西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

「秘録維新七十年図鑑[新装版]」の薩軍の枝弾

 1937(昭和12)年4月1日から5月20日まで、東京日比谷の旧国会議事堂で東京日日新聞社大阪毎日新聞社主催の政治博覧会が開催されている。そして三か月後にはそこで展示した史資料写真を掲載して「秘録維新七十年図鑑」が刊行された。その復刻本を2018年に吉川弘文館が出版しており、面白い写真が載っていたので紹介したい。

 本書の内容は、序文(岡 實)・政治七十年略史・政治篇・外交篇・軍事篇・人物篇・雑篇・憲法の出来る迄ー出品物の説明を中心としてー(尾佐竹 猛)・(東京日日新聞社大阪毎日新聞社)主催 政治博覧会出品目録であり、ここまでで259頁あり、復刻本では(解説)政治博覧会と『秘録 維新七十年図鑑』(刑部芳則)が18頁続いている。

 本題の写真は軍事篇に掲載された次のものである。

 

 これは白黒の写真で、上部左外に説明文「西南役薩軍製造使用の小銃彈(曾我祐邦子藏)がある。当時、資料の撮影時に照明が上から当てられたため影が映り込み、輪郭が見えにくい写真である。これによく似た資料は靖國神社遊就館に2点あり、資料紹介したことがある(高橋信武2016「西南戦争の考古学的研究」吉川弘文館)。

 西南戦争の際、銃弾材料である鉛が不足した薩軍は代用品として錫と鉛の合金銃弾を製造し、やがてそれらも不足したので銅製銃弾、最後は鉄製銃弾を作って使っていた。この枝弾と呼ぶことにした物は、7月くらいから製作された銅製銃弾製作過程の遺物である。遊就館例は片側に1個ずつ、10段の枝が出ている形だったが、写真のものが本体が上下二つに割れていると仮定すると下の写真のようになる。

 (上の写真では9段しかないとしたが、10段あることを見落としていた。)写真と簡単な説明文だけしかなく、素材が何か分からないが、おそらくこれも銅製だろう。出品者の曽我祐邦(1870-1952)は西南戦争当時は第四旅団司令長官だった曽我祐準すけゆき(1844-1935)の四男だった。祐準は展覧会の2年前に亡くなっており、子供の祐邦が父親の遺品を出品したのだろう。

 本書末尾の解説では展示品の現存確認資料一覧があるが、問題の枝弾は所在を確認できていない。しかし、これまで遊就館例しか存在しなかったものが他にも存在したことを裏付ける貴重な追加例である。 

小幡山(おばたやま)の遠景

 去年撮影したものです。以下は以前のものと重複しますが、写真があると分かりやすいので説明します。

 延岡市小幡山は1877年8月15日、第二旅団が下に掲げた写真の左側から急斜面を登っている。「征西戰記稿」を掲げる。

  第二旅團ハ是日熊田ヲ指シ道ヲ第一旅團ノ右ニ取ル(※表を略す)諸隊悉ク小峯ニ會

  シ第一旅團ト約シ午前三時、共ニ途ニ上ル川内名大野祝子川(※ほうりがわ)等ヲ經

  テ桑平ニ至リ其間道ニ出デ諸險阻ヲ跋渉シ遂ニ可愛山脈小幡山ニ達ス小幡山ハ可愛

  嶽ノ西位ニ屹立シ山麓祝子川ヲ夾ミ行縢山ノ東面ト相對ス而シテ左ハ其脈ヲ長尾山

  ニ連子施テ東南角ニ及フ右ハ八水山及ヒ富谷山(※宮谷山の誤表記)ト一大溪ヲ匝抱

   (※きょうほう:めぐり いだく)シ祝子川ニ臨ミ濱砂(※はまご)ヲ蔽ス而シテ桑平ヨリ僅

  ニ一樵徑ヲ其山腹懸崖ニ通シ道狭ク人、列ヲ成ス能ハス、其下ハ絶谷數千尋、底極

  ヲ見ス實ニ險阻ノ地タリ紆餘小幡山ニ達シテ六首山背ニ出テ可愛山麓ヨリ鳥越及ヒ

  火之谷ヲ經テ長井村ノ背後ニ出ツ復タ別路ナシ我全軍、銃ニ劍シ羊腸ノ險阪ヲ攀チ

  魚貫シテ進ミ漸ク小(※ママ)山ニ出ントス時ニ午後一時ナリ遥ニ山頂ヲ望ムニ兵

  凡ソ二三百許將サニ下テ此ニ至ラントス我軍以テ第一旅團ノ迂回兵ト爲シ暗號ヲ以

  テ之ヲ試ムルニ彼レ俄ニ騒ク乃チ其賊タルヲ知リ先鋒二中隊粟屋出羽二大尉急ニ之ニ

  馳セ散兵ヲ擺布シ直チニ之ヲ擊タントス賊顧テ六首山ニ退キ岸壁ニ據テ瞰射ス我兵

  勇ヲ皷シ且ツ射且ツ進ミ山砲一門ヲ一邱阜上ニ安シ又一門ヲ小畑山頂ニ送リ銃砲齊

  ク攻ム賊亦善ク拒ク時ヲ移シテ未タ勝敗ヲ决セス因テ一中隊大久保大尉ヲ派シ我左側

  ノ渓谷ニ迂回シ賊背ニ出シテ夾擊セントス賊覺リ連リニ渓中ヲ掩射ス該隊出ル能ハ

  ス日將ニ斜ナラントス、今井中佐其久ク决セサルヲ見テ自ラ出テ戰線ニ臨ミ將校以

  下ヲ督勵シ叱咤諸隊ヲ指揮ス衆、氣ヲ得テ大ニ振ヒ更ニ豫備一中隊松村大尉ヲ出シ戰

  ヲ援ク諸隊吶喊、銃槍ヲ揮テ進ム因賊、色稍〃動ク偶〃一彈アリ今井中佐ノ左股ヲ

  傷ス我軍憤怒攻擊益〃烈シ賊遂ニ支ヘス午後六時險ヲ棄テ走ル我軍之ニ據リ更ニ勢

  ニ乗シ又右方ノ險ヲ奪フ賊乃チ退キ可愛岳ノ中腹西南ノ險ニ據リ對戰ス可愛岳ハ此

  間第一ノ天險ニシテ殊ニ最高山タリ本團進取ノ次序ハ先ツ小畑山、次ニ六首山、其

  次ヲ可愛岳トス今既ニ其ニヲ取ル其一ニ何カ有ラン然レノモ日既ニ暮ル﹅ヲ以テ胸壁

  ヲ急造シ對戰、夜ヲ徹ス

 ムカバキ山と小幡山の間に祝子ほうり川が流れている(写真では右から左に)。第二旅団は写真では小幡山の左斜面の尾根を登り、頂上に着こうとしたら頂上から薩軍が二三百人下ろうとするのに遭遇した。時間は午後1時だった。小幡山の東斜面には岩壁となっている場所が多い。この日、両軍の決戦ともいわれる和田越の戦いが午前中に行われ、薩軍が敗退しているが、その後の出来事である。

 薩軍は後ろに下がり、官軍は頂上に着いて攻撃し、四斤山砲1門を頂上に、別の1門を少し前進したところに置いて砲撃した。薩軍は可愛岳に続く尾根筋にある六首山から反撃している。今まで誰も気付かなかったというか指摘していないが、和田越から撤退した薩軍の一部が官軍の背後に回ろうとしてここに現れたのであろう。

 現地には戦跡が残っている。この日、さらにその後に第二旅団が築造した台場が残っている。相互の距離はかなり近く、厳重に守る状態である。兵員数に比べ、守備範囲が狭かったということだろう。下図に示すように1,400万年前にマグマが上昇し、環状に大地が裂け、そこからマグマが噴出した結果、周辺よりも現状で300m位高く、帯状に山脈が続く地形が形成されたのである。行縢山も帯の一部をなしている。

 上図の説明文に8月16日から官軍が築いたとあるが、15日後半からに訂正する。ここも何度か訪ねたが、誰も認識していない戦跡を見つけるのは気分がいいものだった。可愛岳頂上を訪れる人は多いが、その先に行く人は少ない。年間を通じて滅多に人が通らないし、崖沿いの所を通ったり、道なき森を通るので明るいうちに帰れなくなる危険性もあるし、そうなると近道しようとして崖から転落する可能性もある、とだけ言っておきたい。       💭 💛800 ⤵⤴

第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争(終) 9月

 第三旅団の移動状況を「戰記稿」から見ておきたい.

 9月1日紙屋村・綾・野尻・高原・小林に進軍。2日、左翼軍は国分に向け進軍。3日、田口村、4日横川・溝辺・加治木・国分。揖斐中佐は7個中隊を率い海路鹿児島へ。

 5日、「第三旅團ハ五日三浦少將二中隊沓屋大尉中村中尉ヲ率テ汽船金川丸ニ搭シ午後加治木ヲ發シ鹿兒島磯田ノ浦ニ抵ル」。揖斐の7個中隊は「甲突川ヨリ上陸シ城下南方大門口ノ方面ニ當リ守線ヲ高麗橋外ニ起ス即チ別働第一旅團哨線ノ右ニシテ左ヲ新撰旅團ニ接ス以テ谷山道ヲ扼ス線外ノ人家八九宇射道ニ當ル者アリ之ヲ焼ク」。言葉通り解釈すると、第三旅団の立場から見れば左側に別働第一旅団が位置し、同じく左は新撰旅團に接するという矛盾した記述である。

 6日、「六日少將東福ケ城ヲ發シ左翼厚東中佐ノ許ニ至ル午後一時其大門口ノ防禦線ヲ天神馬塲ニ進メントスルニ賊之ヲ認メ發射ス我兵之ニ應シ暫時交戰遂ニ高麗橋ニ至ル(※戦死門田秀雄少尉の表を略す)乃チ防禦線ヲ定メ甲突川ヲ前ニシ右翼、海濱ヨリ左翼、西田橋ニ至リ牙營ヲ下荒田村騎射塲ニ移ス」。この6日の戦闘報告表が1点ある。

 C09084821300「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0770・0771

  第三旅團歩兵第十二聯隊第二大隊第二中隊大尉沓屋貞諒㊞  

  我軍総員:百二十八名  死者:将校一  戦闘日時:九月六日  

  戦闘地名:鹿児島縣下天神馬塲

  戦闘ノ次第概畧:九月六日天神馬塲ヱ進線ノ為メ午后第一時淵崎出立シ

  一時十五分細島湊ニ至リ直ニ賊臺塲ヨリ発放ス暫時戦争ス夫レヨリ髙麗橋

  防禦線ニ着   備考我軍:即死陸軍少尉門田秀雄

 9月6日関係の地図を示す。右翼端はその後の埋立てを推定して示した。

 天神馬場は南から西田橋を渡って最初の交差点を右折した白い直線道路付近らしい。この6日は天神馬場に防禦線を前進できなかったようである。

 7日、「揖斐大佐及ヒ會計砲廠輜重ノ各部長モ亦至ル乃チ佐久間中佐ニ令シテ曰ク明朝將サニ防禦線ヲ進メントス因テ一中隊ヲ高麗橋ニ留メ第二旅團ノ防禦線ニ注意スヘシ云々」。戦闘がなかったので、戦闘報告表はない。

 8日の全文は「八日拂暁甲突川ノ防禦線ヲ千石馬塲ニ進ム」のみ。戦闘報告表が3点ある。

 C09084821400「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0772・0773

  第三旅團歩兵第十二聯隊第二大隊第二中隊大尉沓屋貞諒㊞  

  我軍総員:百三拾壱名  傷者:下士卒二

  戦闘日時:九月八日 戦闘地名:鹿児島縣下天神馬塲

  戦闘ノ次第概畧:九月八日高見馬塲ニ進線ノ為メ午前第五時斥候隊髙麗

  ヲ出発シ天神馬塲至ル賊城山ヨリ発放シ直ニ開戰ス同午后第七時三十分斥

  候隊進線ニ帰ル

  備考我軍:一傷者二名二等卒森本新三郎 二等卒石川忠吉

 高見馬場・千石馬場に関して、以前「甲突川右岸の戦跡」について書いた際に使用した地図を再利用して掲げる。f:id:goldenempire:20210604191651j:plain

 C09084821500「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0774・0775

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊長陸軍大尉大西 恒㊞  

  我軍総員:将校以下九十三名  死者:伍長 一名

  戦闘日時:九月八日 戦闘地名:鹿児島城下

  戦闘ノ次第概畧:本日拂暁竹橋防禦線ヨリ高馬塲通江進軍茲ニ防禦線ヲ

  ム   備考我軍:本日死者 一等伍長 山内武利

 竹橋とは高麗橋下流三個目の武橋のことである。高見馬場を高馬場としている。

 C09084821600「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0776・0777

  第三旅團歩兵第三聯隊第三大隊第一中隊 中隊長陸軍大尉竹田實行 

  我軍総員:百二十名  傷者:下士卒 壱名

  戦闘日時:九月八日 戦闘地名:鹿児嶌中福良邉

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時竹ノ橋川筋ノ防禦線ヲ引揚中福良ニ進軍爰ニ

  新防禦線ヲ設クル為メ前面ヘ配布シ賊之見認ルヤ屡我軍ヲ狙撃スト雖ノモ屈

  セズシテ胸壁及ヒ竹柵等ノ凖備ヲ整ヘ線外ノ兵ヲ引揚ケ爰ニ固守ス   

  我軍備考:傷者壱名ハ一等伍長岩崎清助ナリ直ニ繃帯所江送ル

 甲突川上流左岸の伊敷に中福良公民館というのがあるが、ここが福良だろうか。武橋からやや遠いのだが。

 「戰記稿」から。

  九日午前四時新線ヲ設ケント中福良及ヒ高見馬塲ニ進軍スルニ賊頻リニ射

  擊ス我兵屈セス胸壁竹柵等ヲ準備シ線外ノ兵ヲ収ム

 この続きに死傷表があり死1・傷3を記すが、戦闘報告表から見てこれらは8日の死傷者数である。「戰記稿」では第三旅団に関する10日の記事が抜けている、というよりも10日のことを9日部分に記している。10日に山縣が各旅団長に警戒を呼び掛ける達を回覧している、その概要が9日部分に掲載されている。山縣の原文を掲げる。

 C09082898600「明治十年七月二十三日 来翰綴 ラ印 軍團本営」防衛研究所蔵1330・1331征討総督本営罫紙 

  昨今之形勢周圍之圍已ニ致完全候然ル處渠レ拠守以来已ニ一週ニ垂トシ

  粮食ノ闕乏ハ自然免ル可ラスト被察候付而者何時再度突出ノ挙動ヲナス

  モ測ル可ラザル義ニ候得者此際夜間ハ申迠モ無之昼間ト雖モ各哨兵線ニ

  於テ全戒嚴可為致各位ヨリ其筋ヘ夫々至急御訓示相成度此段態ト申進候

  也

   九月十日    山縣参軍

    山田少将殿 十日午后三時谷少将ヨリ来ル即チ曽我少将ヘ廻ス

    三浦少将殿 九月十日午前八時三十五分髙嶋少将ヘ廻ス

    谷 少将殿 九月十日午後一時山田少将ヘ相廻ス

    三好少将殿 三時五十分長坂中佐ヘ三浦中佐ヘ送

    曽我少将殿 午后第六時三十分山田少将ゟ来ル

    大山少将殿 三時十分三好少将ニ送ル

    東伏見少将殿 四時五十分三浦少将☐廻ス

    高嶌少将殿 ☐☐☐☐回ス

  追而長官不在之分者先鋒司令ニ而閲讀有之度候猶至急順達廻尾ヨリ御返

  却之事

 長坂中佐は新撰旅團参謀長。回覧は山縣が末尾に列記した各旅団長名の順になされておらず、以下の順だったらしい。高嶋が何時に誰に廻したかを記していないのだが推定してみた。

 大山(元別働第五旅団)3時10分三好に送る→三好(第二旅団)3時50分に長坂中佐・三浦へ送る→東伏見(新撰旅團)4時50分三浦に廻す→三浦(第三旅団)8時35分高嶋へ回す→高嶋(別働第一旅団)☐☐回す→谷(熊本鎮台)10日13時山田へ回す→山田(別働第二旅団)10日15時谷から来る→曽我(第四旅団)18時30分山田から来る。

 当時誰がどこにいたのかも記したいが、それはいずれ。その後の第三旅団の動向を記すと。

十三日高見馬塲二所柿木寺馬塲一所ノ砲臺竣功ス」・「十六日是日本團ノ全員左ノ如シ」とあり、従僕馬丁78人・傭夫26人を入れ計3,392人の表を掲げている。

 19日、山縣参軍は各旅団長官を集めた会議を開き24日に戦争を終結する最後の攻撃を行うことと、各旅団の攻撃場所を決定した。その分担を示す。第一・第二旅団と別働第二旅団は城山正面と左右から進撃し、東北の高所を占領した後に進軍すること。熊本鎮台と別働第一旅団は隆盛院迫(※場所不明)、第三旅団と新撰旅団については城山前面に進み要所を占領すること。

9月20日

  是日第三旅團ノ進擊スルヤ右翼一分隊防禦線外ニ出、二之丸ニ向フ賊兵壘

  壁ヲ島津邸ノ左右ニ築キ頻ニ十字ノ發火ヲナシ又邸ノ周圍ナル石墻板壁ノ

  内部處々ヨリ發火ス我兵、壁ヲ攀チテ突入セントシ又邸傍處々ニ放火スレ

  ノモ焼草寡乏且ツ賊兵ノ能ク防禦スルニ因リ遂ニ之ヲ果サス唯劇烈ニ發砲シ

  天明テ兵ヲ収ム(※下士1・卒1の傷者表あり)又左翼一分隊ハ同ク城山ノ砲壘

  ニ向フ山麓ニ一壘アリ我兵近ツキ進メノモ一賊ヲ見ス此壘ノ上部即チ城山ノ

  中腹ニ捷徑アリ徑側ニ一洞アリ賊等壘ヲ此洞中ニ設ケ頻リニ我ヲ射擊シ又

  城山左角ノ中腹山稍〃低クシテ松樹數株アル處ヨリ發射ス是レ我カ防禦線

  ヨリ遠望シテ未タ賊壘アルヲ知ラサリシ所ナリ我兵應擊亦天明ケテ兵ヲ

  ム

 「第三旅團ト新撰旅團トノ約束ハ左ノ如シ

  ○第三旅團ハ一中隊ヲ以テ二之丸ニ向ヒ之ヲ畧奪シ或ハ焚燬シテ賊勢ヲ分

   割スヘシ

  ○新撰旅團ハ一中隊ヲ二分シ其一ヲ以テ二之丸ヲ押壓シ他ノ一半ヲシテ私

   學校ヲ襲ハシメ之ヲ奪フノ後ハ勉メテ虚勢ヲ張リ賊ヲシテ大ニ顧慮アラ

   シムヘシ(※表あり。第三旅團一中隊は弘中大尉一ニ曰ク竹田瀧本ノ兩隊ヨリ撰拔スト 司令官は川村少佐。下士以下合計百人)

 その他の旅団もそれぞれ各方面から攻撃予定である。

 07780779「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0778・0779

  第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第三中隊長陸軍大尉武田信賢㊞  

  我軍総員:二拾壱名  傷者:下士卒 一

  戦闘日時:九月廿日 戦闘地名:鹿児島第一大区一小区 

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時陸軍中尉草塲彦輔一分隊ヲ率ヒ我カ防禦線ヲ

  雷發シ同第四時十分第一大区一小区島津家邸前ニ開戦敵兵ノ防禦頗ル堅

  固且ツ一分隊ノ寡兵進入スル能ハザルヲ以テ同第五時我カ防禦線ニカヘ

  ル   

  備考我軍:傷者一名ハ一等兵卒井下鶴次ニテ入院療養ス

 21日、城山方面から薩軍の使者が官軍にやってくるということがあった。その経緯がアジ歷に残っているが、原文を見え消しして多数の修正が加えられている。詳細は「西南征討誌」に載っていると思ったが、この原文の2割程度は削られている。次の「戰記稿」を引用した後に、修正前の原文を掲げたい。「戰記稿」も長いがこれ以上に詳しく記されている。まずは「戰記稿」を。

