西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

焼き物作品1

今はやってませんが、数年間陶芸を習っていました。

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右から九州の縄文土器(約3,000+α年前)2点・中世の備前焼2点。焼く前の段階です。

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熊本城飯田丸で出土した焼き物爆弾かなというのを複製してみました(二番目の写真)。出土品の図面を添付したいのですが、報告書を閲覧できる奈良文化財研究所のネットにはあいにく飯田丸のPDFが載ってないので残念。胴部内面にトンネル状の空間が一周し、側面に通じる小穴が確か3個あったような。複製するときは先ず瓢箪のように胴部が幅狭くくびれた壺を作り、くびれ部分を帯状の粘土で覆ってつくり、後で外から穴を開けました。穴は最初の壺形の内部まで貫通するのは一ヶ所だけです。しかし、後からくっつけた帯がどうしても窪んでしまい、ふっくらした外観になりません。やむを得ず、燃えてしまうビニール紐をくびれの上から充填し、その上から粘土帯を貼り付けたら何とかなりました。報告書(出土品は破片ばっかりなので、分かりやすい)を見ると、胴部のトンネル部分内側には縄の圧痕が付いており、昔の人も自分の復元方法と同じやり方だったのでした。写真は焼く前です。

穴が3個あるのは次のように解釈しました。内部には火薬やガラス破片などを詰め、火縄で点火する仕組み。火縄の長さを穴の位置で調整し点火時間を決める。一個目の穴は火縄の端を出しておいて点火するためのもの。二個目は短い時間で点火する場合に一個目と同じ役目をするもの。三個目は最短時間で爆発させるもの。これと同じ武器は西南戦争時の記録には登場していません。今のところ、この実物が西南戦争時のものであるかや、どこで作られたかは不明です。どこか熊本県内の窯跡から破片でも見つかればと思います。

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踏査に出かけるときの格好です。日射病にならないよう余分と思うほど水を携帯し気を付けているけど、長時間になって払底すると悲惨です。

鹿児島城大手門に残る西南戦争の痕跡

 鹿児島城の大手門は本丸の東側の一直線の石垣面の一部分が内側に入り込んだ内枡形です。主に枡形内側の石垣三面と床面には銃砲弾跡らしき多数の窪みが残っていて、西南戦争時のものとみられ、今回はこれについて記述します。

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【御楼門付近の発掘調査中の写真。調査初期の状態で、まだ石垣は草蒸した状態。報告書から。】

 本丸石垣の外側三方は堀になっていて、橋を渡って枡形の内部に入る仕組みです。ここには1873年明治6年)に焼失するまで木造の御楼門が建っていました。鹿児島城跡は明治4年に鎮西鎮台(熊本鎮台)分営が置かれ歩兵4個小隊がいましたが、前述の火災により同年解散しています(「鹿児島市史1」参照)。したがって、1877年(明治10年)の西南戦争時には御楼門の建物はない状態でした。

 この地は1884年以降、鹿児島県立中学造士館、尋常中学造士館を経て、1901年(明治34年)に第七高等学校造士館となりました。1945年6月、空襲により校舎が全焼したため11月に出水郡高尾野町の出水海軍第二航空隊の旧施設に一時移転し、1946年には第七高等学校に改称しました。旧校地に復帰したのは1947年9月でした。その後のことは略します。

 近年、御楼門の建物を復元しようということになり、それに伴い鹿児島県教育委員会が枡形の内外を発掘調査しています。枡形に限って述べれば、石垣面の土や草を除去したところ以前は見えなかった多数の大小の窪みが明らかになり、石垣面の石の隙間は漆喰できれいに補填されていたことが明らかになりました。石垣と床が接する場所からは埋まった溝が現れ、また、枡形の床面はきれいに成型した石材が敷き詰められ、その床面には窪みがいくつか確認されています。詳細は発掘調査報告書が刊行され、だれでも奈良文化財研究所の「全国遺跡報告総覧」を通してPC上で見ることが可能です。書名は「鹿児島(鶴丸)城跡」です。

 西南戦争の痕跡というのは報告書でも述べられていますが、それは石垣面に残る多数の窪みのことです。

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【正面突き当りの石垣下部。大きな窪みは砲弾が直撃したものか。】

枡形周辺が西南戦争の戦場になったのはいつのことでしょうか。以下は「征西戰記稿」鹿児島戰記からの概略です。

 薩軍の大部分が熊本県内に出払っている隙に、官軍は別働第一旅団・同第三旅団、第四旅団を鹿児島県に派遣し、4月26日から鹿児島市に到着し始めています。彼らは城山や市街地周辺に防禦線を構築し、薩軍熊本県内から帰来し襲来することに備えていました。御楼門に近い場所での戦闘を掲げてみます。薩軍は5月5日、新昌院谷(新照院谷のこと。城山の西側)・草牟田(城山の北西側)の両道というから主に西側から城山に向かって攻撃し、撃退されています。御楼門のある東側は戦場にならなかったようです。5月7日、城山の西から南に位置する甲突川の官軍守線を襲い、撤退しています。5月18日には甲突川の西側にある武大明神の丘・二本松とタンタド(城山の北東側)の上から官軍に向かい砲撃し、24日は逆に官軍が甲突川に架かる西田橋・高麗橋から西側に向かって攻撃しています。下図は5月9日に官軍側が作成した両軍の配置図です(C09080858100密事探偵報告口供書類 明治10年4月25日~10年8月3日(防衛省防衛研究所蔵)。上から左下に流れるのが甲突川で、川の左岸などに点々で示すのが官軍守備線です(原史料は赤点ですが、PCでは白黒で公開)。甲突川に架かる橋は上流から新上橋・西田橋・高麗橋・武ノ橋で、市街地や城山・琉球館(私学校の右側)周囲に×印を並べた外側に薩軍がいました。図の左部分、薩軍がいるのは丘陵地帯で、武の丘・尾畔山・原良山などです。以上のように5月段階には御楼門周辺で激しい戦闘はなかったようです。

f:id:goldenempire:20210331235622j:plain    次に6月を見てみます。6月22日から25日までは鹿児島市北方の重富に上陸した官軍が南下、吉野・雀宮さらに城山の北約1kmの催原楽まで進撃していますが、御楼門付近は平穏でした。一方、城山の南西側方面では24日に官軍が甲突川の四つの橋から進撃したように、引き続き官軍の勢いが増して6月中には薩軍は次第に鹿児島市から遠ざかっていきました。7月には薩軍を追って鹿児島湾北部沿岸から大隅半島側に戦場は移ってます。

 では、御楼門跡の西南戦争の痕跡はいつの時点の戦闘を反映しているのでしょうか。下記で引用しますが報告書にあるように9月段階の戦闘の痕跡でしょう。

 8月15日に宮崎県延岡市和田越の会戦で敗れた薩軍は、18日に包囲網の一画である可愛岳(えのだけ)の官軍本営を破り、二週間の山中移動を経て9月1日、鹿児島市に帰ってきて、私学校に休憩していた新撰旅団・警視隊一個大隊そのほか少数の官軍を撃退し、城山一帯を奪回しました。4月段階とは逆に、今度は官軍が出払っており、薩軍鹿児島市内のほとんどを制圧できたのです。わずかな官軍は私学校の東約150mの米倉に立て籠もり、応援の官軍が来るまで持ちこたえていました。しかし、薩軍の兵数は数百人しかおらず、城山を中心に狭い範囲を守ることしかできない状態でした。

 

 前記の報告書から石垣の写真・図・説明文を引用します。

 

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【上の写真は橋を渡って突き当り面(Ⅲ面)の石垣清掃後の状態。石垣の左上から中央部下にかけて連続的に暗く映っている部分は窪んだ所です。なお、向かって左の石垣がⅠ面、右がⅡ面です。】

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 【上はⅠ面です。正面石垣(Ⅲ面)に比べると窪みは少しです。】

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 【上はⅠ面(左)とⅢ面(右)の接した部分。下はⅢ面。】

 石垣に残る窪みについて報告書の記述を見てみましょう。

私学校跡の石塀には西南戦争の銃弾痕が無数に残る。この弾痕は明治10 年9月1日~24 日,特に9月20 日以降の官軍の攻撃によるものと考えられる(鹿児島市史Ⅲ 上村行徴日記)。弾痕は③と同様が多数残る。①は白化した大型の金属片が残存する。先端は石垣に食い込んでいるために全体像については不明確であるが,信管と弾体(弾殻)が分離する四斤砲の信管ではないかと思われる。着弾面の幅,深さから威力のある火器であったことは間違いない。②は着弾面の幅に対して非常に深く,貫通力のある火器であることは間違いない。内部に金属片も一部残る。また,二重凹状は旧日立航空機(株)立川工場変電所の機銃掃射跡に類似する。④は石垣面Ⅰ面側のⅢ面寄りに炸裂したような痕跡から曳火式信管による四斤砲の弾体(弾殻)片と考えたい。ただし,砲弾片が圧着していないと③と区別はつかないと思われる。
 砲弾痕パターンと対比させると以下のような想定が出来る。
西南戦争時の四斤砲(榴弾,榴霰弾,霰弾の区別は不明)

②第二次大戦時の機銃掃射痕
西南戦争時の小銃弾痕(エンフィール・スナイドル等)
西南戦争時の四斤砲弾体(弾殻)片
ただし,西南戦争時の御楼門部枡形内の戦闘状況の記録を示す史料は無く,また,第二次大戦の機銃掃射がおこなわれた伝聞はあるが記録はない。石垣に残る砲弾痕については,今回の調査目的外であり,悉皆調査等を実施していないことから推測の域であることは了承されたい。
 前述したが,今回の調査目的に石垣面の調査は含まれていない。しかし,御楼門建設によって石垣を観察出来る面積が少なくなることや,御楼門建設に先立ち石垣のクリーニング作業によって認知されていなかったおびただしい砲弾痕の状況,また県立埋蔵文化財センターで石垣面についても現地説明会等を実施したことから今回,考察をおこなった。

 冒頭の私学校というのは正しいのでしょうか?本丸の北側にある私学校の石塀弾痕について述べ、御楼門の記述に移り変わっていくということでしょうか。上記で御楼門石垣の窪みが似ていると指摘された日立航空機立川工場変電所の機銃弾痕を下に示します(写真はネット「廃墟系」から)。

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 指摘にあるのは二重凹状の窪みとされるものが混じる点だけです。さらに言えば窪みがまばらにある点は石垣面と似ているといえます。しかし、御楼門跡Ⅲ面石垣のよう幅広く列状をなす痕跡は立川にはありません。別に機銃掃射でなくとも、砲弾の破片でも二重凹状の窪みといわれるものはできる筈です。

 実は調査中に現地を見たのですが、その時、調査員の弥栄久志さんから床面の窪みの中には門に対して斜め方向の楕円形をなすものがいくつかあり、ちょうど官軍の大砲があった斜め左前方約150mの米倉や肝付邸付近からの砲弾が地面に衝突した痕跡らしいと説明していただきました。なるほど、合理的な解釈だと思いましたが、報告書では床面の窪みの解釈は見られないようです。

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【上の写真は調査中の御楼門から官軍がいた肝付邸・米倉方向を見て。矢印は四斤砲弾が床面に衝突したと想定したもの。】

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 【上の文書は9月6日段階の米倉と肝付邸付近の官軍配置。新撰旅団の砲兵もいました。下記は解読文です。

C09085907300「新選旅団第四大隊本団達留」明治10年6月20日~10年10月18日(防衛省防衛研究所0636~0641

肝付屋敷東角堀外ノ臺塲ヨリ同所右之方門前之臺塲                         第二大隊壱中隊

米蔵正面ノ両門前臺塲 但夜間ハ三拾名ヲ川向胸壁ニ分遣ス依テ援隊トシテ砲隊ヨリ三拾名ヲ出スベシ  第二大隊二中隊

米蔵左(右)側面門外臺塲                                       第一大隊壱中隊

米蔵西角塀外臺塲                                        第壱大隊二中隊

米蔵裏面ヨリ肝付屋敷境界外面臺塲                                第四大隊四中隊

第四中隊ノ右翼ヨリ肝付屋敷ノ周囲ニ沿ヒ米蔵ノ境界ニ至ル                     第壱大隊第三第四中隊

                                                砲隊

  但兵員配布之上余リアラハ援隊トナスヘシ

援隊                                              輜重隊

右之通リ守線之持塲ヲ相定候条厳重守備可致候事

 明治十年九月六日 在鹿児嶋米蔵

            新撰旅團

参謀副長

             立見少佐

 第一大隊長

 第二大隊長

 第四大隊長

 砲隊長

 輜重隊長

    中】

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【上図は9月14日現在の状況です。右から私学校・鎮台焼け跡(御楼門のある所。本丸)・二ノ丸です。二ノ丸には二か所に薩兵が七八人いると観察しているものの、鎮台焼け跡と私学校にはいないようです。県庁・二ノ丸から照国神社方面の隊長は山野田一輔でした(「西南記伝」中2)。】

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 上記文書は米倉・肝付邸付近守備の新撰旅團司令長官が9月14日に提出した報告です。「賊兵堡塁竹柵其他一二ノ防禦物ヲ築設スル日〃倍密ナリ(略)縣廳跡旧私学校ヨリ我胸壁ニ向テ少シク放射セリ」とあり、薩軍が防禦物を築き続け、御楼門を含む縣廳跡・旧私学校から射撃していたことが分かります。防衛研究所の推奨する文書名は「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09082992200、来翰録 明治10年5月14日~10年9月31日(防衛省防衛研究所)」ですが、これは上に掲げた本来の史料名とは言えない表記です。単に「来翰録」とするのではなく、「十年九月 来翰録 日知屋村出張本営」としなければ文書の性格が分かりません。いつも抱く感想をここで述べさせていただきました。

 一方、石垣面にある多数の窪みはどう解釈したらいいのでしょうか。特に幅広い帯状の窪み群ができた原因があるはずです。石垣を眺めていて、写真を撮り、画像を見て帰宅後も考えてみました。そして見過ごしていた現象に気づいたのです。

