西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

1877年8月の第十聯隊第三大隊第二中隊 ※8月14日から。

8月14日

(8月)十四日午前第二時過キ篝火ヲ消滅シテ松明ニ変シ土人ヲ🔲シテ此地ヲ発シ山谷ヲ蝸🔲ノ如ク行進シ曲折シタル谷川ニ出タリ此両岸ハ峩々タル巌石聳ヘ樹木ハ日光ヲ覆ヒ粛然トシテ人ノ入ルヘキ地ニ在ラサレハ各人ハ茫然トシテ一言ヲ発スル者ナシ亦此川中ニ數株大小ノ岩石稠密シテ凸凹ナラサル処ナク是ヲ右ニ渉リ或ハ左リニ越ヘ大木ノ倒レタル上部ヲ通過スレハ亦渓ニ入リ丘ニ登レハ深淵ヲ渡ル其數敢テ枚挙スルニ遑アラスト虽モ概子(※おおむね)北越千曲川ニ彷彿タリト亦草ハ伸長シテ全身ヲ覆フカ如ク亦何者ノ此叢ラニ伏臥セシヤ各処ニ三尺余円形ニ草ノ倒レタルヲ見亦足趾ノ各処ニ有ルヲ視メタルカ遁賊ノ此間道ヲ経過スル際倦労シテ如斯ナセシナランカト想像セリ亦此川西岸ニ朽木數十並列シ其長サ六七尺アリテ口経七八寸ノ物多クアレハ案内者ニ之ヲ尋スルニ椎茸ヲ取ルヘキ木ナリト斯クテ亦數丁ヲ進ミ此谷川ヲ冒シタレハ日光始メ人目ヲ射リ炎熱全身ヲ苦メ各々艱苦ノ状ヲ顕シタルカ停止休憩スヘキ地ニ非サルカ故ニ亦數丁ヲ進ム此処ヨリ遥カ前方ニ人家一二ヲ発見シタレハ彼地ニ休憩セント欲シ尖兵ヲ彼ノ家ニ遣ル此兵既ニ該家ニ達セントスル際數賊狼狽遁逃其后方ノ山上ニ攀ツ此賊抜刀スル者多ク銃ヲ携ク者ハ僅カニ三名ニシテ己レカ荷物ハ悉ク途上ニ捨テ顧ミサルカ如ク予カ隊ハ之ヲ追撃セントシテ駆歩該山ニ登リ或ハ髙聲ヲ発シテ降伏ヲ促カスト虽モ彼レ彌々遠ク遁走シテ遂ニ其踪跡ヲ見失ヒ漸ク三四名ノ賊ヲ捕ヘ兵器ヲ奪ヒタリ予ハ此家ニ入リ其景状ヲ見ルニ男女三四名居住シテ予輩カ此家ニ入ルトキ敢テ驚キタル体モナケレハ予ハ其主人ニ問テ曰ク此処ハ何村ナルヤ彼レ答テ曰ク此処ハ確乎タル村名ハナシト虽モ俗ニ山門ト称シ延岡ヨリ派出スル人民ニシテ此椎茸(ナバ)山ヲ統治シ年々之ヲ彼地ニ送致スルヲ任務トス亦今暁薩人吾家ニ来リ湯茶ヲ所望シ亦極テ疲労シタレハ暫時休憩ヲ依頼セシカ今官軍ノ到着ヲ見テ斯ノ如ク荷物ヲ捨テ遁去リリ亦彼レ予ニ尋子テ曰ク此処ニ進入ノ官軍ハ何レノ処ヲ通過セシヤト予答ルニ其経過スル途上ヲ以テセリ彼レ驚愕シテ曰ク此地方ハ道トスヘキ物ニ非ラス春時土人等草木ヲ苅ント欲スルノキ數人協議シテ此山ニ入リ傍ラ猶獣ノ害ヲ防ク斯ノ如クスル僅カ年内両三度ニシテ自余ハ樵リモ恐レ入ルヿナシ斯クノ如キ山谷ヲ行進スルハ官軍ノ外曽テ有ルへカラス賊モ此行進ノ難キヲ知リ此家ニ潜伏セシニ官軍意外ノ処ヨリ進入ニ依リ今ノ狼狽ヲ為シタリト予ハ此処ヲ発シ山間ヲ行進セシカ此途上ハ一條ノ道アリテ両側ハ山髙シト虽モ樹木繁生セス大イニ各人モ疲労ヲ忘レタレハ行進モ意外ニ疾ク亦谷一ケ処ヲ渉リテ丘陵上ニ出タリ此地北東ノ眺望殊ニ能ク斜メ左リ前方ニ延岡ノ市街遥カニ見ヘ亦西北ヨリ一条ノ川東南ニ流レ三輪村ハ此地西北ニ位シテ予輩カ眼下ニ見ヘ各村落モ許多アリシカ其村名ヲ知ラス亦極テ各人愉快ノ意ヲ顕シタルハ延岡東方一面ノ蒼海距离ノ遠キニ随テ髙ク浪上ヲ見一二ノ軍艦ハ標旗ヲ風ニ翻シテ黒烟ヲ空中ニ散乱セシム景况ハ水股以降曽テ見サル処ナレハナリ斯クテ此丘ヲ下リ三輪ニ進入シタルカ各軍街ニ充満シテ漸次延岡ニ進入スレハ予カ隊モ直チニ出発セント欲シ本道ノ傍ラニ在ル神社社内杉ノ村立タル処ニ暫時休憩セシメ更ニ此地ヲ発シテ大瀬川ニ沿フテ前進セリ此大瀬川ノ水ハ極テ清良ニシテ其深淵ナル処ト雖モ其水底ヲ見ルヿヲ得亦川中処々ニ柵杭ヲ振リ水ヲ留メ各地ニ分水シ其水一層激流トナリ山腹等ニ沿フテ各地ニ行ク如クナリシカ其処ハ何レニ落チ何レニ合流スルヤ予ハ之ヲ知ラズ亦此途上ノ右ハ峩々タル山連絡シテ海濱ニ接シ此山下ヲ數丁前進シタルカ此地ハ既ニ延岡ノ南部ニシテ人家稠密シ旧士族邸モ許多アリ亦農商ノ家ニハ紙ヲ製造スル物多キヤ張リ板ヲ許多並列シ其近傍ニハ帋ノ裁チ切髪敷散乱セリ亦士族邸ハ杉垣ヲ以テ周囲ヲ囲メ或ハ笹(笹?)竹藪ヲ以テ其境界トスル者多ク家屋ハ悉ク廉悪ナリ亦大瀬川ニハ木橋ヲ架シ之ヲ通過スレハ市街縦横に在リテ人家ハ此両側ニ羅列シ其家最モ廉悪ニシテ覧ルニ不潔ナルカ是ハ此地ノミニ限ラス戦地ハ総テ此形状ナレハ此地ノミヲ誹謗スルニ非ラス亦此近傍數丁以内ハ平坦ノ地ニシテ纔カノ凹凸ハ在ルト雖モ敢テ丘陵ノ名ヲ授クル処ナシ然リト虽モ此平地中ヨリ円錐形ノ山突出其周囲二三丁ニシテ其頂キヲ開拓シテ平地トナシ僅カ一二ノ美麗ナル家屋アリ此山ニ沿フテ 纔カノ丘陵アリ鹿是レ旧藩頃ノ城地ナリト聞キタリ斯クテ予カ隊ハ此橋南ノ人家二三ヲ借リ休憩シタルカ薄暮頃傳令騎兵来リ予カ隊ハ小峯村ニ進入シ同処前面山上ヲ守ル近衛隊ト交換セヨトノ書面ヲ出シタレハ予ハ之ヲ隊中ニ達シ午后第八時三十分此地ヲ発シ松明ニ火ヲ點シ大瀬川ノ橋ヲ渡リ延岡ノ市街ヲ北ヘ通過シ五ヶ瀬川ヲ渡リ左折數丁ヲ進ミ小峯村ニ進入セリ亦此途中某隊ノ副官中尉某ニ遭遇セリ該官予ニ告テ曰ク右翼山上守線ハ此処ヨリ左折スヘシト予ハ方面司令ト其守地ノ相違スルヲ告ケテ此処ヲ通過シ小峯村前面守線ヲ巡視スルニ極テ少巨离ナレハ之ニ一小隊ニ充テ自余麓ニ休憩セシム

