方之儀曩ニ

御承認済ノ趣ニ據リ府下京𣘺区南飯田町十三番地之義實測面積三千六百貳拾貳坪八合八勺五才ノ内水部貳百四拾九坪七合五才ヲ除キ現借地人野村忍介外壹名ヘ拂下而乄前顯水部ハ東京府於テ同所漁民等營業上必用ノ場所ナル趣申出ノ次第モ有之候ニ付右ハ成規之通内務省ヘ及返付候條依テ別紙圖面相添此段及報告候也

   四月四日総理大臣ヘ呈覧了

  明治二十年三月廿八日

 

  大蔵大臣伯爵松方正義

  内閣総理大臣伯爵伊藤博文殿

 先に掲げた版画を天地逆にすると野村等の購入(初めは借用)した土地と形が似ていることが分かる。内側に入り込んだ海面部分の中程に境界線と書かれた縦線がある。この東側が大蔵省用地、西側が農商務省用地である。大蔵省分に面積記入が見られるので東側が購入した土地である。

 野村他1名に払い下げた南飯田町13番地のうち、海面部分は内務省に返却させるとある。したがって3,373.1坪が払い下げられた。これより以前に貸渡されていたらしいがその時期は分からない。文書には出てこないがこの土地は鹿児島県出身の川崎正藏が経営していた川崎造船所の土地だったのを野村が譲り受けたらしい。先に見た札幌製粉場を野村等に払い下げた前年11月30日付の文書では、野村の住所は東京府築地飯田町拾弐番地寄留となっている。この番地は次に示すように川崎の住所と同じである。埋め立て地の東半分が南飯田町13番地なら、西部は12番地かも知れない。

 川崎について分かったことを記す。東京の浜離宮庭園の南側に川崎重工の東京本社がある。同社HPによれば川崎重工の前身は浜離宮から近い場所にあった川崎築地造船所である。同社HPを掲げる。創業者川崎正藏は鹿児島出身で明治11年に同郷の先輩、松方正義大蔵大臣などの援助で南飯田町の官有地を借りて造船業を開始している。※アジ歷によれば操業は明治11年4月5日である(「公文類聚・第十編 明治十九年巻之三十六」類00282100)。川崎正藏の居住地は南飯田町12番地で、先の野村の寄留地と同じということから松方が野村と川崎を引き合わせた可能性がある。なお、適当な後継者のいなかった川崎は松方の息子幸次郎をニ代目社長にしており、彼は美術品を収集し松方コレクションを残している。

 上図は陸地測量部による明治十三年測量同十九年製版の「東京近傍中部」二万分ノ一図である。川崎造船所という字が海側に張り出した区画の東部に置かれている。下は拡大図。

 港部分の北東側にある建物が造船所の工場だろうか。三島康雄によると(三島1993「造船王川崎正蔵の生涯」pp.94同文舘)造船所は「北辺三三〇メートル、南辺二七〇メートル、東辺一〇〇メートル、西辺三五メートルの変形の四角形で、その中心部に長さ一三〇メートルの海への通路を持った池が掘られており、この周辺に船台が組まれていたいたのであろう」という。これは上の地図によく似た明治16年の地図から計測したもので、南飯田町の海に張り出した部分全てを造船所用地と仮定した数値である。

 川崎は次いで明治13年7月に兵庫県東出町造船所を開設している。さらに明治19年4月27日には官営兵庫造船所を川崎正藏に貸し下げる旨、農商務大臣西郷従道が決済している。

               上は川崎重工のHP

 先に掲げた「東京府鉄炮居留地中繪圖」にある南飯田町先の埋め立て地には港のように海が取り込まれているが、造船所として使うためにこのような形状にしたのだろうか。あるいは単に海を取り込んだ埋立て地が先行したのか。

 南飯田町の水面部分が政府に取り上げられた三ケ月後、野村の名前が登場する。

 下記のように明治20年6月30日、 北海道の渡島國亀田郡七重農業塲内水車製粉所が野村忍助外一名に払い下げられている。ここは北海道南部の渡島半島、函館の北にあたり、明治4年に七重開墾場が設けられ、名称は明治8年七重農業試験場明治9年七重勧業試験場と改められた所である(ネット北海道開発局「開拓の歴史-北海道最初の試試験農園「七重官園」

公文類聚・第十一編・明治二十年・第四十二巻・民業門一・殖産勧業諸事 類00329100

A15111443900工塲拂下ノ義ニ付上申

  客歳六月北閣第三一号伺済ニ基キ當廳所管各工場ノ内将来不用ノ分左ノ通

代價即納又ハ年賦ヲ以テ拂下處分致候

  一渡島國亀田郡七重農業塲内水製粉所建物及附屬物件ハ金五百四拾五圓五拾貳銭

   五厘即納ヲ以テ鹿児島縣士族野村忍助外壹名ヘ拂下候

  一同國上磯郡茂邉地村煉化石製造所土地建物及附屬物件ハ金五拾圓即納ヲ以テ黨道

   平民森兵五郎ヘ拂下候

  一千島國紗那郡紗那村鮭鱒鑵詰所土地建物及附屬物件中材料品ハ代價即納其他ハ年

   賦納ヲ以テ和歌山縣平民柳原角兵衛ヘ拂下候

  一根室野付郡別海村鮭鱒鑵詰所土地建物及附屬物件中材料品ハ代價即納其他ハ年

   賦納ヲ以テ滋賀縣平民藤野辰次郎ヘ拂下候

  一札幌製粉塲曩ニ貸與上申済ノ分更ニ土地建物及附屬物件ノモ當道宮原景雄ヘ拂下候

  右拂下處分致候尤モ代價年賦上納ニ係ル者ハ別紙寫ノ通命令及置候此段上申候也

   明治廿年六月三十日

      北海道廳長官岩村通俊印

 

    内閣總理大臣伯爵伊藤博文殿八月三日云々※読めない

 冒頭の一条が野村関係であり、札幌製粉所の払い下げを受けてから7ケ月後のことである。北海道庁長官の岩村通俊は高知県出身で、西南戦争中に鹿児島県令大山綱良に替わって県令になった人物である。