 その後、2018年7月14日に鹿児島県考古学会で「考古学からみた西南戦争の構築物・武器」と題して講演する機会を頂きました。その中で御楼門の石垣面の窪みについての解釈を次のように発表することにしました。 

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 上の写真は正面石垣(Ⅲ面)南部です(この時、適当な写真がなかったので佐倉桜香さんのつぶやきの写真を名前を明記して借用しました。上図はその時の物です。)。この写真を見て上部の幅広い窪みの帯には簡単に気が付くでしょう。よく見るとその下にも同じ傾きで窪みが並んでいるように見えます。さらにその下にももう一列。

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 本丸を奪った薩軍は、出入り口である御楼門をそのままの状態にしては置けないと考えたでしょう。9月1日かその直後に、ありあわせの材料で低い土塁状のものを作ったのではないかと思います。上の図がその状態です。官軍は遮蔽物の上部に向かって銃砲擊を浴びせたのが、最下段の窪み列だと考えます。もちろん遮蔽物にも多数が命中した筈ですが、それは石垣面には残る訳がありません。

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やがて、日時がたつと次第に土塁状のものは高く、長くなったのでしょう、中段の窪み列が遮蔽物の高さを示していると思います。

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最後の段階の遮蔽物の規模を反映するのが上段の列でしょう。最も窪みが多い点から見て、この期間が最も長かったのでしょう。あるいはこの段階は射撃を受けることが激しかったのか。南側の石垣(Ⅰ面)と正面石垣(Ⅲ面)を連読的にみると遮蔽物がⅢ面からどれくらい離れていたのか推定できます。銃砲弾痕跡から考えて少しずつ遮蔽物を積み上げたのではなく、三回に分けてそうしたとみるべきです。

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 では、Ⅲ面の南寄りに遮蔽物を作った理由は何でしょうか。Ⅲ面右側から遮蔽物に入るには危険性があります。それを避けるために曲がり角の石垣上部を撤去し、梯子で上り下りしたのではないでしょうか(Ⅰ面石垣がⅢ面石垣に接近した上部に配水用の凹形の石があります。現在、この上にある3個くらいの石は表面がきれいですが、これは調査後に古い石と取り換えたものです。撤去された石は銃砲弾の跡が著しいものでした。したがってこの部分を当時取り外して梯子を架けた、というわけでもなさそうです)。以上、憶測を重ねてみました(ネットでみると憶測とは「根拠もなく、いいかげんに推測すること。当て推量」)。でも、解釈はしておくべきだと思います。(いつか続きを書きたいと思います。)

 

 

 

駒嶺重幸「西南戦争履歴」2

七月八日賊襲來第二中隊前面谷合ヨリ進来リ凢一大隊斗三分ノ一ハ我左ヘ向ヒ一ハ正面ニ出ツ一ハ海岸ヨリ出ツ我兵向討テ悉ク之ヲ走シ殊ニ海岸ノ迂回兵ハ狼狽ヲ極メ死体ヲ捨退ク逐テ湊村ニ向ヒ河岸ニ至リ午前第九時半守線ニ帰ル此段御届申候也

十 年 七 月 九 日

【「征西戰記稿」この日の記録は次のように記す。「八日未明、賊四百許、湊村ヨリ上井村峽谷ノ間ヲ過キ其兵ヲ分ツテ三トシ我右翼哨線ヲ襲フ大隊長第二遊擊)大沼少佐其衛兵若干ヲ以テ守線ヲ出テ邀擊シテ之ヲ敗リ午前九時三十分悉ク賊ヲ郤ケ、守線ニ復ル」 新川を越えて東進すること3㎞で湊(霧島市)がある。この辺りで鹿児島湾北部沿岸の平野が終わる。9日、部隊は霧島市国分上之段村に進んだ。ここは鹿児島湾側から見ると台形状で、上面に上野原縄文の森・鹿児島県埋蔵文化財センターがある。地名の上之段は東側にも広がっており、これでは具体的に官軍がどこに進んだかは分からない。7月9日から11日の状況について「征西戰記稿」を掲げる。「湊村及ヒ敷根ノ敵状ヲ偵察ス敷根ノ地勢タル攻ムルニ利アラス故ニ十一日午前先ツ左翼兵混成一大隊ヲ以テ淸水ヨリ永迫ニ進メ其守兵凡八十名ヲ破リ午後中央兵遊擊第三大隊ヲ新城ヨリ川内ヲ經テ上之段村ニ進マシムルニ未タ村ニ達セサル時適〃筑波艦福山ヲ砲擊シ砲火家ヲ焼キ烟焰天ニ漲ル敷根ノ賊誤認シテ官軍福山ニ上陸セリトシ遂ニ顧テ潰走ス乃チ上之段村ヲ取リ右翼兵遊擊第二大隊モ亦直ニ敷根ニ入リ尚ホ進テ福山ノ北ニ至リ哨線ヲ嶺上ニ張ル後ニ聞ク是時ノ賊將ハ相良五左衛門ナリシト」左翼兵は清水(永迫の北西3.5㎞付近)から進んで永迫を破り、中央兵は新城という不明の所から川内を経て上之段に進行している。川内は埋文センターのある山を北から東に取り巻く鎮守尾川の流域であり、下流に上川内、中流に後川内があり、後川内の南約1㎞に上之段という集落がある。この集落が中央兵が進んだ上之段であろう。】

七月廿三日午前第六時半当隊第一中隊笠木村守線ヘ賊徒三百名斗襲來候就テ該中隊ヘ警備厳重申付候内間モ無ク同中隊右翼ヘ向ヒ賊ヨリ発放シ尋テ開戦ニ及ヒ当隊附属砲兵小隊ヨリモ射擊為致午前十一時頃賊ヨリ旧砲ヲ放チ益小銃ヲ連発シ勢□相加候間我左翼ヨリ二分隊ノ兵ヲ分派シ一分ヲ以テ迂回シ道ヲ支ヘ余ハ賊ノ側面ヲ射ツ同時ニ前面ヨリ進撃致シ僅ニ四五拾米突ノ地ニ近接致候中賊左方ゟ迂回シ來リ左翼分派兵ノ一分ヲ斃シ背面ヨリ分派兵ヲ射撃致候故該兵ヲ以テ直ニ迂回兵ニ應ス對戦為致候假リ旧線前凢四五百米突即進出候地ニ新線ヲ設ケ工兵ヲ以テ處々散兵壕ヲ築キ益射撃戦闘為致候薄暮ヨリ午后十時頃迠一層賊ノ放発烈敷十時過頓ニ放火相止メ候就直様斥候指出候處已ニ北走致候而退路不分明且ツ地形不詳候就尾擊指止メ新線ヲ厳重為致申候此段御届申候也

十 年 七 月 廿 六 日

追テ其節ノ死傷左ノ通候間此段添テ御届ケ申候也

将校死一人傷二人下士以下死四人傷四拾二人也

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【末尾の「御届申候也」というこれ以前の文書も必ずしも大隊長の報告というわけではなさそうだ。笠木村は曽於市大隅町にある。南東約5㎞の岩川官軍墓地には79基の墓石があり、当日の戦死者はここに埋葬されたのだろうか。

 第四旅団としては13日、惣陣山から荒磯岳に哨兵線を進めている。

 14日から22日までの記述がないので、この期間の動静を「征西戰記稿」から記そう。14日、別働第一旅団が百引で敗れたので第四旅団から二分隊を援兵として出した。鹿屋市百引は惣陣山の南南東約14㎞にある。この日、旅団は左翼を荒磯岳(標高539m)に、右翼は南西約4.8kmの惣陣山(標高484m)から福山海岸に延びていた。15日、福山原の哨兵線に敵兵800~1,000人が襲来したが退けた。この戦いで薩軍が鉄製銃弾を使ったのを初めて見た。19日、左翼を荒磯岳の南東3.1㎞の陣岳(標高430m)に進め,

20日、右翼を神牟礼に進めた。22日、梶ケ野から続いて笠木まで約3kmに遊撃第二大隊の哨兵線を布いた。23日の薩軍は逸見十郎太が率いていた。

  24日、陣岳の東2.5kmにある末吉町通山を攻撃、敵を追撃し都城に入った。これは同旅団の別部隊であるため履歴にはない。25日、都城を発し蓼池道から山之口(おそらく都城盆地にある場所)に進行し、さらに「麓村ノ東凡ソ十丁許ノ山ニ據リ哨線ヲ布」いている。麓村は都城市の東端にあり、そこから1km位の山に哨戒線を置いたというから標高335mの城山一帯であろう。

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※上図はカシミール3D。都城盆地の北東部に麓集落があり、そこから1km位に東に当たるのが城山である。ここに警備線を布いたとみられ、現地には台場跡があるかも知れない!

 7月24日の都城攻撃に加わったのは第四旅団のほか、第三旅団・別働第一旅団・別働第三旅團だが履歴の記述に関係ない部分に触れなかった。26日、山之口(この山之口は宮崎市西部にある)に滯陣、27日出発し宮崎県田野に到着している。】

 

七月廿八日田野村ヨリ進軍午前九時過清武村前ニ到乄賊徒對河岸髙台上ニ據リ胸壁ヲ築キ銃砲ヲ放テ固守スルニ付兵ヲ河岸ニ伏セ相射擊スルニ殆ト一時進テ河ヲ渉リ彼レ岸ヨリ清武村ニ入ラシメ賊潜ニ台ヲ下リ清武村ノ人家ニ放火シ我進路ヲ遮ル依而第三中隊ヲ以テ右翼ヲ迂回セシム午前(后)四時半頃大久保本通ノ賊破ルヽヲ以テ山塁自焼シ北走ス直ニ第二中隊ヲ以テ之ヲ遂ヒ狩野村ニ於テ之ヲ尾擊ス賊破レテ死体ヲ捨テ走ル夜暗黒地理不詳ニヨリ此レニ追擊ヲ止メ午后十時守線ヲ中野ニ布キ警備為致候此段御届候也

十 年 七 月 廿 九 日

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【田野村は宮崎市の南西約15㎞、途中に清武がある。狩野村は不明だが、清武川の左岸、田野町中心部の対岸に狩屋原という所があるのでそれだろうか。ここから東北東約8.5㎞に中野という所がある。清武川左岸、清武中心街の対岸である。】

七月卅一日午前九時左翼旅團ノ進撃ニヨリ宮崎ヲ自焼スルニ付直ニ河ヲ渉リ第一中隊ヲ先鋒トシテ賊ヲ逐ヒ海岸通リ急行午后三時過住吉村ニ至ル然ルニ賊石嵜村ニ胸壁ヲ築キ之レニ據ル以テ部署ヲ定メ再ヒ進軍已ニシテ先捜兵塁近ニ及ヒ賊ヨリ発放開戦相射撃スル殆ント四時間賊遂ニ破レテ死体ヲ捨テ走ル遂テ廣瀬川ニ達シ對戦ス賊復タ事フル叓能ハス夜半廣瀬捨テ退ク依而河岸ニ守線ヲ設厳備為致申候也

 

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十 年 八 月 一 日

 

八月十二日午前第五時細島ヨリ進軍同六時半過き門川岸ニ至ル賊河岸ニ塁ヲ築キ銃砲ヲ連発シ固守ス即時之レニ應ス河ヲ隔テ戦フ午後三時半頃左翼大隊ヨリ進撃ニ而賊退キ破レ逐テ川ヲ渉リ門川村外レニ守線ヲ設ク同六時半過賊等返シ来リ守線ニ迫リ我兵之ニ應ス頃刻ニシテ馳逐ス賊復退テ海岸ノ山ニ據リ依而兵ヲ収メ守線ヲ固守致候此段御届申候也

十 年 八 月 十 三 日

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八月十四日午前第一時尾末ヲ発シ乙島ニ渉リ黎明海路ヨリ第二中隊ヲ先鋒トシテ庵ノ川村ニ入ル賊已ニ去テ踪ナシ直ニ延岡ニ向ヒ進軍セシム轟村ニ残賊尚僅ニ在リ逐テ四散セシム延岡ニ入ル賊復已ニ去ルヲ以テ宝財島ノ残徒ヲ逐ヒ大武村ニ到ル午后七時半左翼両大隊柚ノ木田ニ開戦ニ付進テ之レニ換リ對戦同夜此ニ守線ヲ設ケ守備相致候此段御届申候也

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【柚ノ木田は祝子川(ほおりがわ)左岸に位置し、大武の北に接し、700m位北に無鹿がある。柚ノ木田も大武も水田地帯である。宝財島は方財嶋のことで、此の日、逸見十郎太の部隊が延岡市街方面からここに脱出してきた。】

 

八月十五日午前六時和田越ニ向ヒ進軍賊無鹿村ニ據リ友内村和田越山ヲ守ル依リ而第二中隊ノ内一小隊ヲ先鋒トシテ無鹿村右方ヨリ進撃セシメ第四中隊及第四大隊ノ内一中隊之レニ次ク第二中隊残余ノ一小隊ハ本道ヨリ機ニ投セシム先鋒第二中隊ノ一分隊ヲ右ノ山上ニ備ヘ賊左ヲ射撃ス余疾呼ナシテ突入ス山下ノ賊退路ヲ失フテ斃ル尋テ河岸ニ沿フテ進入シ第四中隊ハ第二ニ次キ進テ友内山ノ賊ト戦フ短兵ヲ以テ相逼リ山ノ上下ニ在テ接戦ス本路進入シ第三中隊残余ノ一小隊ハ戦已ニ酣ナリニ及ヒ和田越山ヲ攻取リ之レニ據テ眼下ニ友内山及ヒ余ノ賊ヲ討ツ賊遂ニ堪エス兵器死体ヲ捨テ走ル第四中隊直ニ之レヲ尾撃シ賊ヲ斃シ午后第一時兵ヲ無鹿村ニ収メ和田越山友内山等ニ守線ヲ設ケ守備為致候此段御届候也

