satsumareb’s diary

これは高橋信武が書いています。

駒嶺重幸「西南戦争履歴」2

七月八日賊襲來第二中隊前面谷合ヨリ進来リ凢一大隊斗三分ノ一ハ我左ヘ向ヒ一ハ正面ニ出ツ一ハ海岸ヨリ出ツ我兵向討テ悉ク之ヲ走シ殊ニ海岸ノ迂回兵ハ狼狽ヲ極メ死体ヲ捨退ク逐テ湊村ニ向ヒ河岸ニ至リ午前第九時半守線ニ帰ル此段御届申候也

十 年 七 月 九 日

【「征西戰記稿」この日の記録は次のように記す。「八日未明、賊四百許、湊村ヨリ上井村峽谷ノ間ヲ過キ其兵ヲ分ツテ三トシ我右翼哨線ヲ襲フ大隊長第二遊擊)大沼少佐其衛兵若干ヲ以テ守線ヲ出テ邀擊シテ之ヲ敗リ午前九時三十分悉ク賊ヲ郤ケ、守線ニ復ル」 新川を越えて東進すること3㎞で湊(霧島市)がある。この辺りで鹿児島湾北部沿岸の平野が終わる。9日、部隊は霧島市国分上之段村に進んだ。ここは鹿児島湾側から見ると台形状で、上面に上野原縄文の森・鹿児島県埋蔵文化財センターがある。地名の上之段は東側にも広がっており、これでは具体的に官軍がどこに進んだかは分からない。7月9日から11日の状況について「征西戰記稿」を掲げる。「湊村及ヒ敷根ノ敵状ヲ偵察ス敷根ノ地勢タル攻ムルニ利アラス故ニ十一日午前先ツ左翼兵混成一大隊ヲ以テ淸水ヨリ永迫ニ進メ其守兵凡八十名ヲ破リ午後中央兵遊擊第三大隊ヲ新城ヨリ川内ヲ經テ上之段村ニ進マシムルニ未タ村ニ達セサル時適〃筑波艦福山ヲ砲擊シ砲火家ヲ焼キ烟焰天ニ漲ル敷根ノ賊誤認シテ官軍福山ニ上陸セリトシ遂ニ顧テ潰走ス乃チ上之段村ヲ取リ右翼兵遊擊第二大隊モ亦直ニ敷根ニ入リ尚ホ進テ福山ノ北ニ至リ哨線ヲ嶺上ニ張ル後ニ聞ク是時ノ賊將ハ相良五左衛門ナリシト」左翼兵は清水(永迫の北西3.5㎞付近)から進んで永迫を破り、中央兵は新城という不明の所から川内を経て上之段に進行している。川内は埋文センターのある山を北から東に取り巻く鎮守尾川の流域であり、下流に上川内、中流に後川内があり、後川内の南約1㎞に上之段という集落がある。この集落が中央兵が進んだ上之段であろう。】

七月廿三日午前第六時半当隊第一中隊笠木村守線ヘ賊徒三百名斗襲來候就テ該中隊ヘ警備厳重申付候内間モ無ク同中隊右翼ヘ向ヒ賊ヨリ発放シ尋テ開戦ニ及ヒ当隊附属砲兵小隊ヨリモ射擊為致午前十一時頃賊ヨリ旧砲ヲ放チ益小銃ヲ連発シ勢□相加候間我左翼ヨリ二分隊ノ兵ヲ分派シ一分ヲ以テ迂回シ道ヲ支ヘ余ハ賊ノ側面ヲ射ツ同時ニ前面ヨリ進撃致シ僅ニ四五拾米突ノ地ニ近接致候中賊左方ゟ迂回シ來リ左翼分派兵ノ一分ヲ斃シ背面ヨリ分派兵ヲ射撃致候故該兵ヲ以テ直ニ迂回兵ニ應ス對戦為致候假リ旧線前凢四五百米突即進出候地ニ新線ヲ設ケ工兵ヲ以テ處々散兵壕ヲ築キ益射撃戦闘為致候薄暮ヨリ午后十時頃迠一層賊ノ放発烈敷十時過頓ニ放火相止メ候就直様斥候指出候處已ニ北走致候而退路不分明且ツ地形不詳候就尾擊指止メ新線ヲ厳重為致申候此段御届申候也