 次は明治21年12月4日付で東京築地の陸軍用地を製粉場用地として拝借したいとの野村忍助による文書である。

     陸軍省御所轄地拝借願

  明治中興百度維新就中軍隊ノ敎育訓練器械ノ制度悉ク欧洲諸國ノ法ニ依ラ

サルナシ然リ而シテ敎育訓練彼ノ制ニ従ヘハ則チ各体力運動ノ程度ニ應シ食料モ亦之カ改良ヲ計ラサル可ラサルハ是レ自然ノ勢ニ御座候聞クカ如キハ既ニ本邦養兵上敎育訓練

衣服器械等益〃精練欧洲強國ノモノト其相離ル遠カラズト然ルニ未ダ糧食改良ノ著シキモノヲ見ザルハ真ニ遺憾ノ事ニシテ軍隊張弛強弱ノ整ル所最モ大ナルモノト思考仕候依テ弊社曩キニ製粉機械ヲ米國ニ購求シ以テ製粉造麺ニ従事セリ今ヤ幸ニシテ陸海軍ニ於テ漸々食料改良ノ義舉ヲ行ハセラレ就中御師團歩兵第三聯隊砲兵第一聯隊ノ如キハ常食ハ勿論行軍演習等ニ方テモ專ラ弊社ノ製粉ヲ使用セラレ随テ弊社ノ業務日ニ月ニ繁盛ニ趣キ何ノ幸栄カ之レニ過キズ候因テ弊社ニ於テモ勉メテ此恩惠ニ報ヒ奉リ度諸事注意製粉價格ハ成ル可ク低廉ニ上納仕度企圖罷在候而シテ其價額ノ低廉ヲ計ランニハ船便廣大ノ地ニ倉庫ヲ設置原麦ヲ貯藏シ尚追々製粉器械等ヲ増設益此業ヲ擴張スルニ在リ凡ソ小麦ノ價値ハ毎年季節ニ依リ髙低甚シク現ニ昨年十二月ニ金壱円ニ中等弐斗五升四合位ナリシモ其後漸々騰貴シ本年四月頃ニ至リテハ既ニ弐斗壱升五合ノ相塲トナリ殊ニ一升ハ現品拂底ノ為メ尋常ノ麺麭製造家ハ往々営業ヲ中絶スルモノアルニ至レリ弊社ハ世間此困難ノ際モ依然業務ヲ執リ又時價ニ係ハラズ即チ昨年十二月小麦弐斗五升四合ノノキ書上ケタル價格ニテ上納シ来レリ之レ他ナシ弊社カ單ニ食料改良ノ義舉ニ應センヿヲ熱望シ豫シメ之レカ凖備ヲ為シ置キタルヲ以テナリ実ニ小麦ノ價値ハ例年概シテ収穫ノ秋ヲ最低トス故ニ年中使用スベキ原麦ハ此際貯蔵スルヲ利アリトス将タ製粉及ヒ貯蔵所ノ便否第一運搬ノ費用ニ関シ従テ上納品ノ價格ニ及ホサザルヲ得ス然ルニ弊社従来ノ製造所ハ深川區八右衛門新田ノ僻地ニ在リテ運搬其他ノ不便不少ニ付過般別ニ築地南飯田町ニ製造所ヲ増設シ営業仕来リ候得共是亦永遠ノ見込無之ニ付キ更ニ便冝ノ地ヲ計ルノ外良策ナキヲ以テ府内処々適當ノ地ヲ創作スルモ或ハ遠隔或ハ狭隘ニシテ差當リ恰當ノ地無ク之深ク痛心罷在候処陸軍省御所轄地深川區越中島ハ営業上水路運搬至便ノ塲所ニ付右地所ノ内別紙図面朱線ノ塲所三ケ年間拝借仕度左候得ハ右御地所内ニ不取敢仮作業塲等ヲ建設シ営業仕度奉存候幸ニシテ業務ノ目的ニ御賛成被成下特殊ノ恩典ヲ以テ頭意御採納被成下候ニ於テハ大ニ経費ヲ省キ従テ営業上非常ノ幸栄ヲ得ルニ至ルベシト確信仕候然ル上ハ尚基礎ヲ大ニシ一層勉励益々業務ヲ擴乄品質ヲ撰シ時冝ヲ計リ充分ノ貯蔵ヲ為乄軍隊御需要ノモノハ必ス普通商賣ノ及ブ可ラザル廉價ニテ上納シ平常ハ勿論仮設ヒ有事ノ日ニ際スルモ此方差閊つかえナク御用度ニ應スルノ計畫ヲ為シ及ブ可キ的ノ義務ハ盡スベキ心得ニ御座候希クハ前顯ノ微衷御洞察何卒願意御採納被下度尤モ拝借ノ地所官ニ於テ御入用ノ節ハ何時ニテモ返上可仕候間特別ノ御詮議ヲ以テ御許容被成下候様其筋ヘ御進達被下度別紙借料金取調書相添此段偏ニ奉懇願候也 ※懇は松尾大輝さんに解読していただいた。お礼申し上げます。

壹𣘺区南飯田町十三番地日本製粉会社長

   明治二十一年十二月三日 拝借人 野村忍助

     壹𣘺区南飯田町十三番地 

       保証人 市𣘺保身

 

   東京府知事髙﨑五六殿

 

  前書出願ニ付奥印候也

 

    東京府深川區長子爵堀田正養

 

    借料金取調書

  陸軍省御所轄地越中島ノ内

  一地積三千九百弐拾坪 約三ケ年

    此借料金満壱ケ年金拾圓

  右ハ近隣地主ノ収納額ヲ基本トシテ借料金取調候也

   明治二十一年十二月四日 拝借人 野村忍助

   保証人 市𣘺保身

  所轄地貸下之義ニ付伺

  府下深川區越中島本省所轄地内ヘ兵食用麥粉製造所設置ノ為メ該地借用

之義日本製粉會社社長野村忍介ヨリ別紙之通願出之趣ヲ以テ東京府ゟ照會有之然ル処右願意被聞届候上ハ師團各隊ニ於テ廉價之製粉ヲ買収スルヿヲ得給與上其裨益不少候ニ付特別之御詮議ヲ仰クヘキ旨当師團長ヨリ懇々被申聞候次第モ有之夫々取調候所該地ハ現今府下各兵隊射的演習専用之地ニ有之候得共右借用願出候ケ所ハ僅カニ其一隅ヲ使用スルニ止マリタル義ニ有之射的演習等ニハ敢テ差支無之義ト被存候尤モ麺包食之義ハ目下各隊ニ於テ専テ試験ニ苦心罷在候折柄殊ニ歩兵第三聯隊ノ如キハ既ニ麺包焼所建設方御許可ニモ相成居候次第ニテ其試驗之結果如何ニ依リ將来兵食改良之御詮議ニモ有之候ハ﹅供給未タ普ネカラサル時期ニ付各隊ニ在テモ創業之困難ヲ補フノ一助トモ可相成義ト被存候間特別之御詮議ヲ以テ右貸下方御許可相成候様致度

  此段相伺候也

    明治廿一年十二月六日

        第一師團監督部長内海春震 角印 

 

    陸軍大臣伯爵大山 巖殿 ※以上0511まで。

 願いを取り次いだ第一師団では許可したい意向だったが、陸軍大臣は不許可にしている。

  前書之通相違無之候也

     東京府深川區長子爵堀田正養

  しかし、下記のように越中島の陸軍用地の貸渡は断られている。 

 「伍大日記 2月」(防衛省防衛研究所)0509~陸軍省罫紙

  受領番號 伍第一四六六號 廳名 第一師団監督部 件名 所轄地貸下之件

  議 按   明治廿二年二月十五日

 

  伺之趣射場ノ定規ニ悖もとリ候ニ付不貸渡義ト心得ヘシ(二月十六日 長方形決済印)

 上記の野村の文中、弊社従来ノ製造所ハ深川區八右衛門新田ノ僻地ニ在リテ運搬其他ノ不便不少ニ付過般別ニ築地南飯田町ニ製造所ヲ増設シ営業仕来リ候とあるのを前掲「日本製粉社史」から説明する。時期的には遡るが。

 明治11年パリ万国博覧会に日本から総裁として出席した松方正義内務次官は12年3月、帰国に際し2台の石臼製粉器を購入した。当時最先端の技術はロール式製粉機械というものだったが、手始めに簡単なものを選んだわけである。江戸時代以来浅草には江戸で最大の米倉が置かれ、その倉庫は当時大蔵省が管理していたので、松方が持ち帰った石臼製粉器はそこに設置し製粉工場を設けることになった。明治13年操業を開始した大蔵省浅草製粉所は放漫経営と小麦粉の消費量が微々たるものだったためもあり成功しなかった。