十 年 八 月 十 六 日

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【8月15日、官軍に追われて宮崎県を北上してこの地にたどり着いた薩軍は延岡北部の和田越一帯の尾根に布陣し、前面の平野に布陣する官軍との間で半日の戦闘、和田越の戦いが行われた。大分県で戦い、県境付近に後退していた薩軍奇兵隊(野村忍介隊長)も前日、延岡に戻るよう指令を受けており、急いで西郷らに合流しつつあった。薩軍奇兵隊がこの段階にもまとまりを維持していただけで、他の部隊は敗退を続けてきたためそうではなかった。

 本書の筆者は和田越に向かって戦ったと記す。第二中隊の記事が続く部分に登場するので、筆者は第二中隊だったらしい。無鹿村は和田越一帯の尾根南麓にあり、友内山は和田越道の東側にある。和田越山という表現は他では見たことがないが、和田越の峠道が通過する尾根筋であろう。】

 

八月十七日午前(※見え消しで后)四時河島須佐山ヲ進撃ス第一中隊ノ内三分隊山ノ右腹ヨリ進ミ第二中隊ノ内三分隊同左腹ヨリ進ム其第一中隊ハ正面正攻ノ虚勢ヲ為ス第二中隊ハ山腹ヲ迂回シ午後第六時半賊塁ノ左側ニ達シ直ニ疾呼突入シテ賊ヲ殺傷ス賊狼狽兵器死体ヲ捨去ル山腹急峻且黄昏ニ及フヲ以テ追撃ヲ止メ守線ヲ設ケ厳備為致候此段御届申候也

十 年 八 月 十 八 日

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【「征西戦記稿」この日の戦闘経過は下記の第四旅団8月17日記事に登場する。但し戦記稿では履歴の午前四時は午後四時となっている。(※16日)老田嶽ノ中央以東總テ我有ト爲ルト雖モ其西角ハ賊兵大ニ堡壘ヲ築キ固守セリ〇十七日午後一時遊擊兵大隊(第二)ハ守線ヲ老田山ニ設ケ同四時川島須佐山ニ向ヒ古荘大尉第一中隊ノ三分隊ヲ率ヰ山ノ右ヨリ進ミ淺田中尉第二中隊ノ三分隊ヲ率テ左ヨリ進ム其第一中隊ハ賊兵ノ射擊劇烈ニシテ直進スル能ハス故ニ正攻ノ虚勢ヲ爲サシメ第二中隊ハ山腹ノ險阻ヲ攀躋シ密樹ノ間ヲ潜行シ午後六時始テ賊壘ノ左側ニ達シ一薺ニ突起、銃槍疾呼シテ壘中ニ躍入シ十餘名ヲ殺ス賊狼狽兵器彈藥死屍ヲ委テ走ル支脈上ナル山壘ノ賊モ亦瞰射ヲ受ケ守ル能ハス守地ヲ棄テ走ル是壘ヤニ一川ヲ隔テ長井谷ヲ俯瞰シ最モ要害ノ地タリ是ニ於テ無鹿川北復タ賊ノ隻影ヲ見ス 

 【ここに登場する山地の戦跡分布調査結果を報告したことがあるが(「西南戦争之記録」第5号)、老田岳と考えられる標高324mの峰には15基の官軍台場群が残り、そこから北側の尾根筋にはしばらく台場跡は見られないが、突然官軍側を向いた台場跡が2基現れる。官軍と薩軍との直線距離はほぼ1㎞であり、その距離なら密樹状態の山の斜面を2時間かかったというのは納得できる。戦記稿の時間が正しいだろう。■はPCに活字がない。

九月廿四日大進擊岩嵜谷ノ賊勦討ニ付當大隊ヨリ一中隊ヲ進撃隊トシ一中隊ヲ應援隊ト為ス進軍セシム進撃隊ハ第一中隊第二中隊ヨリ編組ス應援隊ハ第三第四中隊ヨリ編伍ス右隊午前一時浄光明寺下ニ集合同三時半同處出発シ進擊中隊ノ内先鋒小隊潜行シテ岩嵜山ノ賊塁ニ近付柵ヲ破リ銃劔ヲ以テ突然進入ス賊防禦ニ遑ナク塁ヲ捨テ去ル直ニ之レヲ尾擊シ荊棘ノ間ヲ攀テ岩嵜山頂巨塁ニ侵入シ賊亦拒守スル能ハス退テ支脉上ノ山塁ニ據リ依而一ハ此賊ニ對シ一ハ眼下ニ岩嵜ノ賊巣ヲ乱射ス進擊隊自余ノ一小隊ハ之ニ次ク進撃隊(「次ク進撃隊」の後、二頁近い空白)次ク進テ山腹ヨリ岩嵜本路ヲ取リ應援隊ハ岩﨑本路ニ向ヒ普心院ヨリ私學校ノ間ニ配布シ賊ノ迂回突兵等ニ供ス各部ノ兵對戦スル殆ント二時間午前七時前ニ及テ岩嵜ノ賊山上ヨリ瞰射ノ烈敷ニ堪得ス遂ニ賊魁ヲ首乄数十名據営ヲ捨岩嵜谷口ニ向ヒ鋭ヲ尽シテ闖下シ來リ山上山下兵相俱ニ討ツテ数賊ヲ殪ス賊将西郷隆盛爰ニ死ス匡賊一團ト成リ疾走シテ私學校ノ北隅ニ出ツ此時正面ノ叢林中ニ埋伏セシ一部ノ應援隊一時ニ連発シ邀エ撃テ之ヲ扞拒ス賊益勢威ヲ張リ直ニ此兵ニ向ヒ突擊ス山麓ニ備フル進撃隊及應援隊三面ヨリ之ヲ合撃シ大ニ其鋭鋒ヲ挫ク於茲賊已ニ突貫スル能ハサルヲ以テ路傍之巨塁ニ入リ各面ノ兵ニ当リ奮闘ス同時山頂ノ兵ハ支脉上ノ賊塁ヲ討テ之レヲ駆遂ス第一大隊ノ兵側面ヨリ之ヲ援ク山下塁内ノ賊ハ尚屈セスシテ奮戦ス依之進撃隊應援隊ノ中ヨリ一部兵ヲ分テ私學校ノ内ヨリ柵ヲ破リ賊塁ニ向ヒ突進ス余ノ兵ハ山ノ麓及正面ヨリ第一大隊ノ兵若干背面ヨリ悉ク短兵ヲ以テ奮進突戦就中山麓ノ兵ハ木石ヲ取テ塁ニ擲下シ賊ノ庇廠ヲ碎ク賊之カ為メニ壓セラレ死力ヲ尽ス能ハス私兵蝟集シテ塁ヲ突キ賊将桐野利秋村田新八別府普介池野上四郎逸見十郎太等ヲ始メ七拾余名茲ニ死シ此時坂田諸潔等十余名降伏セリ右ヲ残賊捜索ニ付攻取ノ地ニ守線ヲ布キ警備致候此段御届申候也

十年九月廿五日

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【これで西南戦争は終わった。筆者は遊撃歩兵第二大隊第三中隊の兵士だが、この戦闘に加わったかの記述はない。下図は防衛研究所蔵C09083002900の地図である。縦配置にすると小さくなるので横向きにした。16日の攻撃前の計画図であり、薩軍の台場分布も正確に把握しての図ではない。城山にある台場のおおよそに位置として理解いただきたい。】

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まとめ

  「西南戦争履歴」の作者について考えてみる。表紙には駒嶺主と記しており、その人物が作者だと考えていいのだろうか少し疑問が残る。冒頭に「大隊長ヨリ告諭」とあり、遊撃歩兵第二大隊が作者の所属部隊であることは想像できる。遊撃歩兵第二大隊は遠藤芳信氏によると、「3月25日遊撃歩兵第二大隊(下士89名,兵卒右772名)が編成され(名古屋鎮台の管轄下になり,3月14日編制の第四旅団に編入,10月1日に解隊の指令)」との経過を経ている〔北海道教育大学紀要.人文科学・社会科学編57-1「日露戦争前における戦時編成と陸軍動員計画思想(5):西南戦争までの壮兵編成と兵役志願・再役志願制度」2006〕。遊撃歩兵第二大隊の名簿を調べると表紙の駒嶺主という人物は見当たらず、第三中隊の上等卒に「駒ケ峯重幸」という人がいた。岩手縣士族岩井郡下米内出身で上田村住二十二年七ヶ月とある(C09085011200本営各部各隊将校以下 人名簿 第6号 明治10年9月27日~11年1月10日 防衛省防衛研究所蔵)。

第三大隊第三中隊上等卒

仝(岩手縣士族岩井郡下米内)駒ケ峯重幸 上田村住(同)二十二年七ヶ月

※駒ケ峯性は秋田県に多い。

 また、彼には明治15年には「陸軍兵卒服役中鹿兒島逆徒征討ニ際シ盡力其勞不少候ニ付金貳拾圓下賜候事」との記録がある(C08010510100明治15年 陸軍省日誌 貞 貞丙 自10月同年至12月(防衛省防衛研究所)2816~)が、その姓からはケが抜けており、さらに峯が嶺に替わっている。名前の表記が今ほど厳格でなかったことが窺われる。これで駒ケ峯重幸と駒嶺主の差は少し縮まったことになる。

 しかし、履歴本文の冒頭頁上部に押された印鑑は駒嶺重幸であり、表紙の駒嶺主とは異なるのはなぜだろうか。

ところで、明治20年9月の陸軍軍吏学舎入学生徒に駒嶺重晶という人がいる(C10050282500兵部省陸軍省雑 明治20年 編冊 省内各局(防衛省防衛研究所)1674~)。

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   軍吏学生とはウィキペデイアによると、「陸軍軍吏となるべき教育を受ける。歩兵科、騎兵科、砲兵科、工兵科、輜重兵科の現役特務曹長、および1年以上その階級にある前記各兵科の現役曹長と陸軍一等書記の志願者で試験に合格し選抜採用された者。修学期間は約1年。」とあり、軍吏学生になるための入学試験受験資格はおそらく10年前後の軍務経験が必要だったらしい。駒嶺重幸が明治10年に22歳であるから受験した年には32歳だろう。ちょうど受験資格を満たした時期である。前に掲げた軍吏入学関係文書の巻頭に記載されている久保則知は明治10年9月29日付で鹿児島屯在兵隊會計部付を申し付けられた記録があり、この時20歳8ヶ月だった。10年後には30歳であり、駒嶺と同年代でありこの年頃の者が受験したことの裏付けとなる。ただ、受験生の名前が重晶であるのが気になるが、同一人物である可能性は捨てがたい。

 明治37年の次の資料では駒嶺重晶は函館要塞経理部長となっており、文書名は「・・・駒嶺主計ヘ伝送ノ件」である(C03020178000明治37年 「満密大日記 明治37年 8月 9月」防衛省防衛研究所蔵0331・2)。]

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    陸軍軍吏学舎を卒業した後、駒嶺重晶は経理分野の勤務を続けていたのである。駒嶺主計、これが本誌表紙の署名「駒嶺主」ではないだろうか。

 つまり戦後二十数経って昔の記録を綴じ直したのではないかと考える。「西南戦争履歴」の西南戦争という言葉は西南戦争時点ではそれほど使われなかった用語である。当時の呼び名は鹿児島事件・鹿児島県暴動・西南之役・西南戦争之役等々であり、戦後だいぶたってから西南戦争という言葉が一般化し、それを使ったのだろう。そもそも赤の他人の記録したものに自分の名前を書くだろうか。たとえ親や兄弟が書いたものであっても、それに自分の名前は入れないだろう。 

 以上、「西南戦争履歴」を紹介した。西南戦争に関する記録として利用していただければ幸いである。

駒嶺重幸「西南戦争履歴」1

 

所有する「西南戦争履歴」を紹介したい。和紙に毛筆で書かれたものである。本文は和紙を二つ折りにして、折り目が下になるように閉じ、片面だけに書いている。したがって、白紙の面が背中合わせになっている。出来上がりの一頁は縦11.9cm・横15.9cmである。表紙と裏表紙は厚手の和紙でやや大きく10.2cm×16.8cmである。末尾の7枚は白紙のままである。本誌は全体の片側に3.2cm間隔で穴をあけ、和紙の撚紐で綴じているが、長軸の中心に近い内側にも6.4cm間隔でより小さい二つの穴があけられている。これらは表から裏まで貫通しているので、一度綴じ直したことになる。また、表紙・裏表紙には6.5cm間隔で二つ穴があるが、これは本文の紙には認められない。表紙の裏面には照會と大書され、會の日部分はない。裏表紙の内側に「日簿」という墨書が本文とは90度の向きで記されており、表と裏の紙は切り離されてニ分されたものであり、本来は照會簿と書かれた別の冊子の肉筆表紙だったものを転用したのである。本誌を綴じた穴の位置と簿冊を綴じた穴が等間隔ではないので、外側の2ヶ所の穴が簿冊を綴じた痕跡だろう。ややこしいが、本誌を綴じた表側からの紐は裏表紙の手前で内側に折り込まれている。では、裏表紙は何で綴じられてるかというと裏側から紐を通して途中で(八月十五日から始まる紙まで)折り返している。以上、何だか分かりにくい説明になり申し訳ない。

 内容は日記というよりも備忘録に近い。以下、内容を紹介し区切りごとに解説する。

「西南戰争履歴」 駒嶺主 

 