  二十一日賊ノ隊長河野主一郎山野田一輔我哨兵線ニ來リ情願スル所アラン

  ト請フ乃チ之ヲ警視ニ托シテ監護セシメ二十二日其言フ所ヲ聞クニ曰ク曩

  ニ大久保參議川路大警視ハ西郷大將ヲ刺殺センヿヲ謀リシニ因リ西郷大將

  之ヲ政府ニ尋問センカ爲メ桐野篠原兩少將ト共ニ途ニ上リシニ熊本ニ至ル

  ニ及テ圖ラス官兵ノ爲メニ遮ラレ已ムヲ得スシテ兵端ヲ開ケリ爾來轉戰シ

  テ今日ニ至ル然レノモ到底其何ニ因テ然ルヲ知ラス今某等城ヲ出テ來リ明瞭

  ニ其縁由ヲ聞クヿヲ得ントス二十三日早朝乃チ之ニ命シテ曰ク國ニ法律裁

  判アリ以テ疑事ノ實否曲直ヲ正ス可シ暗殺ノ事ニ於テ其實否ヲ正サント欲

  セハ一紙ノ告訴ヲ以テシテ可ナルヘキヲ妄リニ大衆ヲ動カシテ政府ニ迫

  ントス王師ノ下ヲ之ヲ征討スルハ固ヨリ其所ナリ今ニシテ其然ル所以ヲ聞

  カント欲スルモ先鋒將師ハ敢テ之ヲ議スルヲ得ス然レノモ情願スルアラント

  欲セハ先ツ降ヲ納レテ而シテ後ニ徐ニ哀請スルノ外ハ復タ他路アルナシ汝

  等宜ク歸テ此意ヲ諭スヘシ我カ命ニ服セハ本日午後五時ヲ期シ再ヒ來レ此

  限ヲ過キハ如何ナル情願ヲ陳ストモ我復タ汝輩ヲ容レスト因テ河野ヲ留メ

  山野田ヲ送リ還ス午後五時ヲ過クレトモ終ニ復タ至ラサリキ

 次が海軍の修正前の原文である。下に示す通り原文が見えるように修正を加えた史料だから読むことが可能である。長いので途中に説明・解釈を挟みたい。

 nC11080613900「明治十年 海軍征討誌案一」(防衛省防衛研究所蔵)0757~

  十九日両参軍諸将ヲ會シテ約束ヲ定メ圍テ守ルヲ一ト為シ攻テ破ルヲ二ト

  為シ各軍專ラ合圍ヲ嚴守シ而シテ各〃特ニ攻撃兵ヲ簡拔シテ一ニ攻撃ヲ任

  セシメ敢テ合圍兵ヲ顧ルヲ聴サス又合圍兵攻撃兵ニ應シ沮ム其部署ニ至テ

  ハ則砲隊ヲ編シ以テ攻撃兵ヲ助ケシム砲隊先ツ浄光明寺山上ヨリ城山ノ東

  北面ニ突出ノ賊壘ヲ砲擊シテ中ルヤ第一第二及ヒ別働第二ノ旅團其期ニ乗

  シ齊シク攻擊兵ヲ縦チ進テ東北面ノ高処ヲ占メ以テ攻入ノ地ヲ為サシメ熊

  本鎮臺及ヒ別働第一旅團各兵攻擊兵ヲ行☐隆盛院迫ヨリ城山中央ノ背ヲ指

  シ第四旅團ノ攻擊兵モ亦城ヶ谷ヨリ攀躋シ岩﨑谷ノ壘ヲ斫テ中央ノ背ニ向

  ヒ第三旅團及ヒ新撰旅團ノ攻擊兵ハ城山前面ヲ乱射シ賊ノ力ヲ東北面及

  中央ニ專ラニスルヲ得サラシメ亦機ニ投シテ深入セシメントス而シテ旗艦

  及ヒ龍驤淸輝孟春ノ諸艦会場ニ雄視シ又其士官水平ノ出テ陸上ノ砲ヲ守ル

  者ヲシテ機ニ應シ賊壘ヲ砲擊セシム約束已ニ明カニ部署已ニ成ル賊岩﨑谷

  ニ據リ哨ヲ張リ坑ヲ鑿チ只避弾ノ地ヲ為スト云フ高雄丸機械ノ修理成ルヤ

  細島ヨリ佐賀ノ関ニ赴キ浅間艦ノ士官水平ヲ搭載シテ是日錨ヲ起シ廿日鹿

  児島ニ入ル廿一日旗艦又二ノ丸正面ニ向テ焼弾ヲ発ス弾遂ニ至大ノ家屋ニ

  中リ家屋忽チ烏有ニ帰ス適〃風微ニシテ他ニ延焼セスト雖ノモ其中間ヲ焼断

  ス賊乃チ潜伏ノ便ヲ失フ廿二日城山ヨリ白旗ヲ揮テ至ル者アリ別働第一旅

  團ノ哨兵之ヲ誰何ス曰ク河野主一郎山野田一輔ナリ當ニ陳情スヘキヿアリ

 上図は「甲突川右岸・・」でも使用した高橋蔵の地図である。別働第一旅団は県庁の向かい側、右翼新撰旅團、左翼第三旅団に挟まれる位置にいた。 

  ト哨兵乃チ納テ警視兵ニ付ス警部二人ヲ召テ其情ヲ問フ渠レ実ヲ供セス既

  ニシテ憩所ニ退カシム適〃坂元少尉其傍ヲ過リ渠レ坂元ヲ呼ヒ而シテ謂テ

  曰ク我等情願アリ未タ之レヲ陳フルノ路ヲ得ス知ラス川村参軍ニ見ルヲ得

  ヘキヤ坂元對テ曰ク余敢テ諾スル能ハスト雖ノモ其言ヲ轉致スルカ如キハ則

  之レヲ為サント(※河野等が顔見知りだっただろう坂元に声を掛けなければ、後で川村に

    面会できたか分からない)乃チ去テ参軍ニ見ヘ命ヲ請フ参軍曰ク我レ之レヲ熟

  慮セント翌廿三日午前八時川村参軍田ノ浦ノ本営ヲ出テ磯ノ造舩所ニ至リ

  機械蔵畜塲ノ楼上ニ於テ二人ヲ召ス既ニシテ警視兵四人之レヲ看送シ来ル

  参軍乃チ主一郎ト一輔ノ腰縄ヲ鮮カシメ且之レニ椅子ヲ與フ参軍相對シテ

  距シ共ニ一卓子ニ凭ル坂元少尉其側ニ侍ヘ☐而シテ警視兵ハ遠ク座ヲ隔テ

  ヽ居ラシム楼中粛然タリ(赤字部分は「西南征討志」では省かれている)参軍従容

  トシテ問テ曰汝等何ノ為メニ来ルヤ請フ其情ヲ語レ二人口ヲ交ヘテ曰ク

  謹テ諾スト而シテ主一郎先ツ進テ曰ク顧フニ四五日前逸見十郎太書ヲ致シ

  テ余ヲ招ク即チ往テ面ス十郎太言フ僕身ニ銃創ヲ被リ為メニ歩行スルヲ得

  ス竊ニ盡サント欲スル者アルモ亦遂ニ盡スヲ得ス夫レ我軍今日ノ運命☐

  ハ残喘ヲ保チ坐シテ死ヲ竢ツ者ノ如シ我輩ノ死ハ固ヨリ顧ミルニ足ラスト

  雖ノモ夫ノ西郷先生ニ至テハ則實ニ國家ノ柱石ナリ今此柱石ヲシテ徒斃セ

  シムルハ獨リ我輩ノ遺憾ニ勝ヘサル而已ナラス抑國家ノ為メニ大ニ惜ム可

  シ知ラス子如何ト為スト余對ヘテ云フ信ニ然リ僕亦敢テ思ハサルニ非ラサ

  ルナリ嘗テ川村参軍ノ軍門ニ至リ親シク暗殺ト征討ノ二理由ヲ質シ若シ我

  レニ非アラハ則皆速ニ降伏シ罪ヲ請フテ以テ先生ノ死ヲ赦サレンヿヲ願ハ

  ント欲スト雖ノモ未タ☐言ノ機ヲ得ス故ヲ以テ黙シテ今日ニ至レリ今☐子ノ

  言アリ僕請フ必ス機會ニ乗シ其言ヲ行ハント相約シテ退キタリキ然リ而シ

  テ翌十九日ノ夜ニ至リ官兵厪ニ私学校ヲ襲フ我軍狼狽錯愕シ兵気大ニ沮喪

  セリ乃チ復タ戦フノ勢力ナキヲ覺リ心竊ニ謂ラク機已ニ至レリト乃チ村田

  新八池上四郎ニ就キ之レヲ言フ皆他議ヲ容レス因テ諸隊長ヲ會シ之レヲ議

  ス亦以テ然リト為ス遂ニ桐野利秋別府晋介ニ謀リ廿一日西郷先生ニ謁シ謂

  テ曰ク今日ノ舉我ニ於テ固ヨリ至理至當ニ出ルニ論ヲ須タスト雖ノモ只獨リ

  自カラ信シ敗レテ而シテ斃ルレハ則其至理至當ノ☐趣モ亦滅シテ人ニ明

  カナラス終ニ賊ト為テ死スル而已是レ終天ノ寃ヲ呑ムト謂ハサル可カラス

  因テ余将ニ自カラ川村参軍ノ営ニ至リ彼我ノ事情ヲ問ヒ且答ヘ遂ニ彼我ノ

  曲直ヲシテ判然帰スル所アラシメントスト先生余カ言ヲ聞テ曰ク初メ事

  起スノ日ニ當リ自カラ謂ラク我命ハ已ニ汝等ニ授クト今ニ及テ復タ何ヲカ

  言ハン汝之ヲ為サント欲セハ則之レヲ為セト是ニ於テ余ノ心始メテ决ス翌

  廿二日将ニ城山ヲ出テントスルニ當リ途次逸見ヲ訪ヒ行ヲ告ケ更ニ山野田

  ト共ニ出テ今参軍閣下ニ見ルヲ得ル是レ其来ル所以ニシテ余輩ノ喜亦知ル

  可キナリト而シテ端ヲ更メ二人問テ曰ク曩ニ大久保内務卿川路大警視陰

  ニ中原尚雄等ニ吩咐シ西郷大将ヲ刺サシメント謀リシヿノ発覚シタルニ因

  リ大将カラ☐ニ伏シ其罪ヲ問ハント欲シ出テ肥後ニ至ルヤ鎮臺兵ヲ発シ

  テ之レヲ遮ル是於テカ戦フ大将豈好テ乱ヲ起ス者ナラヤ不得已ハナリ然

  リ而シテ政府其首謀者ヲ問ハス及テ被謀者ヲ征討ス百戦今日ニ至ルモ終ニ

  其然ル所以ノ理ヲ知ル能ハス蓋シ之レ有ラン願クハ聞クヲ得ヘキヤ参軍對

  テ曰ク其理由右ノ如キハ則已ニ明明乎トシテ世ニ明カナリ然レノモ尚之レヲ

  聞カント欲セハ只我レ其無キヲ保スル而已ナラス頃者大山前縣令ニ就キ正

  常ノ手ヲ経テ公平ノ審ヲ受ケ中原尚雄等ノ口供ハ全ク証拠ニ出テシヲ供出

  セリ汝等今遽ニ之レヲ聞クモ蓋シ中心自カラ解ク能ハサラン且ラクニ其

  口供ヲ假リ以テ信ニ實ニ出タル者ト為スモ暗殺ハ正道ニ非ラサルナリ設令

  内務卿タリ大警視タリト雖ノモ之レヲ告訴スルノ門アリ之レヲ糾問スルノ道

  アリ豈私カニ官吏ヲ曲庇シ反テ天下ノ正道ヲ枉ルヲ得ンヤ况ヤ西郷其罪ナ

  キニ於テヲヤ然リ而シテ其門ニ由ラス其道ヲ行カス而シテ只中原等片言ノ

  口供ヲ妄信シ大兵ヲ提ケ将ニ以テ自カラ其罪ヲ問ハントス豈臣子タル者ノ

  冝シク為シ得ヘキノ道理アランヤ况ヤ其口供モ亦羅織誣陷ニ出ルヲヤ且西

  郷ハ陸軍大将ナリト曰フト雖ノモ身退テ散職タリ則兵馬ヲ指揮スルノ權ナシ

  然リ而シテ檀ニ兵卒ヲ募リ猥ニ兵器ヲ弄ス是レ国憲ヲ犯スニ非ラスシテ何

  ソヤ西郷モ亦嘗テ大政ニ参ス豈此ノ☐賭ノ理ヲ知ラサルノ人ナラン天皇

  ノ慈仁ナル其レヲシテ国憲ヲ犯スノ大罪ニ陷ラサラシメント欲シ其未タ発

  セサルニ先ンシ特ニ臣純義ニ命シ鹿児島ニ赴カシム純義義聖諭ヲ承ケ泣血

  シテ退キ急ニ高雄丸ニ搭シテ至ル豈料ランヤ少壮ノ輩銃ヲ提ケ刀ヲ揮ヒ髙

  雄ヲ奪ハントス尚我レ百方言ヲ盡シ西郷ニ面セント欲スルモ終ニ上陸スル

  ヲ得ス乃チ命ヲ申フルニ路ナク空ク聖諭ヲ懐テ去レリ嗚呼千載ノ至憾ト謂

  ハサルヲ得ス其叛迹ノ敵ヲ可カラサル者業ニ已ニ此ノ如シ是レ征討ノ令已

  ムヲ得サルニ発シ其條理ノ審ラ☐ムル所以ノ者亦誣ス可カラサルナリ猶理

  ヲ推シ迹ヲ挙ケ懇ニ問ヒ切ニ諭ス二人稍〃其言ニ感シ其理ニ服スルノ色ア

  リ曰ク我等ノ死ハ自カラ甘シ固ヨリ惜ムニ足ラスト雖ノモ西郷先生ニ至テハ

  大ニ然ラサル者アリ蓋シ之レヲ拯フノ道ナキヤ参軍曰ク西郷自ラ之レヲ道

  ヒシヤ曰ク然ラス曩ニ先生ニ謁スル時此事ハ特ニ先生ノ一身ニ関スルヲ以

  テ敢テ之レヲ明言セサリキ(これも省かれている)参軍掻首良久クシテ謂テ曰

  ク汝等心中悔悟スル所アラハ一輔冝シク城山ニ還リ之レヲ西郷等ニ面聲ス

  ヘシ而シテ後復タ我ニ回答ス可キノ言アラハ速ニ以テ回答スヘシ然レノモ

  期已ニ熟セリ决シテ本日午後五時ヲ踰ユヘカラス其去ルニ臨テ曰ク☐カ為

  メニ西郷ニ一言セヨ息菊次郎永井村日向ニ於テ官軍ニ降伏ス適〃身創痍ヲ

  被リ僕熊次郎従フ今ヤ医療☐タラス請フ以念ト為ス勿レト(これも記載せず)

  而シテ主一郎ハ此ニ駐ラシメ楼ヲ去リ山縣参軍ノ営ニ過キ其事情ヲ語テ少

  シクシテ還レリ於是山縣参軍坂本陸軍少佐ヲシテ西郷ニ與フル書ヲ齎ラシ

  一輔ニ属付シ之レヲ轉致セシム是レ曩ニ西郷ニ與フルノ書ニ係リ當時其達

  セサリシヲ慮カリ今復タ再ヒ與フルト云フ午後一時坂元少尉一輔ヲ拉テ城

  山ニ還ラシメ而シテ後チ帰レリ午後五時ニ対☐☐モ終ニ回答至ル無ナカリキ

 山野田一輔は再び薩軍側に戻り戦死したが、河野主一郎は生き残っており、彼が獄中で書いた上申書は上掲のものに比べると簡単であるとだけ付記しておきたい。

 河野主一郎が使節として官軍の方に向かった経路に関して「西南記伝」に記述がある。

  二十二日、河野主一郎、山野田一輔は、薩軍使節として、鶴嶺神社の堡

  壘を出で、山野田、自ら白旗を持し、別働第一旅團高島少將の守線に至り・

である。鶴峰神社は現在城山周辺には存在しない。前記の記述に続き少し後に次の記述がある。

  二十二日の午後一時頃、余は山野田受持の臺塲であった大手口の鶴嶺神

  社に往て、平日は閉鎖しつつあつた小門より、舊枡形の跡に築いた敵の

  臺塲に至らうとしたが、敵彈の狙撃餘り劇しかつた爲め、一旦引返した。

  鶴嶺神社の守兵は、牡丹餅を製しつヽあつて、『最早、牡丹餅が出來上

  つた、之を☐て往つたらよからう』と云ふに依て、余は山野田と共に、

  牡丹餅の饗應を受け、白旗を製し、之を持して敵陣に往つた處が、官軍

  は其發射を中止し、皆壘上に立て、之を觀望して居つた。

 二度目には白旗を掲げていたので官軍は河野らが使者であると分かったのである。これにより鶴嶺神社の位置が大手口にあり、山野田の受持ち台場があったことが分かる。ネット「源平史蹟の手引き」というのに鶴嶺(つるがね)神社の記載があった。それによると鹿児島市照国町にあったが大正6年に磯庭園の北西に移設されたという。落城直前の城山一帯の薩軍の部署は「薩南血涙史」に載っている。岩崎口本道・私学校より角矢倉・二の丸内(※島津邸)・大手口より本田屋敷掛・上の平広谷より三間松まで・新照院越より夏陰下まで・夏陰口・後の廻方面・後の廻より城ケ谷口まで・城山・狙撃隊・その他である。山野田一輔は二の丸の隊長で総員33人だった。

 上記の内、上の平は二之丸の南西側で、城山の麓である。

 地図上で考えると河野等は城山の東麓沿いに移動し、大手口付近から別働第一旅団哨兵線に近づいたようである。本丸の御楼門石垣には多数の射撃痕が見られるように、これに対する向かい側には多数の官軍がいるので誤って銃撃を受ける可能性があり、比較的安全な方面から出て行ったのであろう。

 9月24日、午前4時3発の大砲発射を合図に官軍は城山・岩崎谷・私学校・本丸・二之丸などを守る薩軍に最後の攻撃を開始した。各旅団は概ね2個中隊を出している。第三旅団は竹田隊の一個中隊と瀧本隊の一小隊が攻撃隊だった。

