西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

駒嶺重幸「西南戦争履歴」1

 

所有する「西南戦争履歴」を紹介したい。和紙に毛筆で書かれたものである。本文は和紙を二つ折りにして、折り目が下になるように閉じ、片面だけに書いている。したがって、白紙の面が背中合わせになっている。出来上がりの一頁は縦11.9cm・横15.9cmである。表紙と裏表紙は厚手の和紙でやや大きく10.2cm×16.8cmである。末尾の7枚は白紙のままである。本誌は全体の片側に3.2cm間隔で穴をあけ、和紙の撚紐で綴じているが、長軸の中心に近い内側にも6.4cm間隔でより小さい二つの穴があけられている。これらは表から裏まで貫通しているので、一度綴じ直したことになる。また、表紙・裏表紙には6.5cm間隔で二つ穴があるが、これは本文の紙には認められない。表紙の裏面には照會と大書され、會の日部分はない。裏表紙の内側に「日簿」という墨書が本文とは90度の向きで記されており、表と裏の紙は切り離されてニ分されたものであり、本来は照會簿と書かれた別の冊子の肉筆表紙だったものを転用したのである。本誌を綴じた穴の位置と簿冊を綴じた穴が等間隔ではないので、外側の2ヶ所の穴が簿冊を綴じた痕跡だろう。ややこしいが、本誌を綴じた表側からの紐は裏表紙の手前で内側に折り込まれている。では、裏表紙は何で綴じられてるかというと裏側から紐を通して途中で(八月十五日から始まる紙まで)折り返している。以上、何だか分かりにくい説明になり申し訳ない。

 内容は日記というよりも備忘録に近い。以下、内容を紹介し区切りごとに解説する。

「西南戰争履歴」 駒嶺主 

 

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印   諸達及諭達書写

    大隊長ヨリ告諭

去ル辛未壬申年

朝廷兵ヲ各藩ニ徴スルニ方テヤ其藩主特ニ精兵ヲ撰テ之ヲ  朝廷ニ致セシモノニシテ各朗其撰ニ当リ奮起身ヲ陸軍ニ致勉勵数年其功労少トセス是恩賜ノ今日ニ及フ所以ナリ後チ 朝廷賦兵ノ制ヲ建ラレ壮兵ノ法ヲ廢セラルヽニ及テ各免役郷里ニ帰ルト𧈧ノモ尚臨時招集ノ命ヲ受ルモノ技術ニ練達シ一旦警アレハ之ニ應スヘキノ素アレハナリ今ヤ鹿児島賊徒起ノ官軍ニ抗スル爰ニ数旬連日ノ戦ヒ官軍勝利常ニ多ニ居ト雖モ今日ニ及テ未タ鎮定ニ至ラサルモノハ夫ノ一鼠賊ノ北ニアラサルヲ以テナリ其然リ既ニ官軍ノ戦地ニ臨ムモノ数十隊然ルニ今又各壮兵ヲ招集セラルヽ処以ノモノハ蓋シ奮前勇闘一撃以テ御赴意ナラン誠ニ各  朝廷ノ厚恩ニ報ヒ旧藩主ノ知遇ニ答フヘ粮フ処ノ勇謄義気亦將ニ彰ハレントス宜ク同心戮力長上ノ命令ニ服ス軍隊節度ヲ奉シ苟モ軽挙暴動身刑辟ニ陥ル如キアラン  朝廷ノ厚恩ニ背クハ固ヨリ論ヲ待タス旧藩主ノ汚名ヲ天下ニ示スナリ是返シテ各ノ本旨ニ非サルヘシ某不肖隊長タルノ命ヲ辱フス今將サニ各ト共ニ戦地ニ赴カントス其発セサルニ方テ一言ノ告諭ヲナスモノ聊カ徴意ノ存スル処ナリ各之ヲ領セヨ

  明治十年四月

     遊擊歩兵第二大隊長心得

      陸軍大尉

【遊撃歩兵第二大隊長心得であった美濃部正直大尉は59日第四旅団附となり、同日付で新たに大沼渉少佐が大隊長となる。C09081326300陸軍事務所本営通牒 明治10年2月20日~10年9月31日(防衛省防衛研究所)0752~

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【印影は駒嶺重幸】 

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丁第四百十九號(※號は異体字

今般征討之役戦死或ハ傷病原因シテ竟ニ死ニ至ル軍人ノ寡婦孤児ハ恩給令ニ因リ扶助料可下賜之処出征以来昼夜連戦死傷之者取調方目下規則実践難相成ニ付右死没報告其處官ニ相達候日ヨリ平定ニ至ル迄特別ヲ以テ寡婦孤兒ノ内ヘ為手當毎月左之通給與スヘ(シ)又父母或ハ幼少之弟妹ノミ有テ之ヲ養育スル親戚モナキ者ハ其次第柄ニ因リ詮議ヲ遂ケ寡婦孤児相当ノ手當ヲ給(シ)軍属之儀モ其原由ニ因リ軍人同様之ヲ給ス尤平定ノ上恩給令扶助可受者右支給之金髙差引不足ノ分ハ其節一時ニ可下渡且死没報告相達候當月迄ノ俸給金額或ハ幾分並ニ宅料共所管ニ於テ留主宅ヘ下渡候向モ有之前件支給金髙ニ比スレハ或ハ過分ニ候共右ハ返納ニ不及候条死没軍人軍属ノ遺族無洩漏速ニ可相達此旨可相達候事

  但本文手当金下賜之儀ハ各処菅ノ府縣廳ヘ某地寄留ノ者ハ寄留地府縣廳ヘ願出府縣廳ヨリ死者旧所管ヘ無遅々可申出事

 明治十年八月一日陸軍中将鳥尾小彌太

大将同相当官   六拾六円

中将同上     五十八円

少将同上     四拾壱円

大佐同上     三十三円

中佐同上     二十八円

少佐同上      二十円

大尉同上      十一円(※正しくは15円)

中尉同上       八円(※正しくは11円)

少尉同上         (※空白だが8円)

少尉試補同上並准士官 七円         

曹長相当官      三円三十銭

軍曹同上       三円

伍長同上       二円五十銭

諸卒仝上       二円三十銭

文官七等以上ハ都テ武官ノ等級ニ准シ八等迄ハ少尉ニ十一等以下ハ軍曹ニ准等外ハ諸卒ニ准(シ)下賜フ

 右ハ八月十九命令

【「征西戰記稿」附録によると、8月7日に戰死手當金として達せられた文書である。( )に正しい数字を入れた。ここでもシを方言でスと記入している。】 

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別紙之山形参軍ヨリ被達タリ

 

昨今之勢形周圍之囲已ニ致完全候然ル処渠レ拠守以来已ニ一周埀(?)々トシ糧食ノ闕乏自然免可ラスト被察候就而ハ何時再度突出之挙動ナスモ側ル可カラサル義ニ候ヘ共此際夜間ハ申迠モ無之昼間ト𧈧モ各哨兵練ニ於テ弥戒嚴可致各位ヨリ其節ヘ夫々至急両警示相成度此段態々申進候也

 九月十日        山縣参軍

 曽我少将殿 

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    告諭書

征討参軍山縣有朋謹テ出征将官諸君ニ白ス嚮ニ都ノ城攻撃ヨリ以来各処ノ行軍一モ意如クナラサルハナ(ク)容易ニ大敵ヲ駆逐(シ)遂ニ長井村ノ合囲ニ至リシハ諸君親シク経歴セラタル処ニテ其此ノ如クナリシ所以ハ一モ諸君ノ指揮ト共ニ各軍ノ動作進止善ク機ニ合シタルノ故ニ因ラサルハナ(シ)此時ニ方テヤ賊勢宭縮復タ為スヘキノ余地ナキモノヽ如シ而シテ一旦忽チ可憂(可愛嶽ノの間違い)変アリ是ヨリシテ諸君一段ノ勉励ニヨリ急行追撃至ラサル所ナ(シ)ト雖モ一タヒ之ヲ三田井ニ逸(シ)再ヒ七ツ山ニ逸(シ)三ヒ鬼神野ニ逸(シ)逸スルモノ三度ニシテ遂渠レヲシテ立息セ(シ)ム此間或ハ風雨地勢ノ之レカ障碍ヲナスモノナキニ兆ラスト雖ノモ然ノモ掻痒ノ歎ニ堪サルモノ少シトセス已ニシテ三好少将海路ヨリ重冨ニ上リ邀撃ス而シテ三好ノ発スルヤ亦風浪ニ沮ラレ行程二日ヲ誤リ終ニ横川ニ至リ渠レト會ス真幸街道ノ狭隘ニ邀フル叓ヲ得ス遂ニ四度逸シテ縦ニ其旧拠ニ入ラシメタリ有朋ヲ以テ之ヲ視ルニ此賊ヲシテ轉遷此極ニ至ラシタレトハ実ニ意想ノ外ニアリ諸君ト雖モ今ヤ幸ニシテ合囲再ヒ成ル是寔ニ諸君拮据収捨ノ然ラシムル処有朋順ク復タ多言スヘカラサルナリ而シテ来ラサルヲ特マス待チヘキヲ特ムハ警戒ノ要領乃チ有朋カ心ニ思フ所未タ輙チ之ヲ包藏シヘカラサルモノアリ顧フ今日ニ於テ我カ以テ恐ルヘキモノ三ツノミ一ニ曰爨ヲ窺テ脱出ス二曰嬰守能拒ク同気ノ相應ヲ待チ三曰我諸軍ノ蜂壓ヲ待チ突然精鋭ヲ一偶ニ潜メ遇慮ニ属スル如キ者アリト雖モ之ヲ恐ルヽハ乃チ警戒慎重ノ在ル所ナリ其レ此ノ如ク成ルノキハ則今日ニ在テ我首トシテ目的トスル所ハ独リ守備ヲ先ニス攻取ヲ後ニシルニ有ルニ非ス耶蓋ス此等ハ諸君モ亦既ニ有朋ノ言亦タ未タ過慮ヲ以テ断スヘカラス諸君其善ク守備ヲ唯是益嚴スルヲ務メヨ望ム所ハ是ノミ而シテ后夫ノ一挙覆巢ニ至テハ当ニ重儀スル所アルヘキナリ有朋謹言

 十年九月十日

【この文書は「征西戰記稿」に9日に公表されている。比べると、端折った部分と表現を変更した部分が見られる。爨はかまどと読む。本来シであるべき文字をスにした個所がここにも散在する。】 

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去ル明治四季廃藩四鎮台被置候節召集候壮兵同八季二月解隊相成其節為賞典同季六月一日ヨリ尚二ヶ年間壱人口下賜候旨陸軍省ヨリ達相成居候処先般臨時(異体字)召集遊擊隊編成現今出征中右賞典米下賜之日限已相済ミ候ヘノモ本季五月廿九日発乙第九百十八号ヲ以テ相達候越モ有之候ニ付賊徒平定各隊解隊散迠之間ハ従前之通壱人口下賜候此旨相達候事

 明治十年七月九日発 征討総督本営

上記文章内にある達文は次の通り。C09082660200軍団本営発翰 明治10年5月1日~10年6月10日(防衛省防衛研究所)0384・5

発乙第九百十八号

別紙之通リ今般相達候上ハ西郷中将ヨリ申越候ニ付為心得此旨相達候事

明治十年五月二十九日

 

征討総督本営

 

会計部印

軍医部印

砲兵部印

輜重部印

裁判所印

 

右御達之事

別紙

先般臨時召募之遊撃隊其他本年五月三十一日限リ軍役年限満期之者ハ徴兵令中徴兵編制并ニ規則其二末項掲示之趣ニ順シ平定迠之間服役延期ト相心得ベシ此旨相達候事

 

賊徒平定ニ付諸兵隊各自本営ニ帰営被仰付候叓

 十年

  九月廿七日     征討総督本営

賊徒猖獗夛ノ月日ヲ経今ヤ之カ悪誅ニ伏シ西陲全ク安シ我

天皇陛下ノ宸襟ヲ慰セラルヽ果シテ何トカナシ是一モ郷等各將校指揮ノ其冝キヲ得タルヨリ下士兵卒ニ至ル迠殊ニ威憤勉励事ニ縦ヒシカ力ニ因ラサルハナシ余深ク之ヲ喜フ茲ニ本営ヲ此地ニ移スニ因テ乃チ郷等ヲ招キ聊カ徴衰ヲ表ス其佐尉官ノ此席ニ列セサル者乃下士兵卒ハ郷等幸ニ郎カ意轉示セヨ

 明治十年九月廿七日

    征討総督二品親王有栖川熾仁

【陲はすいと読み、ほとりの意味。衰は衷の、郷は卿の誤り。これも「征西戰記稿」にあるのとは微妙に異なる。本誌にはこれ以外にも誤字はあるがいちいち指摘しない。9月24日に戦争は平定され、征討総督は細島から27日に鹿児島にやって来た。海陸参軍や諸将官・参謀長・聯隊長・大隊長が磯の旅館に参集した際の演説がこれである。】

 

   鳥尾中将ヨリ御達左ニ

神戸表傳染病酷烈流行ニ付其地ヨリ同処ヘ上陸スヘキ諸兵隊ニテ未タ其地ヲ発セサル分ハ追テ何分之□相達スル迄出帆差留メ候右ハ總督宮ヨリ懸合ニ付此旨相心得其地ノ達方取計ヘキ事

凱旋ニ付追々当地ヘ入湊舩ニハ皆「コレラ」病症アリ舩中并上陸ノ上右病ニ罹ルモノ既ニ三百名余内死亡スルモノ百名余ニ及ヒ尚追々熾ンノ景况ナリ又西京ヲ経テ東海道陸行之諸兵モ同症之者夛人数アリ只今京都府ヨリ報ニ該地ニ於テ去ル一日ヨリ明ケ二日正午迠凱旋ノ各兵病発スルモノ百三十一名内死亡スルモノ拾名余ナリト其地滋賀縣下ヨリ追々報知アリ因テ当地ヘ入湊之舟々ハ追テ相達スル迄其侭留置候様鳥尾中将ヨリ相達セラレ此旨御承知アルヘシ。十月四日布達アリタリ