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印   諸達及諭達書写

    大隊長ヨリ告諭

去ル辛未壬申年

朝廷兵ヲ各藩ニ徴スルニ方テヤ其藩主特ニ精兵ヲ撰テ之ヲ  朝廷ニ致セシモノニシテ各朗其撰ニ当リ奮起身ヲ陸軍ニ致勉勵数年其功労少トセス是恩賜ノ今日ニ及フ所以ナリ後チ 朝廷賦兵ノ制ヲ建ラレ壮兵ノ法ヲ廢セラルヽニ及テ各免役郷里ニ帰ルト𧈧ノモ尚臨時招集ノ命ヲ受ルモノ技術ニ練達シ一旦警アレハ之ニ應スヘキノ素アレハナリ今ヤ鹿児島賊徒起ノ官軍ニ抗スル爰ニ数旬連日ノ戦ヒ官軍勝利常ニ多ニ居ト雖モ今日ニ及テ未タ鎮定ニ至ラサルモノハ夫ノ一鼠賊ノ北ニアラサルヲ以テナリ其然リ既ニ官軍ノ戦地ニ臨ムモノ数十隊然ルニ今又各壮兵ヲ招集セラルヽ処以ノモノハ蓋シ奮前勇闘一撃以テ御赴意ナラン誠ニ各  朝廷ノ厚恩ニ報ヒ旧藩主ノ知遇ニ答フヘ粮フ処ノ勇謄義気亦將ニ彰ハレントス宜ク同心戮力長上ノ命令ニ服ス軍隊節度ヲ奉シ苟モ軽挙暴動身刑辟ニ陥ル如キアラン  朝廷ノ厚恩ニ背クハ固ヨリ論ヲ待タス旧藩主ノ汚名ヲ天下ニ示スナリ是返シテ各ノ本旨ニ非サルヘシ某不肖隊長タルノ命ヲ辱フス今將サニ各ト共ニ戦地ニ赴カントス其発セサルニ方テ一言ノ告諭ヲナスモノ聊カ徴意ノ存スル処ナリ各之ヲ領セヨ

  明治十年四月

     遊擊歩兵第二大隊長心得

      陸軍大尉

【遊撃歩兵第二大隊長心得であった美濃部正直大尉は59日第四旅団附となり、同日付で新たに大沼渉少佐が大隊長となる。C09081326300陸軍事務所本営通牒 明治10年2月20日~10年9月31日(防衛省防衛研究所)0752~

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【印影は駒嶺重幸】 

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丁第四百十九號(※號は異体字

今般征討之役戦死或ハ傷病原因シテ竟ニ死ニ至ル軍人ノ寡婦孤児ハ恩給令ニ因リ扶助料可下賜之処出征以来昼夜連戦死傷之者取調方目下規則実践難相成ニ付右死没報告其處官ニ相達候日ヨリ平定ニ至ル迄特別ヲ以テ寡婦孤兒ノ内ヘ為手當毎月左之通給與スヘ(シ)又父母或ハ幼少之弟妹ノミ有テ之ヲ養育スル親戚モナキ者ハ其次第柄ニ因リ詮議ヲ遂ケ寡婦孤児相当ノ手當ヲ給(シ)軍属之儀モ其原由ニ因リ軍人同様之ヲ給ス尤平定ノ上恩給令扶助可受者右支給之金髙差引不足ノ分ハ其節一時ニ可下渡且死没報告相達候當月迄ノ俸給金額或ハ幾分並ニ宅料共所管ニ於テ留主宅ヘ下渡候向モ有之前件支給金髙ニ比スレハ或ハ過分ニ候共右ハ返納ニ不及候条死没軍人軍属ノ遺族無洩漏速ニ可相達此旨可相達候事

  但本文手当金下賜之儀ハ各処菅ノ府縣廳ヘ某地寄留ノ者ハ寄留地府縣廳ヘ願出府縣廳ヨリ死者旧所管ヘ無遅々可申出事

 明治十年八月一日陸軍中将鳥尾小彌太

大将同相当官   六拾六円

中将同上     五十八円

少将同上     四拾壱円

大佐同上     三十三円

中佐同上     二十八円

少佐同上      二十円

大尉同上      十一円(※正しくは15円)

中尉同上       八円(※正しくは11円)

少尉同上         (※空白だが8円)

少尉試補同上並准士官 七円         

曹長相当官      三円三十銭

軍曹同上       三円

伍長同上       二円五十銭

諸卒仝上       二円三十銭

文官七等以上ハ都テ武官ノ等級ニ准シ八等迄ハ少尉ニ十一等以下ハ軍曹ニ准等外ハ諸卒ニ准(シ)下賜フ

 右ハ八月十九命令

【「征西戰記稿」附録によると、8月7日に戰死手當金として達せられた文書である。( )に正しい数字を入れた。ここでもシを方言でスと記入している。】 

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別紙之山形参軍ヨリ被達タリ

 

昨今之勢形周圍之囲已ニ致完全候然ル処渠レ拠守以来已ニ一周埀(?)々トシ糧食ノ闕乏自然免可ラスト被察候就而ハ何時再度突出之挙動ナスモ側ル可カラサル義ニ候ヘ共此際夜間ハ申迠モ無之昼間ト𧈧モ各哨兵練ニ於テ弥戒嚴可致各位ヨリ其節ヘ夫々至急両警示相成度此段態々申進候也

 九月十日        山縣参軍

 曽我少将殿 

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    告諭書

征討参軍山縣有朋謹テ出征将官諸君ニ白ス嚮ニ都ノ城攻撃ヨリ以来各処ノ行軍一モ意如クナラサルハナ(ク)容易ニ大敵ヲ駆逐(シ)遂ニ長井村ノ合囲ニ至リシハ諸君親シク経歴セラタル処ニテ其此ノ如クナリシ所以ハ一モ諸君ノ指揮ト共ニ各軍ノ動作進止善ク機ニ合シタルノ故ニ因ラサルハナ(シ)此時ニ方テヤ賊勢宭縮復タ為スヘキノ余地ナキモノヽ如シ而シテ一旦忽チ可憂(可愛嶽ノの間違い)変アリ是ヨリシテ諸君一段ノ勉励ニヨリ急行追撃至ラサル所ナ(シ)ト雖モ一タヒ之ヲ三田井ニ逸(シ)再ヒ七ツ山ニ逸(シ)三ヒ鬼神野ニ逸(シ)逸スルモノ三度ニシテ遂渠レヲシテ立息セ(シ)ム此間或ハ風雨地勢ノ之レカ障碍ヲナスモノナキニ兆ラスト雖ノモ然ノモ掻痒ノ歎ニ堪サルモノ少シトセス已ニシテ三好少将海路ヨリ重冨ニ上リ邀撃ス而シテ三好ノ発スルヤ亦風浪ニ沮ラレ行程二日ヲ誤リ終ニ横川ニ至リ渠レト會ス真幸街道ノ狭隘ニ邀フル叓ヲ得ス遂ニ四度逸シテ縦ニ其旧拠ニ入ラシメタリ有朋ヲ以テ之ヲ視ルニ此賊ヲシテ轉遷此極ニ至ラシタレトハ実ニ意想ノ外ニアリ諸君ト雖モ今ヤ幸ニシテ合囲再ヒ成ル是寔ニ諸君拮据収捨ノ然ラシムル処有朋順ク復タ多言スヘカラサルナリ而シテ来ラサルヲ特マス待チヘキヲ特ムハ警戒ノ要領乃チ有朋カ心ニ思フ所未タ輙チ之ヲ包藏シヘカラサルモノアリ顧フ今日ニ於テ我カ以テ恐ルヘキモノ三ツノミ一ニ曰爨ヲ窺テ脱出ス二曰嬰守能拒ク同気ノ相應ヲ待チ三曰我諸軍ノ蜂壓ヲ待チ突然精鋭ヲ一偶ニ潜メ遇慮ニ属スル如キ者アリト雖モ之ヲ恐ルヽハ乃チ警戒慎重ノ在ル所ナリ其レ此ノ如ク成ルノキハ則今日ニ在テ我首トシテ目的トスル所ハ独リ守備ヲ先ニス攻取ヲ後ニシルニ有ルニ非ス耶蓋ス此等ハ諸君モ亦既ニ有朋ノ言亦タ未タ過慮ヲ以テ断スヘカラス諸君其善ク守備ヲ唯是益嚴スルヲ務メヨ望ム所ハ是ノミ而シテ后夫ノ一挙覆巢ニ至テハ当ニ重儀スル所アルヘキナリ有朋謹言

 十年九月十日

【この文書は「征西戰記稿」に9日に公表されている。比べると、端折った部分と表現を変更した部分が見られる。爨はかまどと読む。本来シであるべき文字をスにした個所がここにも散在する。】 

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去ル明治四季廃藩四鎮台被置候節召集候壮兵同八季二月解隊相成其節為賞典同季六月一日ヨリ尚二ヶ年間壱人口下賜候旨陸軍省ヨリ達相成居候処先般臨時(異体字)召集遊擊隊編成現今出征中右賞典米下賜之日限已相済ミ候ヘノモ本季五月廿九日発乙第九百十八号ヲ以テ相達候越モ有之候ニ付賊徒平定各隊解隊散迠之間ハ従前之通壱人口下賜候此旨相達候事

 明治十年七月九日発 征討総督本営

上記文章内にある達文は次の通り。C09082660200軍団本営発翰 明治10年5月1日~10年6月10日(防衛省防衛研究所)0384・5

発乙第九百十八号

別紙之通リ今般相達候上ハ西郷中将ヨリ申越候ニ付為心得此旨相達候事

明治十年五月二十九日

 

征討総督本営

 

会計部印

軍医部印

砲兵部印

輜重部印

裁判所印

 

右御達之事

別紙

先般臨時召募之遊撃隊其他本年五月三十一日限リ軍役年限満期之者ハ徴兵令中徴兵編制并ニ規則其二末項掲示之趣ニ順シ平定迠之間服役延期ト相心得ベシ此旨相達候事

 

賊徒平定ニ付諸兵隊各自本営ニ帰営被仰付候叓

 十年

  九月廿七日     征討総督本営

賊徒猖獗夛ノ月日ヲ経今ヤ之カ悪誅ニ伏シ西陲全ク安シ我

天皇陛下ノ宸襟ヲ慰セラルヽ果シテ何トカナシ是一モ郷等各將校指揮ノ其冝キヲ得タルヨリ下士兵卒ニ至ル迠殊ニ威憤勉励事ニ縦ヒシカ力ニ因ラサルハナシ余深ク之ヲ喜フ茲ニ本営ヲ此地ニ移スニ因テ乃チ郷等ヲ招キ聊カ徴衰ヲ表ス其佐尉官ノ此席ニ列セサル者乃下士兵卒ハ郷等幸ニ郎カ意轉示セヨ

 明治十年九月廿七日

    征討総督二品親王有栖川熾仁

【陲はすいと読み、ほとりの意味。衰は衷の、郷は卿の誤り。これも「征西戰記稿」にあるのとは微妙に異なる。本誌にはこれ以外にも誤字はあるがいちいち指摘しない。9月24日に戦争は平定され、征討総督は細島から27日に鹿児島にやって来た。海陸参軍や諸将官・参謀長・聯隊長・大隊長が磯の旅館に参集した際の演説がこれである。】

 

   鳥尾中将ヨリ御達左ニ

神戸表傳染病酷烈流行ニ付其地ヨリ同処ヘ上陸スヘキ諸兵隊ニテ未タ其地ヲ発セサル分ハ追テ何分之□相達スル迄出帆差留メ候右ハ總督宮ヨリ懸合ニ付此旨相心得其地ノ達方取計ヘキ事

凱旋ニ付追々当地ヘ入湊舩ニハ皆「コレラ」病症アリ舩中并上陸ノ上右病ニ罹ルモノ既ニ三百名余内死亡スルモノ百名余ニ及ヒ尚追々熾ンノ景况ナリ又西京ヲ経テ東海道陸行之諸兵モ同症之者夛人数アリ只今京都府ヨリ報ニ該地ニ於テ去ル一日ヨリ明ケ二日正午迠凱旋ノ各兵病発スルモノ百三十一名内死亡スルモノ拾名余ナリト其地滋賀縣下ヨリ追々報知アリ因テ当地ヘ入湊之舟々ハ追テ相達スル迄其侭留置候様鳥尾中将ヨリ相達セラレ此旨御承知アルヘシ。十月四日布達アリタリ

【これは「征西戰記稿」には記載がない。同書では9月16日に悪疫予防の注意が発せられたとして、種々の対策を各旅団に通達している。数日前、長崎から鹿児島に至る船中でコレラを発症したものが数名あったという。】

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  雑文 賊ノ遺詞

即今朝家茨賊ノ輩(異体字)暴ヲ行ヒ天下ノ人民塗炭ノ苦ヲ受ルヲ目視スルニ忍ヒサルヤ今般西郷先生ヲ始トシテ有志ノ輩登京闕下ニ奏問スルトノ叓件アリ然ルニ当今各縣挙動ノ折柄萬一賊黨ニ疑惑セラレ狙撃ニ逢ヒ其意ヲ達スルヲ得サレハ答戦セスンハアルヘカラス各其備ヲナシ携銃登京セリ已ニ西郷先生ノ深意ヲ明察シ坐食安眠凢輩(異体字)ノ境界ニ陥ルヲ悪ミ有志ノ輩ニ随行シ一身万力ヲ尽サンカ為メ出発シ共ニ砲戦ニ及ハル生テ再ヒ帰ル可カラス我志ヲ続キ有志ノ輩ニ交リ武文ニ勉励生長ノ后ハ西郷先生ヲ始メ有志輩ノ跡ヲフミ国家ニ尽力ナカリセハ禽獸ニ等ク我泉下ニ有テ咲怒ス仍テ遺詞熟読立志希望候也

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                                                                                                                     田代犬彦

十三年                                                        

                                                     田代清廣

                                                     竹廻勇助

                                                        四十年

                                                     田代勇吉

                                                        二十一年  

山原末良

   三十一年                                                         

【すでに戦争が始まった段階で書かれたものらしく、薩軍兵士が携帯していた遺品であろう。名前の部分を下段に原文のように記入できないままにした。】

 

十年九月廿四日鹿児島城山岩嵜ヘ大進撃之節穴中ニ殪ルヽ死者左ニ揚ク

西郷隆盛旧陸軍大将  桐野利秋同少将

逸見十良太同大尉   別府晋介同少佐

村田新八       池ノ上四郎

高城十次       蒲生彦四郎

野田市助      小倉壮九郎

濱田正八       西郷休右エ門

松田幸内       石塚長左エ門

岩本平八       平野正助

桂 久武       岩切喜次良

宅間伴助       種ヶ島城助

新納軍八

 計二十一名皆島津家ノ墓地浄光明寺ヘ埋ム(是ハ賊魁以下小隊長マテナリ)

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拙者共儀先般御暇之上非役ニテ帰縣致候處今般政府江尋問之筋有之不日當地發程候間為御會合此段御届致候尤旧兵隊之者共随而夛数出立致候間人民動揺不致様一層御保護及際護為御依願候也 

