和紙(青色木版印刷罫紙。縦24.0cm・横33.0cmを上から下に半折し、右上部に穴をあけて紙縒りで綴じたもの4枚)に毛筆で書かれた上記の史料を紹介したい。本史料は冒頭文から熊本県庁の記録を写したものと分かる。写本を作成した人物名(末尾近くに康とあるのが名かも知れない)と記録の日付はないが記事は10月27日までであり、27日あるいはその直後に写されたとみられる。県令安岡良亮は重傷のため27日に死亡したが、本史料では負傷とあるのもそれを裏付けている。
今回も大分県立先哲史料館の三重野誠館長・久保修平さんに解読にあたり御教示頂いた。お礼を申し上げたい。※少しずつ書き足します。
内容紹介
熊本縣ニ於テ取調相成候草案等ノ内書拔キ
熊本縣士族等凡弐百人本月廿四日午後第十一時砲兵歩兵ノ兵営ニ迫リ并鎭臺
長官及縣令之旅宿ニ迫リ放火襲撃暴動ニ及ヒ同廿五日佛(※拂)暁退散潜伏
弐十人自殺脱走ス其動乱中ノ死傷左ニ記ス
放火ケ所 砲兵営 歩兵営 熊本縣令旅宿
熊本縣士族大田黒惟信宅
主人者代理行而無事
即死
旅宿ニ襲来之賊髙津運記立島官助以下 種田陸軍少将
右 同 髙島陸軍中佐
石原運四郎以下 大島陸軍中佐
外ニ 士官以下兵卒ニ至ル凡百人
白川縣中属青木保弘
同等外出仕竹永俊綱
同 川原知興
縣令旅宿ニ於テ 六等警部村上新九郎
七等警部島田七郎
右 同 巡査 坂口静樹
同 津田長重
負 傷
旅宿ニ襲来之賊吉村市次 熊本縣令安岡良亮(※りょうすけ)
指島五郎津野新次郎以下(※原文は二段書きだが、ここでは出来ない)
縣令旅宿ニ於而 熊本縣参事小関敬直
右 同 一等警部 仁尾惟義
賊 徒
巨魁 即死 元新開大神宮之祠官大野銕兵衛(※太田黒伴雄)
同 即死 元錦山神社ノ祠官 加屋楯行(※加屋霽堅 はるかた)
同 即死 愛敬正元
同 即死 冨永守國
外ニ二十五人即死
廿五日暁退散後自殺
辻橋喜市郎 渡辺只次郎 島田角次郎 冨永市助 吉田孫市 杉田栄藏 友田栄喜 青木歷太 青木亦次郎 荒木敬次 上野在方 成瀬 某 今村栄太郎 今村隔太郎
外ニ三拾人自殺
自訴
三宮千之助 髙田五郎三郎 元永角太郎
外ニ 拾五人自訴(※訴は衣編=誤字)
※「神風連資料館 収蔵品図録」による類似氏名(本資料の表記):辻橋見直(喜市郎?)冨永喜雄(市助?)友田栄記(栄喜?)今村健次郎(栄太郎?)上野堅五(在方?)青木真吾 成瀬は記載なし 三宮勝重(千之助?)
廿五日廿六日兩日ニ捕縛八十九人
脱走
阿部周助三十四五年 石原運四郎三十六七年 萱野次郎二十八九年 髙津運記三十五六年 立島官助三十四五年 田代儀太郎廿七年 田代儀五郎二十三年 林田謙助二十八九年 同(※林田)國助二十六年 加〃見十郎四十年 鹿嶋 某二十四五年 深澤廣太二十六七年 緒方小太郎三十五年 樹下一雄二十六七年 村島伍助二十九年 江藤鬼角二十九年 山口猛三十二年 石原朋来三十五年 上田倉八年齢不知 櫻井龜太郎三十一年 斎藤熊次郎三十年 廣岡謙助三十一年
但人相書者略ス
※阿部景器(周助?)・萱野次郎(見当たらず)・立島駿太(官助?)・田代儀五郎(儀太郎?)・林田鉄太(謙助?)加々見十郎(重郎?)・鹿嶋某(甕雄?)・深澤廣太(見当たらず)・村島伍助(一太)・江藤鬼角(見当たらず)・桜井直成(龜太郎?)・廣岡☐助(斎?)