 その頃、民間の雨宮敬次郎が製粉事業を始めていた。

明治十二年、我国ニ未曽有ノ製粉機械ヲ米国ヨリ取リ寄セ、製粉所ヲ東京府深川八右衛門新田二番地ニ設置シ、小麦粉ヲ魯領浦塩斯徳ヘ輸入シ(注・「輸出シ」の誤記)、魯国陸軍兵ノ糧食トシテ之ヲ販賣スルコトニ従事スルコト五ヶ年間、即チ明治十六年ニ至ル(「日本製粉社史」)

 明治12年に深川八右衛門新田に米国製製粉機を設置し、できた小麦粉はウラジオストックに輸出し露国陸軍に五年間販売したのであるが、17年以降は米国製メリケン粉に敗れこの販路を失っていた。雨宮はわが国陸海軍に目をつけ、軍糧食の洋食化運動を始めた。そこで鹿児島出身の野村忍助を社に招き軍隊へのパン食採用を勧誘した結果、明治18年まず東京の第三聯隊がパン食を採用したのを手始めに次第に軍に普及していった。引用を続ける。

  『時事新報』(明治19年8月3日付)は、「陸軍一般洋食に改正」の見出しで以下の

ように報じている。

  府下南葛飾郡八右衛門新田の麺包製造所は野村忍助(鹿兒島縣人)、雨宮敬次郎(山梨縣人)の兩氏が主として設立したる處にして、目下陸海軍兩省の御用をも達し、日々の製造高は餘程多くして、一晝夜凡そ麺粉三十五、六石を消費する由なるが、今度陸軍一般洋食に改まるに付ても、尚ほ同製造所が專ら其御用を引うくる事に爲る趣にて、更に製造竈を增置し、又器械を据付くるの準備なり(以下略)

 あくまでも新聞記事である。さらに引用。

19年9月25日付の『朝野新聞』は、同製粉所が「豫て噂ありし如く」いよいよ雨宮敬次郎、川崎正蔵、野村某の3人に価額1万円の15年年賦で払い下げられ、近日引き渡されることとなった、と報じている。野村某とは、いうまでもなく野村忍助である。

同紙はさらに、「右譲渡の後は築地川崎造船所を神戸に移し、其跡へ製粉所を置き日本小麦製粉会社と称し製粉事業を盛んにせんと目下株主募集中の趣」と報じてお、・・」

  (つづく)

辺見十郎太の書状  ※💭・💛などが付くようになりました、というか付けました。

 熊本市に寄託している史料について当時植木町教育委員会職員だった(その後合併したので熊本市職員だった)中原幹彦さんから問合わせがあったので、引き続き寄託を継続することにした。「征西戰記稿」や辺見十郎太書状他である。この書状は熊本市田原坂西南戦争資料館に展示されたことがある。偶々見学した時に展示していた。貴重な書状を自分でもっていてもなくす心配もあるし、興味のある人に見ていただきたかったからである。

 

 この書状は「西南戦争之記録」第5号で公開しているが、編集者(自分)の校正不行き届きで写真が不鮮明だったので気になっていた。この際、撮影してもらうことにしたところ、現在の担当者である美濃口雅朗さんから今日写真が届いた。そこで、鮮明な写真を紹介すると共に、当時解読・解説をお願いした竹野孝一郎さんの解読を再掲したい。原文は竹野孝一郎2012「赤塚源太郎宛の辺見十郎太書状」pp.11~pp.15西南戦争之記録』第5号 西南戦争を記録する会である。

 

銃器者揃次第相渡可申候付不日人馬御遣可給候晩☐(五カ)報知☐(可カ)申候求磨川筋も被取切候注進共見申候大至急繰出シ候間御方等ニ者可成早目大口迠御繰出シ可給候筒も宮崎☐(縣カ)之☐(様カ)求分令テ商人呼出置、相調次第大口迠相届候様申付置候間、同役場ニ者明日一同進軍相成候處迠前以御差止可給候猶い細ハ両名御聞取可給候也

紫月廿六日

                       邊見十郎太

 赤塚源太郎殿                                                    

 川崎 龍助殿

 本司猛次郎殿

〇☐(拙)子者近

近日〇管轄郷之事ニ付乍余計御注意申進候此節之出足ニ付金子拝領之一条昨日所役元☐承リ甚申上簾子恥之至り今日ニ相成候而者商人等☐段々献金之人名在之候而も金なクテハ進軍ニも不至可☐☐(道草カ)ニ以☐(石カ)蹈候今日ニ☐金ニ而進退可決☐(頃カ)ニ而も無之候尤此切限り所役所ニ者、少シなりとも軍資金差出候儀ハ近々相達可置候処甚御名ヲ汚シ☐(候カ)悔而☐☐(等者カ)御☐(糺カ)可給候

 

    高橋はさっぱり読めなかったので竹野さんには感謝するしかない。長い書状の中ほどに辺見十郎太と大書し、赤塚源太郎殿などと続け、ここで終わるつもりだったが、思い直して同じくらいの分量を書き足している。解説は原文をご覧頂きたい。

 💭 💛16万 ⤵⤴ 

山口県のある軍夫名簿 (絵は一休み)※史料を何故かスキャンできない頁がまだあります。

 はじめに

 「山口縣軍夫名簿」を紹介したい。これは以前入手していたものである。

 二つ折りした和紙を綴じたもので、縦32.8cm、横23.9cmになっている。全体の枚数は13枚である。運ぶには不便な大きさなので折り曲げて携行したらしく半分、更に半分に折り曲げた折り目が付いている。名簿頁には罫線が鉛筆?で引かれているが、その目印として針で刺した窪みが罫線外側の交点にある。上段に住所と手書きの〇・﹅、下段に名前と竹管を用いた〇印、又は手書きの〇がある。これらの印の意味は不明である。名前の上の同は頁右端の第☐号二十人組と同じという意味である。
 ブログでは一行の中に二段書きができないので、若干原文の状態と異なるが、正しくは後日掲げる写真を見ていただきたい。

 

 本文 
明治十年七(丑)月赤(一日出立)間関出發
山口縣軍夫名簿
   百人長河原藤吉

      赤間関七月一日出立
      同二日筑前國黒嵜止宿之事
      同三日同 國内野止宿之事
      同四日築後國府中止宿之事
      同五日肥後國山鹿止宿之事
      同六日同 國大津止宿之事
      同七日同 國髙森止宿之事
馬見原止宿 同八日日向國三田井ニ而査検之事
      同九日   同所止宿之事
      同十日ヨリ東京鎮臺工兵第壱大隊弐中隊
      同    日向國宮水村止宿軍夫ハ同村ト中村ト申村ノ両山阪イニ大川有此川ニ橋掛之事橋長サ凡廿四五間横弐間コレ迠ハ舩渡之事

山口縣第拾五大區一小区赤間関町千百拾五番地第壱舎商 第壱号廿人長 荒木嘉藏 〇
仝第拾三大區十小区埴生村四百五拾三番地 農     〇 平夫 角野忠左衛門 〇
仝  四百六十番地 同 七月十日ゟ東京鎭臺工兵隊第一大隊二中隊第二小隊   〇 同  西村金藏   〇 
仝  五百拾貳番地 商       〇 同 森永市介 〇
仝  六百十四番地 農       〇 同 稲田惣之助 〇
仝  四百拾九番地第二舎 農    〇 同 村田利七 〇
仝  第三大區拾五小區中須南村四百八番地 同 ﹅ 同 手嶋嘉七 〇 
仝  第十三大区拾小區埴生村六百二十三番地 同九月一日午前十二時降役 同 西村清太郎
仝  五百二十五番地 同 八月十八日午前六時ヱノタキニヲテ銃丸負傷為入室八月丗一日午前八時ヨリ入院九月十一日午后三時迠請下ケ ﹅ 同 楠 孫藏 〇
仝  五百二番地 同 九月廿六日正午ヨリ入室 〇 ﹅ 同 安田凖助 〇