明治十年二月(陸軍)西郷(大将)隆盛

      桐(少将)野利秋 

      篠(同)原国幹

 縣令大山綱良殿

【大山は西郷等の文を基に各府県・鎮台に向け2月13日付の通知書を作成し、2月14日に複数の使者(専使)を派遣した。熊本鎮台に宛ては15日付となっており、「拙者儀今般政府ヱ尋問ノ廉有之・・・陸軍大將西郷隆盛」というよく知られた文言である。2名の専使が19日に鎮台に到着し、樺山資紀中佐が応接し次のように述べ鹿児島に追い返している。「兵器ヲ携ヘ國憲ヲ犯シ強テ城下ヲ通行セント欲スルモノハ悉ク兵力ヲ以テ鎭壓ス」。】

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昨廿九日午前第四時斥候トシテ當隊第一中隊ノ内一分隊ヲ花倉山嶺ニ差遣シ此援兵及ヒ連絡ノ為メ第一中隊付属ノ部隊ヲ鳥越阪内ノ賊塁近傍江斥候トシテ差遣シ同中隊残余ノ部隊モ連絡ノ為メ亦之ニ次セシム其第一中隊ハ斥候兵ヲ花倉外レヨリ左ヘ坂路ヲ□シリ黎明ニ到リテ□ニ嶺上ヘ達スルニ及ヒ賊ノ胸壁進路ヲ横断シ進ム能ワス潜ニ之ヲ覗フニ

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哨兵三四名塁下ニ在リテ私語スルヲ聞得タリ依而直ニ突入シテ其哨兵ヲ斃シ胸壁ヲ越ヘ進入シ賊塁後ノ巨塁ニ依テ防禦ス進テ之ヲ撃チ其家屋ヲ焚焼ス賊徒十余名四方ニ散シテ尚砲発シ且ツ前方ノ村落ヨリモ烈敷射聲ヲ為スユヘ不得止益進テ火ヲ四方ニ放ツテ直ニ殺傷ス連絡兵之ニ尾シ來リ共々賊ヲ追ツテ左ニ正面変換シ数個ノ賊拠并ニ家屋五十戸余

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米麦五百俵斗焼夷ス遂ニ進テ島津邸後ノ山上ニ達ス谷ヲ隔テヽ相戦フ此時ニ至ル迠目前賊斃スヿ拾弐名我死傷拾名斗也午前九時頃ニ至リテ賊右方ノ片翼ヨリ迂回シ來ルヲ以テ兵ヲ分チ之レニ對戦ス然ルニ弾丸殆ト放ツ尽スニ及フヲ以テ不得止周囲ノ地理ヲ探偵シ畢テ左翼ヨリ海岸島津邸後ニ下ル徐々ニ退却シ午前十時本営ニ帰ル第三中隊之斥候兵ハ

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第四時ゟ鳥越阪正面ヘ向ヒ右翼上ノ賊塁ヲ覗フニ賊射撃スルヲ以テ不得止進テ胸壁内ニ突入シ賊三名ヲ斃シ示余ノ分隊之レニ援スル為メ左方ノ山塁ヲ攻拔ス依テ地理ヲ覗フ際頓ニ賊勢増加ス死傷夛ヲ以テ午前七時過繰揚ヲ命シ帰営致シ候此段御届申候也

 明治十年五月卅日 遊撃第二大隊長

 第四旅團司令長官殿

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追テ第一中隊ノ退路賊遮断セラルヽモ難斗ニ付援兵トシテ第二中隊ノ内一小隊花倉地方ヘ向ケ差出候處既ニ第一中隊引揚候際ニ付其侭途上ヨリ帰隊致候此段申添候也

【この部分は第二大隊長大沼渉少佐が書いたものの写しである。第四旅団は熊本市周辺にいたが、4月29日鹿児島進入を命ぜられるとともに新たな編入部隊を加えた。その際、遊撃第二大隊(890人)は第三大隊と改称している。5月2日熊本城の西方の百貫石港を出港し、4日鹿児島に到着して別働第一旅団の守線を譲り受けた。その地域は城山の岩崎谷から琉球館、多賀山、鳥越を経て海に達するものだった。花倉は集成館の東950mくらいの沿岸の集落で、背後には比高差160mほどの崖上には薩軍が守っていたらしい。それまで第四旅団は30日間位戦いがないので、大沼大隊長はしばしば攻撃を願い出ていたが許されなかった。しかし5月29日、二個中隊(第一中隊古荘大尉・第二中隊中島大尉)が「私ニ花倉磯山ノ賊壘ヲ襲擊シ」67人の死傷者を出して敗走した、と戦記稿巻三十八鹿児島戰記十八に出てくるのがこの日の記録である。】

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六月廿二日午前第八時四十分吉野地方ニ当リ火烟立チ揚候故豫テ期スル所ノ時刻モ有之候間第四中隊ヲ先鋒トシテ鳥越坂前面ノ山嶺ニ在ル賊塁ニ向ヒ進擊セシメ直ニ銃険ヲ用ヒ第一ノ胸壁ヲ乗取リ進テ左方之巨塁ヲ攻擊致候得共地形險要ニシテ進退自在ナラス殊ニ前方右側ノ賊塁ヨリ烈敷放発ニ及ヒ候故死傷不少依而第二中隊ヲ以テ援兵トシテ指遣候處暫ク相支持候而背后ノ官軍ヲ見合可申方可然旨品川参謀長ヨリ談ニ付両中隊ヲ地理ニ應ス配布ス前面右側及ヒ左側ニ對ス相持シ居候内午后第二時半過キ進(※進?)ニ集

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成館上ノ山ニ当リ迂回兵ヨリ合図ノ信号有之候間直ニ吶喊突入シテ遂ニ巨塁ヲ拔キ一部ノ兵ヲ以テ背後ノ官軍ニ連絡セシム他兵ハ賊ニ尾シテ二本松砲塁ノ背後ニ出急劇突進候處已ニ退走ノ后故前方ニ走ル賊ヲ射撃セシメ該處守備ノ為メ第二中隊ヲ止メ置候且ツ鳥越坂上砲台ニ立帰リ長官ノ命ヲ乞雀ノ宮ニ越キ品川参謀長ト協議ノ上防禦線ヲ集成館上

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ヨリ瀧ノ上山迠相設守備間致候此段御届候也

 明治十年六月廿六日

【これも大隊長の書いたものであろうか。この時点で鹿児島県内にいた官軍は、熊本県南部の水俣から鹿児島県北西部の大口から進入してきた別働第三旅団(6月20日伊佐市大口の高熊山を奪い、21日西方の阿久根市と南西のさつま町宮之城まで分かれて進んでいた)と人吉から大口方面に進軍している別働第二旅団などの北部進行中の官軍、これとは別に鹿児島市周辺の筆者らの第四旅団や別働第一旅団、別働三旅団だった。第四旅団は大口方面の官軍と連絡したかったのだが、ちょうど通路上の鹿児島市北部の雀宮(集成館の北北西約700m付近)・鳥越(集成館の西側に鳥越トンネルがある)には薩軍が厳重に守っていた。鹿児島市方面から攻撃するには高所に向かい進む必要があり戦いには不利だった。そこで官軍は鹿児島湾北部の重富に秘かに上陸し、背後からも攻撃することにした。この時、第四旅団の一部は同行せずに南から攻撃配置についていた。北からの上陸部隊は上陸時に気づかれて攻撃されたが、薩軍の人数が少なかったので上陸できた。薩軍を追い払って南下し、帯迫、雀宮まで占領し、ここで南からの第四旅団部隊(本書の部隊等)と合流している。戦記稿によると「背後ノ官軍ニ連絡」できたのは午後4時乃至同三十分だった。】

六月廿三日午前第八時過キ鳥越坂前面小山(ムスヒ山ト云フ)下段本部ヘ鳥越前面巨塁及集成館山守備第三中隊ヨリ賊徒大擧襲来ノ旨申來候而厳重守備申付直ニ景况探偵ノ為メ正面台塲ヨリ松山下弧脇迠相越候處已ニ雀ノ宮出張第二大隊第一中隊兵散走シ來リ當隊ヨリ差出有之松山下守兵ト共ニ退却候間厳敷叱咤シ之ヲ止乄此處ニ於テ守備為致候中豈計ヤ已ニ賊松山ヨリ小山ノ間ニ充備シ亦鳥越前面山巨塁ノ下并雀ノ宮本道等ヨリ進来リ忽チ四面攻囲ヲ受ケ進退相究候故守備全隊ノ指揮致候無之依而部下ニ在ル者三十名

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計ニ必死ヲ示ス四方当リ凢三時間程射戦致居候中賊ハ時々援兵ヲ以テ突入セントスル景况有此間當隊ヨリ相備□瀧ノ上山鳥越前面巨壘ノ山集成館上ノ山等已ニ陥落ト見ヘ更ニ對戦之模様無之僅ニ正面臺場脇ノ山ニ據リ一二名ノ兵松山上下ヲ狙擊ヲナシ相助ケシナ

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リ然ル処賊徒松山上ヨリ木石ヲ擲下シ併テ狙擊ヲナシ之カ為メニ部下ノ者十四名目前死ヲ受ケ賊勢ハ益相加候間不得止部兵ニ命シ正面台場脇道ニ向ヒ銃鎗ヲ以テ賊囲ヲ突破リ一ト先小山下迠退却候處已ニ諸山守衛ノ兵ハ鳥越守線内ヘ引揚ケ賊兵悉ク交換致シ再ヒ守線取返シ事能ハス無是非正午十二時頃鳥越坂守線ヘ残兵取纏メ引揚申候

此段御届申候也

十 年 六 月 廿 四 日

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【これも大隊長だろうか。23日、22日・23日に官軍の相手となったのは、薩軍は相良長良率いる行進隊と神宮司助左衛門の奇兵隊二個中隊だった。相良は後日の可愛岳付近の戦いで負傷して谷に転落し、鹿児島に帰り着いた時には城山に入ることができず降伏したので生き残り、戦後に戦歴に関する上申書や丁丑ノ夢などの記録を残した人である。神宮司も生存し上申書を残している。鳥越周辺の台場の状況や薩軍が木や石を投げ落としたなどを記す本書は、他書よりも詳しい。23日、薩軍は前日に勝利した官軍の防禦体制が出来上がる前に逆襲することにし、結局、官軍は占領地を全て放棄している。】

六月廿六日午前第五時鳥越坂ヨリ進軍同六時半雀ノ宮ニ至リ直ニ賊徒ヨリ放擊則チ之ニ應ス相戦同十二時頃之レヲ破ル午后第四時防禦線ヲ設ケ守備相定メ申候此段不取敢御届候也

十 年 六 月 廿 七 日

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【前と同じ。末尾に年月日を記したものは大隊長か誰かの報告の写しだろう。26日、第四旅団は23日に奪えなかった鳥越と雀宮を占領した。】

六月廿九日重富表進軍ニ付午前第四時雀ノ宮発程同九時重冨ヘ至ル直ニ東餅田村ニ偵察トシテ二中隊差遣(出)シ然ルニ同村賊守兵ヨリ不意ニ放発ス則チ之ニ應ス對戦十二時過賊ヲ春花西餅田村ヘ追フ午后地理探偵ヲ為ス終リ重冨ニ守線ヲ設ケ相守リ申候此段御届候也

十 年 六 月 三 十 日(※誤字を見え消しし、訂正している個所はPCでは正しく表示できない。)

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六月三十日午前第四時進軍西餅田ヲ取リ別府川ヲ隔テヽ對戦川岸ニ守線ヲ設ケ守備致候也

十 年 七 月 一 日

【鹿児島湾北部の地名を荒っぽく説明する。現在の行政区域は西半分が姶良市、東半分が霧島市である。戦記に出てくる細かな地名を説明する。鹿児島市から続くカルデラ壁が途切れて平地が始まるところが重富姶良市)、その北東が姶良、その東で湾の最奥中央が加治木(姶良市)で中心街から北側に登る坂が龍門司坂である。】

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【7月1日、第四旅団は別府川の西岸まで達した。「征西戰記稿」によると2日、「賊ノ行進隊第十番中隊來リ降ル是ノ隊ハ帖佐郷ノ者ニシテ賊ノ爲メ久ク肥薩諸地ニ戰ヒ今ハ我軍ト別府川ヲ隔テ帖佐麓米山近傍ヲ守ル是夜十時其士官三名我遊擊第三大隊ノ哨線ニ來リ降ヲ乞フ大隊長之ヲ本營ニ致ス乃チ二人ヲ放チ衆ヲ率ヰ來ラシム〇三日午前一時其中隊長黑江豐彦以下二百ニ十六名悉ク降ル」降伏した部隊の出身地は別府川の西岸であり、地元で降伏したことになる。地図の米山は大体この辺り。地理院地図には載っていない。翌日記事に出てくる十日町は図の右翼軍と重なる位置にある。地図はカシミール3D使用。

七月三日午前第四時十日町ヲ発ス別府川ヲ渉リ進軍候處賊已ニ加治木町ニ放火シ退ク次テ日木山右端ゟ龍門司坂ニ連絡ヲ取リ守備相設ケ申候也

十 年 七 月 四 日

【6月29日以来、鹿児島湾北岸地域を西から東へ進撃中である。加治木町姶良市)の西側に別府川が南流し湾に注ぐ。姶良市の東端に日木山がある。日木山は山というよりも丘陵地帯であり、縁辺部は浸食されて山のようになっている。2万9千年前の姶良カルデラ形成時の堆積地形である。】

 

七月五日午前第四時進軍日木山越ニ向ヒ第一中隊ヲ以テ正面本路ヲ突キ第二中隊ヲ右山嶺上ニ備ヘ第四中隊ヲ海岸山越ニ迂回セシム其第壱中隊沿道探索午后第五時山麓ニ於テ開戦次テ山嶺ノ兵賊背ニ出ル賊狼狽伍ヲ乱ス走ル退テ小田越ニ至ル同十時過同處進軍海岸通リ退却ス賊ヲ第一大隊ノ兵ト倶ニ尾擊ス住吉村ニ至ル新川ヲ隔テ對戦午后七時過賊退ク同夜此地ニ守線ヲ設ケ厳重守備致候此段御届申候也