 C09084821800「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0780・0781

  第三旅團東京鎭臺歩兵第三聯隊第三大隊第一中隊中隊長陸軍大尉竹田

  實行㊞   我軍総員:百二十二名  傷者:下士卒 一名

  戦闘日時:九月廿四日  戦闘地名:鹿児島城山 

  戦闘ノ次第概畧:午前三時三十分防禦線ヲ出テ兵ヲ二分シ其一ハ右一

  ハ左ヨリシテ共ニ旧二ノ丸ニ進ミ板塀及ヒ竹柵ニ取付シノキ彼ノ展望兵

  ニ発覺サレシヲ以テ直ニ吶喊シ或ハ梯子ヲ以テ砕破シテ踏入リ堡塁ニ

  踏込ミ守兵ヲ追散シ家屋ニ放火シ旧二ノ丸ヲ全ク占領シ火勢熾ナルヲ

  以テ之ヲ前ニ引受仮防禦線ヲ設ケシニ降伏人續々來ルヲ以テ之カ取扱

  ヲナス午前八時集合ノ号音アルヲ以テ全隊ヲ集合シ直ニ防禦線ニ引

  タリ   

  我軍ニ穫ル者:降人 未詳 凡ソ六十人  我軍ニ穫ル者:銃 ス

  イル壱挺 弾薬 スナイトル千発 器械 刀脇差共拾六本 糧 米

  百七十俵

  備考我軍:死者一名ハ一等兵卒浅井専之助ナリ死体ヲ小繃帯所ニ送ル

 薩軍は板塀・竹柵を石垣上に築いていた。官軍竹田隊は梯子を掛けて登り、二之丸を占領している。その後降伏する薩軍がおよそ60人だったというのは、二之丸の薩軍守兵は33人だったから他からも集まったのである。分捕った小銃弾はスナイドル千発とあり、エンフィールド銃弾は見られない。 

 C09084821900「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0782~0784

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第壱中隊長大尉瀧本美輝㊞  

  我軍総員:四十四人   死者:下士卒壱名 傷者:貳名 

  戦闘日時:九月廿四日 戦闘地名:鹿児嶋城二ノ丸

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時三十分発シ南泉院馬塲通リ縣廳門前通リノ角

  ニ進ミ爰ニテ隊ヲ二分シ其一部ハ西平山際ヨリ旧二ノ丸ヘ進入賊竹柵且板

  塀ヲ造リ間ニ塁ヲ設テ堅固ニ防禦ス之ヲ急擊猛烈ニ突破シ髙キ石垣ニハ階

  子ヲ掛ケ攀リ家屋ニ至リ直ニ石炭ニ油ヲ以テ放火☐迯逃☐テ進撃尚放火ス

  然ルニ照国神社内賊塁ヨリ烈敷放銃スルヲ以テ亦戻リ之ヲ追掛ク余一部ハ

  縣廳門前通☐☐南泉院馬塲西南屋敷内ヨリ進ミ城山旧追手☐所ノ髙処ヨリ

  賊発銃至テ烈ク之ニ向テ激射セシム縣廳門前通リニモ押ヘノ兵ヲ残シ占

  ス夜明ルニ及ヒ賊発銃全ク止ム而乄后此近傍処々捜索スル処賊潜居ヲ見ル

  皆降伏ス之ヲ衆メ降伏警備隊ヘ渡ス第八時頃川村少佐ヨリ縣廳門前通リ

  集合ノ命アリ第九時過哨線ニ引揚ル

  備考我軍:死者壱名ハ喇叭二等卒相良興吉傷者貳名ハ伍長岡田亀藏壱等卒

  吉田熊藏   傷者貳名共軽傷ニ付入院セズ

 地名の具体的な位置が分からないので両隊の進路を理解できない。

 9月27日、各旅団に解団と凱旋が命ぜられている。第三旅団が何時鹿児島を出発したのか「戰記稿」には記載がない。

 

三浦梧楼の古戦場回顧

 第三旅団司令長官だった三浦はその後中将になり、明治12年熊本県北部の山鹿町を訪れて漢詩を詠んでいるので紹介したい。(解読にあたり大分県立先哲史料館の三重野誠館長・小野順三さん・久保修平さんにお世話になりました。お礼申し上げます。)

   木落山頭秋色明   木は落ち、山の辺りの秋色は明らかである

   人稀白草不堪情   人も稀で枯草の樣子は耐え難く

   晩風殺々鍋田驛   夕方の風が寂しく鍋田の町に吹いている

   猶聴前軍陷敵聲   前方で敵を攻め落とす閧の声がまだ聞こえる

    己卯秋日到熊本途過鍋田村古戦場有憾 梧樓

 己卯の年は1889(明治12)年である。三浦は熊本市に至る途中で山鹿市鍋田村に立ち寄ったのである。山鹿市は第三旅団が編成後に初めに進軍した戦地であり、三浦には感慨深い地域だったのだろう。なお、三浦には同じ詩を書いた別の軸もあり、それは秋色を烽色としている。

 三浦は明治12年10月15日に西部検閲監軍部長として西日本出張に出発している。この旅程は丸亀・松山・山口・広島・小倉・福岡を経て熊本に11月28日に着し、12月9日に出発して長崎を経て東京に帰り着くという二ケ月強の出張旅行計画だった。実際には11月29日に熊本に到着し、12月10日に熊本を出て11日に長崎に着いている(C04028657300・C04028657700「大日記 明治十二年十二月 省内外諸各局参謀監軍兩本部及教師 水 陸軍省總務局」(防衛省防衛研究所蔵)。下記の資料が示すように、熊本に十日余り滞在した際に山鹿町鍋田に立ち寄り旧戦場を訪ねたのである。

 C04028604300「大日記 諸局参謀監軍 水 陸軍省総務局」(0329~0331防衛省防衛研究所蔵)

  肆第四千三百七十六百 第一水監百十四号 西検發第四十一号

  今般西部検閲被仰付候ニ付来ル十五日東京出發巡回日割大凡別帋之通

  有之候尤沖縄県之義者本年兵科並ニ会計軍醫部ノ将校各壱名派遣

  検査為致候条此段為御通知旁申進候也

     十二年十月十日

             西部検閲監軍部長

              陸軍中将三浦梧楼

  監百十四号

     陸軍西郷従道殿

 読み下すと次のようになる。

今般西部検閲仰せ付けられ候につき、来たる十五日東京出發巡回日割おおよそ別紙の通りにこれありそうろう。もっとも沖縄県の義は本年は歩兵科ならびに会計軍醫部の将校各壱名派遣検査致させそうろう条、此の段念のため御通知かたがた申しまいらせ候なり

 安満隊を表題に掲げておきながら三浦の話で終わるのもどうかなと思うので記すと、安満伸愛大尉はその後も陸軍畑を進み、少佐の時に明治28年5月3日、広島陸軍予備病院で拳銃自殺している。 

  C06060305400「明治二十八年 廿七八年戰役報告 甲 陸軍省」0757・0758(防衛研究所蔵)

  餘備病院入院ノ歩兵少佐安満伸愛三日午前五時室内ノ寝具ノ上ニテ拳銃ニ

  テ自殺シ咽喉ヨリ頭蓋ヲ貫キ即死ス不取敢報告ス

  自殺の理由は不明だが、病気入院中だったのだろう。弘中忠見大尉は明治17年5月に大尉で死亡している(C07070017400「明治十九年三月肆大日記 陸軍省防衛研究所蔵)。岡 煥之大尉は次の段階に進むべく戸山学校に入校中病気になり、明治12年7月22日病院で死去している。

    関係者を数人しか採り上げなかったが、戦後の彼らはそれぞれ軍人人生を送ったのである。彼らの西南戦争経験は西南戦争を経験しなかった後輩たちに受け継がれた筈である。三浦以外は早世しており、医療がそれほど発達していなかったのが惜しまれる。

 

おわりに

 今回、第三旅団の戦歴を地図に照らして追いかけてみたのだが、多数の戦跡が未発見のままだということが分かった。太陽光発電風力発電の設置が盛んだが、今後はもっと増加するだろう。設置に先立ち大規模に土地が削られるので、憂慮している。西南戦争戦跡に関心を抱かない教育委員会も見受けられるからである。

 興味深い戦跡がいくつもあったが、とりわけ興味深かったのは長尾山左翼の戦いである。各隊が戦闘直後に作成した戦闘報告表を見ているうちに、薩軍による8月18日の可愛岳突破の翌19日、第三旅団が守る長尾山左翼で薩軍の攻撃があったことが判明した。19日の戦いは相良の上申書や彼の戦記には記されていたが、戦場の場所は不明だった。さらに薩軍側の立場で書かれた本でも記述自体を疑わしいとみなされる場合もあったが、相良の記述が第三旅団の戦闘報告表の記述と日時・内容が一致し、相良達が19日に攻撃したのが第三旅団防禦線だった長尾山左翼であると判明した。彼の証言の正しさを裏付けることになったのである。 

 今回の作業は一例に過ぎない。戦跡に対する文献や現地踏査に基づく調査が本格的に行われることを期待して終わりとしたい。(2022.6.4)

 

臼杵市徳尾(とくの)山の台場跡

 5月5日、午後、臼杵市井村山の北東側の稲田周辺の山で戦跡踏査を行った。ずーと歩いてゆくと、最後の高まりに塹壕跡があった。これは長い塹壕跡で50ⅿくらいは土塁が続き、背後内側の南側は一段下げられており、畑に再利用されたことがあったらしい。東側の延長線上にも一段下がった面が続いているが、土塁は明確ではない。これを入れると80ⅿ以上はありそうだった。

 下図の矢印は塹壕が向いている方向である。徳尾山の東には大分市方面に続く熊崎川流域の谷水田地帯があり、ここを通る官軍を阻止しようと薩軍が築造したらしい。今日は気温が25度あり、汗をかいてしまった。

 北東側のコンビニ駐車場から見た徳尾山。一番左側のなだらかに見える所にこちら向きに塹壕跡が残る。手前の道路は臼坂バイパスであり、写真の10ⅿ外側にある左の交差点(地図で言えば赤と黄色の道路が交差する所)で右折し、徳尾山の西麓を通過する。

 井村山も徳尾山も北側を向いて塹壕が築造されており、薩軍大分市境の白山・再進峠方向から来るであろう官軍に備えて造ったものである。井村山と徳尾山に塹壕が二つもあったので思い出すが、この後、十日から二週間くらいして三重町に薩軍は移動するのだが、そこ、旗返峠では長さ500ⅿと170ⅿの塹壕を残している。同じ人たちが築いたのだろうか。塹壕を重視していたのだろう。徳尾山で戦闘があったのかなかったのか、はっきりしない。図化はしていないので写真を掲げる。

 土塁が手前から左に続き、曲がって右に続くのが見える。右側は一段低い。手前の土塁は側面を警戒して短く南側に折れる。右側地面から土塁上面までは80㎝くらいある。

 鉄棒の向こう側、左後ろに土塁の始まりが見える。土塁部は右側で曲がり、鉄棒の付近から一直線に東に続いている。

 中央やや左側が山の頂上で、そこから右に向かって徐々に下がる。手前の土塁部分、黄色い土が見えるところが明確な土塁の終る所である。

 帰りに往路と違う所を通ろうとしたら長い竹林になってしまい、途中に時期不明の大きな土塁状のものがあった。竹林を通り抜け山の縁に来たので斜面を降りて行ったら、すぐ下に小川が見えた。しかし3ⅿ位の高さの凝灰岩の崖が続き降りられなかった。一度下る小道を見つけて谷に降りたが休耕地の湿地が広がっていた。次第にぬかるんで長靴がはまるので、別の登り道を探して再び竹林に登った。結局、山を横断することになり、民家の裏庭に出て、そこから車までとことこ歩くことになった。💭 💛3 ⤵⤴

 

 

第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 8月 ※この一連のブログの引用に際しては、筆者名・記事名を明記せず使用することを禁じます。

 8月1日の「戰記稿」から。 

 八月一日第三旅團第三旅團ノ先鋒川村少佐ノ兵ハ昨夜十一時已ニ別働

 第旅團及ヒ第二旅團兵ト連合佐土原ニ進ミシニ賊千人許狼狽遁走シ

 忽チ又防禦線ヲ前岸ニ設ケテ我ヲ拒キ射擊シテ是日猶ホ未タ止マス川

 村乃チ防禦線ヲ右翼廣瀬ニ第四旅團ニ連(※連ね)下リ村前面ヲ畫シ

 二中隊生本城兩大尉ヲ此ニ休憩セシメ左翼ヲ第二旅團ニ連接ス〇又

 倉岡ナル歩兵三中隊栖横地大多和(篤義)三大尉及ヒ砲兵二分隊ト一小隊

 ヲ佐土原ニ進マシム

 第三旅団の先鋒川村少佐隊は7月31日23時に別働第二旅団・第二旅団と連合して佐土原に進んだところ、薩軍約千人が一ツ瀬川の対岸に逃走して防禦線を築いた。そこで先鋒は川の手前に防禦線を設けた。第三旅団右翼は広瀬の第四旅団と連なる下リ村を境とし、左翼は第二旅団に連接した。また、倉岡にあった歩兵三個中隊と砲兵を佐土原に進めた。佐賀利という集落が佐土原中心部から1.7㎞ほど東、一ツ瀬川南岸にあるのを下リ村としたのだろう。

参考までに、上は「新編西南戦史」附図だが見にくいので上下に分割で示す。

 3Bというのが第三旅団である、分かりにくいが。3旅じゃダメなんか。

 下記は下リ村(佐賀利)に置かれた柳生隊の報告である。

  C09084819900「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0742・0743

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第三中隊大尉柳生房義㊞

  総員:百三十名  

  傷者:下士卒壱名   戦闘日時:八月一日 

  戦闘地名:鹿児島縣下佐土原髙鍋川

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時高鍋川ニ防禦線ヲ設ケ敵間二百メートル

  ニテ互ニ射撃戦傷壱名アリ午后第一時第二旅團歩兵第九聯隊伊藤大

  尉ノ隊ト交換ス  

  敵軍総員:凡三百五十人   備考我軍:傷者 一等卒 川﨑吉三郎

 柳生・本城隊は「戰記稿」では下リ村前面で休憩とされたが、柳生隊は戦っている。高鍋川とあるのは高鍋の南にある一ツ瀬川だろう。午前3時に一ツ瀬川の南岸に防禦線を設けて銃撃戦を行っている。敵までの距離は200ⅿとあるが、現在の地図では両岸の土手上を走る道路の距離は500ⅿ弱である。この日の別働第二旅団岩尾惇正の従軍日記を引用したい。当時の状況の一端を知ることができる。

  八月一日本軍第二旅團及第三旅團陸続来リ一ノ瀬川ヲ挾テ守備ヲ設ク

  我翼ヲ第二旅團トシ其右ヲ第三旅團トシ第四旅團モ廣瀬ヲ取リ其右

  ニアリ而テ我哨所ハ高鍋本道ニアリ一ノ瀬川ハ都ノ郡ノ方位ヨリ来

  リ佐土原ノ外面ヲ繞テ海ニ入ル此日始テ海面ヲ見ル我隊ハ此日一日佐

  土原ニア薄暮リ第廿九中隊ニ替テ哨線ヲ守ル故ニ市街ノ景况ハ之

  ヲ記スル能ハス此一ノ瀬川ハ深ク乄徒渉スヘカラス且川巾大約百米

  許故ニ賊トノ間近巨离ナルヲ以テ日中塁ヲ築ク能ハス殊ニ我地ハ彼ノ

  地ヨリ低下シ加フルニ砂地ナルヲ以テ漸ク塹壕ヲ築クモ一発ノ小銃弾

  ヲ受ルノキハ乍チ破壊セラル故ヲ以テ実ニ危嶮極リナシ賊ハ土堤ヲ堀リ

  塁ニ代フ故ニ堅固ニ乄且其所在ヲ探知ル能ハス夜ニ至テ哨兵線ニ砲

  ヲ設置スルヲ以テ砲兵及ヒ人夫多分ニ来ル偶マ我左屯田兵ノ哨所ヲ

  前面川ノ中央ニ賊来ル故ニ一時放火ヲナス然ルニ此人夫等ハ全ク賊ノ

  来ル者トナシ砲ヲ率テ狼狽市街ヲ指テ遁ル故ニ一時ノ雑沓恰モ賊ノ奇

  襲ニ遇ヘシ者ノ如シ之ト同時ニ右翼ニ於テモ放火ヲ始メ終夜大小砲ノ

  音絶ヘス

  (高橋信武2020「西南征討日誌(別働第四旅団岩尾惇正従軍日記)」『歴史玉名』第92号PP.26)

 なお、岩尾等の隊は初めは別働第四旅団だったが、途中で別働第二旅団と合併している。北岸の薩軍は土堤の上に台場を築いていたが、岩尾等は土堤よりも川に近寄った低地に台場を築いていたのである。

 柳生の戦闘報告では守備を第二旅団伊藤隊と交代しているが、伊藤隊の報告は存在しない。

     C09084820000「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0744・0745

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊中隊長大尉弘中忠見㊞

  総員:百〇七人  

  戦闘日時:八月一日   戦闘地名:倉岡嵐田川ヨリ宮﨑ニ至ル

  戦闘ノ次第概畧:午前四時倉岡嵐田川ニテ開戦直チニ渉川賊壘ヲ落シ

  入尾撃八時頃宮﨑ニ入リ後佐土原口池内村ニ進ミ宿陣ス 

  我軍ニ穫ル者:弾薬 若干 エンヒール   備考我軍:死傷ナシ

  備考敵軍:弾薬破棄セリ

 前日7月31日の報告ではないかと思わせる内容である。弘中隊は31日の戦闘報告表が存在しないので、おそらく日付を間違えたのだろう。

 8月2日の「戰記稿」は、第三旅團ノ先鋒モ亦高鍋ニ入ル沿道ノ賊戰ハスシテ潰走ス是日牙營ヲ佐土原ニ移スと簡単である。

  C09084820100「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0746・0747

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第三中隊大尉柳生房義㊞

  総員:百二十五人   戦闘日時:八月二日   戦闘地名:※空白 

  戦闘ノ次第概畧:援隊ニテ午前第六時佐土原ヲ発シ午后第二時三十分

  髙ニ進入捕品左之通  

  我軍ニ穫ル者:俘虜 下士卒二名 銃 拾四挺  弾薬 五箱  

  器械 銃工具壱箱 刀 壱本  備考敵軍:俘虜ハ負傷  卒 貳名

 戦闘地名欄が空白なのは戦闘がなかったからということだろう。佐土原から高鍋まで8時間半かかっている。

  C09084820200「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0748・0749

  第三旅團歩兵第六聯隊第三大隊第二中隊長栗林頼弘代理陸軍中尉中村

   覺㊞  我軍総員:将校以下百十五名  

  戦闘日時:八月二日  戦闘地名:髙鍋 

  戦闘ノ次第概畧:此日午前第七時過キ佐土原出発髙鍋ニ至ル途中更ニ

  戦セズ髙鍋ニ至ル頃午后第二時ニ及フ

 佐土原から高鍋まで7時間弱かかっている。

  C09084820400「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0750・0751

  第三旅團第九聯隊第三大隊第三中隊 陸軍大尉本城幾馬㊞

  我軍総員:八拾名  

  戦闘日時:八月二日   戦闘地名:日向国児湯郡髙鍋    

  戦闘ノ次第概畧:八月二日下リ村ノ大哨兵ヲ引上ケ一ツ瀬川ヲ渡リ進

  ム賊逃走スル以テ髙鍋ニ至ル

 佐賀利村から高鍋まで戦闘せずに到着している。

この日の「西南戰袍誌」の一部を掲げる。

  本日の戰況を司令長官に報告し舎營を下村舊穢多村☆☆☆☆☆方に設

  く。所に山縣参軍來り休憩す随行者の中に東京日日新聞記者として

  末松謙澄もあり、談話中誰れなるか此家は穢多なりと云ひしに末松呵

  と云ふて飲み掛けたる茶を棄たり、参軍其態度を見て失笑し、末松今

  のは何にか平素貴様は民權を主張し居るではないか未だ舊穢多を區別

  し居る乎と末松氏一言なかりし。 

 この時の山縣は人間観察が細かいだけでなく、お前の主張は本心なのかと相手に突きつけたわけである。さらにそれを記憶していて記した人がいた。

 8月3日の「戰記稿」第三旅団に関する全文。

  第三旅團ハ是日牙營ヲ高鍋ニ移シ午後十時ヨリ美々津川ニ向ケ進軍ス

 高鍋から美々津川までは25㎞ほどである。3日から7日までの戦闘報告表は存在しない。4日からは美々津川の南岸にあって対岸の薩軍とにらみ合い銃砲撃を交わすのみだった。丁度長雨が続き、川は急流となり渡ることができなかったのである。「西南戰袍誌」によると4日は晴雨交至る、5日から7日は半晴半雨、8日と9日は大雨とある。