十 年 七 月 廿 六 日

追テ其節ノ死傷左ノ通候間此段添テ御届ケ申候也

将校死一人傷二人下士以下死四人傷四拾二人也

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【末尾の「御届申候也」というこれ以前の文書も必ずしも大隊長の報告というわけではなさそうだ。笠木村は曽於市大隅町にある。南東約5㎞の岩川官軍墓地には79基の墓石があり、当日の戦死者はここに埋葬されたのだろうか。

 第四旅団としては13日、惣陣山から荒磯岳に哨兵線を進めている。

 14日から22日までの記述がないので、この期間の動静を「征西戰記稿」から記そう。14日、別働第一旅団が百引で敗れたので第四旅団から二分隊を援兵として出した。鹿屋市百引は惣陣山の南南東約14㎞にある。この日、旅団は左翼を荒磯岳(標高539m)に、右翼は南西約4.8kmの惣陣山(標高484m)から福山海岸に延びていた。15日、福山原の哨兵線に敵兵800~1,000人が襲来したが退けた。この戦いで薩軍が鉄製銃弾を使ったのを初めて見た。19日、左翼を荒磯岳の南東3.1㎞の陣岳(標高430m)に進め,

20日、右翼を神牟礼に進めた。22日、梶ケ野から続いて笠木まで約3kmに遊撃第二大隊の哨兵線を布いた。23日の薩軍は逸見十郎太が率いていた。

  24日、陣岳の東2.5kmにある末吉町通山を攻撃、敵を追撃し都城に入った。これは同旅団の別部隊であるため履歴にはない。25日、都城を発し蓼池道から山之口(おそらく都城盆地にある場所)に進行し、さらに「麓村ノ東凡ソ十丁許ノ山ニ據リ哨線ヲ布」いている。麓村は都城市の東端にあり、そこから1km位の山に哨戒線を置いたというから標高335mの城山一帯であろう。

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※上図はカシミール3D。都城盆地の北東部に麓集落があり、そこから1km位に東に当たるのが城山である。ここに警備線を布いたとみられ、現地には台場跡があるかも知れない!

 7月24日の都城攻撃に加わったのは第四旅団のほか、第三旅団・別働第一旅団・別働第三旅團だが履歴の記述に関係ない部分に触れなかった。26日、山之口(この山之口は宮崎市西部にある)に滯陣、27日出発し宮崎県田野に到着している。】

 

七月廿八日田野村ヨリ進軍午前九時過清武村前ニ到乄賊徒對河岸髙台上ニ據リ胸壁ヲ築キ銃砲ヲ放テ固守スルニ付兵ヲ河岸ニ伏セ相射擊スルニ殆ト一時進テ河ヲ渉リ彼レ岸ヨリ清武村ニ入ラシメ賊潜ニ台ヲ下リ清武村ノ人家ニ放火シ我進路ヲ遮ル依而第三中隊ヲ以テ右翼ヲ迂回セシム午前(后)四時半頃大久保本通ノ賊破ルヽヲ以テ山塁自焼シ北走ス直ニ第二中隊ヲ以テ之ヲ遂ヒ狩野村ニ於テ之ヲ尾擊ス賊破レテ死体ヲ捨テ走ル夜暗黒地理不詳ニヨリ此レニ追擊ヲ止メ午后十時守線ヲ中野ニ布キ警備為致候此段御届候也

十 年 七 月 廿 九 日

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【田野村は宮崎市の南西約15㎞、途中に清武がある。狩野村は不明だが、清武川の左岸、田野町中心部の対岸に狩屋原という所があるのでそれだろうか。ここから東北東約8.5㎞に中野という所がある。清武川左岸、清武中心街の対岸である。】

