西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

お兼様山の名前の由来について

 西南戦争に登場するお兼様山のことが、北村清士 校注1969「中川史料集」に出ているので紹介します。中川というのは豊後国竹田岡藩主でした。

 中川神社のある丘の西の方にお兼様おかねさま山という場所があり、15年以上前にこの丘を歩いて戦跡を探していた際に、ポツンとお兼様の墓があるのを見たことがありました。今回、先の本を斜めに読んでいるとお兼様の事が出てきたので、書き留めておきます。

 貞享四年岡藩第6代中川久恒公の部分に次のように記しています。

一、十一月二十七日、田近喜八郎良武室病死、諱は兼、享年三十歳、岡城の西、拝田原山に葬る。法号光厳院心月高英鑑大姉、久清公御弐女、御母は御侍女姓名詳ならず。万治元年戊戌月日欠江戸に御誕生、寛文十二年壬子四月二十一日田近家へ嫁せらる。

 貞享四年十一月二十七日は西暦では1687年12月31日です。彼女は岡藩主の次女で、藩の上級武士、田近喜八郎と結婚していたのです。若くして亡くなったのは可哀相です。