 4日の「戰記稿」全文。

  第三旅團ハ是日全軍ヲ舉テ美々津町ニ入ルニ賊尚ホ在リ乃チ第四旅團ト

  ニ之ヲ擊ツ賊輙チ川ヲ渡テ退ク因テ川ノ西岸ニ配兵シ厚東中佐之ニ指令タ

  リ右翼ヲ第四旅團、左翼ヲ第三旅團ニ接ス〇是日牙營ヲ高松村ニ移ス既ニ

  シテ前岸ノ賊銃砲ヲ以テ頻リニ美々津町ヲ射擊シ且ツ美々津近傍ハ諸旅團

  兵ノ雜■甚タシキヲ以テ五日ニ至リ牙營及ヒ砲廠輜重病院ヲ都濃町ニ轉ス

 上記中、左翼ヲ第三旅團ニ接スは、同じ頁で第二旅団の配置を述べた部分によれば左翼を第二旅団に接す、が正しい。美々津川の川下から上流に向かい、第四旅団・第三旅団・第二旅団の順に配置に就いていたのである。牙営を置いた高松村は美々津川の南2.8㎞にある。

 現在、宮崎県埋蔵文化財センターが県内の西南戦争戦跡の分布調査を継続中で、耳川両岸でも多数の台場跡を確認済であり、後日の報告が楽しみである。「西南戰袍誌」を掲げる。

  八月四日晴雨交至る 山縣參軍更に進軍の令を下し部署を定め方略を授

  る左の如し。

   第三旅團は第四旅團及新撰旅團と共に美々津に進軍し、直に美々津要

  に砲壘を造して嚴重に守備を設くべし。而て河を渉り前面の賊壘を突擊

  するは實地目擊の團長の意見を申告すべし。

   午前二時諸隊高鍋を發し市外川原に集合して都濃町に進み敵情を探偵

  るに、賊は已に美々津川を越へ要地を守備するを以て、更に美々津に進で

  右岸の要地に守備を設く。高鍋より美々津迄七里の間旅團一道を行進する

  を以て混雜甚し。予等は高松村に入り齊田仁三方に舎營す。

 この時、第三旅団が具体的にどこを守っていたのかを示す記録がある。

  C09082207800戦闘報告並部署及賊情探偵書類 明治10年2月24日~10年8月16日(防衛省防衛研究所蔵)0246

  本日午後第三時当田ノ原村ヘ着敵ノ景况探偵且ツ処〃巡視候處当村ゟ十

  六丁相隔テ美々津川向岸トイ川(※鳥川。この紙は今井中佐の字ではなく、写した人

    が誤記したらしい)村背後ノ山上ゟ美々津町前岸迠數十ヶ処之胸障ヲ築設守衛

  兵モ夫〃籠居之様ニ相見得候尤モ左翼別働二旅團ノ守備線何方迠トカ儀更

  ニ不相分候ニ付則坪屋村福瀬村方面ヘ向ケ斥候隊差出候得共未タ帰營不致

  候ニ付守備線不相分右□第三旅團守備線ハヨセ村背後之岡上ヘ守備線ヲ設

  有之尚背后山上ゟ直経七合位ニ相見得其内深□ニ而丘連絡俄カニ先着ノ兵

  員ヲ以聯絡ヲ附着スル叓不能就中別働第二旅團ノ守備線何レトモ不相分候

  ニ付テハ地理不熟ノ塲處柄猥リニ延線候時ハ危害ノ恐レ甚敷仍テ本日ハ我

  カ引卆ノ先發隊ヲ以テ當村ノ周囲ノ要地并ニ証失(※征矢原村)ゟ坪屋ヘ

  ノ通路ニ守備線ヲ設ケ厳重警戒ヲ加ヘ置候間决テ御係合被下間敷候尚明日

  ハ早天ゟ左翼別働第二旅團ノ守線ヲ捜索之為メ斥候隊差出候積リ守線相分

  リ候次第直ニ連絡相通シ候様可致尤第三旅團ゟ士官相見得候ニ付本日守備

  線且別働第二旅團守備線不相分等之儀營候上其筋ヘ演舌致候様申聞置候

  右先以不在散上申仕候也   田ノ原村   

   八月四日          今井中佐(※第二旅団)

    三好少将殿

 第三旅団が8月4日の時点で美々津川右岸余瀬村背後の山上を守備していたことが分かる。戦記類は美々津川とするが、現在の地図は耳川となっている。

 上も「新編西南戦史」日向各地の戦闘経過附図。見にくいが分割して示す。左が上部、右が下部。美々津川付近を取り出して作成した附図はないので、これに替える。下図は戦記の登場する地名を抜き出した現在の地図である。右部分は日向灘

 8月7日、山縣は美々津川(耳川)南岸にひしめく各旅団に8日の進撃を命ずると共に、各旅団が整然と行動するよう行軍順序と渡河後の目的地を分けて命じた。第三旅団は8日の進撃は割り当てられなかった。

 7日、別働第二旅団は美々津川(耳川)上流を北岸に渡り、山陰やまげ地方の薩軍を破って進撃し、一部部隊は美々津川北岸の背後を迂回して海岸沿いにある富高新町に突入した。下流域北岸に陣取る薩軍側は右側面が危うい状態になり、持ち場を捨てて退去北上し始めた。

 8日の「戰記稿」には第三旅団の記事はない。

  C09084820400「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0752・0753

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊 中隊長陸軍大尉弘中忠見㊞  

  総員:将校以下百〇九人  

  戦闘日時:八月八日   戦闘地名:ヨセ村上ノ山美〃津川    

  戦闘ノ次第概畧:午前四時三十分頃ヨリ攻撃隊トシテ臺塲前ニ進ミ美ヽ

  川ノ岸ニ我軍散布シ川ヲ隔テ賊壘ニ向テ開戦此地ノ賊ヲ拂フ此日大雨満水

  渉川スルヲ得ス十二時頃帰線ス   備考我軍:死傷ナシ

 弘中報告でもヨセ村の上の山という守備地が登場する。午前4時半山を下り川岸に散布して対岸の薩軍を小銃射撃し、敵は眼前から消えたようである。

  C09084820500「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0754・0755

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第一中隊長 陸軍大尉齋藤徳明㊞  

  我軍総員:八拾五名 死者:下士卒一名  

  戦闘日時:八月八日   戦闘地名:美々〃津川上流   

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時出発正面ヨリ山降シ同五時四十分川岸ニ至

  賊塁ニ向ケ砲発セシニ一賊ヲ不見然レノモ川水漲リ渡川スル不能ルヲ以テ旧

  線ニ引揚ケ守備ス

  備考我軍:溺死 一等兵卒室伏卯之次郎   

  備考敵軍:午前第五時出発正面ヨリ

  山降シ同五時四十分川岸ニ至リ賊塁ニ向テ砲発セシニ一賊ヲ不見故ニ渡

  セント欲シ向岸之舟ヲ得ル為メ兵卒二名ヲ游泳セシメシニ急流ニシテ不能

  渡一ハ半渡ニシテ復リ一ハ溺死ス時ニ川水益増加シ渡川之術無キヲ以テ旧

  線ニ引揚ケ守備ス

 余瀬村背後の山を40分かかって下り、川岸から対岸を攻撃した。敵が一人も姿を現さないので、対岸の舟を得ようと二人の兵卒をやったが、一人は溺死し、一人は引き返した。渡る術がないので山上に引き揚げた。

 「西南戰袍誌」を掲げる。 

  八月八日大雨 午前四時より河の南岸に兵を展開し對岸の賊壘を射擊す

  山陰地方に官軍進出せしを以て彼れ背後を斷絶せらるヽを以て皆狼狽して

  遁去る。之れを追撃擊せんと欲するも川幅廣く且つ急流にして大雨の爲め

  川水滿漲し渡河する能はず、渡河を試み兵卒一名溺死す、止むを得ず一反

  兵を収め雨止み水の減ずるを待つ、午前十時頃暴風雨となり樹木を倒し土

  堤崩壊す。

 戦闘報告表にあるように敵の姿が見えなかったのは理由がある。耳川(美々津川)上流側で北岸の山陰やまげ地方を官軍に奪われたことが薩軍には背後を襲われる脅威となり、耳川北岸の守備を捨てて北に退却したのである。

 「戰記稿」8月9日第三旅団の記事全文。

  第三旅團ハ是日牙營ヲ美々津町ニ移ス

 本営は最前線から常時少し遅れて前進していた。耳川北岸から薩軍が退却したので4日に高松村に置いた本営を耳川河口右岸の美々津町に移したのである。

 8月10日には諸旅団守備線の方面分担が決定した。海岸部から述べると、第四旅団は細島ヨリ延岡街道ノ右側ニ至リ其最右側ト爲ル・新撰旅団は第四旅團ニ連リ街道左側ヨリ逓次左延・第三旅団は新撰旅團ノ左ニ連リ黑木村ニ至ルヲ限リトス・第二旅団は黑木村ヨリ宇納間ヲ限ル・別働第二旅団は宇納間ヨリ七山ニ至リ其最左翼第一旅團ニ連繫スである。七ツ山といわれる地域は広いようで場所を特定できないが以上を図示する。第一旅団は阿蘇方面から五瀬川流域を東進中であり、その左翼は大分・宮崎の県境地帯で薩軍と対峙中の熊本鎮台と連絡をとっていた。薩軍に対する包囲網は次第に狭められていたが、北上する旅団の速度が最も早かった。

 「戰記稿」8月10日記事。

  第三旅團ガ是日大島少佐竹下中佐ノ師ル所ノ部下四中隊佐々木栗栖沖田岡四大尉

    ノ隊ヲニ分一ハ鳥川道、一ハ田之原道ヨリシ美々津川ヲ渡リ進テウケ

  ニ至リ相合シ又進テ日ノウチ一ニ日ノ平ニ作ルヨリ永田村ニ入ル沿道餘賊

  十名ヲ慮ニス

 次いで11日、

  第三旅團ハ三浦少將、山縣參軍ノ議ニ依リ是日全團ヲ先鋒ニ進メ新町ニ

  營ス美々津ノ守備ハ一ニ新撰旅團ニ委ス

 「戰記稿」8月9日第三旅団の記事全文。

   第三旅團ハ是日牙營ヲ美々津町ニ移ス

 本営は最前線から常時少し遅れて前進していた。

 12日の第三旅団戦闘報告表が4件ある。

  C09084820600「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0756・0757

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊長 大尉岡 煥之㊞

  総員:百十二人   

  戦闘日時:八月十二日   戦闘地名:鹿児嶋縣下日向国五カセ川   

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時三十分髙冨新町ヲ発シ黒木邨迠繰込可クノ

  ヲワノ野邨ニ賊アリ先頭第二旅團ノ行進路ヲ妨ク依テ援兵トシテ尚千原ニ

  進ムニ命アツテ出山ニ登リ茲ニ防禦線ヲ占ム 

 冨高とあるべきを髙冨としている。門川の海岸から五十鈴川を直線距離で7.5㎞遡ったところに上井野があるが、これがヲワノ野だろうか。さらに上井野から五十鈴川を直線距離で7㎞遡ると黒木がある。千原は場所不明。

 C09084820700「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0758・0759

  第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第貳中隊長 陸軍大尉栗栖毅太郎㊞  

  我軍総員:第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第二中隊 七拾六人   

  戦闘日時:八月十二日   戦闘地名:小原村尾張野村   

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時三十分新甼地ヲ発シ同十一時頃三ケ瀬内小

  村ニ到レハ賊アリ既ニ第貳旅團ニテ開戦シアルヲ以テ急ニ其右翼ニ迂

  ス径路更ニナシ叢樹亂横崎嶇云フヘカラストモ漸ク攀躋山頂ニ出テ一薺

  ニ鯨波ヲ發シテ発射シ且ツ漸次ニ兵ヲ河岸ニ下シテ點發セシム賊支フルヿ

  能ハス背後ノ山道ヲ差シテ敗走ス此時午後七時頃也日晩ナルヲ以テ之レヲ

  追撃セス依テ北ノ山上ニ守備ス   

  我軍ニ穫ル者:銃 三挺 属具共  器械 刀四本 

  備考敵軍:一銃三挺内一挺ハスニーテル銃ニシ二挺ハヱンヒール銃ナリ

 上図は栗栖隊の軌跡である。第二旅団は低地から攻撃していたのか?午後7時頃まで戦いは続いた。

  C09084820800「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0760・0761

  第三旅團歩兵第六聯隊第壱大隊第一中隊 陸軍大尉山本 弾㊞  

  我軍総員:第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第二中隊 九十五名   

  戦闘日時:八月十二日   戦闘地名:※空白   

  戦闘ノ次第概畧:八月十二日午前第三時美〃津出発同所渡川シ新町并冨

  村ヲ経テ進軍河内三ケ瀬河瀬原村江午后第二時着仝所ニテ一小隊門川街道

  ニ防禦線ヲ設ケ午后第八時ヨリ二分隊第二旅團押兵トシテ黒木村街道入下

  ニ分遣ス

 三ケ瀬は阿仙原の南、赤木付近だが、河瀬原村は不明。字句通りに解せば河原の広がる村だろう。新町からそこに至経路は分からない。

 C09084820900「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0762・0763

  第三旅團第八聯隊第一大隊第二中隊 陸軍大尉沖田元廉㊞  

  我軍総員:第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第二中隊 八拾四名   

  戦闘日時:八月十二日   戦闘地名:日向国門川   

  戦闘ノ次第概畧:午前五時三十分冨髙新甼ヲ發シ三ケ瀬村ヘ進軍後村ニ

  レハ賊門川ノ向岸ニ在テ砲撃セリ依テ本道右側ノ峽谷ヲ守備セリ 

 後掲の浅海隊と似た行動である。次は第二旅団の戦闘報告表である。

  C09083969900「明治十年 戦闘報告 第二旅團」0073~0076征討総督本営罫紙

  八月十二日臼杵郡ウワヰノ村戦闘報告表

  八月十二日第二旅團第十一聯隊第二大隊合併第三中隊司令陸軍大尉浅

  直㊞(※人員欄を略す。総員103人)備考(※戦死・負傷欄を略す。)

     戦闘景况之部

  本日攻襲偵察ニシテ午前第四時内平村ヲ発シ其前衛ニ在テ行進シ佛越及

  赤木ヲ経テ本河内ニ向フ川ヲ隔テ﹅賊ノ展望兵ヲ見ル我尖兵之レヲ呵

  展望兵走リ報ス因テ賊ノ舎營スル者凡ソ百五十名皆逐テ走ル前兵追撃ス賊

  兵遁逃跡ナシ故ニ隊ヲ止メ撒兵ヲ集ム哨兵又賊ノ山上ニ在ルヲ報ス直ニ斥

  候ヲ出シテ之レヲ探ル賊兵退テウワヰノニ塁ヲ築ク於是全隊亦進ム◦午后

  第一時賊ヲウワヰノニ見ルヤ前兵川ノ手前ニ散布ス賊兵乃チ之レヲ狙撃ス

  時援隊ノ頓占スル地勢タルヤ平田ニ属スルヲ以テ退テ左轉シ山ヲ廻リ前面

  撒兵ノ左翼ヨリ援隊線ヲ進メテ救助ス日暮遂ニ後方ノ防禦新線ニ退テ守備

  ヲ付ス賊兵夜ニ乗シテ塁ヲ棄テヽ去ル此兵賊ノ振武隊云フ由

     雜報之部

  小銃十三挺 刀壱本 胴乱五個 鍬三

 第二旅団浅海大尉の戦闘報告ではウワイノ村とあるのが第三旅団岡大尉のヲワノ野だろうか。午後1時に敵を発見し、敵は振武隊で150人程だったとある。開戦時間の記録は後でも出てくるが一定していない。

 C09083976900「明治十年 戦闘報告 第二旅團」0073~0076征討総督本営罫紙

   明治十年八月十二日日向国臼杵郡上衣野村戦闘報告表

  明治十年八月十二日第二旅團歩兵第九聯隊第一大隊第一中隊長陸軍大尉

  和智重仕㊞  (※人員欄を略す。総員83人)

         戦闘景况

  黒木村攻襲偵察之命ヲ奉シ午前第四時内平村集合塲ヲ発シ第十一聯隊浅

  大尉之隊先頭ニテ当中隊之レニ次キ進ンテ小原村ニ至リ先頭隊賊兵ヲ発見

  シ一撃之下ニ之レヲ驅逐シ尾撃アセンバル村ニ至リ賊ノ糧食炊爨塲ヲ奪ヒ

  午飯ヲ喫シ尚進ンテ上衣野ニ達セントスルノキ賊兵同川對岸ノ隳篁中ヨリ

  突然急ニ放火スルヲ以テ先頭隊直ニ前岸ニ拠リ對戦シ当中隊ハ左方之山ニ

  登リ目下ニ賊塁ヲ射撃ス于時午后第十二時四十分ナリ須臾ニシテ出征第三

  旅團ノ兵到着共ニ攻撃スルト雖ノモ賊要地ニ拠リ進取スヘカラス故ニ守線ヲ

  アセンバルノ山上ニ撰ミ午后第六時半該線ニ引揚ケ守備ヲ嚴ニ

 昼食後に五十鈴川北岸から銃撃され戦闘が始まった。昼12時40分過ぎに第三旅団が到着し、阿仙原の山上に引き揚げたのは午後6時半だとあるが、来栖隊報告の午後7時頃とあるのが6時台の意味だと分かる。

 上図は浅海隊の進軍経路概略である。地図を横倒しして左が北である。図の右上外側に日向市街地がある。浅海報告から赤木を通ったと判断した。

 直前に引用した浅海隊と共に進軍しており、浅海のワヰ村がここでいう上衣野村と同じ場所だと判明する。発音が現在の地図にある上井野うわいの村に近づいてきた。上図は上井野村付近の拡大図である。両軍がどこに位置して戦ったのか、推定してみた。和智隊は上図の赤丸から対岸を攻撃し、浅海隊は村の対岸低地部から攻撃したのだろう。沖田隊は本道右側ノ峽谷に配置に就いて戦っている。

 これらの戦闘報告表から、第二旅団と第三旅団左翼とが重複した地域に進軍したことが分かる。なお、放火の意味は射撃である。想定場所には台場跡があるかもしれない。

 以上、官軍の記録を見てきたが、次は上井野村を守っていた薩軍側の記録をみておきたい。浅海報告で薩軍が振武隊だとあるとおり、彼らの上申書があった。

 石原近秀は振武ニ番小隊に属し、諸所の戦いを経て耳川北岸の飯谷村を守り、8月8日に上流山陰方面が敗れたのち門川町川内に引き揚げ、翌日他の3個中隊と共に「上井村迄進ミ守兵ス、爰ニ於テ敵兵襲来味方破軍ス、我左小隊川路(※川内)村ヘ遊兵ノ故ヲ以テ直ニ繰出シ、同所川ヲ隔テ戦フ、此時大利ヲ得追々味方モ走来リ爰ニ堅守ス、翌日延岡ノ内門井破軍ノ報ヲ得松山村迄引退キ、爰ニ於テ足痛ノ故ヲ以テ長井村山中ニ潜伏セシ時、同所敗軍ノ際敵兵ヨリ取囲マレシ時帰順仕候也、「石原近秀上申書」『鹿児島県史料 西南戦争第三巻pp.114~115』)とある。