仝  五百五番地 同 〇        同 岸埜松太郎 ※左に「キシノ」
仝  貳百七番地 同  ﹅       同 竹内友三郎 〇
仝  第十三大區十小區埴生村 六百二拾五番地 同  ﹅ 同  田中恒助
仝  六百九番地 同 ﹅ 同       村田勘治郎 〇
仝  六百拾番地 同      〇    同  中村第吉  〇
仝  六百三十三番地 同        ﹅     同 篠原吉五郎 〇
仝  十一小区松屋村三十四番地 同 〇  同   松村徳松 〇
仝  七十八番地 同      ﹅    同 堺平兵衛
仝  七拾三番地 同 九月十日午后十一時病気ニ付同日午后八時除役 同 飯田米作

※三好亀吉の貼紙を上に貼る
仝  三十四番地 同 七月廿七日午前十二時除業 同   松村茂助


仝  第拾五大區壱小区赤間関町第貳号 四百拾五番地 商 廿人長    宮﨑理吉
仝  第十三大區十一小区松屋村三十四番地 農 ﹅ 平夫 松村鶴松

 


仝  九十七番地 同 七月十日東京鎮臺工兵隊第一大隊二中隊第二分隊 ﹅ 同 三宅文吉 〇
八十八番地同(仝)﹅          同 田邊待之進 〇
五百十九番地同(仝 十小区埴生村 八月三十一日午後四時病氣ニ付除役)同藤村多三郎 〇 ※上段貼紙(仝九大區十小區向嶋村第九十三番地百人長山川組ゟ八月二日午後ヨリ)※下段貼紙(同尾中長八
仝 十一小區松屋村三十番地同 ﹅    同 宮本孫七 〇


仝   十小區埴生村百級十七番地商 ﹅ 同 三嶋利右エ門 〇
仝   十一小区松屋村六十四番地農 九月十九日午前十一時ヨリ入室八ツ代送リ ﹅ 同 藤本菊治郎 〇
仝  十小区埴生村四百九拾五番地同 九月十九日入室 ﹅ 同 縄田竹一 〇
仝  四百廿五番地同 ﹅        同 三由助藏 〇
仝  十一小區松屋村三十四番地同 ﹅  同 松村藤吉 〇


仝  十小區埴生村四百八十四番地同 ﹅ 同 鈴木利助 〇
仝  二百壱番地工  ﹅        同 田中忠治郎 〇
仝  二百一番地第二舎工 ﹅      同 杦岡峯吉 〇
仝  二百十二番地同 ﹅        同 竹中良平 〇
仝  第十二小區吉田二百九番地同 ﹅  同 伊藤清左エ門
仝  第拾三大区十小区埴生村百七十四番地商 ﹅ 同 阪田仁藏 〇
仝  百七十番地同 ﹅         同 今井末松 〇
仝  津布田村百拾九番地農 ﹅     同 山本萬之進 〇
仝  百七十九番地同 八月廿七日午前八時病氣除役 同 川﨑榮吉
仝  第十五大区二小区赤間関町 八百二番地第十三舎商 ﹅ 同 稲田安治郎 


仝  仝  一小区赤間関町九百六十九番地 同 第三号二十人長 三村米吉
仝  第十六大区九小区吉永村      平夫 林 信一
仝  三百五十七番地 同 七月十日 東京鎮臺工兵隊第一大隊二中隊四分隊 

                    同 福田富五郎
仝  三百六十七番地 同 ﹅      同 山縣平三郎
仝  三百六十八番地 同 ﹅      同 石津丈五郎
仝  三百七十四番地 同             片桐松藏
仝  三百八十壱番地 商        同 西尾竹三郎
仝  第十五大區壱小区赤間関町九百六十九番地第二舎 商 同 松永徳藏
仝  六百九十番地第十三舎 農     同 岡村重藏
仝  九百六十九番地第四舎 商     同 梶山富藏
仝  六百九拾番地第二十一舎      同 津森元助


仝  六百九十番地第廿三舎 仝 八月八日午后二時除役 同 髙橋力藏 ※髙橋の上に沖村彦十郎の貼紙
仝  六百八十八番地 同 ﹅ 同 藤島清吉
仝  四百四拾九番地 同 八月八日午后二時除役 第壱大區五小区土井村 同 山本安吉 ※山本の上に柳谷孫六の貼紙
仝  第拾大區拾小区山口町 二百四十番地 同 ﹅ 同 上田與一右エ門
仝  拾一小区山口町 七百七十五番地 同 ﹅   同 糸屋仁吉


仝  第十三大區九小区郡村 二百三十三番地 農  同 鉾澤庄太郎
仝  三十番地 同           同 杦山市治郎
仝  第十七大区拾小区小串村 二百三十七番地 工 同 澤田安吉
仝  第十五大区二小区赤間関町 ﹅   同 山本安兵衛
仝  第二十一大区二小区徳佐下村    同 堀 伊平 〇 ※〇は手書き
仝  第拾五大区一小区赤間関町四百十八番地第十四舎 商 第四号廿人長 角野松太郎
仝  第一大区五小区土井村 四百六十番地 工 平夫 片岡松五郎 石 ※石工?
仝  四百六十壱番地 工 東京 同 同 同弐中隊四分隊 同 仝勇治郎 石
仝  六小区西久賀村 千百六十二番地  同 岡村百助  
仝  第十五大区一小区赤間関町 九百六番地 商 同 宮﨑傳三郎 〇
仝  第一大区五小区東安下庄 百三十八番地 同 同 濱口兵吉 石


仝  四百九十一番地 同          同 村岡孫治郎 石
仝  六小区 同 千二百六十番地 同﹅   同 廣村八十吉 〇 ※〇は手書き
仝  七小区椋野村 二十番地 農  同 藤谷浪藏 〇 ※〇は手書き
仝  第十三大区十小区埴生村 四百三十九番地 同 ﹅ 同 大木利助
仝  第五大区十一小区波野村 百九十番地  同 儀本常吉 〇
仝  第十一大区十三小区西岐波村 千七百十六番地 商 同 西村安治郎 〇 ※〇は手書き
仝  千七百二十八番地 農 同 髙埜茂三郎 〇 ※〇は手書き
仝  千百五十二番地 同 ﹅        同 枩永安右エ門 〇 ※〇は手書き

 


仝  千百二十一番地 農          同 西村竹藏 〇 ※〇は手書き
仝  千二百七十四番地 〃         同 大川政吉 〇 ※〇は手書き
仝  千百十番地 同 ﹅ 同 村上耕策 〇 ※〇は手書き
仝  第十五大区二小区赤間関町 八十五番地第七舎 商 同 藤原権藏 〇
仝  九十三番地 同            同 関野吉右エ門 〇
仝  第十五大区一小区赤間関町 四十番地 商 九月一日正午病氣除役 第五号廿人長 福井徳治郎 ※第五号の上に五号廿人長 岡崎仁八郎の貼紙
仝  第二十大区二小区川上村 二百四十番地 農  平夫 岡﨑亜佐藏
仝  八番地 同 七月十日同 同 同 二中隊三分隊 同 藤原勘左エ門
仝  八番地 同居 同               同 仝 銀藏
仝  二百二十三番地 同  〇 ※〇は手書き    同 吉尾巌吉
仝  二百六十番地 同 八月丗一日午后八時死亡 ☐金八十戔☐ 右銭☐☐☐相☐☐

