西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

宮﨑県埋蔵文化財センター講座「山河に刻まれた西南戦争の記憶」拝聴

 宮崎県埋蔵文化財センターでは、この数年西南戦争戦跡の分布調査を継続しており、堀田孝博さんが代表として発表した。ささやき情報(マンチカン帝国・佐倉桜香両氏)で知り、

しつつ、風景を眺めつつ出かけた。途中、可愛岳尾根の北東部にある烏帽子岳展望所の西側にラクダの瘤のように天を衝く二つの峰の写真を撮りに北川の河原に降りてみた。可愛岳と同じ石質の石ころを二つ拾った。

手前は高速道路、右側に北川ICがある。

ICの南麓の集落。次は講演の様子(堀田さん)。

美々川を挟んで南に官軍(赤)、北に薩軍(青)の台場跡がある。見にくいが左下の囲まれた部分は調査前に削られて、多数の台場跡が消滅したとのことだった。次は日之影町を調べる予定。

神風連関係史料の紹介

  和紙(青色木版印刷罫紙。縦24.0cm・横33.0cmを上から下に半折し、右上部に穴をあけて紙縒りで綴じたもの4枚)に毛筆で書かれた上記の史料を紹介したい。本史料は冒頭文から熊本県庁の記録を写したものと分かる。写本を作成した人物名(末尾近くに康とあるのが名かも知れない)と記録の日付はないが記事は10月27日までであり、27日あるいはその直後に写されたとみられる。県令安岡良亮は重傷のため27日に死亡したが、本史料では負傷とあるのもそれを裏付けている。

 今回も大分県立先哲史料館の三重野誠館長・久保修平さんに解読にあたり御教示頂いた。お礼を申し上げたい。※少しずつ書き足します。

内容紹介

  熊本縣ニ於テ取調相成候草案等ノ内

熊本縣士族等凡弐百人本月廿四日午後第十一時砲兵歩兵ノ兵営ニ迫リ并鎭臺

長官及縣令之旅宿ニ迫リ放火襲撃暴動ニ及ヒ同廿五日佛(※拂)暁退散潜伏

弐十人自殺脱走ス其動乱中ノ死傷左ニ記ス

  放火ケ所  砲兵営 歩兵営 熊本縣令旅宿

            熊本縣士族大田黒惟信宅

                主人者代理行而無事

     即死

旅宿ニ襲来之賊髙津運記立島官助以下 種田陸軍少将

 右  同           髙島陸軍中佐

 石原運四郎以下        大島陸軍中佐

               外ニ    士官以下兵卒ニ至ル凡百人

                白川縣中属青木保

                同等外出仕竹永俊綱

                同  川原知興

縣令旅宿ニ於テ         六等警部村上新九郎

                七等警部島田七郎

右  同            巡査 坂口静樹

                同  津田長重 

     負 傷     

旅宿ニ襲来之賊吉村市次        熊本縣令安岡良亮(※りょうすけ)

指島五郎津野新次郎以下(※原文は二段書きだが、ここでは出来ない) 

縣令旅宿ニ於而         熊本縣参事小関敬直

右  同            一等警部  仁尾惟義

     賊 徒    

巨魁     即死 元新開大神宮之祠官大野銕兵衛(※太田黒伴雄)

同      即死 元錦山神社ノ祠官   加屋楯行(※加屋霽堅 はるかた)

同      即死        愛敬正元

同      即死            冨永守國

         外ニ二十五人即死 

    廿五日暁退散後自殺  

辻橋喜市郎 渡辺只次郎 島田角次郎 冨永市助 吉田孫市  杉田栄藏 友田栄喜 青木太  青木亦次郎 荒木敬次  上野在方   成瀬 某 今村栄太郎 今村隔太郎

      外ニ三拾人自殺

  自訴

三宮千之助 髙田五郎三郎 元永角太郎

  外ニ 拾五人自訴(※訴は衣編=誤字)

※「神風連資料館 収蔵品図録」による類似氏名(本資料の表記):辻橋見直(喜市郎?)冨永喜雄(市助?)友田栄記(栄喜?)今村健次郎(栄太郎?)上野堅五(在方?)青木真吾 成瀬は記載なし 三宮勝重(千之助?)

