satsumareb’s diary

これは高橋信武が書いています。

桐野利秋の池上(いけのうえ)四郎宛書状

 先日、桐野利秋が池上四郎に宛てて書いた書状を入手したので紹介します。とても読みづらい字で書かれており、早速いつもながら大津祐司さんのお力をお借りしようと大分県立先哲史料館に持参しました。三重野誠さんと松尾大輝さんも加わり検討していただき、その後数日大津さんが悩んだ結果、ほぼ解読できました。

 

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 軸装されているので書状の寸法は正確には分からないが、表面に出ている寸法は横48、5cm、縦17,3cmです。参考までに記すと、以前紹介した宮崎県江代から桐野が野村忍介に出した書状の寸法は横44,0cm、縦18,3cmでした。

 以下は大津祐司さんによる解読です。( )内はそれに基づく高橋による読み下し。

  山ケゟ残士四百五十也 (山ケより残士四百五十なり)

  自然可仕是道も早々  (自然仕るべく是の道も早々)

  出陣与申上候間    (出陣と申上げ候間)

  清正朝迠籠      (清正朝鮮籠※迠をセンと解した。 従って、朝鮮籠) 

  城之遖御ふみこたへ  (城之遖あっぱれ御ふみこたへ※遖は三重野さんが解読)

  か祢いつれハ勝    (かねいづれは勝)

  利之事奉存候     (利之事と存じ奉り候)

  右之趣早々如此    (右之趣早々此の如く)

  御座候 以上     (御座候 以上)

   三日朝 利秋記   (三日朝 利秋記)

   池上殿       (池上殿)

      貴下     (貴下)

 籠城軍はいずれ降伏するだろうとの文意、池上宛であることからして、桐野利秋が熊本城攻城側であった西南戦争中の手紙と考えてよい。しかも熊本城の籠城が解けたのが4月14日だから、薩軍が包囲を継続し玉東町・植木町山鹿市などが戦場になっていた頃だろう。とすれば冒頭の山ケは熊本県山鹿のことです。

 開戦当初の2月22日・23日、薩軍は熊本城を攻撃したものの簡単に落とせなかったので、24日には城の包囲は五番大隊長池上四郎に任せ、本州から九州北部を経て南下する官軍を迎え撃つため、包囲軍以外の残りの部隊を分けて北上あるいは西進させることとしました。その際、四番大隊長桐野利秋は山鹿方面に向かい、一番大隊長篠原国幹田原坂方面に、二番大隊長村田新八と六番七番連合大隊長別府晋介は木留方面に、三番大隊長永山弥一郎は海岸方面に移動しています。その他、山鹿には二番大隊の1個小隊、五番大隊の7個小隊、飫肥隊の4個小隊の他、道案内として熊本の協同隊一小隊が加わりました。

 三日朝とあるのは、3月3日か、4月3日かの二つが考えられます。薩軍が鹿児島を出発し始めたのが2月15日だから当然、2月3日ということはない。また、薩軍が山鹿を撤退したのは田原坂が敗れた翌日の3月21日であり、この手紙が4月3日に山鹿から出されたということもあり得ない。したがって、3月3日に書かれたものと考えます。

 内容を検討してみます。

 山ケゟ残士四百五十也は、山鹿より残士450人だということだが、よくわからない。3月3日段階には「薩南血涙史」によると山鹿には、四番大隊9個小隊・五番大隊7個小隊・ニ番大隊1個小隊と飫肥隊3個小隊(山鹿で4個小隊に分割)・協同隊1個小隊の合計21個小隊が存在していました。開戦初期の当時は1個小隊は約200人でした。つまり4,400人前後です。3月3日、桐野は山鹿の西北方向にある南関に向けて進撃しました。その兵力は本隊7個小隊と支隊6個小隊でした。

 冒頭に450人です、という記述があるので、これ以前に池上から質問があったことが想像されます。おそらく、というか当然、当時は頻繁に手紙の交換が行われたはずであり、三日朝の朝はその後出すかもしれない三日昼や三日夕、三日夜と区別するための書き方でしょう。とすれば、まだ世上に現れていない桐野の戦中の手紙は膨大にあることになります(余談でしたが)。

   この段階までに発生した死傷者数は不明ですが、全体の 21個小隊から3日に戦闘に出かけた13個小隊を引くと8個小隊です。その人数が450人だとすると450÷8=56、つまり一個小隊は56人に減っていたと解さねばなりません。が、これは余りにも少なすぎです。450人の詳細は分からないとしておきます。 

 自然可仕是道も早々 出陣与申上候間 

 自然という言葉は今は使わない用法でしょう。450人も早々に出陣すると申し上げておきますので、

 清正朝鮮籠城之遖御ふみこたへか祢いつれハ勝利之事奉存候

 加藤清正は朝鮮征伐で蔚山城に籠城し、結局包囲軍を撃退したという天晴れな働きをし、その経験を生かして築城した熊本城で現在籠城している天晴れな官軍もいずれは持ち堪えることができずに薩軍が勝利すると思います、とでも理解すべきなのか。

 右之趣早々如此 御座候 以上 三日朝 利秋記 池上殿 貴下

 右のように考えます。以上 三日朝 利秋記 池上殿 貴下。

 貴下とは主に同輩ないし下の者に対して用いる言葉です。この時は同じ大隊長であり、戦前は桐野は陸軍少将、池上は陸軍少佐でした。当時、池上四郎は西郷隆盛の傍にいて全体を掌握し、相談する状態だったと思います。桐野に対する問い合わせや情報提供は当然西郷も知っていたでしょう。桐野も大先生に宜しくとの一文を添えてもよかったのですが、おそらく日常的に書状を送っていたので、添文を略したのではないでしょうか。

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 ところで、日付が旧暦ということもあり得ます。野村宛のは旧暦でした。旧暦2月3日は新暦3月17日です。「薩南血涙史」によると3月17日には黎明官軍大舉して山鹿の諸壘を攻擊せしが薩軍善く之を拒ぐ・・とあり、書状の少ない情報からは決めつけられないので、この書状の日付が新暦3月17日だった可能性も残しておきます。

 史料紹介を以上で終わろうと思います。解読文を作成していただいた大津祐司さんを始め、三重野誠さん・松尾大輝さんやその他、協力していただいた皆さんにお礼を申し上げます。