【これは「征西戰記稿」には記載がない。同書では9月16日に悪疫予防の注意が発せられたとして、種々の対策を各旅団に通達している。数日前、長崎から鹿児島に至る船中でコレラを発症したものが数名あったという。】

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  雑文 賊ノ遺詞

即今朝家茨賊ノ輩(異体字)暴ヲ行ヒ天下ノ人民塗炭ノ苦ヲ受ルヲ目視スルニ忍ヒサルヤ今般西郷先生ヲ始トシテ有志ノ輩登京闕下ニ奏問スルトノ叓件アリ然ルニ当今各縣挙動ノ折柄萬一賊黨ニ疑惑セラレ狙撃ニ逢ヒ其意ヲ達スルヲ得サレハ答戦セスンハアルヘカラス各其備ヲナシ携銃登京セリ已ニ西郷先生ノ深意ヲ明察シ坐食安眠凢輩(異体字)ノ境界ニ陥ルヲ悪ミ有志ノ輩ニ随行シ一身万力ヲ尽サンカ為メ出発シ共ニ砲戦ニ及ハル生テ再ヒ帰ル可カラス我志ヲ続キ有志ノ輩ニ交リ武文ニ勉励生長ノ后ハ西郷先生ヲ始メ有志輩ノ跡ヲフミ国家ニ尽力ナカリセハ禽獸ニ等ク我泉下ニ有テ咲怒ス仍テ遺詞熟読立志希望候也

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                                                                                                                     田代犬彦

十三年                                                        

                                                     田代清廣

                                                     竹廻勇助

                                                        四十年

                                                     田代勇吉

                                                        二十一年  

山原末良

   三十一年                                                         

【すでに戦争が始まった段階で書かれたものらしく、薩軍兵士が携帯していた遺品であろう。名前の部分を下段に原文のように記入できないままにした。】

 

十年九月廿四日鹿児島城山岩嵜ヘ大進撃之節穴中ニ殪ルヽ死者左ニ揚ク

西郷隆盛旧陸軍大将  桐野利秋同少将

逸見十良太同大尉   別府晋介同少佐

村田新八       池ノ上四郎

高城十次       蒲生彦四郎

野田市助      小倉壮九郎

濱田正八       西郷休右エ門

松田幸内       石塚長左エ門

岩本平八       平野正助

桂 久武       岩切喜次良

宅間伴助       種ヶ島城助

新納軍八

 計二十一名皆島津家ノ墓地浄光明寺ヘ埋ム(是ハ賊魁以下小隊長マテナリ)

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拙者共儀先般御暇之上非役ニテ帰縣致候處今般政府江尋問之筋有之不日當地發程候間為御會合此段御届致候尤旧兵隊之者共随而夛数出立致候間人民動揺不致様一層御保護及際護為御依願候也 

明治十年二月(陸軍)西郷(大将)隆盛

      桐(少将)野利秋 

      篠(同)原国幹

 縣令大山綱良殿

【大山は西郷等の文を基に各府県・鎮台に向け2月13日付の通知書を作成し、2月14日に複数の使者(専使)を派遣した。熊本鎮台に宛ては15日付となっており、「拙者儀今般政府ヱ尋問ノ廉有之・・・陸軍大將西郷隆盛」というよく知られた文言である。2名の専使が19日に鎮台に到着し、樺山資紀中佐が応接し次のように述べ鹿児島に追い返している。「兵器ヲ携ヘ國憲ヲ犯シ強テ城下ヲ通行セント欲スルモノハ悉ク兵力ヲ以テ鎭壓ス」。】

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昨廿九日午前第四時斥候トシテ當隊第一中隊ノ内一分隊ヲ花倉山嶺ニ差遣シ此援兵及ヒ連絡ノ為メ第一中隊付属ノ部隊ヲ鳥越阪内ノ賊塁近傍江斥候トシテ差遣シ同中隊残余ノ部隊モ連絡ノ為メ亦之ニ次セシム其第一中隊ハ斥候兵ヲ花倉外レヨリ左ヘ坂路ヲ□シリ黎明ニ到リテ□ニ嶺上ヘ達スルニ及ヒ賊ノ胸壁進路ヲ横断シ進ム能ワス潜ニ之ヲ覗フニ

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哨兵三四名塁下ニ在リテ私語スルヲ聞得タリ依而直ニ突入シテ其哨兵ヲ斃シ胸壁ヲ越ヘ進入シ賊塁後ノ巨塁ニ依テ防禦ス進テ之ヲ撃チ其家屋ヲ焚焼ス賊徒十余名四方ニ散シテ尚砲発シ且ツ前方ノ村落ヨリモ烈敷射聲ヲ為スユヘ不得止益進テ火ヲ四方ニ放ツテ直ニ殺傷ス連絡兵之ニ尾シ來リ共々賊ヲ追ツテ左ニ正面変換シ数個ノ賊拠并ニ家屋五十戸余

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米麦五百俵斗焼夷ス遂ニ進テ島津邸後ノ山上ニ達ス谷ヲ隔テヽ相戦フ此時ニ至ル迠目前賊斃スヿ拾弐名我死傷拾名斗也午前九時頃ニ至リテ賊右方ノ片翼ヨリ迂回シ來ルヲ以テ兵ヲ分チ之レニ對戦ス然ルニ弾丸殆ト放ツ尽スニ及フヲ以テ不得止周囲ノ地理ヲ探偵シ畢テ左翼ヨリ海岸島津邸後ニ下ル徐々ニ退却シ午前十時本営ニ帰ル第三中隊之斥候兵ハ

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第四時ゟ鳥越阪正面ヘ向ヒ右翼上ノ賊塁ヲ覗フニ賊射撃スルヲ以テ不得止進テ胸壁内ニ突入シ賊三名ヲ斃シ示余ノ分隊之レニ援スル為メ左方ノ山塁ヲ攻拔ス依テ地理ヲ覗フ際頓ニ賊勢増加ス死傷夛ヲ以テ午前七時過繰揚ヲ命シ帰営致シ候此段御届申候也

 明治十年五月卅日 遊撃第二大隊長

 第四旅團司令長官殿

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追テ第一中隊ノ退路賊遮断セラルヽモ難斗ニ付援兵トシテ第二中隊ノ内一小隊花倉地方ヘ向ケ差出候處既ニ第一中隊引揚候際ニ付其侭途上ヨリ帰隊致候此段申添候也

【この部分は第二大隊長大沼渉少佐が書いたものの写しである。第四旅団は熊本市周辺にいたが、4月29日鹿児島進入を命ぜられるとともに新たな編入部隊を加えた。その際、遊撃第二大隊(890人)は第三大隊と改称している。5月2日熊本城の西方の百貫石港を出港し、4日鹿児島に到着して別働第一旅団の守線を譲り受けた。その地域は城山の岩崎谷から琉球館、多賀山、鳥越を経て海に達するものだった。花倉は集成館の東950mくらいの沿岸の集落で、背後には比高差160mほどの崖上には薩軍が守っていたらしい。それまで第四旅団は30日間位戦いがないので、大沼大隊長はしばしば攻撃を願い出ていたが許されなかった。しかし5月29日、二個中隊(第一中隊古荘大尉・第二中隊中島大尉)が「私ニ花倉磯山ノ賊壘ヲ襲擊シ」67人の死傷者を出して敗走した、と戦記稿巻三十八鹿児島戰記十八に出てくるのがこの日の記録である。】

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六月廿二日午前第八時四十分吉野地方ニ当リ火烟立チ揚候故豫テ期スル所ノ時刻モ有之候間第四中隊ヲ先鋒トシテ鳥越坂前面ノ山嶺ニ在ル賊塁ニ向ヒ進擊セシメ直ニ銃険ヲ用ヒ第一ノ胸壁ヲ乗取リ進テ左方之巨塁ヲ攻擊致候得共地形險要ニシテ進退自在ナラス殊ニ前方右側ノ賊塁ヨリ烈敷放発ニ及ヒ候故死傷不少依而第二中隊ヲ以テ援兵トシテ指遣候處暫ク相支持候而背后ノ官軍ヲ見合可申方可然旨品川参謀長ヨリ談ニ付両中隊ヲ地理ニ應ス配布ス前面右側及ヒ左側ニ對ス相持シ居候内午后第二時半過キ進(※進?)ニ集

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成館上ノ山ニ当リ迂回兵ヨリ合図ノ信号有之候間直ニ吶喊突入シテ遂ニ巨塁ヲ拔キ一部ノ兵ヲ以テ背後ノ官軍ニ連絡セシム他兵ハ賊ニ尾シテ二本松砲塁ノ背後ニ出急劇突進候處已ニ退走ノ后故前方ニ走ル賊ヲ射撃セシメ該處守備ノ為メ第二中隊ヲ止メ置候且ツ鳥越坂上砲台ニ立帰リ長官ノ命ヲ乞雀ノ宮ニ越キ品川参謀長ト協議ノ上防禦線ヲ集成館上

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ヨリ瀧ノ上山迠相設守備間致候此段御届候也

 明治十年六月廿六日

【これも大隊長の書いたものであろうか。この時点で鹿児島県内にいた官軍は、熊本県南部の水俣から鹿児島県北西部の大口から進入してきた別働第三旅団(6月20日伊佐市大口の高熊山を奪い、21日西方の阿久根市と南西のさつま町宮之城まで分かれて進んでいた)と人吉から大口方面に進軍している別働第二旅団などの北部進行中の官軍、これとは別に鹿児島市周辺の筆者らの第四旅団や別働第一旅団、別働三旅団だった。第四旅団は大口方面の官軍と連絡したかったのだが、ちょうど通路上の鹿児島市北部の雀宮(集成館の北北西約700m付近)・鳥越(集成館の西側に鳥越トンネルがある)には薩軍が厳重に守っていた。鹿児島市方面から攻撃するには高所に向かい進む必要があり戦いには不利だった。そこで官軍は鹿児島湾北部の重富に秘かに上陸し、背後からも攻撃することにした。この時、第四旅団の一部は同行せずに南から攻撃配置についていた。北からの上陸部隊は上陸時に気づかれて攻撃されたが、薩軍の人数が少なかったので上陸できた。薩軍を追い払って南下し、帯迫、雀宮まで占領し、ここで南からの第四旅団部隊(本書の部隊等)と合流している。戦記稿によると「背後ノ官軍ニ連絡」できたのは午後4時乃至同三十分だった。】

六月廿三日午前第八時過キ鳥越坂前面小山(ムスヒ山ト云フ)下段本部ヘ鳥越前面巨塁及集成館山守備第三中隊ヨリ賊徒大擧襲来ノ旨申來候而厳重守備申付直ニ景况探偵ノ為メ正面台塲ヨリ松山下弧脇迠相越候處已ニ雀ノ宮出張第二大隊第一中隊兵散走シ來リ當隊ヨリ差出有之松山下守兵ト共ニ退却候間厳敷叱咤シ之ヲ止乄此處ニ於テ守備為致候中豈計ヤ已ニ賊松山ヨリ小山ノ間ニ充備シ亦鳥越前面山巨塁ノ下并雀ノ宮本道等ヨリ進来リ忽チ四面攻囲ヲ受ケ進退相究候故守備全隊ノ指揮致候無之依而部下ニ在ル者三十名

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計ニ必死ヲ示ス四方当リ凢三時間程射戦致居候中賊ハ時々援兵ヲ以テ突入セントスル景况有此間當隊ヨリ相備□瀧ノ上山鳥越前面巨壘ノ山集成館上ノ山等已ニ陥落ト見ヘ更ニ對戦之模様無之僅ニ正面臺場脇ノ山ニ據リ一二名ノ兵松山上下ヲ狙擊ヲナシ相助ケシナ

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リ然ル処賊徒松山上ヨリ木石ヲ擲下シ併テ狙擊ヲナシ之カ為メニ部下ノ者十四名目前死ヲ受ケ賊勢ハ益相加候間不得止部兵ニ命シ正面台場脇道ニ向ヒ銃鎗ヲ以テ賊囲ヲ突破リ一ト先小山下迠退却候處已ニ諸山守衛ノ兵ハ鳥越守線内ヘ引揚ケ賊兵悉ク交換致シ再ヒ守線取返シ事能ハス無是非正午十二時頃鳥越坂守線ヘ残兵取纏メ引揚申候

此段御届申候也

十 年 六 月 廿 四 日

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【これも大隊長だろうか。23日、22日・23日に官軍の相手となったのは、薩軍は相良長良率いる行進隊と神宮司助左衛門の奇兵隊二個中隊だった。相良は後日の可愛岳付近の戦いで負傷して谷に転落し、鹿児島に帰り着いた時には城山に入ることができず降伏したので生き残り、戦後に戦歴に関する上申書や丁丑ノ夢などの記録を残した人である。神宮司も生存し上申書を残している。鳥越周辺の台場の状況や薩軍が木や石を投げ落としたなどを記す本書は、他書よりも詳しい。23日、薩軍は前日に勝利した官軍の防禦体制が出来上がる前に逆襲することにし、結局、官軍は占領地を全て放棄している。】

六月廿六日午前第五時鳥越坂ヨリ進軍同六時半雀ノ宮ニ至リ直ニ賊徒ヨリ放擊則チ之ニ應ス相戦同十二時頃之レヲ破ル午后第四時防禦線ヲ設ケ守備相定メ申候此段不取敢御届候也

十 年 六 月 廿 七 日

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【前と同じ。末尾に年月日を記したものは大隊長か誰かの報告の写しだろう。26日、第四旅団は23日に奪えなかった鳥越と雀宮を占領した。】