十 年 七 月 六 日 

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【日木山の丘陵地帯を南東に下ると小田があり、沿岸部の集落が隼人町住吉(霧島市)でその東側に新川が南北に流れる。彼らは沿岸平地を通らず、山地というか丘陵地帯を進撃した。】

 

討薩戰誌 3

四月一日拂暁原倉ノ官軍大舉シテ吉次峠ニ向フ賊険據リ防禦スルト𧈧ノモ我軍密ニ横山平山ヨリ銃鎗ヲ以テ半コヲ山ノ賊塁ヲ拔ク是ニ由テ吉次峠ノ賊遂ニ守ルヿ能ハスシテ潰奔ス我軍一ハ賊北ルヲ追木留ヲ衝キ一ハ行賊營ヲ焼テ三ノ嶺ノ頂上ニ坂上リ賊第一第二ノ峯ヲ棄テ第三ノ峯頭ヲ固守シテ防戦ス

【官軍は横平山から半コヲ山つまり半高山に攻め入って奪い、続いて尾根続きの低い部分にある吉次峠を攻め、高所からの攻撃に耐えきれなかった薩軍は南側の三ノ岳に退いた。】

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(※半高山を南側の吉次峠から見た風景。左遠景に木の葉山が見える。(「玉東町西南戦争遺跡調査総合報告書」宮本千恵子編から。次も同じ。)

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(※二俣古閑官軍砲台跡出土遺物:筒状の物は大砲の点火装置の摩擦管。輪っかの付いたのは摩擦管に差し込まれた部品で、これに紐を付けて離れた位置から引っ張り砲身内部の火薬に点火、爆発させる。点火後は摩擦管は空中に飛び出す。)

二日三日四日休戰

 

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(※上図は三の岳にある台場跡分布図。図をうまく取り込めないが。黒丸1は官軍、他は薩軍の台場跡。「三の岳の戦跡」古財誠也『西南戦争之記録』第3号から。次も同じ。)f:id:goldenempire:20210314091433j:plain(※三ノ岳の官軍台場跡1。南側の三の岳頂上側を向いて土塁部分があり、内側はくぼむ。背後の小さな削られたくぼ地は休憩所だろう。当時の記録に円塁という言葉が出てくるが、この台場跡のようなものだろう。円形と思うのは間違い。)

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(※同じく三の岳。三つある峯のうち、北部にある。吉次峠方向を向いて造られた薩軍の台場跡3~8。)

五日末明山鹿口ノ兵鳥栖ニ向ヒ賊ノ左翼ヨリ進佐野村田島村ノ賊塁拔キ鳥栖ノ賊ノ本營ニ乱入シ小銃五十挺彈薬貳万発ヲ奪ヒ戰ヒ已ニ八分ノ勝利ナルニ及テ賊石川村方ヨリ紆回シテ吾右翼ノ側面ヲ攻撃スルニ由リ鳥栖ヲ守リ難ク兵ヲ佐野田原ニ退ク

鳥栖には国指定の石器製作跡があり、中央に円墳2基がある。古墳の頂上一帯に薩軍の台場群が残る。縄文時代の石器石材の産地で報告書に西南戦争の名が登場しないところをみると、西南戦争を認識せずに史跡にしたようだ。植木町の古財誠也さんは「とんのす」と言っていた。】

六日暁霧ニ乗シテ各隊ヲ配布シ鯨波ト共ニ髙瀬口正面ノ荻迫村ヲ攻撃シ午後ニ至リ巡査四十名白刃ヲ提ケ賊塁ニ乱入シ殺傷甚タ夛ク胸壁両處ヲ拔ク然レノモ地形不利ニシテ賊紆回ヲ(?)ケ少シク兵ヲ退ク

【荻迫では県道建設の事前調査でこの頃官軍が籠って射撃した跡が発掘されている(山頭遺跡)。道路部分の戦跡はその後工事で深く削られて残ってないが。そこは丘陵地帯にある自然のくぼ地(かつては水が流れて川のように低くなったのだろうが)を利用しており、その幅は10㍍前後・深さ1㍍位であり周辺と共に畑になっていた。発掘場所の土層断面を見ると、くぼ地の底には厚さ50㎝位の耕作土が堆積し、その上面に小銃の弾薬や薬莢が多数分布し、その上に現在に至る表土が堆積していた。これはくぼ地が畑として永年使われた後、たまたま戦闘に好都合だから兵士が体を隠して射撃した痕跡だろう。遺物群の下に50㎝も土層が堆積しているのは、このくぼ地が西南戦争時に掘られたのではないことを示している。軍事専門家がこれを工兵隊がすべて造ったと理解し、公表しているのには驚いたが。このくぼ地には所々土俵でも積んで土塁状にしたらしく(土塁はその後の農作業の邪魔になるから撤去されているが)、その内側に薬莢が帯状に密集して出土した。推定土塁の片脇には遺物空白域があり、ここは出撃や堀畑内の通路として利用したと考える。f:id:goldenempire:20210314115751j:plain

七日山鹿口ノ官軍鳥ノ栖ヲ攻撃シ幾ント鳥ノ栖村ニ迫ル

 

八日天色猶暗黒ナルニ乗シテ荻迫口邉田野口進撃シ木留口ハ三ノ嶽ノ半服ヨリ邉田野村ノ右ノ山ニ據ル處ノ賊ヲ襲フ遂ニ賊ノ胸壁ヲ然レノモ賊亦来テ之ヲ復シ吾軍少シク退テ之ニ對シ激戰ス荻迫口モ胸壁二ヶ所ヲ取リ大砲ヲ以テ荻迫村ノ人家数戸ヲ焼ク今朝ヨリ熊本城兵破烈弾丸ヲ以テ城北ノ数所ヲ焼キ焰煙天ニ漲リ砲声終日絶ズ熊本ノ近況ハ賊髙麗門外ニアル寺院ノ石塔ヲ以テ石塘口ニテ壷井井芹両河ノ合流ヲ塞キ留メ大水ヲ以テ牧嵜田畑寺原田畑ヲ侵シ熊本ヨリ西方ニ及ヒ東北ノ通路ヲ絶チ城兵ボ突出スルヲ防キ城ヲ囲ムノ兵ヲ减シテ新兵ヲ南北ニ出シテ一ハ八代口ニ上陸スル官軍ニ当ラシメ一ハ植木口ヲ應援セシメ而乄川尻ノ病院ヲ御船ニ移シ出町縣ヱモ始メハ賊ニ与スル者凡貳千余人ナリシカ元知事細川護久ケヨリ説踰ノ書翰来ルヲ見テ非ヲ改ムルモノ少ナカラス或ハ勢ヲ勢察シテ退キ或ハ戰死シテ自今ニ至リテハ其数僅ニ七八百ニ過ギズ旧知事ケモ縣士ノ頻ニ不義ニ陷ル者アルヲ憂ヒ先日再ヒ人ヲ熊本ニ遣シテ大義名分ヲ正シテ懇ニ説踰セシメタルニヨリ過ヲ悔ヒ正皈スル者アリト𧈧ノモ新ニ賊ニ與スルモノ更ニ壱人モ無ト云又縣下ノ人民賊ノ為ニ大ニ憾害ヲ蒙リ怨嗟ノ声絶ヘス日々王師ノ至ヲ渇望スル勢ナリ

【ここまでの記述は熊本城を目指して南下したいわゆる正面軍に関する記述である。討薩戰誌は主に戦況を記しており、原文筆者の個人状況に関する記述がほとんど見られないのが特徴である。川をせき止めて熊本城の周囲を湖のようにした件は「征西戰記稿」と「明治十年戰争日記」(小川又次肉筆・高橋蔵)の3月19日に登場し、「薩南血涙史」では3月26日のこととしている。小川は「賊花岡山下ノ河流ヲ□(※この字は後刻の添付写真参照)ス爲メニ嶌﨑及野砲営前面ノ田畑流水溢レテ湖水ノ如シ」とある。「西南の役見聞記(吉田如雪正固遺稿)」では3月27日の記事に「昨日より石塘下祇園ノ際を磧を置きて小川を塞ぐ」とあり、血涙史と一致する。もう一つ、「一巡査の西南戦争 征西従軍日誌」では3月29日にこれに触れている。以上のどれも本文のように「髙麗門外ニアル寺院ノ石塔」を利用したことは記さない。】

四月六日髙瀬発翌七日宇土本營着其以来同月十三日迠本地景况四月三日賊魁別府新助逸見十郎太等賊兵凡一千五百人ヲ卒ヒテ人吉ヨリ大口ニ出テ八代ニ向フテ両道並ニ進ムカン為メ曩ニ鹿児島ニ至リ徴募スル所ト云フ(逸見十郎太別府新助ノ兵ハ我軍後ヲ衝)偶八代ヲ護スルノ官軍一中隊坂本ニ至ル次スルヲ聞キ突然衝キ来ルニヨリ吾並衆寡敵セス且地利不便ナルヲ以テ一旦小川ニ退キ宮地ニ屯在スル処ノ一中隊及ヒ他ノ二中隊及ヒ他二中隊警ヲ聞テ趣キ援フ故ニ賊一時披排スト𧈧ノモ此夜再ヒ来リ迫リ官軍頗ル苦戰

【此の日の記録には原文筆者の動向が記載されている。4月6日に玉名市高瀬を発って翌日宇土の官軍本営に到着。】

仝七日ニ至リ賊尚ホ進テ止マス八代甚タ危シ之ニ由テ我兵賊右翼ニ紆回シ大ニ之ヲ側擊ス是ヨリ先キ八代ノ士族ヲ募リテ該地ノ警備ニ供ス此日台兵ヲ合シテ奮闘賊ヲ仆スヿ多シ賊遂ニ敗レテ大口ヲ指シテ走ル此日川尻口ノ賊川尻ヲ渡リテ六彌太ヲ襲フ我憤激シテ之ヲ敗ル又賊ノ左軍河堤ヲ潜回シ雁回山ニ登リ我中軍ヲ襲ハントス然レノモ豫備スル処ノ官軍山上ヨリ擊ヲ之ヲ走ス

【六彌太は熊本市富合町の緑川支流の浜戸川を渡る場所にあり六彌太渡とも呼ばれた。南側の廻江から杉島に渡る地点である。六彌太から南方の雁回山、別名は木原山頂上までは3.5㎞程である。】

仝八日熊中城糧食既ニ乏シク且援兵ノ形狀ヲ詳カニセサルヲ以テ奥少佐一大隊ヲ師ヒテ圍ヲ衝テ間道ヨリ宇土ニ出ス城ヲ囲ムノ賊其不意ヲ襲ハレ狼狽防クニ遑アラス城兵死スル者僅ニ二名ナリト因テ城中ノ確情ヲ得タリ

【熊中城糧食既ニ乏シは熊城中糧食ニ乏シの誤記だろう。】

十三日惣軍進撃右軍ノ先軍ハ邉塲及ヒ吉田ヨリ河ヲ渉リ進撃河堤之賊ヲ扣全軍尾撃直ニ御船ヲ衝ク賊支ルヿ能ハズ火ヲ放テ走ル右軍遂ニ御船及ヒ犬塚山ヲ取リ哨兵ヲ嚴ニシテ之ヲ衛ル賊二名屠腹火中ニ投シテ死ス面白焼爛スルヲ以テ其姓名ヲ得ズトモ必賊魁ノ内ナランカト云夜ニ及ンテ賊来テ我軍ヲ襲フ我兵撃テ之ヲ走ラス中軍ハ六彌太ゟ十二斤アルムストロング砲廿拇臼砲及ヒ數門ヲ以テ河尻町ヲ砲撃ス賊大ニ苦ム左軍ハ大曲ゟ河ヲ渉リ進ンス新川ニ至ル賊豫メ河堤ニ據テ土塁ヲ築キ我兵ヲ狙撃ス我兵奮闘数回ニ及ノモ地利大ニ不便ナルヲ以テ向岸ニ達スルヿ能ハズ由テ其夜戰闘線ニ營ス

【北上する衝背軍の記事である。犬塚山は「西南戦争の流れを変えた緑川・御船の戦い」(吉本昭三郎)挿図で緑川と御船川の合流点の内側、南東から北西に走る道路の東側とされている。地理院地図では万ヶ瀬という集落があるが、この付近は標高16m前後しかなく、山といえる状態ではないが位置比定は正しいと思う。4月13日、薩軍の三番大隊長だった永山弥一郎は御船で官軍の進撃を防御できず、農家を買い取って家に火をつけて自殺した。大小荷駄の税所佐一郎も行動を共にしている。死体の記録は他には知らない。六彌太ゟ十二斤のゟはヨリと読む。】

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(※犬塚山の位置)

十四日左軍ハ小舟數十ヲ住吉ノ津ニ浮ヘ海路ヨリ二丁ヲ襲フ形狀ヲナシ全軍直ニ中央ヨリ新川ヲ渡リテ進ム賊支フルヿ能ハスシテ去ル之ニ由テ我軍終ニ川尻町ヲ略取ス賊軍益狼狽シ我軍奮戰殆ント無人ノ境ヲ行ガ如シ午后三時山川中佐一中隊ヲ卒ヒテ遂ニ熊本城ニ達ス右軍ノ先軍モ亦江津川ノ堤ヲ遡リ行々賊兵ヲ敗リ水前寺口ヨリ遂ニ城中ニ達ス

【「玉名歴史」92号に載せた別働第四旅団所属岩尾淳正の従軍日記に住吉から二丁を襲おうとした件が登場する。二丁を襲うふりをした偽計ではなく、多数の小舟を集めて進軍したが川の中ほどまで来たとき対岸から銃撃され小舟を漕ぐ民間人が負傷し、その他の者が怖じ気づいて引き返したと書いている。もともと岩尾らの部隊は長崎から宇土半島北岸に上陸しここで初めて戦闘に加わっており、別働第四旅団とはいうものの八代から北上したほかの構成部隊とは違う。】

