satsumareb’s diary

これは高橋信武が書いています。

駒嶺重幸「西南戦争履歴」1

 

所有する「西南戦争履歴」を紹介したい。和紙に毛筆で書かれたものである。本文は和紙を二つ折りにして、折り目が下になるように閉じ、片面だけに書いている。したがって、白紙の面が背中合わせになっている。出来上がりの一頁は縦11.9cm・横15.9cmである。表紙と裏表紙は厚手の和紙でやや大きく10.2cm×16.8cmである。末尾の7枚は白紙のままである。本誌は全体の片側に3.2cm間隔で穴をあけ、和紙の撚紐で綴じているが、長軸の中心に近い内側にも6.4cm間隔でより小さい二つの穴があけられている。これらは表から裏まで貫通しているので、一度綴じ直したことになる。また、表紙・裏表紙には6.5cm間隔で二つ穴があるが、これは本文の紙には認められない。表紙の裏面には照會と大書され、會の日部分はない。裏表紙の内側に「日簿」という墨書が本文とは90度の向きで記されており、表と裏の紙は切り離されてニ分されたものであり、本来は照會簿と書かれた別の冊子の肉筆表紙だったものを転用したのである。本誌を綴じた穴の位置と簿冊を綴じた穴が等間隔ではないので、外側の2ヶ所の穴が簿冊を綴じた痕跡だろう。ややこしいが、本誌を綴じた表側からの紐は裏表紙の手前で内側に折り込まれている。では、裏表紙は何で綴じられてるかというと裏側から紐を通して途中で(八月十五日から始まる紙まで)折り返している。以上、何だか分かりにくい説明になり申し訳ない。

 内容は日記というよりも備忘録に近い。以下、内容を紹介し区切りごとに解説する。

「西南戰争履歴」 駒嶺主 

 

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印   諸達及諭達書写

    大隊長ヨリ告諭

去ル辛未壬申年

朝廷兵ヲ各藩ニ徴スルニ方テヤ其藩主特ニ精兵ヲ撰テ之ヲ  朝廷ニ致セシモノニシテ各朗其撰ニ当リ奮起身ヲ陸軍ニ致勉勵数年其功労少トセス是恩賜ノ今日ニ及フ所以ナリ後チ 朝廷賦兵ノ制ヲ建ラレ壮兵ノ法ヲ廢セラルヽニ及テ各免役郷里ニ帰ルト𧈧ノモ尚臨時招集ノ命ヲ受ルモノ技術ニ練達シ一旦警アレハ之ニ應スヘキノ素アレハナリ今ヤ鹿児島賊徒起ノ官軍ニ抗スル爰ニ数旬連日ノ戦ヒ官軍勝利常ニ多ニ居ト雖モ今日ニ及テ未タ鎮定ニ至ラサルモノハ夫ノ一鼠賊ノ北ニアラサルヲ以テナリ其然リ既ニ官軍ノ戦地ニ臨ムモノ数十隊然ルニ今又各壮兵ヲ招集セラルヽ処以ノモノハ蓋シ奮前勇闘一撃以テ御赴意ナラン誠ニ各  朝廷ノ厚恩ニ報ヒ旧藩主ノ知遇ニ答フヘ粮フ処ノ勇謄義気亦將ニ彰ハレントス宜ク同心戮力長上ノ命令ニ服ス軍隊節度ヲ奉シ苟モ軽挙暴動身刑辟ニ陥ル如キアラン  朝廷ノ厚恩ニ背クハ固ヨリ論ヲ待タス旧藩主ノ汚名ヲ天下ニ示スナリ是返シテ各ノ本旨ニ非サルヘシ某不肖隊長タルノ命ヲ辱フス今將サニ各ト共ニ戦地ニ赴カントス其発セサルニ方テ一言ノ告諭ヲナスモノ聊カ徴意ノ存スル処ナリ各之ヲ領セヨ

  明治十年四月

     遊擊歩兵第二大隊長心得

      陸軍大尉

【遊撃歩兵第二大隊長心得であった美濃部正直大尉は59日第四旅団附となり、同日付で新たに大沼渉少佐が大隊長となる。C09081326300陸軍事務所本営通牒 明治10年2月20日~10年9月31日(防衛省防衛研究所)0752~

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【印影は駒嶺重幸】 

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丁第四百十九號(※號は異体字

今般征討之役戦死或ハ傷病原因シテ竟ニ死ニ至ル軍人ノ寡婦孤児ハ恩給令ニ因リ扶助料可下賜之処出征以来昼夜連戦死傷之者取調方目下規則実践難相成ニ付右死没報告其處官ニ相達候日ヨリ平定ニ至ル迄特別ヲ以テ寡婦孤兒ノ内ヘ為手當毎月左之通給與スヘ(シ)又父母或ハ幼少之弟妹ノミ有テ之ヲ養育スル親戚モナキ者ハ其次第柄ニ因リ詮議ヲ遂ケ寡婦孤児相当ノ手當ヲ給(シ)軍属之儀モ其原由ニ因リ軍人同様之ヲ給ス尤平定ノ上恩給令扶助可受者右支給之金髙差引不足ノ分ハ其節一時ニ可下渡且死没報告相達候當月迄ノ俸給金額或ハ幾分並ニ宅料共所管ニ於テ留主宅ヘ下渡候向モ有之前件支給金髙ニ比スレハ或ハ過分ニ候共右ハ返納ニ不及候条死没軍人軍属ノ遺族無洩漏速ニ可相達此旨可相達候事

  但本文手当金下賜之儀ハ各処菅ノ府縣廳ヘ某地寄留ノ者ハ寄留地府縣廳ヘ願出府縣廳ヨリ死者旧所管ヘ無遅々可申出事

 明治十年八月一日陸軍中将鳥尾小彌太

大将同相当官   六拾六円

中将同上     五十八円

少将同上     四拾壱円

大佐同上     三十三円

中佐同上     二十八円

少佐同上      二十円

大尉同上      十一円(※正しくは15円)

中尉同上       八円(※正しくは11円)

少尉同上         (※空白だが8円)

少尉試補同上並准士官 七円         

曹長相当官      三円三十銭

軍曹同上       三円

伍長同上       二円五十銭

諸卒仝上       二円三十銭

文官七等以上ハ都テ武官ノ等級ニ准シ八等迄ハ少尉ニ十一等以下ハ軍曹ニ准等外ハ諸卒ニ准(シ)下賜フ

 右ハ八月十九命令

【「征西戰記稿」附録によると、8月7日に戰死手當金として達せられた文書である。( )に正しい数字を入れた。ここでもシを方言でスと記入している。】 

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別紙之山形参軍ヨリ被達タリ

 

昨今之勢形周圍之囲已ニ致完全候然ル処渠レ拠守以来已ニ一周埀(?)々トシ糧食ノ闕乏自然免可ラスト被察候就而ハ何時再度突出之挙動ナスモ側ル可カラサル義ニ候ヘ共此際夜間ハ申迠モ無之昼間ト𧈧モ各哨兵練ニ於テ弥戒嚴可致各位ヨリ其節ヘ夫々至急両警示相成度此段態々申進候也