六月廿九日重富表進軍ニ付午前第四時雀ノ宮発程同九時重冨ヘ至ル直ニ東餅田村ニ偵察トシテ二中隊差遣(出)シ然ルニ同村賊守兵ヨリ不意ニ放発ス則チ之ニ應ス對戦十二時過賊ヲ春花西餅田村ヘ追フ午后地理探偵ヲ為ス終リ重冨ニ守線ヲ設ケ相守リ申候此段御届候也

十 年 六 月 三 十 日(※誤字を見え消しし、訂正している個所はPCでは正しく表示できない。)

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六月三十日午前第四時進軍西餅田ヲ取リ別府川ヲ隔テヽ對戦川岸ニ守線ヲ設ケ守備致候也

十 年 七 月 一 日

【鹿児島湾北部の地名を荒っぽく説明する。現在の行政区域は西半分が姶良市、東半分が霧島市である。戦記に出てくる細かな地名を説明する。鹿児島市から続くカルデラ壁が途切れて平地が始まるところが重富姶良市)、その北東が姶良、その東で湾の最奥中央が加治木(姶良市)で中心街から北側に登る坂が龍門司坂である。】

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【7月1日、第四旅団は別府川の西岸まで達した。「征西戰記稿」によると2日、「賊ノ行進隊第十番中隊來リ降ル是ノ隊ハ帖佐郷ノ者ニシテ賊ノ爲メ久ク肥薩諸地ニ戰ヒ今ハ我軍ト別府川ヲ隔テ帖佐麓米山近傍ヲ守ル是夜十時其士官三名我遊擊第三大隊ノ哨線ニ來リ降ヲ乞フ大隊長之ヲ本營ニ致ス乃チ二人ヲ放チ衆ヲ率ヰ來ラシム〇三日午前一時其中隊長黑江豐彦以下二百ニ十六名悉ク降ル」降伏した部隊の出身地は別府川の西岸であり、地元で降伏したことになる。地図の米山は大体この辺り。地理院地図には載っていない。翌日記事に出てくる十日町は図の右翼軍と重なる位置にある。地図はカシミール3D使用。

七月三日午前第四時十日町ヲ発ス別府川ヲ渉リ進軍候處賊已ニ加治木町ニ放火シ退ク次テ日木山右端ゟ龍門司坂ニ連絡ヲ取リ守備相設ケ申候也

十 年 七 月 四 日

【6月29日以来、鹿児島湾北岸地域を西から東へ進撃中である。加治木町姶良市)の西側に別府川が南流し湾に注ぐ。姶良市の東端に日木山がある。日木山は山というよりも丘陵地帯であり、縁辺部は浸食されて山のようになっている。2万9千年前の姶良カルデラ形成時の堆積地形である。】

 

七月五日午前第四時進軍日木山越ニ向ヒ第一中隊ヲ以テ正面本路ヲ突キ第二中隊ヲ右山嶺上ニ備ヘ第四中隊ヲ海岸山越ニ迂回セシム其第壱中隊沿道探索午后第五時山麓ニ於テ開戦次テ山嶺ノ兵賊背ニ出ル賊狼狽伍ヲ乱ス走ル退テ小田越ニ至ル同十時過同處進軍海岸通リ退却ス賊ヲ第一大隊ノ兵ト倶ニ尾擊ス住吉村ニ至ル新川ヲ隔テ對戦午后七時過賊退ク同夜此地ニ守線ヲ設ケ厳重守備致候此段御届申候也

十 年 七 月 六 日 

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【日木山の丘陵地帯を南東に下ると小田があり、沿岸部の集落が隼人町住吉(霧島市)でその東側に新川が南北に流れる。彼らは沿岸平地を通らず、山地というか丘陵地帯を進撃した。】

 

討薩戰誌 3

四月一日拂暁原倉ノ官軍大舉シテ吉次峠ニ向フ賊険據リ防禦スルト𧈧ノモ我軍密ニ横山平山ヨリ銃鎗ヲ以テ半コヲ山ノ賊塁ヲ拔ク是ニ由テ吉次峠ノ賊遂ニ守ルヿ能ハスシテ潰奔ス我軍一ハ賊北ルヲ追木留ヲ衝キ一ハ行賊營ヲ焼テ三ノ嶺ノ頂上ニ坂上リ賊第一第二ノ峯ヲ棄テ第三ノ峯頭ヲ固守シテ防戦ス

【官軍は横平山から半コヲ山つまり半高山に攻め入って奪い、続いて尾根続きの低い部分にある吉次峠を攻め、高所からの攻撃に耐えきれなかった薩軍は南側の三ノ岳に退いた。】

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(※半高山を南側の吉次峠から見た風景。左遠景に木の葉山が見える。(「玉東町西南戦争遺跡調査総合報告書」宮本千恵子編から。次も同じ。)

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(※二俣古閑官軍砲台跡出土遺物:筒状の物は大砲の点火装置の摩擦管。輪っかの付いたのは摩擦管に差し込まれた部品で、これに紐を付けて離れた位置から引っ張り砲身内部の火薬に点火、爆発させる。点火後は摩擦管は空中に飛び出す。)

二日三日四日休戰

 

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(※上図は三の岳にある台場跡分布図。図をうまく取り込めないが。黒丸1は官軍、他は薩軍の台場跡。「三の岳の戦跡」古財誠也『西南戦争之記録』第3号から。次も同じ。)f:id:goldenempire:20210314091433j:plain(※三ノ岳の官軍台場跡1。南側の三の岳頂上側を向いて土塁部分があり、内側はくぼむ。背後の小さな削られたくぼ地は休憩所だろう。当時の記録に円塁という言葉が出てくるが、この台場跡のようなものだろう。円形と思うのは間違い。)

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(※同じく三の岳。三つある峯のうち、北部にある。吉次峠方向を向いて造られた薩軍の台場跡3~8。)

五日末明山鹿口ノ兵鳥栖ニ向ヒ賊ノ左翼ヨリ進佐野村田島村ノ賊塁拔キ鳥栖ノ賊ノ本營ニ乱入シ小銃五十挺彈薬貳万発ヲ奪ヒ戰ヒ已ニ八分ノ勝利ナルニ及テ賊石川村方ヨリ紆回シテ吾右翼ノ側面ヲ攻撃スルニ由リ鳥栖ヲ守リ難ク兵ヲ佐野田原ニ退ク

鳥栖には国指定の石器製作跡があり、中央に円墳2基がある。古墳の頂上一帯に薩軍の台場群が残る。縄文時代の石器石材の産地で報告書に西南戦争の名が登場しないところをみると、西南戦争を認識せずに史跡にしたようだ。植木町の古財誠也さんは「とんのす」と言っていた。】

六日暁霧ニ乗シテ各隊ヲ配布シ鯨波ト共ニ髙瀬口正面ノ荻迫村ヲ攻撃シ午後ニ至リ巡査四十名白刃ヲ提ケ賊塁ニ乱入シ殺傷甚タ夛ク胸壁両處ヲ拔ク然レノモ地形不利ニシテ賊紆回ヲ(?)ケ少シク兵ヲ退ク

【荻迫では県道建設の事前調査でこの頃官軍が籠って射撃した跡が発掘されている(山頭遺跡)。道路部分の戦跡はその後工事で深く削られて残ってないが。そこは丘陵地帯にある自然のくぼ地(かつては水が流れて川のように低くなったのだろうが)を利用しており、その幅は10㍍前後・深さ1㍍位であり周辺と共に畑になっていた。発掘場所の土層断面を見ると、くぼ地の底には厚さ50㎝位の耕作土が堆積し、その上面に小銃の弾薬や薬莢が多数分布し、その上に現在に至る表土が堆積していた。これはくぼ地が畑として永年使われた後、たまたま戦闘に好都合だから兵士が体を隠して射撃した痕跡だろう。遺物群の下に50㎝も土層が堆積しているのは、このくぼ地が西南戦争時に掘られたのではないことを示している。軍事専門家がこれを工兵隊がすべて造ったと理解し、公表しているのには驚いたが。このくぼ地には所々土俵でも積んで土塁状にしたらしく(土塁はその後の農作業の邪魔になるから撤去されているが)、その内側に薬莢が帯状に密集して出土した。推定土塁の片脇には遺物空白域があり、ここは出撃や堀畑内の通路として利用したと考える。f:id:goldenempire:20210314115751j:plain

七日山鹿口ノ官軍鳥ノ栖ヲ攻撃シ幾ント鳥ノ栖村ニ迫ル

 

八日天色猶暗黒ナルニ乗シテ荻迫口邉田野口進撃シ木留口ハ三ノ嶽ノ半服ヨリ邉田野村ノ右ノ山ニ據ル處ノ賊ヲ襲フ遂ニ賊ノ胸壁ヲ然レノモ賊亦来テ之ヲ復シ吾軍少シク退テ之ニ對シ激戰ス荻迫口モ胸壁二ヶ所ヲ取リ大砲ヲ以テ荻迫村ノ人家数戸ヲ焼ク今朝ヨリ熊本城兵破烈弾丸ヲ以テ城北ノ数所ヲ焼キ焰煙天ニ漲リ砲声終日絶ズ熊本ノ近況ハ賊髙麗門外ニアル寺院ノ石塔ヲ以テ石塘口ニテ壷井井芹両河ノ合流ヲ塞キ留メ大水ヲ以テ牧嵜田畑寺原田畑ヲ侵シ熊本ヨリ西方ニ及ヒ東北ノ通路ヲ絶チ城兵ボ突出スルヲ防キ城ヲ囲ムノ兵ヲ减シテ新兵ヲ南北ニ出シテ一ハ八代口ニ上陸スル官軍ニ当ラシメ一ハ植木口ヲ應援セシメ而乄川尻ノ病院ヲ御船ニ移シ出町縣ヱモ始メハ賊ニ与スル者凡貳千余人ナリシカ元知事細川護久ケヨリ説踰ノ書翰来ルヲ見テ非ヲ改ムルモノ少ナカラス或ハ勢ヲ勢察シテ退キ或ハ戰死シテ自今ニ至リテハ其数僅ニ七八百ニ過ギズ旧知事ケモ縣士ノ頻ニ不義ニ陷ル者アルヲ憂ヒ先日再ヒ人ヲ熊本ニ遣シテ大義名分ヲ正シテ懇ニ説踰セシメタルニヨリ過ヲ悔ヒ正皈スル者アリト𧈧ノモ新ニ賊ニ與スルモノ更ニ壱人モ無ト云又縣下ノ人民賊ノ為ニ大ニ憾害ヲ蒙リ怨嗟ノ声絶ヘス日々王師ノ至ヲ渇望スル勢ナリ

【ここまでの記述は熊本城を目指して南下したいわゆる正面軍に関する記述である。討薩戰誌は主に戦況を記しており、原文筆者の個人状況に関する記述がほとんど見られないのが特徴である。川をせき止めて熊本城の周囲を湖のようにした件は「征西戰記稿」と「明治十年戰争日記」(小川又次肉筆・高橋蔵)の3月19日に登場し、「薩南血涙史」では3月26日のこととしている。小川は「賊花岡山下ノ河流ヲ□(※この字は後刻の添付写真参照)ス爲メニ嶌﨑及野砲営前面ノ田畑流水溢レテ湖水ノ如シ」とある。「西南の役見聞記(吉田如雪正固遺稿)」では3月27日の記事に「昨日より石塘下祇園ノ際を磧を置きて小川を塞ぐ」とあり、血涙史と一致する。もう一つ、「一巡査の西南戦争 征西従軍日誌」では3月29日にこれに触れている。以上のどれも本文のように「髙麗門外ニアル寺院ノ石塔」を利用したことは記さない。】

四月六日髙瀬発翌七日宇土本營着其以来同月十三日迠本地景况四月三日賊魁別府新助逸見十郎太等賊兵凡一千五百人ヲ卒ヒテ人吉ヨリ大口ニ出テ八代ニ向フテ両道並ニ進ムカン為メ曩ニ鹿児島ニ至リ徴募スル所ト云フ(逸見十郎太別府新助ノ兵ハ我軍後ヲ衝)偶八代ヲ護スルノ官軍一中隊坂本ニ至ル次スルヲ聞キ突然衝キ来ルニヨリ吾並衆寡敵セス且地利不便ナルヲ以テ一旦小川ニ退キ宮地ニ屯在スル処ノ一中隊及ヒ他ノ二中隊及ヒ他二中隊警ヲ聞テ趣キ援フ故ニ賊一時披排スト𧈧ノモ此夜再ヒ来リ迫リ官軍頗ル苦戰

【此の日の記録には原文筆者の動向が記載されている。4月6日に玉名市高瀬を発って翌日宇土の官軍本営に到着。】

仝七日ニ至リ賊尚ホ進テ止マス八代甚タ危シ之ニ由テ我兵賊右翼ニ紆回シ大ニ之ヲ側擊ス是ヨリ先キ八代ノ士族ヲ募リテ該地ノ警備ニ供ス此日台兵ヲ合シテ奮闘賊ヲ仆スヿ多シ賊遂ニ敗レテ大口ヲ指シテ走ル此日川尻口ノ賊川尻ヲ渡リテ六彌太ヲ襲フ我憤激シテ之ヲ敗ル又賊ノ左軍河堤ヲ潜回シ雁回山ニ登リ我中軍ヲ襲ハントス然レノモ豫備スル処ノ官軍山上ヨリ擊ヲ之ヲ走ス

【六彌太は熊本市富合町の緑川支流の浜戸川を渡る場所にあり六彌太渡とも呼ばれた。南側の廻江から杉島に渡る地点である。六彌太から南方の雁回山、別名は木原山頂上までは3.5㎞程である。】