七月卅一日午前九時左翼旅團ノ進撃ニヨリ宮崎ヲ自焼スルニ付直ニ河ヲ渉リ第一中隊ヲ先鋒トシテ賊ヲ逐ヒ海岸通リ急行午后三時過住吉村ニ至ル然ルニ賊石嵜村ニ胸壁ヲ築キ之レニ據ル以テ部署ヲ定メ再ヒ進軍已ニシテ先捜兵塁近ニ及ヒ賊ヨリ発放開戦相射撃スル殆ント四時間賊遂ニ破レテ死体ヲ捨テ走ル遂テ廣瀬川ニ達シ對戦ス賊復タ事フル叓能ハス夜半廣瀬捨テ退ク依而河岸ニ守線ヲ設厳備為致申候也

 

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十 年 八 月 一 日

 

八月十二日午前第五時細島ヨリ進軍同六時半過き門川岸ニ至ル賊河岸ニ塁ヲ築キ銃砲ヲ連発シ固守ス即時之レニ應ス河ヲ隔テ戦フ午後三時半頃左翼大隊ヨリ進撃ニ而賊退キ破レ逐テ川ヲ渉リ門川村外レニ守線ヲ設ク同六時半過賊等返シ来リ守線ニ迫リ我兵之ニ應ス頃刻ニシテ馳逐ス賊復退テ海岸ノ山ニ據リ依而兵ヲ収メ守線ヲ固守致候此段御届申候也

十 年 八 月 十 三 日

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八月十四日午前第一時尾末ヲ発シ乙島ニ渉リ黎明海路ヨリ第二中隊ヲ先鋒トシテ庵ノ川村ニ入ル賊已ニ去テ踪ナシ直ニ延岡ニ向ヒ進軍セシム轟村ニ残賊尚僅ニ在リ逐テ四散セシム延岡ニ入ル賊復已ニ去ルヲ以テ宝財島ノ残徒ヲ逐ヒ大武村ニ到ル午后七時半左翼両大隊柚ノ木田ニ開戦ニ付進テ之レニ換リ對戦同夜此ニ守線ヲ設ケ守備相致候此段御届申候也

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【柚ノ木田は祝子川(ほおりがわ)左岸に位置し、大武の北に接し、700m位北に無鹿がある。柚ノ木田も大武も水田地帯である。宝財島は方財嶋のことで、此の日、逸見十郎太の部隊が延岡市街方面からここに脱出してきた。】

 

八月十五日午前六時和田越ニ向ヒ進軍賊無鹿村ニ據リ友内村和田越山ヲ守ル依リ而第二中隊ノ内一小隊ヲ先鋒トシテ無鹿村右方ヨリ進撃セシメ第四中隊及第四大隊ノ内一中隊之レニ次ク第二中隊残余ノ一小隊ハ本道ヨリ機ニ投セシム先鋒第二中隊ノ一分隊ヲ右ノ山上ニ備ヘ賊左ヲ射撃ス余疾呼ナシテ突入ス山下ノ賊退路ヲ失フテ斃ル尋テ河岸ニ沿フテ進入シ第四中隊ハ第二ニ次キ進テ友内山ノ賊ト戦フ短兵ヲ以テ相逼リ山ノ上下ニ在テ接戦ス本路進入シ第三中隊残余ノ一小隊ハ戦已ニ酣ナリニ及ヒ和田越山ヲ攻取リ之レニ據テ眼下ニ友内山及ヒ余ノ賊ヲ討ツ賊遂ニ堪エス兵器死体ヲ捨テ走ル第四中隊直ニ之レヲ尾撃シ賊ヲ斃シ午后第一時兵ヲ無鹿村ニ収メ和田越山友内山等ニ守線ヲ設ケ守備為致候此段御届候也