   廿五日廿六日兩日ニ捕縛八十九人

        脱走

阿部周助三十四五年 石原運四郎三十六七年 萱野次郎二十八九年 髙津運記三十五六年 立島官助三十四五年 田代儀太郎廿七年 田代儀五郎二十三年 林田二十八九年 (※林田)國助二十六年 加〃見十郎四十年 鹿嶋 某二十四五年 深澤廣太二十六七年 緒方小太郎三十五年 樹下一雄二十六七年 村島伍助二十九年 江藤鬼角二十九年 山口猛三十二年 石原朋来三十五年 上田倉八年齢不知 櫻井龜太郎三十一年 斎藤熊次郎三十年 廣岡謙三十一年 

但人相書者略ス

※阿部景器(周助?)・萱野次郎(見当たらず)・立島駿太(官助?)・田代儀五郎(儀太郎?)・林田鉄太(謙助?)加々見十郎(重郎?)・鹿嶋某(甕雄?)・深澤廣太(見当たらず)・村島伍助(一太)・江藤鬼角(見当たらず)・桜井直成(龜太郎?)・廣岡☐助(斎?)

右者十月廿七日熊本縣廳ニ於テ取調之草案ニシテ詳細之調ニ不至トイヘトモ縣官及ヒ賊之死傷脱走等ノ人員ニ於テハ大夷ナキモノトスレノモ鎭臺之死傷ニ至テ者必シモ大同少夷有ルヘシ

   賊ノ人物ヲ據テ考ルニ巨魁大野銕兵衛加屋楯行等ノ四賊ハ従来神典ニ熟

   達セシモノニシテ勤皇ノ志シ深ク慶応文久 ノ間ニ於テハ屡京摂ニ奔走シ稍

   ヤ王事ニ勤労セシモノナレノモ惜ムラクハ飽マテ旧習ニ糊着シ曽テ時世ヲ辯

   セス武門ノ醜味ヲ嘗テ文明ノ美味ヲ嘗メス一向神代ノ古風ヲ慕ヒ開化ノ新

   風ヲ憂フ今ニ至ルマテ攘夷ノ念ヲ脱セス甚シキハ八百萬ノ神明ヲ我カ☐☐

   ニ鎭祭シ断食シテ神風ヲ待ツ愚昧井城ノ小民ニシテ嘗ツテ勤王派ト自称セ

   シカ今突然暴動ヲ醸スニ至ル如何トモ其原由ヲ解スル能ハス是正ニ發狂セ

   シモノトイワスシテナントカイワン其他ノ賊徒ハ尚嘗テ彼等ニ奴隷之結髪

   ニシテ双刀ヲ帯シ陽ワニ攘夷ノ説ヲ唱セシカ曩ニ廃刀ノ巌令出ルヤ袋刀或

   ハ樫棒ヲ携ヘ横行セシ井城ノ小奴ニシテ本紙ニ記載スルノ他ニ残黨多カラ

   サレハ曽ツテ再挙ノ念ナカルヘシ之只康カ愚考スルノミ敢テ採用スルナカ

   レ

解説

 本史料には鎮台長官や鎮台幹部、県令などの宿を襲った各隊の人数記載はないが、「神風連実記」によると鎮台司令長官襲撃は6人、参謀長襲撃は5人、歩兵第十三聯隊長襲撃は8人、県令襲撃は5人、県民会議長襲撃は6人である。また、砲兵営襲撃隊と歩兵営襲撃隊は区別されていた。

 鎮台攻撃の順序を「神風連実記」挿図で見ておきたい。攻撃本隊は熊本城内の砲兵営と歩兵営に斬り込み、放火した。下図の下が砲兵営、上が歩兵営である。歩兵営跡は今は広場になって熊本地震復旧工事関係の仮設建物がある。砲兵営跡は広場である。