 九月十日        山縣参軍

 曽我少将殿 

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    告諭書

征討参軍山縣有朋謹テ出征将官諸君ニ白ス嚮ニ都ノ城攻撃ヨリ以来各処ノ行軍一モ意如クナラサルハナ(ク)容易ニ大敵ヲ駆逐(シ)遂ニ長井村ノ合囲ニ至リシハ諸君親シク経歴セラタル処ニテ其此ノ如クナリシ所以ハ一モ諸君ノ指揮ト共ニ各軍ノ動作進止善ク機ニ合シタルノ故ニ因ラサルハナ(シ)此時ニ方テヤ賊勢宭縮復タ為スヘキノ余地ナキモノヽ如シ而シテ一旦忽チ可憂(可愛嶽ノの間違い)変アリ是ヨリシテ諸君一段ノ勉励ニヨリ急行追撃至ラサル所ナ(シ)ト雖モ一タヒ之ヲ三田井ニ逸(シ)再ヒ七ツ山ニ逸(シ)三ヒ鬼神野ニ逸(シ)逸スルモノ三度ニシテ遂渠レヲシテ立息セ(シ)ム此間或ハ風雨地勢ノ之レカ障碍ヲナスモノナキニ兆ラスト雖ノモ然ノモ掻痒ノ歎ニ堪サルモノ少シトセス已ニシテ三好少将海路ヨリ重冨ニ上リ邀撃ス而シテ三好ノ発スルヤ亦風浪ニ沮ラレ行程二日ヲ誤リ終ニ横川ニ至リ渠レト會ス真幸街道ノ狭隘ニ邀フル叓ヲ得ス遂ニ四度逸シテ縦ニ其旧拠ニ入ラシメタリ有朋ヲ以テ之ヲ視ルニ此賊ヲシテ轉遷此極ニ至ラシタレトハ実ニ意想ノ外ニアリ諸君ト雖モ今ヤ幸ニシテ合囲再ヒ成ル是寔ニ諸君拮据収捨ノ然ラシムル処有朋順ク復タ多言スヘカラサルナリ而シテ来ラサルヲ特マス待チヘキヲ特ムハ警戒ノ要領乃チ有朋カ心ニ思フ所未タ輙チ之ヲ包藏シヘカラサルモノアリ顧フ今日ニ於テ我カ以テ恐ルヘキモノ三ツノミ一ニ曰爨ヲ窺テ脱出ス二曰嬰守能拒ク同気ノ相應ヲ待チ三曰我諸軍ノ蜂壓ヲ待チ突然精鋭ヲ一偶ニ潜メ遇慮ニ属スル如キ者アリト雖モ之ヲ恐ルヽハ乃チ警戒慎重ノ在ル所ナリ其レ此ノ如ク成ルノキハ則今日ニ在テ我首トシテ目的トスル所ハ独リ守備ヲ先ニス攻取ヲ後ニシルニ有ルニ非ス耶蓋ス此等ハ諸君モ亦既ニ有朋ノ言亦タ未タ過慮ヲ以テ断スヘカラス諸君其善ク守備ヲ唯是益嚴スルヲ務メヨ望ム所ハ是ノミ而シテ后夫ノ一挙覆巢ニ至テハ当ニ重儀スル所アルヘキナリ有朋謹言

 十年九月十日

【この文書は「征西戰記稿」に9日に公表されている。比べると、端折った部分と表現を変更した部分が見られる。爨はかまどと読む。本来シであるべき文字をスにした個所がここにも散在する。】 

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去ル明治四季廃藩四鎮台被置候節召集候壮兵同八季二月解隊相成其節為賞典同季六月一日ヨリ尚二ヶ年間壱人口下賜候旨陸軍省ヨリ達相成居候処先般臨時(異体字)召集遊擊隊編成現今出征中右賞典米下賜之日限已相済ミ候ヘノモ本季五月廿九日発乙第九百十八号ヲ以テ相達候越モ有之候ニ付賊徒平定各隊解隊散迠之間ハ従前之通壱人口下賜候此旨相達候事

 明治十年七月九日発 征討総督本営

上記文章内にある達文は次の通り。C09082660200軍団本営発翰 明治10年5月1日~10年6月10日(防衛省防衛研究所)0384・5

発乙第九百十八号

別紙之通リ今般相達候上ハ西郷中将ヨリ申越候ニ付為心得此旨相達候事

明治十年五月二十九日

 

征討総督本営

 

会計部印

軍医部印

砲兵部印

輜重部印

裁判所印

 

右御達之事

別紙

先般臨時召募之遊撃隊其他本年五月三十一日限リ軍役年限満期之者ハ徴兵令中徴兵編制并ニ規則其二末項掲示之趣ニ順シ平定迠之間服役延期ト相心得ベシ此旨相達候事

 