仝八日熊中城糧食既ニ乏シク且援兵ノ形狀ヲ詳カニセサルヲ以テ奥少佐一大隊ヲ師ヒテ圍ヲ衝テ間道ヨリ宇土ニ出ス城ヲ囲ムノ賊其不意ヲ襲ハレ狼狽防クニ遑アラス城兵死スル者僅ニ二名ナリト因テ城中ノ確情ヲ得タリ

【熊中城糧食既ニ乏シは熊城中糧食ニ乏シの誤記だろう。】

十三日惣軍進撃右軍ノ先軍ハ邉塲及ヒ吉田ヨリ河ヲ渉リ進撃河堤之賊ヲ扣全軍尾撃直ニ御船ヲ衝ク賊支ルヿ能ハズ火ヲ放テ走ル右軍遂ニ御船及ヒ犬塚山ヲ取リ哨兵ヲ嚴ニシテ之ヲ衛ル賊二名屠腹火中ニ投シテ死ス面白焼爛スルヲ以テ其姓名ヲ得ズトモ必賊魁ノ内ナランカト云夜ニ及ンテ賊来テ我軍ヲ襲フ我兵撃テ之ヲ走ラス中軍ハ六彌太ゟ十二斤アルムストロング砲廿拇臼砲及ヒ數門ヲ以テ河尻町ヲ砲撃ス賊大ニ苦ム左軍ハ大曲ゟ河ヲ渉リ進ンス新川ニ至ル賊豫メ河堤ニ據テ土塁ヲ築キ我兵ヲ狙撃ス我兵奮闘数回ニ及ノモ地利大ニ不便ナルヲ以テ向岸ニ達スルヿ能ハズ由テ其夜戰闘線ニ營ス

【北上する衝背軍の記事である。犬塚山は「西南戦争の流れを変えた緑川・御船の戦い」(吉本昭三郎)挿図で緑川と御船川の合流点の内側、南東から北西に走る道路の東側とされている。地理院地図では万ヶ瀬という集落があるが、この付近は標高16m前後しかなく、山といえる状態ではないが位置比定は正しいと思う。4月13日、薩軍の三番大隊長だった永山弥一郎は御船で官軍の進撃を防御できず、農家を買い取って家に火をつけて自殺した。大小荷駄の税所佐一郎も行動を共にしている。死体の記録は他には知らない。六彌太ゟ十二斤のゟはヨリと読む。】

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(※犬塚山の位置)

十四日左軍ハ小舟數十ヲ住吉ノ津ニ浮ヘ海路ヨリ二丁ヲ襲フ形狀ヲナシ全軍直ニ中央ヨリ新川ヲ渡リテ進ム賊支フルヿ能ハスシテ去ル之ニ由テ我軍終ニ川尻町ヲ略取ス賊軍益狼狽シ我軍奮戰殆ント無人ノ境ヲ行ガ如シ午后三時山川中佐一中隊ヲ卒ヒテ遂ニ熊本城ニ達ス右軍ノ先軍モ亦江津川ノ堤ヲ遡リ行々賊兵ヲ敗リ水前寺口ヨリ遂ニ城中ニ達ス

【「玉名歴史」92号に載せた別働第四旅団所属岩尾淳正の従軍日記に住吉から二丁を襲おうとした件が登場する。二丁を襲うふりをした偽計ではなく、多数の小舟を集めて進軍したが川の中ほどまで来たとき対岸から銃撃され小舟を漕ぐ民間人が負傷し、その他の者が怖じ気づいて引き返したと書いている。もともと岩尾らの部隊は長崎から宇土半島北岸に上陸しここで初めて戦闘に加わっており、別働第四旅団とはいうものの八代から北上したほかの構成部隊とは違う。】

十五日總軍熊本ニ入ル是ヨリ先キ城下四民ノ邸宅兵燹ニ罹リ畧盡クルヲ以テ大兵ヲ合スルノ地ナク本營ヲ川尻ニ置ク十五日植木口ノ賊モ亦悉ク木山ヲ指シテ走ル該道ノ官軍進撃遂ニ熊本城ニ達ス城中賊ノ圍ヲ受シヨリ五十有五日ニシテ圍始メテ解ク賊軍ハ悉ク木山ヲ經テ矢部ニ遁ルト云フ是ヨリ先キ八代已ニ無事ニナルヲ以テ守兵残シテ全軍川尻口ニ向フ此夜八代口甚タ苦戰熊本城連絡既ニナルヲ以テ直ニ数隊ヲ派シテ八代ヲ援フ未タ其勝敗ノ報ヲ得ズト𧈧ノモ熊本ノ賊敗走スルニ依リ該地ノ賊モ自ラ走ル■シ

球磨川下流域(猫谷・川谷・宮地・古麓・今泉山・遥拝山・龍ヶ峯など八代市街の東側の山地)では薩軍が退かず、官軍は交代部隊を派遣する余裕ができたものの弾薬補給ができなかった。】

四月九日荻迫口植木口休戰午後辺田野ノ山上及ヒ高林ノ賊塁ヲ進擊シ大砲ヲ以テ林中ノ人家ヲ放火シ 木台塲ト名クル所ノ胸壁ヲ拔ク然ノモ之ヲ守ルノ道ナク兵ヲ始メノ線ニ退ク同夜山鹿口ノ官軍隈府ノ賊ヲ破リ之ヲ取ル此戰ヤ賊ノ敗ルノミ先タチ密ニ三軍ヲ紆回セシメ伏兵ヲ設ケテ賊兵隈府ノ後ロナル一ノ石橋ヲ見テ之ヲ狙擊ス故ニ賊ノ横死山ノ如ク流血川ヲナス云

【一字空白がある。此の日、山鹿市の南東にある菊池市市街地の隈府から薩軍が撤退した。】

十日終日大風雨休戰滴水村ノ前面ニ柿木台塲ト名タル一ノ胸壁アリ賊ト相距ルヿ五間或ハ十間ニ過ス其距離ノ接近ナル胸壁ヲ隔テ互ニ談話スベシ賊ノ守兵甚タ多カラズシテ之ヲ拔ク手ヲ反スヨリ易シト𧈧ノモ其後ロニ又一ノ堅壁アリ之ヲ取トモ守リ難キヲ以テ敢テ之ヲ攻ス只我胸壁ヲ髙クシ賊ヲ眼下ニ見下シテ其頭上ヨリ狙撃スルニ由リ賊亦急ニ土俵ヲ積ミ上ケ我高塁ニ對ス然ノモ官軍再ヒ土俵ヲ築キ賊遂ニ守ヲ棄テ去ル

【第一旅団の10日の戦記に「荻迫村ニ一ノ柿樹アリ初メ賊之ニ拠ル後チ官軍之ヲ奪フ賊中之ヲ呼テ柿ノ木台塲ト云フ最モ著名トス賊ノ之ニ拠ルヤ固フシテ拔ケス官軍對壕ヲ穿チ進ム彼我ノ距離二十米突ニ過キス我工兵作業中僅カニ頭首ヲ顕ハス者アラハ皆賊ノ狙擊スル所トナル故ニ死傷夛クシテ甚タ苦シム又昼夜彼我舌戰アリ」(C09083521600第一旅團戦闘景況戦闘日誌(防衛省防衛研究所)0651)。荻迫の山頭戦跡で幅10m強の長い塹壕を、官軍が激戦の最中に造ったというのは如何に現実離れしているかが理解できよう。

十一日休戰

 

十二日映晴未明鳥栖ヲ進撃ス一軍ハ上生(アブ)古閑ノ方ヨリ進テ鳥栖ヲ衝キ一軍ハ小野口ヨリ進テ石川山ヲ取ントス然ノモ賊ノ防戰劇シクシテ午前九時頃兵ヲ退ク此日賊ノ擊ツ所ノ小銃二発シ一発ハ空砲ナリト云フ荻迫口ハ昨夜賊陳ニ進撃ノ気アルヲ察シ我軍警備ヲ嚴ニシ竢ツ處ニ未明ニ至リ賊軍喇叭ヲ吹キ金鼓ヲ叩キ一声打方ヲナシ我胸壁ニ迫ル我軍忽チ之ニ應シ仝シク進軍ノ喇叭ヲ鳴シ郡銃雨ノ如ク発ス是故ニ賊辟易シテ進撃ヲ止ル

 

十三日休戦夜ニ入テ西山ノ賊川尻口ノ敗ヲキゝ纔カニ哨兵ヲ留メテ退散ス此日熊本ノ方ニ当リ大小砲声終日絶ヱス輜重(此日)ヲ(官)取(軍)纏(戯)メ(大)居(砲)タル(四)故(五)我(発)大砲(ヲ発)ノ音(シ鯨)ヲキ(波ノ)ゝ(声)之(ヲ)ヲ(揚)進軍(ケ此)ノ(時)合圖(賊明)ト(日)疑(兵)イ(ヲ)非常(引揚)ニ(ン)狼狽(爲ニ)シタル由シ

【西山とは熊本城から見て西方にある山だろう。】

十五日午后鳥ノ栖植木木留諸口賊皆木山方エ退兵ス我軍三道並ヒ進ミ追撃スト𧈧ノモ及ハス僅カノ賊兵ト境ノ捨及ヒ暮ノ坂ニ相戰ヒ忽チ之ヲ破リ先軍同夜熊本ニ入ル

【14日遅くか15日に北部地域にいた薩軍に、八代から北上した衝背軍が熊本城に入ったという報知がもたらされ、薩軍は一斉に撤退し始めた。午後一時植木・荻迫・鐙田・木留・万楽寺・辺田野から三ノ岳・大多尾越(三の岳のすぐ南側の峠)に至る薩軍の陣地から黒煙が天に漲り、各地で官軍が斥候を出して偵察したところ薩軍の姿が消えていたので官軍は一斉に前進し始めた。】

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十六日惣軍進テ熊本城ニ入ル又二隊ノ官軍両道ヨリ大津ニ迫ル一軍ハ杉水ヲ過キ少シク進ム所ニ賊我右翼ヨリ横矢ヲ入レ其機會ニ乗シ左翼ヨリ切リ入タルニヨリ官軍頗ル苦戰ニテ初ノ線ニ退ク又一軍モ大津ヲ指テ進ム所ニ賊両方ノ山上ヨリ夾擊シタルカ故ニ支ヱ難ク同シ初線ニ退ク

【杉水は菊池市隈府と大津町の中間。隈府にいた野村忍介率いる薩軍が移動してきていた。】

十七日十八日休戰

【4月20日に城東会戦と呼ばれる戦闘が東は大津町、西は御船までの広い地域で行われた。これは両軍が初めて全兵力で衝突した戦いであり、次に同様の戦いがあったのは8月15日の宮崎県延岡市和田越一帯の戦いだった。討薩戰誌は城東会戦で終わる。】

 于時明治十年十一月六日(※時に明治・・・)

 晩暮ニ及ンテ寫之畢(※之れを写しおわんぬ)

 

        北村正人印寫之

北村正人氏と同名の人が一件だけアジ歴で検索出来た(「明治36年 叙位裁可書 叙位

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巻十」A10110129600)。それは内閣総理大臣桂太郎が「陸軍歩兵特務曹長勲八等大西今太郎以下十五名叙位ノ件」を奏上した明治36年の文書である。これにより当時彼が警視庁警部だったことが分かる。添付された履歴書(冒頭を掲載した)によると、北村正人氏の出身地は熊本県下益城郡下郷村であり、明治11年1月に四等巡査に採用されている。前年の西南戦争中は警察に勤務してなかった。しかし、明治13年には「鹿児島賊徒征討之際盡力候ニ付為其賞金貳圓下賜候事」とあるように戦争中は官軍側に立って何らかの尽力をしたのである。今のところ彼が写した元の史料を誰が記述したのかはわからない。

そもそも籠城日誌と討薩戰誌を作成したのが同一人物かどうかも不明である。討薩戰誌には筆者の行動をうかがえる記述が存在する。4月6日に高瀬を出発して7日に宇土本営に到着したという部分である。熊本城の囲みが解けたのが4月14日だから、籠城していたのなら4月6日に高瀬にいるわけがない。とすれば、二つの記録は別人が作成したということになる。籠城日誌では残り少なくなってゆく食料の詳細な記録が何度も見られ、一般兵士や籠城した家族では知り得ない情報だろう。

薩軍の新募部隊約1,500人が球磨川経由で八代を南から衝いている時、兵数不足の衝背軍に対して正面軍は第一旅団の二個中隊を6日に派遣した。永田少佐・井上少佐・村井中尉が率いている。別に一個中隊を八代市鏡町に派遣した。これらに討薩戰誌の原文作者が混じっていたのではないだろうか。

 

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討薩戰誌 2

二十八日ヨリ三日二日迠休戰

【2月28日から3月2日には玉名市・玉東町では大きな戦いはなかった。】

三日黎明陸軍少將野津鎭雄三大隊ノ兵ヲ卒ヒ植木口ニ向ヒ陸軍大佐野津道貫二大隊ヲ卒ヒ吉次嶺ノ賊ニ向フ植木口ノ賊ハ砲臺ヲ稻佐ノ岡上ニ設ケ我軍ノ前面ヲ禦キ胸壁ヲ木ノ葉岳ノ半膓ニ築テ我左翼ヲ狙擊ス我兵正面ノ麦田ニ散布シテ仰テ岡上ノ賊塁ヲ攻メ砲ヲ安楽寺村ニ備ヱテ賊ノ砲臺ヲ擊ツ此時ニ当リテ賊大ニ左右ノ翼ヲ張リ一ツハ木ノ葉岳ノ絶頂ヨリ進ミ一ツハ稲佐ノ南ナル坂上ヨリ進テ我両翼ノ側面ヲ襲ハントス我軍忽チ之ヲ暁リ同シク二隊ノ幹兵ヲ左右ニ分遣シテ賊兵ヲ迎シム是ニ由テ戰地三方ニ分ル山上ノ砲声実ニ天地ニ鳴動シテ激戰数刻薄暮ニ至リテ賊兵刀疲レ勢屈シテ火ヲ放テ走ル此夜我軍進テ木ノ葉口ノ賊ハ嶺ヲ下テ我兵ヲ迎ヱ戰ヒ敗レ又嶺ヲ踰ヱテ走ル我軍尾擊シテ賊將篠原国幹ヲ仆シ