 解釈すると次のようになろうか。耳川北岸の飯谷村を守っていたが上流の山陰方面が敗れたため退却し、8月9日に上井村に移動した。その後12日に官軍が襲来し、すぐ近くの上井野の薩軍が敗れたので川内からすぐに駆け付けて応援した。川内は上井野の川向う南西約500m前後にあり、官軍が進んで来た場所にあり、石原の属する左小隊が守っていた。この部分は矛盾があるが続ける。石原等は川の北側から南側の官軍を攻撃し大勝利だった。翌13日、延岡ノ内門井という所が敗れたので松山村に退却した。門井は場所不明。松山は上井野の北東12㎞に位置し、五ヶ瀬川左岸の集落である。

 もう一つ上申書がある。平田幾之介は当時振武六番中隊長で、8月5日には耳川北岸の「袈裟村ト云フ所ニ哨兵ス、同八日官軍間道ヲ経テ富高新町ニ突入、既ニ我背後ヲ衝ク、我兵支フル不能、夜ニ乗シ門川之内尾張野村ニ退キ哨兵ス、同十二日午前十時頃ヨリ官軍来襲、我兵防戦スルコト終日、暮ニ至リ門川口ノ味方既ニ敗レシ由急報アリ、依テ我隊ヲモ間道ヲ経テ翌朝延岡之内三輪村ニ曳揚ケ見レハ、三田井口方面ハ已ニ打破ラレテ同所旧城下ヘ引退キ防戦最中ノ由、因テ我モ応援トシテ同所ニ到ッテ戦ヲ交ユ、「平田幾之介上申書」『鹿児島県史料 西南戦争第三巻pp.892~894』)」という状態だった。袈裟村は耳川北岸のどこか場所不明。尾張野村は官軍側一部が使った言葉と同じで上井野村のことである。12日午前10時頃から攻撃され終日戦闘が続いたという。開戦時間に関する情報である。先に登場した昼食後に銃撃された、というのは正確な時間が分からない。昼食は何時でも摂れるから。日暮れに門川方面の味方が敗れたとの報知があったので翌朝五ヶ瀬川右岸の三輪村に引き揚げた。三輪村は松山村の南西方向にある。

 上図は振武隊の移動経路概略である。方位は北が右。この二つの振武隊は耳川北岸から撤退した後に上井野に移動しているが、しばしば目にするのは耳川北岸から門川北部の加草に陣地を構えたという記述である。違う経路を選んだ部隊もあったことが分かる。

※5月13日、宮崎県埋蔵文化財センターの堀田孝博さんから指摘を頂いたので転写します。

  まず、C09084820600(岡大尉の報告表)に出てくる「千原」ですがこ

  は「チハル」で「市の原」のことと思われます。明治36年測量の地図には

  「市原」とあり「イチハル」のルビが付いています。

  「ヲワノ野邨」についても、同地図では「上井野」に「オアイノ」のル

  が付いており、近い音と思います。

  次に、C09084820700(栗栖大尉の報告表)に出てくる「三ヶ瀬内小原

  」ですが、これは「大原(同地図ではオハル)」とすれば、位置関係は矛

  盾しません。

  続いて、C09084820800(山本大尉の報告表)に出てくる「河瀬原」は

  証はないのですが、「カセバル」≒「アセンバル」=「阿仙原」ではと思

  ったところです。

  石原近秀の上申書に出てくる「川路」は「川内」でよいと思うのですが、

  この「川内」は「門川尾末」「加草」「庵川」と並び、現在も大字とし

  残る地名なので、かなり広範囲を指している可能性があります。実際に国

  土地理院の地図でも上井野から五十鈴川上流へ5kmあたりにも川内の

  記があり、どこのことかは絞り込みづらいかもしれません。

 いちいちごもっともと納得しました。

 翌8月13日、第三旅団は延岡の南11㎞ほどの門川に着き、14日には先鋒が延岡に入って山縣参軍の命により市街を警備している。15日の両軍の会戦である和田越や周辺の可愛岳、北川東岸の戦いに第三旅団は参加していない。残りの第三旅団部隊も延岡に繰り込み、引き続き延岡市街を警備していた。16日夜には山縣の命令で友田少佐ノ部下二中隊ヲ潜カニ長尾山ノ防禦線ニ出(「戰記稿」巻六十 可愛嶽戰記)した。その場所で19日薩軍の襲撃を受けており、第三旅団が代表して戦闘報告表を作成している。

また、2個中隊も下記のように戦闘報告表を作成している。

 C09084821000「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0764・0765

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊 中隊長陸軍大尉弘中忠見㊞  

  我軍総員:第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第二中隊 百八名   

  戦闘日時:八月十九日   戦闘地名:延岡長尾山   

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時頃賊我カ防禦線ニ近キ来ル哨兵之ヲ報知ス

  チニ放撃暫クシ再ヒ襲来又撃テ之ヲ退ク   我軍ニ穫ル者:降人 

  未詳 若干

  備考敵軍:賊退ク後チ天明カナリ即チ一部分ノ探索斥候ヲ出シ前面深林

  谷間ヲ捜索シ若干ノ降伏ヲ卒ヒテ帰ル

 19日午前三時、長尾山の防禦線に薩軍が襲来したが撃退した。再びやって来たがこれも撃退した。夜が明けて明るくなり、谷間に斥候を出し捜索して若干の降伏人を捕らえて帰ってきた。長尾山は標高728mの可愛岳の東側中腹に一筋の尾根筋がぶつかるが、その途中にある標高382mの峰である。俵野で包囲された薩軍は18日早朝、可愛岳頂上の西中腹に置かれた第一旅団・第二旅団本営を襲撃し、その日は終日戦闘が続いた。西郷等は18日夜は地蔵谷という西方の谷間で野営し、19日さらに西方に向かって去った。

 C09084821100「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0766・0767

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長 陸軍大尉安満伸愛㊞ 

  戦闘月日:八月十九日   戦闘地名:長尾山 我軍総員:八拾人 傷

  :四名 

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時三十分賊我塁ニ向ヒ左右谷ヨリ突襲暗黒其

  ヲ弁セス烈發以テ之ヲ打拂フ   

  備考我軍:一傷者下士卒四名ハ第九聯隊第三大隊第四中隊伍長早川長吉

  等卒伊藤元次仝川口萬吉二等喇叭卒中村傳之丞ナリ内壱等卒伊藤元次ハ軽

  傷ニ依リ入院セス 

  一当中隊付人夫福岡縣農篠宮孫市刀瘡ヲ受ク 

  一費ス弾数四千八百発ナリ

 午前2時半に襲撃されている。暗いうちに守備している場所の左右の谷から来襲したが打ち払った。一人60発を使用する戦いだった。人夫が刀瘡を受けており、薩軍は多分弾薬がほとんどないので切込みをかけたことを示すのだろう。官軍本営を襲撃した薩軍は多量の弾薬を分捕っているが、長尾山を襲撃した部隊は弾薬が欠乏していたのだろう。弘中隊が午前3時に襲われたのとは30分の違いがあり、互いの戦闘について触れていないので明らかに別の場所である。30分の時間差は攻撃側が移動してきたことを示すのかも知れない。とすれば安満隊が最初に攻撃されたことになるが、どれだけ正確に時間を記したかも疑問なしとしない。

 C09084821200「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0768・0769

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊長 大尉岡 煥之㊞

  我軍総員:九十五人

  戦闘月日:八月十九日 戦闘地名:鹿児嶋縣下日向国長尾山   

  戦闘ノ次第概畧:援隊トシテ長尾山ニ屯在ノ所午前第四時頃安満大尉ノ

  禦線ニ賊襲来スルニ付一小隊ヲ同処ニ出シ残余ノ隊ヲ以テ弘中大尉ノ受ケ

  持線ノ薄弱ナル所ニ散布シ放撃雨注遂ニ賊遺骸ヲ捨テ退去スルヲ以テ直ニ

  隊ヲ纏メ旧所ニ復ス此日死傷ナシ   

  備考我軍:此日費ス所ノ弾薬三千発

 岡隊は援隊だったので哨兵線にはついていなかった。午前4時頃、安満隊が襲われたとあるが安満報告ではその時間は午前2時半である。そこで1小隊を安満隊の所に応援に出し、残りの1小隊を弘中隊が受持つ防禦線に派遣している。薩軍を撃退した後、援隊として待機していた場所に復帰している。岡隊は一人31発強を使用した。

上図は8月15・16日の延岡市北川町での両軍対峙状態を台場跡の分布状態から以前に検討した時に作成した図である。図示していないが長尾山の西にはもっと可愛岳寄りにも官軍の台場跡が存在することをその後確認した。赤は官軍、黄は薩軍陣地である。なお、六首山に対する薩軍陣地は16日には官軍に奪われていた。「新編西南戦史」にはこの期間の推定図があるが、現地踏査せずに机上で推定したので間違いが多い。実際は和田越から西に続く尾根筋に別働第二旅団の多数の台場跡が北側で対峙する薩軍のいた尾根を睨んで並んでいる。「・・戦史」では小橋山一帯を長井山としているが、長井山は薩軍本営の北側の尾根である。そこは可愛岳から北東に続く尾根筋にあたる。官軍の長尾山左翼には防禦線に空白域があった。谷の北側には薩軍が布陣しており、空白域の存在はそのままにはできない状態だった。

 以上、8月19日まだ暗い時間に長尾山が襲撃されたとの三個中隊の報告である。8月15日の和田越の戦い後、和田越から小梓峠を経て一本松までは別働第二旅団の守備範囲になっていた。しかし、その西に続く長尾山とそこから一筋の尾根が可愛岳の中腹に向かって延々と延びているのだが、この部分の守備担当は明確になっていなかった。別働第二旅団の山田顕義少将は可愛岳周辺の第二旅団から哨兵を出させるよう山縣に再三依頼している。とはいっても空白にしておくわけにはいかないので、その後、15日中には山田の旅団から2個中隊を派遣した。その派遣部隊からは広すぎて守れないと苦情が出て結局、撤収させている。そこで延岡市街周辺にいた第三旅団から2個中隊を問題の長尾山一本松よりも左翼に出したのである。それも2個中隊であり、それが安満隊と弘中隊だった。

 このブログの題名を安満隊を指す「第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争としたのは、この日の戦いに注目したからである。この戦闘に関わった中隊だけを抜き出し部分的に記述するよりも第三旅団の全期間を見ておきたく思い、寄り道しながら書き進んだのでここまで来るのに時間がかかった。

 8月19日、薩軍の攻撃開始時間は安満報告が午前2時半、弘中報告では午前3時頃である。岡隊は別の場所に居り、薩軍の襲撃の後に一小隊を安満隊の所に派遣し、残りの小隊を弘中隊の受持ち線の薄弱な部分に派遣して戦闘に参加している。派遣の順番は先ず安満隊、次に弘中隊の順だったと考えられる。岡報告では午前4時頃となっているが、その時間は薩軍の襲来時間なのか岡隊の出発時間なのか分からない。ともあれ、全体では2時半から4時頃までの一時間半の幅があるのをどう理解したらいいだろうか。戦闘が始まってしばらくたった4時頃に派遣したという意味かも知れない。記述通りに理解すればまず午前2時半から安満隊が攻撃され、間もない午前3時頃に弘中隊も攻撃されたことになる。そして午前4時頃に岡隊が援隊として出兵したということか。

 安満隊と弘中隊相互の位置はどうだったのだろうか。後述のように、襲撃した薩軍は可愛岳南側の六首山付近の戦闘後に空白時間を置いて来たと考えられるから、六首山に近い西側に2時半に攻撃された安満隊がいたと考えるのが自然である。その東側に3時頃攻撃された弘中隊が配置に就いていたのだろう。問題の尾根筋の分布調査は実施済だが、機会があれば後日改めて公開したい。背の高い羊歯が密生し、現地に接近するのが大変だったし、目印となるものがない山の中で何度も彷徨った、とだけ記しておこう。

 当時の中隊長は時計を持っていただろう。複数の部隊が計画通りに行動するためには時計は必需品である。戦闘報告表の記述でも中途半端な四十分などと記す例があり、時計を所持していたのでなければ分からない時間であろう。参考までに別働第二旅団参謀付で少尉取扱上野五郎は球磨川付近で戦死しているが、彼の遺品の中に懐中時計がある(C09085398800「明治十年五月ヨリ起 ル第三号 諸向来翰 丙 別働第二旅団」)。したがって戦闘報告表の時間もそれなりに正確に記録されているとみるべきだろう。

 応援に駆け付けた岡隊はどこにいたのだろうか。報告では援隊トシテ長尾山ニ屯在ノ所とある。いわゆる長尾山にいたのだろうが、広い上面をもつ長尾山一本松の南側付近に野営していた可能性もある。

 この戦闘について記したと思われる記述が別にある。その別働第二旅団第七中隊所属の名前不明兵士の従軍日記「西南戦争従軍日誌」8月19日の全体を掲げる。

 田中一郎1988「西南戦争従軍日誌」pp.7~pp.22『坂戸風土記坂戸市史調査資料第13号 坂戸市教育委員会 

  午前八時ニ和田越エ登リ、后備兵ト哨兵交代仕、夜十二時頃左翼ノ方ヘ

  徒切込ンデ来ルヲ哨兵見附ケ、何者成ルト問ヘケレバ近衛兵ト答ケル故ニ

  、答語ニ進メト申シケレバ、来ルヨリ早ク太刀抜キ揃エテ切駆ル。哨兵引

  揚キ気ヲ附エノ令ヲ以テ砲発スレバ、直ニ援隊繰出シ、非常ノ喇叭ヲ吹キ

  応援迄繰出シ、雨雹ノ降ル如ニ放玉スレバ、賊徒必死ヲ極メテ来ルト雖ト

  モ数玉ニ恐レ終ニ退走ス。但シ此時死傷ハ互ニ数十人有ト云フ。 

 末尾にト云フとあることから、前任の哨兵から聞いた話だと分かる。別働第二旅団は19日の戦いがあった場所の東方、長尾山一本松付近からさらに東側までが担当区域だったので、日記筆者に情報を伝えた前任の哨兵もその戦闘に参加していなかったはずであり、又聞きだから信憑性はやや薄れる。夜12時頃に襲撃されたという時間は、懐中時計を所持していなかっただろう一般兵士だから間違いだろう。しかし、接近する者を哨兵が発見し誰何したところ「近衛兵」と応じると共に太刀を揃えて切り掛ってきた来たという点は信じてもよいと思う。戦闘報告表も、相良の上申書なども刀の使用を記録しているし、唯一負傷した人夫も刀傷を受けているからである。官軍側に援軍が駆け付けたことも事実である。ただ、死傷者が互いに数十人あったという点は直ちには信じ難い。

 長尾山付近の防禦線について検討する。

 8月15日の和田越周辺で行われた官薩両軍の決戦後、官軍は奪った和田越やその左右の尾根筋に守備を布き、薩軍は北側の小橋山それに東西方向に続く尾根やその背後に退却した。北川の東側も官軍が奪い、西側川向うの俵野周辺の薩軍に対峙する状態になっていた。東および南から迫る官軍の状態は「是夜賊軍ニ對スルノ守備ハ和田越ヨリ右翼ヲ第四旅團、和田越ヨリ左翼長尾山絶頂マテヲ別働第二旅團ニテ擔任セリ(「戰記稿」)という状態だった。

 ここでいう長尾山絶頂というのが、従来考えられてきたように標高382ⅿの頂上だとするとすれば疑問がある。15日に別働第二旅団の山田少将は山縣に次のように懸念を伝えている。

 C09082268700「来翰及探偵戰鬪報告 軍團本營出張」(防衛省防衛研究所蔵)

  先刻傳令ヲ以テ申上候通左翼長尾山一本松之處よ里右翼堂ケ坂迠ヲ當團

  防禦線と爲シ哨兵配布於着手致置候間其旨御含■■然處左翼第二旅團防禦

  線何處ニ有之候哉更ニ相分不申甚懸念罷在候間至急長尾山壱本松之處迠ハ

  第二旅團之右翼張出候様御達被下度此旨大急申進候也

  八月十五日 山田少将

  山縣参軍殿

 上に掲げた手紙は何ヶ所か読めない字があったので、大分県立先哲史料館の三重野誠さん・小野順三さん・松尾大輝さんに解読協力していただいた。記してお礼を申し上げたい。

 長尾山一本松については指摘したことがある。標高382mの長尾山頂上から南西に直線距離で1.1㎞離れた標高280mの小高い峰に当時一本の老松があり、現在と違い鬱蒼とした樹林の景観ではなかったので目立ち、この峰は一本松と呼ばれていた。堂ケ坂という場所は南から和田越付近を通過する坂道のことである。

 8月15日に激戦があった長尾山というのはこれまで誤解されていたが、長尾山一本松のことである。「明治十年西南戦史」や説明看板類、一般概説書をはじめ、全てそうなってきた。下は当時和田越攻撃の官軍を南から督戦した官軍の山縣参軍がいた樫山の看板である。これに長尾山一本松を加筆した。一本松の左側にも薩軍が配置に就いていたことになっているが、疑問である。少なくとも当日、そこでは戦闘はなかった。

 もう一つを掲げる。

 分かりやすいように上図にも長尾山一本松を加筆した(これを示すのは悪意ではなく、一般的な理解の一例として掲げたに過ぎない)

 しかし、戦記に長尾山として登場するのはこの一本松のある峰のことであり、現在の地図に長尾山と記されている山のことではない。この点は筆者が初めて指摘した(「西南戦争之記録」第4号・「西南戦争の考古学的研究」)。参考までに和田越周辺の推定対峙図を掲げる。激戦地の一つだった堂ケ坂とは、今は宅地造成で消滅した尾根を南西から和田越の峠を通る路線である。

 別働第二旅団司令長官山田少将は左翼にあたる可愛岳周辺を守る第二旅団の防禦線の場所が分からず甚だ懸念だから、至急可愛岳から長尾山一本松までの空白域を第二旅団で埋めるように通達してほしい、と15日に山縣参軍に依頼している。しかし、文書は見当たらないが次の史料のように山縣から別働第二旅団が空白域に哨兵を派遣するよう命令されたようであり、2個中隊を問題の空白域に派遣した。

 同団は多数の兵員を五つの方面軍に分けて戦闘に従事していた。時間は不明だが16日に別働第二旅団が2個中隊を一本松左翼に派遣したが、尾根筋が続く左側から攻撃されればどうしようもない、という内容である。そこよりも左側はなお守備の空白域となっていたのである。16日の午前2時、山田は山縣に次のように連絡している。

 C09082269600「来翰及探偵戰鬪報告 軍團本營出張」(防衛省防衛研究所蔵)0258~0261

  過刻御回答之趣且昨日午後中邨中佐貴命ニ依リ差出候傳令之者只今帰来竹 

  内中尉モ同伴候由ニ而全ク同團昨日者ヱノ瀧越ニ進軍少戰有之候ニ相達有

  之□然同所ヨリ右翼長尾山壱本松迠ハ更ニ連絡無之只昨日貴命ニ依リ當團

  ゟ追〻操出候兵都合三中隊其中間五丁或ハ十町隔テ分遣第二旅團ヨリ哨兵

  配賦ヲ相待候得共於今一兵モ不被差出ニ付中間遠隔之地ニ孤立無覚束段屡

  申来去リ迚新ニ増加スヘキ兵員モ無之ニ付無拠一旦長尾山一本松迠右三

  中隊引揚候様指令仕候何分各旅團各固之挙動ヲ為シ部署通ニ施行無之テ者

  労スル者ハ益労シ終ニ不測之大害ヲ可醸と懸念仕候間其邉申上迠モ無之候

  得共偏ニ御注意可被下将又明日第一第二第四旅団とも攻撃之都合ニ付テ

  左右ヲ見合セ前進可申候此段至急申進候也

         八月十六日山田少将

      午前二字

  山縣参軍殿

 当時の時間認識では16日午前2時は実際は17日2時だった可能性があるが、字面通り16日のこととしておきたい。夜が明けたら次の日になる江戸時代の考え方を引きずっていたかも知れない。可愛岳から長尾山一本松まで3.8㎞の尾根線では哨兵線が途切れたままだから別働第二旅団から三個中隊を500ⅿから1㎞の間を置いてまばらに配布した。しかし、配布した部隊から孤立状態を訴えてくるので、仕方なく一本松まで引き揚げるように指令した。先の山川中佐は2個中隊が守備したといっているのに数字が増えている。それだけの兵員がそこには必要だと訴えたかったのだろうか。第二旅団兵の派遣を待っているが一兵も来ていない。努力する者だけが苦労する、と不平を述べたのである。