賊徒平定ニ付諸兵隊各自本営ニ帰営被仰付候叓

 十年

  九月廿七日     征討総督本営

賊徒猖獗夛ノ月日ヲ経今ヤ之カ悪誅ニ伏シ西陲全ク安シ我

天皇陛下ノ宸襟ヲ慰セラルヽ果シテ何トカナシ是一モ郷等各將校指揮ノ其冝キヲ得タルヨリ下士兵卒ニ至ル迠殊ニ威憤勉励事ニ縦ヒシカ力ニ因ラサルハナシ余深ク之ヲ喜フ茲ニ本営ヲ此地ニ移スニ因テ乃チ郷等ヲ招キ聊カ徴衰ヲ表ス其佐尉官ノ此席ニ列セサル者乃下士兵卒ハ郷等幸ニ郎カ意轉示セヨ

 明治十年九月廿七日

    征討総督二品親王有栖川熾仁

【陲はすいと読み、ほとりの意味。衰は衷の、郷は卿の誤り。これも「征西戰記稿」にあるのとは微妙に異なる。本誌にはこれ以外にも誤字はあるがいちいち指摘しない。9月24日に戦争は平定され、征討総督は細島から27日に鹿児島にやって来た。海陸参軍や諸将官・参謀長・聯隊長・大隊長が磯の旅館に参集した際の演説がこれである。】

 

   鳥尾中将ヨリ御達左ニ

神戸表傳染病酷烈流行ニ付其地ヨリ同処ヘ上陸スヘキ諸兵隊ニテ未タ其地ヲ発セサル分ハ追テ何分之□相達スル迄出帆差留メ候右ハ總督宮ヨリ懸合ニ付此旨相心得其地ノ達方取計ヘキ事

凱旋ニ付追々当地ヘ入湊舩ニハ皆「コレラ」病症アリ舩中并上陸ノ上右病ニ罹ルモノ既ニ三百名余内死亡スルモノ百名余ニ及ヒ尚追々熾ンノ景况ナリ又西京ヲ経テ東海道陸行之諸兵モ同症之者夛人数アリ只今京都府ヨリ報ニ該地ニ於テ去ル一日ヨリ明ケ二日正午迠凱旋ノ各兵病発スルモノ百三十一名内死亡スルモノ拾名余ナリト其地滋賀縣下ヨリ追々報知アリ因テ当地ヘ入湊之舟々ハ追テ相達スル迄其侭留置候様鳥尾中将ヨリ相達セラレ此旨御承知アルヘシ。十月四日布達アリタリ

【これは「征西戰記稿」には記載がない。同書では9月16日に悪疫予防の注意が発せられたとして、種々の対策を各旅団に通達している。数日前、長崎から鹿児島に至る船中でコレラを発症したものが数名あったという。】

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  雑文 賊ノ遺詞

即今朝家茨賊ノ輩(異体字)暴ヲ行ヒ天下ノ人民塗炭ノ苦ヲ受ルヲ目視スルニ忍ヒサルヤ今般西郷先生ヲ始トシテ有志ノ輩登京闕下ニ奏問スルトノ叓件アリ然ルニ当今各縣挙動ノ折柄萬一賊黨ニ疑惑セラレ狙撃ニ逢ヒ其意ヲ達スルヲ得サレハ答戦セスンハアルヘカラス各其備ヲナシ携銃登京セリ已ニ西郷先生ノ深意ヲ明察シ坐食安眠凢輩(異体字)ノ境界ニ陥ルヲ悪ミ有志ノ輩ニ随行シ一身万力ヲ尽サンカ為メ出発シ共ニ砲戦ニ及ハル生テ再ヒ帰ル可カラス我志ヲ続キ有志ノ輩ニ交リ武文ニ勉励生長ノ后ハ西郷先生ヲ始メ有志輩ノ跡ヲフミ国家ニ尽力ナカリセハ禽獸ニ等ク我泉下ニ有テ咲怒ス仍テ遺詞熟読立志希望候也

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                                                                                                                     田代犬彦