右者十月廿七日熊本縣廳ニ於テ取調之草案ニシテ詳細之調ニ不至トイヘトモ縣官及ヒ賊之死傷脱走等ノ人員ニ於テハ大夷ナキモノトスレノモ鎭臺之死傷ニ至テ者必シモ大同少夷有ルヘシ
賊ノ人物ヲ據テ考ルニ巨魁大野銕兵衛加屋楯行等ノ四賊ハ従来神典ニ熟
達セシモノニシテ勤皇ノ志シ深ク慶応文久 ノ間ニ於テハ屡京摂ニ奔走シ稍
ヤ王事ニ勤労セシモノナレノモ惜ムラクハ飽マテ旧習ニ糊着シ曽テ時世ヲ辯
セス武門ノ醜味ヲ嘗テ文明ノ美味ヲ嘗メス一向神代ノ古風ヲ慕ヒ開化ノ新
風ヲ憂フ今ニ至ルマテ攘夷ノ念ヲ脱セス甚シキハ八百萬ノ神明ヲ我カ☐☐
ニ鎭祭シ断食シテ神風ヲ待ツ愚昧井城ノ小民ニシテ嘗ツテ勤王派ト自称セ
シカ今突然暴動ヲ醸スニ至ル如何トモ其原由ヲ解スル能ハス是正ニ發狂セ
シモノトイワスシテナントカイワン其他ノ賊徒ハ尚嘗テ彼等ニ奴隷之結髪
ニシテ双刀ヲ帯シ陽ワニ攘夷ノ説ヲ唱セシカ曩ニ廃刀ノ巌令出ルヤ袋刀或
ハ樫棒ヲ携ヘ横行セシ井城ノ小奴ニシテ本紙ニ記載スルノ他ニ残黨多カラ
サレハ曽ツテ再挙ノ念ナカルヘシ之只康カ愚考スルノミ敢テ採用スルナカ
レ
解説
本史料には鎮台長官や鎮台幹部、県令などの宿を襲った各隊の人数記載はないが、「神風連実記」によると鎮台司令長官襲撃は6人、参謀長襲撃は5人、歩兵第十三聯隊長襲撃は8人、県令襲撃は5人、県民会議長襲撃は6人である。また、砲兵営襲撃隊と歩兵営襲撃隊は区別されていた。
鎮台攻撃の順序を「神風連実記」挿図で見ておきたい。攻撃本隊は熊本城内の砲兵営と歩兵営に斬り込み、放火した。下図の下が砲兵営、上が歩兵営である。歩兵営跡は今は広場になって熊本地震復旧工事関係の仮設建物がある。砲兵営跡は広場である。
反乱側の当日の装束・武装などの写真を掲げる。
文中に白川県とあるが、白川県は 1875-明治5年6月1日に現熊本県北部に成立し、1976-明治6年2月22日当時の熊本県と合併し、現在の熊本県となっているので、この時点では熊本県と表記すべきである。
乱に参加した人数はこの史料では196人、荒木精之「神風連実記」では180人、「神風連資料館収蔵品図録」の神風連志士一覧では178人、猪飼隆明「熊本市史」では197人。
全ての名前を載せているのは「神風連実記」だけで、その人名の根拠としたのは熊本県立図書館蔵の「事変神風党」文書綴にある「熊本賊徒名録」や明治9年11月22日発行の熊本新聞第131号にある「客月廿四日暴挙ノ凶徒惣人数抄録」などによるという。人員について「神風連実記」は次のように分けている。鎮台兵営中にて死する者(23人)・重傷死に至る者(2人)・兵営外にて斃るる者(3人)・処々に於て自刃する者(87人)・潜伏後十年役(※西南戦争)に参加し死に至る者(2人)・自首する者(32人)・就縛の者(31人)。
では、今回紹介した史料の196人と荒木本の180人との相違はなぜ生じているのだろうか。潜伏後西南戦争に参加し死に至る者2人は、当時県庁では把握していなかった可能性がある。したがって本史料にそれを加えると198人となる。両者の差は16人と開いてしまった。しかし、捕縛された者から聞き取っていたとすれば後に西南戦争に参加した者の名前も分かっていただろう。