                          同 木村織右エ門
仝  九小区萩町 千十七番地 農          同 藤本吉五郎
仝  二小区川上村 二百三十七番地 農 九月七日午后一時ヨリ廿人長申付 

                          同 岡﨑仁八郎
仝  二百九十一番地 同 ﹅            同 和田亜吉
仝  第十三大区十小区埴生村 五百七十一番地 同 ﹅ 同 藏田幸三郎
仝  八小区鴨ノ庄 二百四十五番地 同 西村青左(三百??) 同 賢田峯之丞
仝  二百五十三番地 農 アサ中村☐☐☐☐☐郵便仕候事 鴨ノ庄福小路迠 

                          同 長谷川源太郎
仝  二百四十番地 同               同 中島千代枩
仝  二百六十八番地 同              同 大上ウエ与三郎
仝  二百七十一番地 同 七月三十一日午後五時手負ニテ右手☐☐ケ銃丸負傷ノ為入室 八月丗一日午前八時ヨリ入院九月十一日午后三時迠日給請下リ 満七回岡崎仁八郎請ル 同 西村寿三郎 ※西村の上に渡邉市右エ門の貼紙
仝  二百二十五番地 同              同 今橋富五郎
仝  二百三十番地 農               同 玉井米吉
仝  二百二十四番地 同              同 沖野茂三郎 ※三は?
仝  二百廿七番地 同               同 井上亜平
仝  十小区埴生村 二百五番地 同         同 斎藤光
仝  五百十番地 同                同 香取作太郎
 日向國髙チヲ都新甼口官軍此所縄ノセ川与申大川有此川ハ其(※廿之?)向。賊地也
七月丗一日后前賊ヨリシンゲキ右方山。ホシ山。左六七里ガ間。シシ川ト申大山有其口共賊ヨリ壱里余后前十時ゴロ迠攻擊(セメウツ)夫ヨリ官軍后前十二時ゴロヨリ攻セメカケ直ニ本ノ臺塲モ取右川向江(※?)金山有之コレハ赤金取山此所凡家三四十家斗リ山中ホドニ見江下ニ。アチラ。コチラ。少ツ有之其所江大ヅツ二臺塲ヨリ間ナシニ打込右家左右家ヤケ。大ヅツ其。日入迠打ツ乄之事賊ヨリモ一大ヅツ四五ハツウツ同日ハ右之処ニ納ル也
同月十日夜右縄ノセ川シノンデ橋ヲ掛此所木少無故竹ヲ壱間斗ニ切橋ヲカケ其夜雨フリニテ賊相分ズ同十一日夜アケヲマチ。五六百名渡リ込直ニ攻擊官軍大勝利賊ハ引一方ニ成此川下ニ。ヤカイ村と申處アリ此近邉ヨリ賊川舩取三艘ニ乗リ下ルテイ也。此節大水ニ三般トモ。カヤリ皆死同十三日迠鹿兒嶌口官軍皆一ドキニ。攻ヨセ

 山口縣西南部町
        為袋町
     百人長
       河原藤吉
     通名
       善兵衛

 解説

 冒頭には7月1日に山口県赤間関を出発したこと、その後の宿泊地名を記している。7月時点では熊本県内の大津・高森は阿蘇山の西側とカルデラ南部であり、戦闘が終わった地域になっていた。その後、東に進み宮崎県に入り、三田井から宮水へと進んでいる。これらは阿蘇外輪山から日向灘に向かって一直線に五ヶ瀬川が東流する流域にある。

 工兵第一大隊は第一・第二(諏訪親良中尉・大塚庸俊中尉)の小隊からなる。第弐中隊とあるのは第二小隊のことだろう。付属した工兵隊の名前も明確に知らなかったのである。この隊は第一旅団である。以後、延岡に向かい進軍し、延岡市に着くのは8月14日である。

 7月11日、「對岸ヲ星山田吹ト曰フ後岸ハ即チ八戸村ナリ組橋ヲ以テ道ヲ通ス(「戦記稿」巻五十四三田井戦記 十四)が、山口県軍夫達が築いた長さ約43m、幅3.6mの橋だろう。この橋の築造については「從征日記」にも絵付きで記されている。

 残念ながらこの名簿には彼らの作業内容や日記のような記録は殆ど記されておらず、末尾の一頁に7月から8月中頃の部分的な記述があるだけで、彼等の行動は大部分不明である。しかし、前記の東京鎮台工兵隊と一緒に移動したのであろう。

 工兵第二小隊は宮水の東側、舟の尾という場所で大砲台場である大型の凸角堡を築造しているが、それに河原組も参加した可能性がある。その他、五ケ瀬川流域には両軍が多数の台場を築いており、現在、宮崎県教育委員会埋蔵文化財センターが分布調査を実施中であり、報告が楽しみである。

  廿三日工兵第二小隊凸角形ノ野堡ヲ船尾ノ前面ニ造ル(全隊ヲ以テ工ヲ起シ翌日之ヲ

  竣フ)時ニ賊日ニ亡地ニ陥リ第二旅團十七日ノ戰ヒ以還、反噬死ヲ送ルノ勢アリ乃チ

  右翼兵ニ諭シ嚴ニ戒シテ其掩襲ニ備ヘシム (「征西戦記稿」巻五十四三田井口戦記pp.16)

 上図の説明をすると、水色は堀である。雑木林の端にあり、この堀を見たときは民家跡の溝かと思った。しかし雑木林の中に入って調べると土塁部分があり、内側に窪んだ場所が三か所あるのが分かった。しかも土塁は逆「く」の字形だった。土塁と堀との境には幅狭い平坦面が巡っている。「工兵操典」にある堀・平坦面・土塁の関係と同じだと後で分かった。

軍夫の呼称

 猪飼隆明2008年「西南戦争 戦争の大義と動員される民衆」には軍夫の概要があり、参考になる。「戦記稿」巻六十五には戦争で人民を使役した経過が記されている。その名称は2月23日には車馬役夫・人足・車夫人足・人夫・車輛人夫・車夫人足である。前線に兵士や輜重を運送する仕事が目立つ。3月6日には軍夫の呼称が登場した。

  〇六日軍夫數千人ヲ山口縣ヨリ召集センヿヲ議定シテ本營ニ請フ

 そして平夫十人・二十人・三十人を引率する者を小頭とし、適宜五十人長・百人長を置くとしている。3月19日には戰地隊附並七本輜重部ヨリ先ヘ使役スルモノとして百人長・廿人長・十人長・平夫の日給を定め、別に砲廠糧食及焚出塲等ニ使役スルモノとして百人長・廿人長・平夫の日給を定めた。