   反乱側の当日の装束・武装などの写真を掲げる。

 文中に白川県とあるが、白川県は 1875-明治5年6月1日に現熊本県北部に成立し、1976-明治6年2月22日当時の熊本県と合併し、現在の熊本県となっているので、この時点では熊本県と表記すべきである。

 乱に参加した人数はこの史料では196人、荒木精之「神風連実記」では180人、「神風連資料館収蔵品図録」の神風連志士一覧では178人、猪飼隆明「熊本市史」では197人。

全ての名前を載せているのは「神風連実記」だけで、その人名の根拠としたのは熊本県立図書館蔵の「事変神風党」文書綴にある「熊本賊徒名録」や明治9年11月22日発行の熊本新聞第131号にある「客月廿四日暴挙ノ凶徒惣人数抄録」などによるという。人員について「神風連実記」は次のように分けている。鎮台兵営中にて死する者(23人)・重傷死に至る者(2人)・兵営外にて斃るる者(3人)・処々に於て自刃する者(87人)・潜伏後十年役(※西南戦争に参加し死に至る者(2人)・自首する者(32人)・就縛の者(31人)。

 では、今回紹介した史料の196人と荒木本の180人との相違はなぜ生じているのだろうか。潜伏後西南戦争に参加し死に至る者2人は、当時県庁では把握していなかった可能性がある。したがって本史料にそれを加えると198人となる。両者の差は16人と開いてしまった。しかし、捕縛された者から聞き取っていたとすれば後に西南戦争に参加した者の名前も分かっていただろう。

 また、「熊本市史」では名前は記さないが人員を分けている。戦死28人・自刃86人・斬罪3人・終身刑4人・懲役刑43人・放免29人・逃亡して西南戦争に参加した者4人の計197人である。この数値は本史料よりも1人少ないだけである。死者の数は「神風連実記」が115人、「熊本市史」が117人と異なるが、本史料では即死29人・自殺44人の73人だけを記し、「実記」や「市史」のよりも40人以上少ない。この理由は10月27日時点で把握できたことを記したからだろう。熊本城を出た後、乱参加者の一部は島原半島に渡ろうとしたり、山口県萩や福岡県秋月で呼応して兵をあげようと志しそれに合流しようと考えた者たちもいたが、実現できなかった。彼らは自宅や縁故の場に帰って自殺したり自首したりしたので、これらの動向は27日時点では県庁でも把握していなかったことが分かる。総員数の内、分かっていた人物は捕縛者から他の参加者名を聞き取った結果であろう。

 敬神党は福岡県秋月や山口県萩の士族と事前に示し合わせていたから、実際秋月の乱(10月27日決起)、萩の乱(10月28日決起)が立て続けに発生している。しかし、三者は短期間で鎮圧され、反乱が長期・広範囲に拡大することはなかった。

 「神風連実記」では熊本市桜山神社境内にある神風連123人(逃走後に西南戦争で戦死した2人を含む)の墓碑を調べ、氏名と死亡年月日、年齢を記録しており、参加者の年齢構成を知ることができる。

 神風連の乱といえば、時代遅れの年老いた人達だったと思われがちだが、実際は若者が多かったことが一目瞭然である。

 政府側の死傷者は鎮台司令長官はじめ県令や彼らの周辺の人達や鎮台兵士達の中に多数生じている。本史料では鎮台内での即死者は士官以下兵卒ニ至ル凡百人とある。以下の史料は、この他に士官・兵士の負傷者だけでも179人いたことが分かる史料である。

C08052374600「明治九年十月 中四国亊件密事日記 房長」 (防衛省防衛研究所蔵)

  熊本鎭臺病院ゟ陸軍本病院宛ノ電報同七時着(二十八日午後二時十分発)