また、「熊本市史」では名前は記さないが人員を分けている。戦死28人・自刃86人・斬罪3人・終身刑4人・懲役刑43人・放免29人・逃亡して西南戦争に参加した者4人の計197人である。この数値は本史料よりも1人少ないだけである。死者の数は「神風連実記」が115人、「熊本市史」が117人と異なるが、本史料では即死29人・自殺44人の73人だけを記し、「実記」や「市史」のよりも40人以上少ない。この理由は10月27日時点で把握できたことを記したからだろう。熊本城を出た後、乱参加者の一部は島原半島に渡ろうとしたり、山口県萩や福岡県秋月で呼応して兵をあげようと志しそれに合流しようと考えた者たちもいたが、実現できなかった。彼らは自宅や縁故の場に帰って自殺したり自首したりしたので、これらの動向は27日時点では県庁でも把握していなかったことが分かる。総員数の内、分かっていた人物は捕縛者から他の参加者名を聞き取った結果であろう。
敬神党は福岡県秋月や山口県萩の士族と事前に示し合わせていたから、実際秋月の乱(10月27日決起)、萩の乱(10月28日決起)が立て続けに発生している。しかし、三者は短期間で鎮圧され、反乱が長期・広範囲に拡大することはなかった。
「神風連実記」では熊本市桜山神社境内にある神風連123人(逃走後に西南戦争で戦死した2人を含む)の墓碑を調べ、氏名と死亡年月日、年齢を記録しており、参加者の年齢構成を知ることができる。
神風連の乱といえば、時代遅れの年老いた人達だったと思われがちだが、実際は若者が多かったことが一目瞭然である。
政府側の死傷者は鎮台司令長官はじめ県令や彼らの周辺の人達や鎮台兵士達の中に多数生じている。本史料では鎮台内での即死者は士官以下兵卒ニ至ル凡百人とある。以下の史料は、この他に士官・兵士の負傷者だけでも179人いたことが分かる史料である。
C08052374600「明治九年十月 中四国亊件密事日記 房長」 (防衛省防衛研究所蔵)
熊本鎭臺病院ゟ陸軍本病院宛ノ電報同七時着(二十八日午後二時十分発)
刀創百七十九名入院ス醫官二名配設一名怪我ス隊付不足ス軍官副補之内
四名ヨコセ今日筑前ニ二名出張ス疾病人五人同卒十五人ヨコセ地方ノ者
ヤトヘス
前書之通電報有之候間此段御届申候也
十月二十九日 軍醫総監代理
神風連というのは正式には敬神党である。なぜ無謀な行動に出たのか、何を目指したのか、など立ち入ると無駄にそれは既存の書物を読めば理解できることであり、ここは史料紹介が主題なので深入りしない。
次は神風連の乱を扱った版画を序に掲げたい。ほとんど空想の産物であることを前提に見ていただきたい。部分的に拡大する。
敬神党は銃を使わなかったが、左上の彼らは小銃を装備するように描かれている。鎮台兵は背嚢・毛布を背負っているが、鎮台内での応急的戦闘にそれらを背負ったとは思えない。
画家・版元・彫師・この絵柄で版行してよいかを伺った御届の日付などを拡大で示す。横三枚続きの版画はそれ以前も多くみられるもので、台湾征討や佐賀の乱でもそうだった。定価六銭は西南戦争版画でも同じである。
二枚目も孟斎画。一枚目から一週間後の作品である。これも敬神党が銃を使っている。鎮台兵に銃撃され始めた時点で実際は勝ち目のない戦いに一変した。絵のような戦闘状態はなかっただろう。上半分は夜を示して暗いが、下半分は鮮やかで美しい。
※次は西南戦争関係を考えています。