 今回紹介した山口県軍夫名簿では百人長と廿人長・平夫の呼称が使われており、3月19日の定めに従ったのであろう。但し仕事内容は戦地隊云々と同じになっている。

 末尾の文章は尻切れトンボで終わっている。地名や名詞を漢字に直したり、補足したり句読点を訂正して少しだけ読みやすくしてみたのが以下である。
日向国高千穂新町口官軍此所網ノ瀬川と申す大川有此川ハ其向賊地也
七月丗一日午前賊ヨリ進撃右方山、星山、左六七里ガ間、鹿川ト申大山有其口共賊ヨリ壱里余午前十時ゴロ迠攻擊セメウツ夫ヨリ官軍午前十二時頃ヨリ攻セメカケ直ニ本ノ臺塲モ取右川向江(※?)金山有之コレハ赤金取山此所凡家三四十家斗リ山中ホドニ見江下ニ、アチラ、コチラ、少ツ有之其所江大筒二臺塲ヨリ間ナシニ打込右家左右家ヤケ。大筒其、日入迠打ツ乄(※?)之事賊ヨリモ一大筒四五発ウツ同日ハ右之処ニ納ル也
同月十日夜右網ノ瀬川忍ンデ橋ヲ掛此所木少無故竹ヲ壱間斗ニ切橋ヲカケ其夜雨降リニテ賊相分ズ同十一日夜アケヲ待チ、五六百名渡リ込直ニ攻擊官軍大勝利賊ハ引一方ニ成此川下ニ、八峡村と申處アリ此近邉ヨリ賊川舩取三艘ニ乗リ下ル体也。此節大水ニ三般トモ、(※ひっくり)返リ皆死同十三日迠鹿兒嶌口官軍皆一ドキニ。攻ヨセ

   山口縣西南部町
        為袋町
     百人長
       河原藤吉
     通名
       善兵衛


 軍夫の出身地
 名簿は大区小区制度の記載がなされ具体的にどこなのか分からないので、市町村地名は1980年段階のものに置き換え、どの地域の人達がこの河原組に入ったのか見ておきたい(下中邦彦編1980年「日本歴史地名大系 第三六巻 山口県の地名」平凡社を参照)。職業も記載する。なお、現在徳山市周南市となり、小野田市山陽小野田市となっている。
百人長:河原藤吉(下関市南部町・農民)
第一号廿人長荒木嘉藏(下関市赤間関・商人)・角野忠左エ門(小野田市山陽町埴生・農民)・西村金藏(同・農民)・森永市介(同・商人)・稲田惣之助(同・農民)・村田利七(同・農民)・石川豐吉(同・農民)・手嶋嘉七(徳山市中須南町・農民)・西村清太郎(小野田市山陽町埴生・農民)・楠孫藏(同・農民)・安田凖助(同・農民)・岸埜松太郎(同・農民)・竹内友三郎(下関市神田・農民)・田中恒助(小野田市山陽町埴生・農民)・村田勘治郎(同・農民)・中村第吉(同・農民)・篠原吉五郎(同・農民)・松村徳松(下関市松屋・農民)・堺平兵衛(同・農民)・飯田米作(同・農民)・三好亀吉(飯田が病気のため追加。住所職業記載無)・松村茂助(下関市松屋・農民)※第一号廿人長を入れて22人。下関市6人・小野田市14人・徳山市1人・不明1人。
第貳号廿人長宮﨑理吉(下関市赤間関・商人)・松村鶴(鳥はない字)松(下関市松屋・農民)・三宅文吉(同・農民)・田邊(誤字?)待之進(同・農民)・藤村多三郎(同・農民)・尾中長八(藤村が病気のため百人長山川組から追加。防府市向島)・宮本孫七(下関市松屋・農民)・三嶋利右エ門(小野田市山陽町埴生・商人)・藤本菊治郎(下関市松屋・農民)・縄田竹一(小野田市山陽町埴生・農民)・三田助藏(同・農民)・松村藤吉(下関市松屋・農民)・鈴木利助(小野田市山陽町埴生・農民)・田中忠治郎(同・農民)・杦岡峯吉(同・農民)・竹中良平(同・農民)・伊藤清左エ門(下関市吉田・農民)・阪田仁藏(小野田市山陽町埴生・商人)・今井末松(同・商人)・山本萬之進(小野田市山陽町津布田・農民)・川﨑榮吉(同・農民)・稲田安治郎(下関市赤間関・商人)※第二号廿人長を入れて22人。下関市10人・小野田市11人・防府市1人。
第三号二十人長三村米吉(下関市赤間関・商人)・林 信一(下関市吉永・農民)・福田富五郎(同・農民)・山縣平三郎(同・農民)・石津丈五郎(同・農民)・片桐松藏(同・農民)・西尾竹三郎(同・商人)・松永徳藏(下関市赤間関・商人)・岡村重藏(同・農民)・梶山富藏(同・商人)・津森元助(同・商人)・髙橋力藏(同・商人)・沖村彦十郎(髙橋除役により追加。住所職業不記載)・藤島清吉(下関市赤間関・商人)・山本安吉(同・商人)・柳谷孫吉(山本除役のため追加。周防大島町土井・職業不記載)・上田與一右エ門(山口市山口・商人)・糸屋仁吉(山口市山口・商人)・鉾澤庄太郎(小野田市山陽町郡・農民)・杦山市治郎(同・農民)・澤田安吉(下関市豊浦町・農民)・山本安兵衛(下関市赤間関・商人)・堀 伊平(山口市阿東徳佐下・農民)※第二号廿人長を入れて23人。下関市16人・小野田市2人・大島町1人・山口市3人・不明1人。
第四号廿人長角野松太郎(下関市赤間関・商人)・片岡松五郎(大島郡土井・商人)・片岡勇治郎(同・商人)・岡村百助(大島郡久賀・商人)・宮﨑傳三郎(下関市赤間関・商人)・濱口兵吉(大島郡東安下庄・商人)・前田國太郎(下関市赤間関・商人)・濱口忠太郎(大島郡東安下庄・商人)・村岡孫治郎(同・商人)・廣村八十吉(大島郡久賀・商人)・藤谷浪藏(大島郡椋野・農民)・大木利助(小野田市山陽町埴生・農民)・儀本常吉(熊毛郡田布施町波野・農民)・西村安治郎(宇部市西岐波・商人)・髙埜茂三郎(同・農民)・枩永安右エ門(同・農民)・西村竹藏(同・農民)・大川政吉(同・農民)・村上耕策(同・農民)・藤原権藏(下関市赤間関・商人)・関野吉右エ門(同・商人)※第二号廿人長を入れて21人。下関市5人・小野田市1人・大島郡8人・熊毛郡1人・宇部市6人。
第五号廿人長福井徳治郎(下関市・商人)・岡﨑仁八郎(元は五号廿人組平夫だったが、福井が病気のため昇格。下関市赤間関・職業不記載)・岡﨑亜佐藏(萩市川上・農民)・藤原勘左エ門(同・農民)・藤原銀藏(同・農民)・吉屋巌吉(同・農民)・木村織右エ門(同・農民)・藤本吉五郎(同・農民)・岡崎仁八郎(萩市川上・農民)・和田亜吉(萩市・農民)・藏田幸三郎(小野田市山陽町埴生・農民)・賢田峯之丞(小野田市鴨の庄・農民)・長谷川源太郎(同・農民)・中島千代枩(同・農民)・大上与三郎(同・農民)・西村寿三郎(同・農民。7月31日午後5時銃傷)・渡邉市右エ門(西村の代わりに追加。住所職業不記載)・今橋富五郎(小野田市鴨の庄・農民)・玉井米吉(同・農民)・沖野茂三郎(同・農民)・斎藤光藏(小野田市山陽町埴生・農民)・香取作太郎(同・農民)
※第二号廿人長を入れて22人。下関市2人・小野田市11人・萩市8人・不明1人。
22+22+23+21+22=110人。但し岡崎仁八郎は重複するので109人。百人長を入れて総員110人。