  刀創百七十九名入院ス醫官二名配設一名怪我ス隊付不足ス軍官副補之内

  四名ヨコセ今日筑前ニ二名出張ス疾病人五人同卒十五人ヨコセ地方ノ者

  ヤトヘス

  前書之通電報有之候間此段御届申候也

   十月二十九日  軍醫総監代理

   

 神風連というのは正式には敬神党である。なぜ無謀な行動に出たのか、何を目指したのか、など立ち入ると無駄にそれは既存の書物を読めば理解できることであり、ここは史料紹介が主題なので深入りしない。

   次は神風連の乱を扱った版画を序に掲げたい。ほとんど空想の産物であることを前提に見ていただきたい。部分的に拡大する。

 

 敬神党は銃を使わなかったが、左上の彼らは小銃を装備するように描かれている。鎮台兵は背嚢・毛布を背負っているが、鎮台内での応急的戦闘にそれらを背負ったとは思えない。

 画家・版元・彫師・この絵柄で版行してよいかを伺った御届の日付などを拡大で示す。横三枚続きの版画はそれ以前も多くみられるもので、台湾征討や佐賀の乱でもそうだった。定価六銭は西南戦争版画でも同じである。

 二枚目も孟斎画。一枚目から一週間後の作品である。これも敬神党が銃を使っている。鎮台兵に銃撃され始めた時点で実際は勝ち目のない戦いに一変した。絵のような戦闘状態はなかっただろう。上半分は夜を示して暗いが、下半分は鮮やかで美しい。

 ※次は西南戦争関係を考えています。

上門手(かもんで)遺跡吉田初三郎風想像復元図

 20年近く前、16世紀末頃の山城跡を発掘調査し、周辺住民に対して現地説明会をしたことがあります(大分県千歳村;現在は豊後大野市)。ここに掲げるのはその際資料として添付した自作のアクリル画です。自画自賛ですが、なかなか捨てたもんじゃないので次のブログの前に掲げます。

 全国各地の観光地を鳥瞰図で描いた吉田初三郎の真似をして、近畿地方から富士山まで範囲に入れています。

 小さすぎて字が読めないので、右から部分拡大します。

 次回は神風連の乱関係の雑記を予定しています。

印鑑を作る

石川九楊さんだったか、人は退職したら印鑑を彫り始めることがあると書いていた。郷土史の勉強をしたリ、絵筆・筆をとるのもそうだろう。というわけで印鑑を構想し彫り始めました。面白いの?ができるところを載せます。

 左端のが今朝のもの。他のは以前、作った下手くそです。この段階では左端のが気に入ってます。「信武」の信の言偏は言葉を入れる箱に蓋をし、それを針でつつく意味で、人偏は人の横姿です。

 「武」は戈をもって歩く姿とされています。日本でも、弥生時代には銅戈という棒の先近くに銅製の尖端を横向きに挿入した武器がありました。これのことです。「武」の甲骨文字などには左右の手は見られないようですが、付け加えました。このような甲骨文字が発見されるといいな、と思います。戈の上端の折れ曲がったのは旗のようです。「武」の左下は足跡と同じです。以上、2022.11.11。

 足に関連して言うと、「歩」は左右の足跡を上下に積んだ形からできています(白川静さんや落合淳思あつしさんの本を読むと色々知ることができます)。

 中段左が昨日の作業終了時のものです。初め逆に彫ったため、これをコンクリート面で削って字を消し、そのまま彫ったところ下段左3点のように斑のある押印になった。印面がざらついていたので、力を入れて押しても綺麗に写らないと気が付いて紙鑢やすりで磨き上げました、印面が真っ平になるように。

 また、これまで持っていた朱肉が小さすぎるのでやや大きめのを百円店で購入して押印したところ、色が赤黒いことに気づき、再度大型店で買い求めて押したのが中段左です。これも色が赤黒いけど、まあいいか。