十 年 八 月 十 六 日

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【8月15日、官軍に追われて宮崎県を北上してこの地にたどり着いた薩軍は延岡北部の和田越一帯の尾根に布陣し、前面の平野に布陣する官軍との間で半日の戦闘、和田越の戦いが行われた。大分県で戦い、県境付近に後退していた薩軍奇兵隊(野村忍介隊長)も前日、延岡に戻るよう指令を受けており、急いで西郷らに合流しつつあった。薩軍奇兵隊がこの段階にもまとまりを維持していただけで、他の部隊は敗退を続けてきたためそうではなかった。

 本書の筆者は和田越に向かって戦ったと記す。第二中隊の記事が続く部分に登場するので、筆者は第二中隊だったらしい。無鹿村は和田越一帯の尾根南麓にあり、友内山は和田越道の東側にある。和田越山という表現は他では見たことがないが、和田越の峠道が通過する尾根筋であろう。】

 

八月十七日午前(※見え消しで后)四時河島須佐山ヲ進撃ス第一中隊ノ内三分隊山ノ右腹ヨリ進ミ第二中隊ノ内三分隊同左腹ヨリ進ム其第一中隊ハ正面正攻ノ虚勢ヲ為ス第二中隊ハ山腹ヲ迂回シ午後第六時半賊塁ノ左側ニ達シ直ニ疾呼突入シテ賊ヲ殺傷ス賊狼狽兵器死体ヲ捨去ル山腹急峻且黄昏ニ及フヲ以テ追撃ヲ止メ守線ヲ設ケ厳備為致候此段御届申候也

十 年 八 月 十 八 日

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【「征西戦記稿」この日の戦闘経過は下記の第四旅団8月17日記事に登場する。但し戦記稿では履歴の午前四時は午後四時となっている。(※16日)老田嶽ノ中央以東總テ我有ト爲ルト雖モ其西角ハ賊兵大ニ堡壘ヲ築キ固守セリ〇十七日午後一時遊擊兵大隊(第二)ハ守線ヲ老田山ニ設ケ同四時川島須佐山ニ向ヒ古荘大尉第一中隊ノ三分隊ヲ率ヰ山ノ右ヨリ進ミ淺田中尉第二中隊ノ三分隊ヲ率テ左ヨリ進ム其第一中隊ハ賊兵ノ射擊劇烈ニシテ直進スル能ハス故ニ正攻ノ虚勢ヲ爲サシメ第二中隊ハ山腹ノ險阻ヲ攀躋シ密樹ノ間ヲ潜行シ午後六時始テ賊壘ノ左側ニ達シ一薺ニ突起、銃槍疾呼シテ壘中ニ躍入シ十餘名ヲ殺ス賊狼狽兵器彈藥死屍ヲ委テ走ル支脈上ナル山壘ノ賊モ亦瞰射ヲ受ケ守ル能ハス守地ヲ棄テ走ル是壘ヤニ一川ヲ隔テ長井谷ヲ俯瞰シ最モ要害ノ地タリ是ニ於テ無鹿川北復タ賊ノ隻影ヲ見ス 

 【ここに登場する山地の戦跡分布調査結果を報告したことがあるが(「西南戦争之記録」第5号)、老田岳と考えられる標高324mの峰には15基の官軍台場群が残り、そこから北側の尾根筋にはしばらく台場跡は見られないが、突然官軍側を向いた台場跡が2基現れる。官軍と薩軍との直線距離はほぼ1㎞であり、その距離なら密樹状態の山の斜面を2時間かかったというのは納得できる。戦記稿の時間が正しいだろう。■はPCに活字がない。