十三年                                                        

                                                     田代清廣

                                                     竹廻勇助

                                                        四十年

                                                     田代勇吉

                                                        二十一年  

山原末良

   三十一年                                                         

【すでに戦争が始まった段階で書かれたものらしく、薩軍兵士が携帯していた遺品であろう。名前の部分を下段に原文のように記入できないままにした。】

 

十年九月廿四日鹿児島城山岩嵜ヘ大進撃之節穴中ニ殪ルヽ死者左ニ揚ク

西郷隆盛旧陸軍大将  桐野利秋同少将

逸見十良太同大尉   別府晋介同少佐

村田新八       池ノ上四郎

高城十次       蒲生彦四郎

野田市助      小倉壮九郎

濱田正八       西郷休右エ門

松田幸内       石塚長左エ門

岩本平八       平野正助

桂 久武       岩切喜次良

宅間伴助       種ヶ島城助

新納軍八

 計二十一名皆島津家ノ墓地浄光明寺ヘ埋ム(是ハ賊魁以下小隊長マテナリ)

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拙者共儀先般御暇之上非役ニテ帰縣致候處今般政府江尋問之筋有之不日當地發程候間為御會合此段御届致候尤旧兵隊之者共随而夛数出立致候間人民動揺不致様一層御保護及際護為御依願候也 

明治十年二月(陸軍)西郷(大将)隆盛

      桐(少将)野利秋 

      篠(同)原国幹

 縣令大山綱良殿

【大山は西郷等の文を基に各府県・鎮台に向け2月13日付の通知書を作成し、2月14日に複数の使者(専使)を派遣した。熊本鎮台に宛ては15日付となっており、「拙者儀今般政府ヱ尋問ノ廉有之・・・陸軍大將西郷隆盛」というよく知られた文言である。2名の専使が19日に鎮台に到着し、樺山資紀中佐が応接し次のように述べ鹿児島に追い返している。「兵器ヲ携ヘ國憲ヲ犯シ強テ城下ヲ通行セント欲スルモノハ悉ク兵力ヲ以テ鎭壓ス」。】

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昨廿九日午前第四時斥候トシテ當隊第一中隊ノ内一分隊ヲ花倉山嶺ニ差遣シ此援兵及ヒ連絡ノ為メ第一中隊付属ノ部隊ヲ鳥越阪内ノ賊塁近傍江斥候トシテ差遣シ同中隊残余ノ部隊モ連絡ノ為メ亦之ニ次セシム其第一中隊ハ斥候兵ヲ花倉外レヨリ左ヘ坂路ヲ□シリ黎明ニ到リテ□ニ嶺上ヘ達スルニ及ヒ賊ノ胸壁進路ヲ横断シ進ム能ワス潜ニ之ヲ覗フニ

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哨兵三四名塁下ニ在リテ私語スルヲ聞得タリ依而直ニ突入シテ其哨兵ヲ斃シ胸壁ヲ越ヘ進入シ賊塁後ノ巨塁ニ依テ防禦ス進テ之ヲ撃チ其家屋ヲ焚焼ス賊徒十余名四方ニ散シテ尚砲発シ且ツ前方ノ村落ヨリモ烈敷射聲ヲ為スユヘ不得止益進テ火ヲ四方ニ放ツテ直ニ殺傷ス連絡兵之ニ尾シ來リ共々賊ヲ追ツテ左ニ正面変換シ数個ノ賊拠并ニ家屋五十戸余

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米麦五百俵斗焼夷ス遂ニ進テ島津邸後ノ山上ニ達ス谷ヲ隔テヽ相戦フ此時ニ至ル迠目前賊斃スヿ拾弐名我死傷拾名斗也午前九時頃ニ至リテ賊右方ノ片翼ヨリ迂回シ來ルヲ以テ兵ヲ分チ之レニ對戦ス然ルニ弾丸殆ト放ツ尽スニ及フヲ以テ不得止周囲ノ地理ヲ探偵シ畢テ左翼ヨリ海岸島津邸後ニ下ル徐々ニ退却シ午前十時本営ニ帰ル第三中隊之斥候兵ハ