 

四月未明木留村ニ至ルトモ地理ニ暗ク孤軍深入ノ不利ナルヲ以テ退テ原倉村ヲ保ツ四月植木口ノ官軍田原坂ヲ攻ム賊坂ノ半服ニ砲障ヲ築キ未タ成ラサルニ我兵急ニ進テ之ヲ取ル又坂上ノ賊ニ向フ賊険ニ據リ防戰ス我軍進ム喇叭ヲ鳴シ大兵一時ニ吶喊ヲ發シ攻登リ両軍相接スルヿ僅ニ半丁ニ過スト𧈧ノモ賊ハ塁甚タ堅フシテ拔ス此時ヨリ

【四月ではなく四日。田原坂の戦いは凹状の坂道を上る官軍と周辺に隠れた薩軍との戦闘、という風に語られることが多い。本文のように両軍は50mほどの距離で戦い、薩軍の台場はおそらく丘陵の上面や縁辺部にあったのではないか。田原坂の凹道は加藤清正遠慮深謀によるものであるといわれるが、農村地帯に行けばどこでもそうなっている。田原坂だけを見て考えず、広く肥後国を歩いて欲しい。もし深慮なら清正は大忙しだっただろう。】

同十八日ニ至ル迠晝夜連戰不休

有明海から山鹿まで両軍が対峙していたのであり、田原坂だけが戦場ではなかった。】

六日ヨリ我軍植木口ノ兵ト吉次口トノ兵ヲ合シ二俣村ニ營シ日々ニ増加スル所ノ大兵ヲ以テ屡攻擊スト𧈧ノモ賊亦極メテ防禦ス術(ジュツ)ヲ盡シ固守シ動カズ然レノモ我兵遂ニ舟底村ノ南ヨリ賊ノ胸壁數所ヲ拔キ寸得レハ寸ヲ保テ尺ヲ得レハ尺ヲ保ツ已ニ田原ヨリ植木ニ至ルノ通路ニ近キ將ニ賊ノ背面ヲ囲マントス此ヨリ先キ賊屡銃器ヲ棄テ白刃ヲ提テ我カ備ニ迫戰スル叓アリ東京巡査自ラ請フ刀剣隊ト為リ機ヲ見テ賊ノ兵中ニ突入シ縦横ニ乱殺ス又大砲數十門ヲ二俣村ニ備ヱテ谷隔テ莅ヒ賊塁ヲ擊ツヿ隙ナシ此ニ由テ賊ノ勢日ニ縮テ我兵鋭氣日々ニ振ヒ賊塁ヲ拔クヿ旦ニ至リ抑ニ田原険タルヤ髙瀬ヨリ植木ニ至ル第一ノ要地ニシテ熊本城ヲ距ルヿ四里木ノ葉ノ東南半里ニアリ右ニ金鉾ノ山脉ヲ帯ヒ左ニ山鹿ノ大道ニ枕ス

(※半頁空白がある)

正面ハ岸髙ク各深ク遥ニ木ノ葉岳ノ高山對ス眞ニ天険ノ地ニシテ若シ之ヲ捨ル時ハ通路平坦ニシテ熊本以北賊ノ恃ヲ以テ防クノ険阻ナシ是賊田原ヲ以テ埋骨ノ地ト定メ死守シテ敢テ動カサル所以ナリ

【官軍は二俣村で大砲を3月7日から使用し始めた。現地には畑の中に二俣瓜生田官軍砲台跡と南側の二俣古閑官軍砲台跡がある。12日黎明第二旅団砲兵第四大隊第二小隊黒瀬義門大尉の二分隊が二俣に着。同時に少尉試補西村精一が一分隊を率い右翼に着いた。西村の一分隊が古閑砲台だろう。13日東京鎮台予備砲兵第一大隊が加わる。二俣の20日時点の砲数は12門だった(アジ歴C09083955900「明治十年 戦闘報告 第二旅団」。彼らの戦闘報告書類は8月18日の可愛岳の戦いで紛失したというから、後日改めて作成したものである。薩軍に襲われた第二旅団本営に置いていたのだろう)。玉東町の発掘調査では、大砲の点火装置である摩擦管多数が出土し、二俣瓜生田官軍台場跡で四斤砲車の轍跡を二列、つまり砲車一台分を田原坂丘陵を向いた状態で検出している。】

十九日休戰

【官軍は翌20日の進撃を計画し、諸隊長を木の葉に集めて協議した。小競り合いはあったが全体としては小休止だったが、休戦ではない。】

二十日大雨時暁官軍一声ノ鯨波ト共ニ銃鎗ヲ以テ二俣村ノ向ナル賊ノ胸壁ノ内ニ突入シ一挙シテ十餘日落チサル堅塁ヲ拔ク賊常ニ以爲ク我兵ノ進擊スルヤ必ス大砲ヲ連発シ喇叭ヲ鳴スヲ以テ合圖トナスト然ルニ今朝ハ大砲喇叭ヲ用ヒス不意ニ進兵シタル故賊ノ狼狽譬フルニ物ナク未タ睡眠中ニ在テ其儘突殺サルゝ者モアリ又自刃シテ死スル者アリテ賊ノ死體塁ニシテ胸壁ノ中ニ充満セリ賊ノ左翼已ニ敗レテ残賊植木ヲ定テ遁逃スルヲ我軍尾擊スルヿ酷タ急ニシテ其勢恰モ烈風ノ如クナルヲ以テ賊遂ニ植木ヲ保ツヿ能ワス器械彈藥及ヒ榴重ヲ棄テ大ニ潰テ向坂ヲ越テ走ル我軍追テ夜啼ノ小崖ニ至リ隊伍ヲ整頓シテ將ニ熊本ニ向ハントスルニ当リ賊俄ニ我カ左右ヨリ襲来シ先軍ハ中軍トノ中間ヲ切断シ戰ヒ頗ル困難ナリ然ルニ田原坂ノ賊モ官軍モ已ニ左翼ヲ破ル進テ向坂ニ至ルヲ見テ谷ヲ踰テ逃レ植木ノ西ナル舞尾村ニ屯スル我中軍ヲ襲フ時ニ我兵皆四方ニ分レ戰テ中軍ノ兵甚タ寡ク一時混乱ノ狀アリト𧈧ノモ將校 剣刀ヲ振テ士卒ヲ激励シ討テ賊兵ヲ退ク我先軍亦向坂ヨリ兵ヲ植木ニ引揚ケ賊植木ニ残處ノ大砲數門小銃数日百挺ヲ奪ヒ彈藥數百箱ヲ焼キ天已ニ晩ルゝヲ以テ戰頭線ヲ植木滴水円大寺ト定メ上木葉村ノ第一第二旅團本營ヲ七本ニ移ス

田原坂丘陵は「く」の字に曲がった平面形をしており、前日まで二俣の前方にある屈折点の上面に官軍は達して接近戦を繰り返してきた。20日早朝、付近の薩軍台場で眠っている敵を奇襲して勝負がついた。すると丘陵先端部の薩軍は背後を奪われたので守地を放棄して退却し、官軍は一気に植木まで追撃し、さらに右折して熊本を目指して追撃した。その後、向坂において逆に背後を突かれて官軍は植木に退く。田原坂は突破したものの、この後、熊本城に達するにはまだ一月弱を要することになる。】

二十一日植木口休戰山鹿口ノ官軍進テ山鹿ヲ攻擊ス賊田原ノ賊コレヲ聞キ戰ハスシテ逃去ル

【官軍は植木を中央として向坂の薩軍に相対し、左翼は山鹿、右翼は滴水・原倉から海岸まで延びていた。21日午前一時、薩兵数百人が植木左翼に襲来したのを始め、各地で戦闘があり、官軍の死傷は91人だった(「征西戦記稿」巻十の六)。】

二十二日官軍木留荻迫植木ヲ進擊ス然レノモ賊ノ防禦固フシテ破ルヽヲ得ス

20日田原坂薩軍が敗れた後、山鹿の薩軍は南東側に13㎞程菊池市隈府付近に移動した。薩軍の台場群は鳥栖(とんのす)を右翼とし、向坂を中央、木留を左翼として三日月状に展開していた。】

二十三日木留植木荻迫口ハ前月ニ同シ吉次口一圓ハ原倉ヨリ進ミ一軍ハ横山平山ヨリ進ミ幾ント半ヨリ山ノ絶ニ至ルトモ賊塁ヲ拔クヿ能ワス退テ初メノ線ヲ守ル

【※絶頭の頭は消され、頂が上に加えられている。3月3日、初めて吉次越・半高山を攻めたのは西側からだったが、以降はまず北側にある横平山を奪い、引き続き半高山を攻撃する方法が取られた。半高山を奪えたのは4月1日だった。】

 

二十四日激戰左翼ハ進テ木留甼ノ近傍ニ至ル

 

二十五日朝五時賊大挙シテ植木木留ヲ攻擊シ我胸壁ニ迫ルト𧈧ノモ我軍奮戰遂ニ之ヲ討チ退ク久シウシテ中央ノ荻迫ノ近傍ニ当リ砲声鯨波並ニ起リ八時頃ニ至リ賊深谷ノ中ヨリ進テ滴水村ノ砲塁ニ攻メ登ル我軍忽チ援兵ヲ以テ之ニ應シ稍ク賊ヲ追ヒ退ク然ノモ吾昨日占メ得タル荻迫口戰地ノ半ヲ失ヘリ二十五日正午十二時ヨリ進擊植木口ハ大砲ヲ以テ之ヲ攻擊シ鯨波ヲ揚ケ声援ヲ為シ大ニ右翼ヲ進メ円大寺ノ本村ヲ焼キ賊ノ砲台数所ヲ拔テ木留ニ迫ル中央モ亦進テ荻迫ニ迫ル

 

二十七日大砲ヲ以テ木留及上古閑村ヲ焼キ風猛烈ニシテ火勢殊ニ熾ナリ

 

二十八日木留口ヲ進撃ス賊上古閑村ノ岩上ニ據リ烈シク防戰ス官軍進テ賊塁ニ迫ルト𧈧ノモ絶壁削ルカ如ク路上攀リ可キナキヲ以テ木留ヲ距ルヿ纔ニ一丁余ニシテ對陳ス

 

二十九日休戰

 

三十日夜三時一軍ヲ分遣シテ原倉ヨリ三ヶ嶺頂上ニ登ラシム官軍枚ヲ含ミ夜ニ乗シテ賊ノ第一ノ胸壁ヲ拔キ尚深ク進入スルニ賊ノ大兵山上ヨリ出テ来リ防禦甚タ嚴密ナルニヨリ敢テ戰ヲ好ス乃チ兵ヲ退ケ此日兵ヲ三ノ嶺ニ登ス其意蓋シ木留ノ前面地形険阻ナルニ因リ山上ヨリ木留ノ背面ヲ衝クニヨルナリ

【原倉から三の岳(ここでは三ヶ嶺)頂上(標高293m)までは約3㎞。この山の北麓尾根には台場跡1基が三の岳を向いてあり、官軍が築いたものである。また、頂上手前には6基の台場跡が原倉方向を向いて存在し薩軍が築いたことが分かる。】

三十一日休戰

※「新編西南戦史」の附図を示します。

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討薩戰誌 1

 



【表紙には戰誌とあるが、ここでは戰記となっている。】

討薩戰記

二月二十二日福岡ノ臺兵一大隊髙瀬口ヨリ進テ植木ニ至ル賊兵亦来テ之ヲ迎ヱ両軍大ニ向坂ニ戦フ我兵遂ニ利アラス植木ノ糧倉ヲ焼キ退テ木ノ葉ヲ守ル

鹿児島市にある陸軍砲兵属廠が私学校徒に初めて襲われ、弾薬が奪われたのが1月31日である。その前、28日に陸軍卿山縣は大山陸軍少輔を通じ熊本鎮台司令長官谷少将に次の命令を下している。それは、熊本鎮台配下の小倉分営の第十四聯隊(長は乃木希典少佐)に移動を命じるもので、一個中隊が2月11日に小倉を出発し海路長崎に到着している。もし鹿児島県士族が決起すれば海上交通の要衝であった長崎が襲われるだろう、との予測によるものである。長崎県令はもっと増員してほしいと乃木に頼んだが、乃木は谷少将と協議して別の部隊を小倉から久留米に向かわせた。その際は行軍演習を名目にしており、残りの部隊には出戦準備を命じた。2月22日、薩軍先鋒は植木に入っていたが官軍の接近を知り、少し後退して向坂で乃木部隊と交戦した。官軍は敗走し、西方の木ノ葉部落一帯で夜を明かした。この時点で第一旅団(野津鎮雄少将)と第二旅団(三好重臣少将)は福岡市まで到着していた。】

廿三日我軍斥候兵四十人ヲ出シテ賊ノ形状ヲ探偵ス時ニ賊兵遂ニ襲来ス直ニ大隊ヲ繰リ出シ戦ヒ正ニ酣ナルニ及テ第二大隊ノ二中隊モ木ノ葉ニ着シ戰ヲ助クル中賊兵突然木ノ葉嶽ノ麓ヲ繞リ我兵ノ左翼ヲ衝キ攻擊酷タ鋭ク官兵已ニ遠路ニ疲ル且寡ヲ以テ退テ南ノ関ニ據ル