 16日午後11時50分時点の報告がある。

 C09082275800「明治十年八月十七日ヨリ同廿六日 探偵戰鬪告 延岡出張軍團本営」防衛研究所蔵0397~

  過刻御命令ニ依リ斥候ヲ出シ候処左件〃之通リ申出候間此段御報知仕候

   一長尾山麓稲葉崎村ニハ別働第二旅團宮城少佐之二中隊及遊撃隊第一大

   第四中隊砲兵栗原中尉ノ一分隊高渕中尉ノ分隊屯在ス其他該団附属隊一

   中隊宿陣ス

  一小平山ハ昨日別働二旅団狙撃小隊ニテ防御線ヲ張リ居リシ然ルニ昨日

   攻撃ニテ同所ハ第二線トナリシ故本日午後第二時山麓コミ子村ヘ操込候

   由

  一祝子村本村ゟ之通路ハ第一熊田ヘ通スル間道アリ其他数条之技路アリ

   雖トモ何レモ樵夫道ノミノ由

  一祝子本村ニハ昨日第一旅団之兵宿陣セシカ本日何レヘカ操込今夕ハ唯

  多和ノ一中隊ノミ

  一過刻長尾一本松ゟ左翼連絡方ヲ尋ヌルノ際第二旅團ノ士官一名一本松

   来着ニ付問合候處ヱノキ嶽ゟ右翼ヘ連絡ヲ付候処一本松之処五六丁連絡

   打切候ニ付別働二旅團ヘ掛合之上尚二旅團ゟ一中隊ヲ出シ連絡ヲ附ル趣

   申聞候

  唯今友田少佐二中隊ヲ引卒当村来着之処此近傍右二中隊ヲ配布スベキ好

  置ナシ依テ一本松左翼ノ山頂邉ヘ配置スヘキ見込ヲ以テ同所ヘ向ケ出發致

  候此段添テ御報告ニ及候也

   八月十六日午後十一時五十分渡辺中尉

    揖斐大佐殿

  追テ此報告書認候処今晩一本松ヘ出セシ斥候帰来同所ハ別働第二旅團ノ

  一中隊ノ外更ニ援隊一中隊ヲ備ヘ甚タ堅固ニ相成候由届出申候

 渡辺徳介中尉は第三旅団第四大隊所属。揖斐章大佐は別働第一旅団参謀長兼第三旅団参謀。報告の後半に注目したい。第二旅団は可愛岳から右翼は一本松手前五六丁の所まで守備を伸ばしており、なお1個中隊を第二旅団から出すということを第二旅団の士官から聞いている。第三旅団の友田少佐が2個中隊を引率して当村(おそらく稲葉崎村)まで来たので一本松左翼の山頂辺に守備を置く見込みで出発した、という内容である。

 さらに16日夜にも山田は山縣に催促している。渡辺中尉の書との前後関係は分からない。

 C09082271700「来翰及探偵戰鬪報告 軍團本營出張」(防衛省防衛研究所蔵)0307・0308征討総督本営罫紙

  本日モ遂ニ第二旅團トノ連絡維持シ得ス懸念ニ付尚又寡少殊ニ疲労ノ兵

  繰合セ弐中隊長尾山一本松ヨリ左翼江配布為致候處山川中佐ヨリ別紙ノ通

  リ申出候然ルニ当團ニテハ最早此上ノ繰合相付不申候間至急第二旅團江御

  督促出兵相成候様致し度存此段申進候也

     八月十六日夜山田少将

    山縣参軍殿

 内容は16日夜になってもまだ第二旅団兵が右翼を伸ばしていないので、別働第二旅団から2個中隊を長尾山一本松から左翼に配布したが、最早これ以上の兵を配布する余裕がないので至急第二旅団に出兵するよう督促して欲しい、との内容である。これも17日に日付が替わって数時間以内だった可能性がある。山川中佐の別紙とは次のものらしい。

 C09082271800来翰及探偵戦闘報告 明治10年7月29日~10年8月16日(防衛省防衛研究所蔵)0309・0310

  過刻御下命ニナリタル長尾山壱本松左翼ヘ當方面ヨリ壱中隊差出シ申候

  五方面ヨリモ壱中隊差出候當方面ヨリ差出タル中隊長ノ言ニ正面ヨリ来襲

  スル者ハ充分防禦シ得ベク候得共左翼ハ已ニ連絡ナケレハ賊ノ迂回ヲ如何

  トモシガタシ左スルノキハ敗走目前ニ候依テ不取敢右ノ趣申進置候

   八月十六日     山川中佐

    黒川大佐殿

 内容は、先程山縣参軍の命令で長尾山一本松左翼へ2個中隊を配布したが、彼らの左翼は守備の空白地帯になっており、敵がそちらから迂回してきたらどうしようもない、ということである。別働第二旅団の山川浩中佐が16日のある時点で同団参謀長の黒川通軌大佐に宛てたものである。

  C09084218100「明治十年 往復書類 第二旅團」(防衛研究所蔵)0768~0771

  竹内中尉ヲ以て永尾山一本松出張参謀ニ宛御照会之趣当團参謀中村中

  リ傳ヘテ承領始メテ貴團ノ兵ノ所在ヲ知得申候然ルニ昨午後十二時四十五

  分下官ヨリ貴團参謀ニ宛防禦線連絡之義御照会ニ及ヒシニ御所在知ルヘカ

  ラサルノ故ニ傳令使各處ニ奔走遂ニ捜リ得ス御本陣迠持参御出張先江送付

  ノ筈必速ク御領手被下候事ト存候尚三中隊ヲ以て長尾山ヨリ右江仮ニ日間

  守備相付御手ノ出兵次第引取候筈ノ處今以て御出兵も無之遠隔ノ地ニ在リ

  声息も通セス右三中隊ハ◦一時ノ守備尓て固ヨリ薄弱夜間ニ至テハ甚懸念殊

  ニ■本日追拂候賊多數其間ニ潰走旁迚モ薄弱ノ守線ニテハ維持無覺束候ニ

  付不得已当團受持ノ左翼永尾山迠引揚サセ候様致度候将タ又續テ本日攻

  ノ義ハ当團此地ニ在ル兵員ハ寡少殊ニ連日進軍ニ依リ兵頗ル疲労迚モ充分

  擔当シ攻撃ノ義ハ相務不申ニ付左翼(横に右の記入)各團進撃ノ運ヒニ至レ

  ハ可成丈之声援ハ可致段当團長ヨリ山縣参軍江既ニ申出有之義ニ候間左様

  御承知被下度■候此段團長ヨリ命ノ侭御回答旁及御照会候也

     八月十六日    黒川大佐

     高橋大佐殿

  尚以て御書中ニ過刻伊藤大尉ノ一中隊ヲ以て熊田進軍ノ義御催促申出ト

  御事ナレノモ曽テ承知不致如何之行違哉ト致疑惑候

 黒川は別働第二旅団参謀長黒川通軌大佐。高橋は第二旅団参謀高橋勝政大佐。

 16日に出されているが、時間が分からない。次のような内容である。「15日12時45分に第二旅団参謀に宛てて防禦線連絡について照会したが、参謀の所在が分からなかったので本陣まで送付した筈です。それで早い段階で受領したと思います。なお、長尾山よりも右翼に昼間だけ別働第二旅団から3中隊を出して守備しました。第二旅団からそこに出兵次第に3中隊を引き揚げる筈ですが、未だに第二旅団からの出兵がなく、そこを維持するのが覚束ないので長尾山まで引き揚げさせようと思います。さらに翌17日諸道からの攻撃について当団兵は疲労しているので声援だけにします。」

 原文を下に掲げる。

 長尾山一帯の尾根筋の北側には谷を挟んで薩軍が陣地を構えており、相対する官軍守備線に4㎞近い空白域があるべきでないのは当然である。

 上図は長尾山に北側で対峙する薩軍台場跡分布図である。敵が登ってきやすい支尾根の根元を守ったことが分かる。方眼は500m。左図は右が北。辺見十郎太や相良長良がいた。

 山田の度重なる要請を受けた山縣は、丁度延岡に着いたばかりの第三旅団から引き抜いて問題の場所に派兵することにした。渡辺中尉の書にあるように第三旅団は三浦の命令で派遣されたのである。

 以上の史料に登場する長尾山一本松左翼の防禦線は、台場跡の分布状況から判断するに一本松からそう遠くない範囲に置かれたらしい。

 次は「戰記稿」第三旅団の部分の記述である。同団は8月16日「第三旅團ハ山縣參軍ノ命ニ依リ十六日夜友田少佐ノ部下二中隊ヲ潜カニ長尾山ノ防禦線ニ出ス

 これによれば長尾山には第三旅団兵から2個中隊が派遣されたことが分かる。具体的にはどの範囲に配布したのだろうか。現地に派遣されたのは戦闘報告表を残した安満・弘中両隊である。したがって援兵として戦闘中に出動した岡隊は守備に就いていなかったことになる。戦闘後、第三旅団の三浦少将は山縣参軍に次のように報告している。

 C09082281900「明治十年八月十七日ヨリ同廿六日 探偵戰鬪報告 延岡出張軍團本營」 (防衛省防衛研究所蔵)0546

  本日第四時頃長野山ニ在ル我防禦線江賊兵来リ襲フ我兵直ニ之ニ應ス賊

  チ敗レ死傷ヲ棄テ去ル依テ攻襲偵察ヲ出シ残賊ヲ捜索為致候条此段不取敢

  御届申候也

 

  八月十九日       三浦少将

    山縣参軍殿

 長尾山を長野山と誤記している。三浦は延岡市街地におり、この付近の地理感が薄かったのだろう。第二旅団もこの戦闘について記録している。

  C09082273200「明治十年八月十七日ヨリ廿六日 探偵戰鬪報告 延岡出張軍團本營」 (防衛省防衛研究所蔵)0342・0343 

    今朝ニ至リ我前面ヱノタキ頂上ニ據リタル賊一人モ不相見定メテ昨夜ク

  キニ乗シ何レノ地ヘカ去リシモノナリ依テ只今ヨリ捜索兵ヲ出シ渓間深林

  ヲサグル中也

  右不取敢上申仕候也

  一追而今暁未明我線ノ内右翼第三旅團ノ哨線ヘ切込之由併シ忽チ打拂ヒ

  由ナリ

   八月十九日午前五字四十分 高橋大佐

    山縣参軍殿

 この報告は小紙片に鉛筆書きしたように見える。大急ぎで書いたのだろう。可愛岳頂上から薩軍が消えたという報告と共に第二旅団右翼方向の第三旅団哨兵線が襲撃されたと報告している。午前5時40分の通知文だから、それ以前に戦いは終わっていたと分かる。

上図は可愛岳脱出後の薩軍本隊の経路。長尾山を攻撃した部隊や山中に潜伏する敗残の兵士達を残し、他は可愛岳から遠ざかっていた。

 「戰記稿」はこの戦闘をどのように記述したのか見ておきたい。

  〇十九日午前三時、賊長尾山ノ防禦線ヲ突擊ス直 チニ擊テ之ヲ郤ク頃ク

  リテ復タ來ル又之ヲ雨射猛擊ス賊遂ニ死屍ヲ棄テ走ル

  (巻六十二 脱賊追擊記)

 これに続く第三旅団の戦闘報告表は9月6日鹿児島市天神馬場のものであり、第三旅団にとって宮崎県内での最後の戦いだったことになる。

 この8月19日の長尾山攻撃を薩軍側はどのように記録しているのか見ておきたい。

 やや長くなるが8月17日の「薩南血涙史」後半部を掲げる。

  薄暮西郷隆盛使を馳て相良長良、貴島淸、松岡岩次郎を招具相良等至る

  西郷曰く。

  「今や我兵既に已に死地に陷ゐれり前日より一方の圍を突破せんと欲し

  を再びすと雖も遂に破ること能はず、最早糧米竭き彈藥乏しく百方策盡き

  如何とも爲すべからず因て各大隊の強兵を撰拔し其の一方面を破らんと欲

  す故に三人を以て先鋒の指揮を命ず」と、三人則ち之を諾して歸り直に精

  兵百五十人を撰び土人二名を嚮導とし、此夜十二時相前後し先鋒隊を率ゐ

  相良長良、貴島淸、松岡岩次郎等先づ長井村を發し、西郷隆盛、桐野利秋

  池上四郎等中軍と爲り中島健彦、佐藤三二等後軍となり言語を戒め路を可

  愛嶽に取り祝子川方面に向ひ敵壘篝火明滅の間を進めり、此の間崖絶壁樵

  夫と雖も未だ至らざる處、前軍は暗夜なるを以て白紙を路傍の樹木に結び

  以て後軍の目標と爲し行くこと三里、其難苦言ふべからず、時に桐野、邊

  見馳せ來りて曰く、「敵の篝火甚だ熾なり暫らく此地に兵を駐め全軍の來

  るを待ち一時に敵壘を衝かん」と、貴島、相良之に答へて曰く「我輩已に

  先鋒の任を受く以て一歩も止まる能はず唯進死あるのみ」と、聽かずして

  進み行くこと數町にして官軍中軍の間を絶つ、此時天漸く明けんとす、官

  軍之を見て各壘より頻りに砲發せり先隊散々亂れ山中に避阻を越えて敵

  壘を斫らんとす官兵又之を認めて頻りに擊射して之を拒ぐ、此時相良長良、

  川久保十次、松岡岩次郎及び福留某等拔刀して敵壘に突入す川久保十次は

  之に死し相良は負傷して深谷に墜落せり。

 8月17日に相良・貴島・松岡等に先鋒を命じたことや、その後の先鋒の戦闘についても相良の「丁丑ノ夢」を肯定的に取り込んだ記述であり、著者の加治木常樹が相良の行進隊に属していたので彼の記述を信頼したのだろう。8月19日に長尾山左翼の官軍を攻撃したことは上記「薩南血涙史」には載っていない。というよりも、攻撃したことは記すがその攻撃がどこで行われたのかを相良同様に記していない。

 「西南記伝」では可愛岳の官軍第一旅団・第二旅団本営を奇襲し、包囲網を脱した件について生き残りの参戦者の記述をいくつも引用している。野村忍介・相良五左衛門・河野主一郎・綾部直景・大野義行・後醍院良弼・芳野覺太郎・大磯左平太・町田四郎左衛門である。薩軍の可愛岳突囲については「諸氏の『戰鬪手録』に記する所、自ら異同あるを免れずと雖ども、薩軍脱出の狀景を知るに足るものあり」として文章を列挙し、結論として次のように記している。

  相良五左衛門の『戰鬪手録』には、相良、貴島、松岡の三將、西郷より

  鋒を命ぜられたるが如く、又、野村忍介の『戰鬪手録』には、『桐野、

  、先鋒と爲る』とありて、其記する所、各相異なるも、大野、和泉、大磯

  等の『戰鬪手録』、及、河野の口供に據れば、邊見、河野の二人、先鋒た

  ることを掲げ、後者の記事、符節を合するが如く、其事實の精確なるを信

  ずべき理由あるを以て、本文は、之に據ることヽせり。

 相良とその他の人々との内容が異なっているのである。「西南記伝」は「薩南血涙史」とは異なり相良の記述を排している。しかし、野村は可愛岳へ向けて西郷等が俵野の本営を出発したことを後から知って追いかけており、彼が記した脱出時の情況は後で他人から聞いたことであり、野村自身が目撃した訳ではない。先に述べたように突囲の際に先鋒・中軍・後軍の区別について「血涙史」は相良の説をとっているが、先鋒が19日に長尾山左翼の官軍陣地を攻撃したという点についてはどこであった戦闘なのか、はっきり認識していない。長くなるが相良の記述を見ておきたい。

 相良五左衛門、長良ともいう、は行進隊隊長で、最初の妻竹子は西郷隆盛の妻(岩山)糸の妹だったが死別している。西郷とは義兄弟ということになる。明治10年2月、西郷が相良に出した手紙が残っている(大西郷全集刊行會1927「大西郷全集」第二巻pp.855・856)

  過日來度々御足勞何卒御海怒可被成下候。今朝相認汗顏の仕合御座候得共、

  備高覽候間御受留被下度候也。

      二月                   西  郷  拜

    相 良 様

  【解説】相良長綱は舊名長良、五左衛門と稱し薩摩の藩士である。十年

  役熊本攻圍軍に參加した。本書は明治九年二月上京に決し、隆盛に暇乞の

  ため訪問して種々談話の後歸宅したが、翌朝隆盛使を以て「世俗相反處 

  英雄却好親 逢難敢勿退 見利全勿循 齊過沽是己 同功賣是人 平生偏

  勉力 終始可行身」「一貫唯々諾 從來鉄石肝 貧居生傑士  勲業顯多

  難 耐雪梅花麗 經霜楓葉丹 如能識天意 豈敢自謀安」二詩に添へて

  贈つたものである。

 文中に明治九年とあるのは十年の間違いではないだろうか。帰宅した相良に翌朝西郷が送った漢詩は「西郷南洲先生詩選」(鹿児島私立歴史館1944)に載っている。前者は「偶作」と題して掲載されているので転載する。

  世俗相反する處 英雄却て好親す 難に逢ひて敢て退くなく 利を見て 

  全く循ふ勿れ 過ちを薺ヒトシクして之を己に沽ひ 功を同じく

  ては是を人に賣る 平生偏に勉力して 終始身に行ふ可し  

 後者も同書に「示外甥政直」と題した詩が載っている。

  一貫ヰヰの諾 從來鉄石の肝 貧居傑士を生じ 勲業多難に顯る 雪に

  へて梅花麗しく 霜を經て楓葉丹アカし 如能モシヨく天意を識らば

  豈敢アニアヘて自ら安きを謀らんや

 二つ共、以前に詠んだものらしい。

 相良長良は獄中で下記の口供書を残している。文中に感想を述べながら引用する。なお、相良には内容の似た上申書もある。 

「丁丑ノ夢」『鹿児島県史料 西南戦争第三巻』pp.735~747(引用部分はpp.745~747)

  八月十五日軍ヲ合セテ延岡本道ニ向テ進撃奮戦スト雖官軍逆撃終ニ本道

  味方敗レテ進ムコト能ハス(相良の行進隊は本道ではなかったことになるのか)、時

  ニ官軍四面ヨリ押寄セ重柵ヲ例シ塁ヲ堅フシ烈シク攻撃ス、此ニ於テ各隊

  長会議シテ云フ、味方粮米乏シク弾既ニ竭キ事一モ為スヘカラス、如何ニ

  モシテ一方ノ囲ヲ突キ血路ヲ開クヘシト、因テ奇兵隊ヲ先鋒トシ、十六日

  未明ヨリ延岡本道(小梓峠・長尾山一本松方面を攻撃したらしい。開戦時間は他の記録

    では?和田越第四旅団の記録は?)ニ向テ進撃スルヤ、官兵左右翼ノ岡塁ヨリ横

  撃シ味方亦タ進ムコト能ハス、総軍悉ク旧塁ニ引揚ケ、亦タ桐野利秋

  ハ精兵ヲ率ヒ、熊田道ヨリ豊後口ニ進撃シ囲ヲ潰ヤサントスルニ大軍進

  難キヲ察シ空シク旧塁ニ引揚ケタリ、我行進隊ハ各所ノ応援兵ニ備フ、此

  日永井村南方ノ高山ヲ守ル(長尾山などに谷を挟んで向かい合う北側の尾根筋のこと)