 線が細い気もするが、これはこれで甲骨文字にありそうな感じもするので、これで終わりにします。2022.11.12。

 新しい甲骨文字を発表します。2022.11.13。

 初期の漢字は分かりやすくできているので面白く、つい笑ってしまいます。

川路利良1877年3月9日付の大久保利通宛書状

はじめに

 この書状は10年以上前に入手していたものである。今回、大分県立先哲史料館の松尾大輝さんの御協力を得て解読できたので紹介する。

 書かれた日付は西南戦争が始まって一か月も経たない頃のもの。紙の寸法は右端が縦17.4cm、左端が17.3cm、横45.6cm。書状よりも少し厚手の和紙に貼り付けられている。その台紙和紙の裏面には糊を剥がした痕跡はない。したがって扁額や襖などに貼って飾っていたのではなさそう。

 右上部に丗号(丗は不確実)という朱書きがあるが、字の上部は切り取られていて、存在しない。つまり書状も切り詰められている。台紙には朱が及んでいないので、貼り付ける以前の記入と分かる。受け取った大久保か周辺の者が番号を付けて保管していたのだろう。

 

書状の写真

 上段に全体を掲げ、その下に部分写真を掲げる。

  解読文は次の通りである。

  丗号

  尚大浦二等少警部差上候間事情御聞取被下度候也

  只今石川縣出張之内ゟ(※より)警部壱名来り戦地ニ向ひ度赴願出候彼ノ

  表(※おもて)差程ノ無事の赴ニ候得共縣廳ニ於テ盤(※は)大ニ恐レ居

  候赴ニ承候別紙持居書供御覧候也

  三月九日利良

  利通公  

   閣下

 冒頭の尚大浦二等少警部差上候間事情御聞取被下度候也は余白のある冒頭に最後に書き足したものである。内容は以下。

「石川県に出張している警察部隊の内から警部が一人川路に戦地に行きたいという皆の希望を伝えに来た、石川ではさ程のことはない様子だが県庁は大いに恐れている状態だとのことであり、別紙を持参しているのでご覧ください。なお、大浦二等少警部をそちらに行かせますので事情を聴きとってください。」

 これ以前、明治9年12月三重県で起きた農民暴動、別名伊勢暴動の鎮圧に名古屋鎮台と大阪鎮台から合計3個中隊、さらに警視庁から巡査200人が派遣されていた。事件後、巡査は石川県に派遣されており、石川県出張とはこのことを指す。

 3月16日午後2時15分、彼らに対し大久保参議から小銃70挺・弾薬を貸し出すよう大阪陸軍事務所の鳥尾小弥太中将に依頼電報が出されている。200人ではなく70人に減っている。 

C09081778100「明治十年自二月至五月 来翰日記 附伺届 神戸陸軍參謀部」(防衛省防衛研究所蔵)0282

  第三百五十九号

   石川縣ヨリ本日到着ノ巡査直ニ熊本地方江向ケ出發セシムルニ付小銃七十

  挺弾薬共御借渡シニ成リ度旨大警視ヨリ申出候右繰合セ御許可ニナリタシ

  至急御返事ヲ待ツ

    三月十六日午後二時十五分發

           〃 三十分届

           大久保参議

    鳥尾中将殿

     鳥尾中将ヘ上申ス

  

C09081778100「明治十年自二月至五月 来翰日記 附伺届 神戸陸軍參謀部」(防衛省防衛研究所蔵)0282

  第三百六十六号

  スナイドルアルミニー之内五六十挺巡査ニ渡シ方之儀銃ハ差支ナケレノモ弾薬

  戦地ニテ費ヤス数一日六十萬ナリト井上少佐ヨリ報知アリ此レニハ甚タ痛心

  致シ鳥尾中将江上申セシ次第モアリ可相成ハエンピールヲ貸渡ナリタシ何分

  ノ返事待ツ 

    三月十六日午後七時五分

             關 中佐

    茂野中佐殿 

 関中佐は大阪砲兵支廠所属、滋野中佐は征討総督本営参謀。これまで、田原坂で一日に32万発を消耗したことが強調されてきたが、戦地全体では60万発を消耗していたのである。この数値の大部分はスナイドル弾薬(アルミニー銃でも使うことができた)であり、陸軍は急速に減少する在庫を心配し、使っていないエンピール銃を巡査には渡したいということ。この銃は火薬と銃弾を別々に筒先から装填せねばならないため発射速度が遅かった。熊本鎮台小倉分営部隊が通常装備のエンピール銃を福岡県庁に預けてスナイドル銃と交換し熊本に向かっているように、戦場ではできれば使いたくない小銃だった。