【昨日22日植木から木の葉に退いた官軍第十四聯隊は、この日東に向かって中央は道路・左翼は木の葉山の麓にある村落・右翼は川の堤防に展開し、植木方面の薩軍に備えると共に、20余人の兵を植木に出し、彼らは薩軍を誘いつつ官軍が待ち構える所まで退却してきた。朝8時半に戦いが始まり、官軍は夕刻には退却を決めた。後退を援護する40人ばかりの兵は木の葉の西1.5㎞の稲佐村の少し高い丘、おそらく北側の丘、に拠ったが、その直後に背後の木葉山から薩軍数百人が襲い掛かった。彼らはそれまでいた山鹿(木の葉の北東約12㎞)方面から玉名(木の葉の西北西約5㎞)・南関(木の葉の北北西約18㎞)を攻略しようと真夜中に出発した部隊だった。木の葉方面に銃声が盛んに起こるのを聞き道を転じて官軍の背後に出たのである。結局官軍の一部は玉名市街地の北約5.5㎞の川床に退き、本体は南関に退いた。薩軍は暗くなったため追撃を諦めて木の葉・稲佐に留まった。当時、本州から来援の官軍、第一旅団は福岡県小郡市松崎(九州縦貫道と横断道が交差する地点の4㎞東)まで、第二旅団は太宰府まで進んでいた。】

二十四日廿五日休戰

【24日第一旅団は松崎から玉名市高瀬に向かい、第二旅団は久留米まで進み一部は熊本への西側路線で大牟田市三池に到着した。久留米の南約10㎞の羽犬塚から熊本県に南下する路線は二つあり、東側の南関町経由か西側の大牟田市三池経由が当時使われた。西側から高瀬を目指したわけである。高瀬は玉名市市街地東部にあり菊池川の水運で栄えた港町である。両旅団本隊は南関で25日に合流することにした。日誌は休戦とするが、25日第一旅団は高瀬とその東北側にある迫間村に進み小代山でも戦いがあった。旅団の戦闘はこの日が初日である。戦誌原作者は戦場から遠くにいたのであろう。】

二十六日陸軍少将三好重臣西京ヨリ新来ノ兵及福岡ノ臺兵ヲ卒ヒ髙瀬船隈村ニ進テ兵ヲ分テ二隊トナシ一ハ迫間ノ後ヲ過キ木葉山ノ麓ノ賊塁ヲ攻メ一ハ寺田村ノ賊兵ヲ擊ツ賊死ヲ决シテ防戦スト𧈧ノモ我軍鋭鋒ニ当リ難ク近傍ノ民家ヲ放火シテ遁走ス我軍木葉迠追擊シテ船隈村ニ皈ル此日賊ノ死骸道路ニ陸續タリ蓋シ木ノ葉口ニハ薩兵迫間ノ渡髙瀬口ヨリ来リテ我陳ヲ襲ヘ我兵急ニ之ヲ接シ大砲ヲ髙瀬川ノ堤上ニ備ヱ對岸ノ賊兵ニ当ル賊亦我砲臺ヲ望テ群銃発弾丸雨ノ如シ是時ニ当テ三好重臣創ヲ蒙リ我軍頗ル苦戦ノ狀アリ勢イニ乗シ河上ノ瀬ヲ渡リ吶喊シテ我左翼ヲ衝キ玉名郡ノ茂林中紆廻シテ我南関ノ通路ヲ断タントシ同時ニ高瀬口ノ賊モ亦河ヲ過キ三池路ヨリ我右翼之側面ヲ攻擊ス此ニ於テ三面ニ敵ヲ受ケ進退維ニ然レノモ我兵山谷ノ間ヲ越ヱ玉名ノ賊背ニ出テ挟シ擊テ殆ト賊兵ヲ塵ニス黄昏至リ賊大ニ乱レテ走ル我兵敢テ北ルヲ遂ハス備ヲ嚴ニシテ後軍ノ至ル待ツ

玉名市街地の東側を東北から南西に流れるのが菊池川である。26日・27日、薩軍桐野利秋村田新八篠原国幹・熊本隊、官軍は第一(野津鎭雄)・第二旅団(三好重臣

)と小倉分営の鎮台兵が激突した戦闘であり、敗退した薩軍はこれ以降、積極的に福岡県方面への前進を行うことはなかった。】

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参考のために、以下に「新編西南戦史」の附録図を示します。

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「籠城日誌 討薩戰誌 全」4

 


 四月四日

曇天此夜暗シ時已ニ九時頃ニ至リ人ヲ出シテ高瀬旅團ニ使セシム又能ハズシテ歸ル

【「熊本鎭臺戰鬪日記」によると、この日「士卒九名ヲ出シ坪井草塲町ノ學校ヲ火シテ其近傍ヲ偵察セシカ賊兵凡ソ十名草塲町北方ノ砲臺ヨリ遽カニ發射シ爲メニ兵卒一人ヲ傷ク」とある。3月27日に攻撃した草場学校からは、4日段階では薩軍の姿は消えていた。】

    仝 六日

糧已ニ乏シキヲ以テ籠城一般粥食ヲ給ス各兵隊ハ朝壱度其余司令官始メ隊外ハ朝夕二度其余平事ト𧈧モ粟飯也其割米一舛ニ粟三合ヲ加フ

【6日の「熊本鎭臺戰鬪日記」によると、「米一升ニ粟三合ヲ加フルナリ」とある。

    仝 七日

今暁南方ノ砲声甚タ近シ疑ラクハ是川尻或ハ宇土ナラン且ツ軍艦砲モ亦タ烈シ其響キ西山ニ轟キ雷ノ如シ依テ明天突出兵一大隊ヲ出シテ賊ノ後ヲ突キ官軍ノ道ヲ開キ且ツ城中ノ情ヲ告ント軍儀一决ス合シテ曰賊中ヲ突キ死傷顧ルヿ無ク壱人モ官軍ノ在處ニ達スルヲ要スル而已

【4月4日、衝背軍先鋒は熊本城から8.5㎞の緑川南岸に達していた。南から宇土町・緑川・川尻・白川・熊本城の位置関係である。この7日作成された一大隊を出兵させる案は北方に進撃するもので、京町本丁の北隣の出町を放火し、出町から植木を目指すものだった。しかし、その後に南方の川尻の戦闘が猛烈になるとともに戦場が近づいてくる状態となってきたため、当初案を変更し南方の川尻を目指すことになった。】

    仝 八日

昨日進擊ノ軍議决スルニ依リ今暁三時諸隊尽ク兵粮ヲツカイ第四時千葉城下ニ整列進擊隊一大隊ト一中隊ト小川大隊長之ヲ司ル外ニ巡査一小隊之ニ従フ突出隊一大隊ハ奥大隊長之ヲ督シ第五時前先ツ進擊隊ヲ三分シ一ツハ直ニ安政橋ヲ突キ其ニ分ハ左右翼トナリ廣丁髙田原ヲ進ミ各安政橋ヲ目途トシ鳴ヲ潜メテ進ム時ニ夜已ニ明ントス本道ノ一手安政橋ニ達スル迠賊之ヲ知ラズ此時安政橋ノ胸壁ヲ一時ニ発炮砲声天地ヲ振ハス橋下ノ賊不意ヲ擊ル大ニ狼狽一発モ放ツヿ能ハス兵器彈薬ヲ捨テ走ルアリ或ハ裸ニシテ川ヲ渡リ迯ル在リ此時突出ノ一大隊ハ直ニ安政橋ヲ渡リ水前寺ニ至ル時夜已ニ明タリ夫ヨリ健宮ニ至リ一大隊ヲ三分シテ各所ヨリ川尻ニ出ツ此所ニ賊モ官軍モナキヲ以テ直ニ進テ宇土ニ至リ賊尻ヲ突キ無恙官軍ニ達スルヿヲ得ルト云フ死二人ナリト云フ(此隊傷二人)進擊隊ハ猶賊ヲ八方ヘ追擊退散ノ賊夛ク長六橋ニ上リ大ニ官軍ヲ砲擊本岡山長六橋ヨリ大砲ヲ発ス實ニ安政橋ヘ彈丸飛散スルヿ霞ヨリモ甚シ右翼ノ軍ハ髙田原ノ楠丁辺ニアリテ長六橋ノ賊ヲ擊チ左翼ノ軍ハ半ハ分レテ狐森ノ賊ヲ擊チ又ハ直ニ九品寺村ヨリ退キシモノ此処ニ止ル(安政橋ノ賊長六ニ迯ケタル者)其半ハ新屋敷大江村ヲ擊ツテ子飼邉ニ至ル此時九品寺村ニ米庫アリヲ揚ケンセシニ当縣士族ノ教導ヲ得テニ依テ之ヲ知ル(生捕ノ賊ノ口書)子飼ヨリ大ニ進ミ来ル時退キテ新屋敷ヲ守□る故ナリ(始メ官兵子飼ヘ進ミシガ聚糧ノ)此時官軍大半兵ヲ哨兵ニ出シ少シク在ルヲ囲ミ砲擊甚シ官兵防クヿ能ハズ道ヲ分ケテ退ク賊之ヲ見テ追擊此時大尉某十四五名ヲ引テ援ク依テ退クヿヲ得タリ五六人(此時死傷)

追 加

本日戰ニ生捕七人体ノ者(内四名ハ人夫)賊ヲ仆スヿ無數現ニ安政橋下ヨリ上下河原ニ仆レタル者三十四人川向フ所〃ニ畑中ニ仆レタルヿ若干ナルト云うフ官軍モ死傷若干アリタリ

【奥少佐の率いた第十三聯隊第一大隊の人数は戦後の10月段階では795人だった(鎭臺日記附録の熊本鎭臺諸隊人名表による)。兵士一人につき、小銃弾藥150発と餅4個・握り飯1個・馬肉50目(目は約3.75㌘)・水吸器(水筒の事。ブリキ製水筒とガラス製革貼り水筒とがあった)を携帯させた。下のブリキ製水筒写真は「佐賀の乱と武雄」(平成二十七年度武雄市図書館・歴史資料館 特別企画展)図録から。熊本城飯田丸跡の発掘調査では密集した状態で水筒破損品が出土しており、材質は報告されてないがブリキ製水筒らしい。写真の水筒は昔は田原坂の弾痕の家で展示されていたとの事。弾痕の家は当時の家だと勘違いされるが、西南戦後、古材を集めてそれらしく建築したものである。

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    四月九日

昨日米ヲ獲タルニ付粟粥ヲ廃シ換ヘテ米粥トナスニ飯モ亦タ二割ニ减ス始メ粟粥ヲ給スルヤ城中ノ貯米ヲ算スルニ米粟合セテ四月十八日ニ盡ク依テ粥食ヲ行フ如是同廿二日迠達スル算也シガ昨日獲タル所ノ米ニヨリ殆ント五月下旬ニ達スル算ヲ得タリ

【やけに食糧事情に詳しい記述である。原文作者は何者だったのか。】

    四月十日

慰勞金ヲ給フ其文ニ曰

当臺守城已ニ五旬ヲ経ルト𧈧ノモ人不撓守備倍嚴ニシテ最初ノ戰闘以来曽テ賊ノ侵襲ヲ受ケズ我兵數回ノ攻擊毎戰捷ヲ奏シ殊ニ一昨日突囲進擊ノ如キハ十分勝利ヲ獲ルト謂フベシ是偏ニ各隊各部同心戮力我カ  天皇陛下ノ爲難苦ヲ不厭各其職ヲ勉励スルノ致ス處屡勝利ヲ得賊勢挫折シ不日其成功ヲ奏ス可キ必ス然ニシテ深ク感賞ノ至リニ候進テ其筋エ上申ニ可及候条此旨篤ト可申聞此旨相達候也

    明治十年四月十日  陸軍少将谷干城

 

右者別帋添ルト𧈧モ畧ス

夜十二時俄ニ砲声ヲ聞高瀬ノ官軍進ミ来ルト覺ヱ漸ク以テ近ツキ已ニ三ノ嶽ニ当リ砲火ヲ見ル夜明ケ而シテ砲聲止ム

 

    仝十二日

南北共ニ砲声熾ナリ北方ハ無程止ム南方ハ倍烈シ宇土邉ニ当リ火ノ手揚ク炎焼天ヲ焦ス砲声轉シテ木原山ノ麓ニ聞ユ午后ニ至リテ止ム

【木原山は熊本平野の南側に東西に展開し、最高地点は標高314ⅿ。伝説では鎮西八郎為朝が城を築き、弓の練習で雁を射るので雁が山を避けて飛んだので雁回山とも呼ばれる。縄文時代には麓まで海が入り込み、曽畑貝塚・阿高貝塚・黒橋貝塚・御領貝塚などが山裾に分布する。】

    仝十四日

昨夜半ヨリ川尻ニ当リテ大小砲声聞ク次第ニ近ツキ今朝ニ至リ兵火甚タ熾ナリ川尻ヨリ薄葉邉迠ノ間一円火起きル砲声倍ニ烈シ此時天守台ヨリ見ルニ二本木ノ賊走リテ水前寺ニ向ヒ退ク陸續山ノ如シ城中ヨリ大砲ヲ発テ之ヲ擊ツ實ニ愉快ト云フベシ午后城中ニ兵ヲ勒シ已ニ発セントメナリ(官軍ヲ迎ンタ)豈ニ圖ンヤ官軍一大隊計リ旗ヲフリ喇叭ヲ吹キ山嵜練兵塲ニ来ル依テ城中ヨリ先ツ参謀士官出迎ヘテ其隊長ヲ引キ而乄兵ノ人員ヲ調ヱシニ賊壱人人夫ニ紛レタリ之ヲ縛シテ悉ク城中ヘ入ラシム后薄暮ニ至リ安政橋ヨリ一大隊来リテ城中ヘ入ラシム此時猶建甼出甼ノ賊走ラズ故ニ兵若シテヲ出シ京町口ヲ残シ三方ヨリ建町ヲ攻擊ス午後七時ニ至ルト𧈧ノモ賊能ク防禦スルヲ以拔ケス尽ク兵ヲ揚ク