  、熊本・高鍋等ノ兵官軍ニ降ル、此時西郷、相良ヲ招キテ云フ、此山タル

  ヤ第一ノ要地ナリ、若シ敵ノ有トナル時ハ当地ヲ保ツコト能ハサルヲ以テ

  厳ニ之ヲ守ルベシト、依テ直ニ隊ヲ率ヒテ登山防戦尤力ム、此時四面皆敵

  ナリ、夜ニ入レハ篝火野ニ満ツ、恰モ天ノ列星ノ如ク、其数幾千ナルヲ

  知ラス、火焰天ニ漲リ殆ト白昼ノ如シ、仝十七日昧爽ヨリ官軍大挙我カ塁

  壁ヲ攻撃シ(別働第二だけか?)、大小砲ヲ連発スルコト雨ノ如シ、我カ兵モ

  死力ヲ尽シテ奮戦ス、敵破ルコト能ハス、路ヲ転シ嶮谷ヲ下テ同村ノ田中

  ニ突進ス、此時邊見十郎太・松本龜五郎等兵ヲ率ヒ馳セ向ヒ一撃之ヲ卻ク、

  日暮西郷隆盛使ヲ馳テ相良及ヒ貴島清・松岡岩次郎ヲ招ク、到レハ則チ西

  郷・村田曰ク、我兵已ニ死地ニ陥リ復生道ナシ、已ニ一方ノ囲ヲ破ラント

  欲シテ再三進撃スト雖モ志ヲ得ル能ハス、粮米・弾薬全ク竭キ復タ如何ト

  モ為ス可カラス、因テ各大隊ノ強兵ヲ撰抜シ是ヲ以テ一方面ヲ破ラント

  ス(この方面はどうしてきまったのか)故ニ三人ニ先鋒指揮ヲ命スト、三人則

  チ承諾シ、直ニ精兵百五十名余ヲ率ヒ、土人二名ヲ嚮導トシ午後九時頃密

  

 

  ニ永井村ヲ発ス、時ニ夜方ニ闇黒道路咫尺ヲ弁セス、乃白紙ヲ路傍ノ草木

  ニ結ヒ以テ後進ノ標示ヲナシ、堅ク言語ヲ戒メ、中軍ハ桐野・邊見指揮シ

  後軍モ亦タ続テ発ス、時ニ池上四郎馳来リテ西郷ノ令ヲ伝ヘ曰く、這ノ

  ヲ潰ストキハ各隊方向ヲ知ラス、散乱ノ患アリ、君等敵ヲ衝破ラハ皆曾木

  ニ会シテ以テ高鍋ノ敵営ヲ襲撃セヨト、相良之ヲ諾シ、官兵篝火ノ間ヲ潜

  行スルコト数ケ所ニシテ(この間、遠距離ではなかった)、道路険阻牛馬ヲ通ス

  ル能ハス、或ハ木根ヲ攀リ岩角ニ躋リ其艱難云フ可ラス、未明可愛峠ノ下

   (可愛岳の東側の崖下だろう。尾根には上 がっていない)ニ至レハ桐野・邊見馳来リ

  云フ、官軍ノ篝火未タ甚タ熾ナレハ暫時此地ニ兵ヲ接掩トシテ全軍一時ニ

  敵塁ヲ衝破ント、相良及ヒ貴島・松岡答テ曰、予等先鋒ノ任タルヲ以テ一

  歩モ淹マル可ラス、タ進死アルノミト、肯セスシテ行ク、数丁ニシテ官

  軍我中軍ノ間ヲ絶ツ(相良等がどこまでか進んだ時点で官軍第二旅団が薩軍本営攻撃の

    ため、六首山から長尾山方向に向かい背後を下って行ったらしい)時ニ天已ニ明ケタ

  リ兵我カ兵ヲ見テ各塁ヨリ頻リニ発砲ス、之ニ依テ我カ先鋒隊支ル能ハ

  ス、散々ニ不意止山林ニ避ケ(六首山の手前で長尾山方向に下りたのか)

  俟テ山ヲ出テ嶮ヲ越谷ヲ渉リ(六首山の南東に標高253mの支尾根が下る。これを

    下ったのか。253m地点から1.27km地通り進むと南方に登る長さ約1.030m尾根がある。こ

    こから登ったのか。その間、尾根ではなく谷間も行したことになる。全体の行程は2.3km

    ほどとなる。相良等は地図をもって進んだのではないから正確な距離は分からなかっただろ

    う。)クコト一里許(4km。相良等には実距離の倍4kmにも感じられたのであろう)

  敵兵ノ中ヲ斬抜ントス、官兵之ヲ認メ頻リニ砲発ス、乃相良・川久保十二

  ・松岡岩次郎・福留某等(数十人か若干それよりも多い程度だろう。貴島が登場しない

    のはおそらく彼が途中から中軍あるいは後軍に合流したためと考えられる。後に貴島は鹿

    島市城山に籠城し、米蔵で戦死した。)ト抜刀斬入リ進ンテ三塁ヲ抜ク、官兵

  ヲ捨テ﹅走ル(事実であれば戦闘報告表では故意に書いてないことになる)、余等

  塁ニ拠テスルヤ(塁を奪ったのは 確実)、直ニ官兵一中隊来リテ(実際は 官軍

    の援隊一小隊)塁ニ逼リ万生路ノ無キヲ計リ、斃レテ已ント躍テ敵中ニ斬入

  ルヤ、川久保ハ戦死、相良ハ剣創ヲ頭上ニ負ヒ深谷ニ顚墜ス、福留某相良

  ヲ躡シテ来リ助ク、遺憾ナカラ剣創ノ為メ一歩モ動クコト能ハス、山中ニ

  伏スルコト実ニ七日間(上申書では6日間とある。官軍は怖い ので尾 根筋か ら降りて

    徹底的な捜索まではしなかったのだろう。現在、樹木の間に羊歯が密生し2,3m離れて隠

    れていれば見つけることができない状態である。)、其間全ク粮ヲ絶ツ、十四日

  夜(上申書では23日)福留ニ扶ケラレ漸ク山ヲ出テ民家ニ至ル山の北側、小

    橋山の南側の細長い谷を東流する大峡川沿いの村だろう)時ニ全軍已鹿児島ニ向

  テ発シタルヲ聞キ、乃チ西郷ノ軍ニ達セント夜ヲ俟ツテ民家ヲ出ツレハ、

  官軍諸所ニ屯集或ハ哨兵ヲ張リテ篝火亦熾ナリ、之ニ依テ昼伏夜行、道路

  峻険或ハ木ノ根ヲ攀リ溪(一字欠)渉リ或ハ竹枝ニ縋テ下ル、加フルニ大

  風雨連日、川水之カ為メニ漲リテ津路ニ迷ヒ、或ハ幽燈ヲ認メ、或ハ樵路

  ヲ彳(体字行の右)ス、泥濘ハ脛ヲ冒シ跣足無帽、夜ニ入レハカニ民舎ニ

  出テ食ヲ得、十里ノ路程実ニ艱難辛苦毫舌ノ名状スル所ニアラス、数日

  ニシテ佐土原三納郡ニ到レハ、池邊吉十郎此ノ地ニ潜伏セリ、乃チ池邊モ

  相良来ヲ聞尋来リ、告ルニ佐土原戦争ノ際病院ニアリシカ味方破レテ

  ルコトヲ得ス、尓来林ニ潜伏シ亦爰ニ在ルコト久シ、已ニ味方ノ敗報ヲ

  伝聞シテ幾回カ屠腹セントセカ、西郷ノ死生未タ詳ナラサル故ヲ以テ今

  ニ存ヘタリ、君ニ遭フ恰モ夢ノ如クト、大ニ満足シテ西郷ノ踪跡且延

  岡戦情ヲ問フ、相良答テ曰ク、西郷ハ無異兵気未タ熾ニシテ永井村ノ重

  囲ヲ突キ脱ケタリト、茲ニ到ル以ヲ告ク、池邊曰ク、ナル哉、壮ナル

  哉、実ニ再生ノ思ヲナスト懇ロニ談シ共ニ酒ヲ酌ム、酒酣ニシテ土原士

  族数名来テ云、爰ニ三百余名ノ有志輩アリ、願クハ君等ニ従ツテ指揮ヲ請

  ケ西郷ノ軍ヲ翼ケント、我等大ニ喜ヒ然ラハ速ニ今宵結束セン、衆曰ク、

  暫ク滞留給ヘ、我等モ金穀ヲ調ヘ后チ進軍セント云、答テ曰ク、兵ハ神

  速貴フト云ハスヤ、今夜速ニ発セスンハ敵害ヲ請ルナラム、依テ君等ハ備

  ヲナシ跡ヨリ進発シ給ヘ、我等ハ先行スヘシトテ池邊ト共ニ又潜行シ、漸

  ク綾郷・高岡・須木郷・小林郷・飯野郷・栗野郷・横川金山・蒲生・吉

  田郷等山野ヲ経テ鹿兒島郡山ノ内花尾山ニ出テ戦情ヲ探偵スルニ、西郷ノ

  軍ハ城山ニアリ、官軍ハ既ニ下ノ四面ヲ固メ重囲厳備、水モ漏ル﹅コト

  能ハス、之ニ因テ池邊ト議シ、到底百余名ノ兵ヲ募リ必死ヲ以テ一条ノ血

  路ヲ開キ、城山ニ入テ西郷ト死生ヲ共ニセント欲シ、頗ル苦心周旋中僅

  二日間ヲ出スシテ惜哉、終ニ落城ニ及ヒタリ(相良等が鹿児島に着いたのは落

    が24日だから二日前の9月22 日か嗚呼、

 

上図はグーグルマップに西郷等の突囲経路と相良等が18日の攻撃後に経過しただろう経路を示している。地理感のない人もこれで理解しやすくなると思う。

この図では安満隊と弘中隊の場所を仮に推定した。上のグーグルマップ図では三つの進路を想定したが、長尾山には台場跡がなく、ここが戦場になった可能性は低い。また、「行クコト一里許」という記述は間違っていると思う。攻撃のために支尾根を登るのに時間を要したのだろうか。踏査時に羊歯と悪戦苦闘した経験からそう思う。

 

延岡市大峡町の竹谷神社。18日潜伏した場所の東側の谷が可愛岳にぶつかる所にある。上の地図に神社の記号がある。

竹谷神社手前で南側の谷に入ると川沿いの右にある林道が森に戻りつつあった。ある時、ここから長尾山左翼を目指した。

 手前の緑濃い山(安満隊が右端にいた?)の一番右奥に長尾山の頂上が見える

 この文中に8月19日の長尾山左翼に対する攻撃が記されていると思う。時ニ天已ニ明ケタリは18日辺りが明るくなったということ。相良達は可愛岳の南西に続く尾根に東から登り、その先にある六首山の官軍を攻撃したと考えている。

 六首山の兵我カ兵ヲ見テ各塁ヨリ頻リニ発砲ス、之ニ依テ我カ先鋒隊支ル能ハス、散々ニレ不意止山林ニ避ケというのは官軍の攻撃を避けるため六首山の手前で東側の斜面を下りて途中に留まったのだと考える。その後は、ヲ俟テ山ヲ出テ嶮ヲ越谷ヲ渉リの部分の解釈は、六首山の南東に標高253mの支尾根が下る。これを下ったのか。253m地点から1.27km地形通り進むと南方に登る長さ約1、030mの尾根がある。ここから登ったのか。その間、尾根ではなく谷間も進行したことになる。全体の行程は2.3kmほどとなる。

 行クコト一里許は4km。後述のように長尾山左翼の官軍が攻撃され始めたのは午前2時半から3時頃だからまだ真っ暗な時間であり、谷底を進んだと考えられる相良達は遠方が見えず距離感をつかめない状態だっただろう。長尾山左翼が相良等には実距離の倍4kmにも感じられたのであろう。

 敵兵ノ中ヲ斬抜ントス、官兵之ヲ認メ頻リニ砲発ス、乃相良・川久保十二・松岡岩次郎・福留某等ト抜刀斬入リ進ンテ三塁ヲ抜ク、官兵守ヲ捨テ﹅走ルは現地に官軍の台場が存在したことを示している。余等敵塁ニ拠テスルヤ、直ニ官兵一中隊来リテは岡隊が派遣した援隊一小隊のことである。

 塁ニ逼リ万生路ノ無キヲ計リ、斃レテ已ント躍テ敵中ニ斬入ルヤ、川久保ハ戦死、相良ハ剣創ヲ頭上ニ負ヒ深谷ニ顚墜ス、の部分では相良が銃剣により頭を負傷し、深い谷に落ちたということだが、可能性としては長尾山左翼尾根の南側か北側の二つが考えられるし、結論は出せない。

 この日、和田越から可愛岳の間で戦闘があったのは官軍の記録では長尾山であり、戦闘報告表を作成しているのは長尾山の防禦線にいた第三旅団(安満隊・弘中隊がいた。岡隊は援隊)だけである。防衛研究所蔵の原史料を調べると、第三旅団が配置に就いていたのは長尾山のうちでも、一本松と呼ばれた峰の西側を過ぎ長尾山を経て可愛岳に接続するまでの尾根筋のどこかであることが分かった。

 現地の踏査では一本松から少し左翼までには台場跡が分布する。しばらく空白域があって、長尾山を通り過ぎ、少し離れた場所から再び台場跡が分布する。一本松から長尾山、更に西方尾根の台場跡分布状況から考えると、第三旅団の2個中隊が派遣されたのは長尾山の西方だったとみられる。長尾山左翼と呼ぶことにしたい。

 当時も、その後も襲撃してきたのが誰だったか官軍側は全く理解していなかった。相良長良・松岡岩次郎・川久保十次・福留某達だったのである。ここで福留某とあるのは川久保はここで戦死している。敢えてボカシタ表現にしたのだろう。福留は当時生きていた可能性が有、明確に声明を記すと迷惑がかかると考えて、苗字だけを記したと思う。

 貴島清は当初は先鋒を命じられて相良達と行動を共にしていたはずだが、その後鹿児島市米蔵で戦死している。18日朝、可愛岳南西の六首山を攻めた後に相良等とは別れ、最終的には鹿児島に向かった薩軍と行動を共にしたのではないだろうか。再度の攻撃の際には貴島の名を挙げていないのも、これを証するものである。貴島は、別れた後に相良達が19日に長尾山左翼を攻撃したことを知る術がなかった。

 貴島は鹿児島に進軍した際、西郷達に相良達のその後の行動を伝えることはできなかったし、相良も鹿児島に帰った時、厳重に包囲されていた城山に合流できなかった。したがって、城山で生き残った野村や河野等はそのことを知ることはなかったのである。彼らが監獄に入るまでの間に相良と話す機会はなく、獄中で書いた各々の上申書には当然記載されなかった。

 相良等が19日午前3時前後に長尾山左翼を攻撃したことが官軍側の戦闘報告表で裏付けられ、およその場所が判明した。それならば、「西南記伝」が否定した西郷が先鋒を命じたことなど他の部分についても見直す必要が生じるだろう。

        上図は相良長良が長尾山から鹿児島に帰った際の概略図

 負傷後に佐土原三納で熊本隊隊長の池辺吉十郎に逢ったとある。西都原古墳群のある場所の少し西側である。池辺は負傷して部下とはぐれた状態だったので、ここに記された内容からその後の池辺の動向を知ることができる記述である。等ハ先行スヘシトテ池邊ト共ニ鹿児島に向かったのである。兎に角、当時の人たちの体力と精神力には感心するしかない。

 その後の相良長良 

 相良長良とはどういう人だったのだろうか。「西南記伝」の「相良五左衛門傳」を便宜上前後に分けて掲げる。

   相良五左衛門、名は長良。後、長綱と改む。薩摩の人。父は彌兵衛

    賢母は森氏。五左衛門は、其第一子、弘化四年十月二十八日、鹿兒島上

  平に生まる。世、島津氏に仕へ、其藩士たり。戊辰の役、薩藩一番隊に

  屬し、奥羽に轉戰し、凱旋の後、賞典祿八石を賜はる。明治二年、鹿兒

  島常備隊の半隊長と爲り、四年出でヽ近衛大尉に任じ、六年、辭して鹿

  兒島に歸る。十年の役、薩軍に應じて三番大隊五番小隊の押伍と爲り、

  肥後に出で、熊本城攻圍軍に參加し、尋て一番大隊五番小隊長と爲り、

  田原、吉次方面に戰ひ、四月二十一日、濱町に於て、行進隊大隊長に任

  じ、其隊を率ゐて鹿兒島方面に向ひ、是より日隅各地に轉戰し、八月、

  延岡に退き、長井村に傷き、山林に潜伏すること數旬。十月廿三日、鹿

  兒島に歸り、自首縛に就き、懲役三年の刑に處し、東京市谷監獄に幽せ

  らる。出獄の後、農商務省御用掛、外務省御用掛に歷任し、十九年高等

  師範學校幹事に任ず。二十八年、臺灣總督府恒春支廳長心得と爲り、二

  十九年、臺東支廳長に兼任し、三十年、臺東撫墾署長、及、臺灣國語傳

  習所長心得に任せらる。三十二年、病に罹りて卒す、年五十八。

 上記の文中に山林に潜伏すること數旬とあるのは、前掲「丁丑ノ夢」や次に部分的に引用する「相良長良上申書」によると6日間が正しい。相良の「十月廿三日、鹿兒島に歸りというのは数旬に矛盾しないようしたものか。参考までに「相良長良上申書」末尾部分を掲げるが、鹿児島に着いた日付は記されていない。

  廿三日ノ夜福留某ニ扶ラレテ漸ク山林ヲ出テ民家ニ到ル、全軍業已ニ鹿

  兒島ヲ指テ切抜ケタルノ説ヲ聞テ始テ安堵ノ思ヲナシ、昼夜微行シテ漸

  ク本県ニ帰着、爾後戦状ヲ詳ニセス、

 三十二年云々については後述することにして、後半を続ける。

   五左衛門の近衛第四大隊ニ番小隊附大尉たるや、一日、半大隊を率ゐ

  て、赤坂離宮を警衛す。時に 皇上、手づから旗を捧げて禁苑の池側に

  立ち、兵隊を東西に分ち、喇叭を相圖に、兵士疾足の遲速を試みさせら

  れ、號を正うし、先登して旗を掲ぐるを第一等と爲す。而して其號令あ

  るや、士官を始めとし、數百の兵士、一齊に駈け出せしが、五左衛門、

  先驅して其旗を掲げしかば、叡咸斜ならず、直に五左衛門を御前に召さ

  せられ、手づから縮緬一疋を賜はりしと云ふ

   明治六年、征韓論破裂し、西郷隆盛の鹿兒島に歸るや、五左衛門、亦

  其職を辭して故山に歸らんとし、之を篠原國幹に謀りしに、國幹、其留

  職を勸めて止まず。而も五左衛門、斷然自ら決する所あり、辭表を呈出

  せしに、西郷從道、野津鎭雄等來り、五左衛門に向ひ、懇ろに其留職を

  諭し、又、其辭表は却下せられ、國家の爲に努力せよとの勅語を賜はる。

  而も、五左衛門、再び辭表を呈出し、十一月中旬、東京を發して横濱に

  至り、郵船に搭じて歸途に就けりと云ふ。

   五左衛門の市谷監獄に在るや、滿期に先ち、破格の恩典に由りて赦免

  せらる、獄征韓論の顚末を筆記し、名けて『夢物語』と曰ふ、又、明

  治十八年、黑田清隆に随て、淸國を漫遊し、『淸國漫遊記』あり、五左

  衛門、初め岩山氏を娶りて一女を生む。岩山氏沒するに及び、靑山氏を

  娶る。

   五左衛門の死するや、知友の士、其生前、蕃界經營の功績を表彰し、

  明治三十八年、臺灣臺東卑南山腹の地を相して、記念碑を建設せりと云

  ふ。

 相良の写真はあるのだろうか。下図のような荒唐無稽の版画ならある。「賊徒軍門降伏」と題されているが、当局にこの絵柄を版行してよいか伺い、許可を得た8月4日にはまだ行進隊は降伏していない。