 全体では下関市39人・小野田市39人・萩市8人・徳山市(現周南市)1人・防府市1人・山口市3人・宇部市6人・大島9人・熊毛郡1人・不明3人となり、県西部の出身者が多いが、行政区域で纏まるということは認められない。

 

下荒田支病院について

 参考までに一部の軍夫が入院した下荒田支病院の史料を掲げる。

 C09082925500「明治十年 來發翰留 鹿兒島屯在兵 參謀部」(防衛省防衛研究所蔵)0403
別紙人名之者悉ク死亡候ニ付既ニ死亡診断書者軍團軍醫部ヘ宛差出シ置候条各自所轄江配附相成候筈ニ候得共尚為念死亡連名簿差呈候条可然御承知有之度候也 
  十年十月十二日 下荒田支病院印※征討軍團支病院之印
   鹿児嶋屯在兵
     参謀部御中 

 第一号二十人組の安田凖助は名簿では「九月廿六日小穂ヨリ入室」とあるが、この記録により鹿児島市内下荒田支病院に入院し、同年10月12日には死亡していたことが分かる。
 ついでに脇道のそれると、下荒田支病院(別名臨時支病院。別に鹿児島病院があった)の存在文書は10月8日(下荒田村軍團支病院)・12日・18日・19日・22日・23日・24日・25日・26日・31日の日付のものがある。また、11月1日付で鹿児島屯在兵参謀部(長は熊本鎮台司令長官谷少将)から下荒田支病院宛に文書が出されているので、1日段階にはまだ存在している(C09082925600「明治十年 來發翰留 鹿兒島屯在兵 參謀部」(防衛省防衛研究所)0405)

 

C09082931300「明治十年 來發翰留 鹿兒島屯在兵 參謀部」(防衛省防衛研究所蔵)0521・0522
不日其臨時病院御引揚之趣承知致候就而者當地屯在兵ノ為メ重病室取設ケ候筈☐☐何分医官看病人卒共人少ニテ大ニ差閊(つかえ)候条御引掲之節ハ医官看病人卒苦干名及ヒ該室納付器械薬品共御残シ置相成候様致度此段及御照會候也 
鹿児嶋屯在兵
明治十年十月廿七日   参謀部
  下荒田臨時支病院
御中

 

 10月27日段階で、すぐに臨時病院は引き揚げる予定であることが分かる。


C09082931800「明治十年 來發翰留 鹿兒島屯在兵 參謀部」(防衛研究所蔵)0531・0532
障子川木材病院明三十日引揚ケ候条此段及御通知候也
 十年十月三十日
        下荒田
         臨時支病院㊞
 鹿児嶋屯在兵
   参謀部御中 

 

 30日付けの文書で明30日に引き揚げると矛盾しているが、30日に障子川病院は引き揚げたのであろう。
 10月9日付「谷山ノ内障子川コレラ病院宛」記録がある(C09082924600「明治十年 來發翰留 鹿兒島屯在兵 參謀部」(防衛研究所蔵)0382・0383)

 

C09082929700「明治十年 來發翰留 鹿兒島屯在兵 參謀部」((防衛省防衛研究所蔵)0490・0491征討総督本營罫紙
新撰旅團砲隊
仝  器械掛
仝 縫裁隊 右等所轄之部局当地残留相成居候哉既ニ御引揚ケ相成居候哉判然不致退院航送或者診断書等差出方ニ差支江候条至急御通知被下度其他區々之部署等有之候ハ﹅是又御通報被下度此段及御依頼候也 
十年十月丗一日 下荒田 
鹿児嶋屯在兵 臨時支病院 
  参謀部
御中 
追テ当軍團支病院被廃大阪臨時病院ニ附属シ醫官計官看病人卒ニ至ル迠何分ノ御沙汰有之候☐者ハ是レ迠之通リ事務取取扱可申旨鳥尾中将殿ヨリ電報有之候条此旨為御心得迠申添置候也

 

 10月31日には支病院が存在するが、一部医官・事務官・看病人はこれまで通り事務作業が許可されていた。

 

C09082932900「明治十年 來發翰留 鹿兒島屯在兵 參謀部」(防衛研究所蔵)0552・0553
下荒田ヘ元軍團支病院取設有之候處今般引拂候就而者引續右家屋當分之内當地屯在兵病院トシテ相用度為念此段申進置候也
           鹿児嶋屯在兵
 明治十年十一月二日   参 謀 部
 
    鹿児嶋縣
     鹿児島出張所
        御 中 

 11月2日段階では支病院は引き払っているが、引き続き鹿児島屯在兵病院としてその家屋を使いたいという県への通知文。

 

C09082936300「明治十年 來發翰留 鹿兒島屯在兵 參謀部」(防衛省防衛研究所蔵)0622・0623
當地臨時支病院引揚相成候ニ付テハ屯在兵患者之為メニ医官看病人卒會計官差残有之度段陸軍卿ヘ伺出候處屯在兵之為熊本鎮臺ヨリ医官等派出申付置候条右到着迠ハ伺之通ト御指令相成候条此旨為御心得及御通報候也
 十年   鹿児島屯在兵司令長官(谷少将)代理
  十一月十二日  長坂陸軍中佐
 下荒田
  臨時支病院
  〃 會計部 御中

 

C09082947700「明治十年 來發翰留 鹿兒島屯在兵 參謀部」(防衛研究所蔵)0853
過般傳染病之為下荒田病院囲外ニ御設相成候木材病院今般致焼却候ニ付明後十三日午後第二時放火致候条此段豫テ及御報知候也
 明治十年十二月十一日 熊本鎮臺病院
               出張所印
 屯在兵
  参謀部
    御中   

 

 12月11日付文書により、木材病院が下荒田臨時病院の囲の外側に設置されていたこと、13日に焼却予定だったことが分かる。コレラ細菌の焼却を図ったのであろう。この時点では熊本鎮台病院出張所になっている。

 

 感想を少し
 第一号二十人組の楠孫藏は8月18日午前六時にヱノタキで銃丸のため負傷しているが、当日宮崎県延岡市北川町可愛岳えのだけ頂上直下北西側で野営していた第1旅団・第2旅団本営が薩軍に襲撃された際、彼も負傷したのである。いわゆる薩軍の可愛岳突破である。薩軍が官軍の2個旅団本営に対し襲撃を開始した時間を従来言われてきた午前4時半ではなく、午前6時であると推定したことがあるが、それを裏付けている(「和田越の戦闘から可愛岳の戦闘までの経過」『西南戦争之記録』第4号pp.208~pp.266西南戦争を記録する会 2008年・「西南戦争の考古学的研究」吉川弘文館 2017年)。
 文章中に五ヶ瀬川薩軍の舟が転覆した記述がある。この時転覆した舟には薩軍が佐伯で編成した新奇隊員も乗っており、隊員数人が溺死した。なお、新奇隊員の戦争中の死者は9人あるいは11人とされている。「征西戦記稿」では転覆で薩軍44人が溺死したとある。
 五ヶ瀬川左岸(北岸)に北方町八峡村はあり、対岸の南側には北方町早日渡集落がある。五ヶ瀬川は上流から深い谷底を流れており、この付近では高さ60m以上の崖が続いている。早日渡集落は崖上の平坦面にあり、西側背後には当時薩軍が展開した荒平・大山・千本杉などがあり、これらの薩軍が官軍に追われ早日渡から対岸に渡ろうとしたのである。三艘の小舟は早日渡下組の三人が渡し守として徴用されているので、薩軍の逃走経路がより明らかになった(西川功・甲斐畩けさ常1979年「西南の役髙千穂戰記」pp.331西臼杵郡町村会)
 この件に関して柴田勝實編「新奇隊士山崎集氏書簡」『明治丁丑豊後西南戦記』を引用する。
  滞在数日、命ありて高千穂街道を上り、大楠村ニ到着、将に午餐をとらんと欲する