【最後の方、「兵若シテヲ」は「兵若干ヲ」を写し間違えたらしい。先頭を切って熊本城に達したのは別働第二旅団の山川浩中佐の部隊だった。籠城軍は喜んだが、後塵を拝した他の官軍将校たちは囂々と不満を漏らし、山川中佐は後で旅団長の山田顕義少将から譴責を受けることになった。事前にあった黒田清隆参軍の命に違反したからである。つまり、15日に川尻東方にある木原山にのろしを揚げるのを合図に熊本に突入せよと諸旅団に命じていたのである。「征西戦記稿】には「山川中佐獨リ之ヲ守ラスシテ擅ニ挺進セリ・・」とさんざんである。宇治川の先陣争いの西南戦争版ともいえる。】

      四月十五日

午後三時植木口ノ声砲ヲ聞ク忽チ火ノ手所々ニ揚ル無野出邉ニ火起ル此時出町賊一時モ我胸壁ニ発炮弾丸来ルヿ雨ヨリモ甚タシ戦フヿ三十分間賊出町火ヲ付ケ而シテ迯去リ午后三時出町ヨリ官軍斥候四人来ル故ニ賊カトウタガフ(此時城中賊ノ迯去リテ)我砲台ヨリ之ヲ見テ已ニ大砲ヲ発セントセシニ四人斥候旗ヲ振リ官軍ナルヿヲ示ス依テ之ヲ迎ヱ問賊已ニ植木口退去シ是ニ来ル間一度モ戰フヿナシト云フ夜ニ入リ植木ノ官軍大半来ル山野燎火ニ輝キ白日ノ如シ

本日二本木邉ノ土人ノ咄シヲ聞ニ賊ノ者西郷昨日長持ノ中ニ入リ甲佐ニ迯シト云フ故ニ長持ニ入リタルト云フ(西郷破烈ニテ髙股ヲ傷シ)本日旅團ノ土産トシテ白米千俵生牛二十頭ヲ籠城中ノ者ヱ贈ル依テ牛肉ヲ配賦シテ始メテ腸中ヲ観ハス

 

       御沙汰書寫

 

 

鹿児島縣逆徒益兇暴ヲ逞フシ熊本城ヲ閧シ攻擊ニ及候處殊死力戰屡ニ賊徒ヲ擊ツ破能ク孤城ヲ堅守候段叡聞ニ達シ候處深ク苦勞ニ被思召候依テ爲慰勞酒肴下賜候条猶此上奮勉兵士ヲ卒ヒ励シ速ニ平定ノ功ヲ可奏旨御沙汰候事

  但士官兵隊ヱモ此旨可相達事

 

 以上が籠城戰誌です。次回は討薩戰誌を紹介します。原文筆者と写本作成者についてそこで考える予定です。末尾の画像で分かるように同じ罫紙に連読して写されています。

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「籠城日誌 討薩戰誌 全」3

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【上図は「新編西南戦史」の付図(2月27日の官軍出撃戦闘要図)である。横向きを修正できないまま掲載する。白川西岸の千草学校を二手に分かれて進行して攻撃したとしている。北側からの一手は観音坂を通った筈だから図中の内坪井町という字の北側の東西道路を通ったとすべきだろう。図のように現在の白川公園に攻撃目標の学校があったのだろうか。】

仝二十八日ヨリ三月二日ニ至ル

小銃ノ戰ヒ無シ毎日賊ノ花岡山ノ砲台ト互ニ戰争熾ナル而已

29日・31日・2日は城の東側では戦闘がなかった。1日、坪井地方に食料を集めに行き19日分の玄米を獲得している。】

    仝三日

始メ戰争ヲ聞ヤ二月二十四日宍戸看獄ヲシテ髙瀬ノ旅團ニ使セシム賊中ヲ忍ヒ辛フシテ仝二十七日髙瀬ニ達シ直ニ三好少將刀木少佐隊長(十四聨)ニ面會城中ノ難苦ヲ告ケ加フルニ糧米ノ乏キヲ以テシ依テ日ヲ期シテ賊ヲ破リ熊本ニ来リ援クルヲ聞キ仝二十七日仝所ヲ発シ本日帰台城中是ヲ聞キ大ニ勇ミ鋭氣十倍ス

【熊本城西側金峰山の南西に百貫港がある。224日、百貫沖から大砲の音が聞こえたので海軍軍艦が来航したと思い、監獄宍戸正輝と県吏二人を派遣したのである。彼らは衣服を変え、下馬橋から抜け出て金峰山南麓の高橋から同じ北西麓の河内を経て陸路で高瀬の第十四聯隊と南関の官軍本営に達した(「明治十年西南戦史」陸軍中将緒方多賀雄遺稿)。

     仝六日

午前ヨリ髙瀬ノ砲聲ヲ聞ク

【この頃、熊本城救援を目指して南下中の官軍正面軍と、それを阻止する薩軍との間で激闘が続いていた。玉東町二俣や東に隣接する植木町田原坂付近、そこから北東側にある山鹿地方での戦いである。2月末以降は高瀬では戦いはなかったが、熊本城からすれば田原坂付近も高瀬と同じ方向である。】

 仝七日

午前八時頃賊四方ヨリ迫リ砲撃花岡山安政橋向フ并ニ出甼下肥取阪上ニ砲臺ヲ築キ三方ヨリ破烈丸ヲ発スルヿ熾ナリ殊ニ肥取坂ノ彈丸吾炊事ノ塲ニ近キ因テ尽ク頭上ニ破烈シ實ニ百千ノ雷ノ一時ニ落ルカ如シ耳忽チ聾トナル此勢ニ炊夫等大ニ恐レ置ク處ヲ知ラズ依テ暫時盡ク工兵方向ノ材木ノ中ニ入ル如是烈戰ト𧈧官軍橈マズ防戰ス依テ十一時ニ至リ賊全ク退去ス此日死傷十余人

肥取阪は白川に架かる大甲橋とすぐ下流安巳橋または安政橋とも呼ばれる橋の間にあたる白川右岸の場所。】

    仝八日ヨリ十日ニ至ル

賊ノ三方ノ大砲頻リニ来ル晝夜止ム時ナシ是カタメ両三人死傷在リ且髙瀬ノ砲声日々聞ヘサルナシ

     仝十一日

午後二時賊又四方ヨリ破烈丸ヲ城中ヱ射撃ス本日長六橋際ニ砲臺ヲ増ス故ニ四方ナリ我各所ノ砲臺ヨリ賊ノ砲臺ヲ擊ツ適々埋門ノ砲臺ヨリ發スル彈丸賊ノ肥取阪ノ砲臺ニ的射シテ之ヲ崩ス是迠大砲彈丸ノ發射スル今日ノ如キ熾ナル為ニ炊夫二人ヲ傷ク其外嶽ノ丸等ニモ死傷アリ

今日午後賊人夫者ヲシテ城中ニ使セシム且本夜片山邸或ハ京町其外所〃ニ矢文ヲ送ル其文ニ曰シモ同文(使ノ者持来リ)

  今般政府妄ニ暗殺ヲ謀リ自ラ国憲ヲ犯スノ罪有之尋問ノ爲西郷陸軍大將外二名衆ヲ師ヒ此ニ至ル然ルニ当縣鎭台名義辯ゼズ城ヲ閉テ逆ヘ拒キ人民ヲ妨害ス其罪甚シ我衆憤怒シ將ニ日ヲ刻シ城中ヲ塵ニセントス然ノモ糟昧脅従ノ輩其事情閔ム可キニ有リ諸々前非ヲ悔ヒ兵器ヲ捨テ来服スル者ハ必シモ其罪ヲ問ス且山鹿髙諸瀬諸道ノ東軍我悉ク之ヲ擊破ス各縣義兵ノ起蜂ハ巣ヲ破ルカ如シ然ルニ公等猶孤城ヲ守リ糧竭キ援堪ヘ危キヿ瞬息ニ在リ公等其速ニ向背ヲ决セヨ

     三月    鹿児島本陳

 

      熊本籠城諸君 

 

是ヲ見テ人臍ヲ噛ンテ笑ハサルハ無シ

【埋門は城域北部にある。薩軍の投降勧告書について。

薩軍は矢文を11日、12日に城内に打ち込んだ。また直接人が持参している。三行目の糟昧脅従ノ輩の糟は原文では左を月にしているがこのような活字がなかった。投降勧告書をもたらしたのは人夫者としている。「薩南血涙史」では「死囚をして書を齎し城中に投ぜしめたり。城兵頻りに銃を發すれども死囚屈せず、終に城中に達することを得たり。」とある。「征西従軍日誌」では「また、夫卒をしてもってこれを送り来せりとなり」とある。

内容は「西南戰鬪日井注附録」・「熊本鎭臺戰鬪日記」・「征西戦記稿」・「征西従軍日誌」・「薩南血涙史」にも略同文が載っているが、この籠城戦誌は全体的に説明が多くなった部分が見られる。この文に対する官軍側の反応について「熊鎭日記」・「戦記稿」は触れていないが、「従軍日誌」では筆者巡査喜多平四郎が上官に対して勧告書に返答したのかと問うと情勢は返答し易くないと答え、書き写そうとすると止めておけ、お前の死体が敵に取られた場合に不都合だから、と言われた。しかし、喜多は秘かに写し取ったと記している。内容が記録によって異なるのは、微妙に異なる何通もがもたらされたと考えたい。】

    仝十二日

暁ヨリ小島ニ当リ軍艦砲声ヲ聞ク午後五時巡査隊長池端某等二人突然隊下數名ヲ引テ突出賊ノ屯所段山ヲツク之ヲ見テ仝隊長モ亦數名突出馳セテ共ニ力ヲ合セ進擊賊能ク防ク依テ大ニ戰フ勝敗ナシ此時夕陽ニ至リ已ニ兵ヲ揚ントスルトキ台兵モ援テ賊ヲ擊ツ砲声山川ヲ動カス夜ニ入進ンテ段山東半地ヲ取ル賊新八幡ノ能塲ニ在リテ防ク官軍是ニ對スル其間五六間官軍ハ僅カノ小楯ヨリ戰フ故ニ死傷夛シ官軍荒手ヲ入替ヘ終夜擊戰止マズ

【小島は熊本城の南南西約5.5㎞にある集落で、そこから海までは3.5㎞である。小島方向の八代海から軍艦の放つ大砲の音が聞こえたのである。この日、たまたま城内北西部の片山邸からの砲弾が段山の人家に命中して火事になり、敵兵数名が逃れ出るということがあった。警視隊の川路・池端両警部は好機会到来とみて十数名で段山に進撃したのが発端となり、両軍とも援軍を出して翌日まで続く大激戦に変化してしまった。官軍は12日の死傷者は34人以上、13日の戦死者40人・負傷者93人を出し、段山から薩軍を追い払うことができた。】

仝十四日ヨリ二十二日ニ至ル

賊各所ノ砲臺ヨリ大砲ヲ射擊スルト旅團ノ砲声ヲ聞クヿハ日々ノ事ニテ記スルニ足ス故ニ畧ス

是日迠ノ間タハ進擊ノ折々且間々兵ヲ出シ糧米ヲ聚メ若干ノ其米ヲ得漸ク餓エザルニ至ル

    仝二十三日

夜已ニ明ントスル頃兵ヲ出シ日向嵜ノ賊ヲ擊ツ賊胸壁ニヨリ防戰スルヲ以テ暫時ニ乄兵ヲ揚ク京町モ亦進擊シ仝様タルヲ以テ同時兵ヲ揚ク

仝二十七日

暁四時京甼ノ賊ヲ擊ツ惣兵ヲ三分シ一手ハ本道ニ進ミ二手ハ左右ニ進ム左翼ハ牧嵜村ニ迫ル已ニ本妙寺ニ登ントス時賊忽チ発炮官軍彼カ胸壁黒門ニ在リ迫リテ大ヲ戰フ此時京甼モ亦戰ヲ始メ賊ノ胸壁ヲ拔ントス三ヶ所ニ築ク(胸壁柳川甼)賊防戰甚タ勉ム時ニ夜未明巡査ノ一隊深ク進テ胸壁ノ後ロニ在リ戰フ知サル故ナリ(胸壁アルヲ)賊忽チ後ロニ依リ発砲ス故ニ驚キ退キ退去ス此時死傷五六人午後ニ至リ胸壁ヲ奪ヒ始メテ手負死人ヲ揚ク是ヨリ暫時大ニ戰フ未タ勝敗决セズ此時大原ニ進ム右翼賊ヲ破リ柳川甼ニ攻登リ賊ノ後ロヲ擊ツ賊狼狽シテ退ク依テ胸壁ヲ奪フ烈戰セシニ惜哉賊之ヲ携ヘ迯ケ去シ跡ナリ(此所大地一門ヲ据タルヲ奪ハレ爲メ官軍)進テ京甼口ニ至ル賊此所ニ大ニ胸壁ヲ築キ殊死シテ戰フ故ニ拔クヿ能ハズ牧嵜ノ戰モ兵ヲ換ヘスニ攻擊スルト𧈧ノモ賊要地ノ胸壁ユヘ終日拔ケズ時日已ニ没ス忽チ牧嵜村一圓所々ヨリ火起リ火光天ヲ蕉シ白日ノ如シ砲声忽チ止ム軍人悉ク兵ヲ揚ク京町本甼入口ニ胸壁ヲ築テ守ル

【京町が盛んに登場する。京町は熊本城北側に隣接する地域で、本来は連続した丘陵地形だが城の防禦のために東西方向の深い堀で区切られている。町は南北約680ⅿあるので決して狭い場所ではない。柳川町は京町の内部、北東部のことらしく薩軍の台場が3基あったという。その北側が京町本丁で、この日は京町北端まで占領しそこに胸壁を築いたのである。】