 

 相良長良改め長綱は台湾東部の台東庁長として明治30年5月27日に任ぜられて以来、住民の撫育・教育に多忙であったとみられる。一例を挙げれば1903年の米国船の遭難に伴う処置がある。

 足立 崇(2007「日本統治時代初期台湾のベンジャミン・セオール号事件に関する研究」『大阪産業大学論集 人文科学編122』)によると、1903年シンガポールを出港し上海に向けて航行していたベンジャミン・セオール号が台湾沖で遭難し、東海岸蘭嶼付近でヤミ族に襲われるという事件が発生した。翌年1月日本は討伐隊を派遣し加害者とされる10人を逮捕、家屋を焼き払うなどの処置を執った。ここでは事件のことではなく、相良の健康について注目すると、この時、相良自ら討伐隊の船に乗り同行したが「船中ニ於テ諸般ノ指揮命令ヲ為ス所アリシモ持病起リシカ為メ親シク実地ノ行動ヲ監視シ能ハサリシ」という。

 その後、3月段階では相良の病状は悪化しており、急遽叙勲の話が浮上した。その際の記録に彼の履歴書が添えられている。明治37年3月16日付の叙勲裁可願いに相良関係資料があり、履歴書が含まれている(叙勲裁可書「明治丗七年・叙勲巻一・内国人一」国立公文書館蔵)。細かくて読みにくい部分があるかもしれないが、アジ歷で閲覧していただきたい。

 数日後に亡くなったとしたら3月中に亡くなったのだろうか。58歳である。明治37年に病没したことになり、「西南記伝」にある明治32年没は誤りである(JACARアジア歴史資料センターRef.A04010079200「台東庁長相良長綱賞与ノ件」国立公文書館

 孫引きだが相良は明治7年の台湾出兵に従軍したという(宮岡 真央子「重層化する記憶の場〈牡丹社事件〉コメモレイションの通時的考察」『文化人類学』81 巻 2 号 pp.266 〜 283 2016 年 9 月)。何やら聞きなれぬ横文字が使われ難しそうであるが、記念碑のことである。記念碑という日本語を知らなかったのだろう。福沢諭吉なら新たに訳語を造語したに違いないが、現代人は横文字を高尚ぶるのに使う例である。どこかの知事を思い出す。世間から孤立したその学界の狭い世界では通用するのであろう(原典は山中 樵 1944    (「宮古島民の台湾遭害」『南島』第三輯:136-173)

 叙勲の資料として作成された履歴書には台湾出兵に鹿児島から参加したことや西南戦争に従軍し、あろうことか行進隊の指揮長として政府に抗戦したことに関する記載は省かれており、書かない方がよかったのであろう。

 明治18年2月には農商務省御用掛兼外務省御用掛に任命され、2月から9月まで香港に派遣されているが、これが樺山資紀に同行した清国漫遊だろう。明治19年7月、相良は沖縄県師範学校学務課長、12月には学校長を兼務した。

 明治28年5月台湾は日本が統治を始めており、総督府の初代総督は鹿児島出身の樺山資紀である。相良は明治28年5月21日台湾恒春支庁長心得に任命されており、同じく西南戦争薩軍幹部だった河野主一郎は宜蘭支廳長心得となっている。二人とも有能と見込まれていたのだろう。相良は翌29年4月には台南県支庁長、30年5月には台湾東部の台東庁長に任命されている。

 中国版ウィキペデア「维基百科」に相良長綱の項目がある。その記事を機械翻訳のまま掲げる。明らかな誤訳、樺山が鳩山となっている部分だけは訂正し、他はそのまま。

  文部省高等師範学校官、日本併合後、1886年7月に沖縄県師範学校長、美里、

  越来、勝連、那城の4学区を視察し、1887年に「沖縄県教育の沿革」を執筆

  し、沖縄県管轄内の小学校の教科用図書の審査も担当した。 優れた業績によ

  り、1888年に文部省視学官と一般学務局第2課長に異動。

  1895年、日本軍が台南を占領し、台湾西部を平定した後、台湾知事の樺山資

  紀に招かれ、恒春支局長として台湾を訪れ、恒春国語伝承所を設立し、校長を

  兼任し、同年6月30日に知事府から台東支庁の官職を授与され、東台湾を征

  服する準備をした。1] 。 「一度、その端が間違っていると、欠点が次々に出

  現し、東の地域は、最終的に島の運営を妨害し、したがって、我々の軍隊が

  南台東に出入りできるように、恒春族の帰還によってのみ、この島の運営を

  妨害する」と彼は指摘した。 豚束束のパン・ウェンジ社長と緊密に協力し、

  恒春のアボリジニの部族の帰還を東への日本の出入りの出発点としました。

  「パン・ウェンジの仲介の下、彼は「ペナン王」として知られるペナンの

  長、チェン・ダダマランのリーダー、ベラス・マヘンヘンなどの東部部族

  指導者の帰還を説得し、非攻撃的な約束を交わした後、東部の徴兵の 準備を開

  始した。

  1896年5月24日、卑南社マラン社連合軍が雷公火の戦いリウ・デビン

  いる鎮海後軍を破り、相良率は日本軍将校と兵士を恒春から船で南に上陸さ

  せ、新開園(現池上)で鎮海後軍を全滅させ、台湾最後の清朝正規軍を崩壊さ

  せた[3]。 1896年6月30日、台湾総督府、台南県の台東支局長に相良を正

  式に任命した。 1897年3月18日、台東省の埋め立て局長に就任。 5月27日、

  台東支局は台東庁に昇格し、相良は初代台東庁長官に就任した。

  相良長綱はアボリジニの教育を推進し、懐柔政策を採用している。 [4] 彼は

  台東平原の部族指導者と協力し、南大社とマランの指導者マ・ヘンヘンが花

  東縦谷と東海岸の部族を説得し、麻雀リークニュータウン事件、その他の

  先住民族の反乱を鎮圧するのを助けた。

  1904年3月16日、日本政府表彰局より、シュフン四等賞の日小樽章が授与

  された。 同日、宮内省から5人の称号を授与された。 しかし、合併症はまも

  なく突然死亡した。

 これには相良が台湾でした仕事の一端が記されている。また、「随意窩Xuite日誌」というブログには相良の病名と死亡年月日が記されている。再び機械翻訳を掲げる。

  しかし、これらの栄誉は、まだ彼の命を救う方法はありません。 受賞し

  た同じ日、1904年(明治37年)3月17日、喘鳴と小児性炎のため台東庁

  死去した。

 喘鳴ぜんめいとは空気の通り道が狭まり、音が生じる症状で、いわゆる喘息らしい。

 この叙勲に伴い作成された履歴書は相良長良と相良長綱を分断するのに相当有効だったようである。日本や台湾の研究者達は相良長綱が相良長良であることに気づいていない。「薩南血涙史」は明治38年、相良の記念碑が台湾に建設されたと述べているが、これは死去の翌年である。

 いつか相良の写真を見てみたい。

可愛岳突囲のあと

 8月18日早朝の可愛岳脱出戦闘後、薩軍本隊は西に向かって行く。その行方を追いたい官軍だったが通信事情が現在と違う当時、的確な部隊配置の方針を示せなかった。薩軍が延岡に進むのか、大分に行くのか、熊本に進むのか、人吉か、鹿児島か分からず、延岡周辺に集まった官軍は各地に分かれて進軍することになった。本営を突破された可愛岳西側の山上では21日にも第二旅団が守備を配置している。再度の襲撃を想定し八水山・可愛岳・六首山などに配兵したが、23日には可愛岳一帯から撤退し、追撃に移っている。同じ場所に本営を置いていた第一旅団は19日にはすでに可愛岳山上を降りて薩軍が去った祝子川に向かい、その後は三田井・浜町・人吉に進んだ(高橋2012「可愛岳一帯の戦跡」pp.108~130・「薩軍の可愛岳突破について」pp.131~163『西南戦争之記録』第5号)。相良長良達が長尾山麓に六日間潜伏した後、谷を出て海岸にたどり着いた時には辺りに官軍の姿はほとんどなかっただろう。

 その後第三旅団は鹿児島に向かうことになる。

 その後、第二旅団は海路鹿児島県加治木に上陸し鹿児島市北部の吉田地方に進んでいる。別働第二旅団の半分は熊本県人吉に、半分は宮崎県米良に向かった。和田越の戦いの際、大分県南部から南下した熊本鎮台は可愛岳山脈の北東部を奪い、俵野の薩軍を北から包囲していたが、薩軍が脱出した後は大分県竹田・宇目地方や宮崎・大分県境地帯の長野越を警備した。

 煩雑だから各旅団の動向は略すが、9月初めには官軍は次第に鹿児島に集まっていったのである。

 

次亜燐(じありん) 

 次亜燐は昔の栄養剤です。自分が大分県内の発掘調査に従事していた際、ある遺跡で最初の表土剥ぎを重機で実施中にゴミ穴からガラス瓶が沢山見つかり始めたので、重機を止めて手作業で回収し、100点以上出土したガラス瓶類を発掘調査報告書に記載したことがありました。その後しばらくガラス瓶に興味を抱き、ヤフオクなどで集めていた時期がありました。その頃の一つを紹介します。

 これは紙箱に入った状態の一式です。添付紙で封をし、内部に説明書・瓶の形の厚紙・瓶本体・小瓶・小瓶を巻いた段ボール紙が入っています。

紙の下には瓶下部に立体的な文字が隠れています。

瓶の中身はありません。小分けにして飲む小瓶が一個ついてます。小瓶は幅狭の段ボールで巻いていました。上の方の写真に一部が写っています。

 

 

 

 最後の説明書は1枚で、光沢のある薄紙です。用紙の名称は不明です。文字が薄いので拡大して示します。ネット上では単品で見ることのある品ですが、ラベルが貼られた状態である点や、このようなほぼ一揃いの次亜燐は他に知らないので、その点貴重だろうと思い紹介しました。

 報告書執筆の際、全国の出土例を探したけど発掘調査例がなく、他例から製造年代を知ることはできない状態でした。そこで明治以降の新聞広告や雑誌広告などを調べた結果、明治時代に製造され始めたように記憶しています。報告書類を手元に残していないので、また奈良文化財研究所で公開しているのでは、この報告書はPDF化されていないので確認できていません。

臼杵市井村山の戦跡 田ノ口に戦跡なし。5月23日踏査結果。

はじめに

 巻尺の位置が塹壕内側の窪みです。向こうに見えるのは藤原山。

 塹壕跡から見た北東方向風景。中央左に龍王山、右は大迫山。低地を横切るのは臼坂バイパス。

 大迫山の踏査以来、周辺のいくつかの戦跡が未踏査であることに気づきました。その一つが井村にあったという井村山です。これまで井村の丘陵を山と称していた可能性もあると漠然と考えていましたが、1基だけ井村西部に台場跡が存在する周辺を確認してみることにし、出かけました。下図の中央部に官軍台場跡とある地点の北側です。

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 井村山の台場跡分布図 5号と6号は初めに薩軍が北方の大分市方向を意識して構築、4号は官軍が南から進撃した際に薩軍が築いた。1号から3号は占領した官軍が東側を向いて築いた。

 井村の地形は9万年前の阿蘇Ⅳ噴火に伴う堆積層が浸食され、残った溶結凝灰岩丘陵です。上面の標高は10mから20m前後であり、西方の今回井村山と呼ぶ山は最高所が77mです。東側の丘陵面よりも60m前後高くなっています。また、この山自体も阿蘇Ⅳであり、浸食が比較的少なかった部分です。谷間では凝灰岩の崖面を観察できます。

遺構・戦記について

1号台場跡はすでに存在が知られているものであり、今回確認したものを2号とします。2号台場跡の略図が下図です。

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 2号台場跡がある場所は上面が比較的広い尾根の東部にあたり、東側を向いて「し」字形の土塁があり、内側は窪んでいます。窪みの底に試しに細い棒を差し込んだところ30cm弱で硬い面に達したので、埋まった深さが判明しました。台場跡の規模は南北14.2m、東西5.6m。土塁の北端から52mの距離に次の3号台場跡南端があります。

 3号台場跡は2号よりも幅が狭い尾根上面にあり、尾根の東部に東向きに築かれています。土塁は半円形というか弓状です。内側は窪み、南側から入りやすくなっています。規模は南北8.0m、東西5.0mです。こちらの窪みは厚さ20cmほど埋没しています。台場跡の背後に図示していないが幅3mほどの踏み分け道があり、道の西側は土塁状に高まっています。また、台場跡の北側には地形の傾きに直交するように土塁が一直線に存在し、地図外の一段掘り下げられた平坦面(同じ高さを南北に走る畑跡状のもの。道路跡か?)直前まで続いています。これら二つの土塁は踏み跡により消滅した部分が断続的にあり、相当古いようですが、台場との新旧関係は不明です。

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戦記

 井村山が西南戦争時に登場するのは6月8日からです。大迫山を扱った際に関係文書は網羅したつもりですが、そこからいくつか転載してみます。

 6月8日、戦闘開始。官軍の臼杵進撃の方略・部署表があるが、簡単に記す(「征西戰記稿」)

左翼(司令官奥少佐):白木峠に第十四聯隊の2個中隊と警視三番小隊、その北側の再進越に遊撃第四大隊の1個中隊、その北の白山越に第六聯隊の1個中隊。

中央(諏訪・吉田両少佐):松原峠と吉野越に第十三聯隊の2個中隊と警視四番小隊と第十一聯隊の2個中隊。

右翼(林少佐):野津市口に第十三聯隊の4個中隊。

三道ノ兵午前四時ヨリ進ム左翼先鋒ノ警視兵ハ廣田村ヨリ白木峠ヲ越ヱ臺兵ト合シテ末廣村一里松ニ至リ江無田ノ賊ヲ撃ツ而シテ先ツ諏訪山ヲ取ラサレハ或ハ横撃ノ患アルヲ以テ一分隊ヲ留メ路ヲ轉シテ左翼井村ニ至ルニ賊忽チ江無田橋側ニ出テ襲撃ス我カ兵直チニ井村山ニ登リ戰フ會〃日暮ル賊敢テ逼ラスシテ退ク又中央先鋒ハ突進直チニ水城ヲ拔ク其警視兵ハ臺兵ニ並木峠ニ合シ間行吉野峠ヲ下リ賊ノ不意ニ出テ其背ヲ衝ク賊狼狽潰走ス然レノモ両翼ノ攻撃少シク期ニ後ル﹅ヲ以テ未タ志ヲ達スル能ハスシテ天明ク乃チ警備線ヲ設ケ又工兵隊ヲシテ胸墻ヲ水ケ城ニ築カシム

 一行目の広田村は広内村の間違いです。白木峠は今は九六位峠と呼ばれる場所のことで、その北西側麓に広内があるのが広田村とされた所でしょう。8日に戦いを交えたのは広内村から白木峠を越えて末広一本松に進み、江無田の薩軍と交戦した左翼兵だけのようです。官軍側の探偵報告にも井村が出てきます。

 林少佐の4個中隊が井村山で戦ったとあります。対する薩軍は井ノ村山に4基の台場を築いたという記録が大分市松岡の小区役場の記録にあります(大迫山記事に掲載)。

 次は4号台場跡です。これだけが南向きです。

 図では等高線が少ないので分かりにくいが、要するに平坦面がニ段ある地形です。左右の一段低い面は戦後の食糧難時代に畑を開いた跡かも知れません。4号は北側から登ると、頂上に着いた途端に見つかる状態です。

 きれいな図を示せないので仮に写真で撮ったのを掲げます。5号は平面形がL字形で全長延べ94mです。方位印の部分は右から入り込んだ谷になっています。図の左下部分は小さな広場であり、左外側から自動車がここまで来れるようになっています。昔も同じ経路で登ったのでしょうか。北部土塁部は尾根の片側に一直線に続き、内側は窪んでいます。棒を刺したら20cmくらいで硬くなるので埋まった深さはそんなものです。西部は頂上から屈折し、尾根の端に西側を睨んで造られています。

 西部では土塁だけがあり内側の窪みは見られないが、土塁に沿って通路になっているので踏み均された可能性もあります。土塁だけだったら戦跡かどうか疑問が残るが、南西部にJ字形の台場跡があるのでこれで側面からの攻撃に弱いという塹壕側面を補強していると解釈でき、結局土塁遺構も戦跡だと判断できました。

 この二つは薩軍が築いたと考えられます。南向きの4号は官軍が南から進撃して来た際に、井村山を守っていた薩軍が山の北部に退却し戦闘中に築いたと考えています。

まとめ

 前回大迫山の記事では井村山の台場を造ったのは官軍だと当然のように判断していましたが、記録を読むと初めに薩軍が4基築いていたとなっています。東向きの1号から3号台場跡の向きは官軍説に有利です。官軍は井村山の南西側や南側から薩軍を攻めたとみられるので、台場跡の土塁が東を向いているのは薩軍説には不利です。

 北部で南向きの台場跡4号(土塁跡)・北端部で長大な塹壕(5号台場跡)と6号台場跡を確認し図化しました。5号(塹壕跡)・6号の台場跡は井村山で戦闘が行われる前に薩軍が築いたものでしょう。九六位峠(白木越)・再進峠・白山越のどれかを越え大分方面から来るであろう官軍に備えて築造したのでしょう。4号は官軍が南から攻撃しつつ進軍した際に薩軍が応急的に土嚢ないし土塊を積み上げた痕跡だと思います。

 このような戦闘中に敵に向かう形で築造した台場の類例を挙げれば、大分県佐伯市宇目にある観音山戦跡があります。薩軍が守っている観音山に対し、7月1日麓から官軍が攻め上がり、点々と高い方、薩軍のいる方を向いた台場を築きながら10時間戦闘したことが分かりました(高橋信武2002「宗太郎越え周辺のできごと」『西南戦争之記録』第1号PP.110~134)。観音山には多数の尾根筋があり、そのどれを伝って官軍が攻め上がったのかまでは戦記には載っていませんが、戦跡の分布状態を調べると判明しました。

このような推移が井村山であったことは今まで全く知られていなかった点であり、戦跡踏査は意味ある作業だと理解できると思います。

 やっと戦記にある薩軍台場跡の一部を見つけた感じです。戦記では井村山と田ノ口が並んで登場することがあるので、井村山の北側にある田ノ口集落の周辺にも指呼の間に小山がいくつかあるので、それらにも台場跡があるのではないかと考えています。

 5月23日、田ノ口集落の東側、井村山の北側の山を歩いてみました。下図の田ノ口の「田」の右下にある尾根筋から南東に登り、標高73mの頂上から北側、東側を調べたけど台場跡は発見できずに終わりました。

💭 💛250 ⤵⤴