  の時、敵の追撃をうけ、退却の已むなきに至る。夫より二三里の下大山村と称する

  所に陣を整え、堅塁を築き、敵と対陣すること半月余、此間老生は軍醫の任務なり

  しため、山麓なる大山村に宿営し、毎日若くは必要に応じ山巓の砲塁に塹濠を通じ

  て往診、又視察をなし居り、然るに八月十日、夜半の大雨にて、大小河川の水汎濫

  したるが翌日早暁急劇なる敵の襲撃を受け、兵力寡少支え難く、山麓の下五ヶ瀬川

  に敗退せしも、此渡舟場よりは他に通ずる途なければ夜来の増水激流を冒し、小渡

  舟に過剰の乗込みをなし、奔流に棹せしものならん、老生は大山の中腹の農家に分

  宿し居るを以て河畔に下らず、山麓の間道を横に小谷の奔流を泳ぎ渡る。此間屡々

  狙撃せられしも、奇積にも無難、遂に林中に影を没し、退却するを得たり。為に多

  数の溺死者を出す。又已むを得ざりしことならん。爾来交戦らしき交戦なく、敗退

  遂に長井村に至りしものなれば、或は然らんかと被考候。其後新奇隊戦友とも逢わ

  ず、途中同友矢田又太郎に会し、共に長井村に至って最後諸隊と共に降伏し、私宅

  謹慎の証を得、帰伯したる経過に有之候。
 上記の文の主人公は五ヶ瀬川を渉ろうとせずに、南岸の山地を抜けて下流の方に脱出したが、舟に乗った人たちは溺れてしまったのである。

 

 おわりに
 西南戦争に従事した山口県編成軍夫の延べ総数は山口県(2,802,631人)だった(「戦記稿 附録」軍團旅團輜重部傭役軍夫人員表)。「戦記稿」では10月15日までで集計しているので、本史料の河原組の場合、7月1日から10月15日までが従事期間だったと仮定すると。約105日間であり、延べ約10,500人となる。山口県全体ではこの他にさらに多くの軍夫が存在したことになる。「山口県史 史料編 近代1」によると、同県では3月16日に初めて人夫(当初は軍夫の名称はなかった)千人を送り出しており、3月下旬段階の予定では同県内からはすべて合わせて五千人を派遣することになっていた。但し、従事期間は無期限ではなく短い日数を希望していたが、それは有耶無耶になっていった。
 県史では主に3月段階の史料を掲載し、その後の軍夫の情報は少なく、河原組に関する情報は見られない。7月20日山口県から各大区に出された達では、8月1日から21日まで大区毎に繰り出すよう計画されていた。但し本名簿を見る限り大区単位で編成されておらず、実態は異なっていたようである。山口県編成軍夫の実数は不明だが、河原組名簿は氏名・出身地名が判明するという他には見られない稀な点に価値があると思う。一度登録された者は病気や死傷の場合を除き、引き続き従事していたことが分かる。「戦記稿」にあるように10月15日までだったのかは分からない。他に山口県軍夫に関しては少なくとも活字化されたものの存在を知らない。

 

 

高床山 斎藤一 藤田五郎

 伊東成郎著2022年「斎藤一 京都新選組四番隊組頭」河出書房新社という本を開いたところ、斎藤一藤田五郎と称していた)が西南戦争に従軍し負傷した高床山の場所が分かっていないという記述があったので、この短文を書いておきます。同書には下記のように記されています。

   ちなみに藤田が奮戦し、受傷した「高床山」について、明治以降の大分県地図を

  複数あたったが、表記そのものがみられず、確認がとれなかった。大分県と宮崎県

  の県境付近の山岳かと思われる。

 2016年、「山崎純男博士古希記念論集」に「高床山について」と題して高床山の場所が判明したことを報告したことがありました。伊東氏の推定通り、大分・宮崎県境の山であるが、今、その抜刷りを探してみたが見つからないので、PCに残っていた図を貼り付けておきます。

和紙に絵を描く

 和紙にアクリルで風景画を描いて、満足するのができたら最終的には掛軸にしようと計画しています。

 昨日はペイントで描き続けてきた下書きをA3版4枚に白黒で複写し接合して満足。今日はアワガミファクトリーという所に注文しておいたエデショニングペーパーというのが届きました。まだ開封してないけど。秋の大分県美展に出そうとおもっているところです。誰でも参加できるようなので。実は何年も前からああでもない、こうでもないと構想してきたけど、もういい加減に形にしようと決めたわけです。今までの調子を振り替えると展示会に間に合うのか、和紙にアクリルで描けるのか、も疑問ですが。2022.7.1

 下絵を窓に透かして、和紙に描こうと貼り付けてみました。2022.7.2

 そしてアクリルを水で薄めて上から塗る。均一に塗れないので何度も重ねるしかないかな、と。これは練習用として諦めずに進めてみます。もしかしたらヘタウマでかえっていいかも? そういえば今日は大分宮崎県境の梓山に薩軍が襲来し、黒土峠まで進出した日だ。今日は台風が接近中で、時々降ってくる。当時は梅雨時だっただろう。7.3

 先ず遠景から塗り始め、次第にまばらな状態を滑らかにするが、できない。7.4

 窓ガラスに貼り付け、縦に置いているので色が垂れてくる。和紙はにじむのでドーサを引くらしい。初めにやるべきドーサの順番が遅くなり、順序が狂うが思い出して湯管(ゆうちゅうぶ)を見て、早速、準備し、塗る。皿は以前作ったもの。中国青磁風。7.4

 どうも下手くその方に進んでいるらしい。トレース台代わりの窓を止め、別の広い扉にしたので、端を折り曲げることなく、透かして見えるようになった。初めからこれですべきだった。黒色が固まっており、買い出しに行く必要が生じたので中断。7.5

 昨日(7.7)臼杵で精進料理を食べた。切通という西南戦跡の傍の店。駐車場から風景撮影。

 遠景の山、右部にぽつんと飛び出したのが水ケ城。写真では左側、南側の窪んだのは尾根の堀切で、最近そこが伐採されたので遠くからでも

分かりやすくなった。上の写真の寺は臨済宗見星寺けんしょうじ。手前の建物と寺との間が切通です。写真の右奥の山は大迫山です。

今日の進捗状況は次。

手前の山や屋根とか舟に少し色付けした。白い雲は紙の色を残してもよかったと後悔。7.8

 我慢して続ける。舟はまあ見られる。精緻にしないのがいいらしい。まだ二合目くらいか。でも、家並みと背後の木々が難しそう。7.11

 今日も少しだけ変化した。7.12

 ローマは一日にしてならず、と言うし、名画も一日にしてならず。我慢して加筆し続けているが、ほんとは没に向かって描き進めているのかも知れない。7.13

 今日(7.13)もどこが替わったかわからない程度に加筆。

 7.16も少し変化。下の2枚。

 2022.10.17 締め切りに間に合わなかったけど、今日再度0から、別の紙でどーさを引くところから始めた。構図を変えてここまでできたのがこれ。

 駅と連絡船の波止場を加えた。まあ、最初の構図は漫画みたいだったけど、今度はさらに漫画風になった。でも楽しんで書いている。