    仝二十九日

午后京甼ヨリ髙瀬旅團ニ在ル米田虎雄ノ使来ル

     仝三十日

昨夜海軍砲声熾ニ聞ユ又松橋邉小銃砲声甚熾ナリ始牧嵜村進擊スルヤ賊西山ノ手防禦サキヲ以テ又我進擊ヲ恐ル石塘口ノ川ヲ塞キ水ヲ决テ本妙寺田畑ニ水ヲ蓄フ依テ所々水増シ海ノ如シ

【包囲された状態の熊本城を北側から解放しようとする策が進展しないので、3月19日に熊本城の南方に当たる八代海沿岸の日奈久南西にある須口(熊本城の南西約44㎞)に新たに編成した衝背軍を上陸させ、北上中だった。宇土半島の付け根南部の松橋付近まで官軍が北上していたのである。城から松橋までは16㎞、衝背軍は行程の3分の1を残すのみになっていた。4月1日になると薩軍の新たな募兵1,500人を別府晋介・逸見十郎太が率いて、人吉から球磨川を下り八代に来襲しようとしていることが判明した。衝背軍は前後の敵に対応する必要が生じ、北上の勢いは減退した。】

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「籠城日誌 討薩戰誌 全」1・2

 

 

 手元にある西南戦争に関する写本を何回かに分けて紹介します。和紙に木版画の方法で青い罫線を入れたものです。各頁の写真を付けておきます。本文は毛筆で書いているようです。二つに折った紙を綴じた袋綴じという冊子で、表紙から裏表紙まで数えて全部で52頁、表紙の寸法は縦24.7cm、横16.2cmです。 写本の前半を占めるのは籠城日誌で、熊本鎮台が置かれていた熊本城で、1877年(明治十年)の西南戦争の際に籠城した官軍側の立場で書かれたものです。後半部は討薩戰誌で、熊本鎮台救援に駆け付けた官軍がかかわった戦闘に関する記録です。

 西南戦争西郷隆盛が率いた薩軍約15,000人が2月15日から17日にかけて鹿児島を出発して東京を目指す途中、熊本鎮台が籠城しゆく手を阻み西南戦争が始まりました。戦いは2月から4月は熊本県中部と北部で行われ、4月下旬になると薩軍熊本県中部から撤退し南下したため、5月は県南部と鹿児島市周辺、さらに薩軍の一部が宮崎県経由で大分県に侵入したため大分県内も8月中旬まで戦場になりました。宮崎県内では8月下旬まで、鹿児島県内では9月まで戦闘が続き、24日の鹿児島市城山の戦いで戦争は終了しています。

 

 

本書は肉筆であるため、現在使わない字や、現在の目からは誤字ではないかとみられるものもあります。当時は「何々して」というのを「何々乄」と書いたり、「事」を「ヿ」あるいは「叓」と記したりしていました。また、本文には句読点がないのもそのままとしました。日々の記述本文の直後に、他史料との比較と解説を【】内に太字で加えて進めてゆきます。史料紹介だけでも価値はあるが、多少の説明もあった方が理解しやすいのでこのような体裁にします。日々の記述本文だけを読んで頂いても結構です。

「籠城日誌 討薩戰誌 全」

籠城日誌

    二月十四日

薩賊国境ヲ出シ報アリ軍人盡ク籠城

仝 十八日 

午後二時号砲三発シテ閉城ヲ心得シム此時賊之先鋒日奈久ニ有リ賊城中ニ使ヲ送ル樺山中佐應接

【号砲の記録は別(「西南戦争 隈岡大尉陣中日誌」)にもあるが、それが3発だったことがこれでわかる。「征西戦記稿」では鹿児島県庁が派遣した西郷以下の上京の趣旨を告げる使者(専使という)が熊本城で参謀長の樺山資紀中佐と面接したのは19日とされる。翌日の出来事を前日に記録できるわけがないので、この史料は後日手を入れて誤記したものであろう。】

     仝 十九日

午前十一時城中俄然トシテ火起ル折シモ西風烈シク遂ニ火ヲ防クヿ能ス諸城盡ク灰盡トナル唯宇土櫓ヲ残ス已此時所貯ノ糧米モ盡ク焼失依テ四方ニ人ヲ馳セテ粮米ヲ購求ス此日ノ夕ヘ東京巡査二百余人来着亦賊千五百程川尻甼ニ来ル報有リ此日熊本城中一円類焼

【19日、西郷以下は鹿児島賊徒とされ征討命令が出され、その知らせは電報で届いた。加藤清正の築いた熊本城の建物のほとんどはこの火災で焼失した。城からの延焼もあるが、官軍は城下町が薩軍に利用されないように火箭(かせん・ロケット)なども使い焼き払った。】

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仝 二十一日

午前巡査三百余人長嵜出兵ノ分レナリ并ニ小倉營ノ兵三百余名来着城中四方砲臺胸壁盡ク凖備各兵ヲシテ之ヲ守ラシム而シテ城外周圍ノ諸橋ヲ絶チ城兵凡ソ二千五百其余人夫共ニ三千人午後薩賊ノ巡査隊来リ船塲橋ヲ架セントス我軍砲擊シテ之ヲ退ク此日京町新甼盡ク兵火ニ罹ル

20日夜12時、東京警視隊(綿貫少警視)400余人が入城。九州北部の熊本鎮台小倉分営には第十四聯隊(乃木希典少佐)が配置されていたが、乃木は山縣有朋陸軍卿の命により2月11日にその一部を福岡県久留米に移動するよう指示し、他の部隊には戦闘準備を命じた。空虚となる小倉には広島鎮台の二個中隊が入ることになった。熊本城の戦いは22日に本格化するが、21日午前7時、薩軍の一部が城下の坪井通町を通過するのを熊本城北東部の千葉城から官軍が小銃で射撃した件は、「征西戦記稿」では「是役ノ第一初戰トス」とある。これに先立ち、薩軍先鋒が到着していた熊本城の南南西約6.5㎞に位置する川尻町に対し二個中隊(第三中隊長は隈岡長道大尉)が午前1時に偵察に出ている。長岡は交戦したとは記さないが、薩軍側記録は異なる。「薩南血涙史」では、官軍は「川尻に到る偶々薩軍の哨兵に會し未だ其の誰何を受けざるに一兵倉皇先づ砲擊す。薩軍大に激す然りと雖も夙に禁約の存するあり故を以て應射せず直前肉薄、以て其の事由を詰らんとす官軍益々亂射す薩軍勢ひ已むことを得ず或は斬り或は斫ち忽ちに其の十數名を殪し・・」とある。長岡の陣中日誌によると午前六時に帰城しているので、交戦があったとすればこちらが初戦だろう。官軍側としては最初に発砲したと記録するのは不都合と考えるだろうし、薩軍側も同様だろう。実際はどうだったのか。なお、当時は銃でも砲でも砲撃という言葉も使っていた。この日は小銃射撃のことである。本文にある船場橋云々は他の記録類にはない。

    仝二十二日

今暁三時南坪井ヨリ新甼ヨリ新堀門ニ迫ル(千葉城ニ迫リ山嵜ヨリ下馬橋ニ迫リ)三方ヨリ押来リ一時ニ発砲官軍之ニ應シ大小ノ砲ヲ発シ砲ナシ(此日賊大)大ニ之ヲ防ク砲聲天地ヲ鳴動シ彈丸飛散霞ノ来ルカ如シ夜已ニ明ケ城中ヨリ賊徘徊スルヲ目下ニ狙擊シ之ヲ仆スヿ無敗依テ賊退キ小楯ニ依テ戰フ午後賊遂ニ段山ニ迫リ新八幡ヨリ我片山邸ノ胸壁并ニ漆畑ニ迫リ官軍少シク苦戦夜ニ入賊ノ砲聲少シク减ス

千葉城は熊本城域の東端に位置し、現在NHK熊本局がある。熊本地震で大きく破損した飯田丸五階櫓石垣の南側にあり坪井川を跨ぐのが下馬橋であり、21日に撤去されていた。新町は城域西側低地部に、その北東方向にある新堀は城域と北側の京町地区を人工的に堀で遮断した部分である。東西方向に堀切状に掘削された堀底を国道31号が通る。段山は熊本城域西端の藤崎台の西側にあり、当時は藤崎台と同程度の高さの丘陵地で、ただ幅10程度の堀で区切られていた。薩軍一番大隊(篠原国幹)が進出し、引き続き藤崎台の官軍と交戦が続いた。当時は小銃射撃を砲撃とも言った。】

    仝二十三日

今暁猶段山ノ戰ヒ熾ナリ賊大ニ迫リ我胸壁ヲ敗ントス然モ官軍能ク防戰賊志ヲ得ス故ニ花岡山ニ砲臺ヲ築井テ城中ヘ乱射ス城中弾丸飛散諸營是カ為ニ破毀セラル〃者甚タ夛シ官軍スルヿナシ賊遂ニ段山ニ依リ胸壁ヲキツキ屯集ス昨ヨリノ戰ニ官軍死傷三十余名此戰ニ傷ク(樺山中佐與倉中佐)本日夜ニ入リ熊本城下兵火ニ罹リテ一宇モ残スヿナキニ至ル本日戰ヒ午前十時ニ至リ賊ノ砲聲稍衰ヘ十一時頃ニ及テ全ク止ム

【花岡山は熊本城の南西にある。頂上から天守閣まで約2.0薩軍が大砲を置いたのは頂上から200位東側らしい。現在、花岡山の頂上(標高132㍍)には仏舎利塔が建っている。2月22日夜半、鹿児島から四斤山砲12が到着し薩軍花岡山と日向崎に据えて城中を砲撃し始めた。四斤山砲の場合、榴弾の到達距離は2.6㎞とされるが、使用するにつれて砲身内部が磨滅し、遠くまで届かなくなったとされる。】

 

    仝二十四日

賊全ク不見只龍田山麓ヨリ出甼ヲ向テ通行スルヲ見ル量ルニ山鹿髙瀬ノ官軍ヲ防ク為ナラン

且昨日賊ノ人夫一人ヲ生捕ル此者ノ申口モ薩賊ハ全ク植木ニ向ヒ僅当地ニ残リ余者当地ノ士族賊ニ加リ守ルト云フ

【龍田山は城の北東にある標高151のなだらかな山で頂上から熊本城天守までの距離は3.4。】

    仝二十六日

賊今朝ヨリ植木向フヿ陸續蟻ノ如シ午前十時髙瀬方ニ当リ砲聲熾ニ聞ヘ此時城兵ノ後ヲ突テ援兵ヲ導ン為埋門ニ聚レハ忽チ砲声止ム故ニ此儀止ム此夜警部巡査両人敵情ヲ探ラン為城外ニ出ツ賊警備嚴ヲシテ能ハスシテ歸ル

    仝二十七日

午後三時臺兵巡査隊合テ一大隊トナシ坪井屯集ノ賊ヲ擊二手ニ分レテ進ム一手ハ観音坂藪ノ内ヨリ一手ハ厩橋ヨリ髙田原ヲ進ムニ城外ニ出ルヤ否賊タチマチ発炮官軍大ニ進テ之ヲ擊ツ千葉城或ハ天守臺ヨリ大砲ヲ発シテ賊ノ屯集(所)ヲ擊ツ賊退テ千反畑千草学校ノ胸壁ヲ保ツテ能ク防ク吾千葉城ニ登テ此戰ヲ見ル此時左翼ノ官軍ハ廣丁ニ在リ右翼ハ髙田原ニ在リ此邊賊ノ胸壁監固ニシテ進ムヿ能ス忽チ見ル大廻大尉池田川津ノ両警部剣ノ付テ千葉学校ノ賊砦ヲ突ク已ニ胸壁ヲ奪ハントセシニ惜哉兵續カザルニ依リ其功ヲ為サス豈ニ圖ンヤ大廻ハ傷キ両警部ハ戰死ス是ヨリ數刻日已ニ西山ニ没ス故ニ盡ク兵揚ク此日ノ戰死傷十余人  

 

【「熊本鎮台戦闘日記」によるとこの日の攻撃目標は草場学校だった。つまり千草学校とあるのは誤記だろうか。熊本市草場町は上通りを挟んで藪の内の東側にあり、それほど離れていない地域である。現在の白川公園の地が学校だったのか、現時点では調べていない。攻撃目的は「賊攻圍及ヒ兵員ノ多寡ヲ諒知セン爲メ」としているが、「熊本籠城談」によると草場学校という施設が城のすぐ東側にあり、薩軍が台場を築いてここからいつも射撃してくるので、邪魔でしょうがなかった。しかも、籠城しているだけでは兵隊の士気が下がるので出撃し、城を出てこれを攻撃することにした、とある。指揮官は大迫尚敏(なおはる)大尉だった。自分を始め馴染みのない人には知らない地名がいくつも登場するので説明する。観音坂は城域北端を区切る深い堀切の坂道付近の一本北側にある東西道路のことで、東側に下る部分らしい。藪ノ内は後述する厩橋のひとつ上流の橋の東側地域である。厩橋千葉城の南側にあり、電車通りに北西からぶつかる路線にある。高田原(こうだばる)は熊本城の南東側にある城下町部分で、白川の右岸で厩橋の南東側に広がる地域である。千反畑は千葉城の東方、白川の西岸地域である。】この日原文の筆者は千葉城のあった小山に登ったという。27日に負傷したのは熊本鎮台の大迫大尉であり大廻という人はいない。また戦死したのは池田警部ではなく池端警部であり、川津警部という人は不詳。人名の間違いから見て原文筆者は熊本鎮台や警視隊構成員について詳しくなかったとみられる。この日、官軍は目的地を占領できず日暮れに撤退している。】

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