九月廿四日大進擊岩嵜谷ノ賊勦討ニ付當大隊ヨリ一中隊ヲ進撃隊トシ一中隊ヲ應援隊ト為ス進軍セシム進撃隊ハ第一中隊第二中隊ヨリ編組ス應援隊ハ第三第四中隊ヨリ編伍ス右隊午前一時浄光明寺下ニ集合同三時半同處出発シ進擊中隊ノ内先鋒小隊潜行シテ岩嵜山ノ賊塁ニ近付柵ヲ破リ銃劔ヲ以テ突然進入ス賊防禦ニ遑ナク塁ヲ捨テ去ル直ニ之レヲ尾擊シ荊棘ノ間ヲ攀テ岩嵜山頂巨塁ニ侵入シ賊亦拒守スル能ハス退テ支脉上ノ山塁ニ據リ依而一ハ此賊ニ對シ一ハ眼下ニ岩嵜ノ賊巣ヲ乱射ス進擊隊自余ノ一小隊ハ之ニ次ク進撃隊(「次ク進撃隊」の後、二頁近い空白)次ク進テ山腹ヨリ岩嵜本路ヲ取リ應援隊ハ岩﨑本路ニ向ヒ普心院ヨリ私學校ノ間ニ配布シ賊ノ迂回突兵等ニ供ス各部ノ兵對戦スル殆ント二時間午前七時前ニ及テ岩嵜ノ賊山上ヨリ瞰射ノ烈敷ニ堪得ス遂ニ賊魁ヲ首乄数十名據営ヲ捨岩嵜谷口ニ向ヒ鋭ヲ尽シテ闖下シ來リ山上山下兵相俱ニ討ツテ数賊ヲ殪ス賊将西郷隆盛爰ニ死ス匡賊一團ト成リ疾走シテ私學校ノ北隅ニ出ツ此時正面ノ叢林中ニ埋伏セシ一部ノ應援隊一時ニ連発シ邀エ撃テ之ヲ扞拒ス賊益勢威ヲ張リ直ニ此兵ニ向ヒ突擊ス山麓ニ備フル進撃隊及應援隊三面ヨリ之ヲ合撃シ大ニ其鋭鋒ヲ挫ク於茲賊已ニ突貫スル能ハサルヲ以テ路傍之巨塁ニ入リ各面ノ兵ニ当リ奮闘ス同時山頂ノ兵ハ支脉上ノ賊塁ヲ討テ之レヲ駆遂ス第一大隊ノ兵側面ヨリ之ヲ援ク山下塁内ノ賊ハ尚屈セスシテ奮戦ス依之進撃隊應援隊ノ中ヨリ一部兵ヲ分テ私學校ノ内ヨリ柵ヲ破リ賊塁ニ向ヒ突進ス余ノ兵ハ山ノ麓及正面ヨリ第一大隊ノ兵若干背面ヨリ悉ク短兵ヲ以テ奮進突戦就中山麓ノ兵ハ木石ヲ取テ塁ニ擲下シ賊ノ庇廠ヲ碎ク賊之カ為メニ壓セラレ死力ヲ尽ス能ハス私兵蝟集シテ塁ヲ突キ賊将桐野利秋村田新八別府普介池野上四郎逸見十郎太等ヲ始メ七拾余名茲ニ死シ此時坂田諸潔等十余名降伏セリ右ヲ残賊捜索ニ付攻取ノ地ニ守線ヲ布キ警備致候此段御届申候也

十年九月廿五日

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【これで西南戦争は終わった。筆者は遊撃歩兵第二大隊第三中隊の兵士だが、この戦闘に加わったかの記述はない。下図は防衛研究所蔵C09083002900の地図である。縦配置にすると小さくなるので横向きにした。16日の攻撃前の計画図であり、薩軍の台場分布も正確に把握しての図ではない。城山にある台場のおおよそに位置として理解いただきたい。】