 川路は20日、別働第一旅團長(旅団名称はめまぐるしく変わった。25日には別働第四旅団、最終的に別働第三旅団)に任命され、21日に神戸港を発ち23日長崎に着いた。その後、八代南部の日奈久に上陸し衝背軍として八代・宇土・熊本城へと進むことになる。大浦等石川県出張巡査らが何日にどこの戦地に到着したかは分からないが、田原坂を突破した3月20日以降に熊本県に着いたはずである。「西南戰鬪日注並附録 一」に別働第三旅團編制表があるが、石川経由で従軍した警察官代表として大浦を探すと大浦の名は第五大隊中隊長3人の内に出ている。アジ歴では次の史料だけが検索できた。

 

C09082175900「明治十年 探偵報告書 軍團本営」(防衛省防衛研究所蔵)0450・0451

  宮ノ原出張大浦警部ヨリ報告書事情申出書

       記

  一賊植木其他ヲ潰走シテヨリ去ル十六日以来肥後國南郷上下ノ久木野村

   ニ於テ人夫ヲ雇ヒ頻リニ荷物ヲ運送シ当時本營ヲ南郷ノ下市ヘ轉シタリ

   ト又同所新町ヘハ病院并ニ器械所等ヲ設ケ頻リニ弾薬ヲ製造スルト云フ

  一南郷ヘ集リタル賊ノ勢只官軍ニ對スル諸口ノ要地ヘ砲臺ヲ築造目今進撃

   スルノ勢ヒ無シ依テ思フニ数十日ノ戦勞ヲ除キ大ニ兵粮弾薬ヲ整備シ十

   分兵氣ヲ養ヒ以テ何レカ進軍スルナラン

  一肥後ノ南郷タルヤ先ツ一面ノ平地ニシテ四方ニ連山加之土地豊饒故ニ兵

   ヲ養フニハ大ニ便ナラン

  右探偵旁〃事情概畧上申仕候

        二等少警部大浦兼武

   四月二十一日

   久留米参謀部

     坂元少佐殿

 宮の原は宇土半島の南側付け根付近にある。とすれば大浦等は川路らと別行動していたわけではなさそうである。

 川路利良の書状に関連しての記述を終えたい。なお、「大久保利通文書」にはこの書 状は掲載されていない。

「警視出張所印」のある資料

はじめに

 数日前、ブログ村に登録した機会にぶろぐ名を「西南戦争之記録」に変更しました。これまでは横文字で、我がことながら分かりにくいなと思っていたのでこれで一安心。

 本日9月24日は1877(明治10)年に西南戦争が終わった日です。何か投稿しようと思いつき、以前入手していた紙資料を紹介したいと思います。

 これはやや厚手の和紙で、縦20.8cm・横9.5cm。片面の上右に「第一万五千三百廿一号」の墨書、中央上に「調濟」(縦2.95cm・横1.5cm)の朱印、左上に「明治十年五月」の木版、下部中央に「警視出張所印」(縦横5.1cm)の朱印が押されています。

 裏面には第六大區十二小區(六と十二は手書き、他は木版)、下部中央に南條健吉の墨書があります。縦の長さの半分の位置で折り目があります。半分に折って携帯した身分証明書でしょうか。

 