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第四時ゟ鳥越阪正面ヘ向ヒ右翼上ノ賊塁ヲ覗フニ賊射撃スルヲ以テ不得止進テ胸壁内ニ突入シ賊三名ヲ斃シ示余ノ分隊之レニ援スル為メ左方ノ山塁ヲ攻拔ス依テ地理ヲ覗フ際頓ニ賊勢増加ス死傷夛ヲ以テ午前七時過繰揚ヲ命シ帰営致シ候此段御届申候也

 明治十年五月卅日 遊撃第二大隊長

 第四旅團司令長官殿

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追テ第一中隊ノ退路賊遮断セラルヽモ難斗ニ付援兵トシテ第二中隊ノ内一小隊花倉地方ヘ向ケ差出候處既ニ第一中隊引揚候際ニ付其侭途上ヨリ帰隊致候此段申添候也

【この部分は第二大隊長大沼渉少佐が書いたものの写しである。第四旅団は熊本市周辺にいたが、4月29日鹿児島進入を命ぜられるとともに新たな編入部隊を加えた。その際、遊撃第二大隊(890人)は第三大隊と改称している。5月2日熊本城の西方の百貫石港を出港し、4日鹿児島に到着して別働第一旅団の守線を譲り受けた。その地域は城山の岩崎谷から琉球館、多賀山、鳥越を経て海に達するものだった。花倉は集成館の東950mくらいの沿岸の集落で、背後には比高差160mほどの崖上には薩軍が守っていたらしい。それまで第四旅団は30日間位戦いがないので、大沼大隊長はしばしば攻撃を願い出ていたが許されなかった。しかし5月29日、二個中隊(第一中隊古荘大尉・第二中隊中島大尉)が「私ニ花倉磯山ノ賊壘ヲ襲擊シ」67人の死傷者を出して敗走した、と戦記稿巻三十八鹿児島戰記十八に出てくるのがこの日の記録である。】

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六月廿二日午前第八時四十分吉野地方ニ当リ火烟立チ揚候故豫テ期スル所ノ時刻モ有之候間第四中隊ヲ先鋒トシテ鳥越坂前面ノ山嶺ニ在ル賊塁ニ向ヒ進擊セシメ直ニ銃険ヲ用ヒ第一ノ胸壁ヲ乗取リ進テ左方之巨塁ヲ攻擊致候得共地形險要ニシテ進退自在ナラス殊ニ前方右側ノ賊塁ヨリ烈敷放発ニ及ヒ候故死傷不少依而第二中隊ヲ以テ援兵トシテ指遣候處暫ク相支持候而背后ノ官軍ヲ見合可申方可然旨品川参謀長ヨリ談ニ付両中隊ヲ地理ニ應ス配布ス前面右側及ヒ左側ニ對ス相持シ居候内午后第二時半過キ進(※進?)ニ集

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成館上ノ山ニ当リ迂回兵ヨリ合図ノ信号有之候間直ニ吶喊突入シテ遂ニ巨塁ヲ拔キ一部ノ兵ヲ以テ背後ノ官軍ニ連絡セシム他兵ハ賊ニ尾シテ二本松砲塁ノ背後ニ出急劇突進候處已ニ退走ノ后故前方ニ走ル賊ヲ射撃セシメ該處守備ノ為メ第二中隊ヲ止メ置候且ツ鳥越坂上砲台ニ立帰リ長官ノ命ヲ乞雀ノ宮ニ越キ品川参謀長ト協議ノ上防禦線ヲ集成館上