十五日總軍熊本ニ入ル是ヨリ先キ城下四民ノ邸宅兵燹ニ罹リ畧盡クルヲ以テ大兵ヲ合スルノ地ナク本營ヲ川尻ニ置ク十五日植木口ノ賊モ亦悉ク木山ヲ指シテ走ル該道ノ官軍進撃遂ニ熊本城ニ達ス城中賊ノ圍ヲ受シヨリ五十有五日ニシテ圍始メテ解ク賊軍ハ悉ク木山ヲ經テ矢部ニ遁ルト云フ是ヨリ先キ八代已ニ無事ニナルヲ以テ守兵残シテ全軍川尻口ニ向フ此夜八代口甚タ苦戰熊本城連絡既ニナルヲ以テ直ニ数隊ヲ派シテ八代ヲ援フ未タ其勝敗ノ報ヲ得ズト𧈧ノモ熊本ノ賊敗走スルニ依リ該地ノ賊モ自ラ走ル■シ

球磨川下流域(猫谷・川谷・宮地・古麓・今泉山・遥拝山・龍ヶ峯など八代市街の東側の山地)では薩軍が退かず、官軍は交代部隊を派遣する余裕ができたものの弾薬補給ができなかった。】

四月九日荻迫口植木口休戰午後辺田野ノ山上及ヒ高林ノ賊塁ヲ進擊シ大砲ヲ以テ林中ノ人家ヲ放火シ 木台塲ト名クル所ノ胸壁ヲ拔ク然ノモ之ヲ守ルノ道ナク兵ヲ始メノ線ニ退ク同夜山鹿口ノ官軍隈府ノ賊ヲ破リ之ヲ取ル此戰ヤ賊ノ敗ルノミ先タチ密ニ三軍ヲ紆回セシメ伏兵ヲ設ケテ賊兵隈府ノ後ロナル一ノ石橋ヲ見テ之ヲ狙擊ス故ニ賊ノ横死山ノ如ク流血川ヲナス云

【一字空白がある。此の日、山鹿市の南東にある菊池市市街地の隈府から薩軍が撤退した。】

十日終日大風雨休戰滴水村ノ前面ニ柿木台塲ト名タル一ノ胸壁アリ賊ト相距ルヿ五間或ハ十間ニ過ス其距離ノ接近ナル胸壁ヲ隔テ互ニ談話スベシ賊ノ守兵甚タ多カラズシテ之ヲ拔ク手ヲ反スヨリ易シト𧈧ノモ其後ロニ又一ノ堅壁アリ之ヲ取トモ守リ難キヲ以テ敢テ之ヲ攻ス只我胸壁ヲ髙クシ賊ヲ眼下ニ見下シテ其頭上ヨリ狙撃スルニ由リ賊亦急ニ土俵ヲ積ミ上ケ我高塁ニ對ス然ノモ官軍再ヒ土俵ヲ築キ賊遂ニ守ヲ棄テ去ル

【第一旅団の10日の戦記に「荻迫村ニ一ノ柿樹アリ初メ賊之ニ拠ル後チ官軍之ヲ奪フ賊中之ヲ呼テ柿ノ木台塲ト云フ最モ著名トス賊ノ之ニ拠ルヤ固フシテ拔ケス官軍對壕ヲ穿チ進ム彼我ノ距離二十米突ニ過キス我工兵作業中僅カニ頭首ヲ顕ハス者アラハ皆賊ノ狙擊スル所トナル故ニ死傷夛クシテ甚タ苦シム又昼夜彼我舌戰アリ」(C09083521600第一旅團戦闘景況戦闘日誌(防衛省防衛研究所)0651)。荻迫の山頭戦跡で幅10m強の長い塹壕を、官軍が激戦の最中に造ったというのは如何に現実離れしているかが理解できよう。

十一日休戰

 

十二日映晴未明鳥栖ヲ進撃ス一軍ハ上生(アブ)古閑ノ方ヨリ進テ鳥栖ヲ衝キ一軍ハ小野口ヨリ進テ石川山ヲ取ントス然ノモ賊ノ防戰劇シクシテ午前九時頃兵ヲ退ク此日賊ノ擊ツ所ノ小銃二発シ一発ハ空砲ナリト云フ荻迫口ハ昨夜賊陳ニ進撃ノ気アルヲ察シ我軍警備ヲ嚴ニシ竢ツ處ニ未明ニ至リ賊軍喇叭ヲ吹キ金鼓ヲ叩キ一声打方ヲナシ我胸壁ニ迫ル我軍忽チ之ニ應シ仝シク進軍ノ喇叭ヲ鳴シ郡銃雨ノ如ク発ス是故ニ賊辟易シテ進撃ヲ止ル

 

十三日休戦夜ニ入テ西山ノ賊川尻口ノ敗ヲキゝ纔カニ哨兵ヲ留メテ退散ス此日熊本ノ方ニ当リ大小砲声終日絶ヱス輜重(此日)ヲ(官)取(軍)纏(戯)メ(大)居(砲)タル(四)故(五)我(発)大砲(ヲ発)ノ音(シ鯨)ヲキ(波ノ)ゝ(声)之(ヲ)ヲ(揚)進軍(ケ此)ノ(時)合圖(賊明)ト(日)疑(兵)イ(ヲ)非常(引揚)ニ(ン)狼狽(爲ニ)シタル由シ

【西山とは熊本城から見て西方にある山だろう。】

十五日午后鳥ノ栖植木木留諸口賊皆木山方エ退兵ス我軍三道並ヒ進ミ追撃スト𧈧ノモ及ハス僅カノ賊兵ト境ノ捨及ヒ暮ノ坂ニ相戰ヒ忽チ之ヲ破リ先軍同夜熊本ニ入ル

【14日遅くか15日に北部地域にいた薩軍に、八代から北上した衝背軍が熊本城に入ったという報知がもたらされ、薩軍は一斉に撤退し始めた。午後一時植木・荻迫・鐙田・木留・万楽寺・辺田野から三ノ岳・大多尾越(三の岳のすぐ南側の峠)に至る薩軍の陣地から黒煙が天に漲り、各地で官軍が斥候を出して偵察したところ薩軍の姿が消えていたので官軍は一斉に前進し始めた。】

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十六日惣軍進テ熊本城ニ入ル又二隊ノ官軍両道ヨリ大津ニ迫ル一軍ハ杉水ヲ過キ少シク進ム所ニ賊我右翼ヨリ横矢ヲ入レ其機會ニ乗シ左翼ヨリ切リ入タルニヨリ官軍頗ル苦戰ニテ初ノ線ニ退ク又一軍モ大津ヲ指テ進ム所ニ賊両方ノ山上ヨリ夾擊シタルカ故ニ支ヱ難ク同シ初線ニ退ク

【杉水は菊池市隈府と大津町の中間。隈府にいた野村忍介率いる薩軍が移動してきていた。】

十七日十八日休戰

【4月20日に城東会戦と呼ばれる戦闘が東は大津町、西は御船までの広い地域で行われた。これは両軍が初めて全兵力で衝突した戦いであり、次に同様の戦いがあったのは8月15日の宮崎県延岡市和田越一帯の戦いだった。討薩戰誌は城東会戦で終わる。】

 于時明治十年十一月六日(※時に明治・・・)

 晩暮ニ及ンテ寫之畢(※之れを写しおわんぬ)

 

        北村正人印寫之

北村正人氏と同名の人が一件だけアジ歴で検索出来た(「明治36年 叙位裁可書 叙位

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巻十」A10110129600)。それは内閣総理大臣桂太郎が「陸軍歩兵特務曹長勲八等大西今太郎以下十五名叙位ノ件」を奏上した明治36年の文書である。これにより当時彼が警視庁警部だったことが分かる。添付された履歴書(冒頭を掲載した)によると、北村正人氏の出身地は熊本県下益城郡下郷村であり、明治11年1月に四等巡査に採用されている。前年の西南戦争中は警察に勤務してなかった。しかし、明治13年には「鹿児島賊徒征討之際盡力候ニ付為其賞金貳圓下賜候事」とあるように戦争中は官軍側に立って何らかの尽力をしたのである。今のところ彼が写した元の史料を誰が記述したのかはわからない。

そもそも籠城日誌と討薩戰誌を作成したのが同一人物かどうかも不明である。討薩戰誌には筆者の行動をうかがえる記述が存在する。4月6日に高瀬を出発して7日に宇土本営に到着したという部分である。熊本城の囲みが解けたのが4月14日だから、籠城していたのなら4月6日に高瀬にいるわけがない。とすれば、二つの記録は別人が作成したということになる。籠城日誌では残り少なくなってゆく食料の詳細な記録が何度も見られ、一般兵士や籠城した家族では知り得ない情報だろう。

薩軍の新募部隊約1,500人が球磨川経由で八代を南から衝いている時、兵数不足の衝背軍に対して正面軍は第一旅団の二個中隊を6日に派遣した。永田少佐・井上少佐・村井中尉が率いている。別に一個中隊を八代市鏡町に派遣した。これらに討薩戰誌の原文作者が混じっていたのではないだろうか。

 

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討薩戰誌 2

二十八日ヨリ三日二日迠休戰

【2月28日から3月2日には玉名市・玉東町では大きな戦いはなかった。】

三日黎明陸軍少將野津鎭雄三大隊ノ兵ヲ卒ヒ植木口ニ向ヒ陸軍大佐野津道貫二大隊ヲ卒ヒ吉次嶺ノ賊ニ向フ植木口ノ賊ハ砲臺ヲ稻佐ノ岡上ニ設ケ我軍ノ前面ヲ禦キ胸壁ヲ木ノ葉岳ノ半膓ニ築テ我左翼ヲ狙擊ス我兵正面ノ麦田ニ散布シテ仰テ岡上ノ賊塁ヲ攻メ砲ヲ安楽寺村ニ備ヱテ賊ノ砲臺ヲ擊ツ此時ニ当リテ賊大ニ左右ノ翼ヲ張リ一ツハ木ノ葉岳ノ絶頂ヨリ進ミ一ツハ稲佐ノ南ナル坂上ヨリ進テ我両翼ノ側面ヲ襲ハントス我軍忽チ之ヲ暁リ同シク二隊ノ幹兵ヲ左右ニ分遣シテ賊兵ヲ迎シム是ニ由テ戰地三方ニ分ル山上ノ砲声実ニ天地ニ鳴動シテ激戰数刻薄暮ニ至リテ賊兵刀疲レ勢屈シテ火ヲ放テ走ル此夜我軍進テ木ノ葉口ノ賊ハ嶺ヲ下テ我兵ヲ迎ヱ戰ヒ敗レ又嶺ヲ踰ヱテ走ル我軍尾擊シテ賊將篠原国幹ヲ仆シ

 

四月未明木留村ニ至ルトモ地理ニ暗ク孤軍深入ノ不利ナルヲ以テ退テ原倉村ヲ保ツ四月植木口ノ官軍田原坂ヲ攻ム賊坂ノ半服ニ砲障ヲ築キ未タ成ラサルニ我兵急ニ進テ之ヲ取ル又坂上ノ賊ニ向フ賊険ニ據リ防戰ス我軍進ム喇叭ヲ鳴シ大兵一時ニ吶喊ヲ發シ攻登リ両軍相接スルヿ僅ニ半丁ニ過スト𧈧ノモ賊ハ塁甚タ堅フシテ拔ス此時ヨリ

【四月ではなく四日。田原坂の戦いは凹状の坂道を上る官軍と周辺に隠れた薩軍との戦闘、という風に語られることが多い。本文のように両軍は50mほどの距離で戦い、薩軍の台場はおそらく丘陵の上面や縁辺部にあったのではないか。田原坂の凹道は加藤清正遠慮深謀によるものであるといわれるが、農村地帯に行けばどこでもそうなっている。田原坂だけを見て考えず、広く肥後国を歩いて欲しい。もし深慮なら清正は大忙しだっただろう。】

同十八日ニ至ル迠晝夜連戰不休

有明海から山鹿まで両軍が対峙していたのであり、田原坂だけが戦場ではなかった。】

六日ヨリ我軍植木口ノ兵ト吉次口トノ兵ヲ合シ二俣村ニ營シ日々ニ増加スル所ノ大兵ヲ以テ屡攻擊スト𧈧ノモ賊亦極メテ防禦ス術(ジュツ)ヲ盡シ固守シ動カズ然レノモ我兵遂ニ舟底村ノ南ヨリ賊ノ胸壁數所ヲ拔キ寸得レハ寸ヲ保テ尺ヲ得レハ尺ヲ保ツ已ニ田原ヨリ植木ニ至ルノ通路ニ近キ將ニ賊ノ背面ヲ囲マントス此ヨリ先キ賊屡銃器ヲ棄テ白刃ヲ提テ我カ備ニ迫戰スル叓アリ東京巡査自ラ請フ刀剣隊ト為リ機ヲ見テ賊ノ兵中ニ突入シ縦横ニ乱殺ス又大砲數十門ヲ二俣村ニ備ヱテ谷隔テ莅ヒ賊塁ヲ擊ツヿ隙ナシ此ニ由テ賊ノ勢日ニ縮テ我兵鋭氣日々ニ振ヒ賊塁ヲ拔クヿ旦ニ至リ抑ニ田原険タルヤ髙瀬ヨリ植木ニ至ル第一ノ要地ニシテ熊本城ヲ距ルヿ四里木ノ葉ノ東南半里ニアリ右ニ金鉾ノ山脉ヲ帯ヒ左ニ山鹿ノ大道ニ枕ス

(※半頁空白がある)

正面ハ岸髙ク各深ク遥ニ木ノ葉岳ノ高山對ス眞ニ天険ノ地ニシテ若シ之ヲ捨ル時ハ通路平坦ニシテ熊本以北賊ノ恃ヲ以テ防クノ険阻ナシ是賊田原ヲ以テ埋骨ノ地ト定メ死守シテ敢テ動カサル所以ナリ