警視出張所

 警視出張所は西南戦争に限らず全国各地にあったらしいのですが、明治十年とあるので西南戦争時のものではないかと推定し、アジ歴で調べてみました。その結果、熊本・大分・鹿児島・宮﨑・都城に警視出張所が設けられていたことが分かりました。宮崎・都城以外は印が押された資料が残っているので、今回紹介する資料の印影と比べてみます。

 下は熊本警視出張所の文書です。印影が横長なので再度アジ歴で確認したけど、その通りでした。しかし、別の文書では正方形に近い同様の印影があるので、もしかしたら適当な縦横比率で掲載しているのかも知れません。

  次は大分警視出張處です。 

 

  今般重岡口降伏之国事犯賊徒大分出張九州臨時裁判所ニ於テ取調之義ニ

付引渡方督促有之候處未タ當裁判所ヨリ御送付無之今段回送致置候就テハ右

賊徒御調臨之分ハ至急当出張處ヘ御送致相成候様致度依テ山田二等少警部差

出候間委細同人ヨリ御聞取之上御送致方等御協示有之度此段及御掛合候也

 

  明治十年八月廿五日

  大分警視出張處(角印)

 

 

  佐伯出張

     軍團裁判所

          御中

 大分警視出張所印は熊本とは異なります。文書にある出張ではありません。印の下部が欠けているので完全なのも掲げます。

C09083487500「明治十年七月 雜書綴 佐伯出張軍團裁判所」(防衛省防衛研究所)1493・1494

  東警第八十三号

  降伏人御交付之儀ニ付當表出張九州臨時裁判所ゟ協議之次第有之候間

  尓来犯人并書類共當方ヘ御交付相成候様致度此段及候協議候也

   十年九月三日  大分警視出張所(角印)

 

  佐伯出張

   軍團裁判所

        御中

    遂而護送方之儀者地方警察官江協議致置候条従前通其地警察署ヘ

    御協示有之度此段申進添候也

 鹿児島では8月28日に警視出張所設置が決まっています。

  別紙

  乙第七十八号

 

  今般鹿児島縣ヘ警視局(府縣)出張所ヲ設ケ(鹿児嶋縣ヲ除ク)警察ノ事

  務取扱當分之内同縣御四課閉止候條爲心得此旨相達候事

  明治十年八月廿五日

        内務卿大久保利通

 8月25日に鹿児島に罫紙局出張所を置くという通達です。第四課は警保担当でした。次はその鹿児島警視出張所の文書です。熊本とは違う印鑑が使われています。

C09082925900「明治十年 來發翰留 鹿兒島屯在兵 參謀部」。(以下はアジ歴推奨題名「来発翰留 明治10年9月30日~10年12月20日。この種の表題の付け方は疑問です)(防衛省防衛研究所蔵)0413・0414

  三ノ第十八号

        鹿児嶋縣第一大區一小區平ノ馬場貳百四番島津太郎

                      左衛門邸内居住士族

                          谷元延清

  右之者賊軍壱番大隊大小荷駄取扱候者ニ付巌重取調候處九月廿四日城

  山攻撃之際別働第二旅團第拾弐中隊ヘ降伏願出兼テ預置候金大小紙幣

  取交凡三千円程同隊兵卒ヘ相渡又撰抜隊ヘ☐引渡候節肌ニ付置候金五

  百二拾圓程同隊ヘ相渡シ候趣右者本人申立之通相違無之哉否承知致度

  此段及御照會候也

 

  明治十年十月十四日  鹿児嶌警視出張所(角印)

       鹿児嶌屯營兵参謀長

                御中

 鹿児島には別に小型の「鹿児島出張所第三課」角印もある。

 アジ歴には宮崎警視出張所・都城警視出張所の文書もあるがそれらは印は使われていません。

 まとめ

 熊本・大分・鹿児島の警視出張所印を見てきたが、紹介した資料は熊本の印に酷似しています。第六大区十二小区は大区小区制度廃止後の行政名は熊本県山鹿郡熊入町、山鹿町宗方村・中村です(「熊本県の地名」日本歴史地名大系第44巻平凡社1985)