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ヨリ瀧ノ上山迠相設守備間致候此段御届候也

 明治十年六月廿六日

【これも大隊長の書いたものであろうか。この時点で鹿児島県内にいた官軍は、熊本県南部の水俣から鹿児島県北西部の大口から進入してきた別働第三旅団(6月20日伊佐市大口の高熊山を奪い、21日西方の阿久根市と南西のさつま町宮之城まで分かれて進んでいた)と人吉から大口方面に進軍している別働第二旅団などの北部振興中の官軍、これとは別に鹿児島市周辺の筆者らの第四旅団や別働第一旅団、別働三旅団だった。第四旅団は大口方面の官軍と連絡したかったのだが、ちょうど通路上の鹿児島市北部の雀宮(集成館の北北西約700m付近)・鳥越(集成館の西側に鳥越トンネルがある)には薩軍が厳重に守っていた。鹿児島市方面から攻撃するには高所に向かい進む必要があり戦いには不利だった。そこで官軍は鹿児島湾北部の重富に秘かに上陸し、背後からも攻撃することにした。この時、第四旅団の一部は同行せずに南から攻撃配置についていた。北からの上陸部隊は上陸時に気づかれて攻撃されたが、薩軍の人数が少なかったので上陸できた。薩軍を追い払って南下し、帯迫、雀宮まで占領し、ここで南からの第四旅団部隊(本書の部隊等)と合流している。戦記稿によると「背後ノ官軍ニ連絡」できたのは午後4時乃至同三十分だった。】

六月廿三日午前第八時過キ鳥越坂前面小山(ムスヒ山ト云フ)下段本部ヘ鳥越前面巨塁及集成館山守備第三中隊ヨリ賊徒大擧襲来ノ旨申來候而厳重守備申付直ニ景况探偵ノ為メ正面台塲ヨリ松山下弧脇迠相越候處已ニ雀ノ宮出張第二大隊第一中隊兵散走シ來リ當隊ヨリ差出有之松山下守兵ト共ニ退却候間厳敷叱咤シ之ヲ止乄此處ニ於テ守備為致候中豈計ヤ已ニ賊松山ヨリ小山ノ間ニ充備シ亦鳥越前面山巨塁ノ下并雀ノ宮本道等ヨリ進来リ忽チ四面攻囲ヲ受ケ進退相究候故守備全隊ノ指揮致候無之依而部下ニ在ル者三十名

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計ニ必死ヲ示ス四方当リ凢三時間程射戦致居候中賊ハ時々援兵ヲ以テ突入セントスル景况有此間當隊ヨリ相備□瀧ノ上山鳥越前面巨壘ノ山集成館上ノ山等已ニ陥落ト見ヘ更ニ對戦之模様無之僅ニ正面臺場脇ノ山ニ據リ一二名ノ兵松山上下ヲ狙擊ヲナシ相助ケシナ

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リ然ル処賊徒松山上ヨリ木石ヲ擲下シ併テ狙擊ヲナシ之カ為メニ部下ノ者十四名目前死ヲ受ケ賊勢ハ益相加候間不得止部兵ニ命シ正面台場脇道ニ向ヒ銃鎗ヲ以テ賊囲ヲ突破リ一ト先小山下迠退却候處已ニ諸山守衛ノ兵ハ鳥越守線内ヘ引揚ケ賊兵悉ク交換致シ再ヒ守線取返シ事能ハス無是非正午十二時頃鳥越坂守線ヘ残兵取纏メ引揚申候

此段御届申候也

十 年 六 月 廿 四 日

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【これも大隊長だろうか。23日、22日・23日に官軍の相手となったのは、薩軍は相良長良率いる行進隊と神宮司助左衛門の奇兵隊二個中隊だった。相良は後日の可愛岳付近の戦いで負傷して谷に転落し、鹿児島に帰り着いた時には城山に入ることができず降伏したので生き残り、戦後に戦歴に関する上申書や丁丑ノ夢などの記録を残した人である。神宮司も生存し上申書を残している。鳥越周辺の台場の状況や薩軍が木や石を投げ落としたなどを記す本書は、他書よりも詳しい。23日、薩軍は前日に勝利した官軍の防禦体制が出来上がる前に逆襲することにし、結局、官軍は占領地を全て放棄している。】