【官軍は二俣村で大砲を3月7日から使用し始めた。現地には畑の中に二俣瓜生田官軍砲台跡と南側の二俣古閑官軍砲台跡がある。12日黎明第二旅団砲兵第四大隊第二小隊黒瀬義門大尉の二分隊が二俣に着。同時に少尉試補西村精一が一分隊を率い右翼に着いた。西村の一分隊が古閑砲台だろう。13日東京鎮台予備砲兵第一大隊が加わる。二俣の20日時点の砲数は12門だった(アジ歴C09083955900「明治十年 戦闘報告 第二旅団」。彼らの戦闘報告書類は8月18日の可愛岳の戦いで紛失したというから、後日改めて作成したものである。薩軍に襲われた第二旅団本営に置いていたのだろう)。玉東町の発掘調査では、大砲の点火装置である摩擦管多数が出土し、二俣瓜生田官軍台場跡で四斤砲車の轍跡を二列、つまり砲車一台分を田原坂丘陵を向いた状態で検出している。】

十九日休戰

【官軍は翌20日の進撃を計画し、諸隊長を木の葉に集めて協議した。小競り合いはあったが全体としては小休止だったが、休戦ではない。】

二十日大雨時暁官軍一声ノ鯨波ト共ニ銃鎗ヲ以テ二俣村ノ向ナル賊ノ胸壁ノ内ニ突入シ一挙シテ十餘日落チサル堅塁ヲ拔ク賊常ニ以爲ク我兵ノ進擊スルヤ必ス大砲ヲ連発シ喇叭ヲ鳴スヲ以テ合圖トナスト然ルニ今朝ハ大砲喇叭ヲ用ヒス不意ニ進兵シタル故賊ノ狼狽譬フルニ物ナク未タ睡眠中ニ在テ其儘突殺サルゝ者モアリ又自刃シテ死スル者アリテ賊ノ死體塁ニシテ胸壁ノ中ニ充満セリ賊ノ左翼已ニ敗レテ残賊植木ヲ定テ遁逃スルヲ我軍尾擊スルヿ酷タ急ニシテ其勢恰モ烈風ノ如クナルヲ以テ賊遂ニ植木ヲ保ツヿ能ワス器械彈藥及ヒ榴重ヲ棄テ大ニ潰テ向坂ヲ越テ走ル我軍追テ夜啼ノ小崖ニ至リ隊伍ヲ整頓シテ將ニ熊本ニ向ハントスルニ当リ賊俄ニ我カ左右ヨリ襲来シ先軍ハ中軍トノ中間ヲ切断シ戰ヒ頗ル困難ナリ然ルニ田原坂ノ賊モ官軍モ已ニ左翼ヲ破ル進テ向坂ニ至ルヲ見テ谷ヲ踰テ逃レ植木ノ西ナル舞尾村ニ屯スル我中軍ヲ襲フ時ニ我兵皆四方ニ分レ戰テ中軍ノ兵甚タ寡ク一時混乱ノ狀アリト𧈧ノモ將校 剣刀ヲ振テ士卒ヲ激励シ討テ賊兵ヲ退ク我先軍亦向坂ヨリ兵ヲ植木ニ引揚ケ賊植木ニ残處ノ大砲數門小銃数日百挺ヲ奪ヒ彈藥數百箱ヲ焼キ天已ニ晩ルゝヲ以テ戰頭線ヲ植木滴水円大寺ト定メ上木葉村ノ第一第二旅團本營ヲ七本ニ移ス

田原坂丘陵は「く」の字に曲がった平面形をしており、前日まで二俣の前方にある屈折点の上面に官軍は達して接近戦を繰り返してきた。20日早朝、付近の薩軍台場で眠っている敵を奇襲して勝負がついた。すると丘陵先端部の薩軍は背後を奪われたので守地を放棄して退却し、官軍は一気に植木まで追撃し、さらに右折して熊本を目指して追撃した。その後、向坂において逆に背後を突かれて官軍は植木に退く。田原坂は突破したものの、この後、熊本城に達するにはまだ一月弱を要することになる。】

二十一日植木口休戰山鹿口ノ官軍進テ山鹿ヲ攻擊ス賊田原ノ賊コレヲ聞キ戰ハスシテ逃去ル

【官軍は植木を中央として向坂の薩軍に相対し、左翼は山鹿、右翼は滴水・原倉から海岸まで延びていた。21日午前一時、薩兵数百人が植木左翼に襲来したのを始め、各地で戦闘があり、官軍の死傷は91人だった(「征西戦記稿」巻十の六)。】

二十二日官軍木留荻迫植木ヲ進擊ス然レノモ賊ノ防禦固フシテ破ルヽヲ得ス

20日田原坂薩軍が敗れた後、山鹿の薩軍は南東側に13㎞程菊池市隈府付近に移動した。薩軍の台場群は鳥栖(とんのす)を右翼とし、向坂を中央、木留を左翼として三日月状に展開していた。】

二十三日木留植木荻迫口ハ前月ニ同シ吉次口一圓ハ原倉ヨリ進ミ一軍ハ横山平山ヨリ進ミ幾ント半ヨリ山ノ絶ニ至ルトモ賊塁ヲ拔クヿ能ワス退テ初メノ線ヲ守ル

【※絶頭の頭は消され、頂が上に加えられている。3月3日、初めて吉次越・半高山を攻めたのは西側からだったが、以降はまず北側にある横平山を奪い、引き続き半高山を攻撃する方法が取られた。半高山を奪えたのは4月1日だった。】

 

二十四日激戰左翼ハ進テ木留甼ノ近傍ニ至ル

 

二十五日朝五時賊大挙シテ植木木留ヲ攻擊シ我胸壁ニ迫ルト𧈧ノモ我軍奮戰遂ニ之ヲ討チ退ク久シウシテ中央ノ荻迫ノ近傍ニ当リ砲声鯨波並ニ起リ八時頃ニ至リ賊深谷ノ中ヨリ進テ滴水村ノ砲塁ニ攻メ登ル我軍忽チ援兵ヲ以テ之ニ應シ稍ク賊ヲ追ヒ退ク然ノモ吾昨日占メ得タル荻迫口戰地ノ半ヲ失ヘリ二十五日正午十二時ヨリ進擊植木口ハ大砲ヲ以テ之ヲ攻擊シ鯨波ヲ揚ケ声援ヲ為シ大ニ右翼ヲ進メ円大寺ノ本村ヲ焼キ賊ノ砲台数所ヲ拔テ木留ニ迫ル中央モ亦進テ荻迫ニ迫ル

 

二十七日大砲ヲ以テ木留及上古閑村ヲ焼キ風猛烈ニシテ火勢殊ニ熾ナリ

 

二十八日木留口ヲ進撃ス賊上古閑村ノ岩上ニ據リ烈シク防戰ス官軍進テ賊塁ニ迫ルト𧈧ノモ絶壁削ルカ如ク路上攀リ可キナキヲ以テ木留ヲ距ルヿ纔ニ一丁余ニシテ對陳ス

 

二十九日休戰

 

三十日夜三時一軍ヲ分遣シテ原倉ヨリ三ヶ嶺頂上ニ登ラシム官軍枚ヲ含ミ夜ニ乗シテ賊ノ第一ノ胸壁ヲ拔キ尚深ク進入スルニ賊ノ大兵山上ヨリ出テ来リ防禦甚タ嚴密ナルニヨリ敢テ戰ヲ好ス乃チ兵ヲ退ケ此日兵ヲ三ノ嶺ニ登ス其意蓋シ木留ノ前面地形険阻ナルニ因リ山上ヨリ木留ノ背面ヲ衝クニヨルナリ

【原倉から三の岳(ここでは三ヶ嶺)頂上(標高293m)までは約3㎞。この山の北麓尾根には台場跡1基が三の岳を向いてあり、官軍が築いたものである。また、頂上手前には6基の台場跡が原倉方向を向いて存在し薩軍が築いたことが分かる。】

三十一日休戰

※「新編西南戦史」の附図を示します。

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討薩戰誌 1

 



【表紙には戰誌とあるが、ここでは戰記となっている。】

討薩戰記

二月二十二日福岡ノ臺兵一大隊髙瀬口ヨリ進テ植木ニ至ル賊兵亦来テ之ヲ迎ヱ両軍大ニ向坂ニ戦フ我兵遂ニ利アラス植木ノ糧倉ヲ焼キ退テ木ノ葉ヲ守ル

鹿児島市にある陸軍砲兵属廠が私学校徒に初めて襲われ、弾薬が奪われたのが1月31日である。その前、28日に陸軍卿山縣は大山陸軍少輔を通じ熊本鎮台司令長官谷少将に次の命令を下している。それは、熊本鎮台配下の小倉分営の第十四聯隊(長は乃木希典少佐)に移動を命じるもので、一個中隊が2月11日に小倉を出発し海路長崎に到着している。もし鹿児島県士族が決起すれば海上交通の要衝であった長崎が襲われるだろう、との予測によるものである。長崎県令はもっと増員してほしいと乃木に頼んだが、乃木は谷少将と協議して別の部隊を小倉から久留米に向かわせた。その際は行軍演習を名目にしており、残りの部隊には出戦準備を命じた。2月22日、薩軍先鋒は植木に入っていたが官軍の接近を知り、少し後退して向坂で乃木部隊と交戦した。官軍は敗走し、西方の木ノ葉部落一帯で夜を明かした。この時点で第一旅団(野津鎮雄少将)と第二旅団(三好重臣少将)は福岡市まで到着していた。】

廿三日我軍斥候兵四十人ヲ出シテ賊ノ形状ヲ探偵ス時ニ賊兵遂ニ襲来ス直ニ大隊ヲ繰リ出シ戦ヒ正ニ酣ナルニ及テ第二大隊ノ二中隊モ木ノ葉ニ着シ戰ヲ助クル中賊兵突然木ノ葉嶽ノ麓ヲ繞リ我兵ノ左翼ヲ衝キ攻擊酷タ鋭ク官兵已ニ遠路ニ疲ル且寡ヲ以テ退テ南ノ関ニ據ル

【昨日22日植木から木の葉に退いた官軍第十四聯隊は、この日東に向かって中央は道路・左翼は木の葉山の麓にある村落・右翼は川の堤防に展開し、植木方面の薩軍に備えると共に、20余人の兵を植木に出し、彼らは薩軍を誘いつつ官軍が待ち構える所まで退却してきた。朝8時半に戦いが始まり、官軍は夕刻には退却を決めた。後退を援護する40人ばかりの兵は木の葉の西1.5㎞の稲佐村の少し高い丘、おそらく北側の丘、に拠ったが、その直後に背後の木葉山から薩軍数百人が襲い掛かった。彼らはそれまでいた山鹿(木の葉の北東約12㎞)方面から玉名(木の葉の西北西約5㎞)・南関(木の葉の北北西約18㎞)を攻略しようと真夜中に出発した部隊だった。木の葉方面に銃声が盛んに起こるのを聞き道を転じて官軍の背後に出たのである。結局官軍の一部は玉名市街地の北約5.5㎞の川床に退き、本体は南関に退いた。薩軍は暗くなったため追撃を諦めて木の葉・稲佐に留まった。当時、本州から来援の官軍、第一旅団は福岡県小郡市松崎(九州縦貫道と横断道が交差する地点の4㎞東)まで、第二旅団は太宰府まで進んでいた。】

二十四日廿五日休戰

【24日第一旅団は松崎から玉名市高瀬に向かい、第二旅団は久留米まで進み一部は熊本への西側路線で大牟田市三池に到着した。久留米の南約10㎞の羽犬塚から熊本県に南下する路線は二つあり、東側の南関町経由か西側の大牟田市三池経由が当時使われた。西側から高瀬を目指したわけである。高瀬は玉名市市街地東部にあり菊池川の水運で栄えた港町である。両旅団本隊は南関で25日に合流することにした。日誌は休戦とするが、25日第一旅団は高瀬とその東北側にある迫間村に進み小代山でも戦いがあった。旅団の戦闘はこの日が初日である。戦誌原作者は戦場から遠くにいたのであろう。】

二十六日陸軍少将三好重臣西京ヨリ新来ノ兵及福岡ノ臺兵ヲ卒ヒ髙瀬船隈村ニ進テ兵ヲ分テ二隊トナシ一ハ迫間ノ後ヲ過キ木葉山ノ麓ノ賊塁ヲ攻メ一ハ寺田村ノ賊兵ヲ擊ツ賊死ヲ决シテ防戦スト𧈧ノモ我軍鋭鋒ニ当リ難ク近傍ノ民家ヲ放火シテ遁走ス我軍木葉迠追擊シテ船隈村ニ皈ル此日賊ノ死骸道路ニ陸續タリ蓋シ木ノ葉口ニハ薩兵迫間ノ渡髙瀬口ヨリ来リテ我陳ヲ襲ヘ我兵急ニ之ヲ接シ大砲ヲ髙瀬川ノ堤上ニ備ヱ對岸ノ賊兵ニ当ル賊亦我砲臺ヲ望テ群銃発弾丸雨ノ如シ是時ニ当テ三好重臣創ヲ蒙リ我軍頗ル苦戦ノ狀アリ勢イニ乗シ河上ノ瀬ヲ渡リ吶喊シテ我左翼ヲ衝キ玉名郡ノ茂林中紆廻シテ我南関ノ通路ヲ断タントシ同時ニ高瀬口ノ賊モ亦河ヲ過キ三池路ヨリ我右翼之側面ヲ攻擊ス此ニ於テ三面ニ敵ヲ受ケ進退維ニ然レノモ我兵山谷ノ間ヲ越ヱ玉名ノ賊背ニ出テ挟シ擊テ殆ト賊兵ヲ塵ニス黄昏至リ賊大ニ乱レテ走ル我兵敢テ北ルヲ遂ハス備ヲ嚴ニシテ後軍ノ至ル待ツ

玉名市街地の東側を東北から南西に流れるのが菊池川である。26日・27日、薩軍桐野利秋村田新八篠原国幹・熊本隊、官軍は第一(野津鎭雄)・第二旅団(三好重臣

)と小倉分営の鎮台兵が激突した戦闘であり、敗退した薩軍はこれ以降、積極的に福岡県方面への前進を行うことはなかった。】

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参考のために、以下に「新編西南戦史」の附録図を示します。

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