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まとめ

  「西南戦争履歴」の作者について考えてみる。表紙には駒嶺主と記しており、その人物が作者だと考えていいのだろうか少し疑問が残る。冒頭に「大隊長ヨリ告諭」とあり、遊撃歩兵第二大隊が作者の所属部隊であることは想像できる。遊撃歩兵第二大隊は遠藤芳信氏によると、「3月25日遊撃歩兵第二大隊(下士89名,兵卒右772名)が編成され(名古屋鎮台の管轄下になり,3月14日編制の第四旅団に編入,10月1日に解隊の指令)」との経過を経ている〔北海道教育大学紀要.人文科学・社会科学編57-1「日露戦争前における戦時編成と陸軍動員計画思想(5):西南戦争までの壮兵編成と兵役志願・再役志願制度」2006〕。遊撃歩兵第二大隊の名簿を調べると表紙の駒嶺主という人物は見当たらず、第三中隊の上等卒に「駒ケ峯重幸」という人がいた。岩手縣士族岩井郡下米内出身で上田村住二十二年七ヶ月とある(C09085011200本営各部各隊将校以下 人名簿 第6号 明治10年9月27日~11年1月10日 防衛省防衛研究所蔵)。

第三大隊第三中隊上等卒

仝(岩手縣士族岩井郡下米内)駒ケ峯重幸 上田村住(同)二十二年七ヶ月

※駒ケ峯性は秋田県に多い。

 また、彼には明治15年には「陸軍兵卒服役中鹿兒島逆徒征討ニ際シ盡力其勞不少候ニ付金貳拾圓下賜候事」との記録がある(C08010510100明治15年 陸軍省日誌 貞 貞丙 自10月同年至12月(防衛省防衛研究所)2816~)が、その姓からはケが抜けており、さらに峯が嶺に替わっている。名前の表記が今ほど厳格でなかったことが窺われる。これで駒ケ峯重幸と駒嶺主の差は少し縮まったことになる。

 しかし、履歴本文の冒頭頁上部に押された印鑑は駒嶺重幸であり、表紙の駒嶺主とは異なるのはなぜだろうか。

ところで、明治20年9月の陸軍軍吏学舎入学生徒に駒嶺重晶という人がいる(C10050282500兵部省陸軍省雑 明治20年 編冊 省内各局(防衛省防衛研究所)1674~)。

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   軍吏学生とはウィキペデイアによると、「陸軍軍吏となるべき教育を受ける。歩兵科、騎兵科、砲兵科、工兵科、輜重兵科の現役特務曹長、および1年以上その階級にある前記各兵科の現役曹長と陸軍一等書記の志願者で試験に合格し選抜採用された者。修学期間は約1年。」とあり、軍吏学生になるための入学試験受験資格はおそらく10年前後の軍務経験が必要だったらしい。駒嶺重幸が明治10年に22歳であるから受験した年には32歳だろう。ちょうど受験資格を満たした時期である。前に掲げた軍吏入学関係文書の巻頭に記載されている久保則知は明治10年9月29日付で鹿児島屯在兵隊會計部付を申し付けられた記録があり、この時20歳8ヶ月だった。10年後には30歳であり、駒嶺と同年代でありこの年頃の者が受験したことの裏付けとなる。ただ、受験生の名前が重晶であるのが気になるが、同一人物である可能性は捨てがたい。

 明治37年の次の資料では駒嶺重晶は函館要塞経理部長となっており、文書名は「・・・駒嶺主計ヘ伝送ノ件」である(C03020178000明治37年 「満密大日記 明治37年 8月 9月」防衛省防衛研究所蔵0331・2)。]

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    陸軍軍吏学舎を卒業した後、駒嶺重晶は経理分野の勤務を続けていたのである。駒嶺主計、これが本誌表紙の署名「駒嶺主」ではないだろうか。

 つまり戦後二十数経って昔の記録を綴じ直したのではないかと考える。「西南戦争履歴」の西南戦争という言葉は西南戦争時点ではそれほど使われなかった用語である。当時の呼び名は鹿児島事件・鹿児島県暴動・西南之役・西南戦争之役等々であり、戦後だいぶたってから西南戦争という言葉が一般化し、それを使ったのだろう。そもそも赤の他人の記録したものに自分の名前を書くだろうか。たとえ親や兄弟が書いたものであっても、それに自分の名前は入れないだろう。 

 以上、「西南戦争履歴」を紹介した。西南戦争に関する記録として利用していただければ幸いである。