六月廿六日午前第五時鳥越坂ヨリ進軍同六時半雀ノ宮ニ至リ直ニ賊徒ヨリ放擊則チ之ニ應ス相戦同十二時頃之レヲ破ル午后第四時防禦線ヲ設ケ守備相定メ申候此段不取敢御届候也

十 年 六 月 廿 七 日

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【前と同じ。末尾に年月日を記したものは大隊長か誰かの報告の写しだろう。26日、第四旅団は23日に奪えなかった鳥越と雀宮を占領した。】

六月廿九日重富表進軍ニ付午前第四時雀ノ宮発程同九時重冨ヘ至ル直ニ東餅田村ニ偵察トシテ二中隊差遣(出)シ然ルニ同村賊守兵ヨリ不意ニ放発ス則チ之ニ應ス對戦十二時過賊ヲ春花西餅田村ヘ追フ午后地理探偵ヲ為ス終リ重冨ニ守線ヲ設ケ相守リ申候此段御届候也

十 年 六 月 三 十 日(※誤字を見え消しし、訂正している個所はPCでは正しく表示できない。)

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六月三十日午前第四時進軍西餅田ヲ取リ別府川ヲ隔テヽ對戦川岸ニ守線ヲ設ケ守備致候也

十 年 七 月 一 日

【鹿児島湾北部の地名を荒っぽく説明する。現在の行政区域は西半分が姶良市、東半分が霧島市である。戦記に出てくる細かな地名を説明する。鹿児島市から続くカルデラ壁が途切れて平地が始まるところが重富姶良市)、その北東が姶良、その東で湾の最奥中央が加治木(姶良市)で中心街から北側に登る坂が龍門司坂である。】

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【7月1日、第四旅団は別府川の西岸まで達した。「征西戰記稿」によると2日、「賊ノ行進隊第十番中隊來リ降ル是ノ隊ハ帖佐郷ノ者ニシテ賊ノ爲メ久ク肥薩諸地ニ戰ヒ今ハ我軍ト別府川ヲ隔テ帖佐麓米山近傍ヲ守ル是夜十時其士官三名我遊擊第三大隊ノ哨線ニ來リ降ヲ乞フ大隊長之ヲ本營ニ致ス乃チ二人ヲ放チ衆ヲ率ヰ來ラシム〇三日午前一時其中隊長黑江豐彦以下二百ニ十六名悉ク降ル」降伏した部隊の出身地は別府川の西岸であり、地元で降伏したことになる。地図の米山は大体この辺り。地理院地図には載っていない。翌日記事に出てくる十日町は図の右翼軍と重なる位置にある。地図はカシミール3D使用。

七月三日午前第四時十日町ヲ発ス別府川ヲ渉リ進軍候處賊已ニ加治木町ニ放火シ退ク次テ日木山右端ゟ龍門司坂ニ連絡ヲ取リ守備相設ケ申候也

十 年 七 月 四 日

【6月29日以来、鹿児島湾北岸地域を西から東へ進撃中である。加治木町姶良市)の西側に別府川が南流し湾に注ぐ。姶良市の東端に日木山がある。日木山は山というよりも丘陵地帯であり、縁辺部は浸食されて山のようになっている。2万9千年前の姶良カルデラ形成時の堆積地形である。】

 

七月五日午前第四時進軍日木山越ニ向ヒ第一中隊ヲ以テ正面本路ヲ突キ第二中隊ヲ右山嶺上ニ備ヘ第四中隊ヲ海岸山越ニ迂回セシム其第壱中隊沿道探索午后第五時山麓ニ於テ開戦次テ山嶺ノ兵賊背ニ出ル賊狼狽伍ヲ乱ス走ル退テ小田越ニ至ル同十時過同處進軍海岸通リ退却ス賊ヲ第一大隊ノ兵ト倶ニ尾擊ス住吉村ニ至ル新川ヲ隔テ對戦午后七時過賊退ク同夜此地ニ守線ヲ設ケ厳重守備致候此段御届申候也

十 年 七 月 六 日 

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【日木山の丘陵地帯を南東に下ると小田があり、沿岸部の集落が隼人町住吉(霧島市)でその東側に新川が南北に流れる。彼らは沿岸平地を通らず、山地というか丘陵地帯を進撃した。】