 最初の方の文章を読む限り、前日哨兵線をおいた山並みの北にはまだ山がつづいたようである。烏帽子岳という山が北部にあるが、推定したように前日の高い山は茶屋ノ木でいいのでは。

 

 水野隊が通過した難路がどこか分からない。山門という地の手前にあたるのだが。彼らは延岡城址の南に架る橋を渡ったのだろう。上図の中島状の地形の東部に城山とあるのが延岡城跡である。その後進んだ小峯村の周辺にも台場跡が残っているかもしれない。

8月15日

(8月)十五日黎明髙平山ノ守線ニ到リ地形ヲ偵察スルニ左右共ニ山脉重リ行縢山ハ殊ニ峩然トシ各処ノ山々ニハ白煙ノ風ニ靡キアルハ是将ニ官軍ノ守線ナリト想像セリ亦前面ハ數尋ノ渓谷ニシテ此渓中ニ僅カノ田地見ヘ右ニ曲折シテ何レニ通スルヤ計ル能ハス亦田末ニ一二ノ茅屋アリト雖モ絶ヘテ人ノ緋徊(二字とも糸偏の誤字)スルヲ見ス右山上ハ官軍守線連絡シテ延岡ニ至ルト聞シカ其線ハ一目瞭然ナラス予ハ暫ク此山上ニ安坐シテ草煙ヲ吸ヒ其眺望ヲ愛シ茫然トシテ居タル際后方ヨリ近衛兵三中隊余此山ニ登リ来レハ予ハ該隊士官ニ就テ何レニ進ムヘキト尋問セシニ彼官答テ曰ク熊田攻撃ノ部署定マリ其先鋒トシテ檜ノ谷ヨリ可愛嶽方位ニ進入スト予ハ之ヲ聞キ亦予カ隊ノ先鋒ニ加ヱラレサルト頗ル憤怒ニ堪ヘスト虽モ未タ何等ノ命ナケレハ暫ク之ヲ待チタルカ漸次進発ノ時機ノ後ルヽニ堪ヘス山ヲ下リ方面司令ノ宿陣ニ到リ予カ隊ハ數日后軍ニ列スレハ各兵ハ休戦ニ倦ミ曽テ勇威ヲ成シ予輩於テモ之ヲ患ル久シ素ヨリ予カ隊ノ柔弱ニシテ先鋒ノ任ニ適セストモ同シ徴兵中ナレハ格外優劣モ有ルヘカラス是等ハ予カ責ニシテ各兵ノ知ル処ニ非ラスト其概畧ヲ陳述セント欲シタルカ軍令侵スヘカラス今亦之ヲ述ルモ無益ノ辨ヲ費ス而已ト思ヒ更ニ本日ノ攻撃部署及ヒ予カ隊ノ進退ヲ尋子タレハ予カ隊ハ后軍タレハ正午守線ヲ発シ檜ノ谷方位ニ進入スヘシト亦方面司令モ倶ニ前進スレハ守地ニ於テ之ヲ待ツヘシト予ハ直チニ守地ニ歸リ其凖備ヲ為サシム正午過キ司令到着シタレハ各隊ト共ニ此地ヲ発シ前面谷ヲ下リ曩ニ遠望セシ田野ニ沿フテ桑平(カヒラ)村ヲ経過ス此村内ニハ賊ノ患者許多拘留シタルヲ見タルカ先鋒隊ノ近衛兵カ守衛スルニ非ラス鎮台兵之ヲ守リタレハ何團兵ナルヤ之ヲ知ラス亦此地ヲ左折シ大野村ニ到着シタルカ此東南ニ祝子川曲折東南ノ角ニ流レ此水殊ニ清良ト虽モ賊地ヨリ来ル物ナレハ飲料ニ供セス薄暮過キ桑平山ニ進入ノ命アレハ第十時前此地ヲ発シ祝子ニ着ス予ハ司令ト共ニ進行スヘキヲ約シタレハ該官ノ宿営ニ行キ深夜此宿ヲ発シ祝子ニ到リ予カ隊ヲ引卒シテ桑平山ニ到着此ノキ既ニ日ハ東山ヲ离レントシ全ク整列ス

 「征西戦記稿」では水野隊についての記述は他の隊と共に部署表が一つあるだけで、「第二旅團ハ午後大哨ヲ排布樞スル左ノ如シ」の次に数行の一覧表があり、排哨地松山村に伊藤大尉と島野中尉の二個中隊、小峯村に水野大尉と師岡大尉の二個中隊と工兵二個分隊が示されている。したがってこの日誌により当日の詳細を知ることができる。

 15日、第二旅団の大部分は祝子川を北に渡り熊田を目指し可愛岳周辺の山間部に進入している。先鋒四個中隊、援隊五個中隊、水野隊を含む守線兵三個中隊、延岡警備兵四個中隊である。この日第二旅団は桑平村から背後の小幡山に登る途中、午後一時頃山頂の手前で薩軍と遭遇し戦闘になった。時間から推測して彼らは和田越で敗れた後に六首山を経由して小幡山を降りようとしていたらしい。和田越で勝った官軍の背後を衝こうとしたと考えられる。第二旅団は小幡山を取り、引き続き可愛岳手前の六首山の薩軍を破って占領している。日誌では水野隊は16日朝日が昇ろうとする頃に桑平山に到着し哨兵を配布したことになる。「戦記稿」では第二旅団の大部分が東方の小幡山・六首山に布陣していたのだが。