西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

私学校の石垣は移動しているのを知っていますか?

 下段に載せたのは鹿児島市にある私学校跡東南部から鶴丸城跡(今の黎明館)にかけての石垣が写った作製年不明のハガキです。現状の私学校跡石垣は1955年(昭和30年)に国道10号が拡幅された際に西側に13m移設されたとの事。何年か前に地元の前迫亮一さんに教えてもらうまで、昔のままだと思っていたので、意外だった。この写真は移設前の状態か?東面石垣は移設できただろうが、それに接続する南面の石垣は東部が13m撤去されたんじゃなかろうか?北面石垣の東部も。ハガキには鳥打帽に和服の男と旧制高等学校生徒らしき人が写っているが、戦前の写真だろうか?。この写真と同じ方向・同じ位置で撮影して確認してみたいと思うこの頃。

 鶴丸城跡に建つ瓦葺建物は第七高等学校造士館だろう。第七高等学校校舎群は1945年6月の空襲で全焼している。11月に出水郡高尾野町の出水海軍第二航空隊の旧施設に一時移転し、1947年9月に旧校地に復帰した。戦前の複数年の校舎内配置図をいくつか国会図書館デジタルで見たことがある。

 

 

 

 

f:id:goldenempire:20210212200040j:plain

昔のはがき

慰労金証書

 これは西南戦争に従軍応募し無事生還した人に慰労金を与えるとの証書である。縦21.4㎝・横27.9㎝の和紙に木版印刷されたもので、個人情報と月日は毛筆で追記している。

f:id:goldenempire:20210504091608j:plain

本文は次の通り。

      元二等巡査心得

           福 島 縣

             關根多利五郎

  曩ニ西南騒擾ノ際ニ方リ能ク報國ノ義務ヲ辯シ速ニ應募出京引續従軍候段

  奇特ノ事ニ候依テ為慰勞金貳拾圓下賜候事

   但慰勞金ノ儀ハ歸郷ノ上縣廳ヨリ可下渡事

  明治十年十一月十二日

     警視局

 警視局の字が巨大で、暗に権威の大きさを匂わせているかのようである。

 佐倉桜香氏によると、西南戦争時の政府による募兵は一般の陸軍部隊と警察部隊に分かれていた。後者は2月下旬から開始した巡査第一号召募では、東北4県の士族を対象に3,800人が集められ警視徴募隊を編成している。さらに4月上旬開始の第二号召募では関東・東北諸県の士族を対象にした結果、10,833人の応募者があり彼らを新撰旅団に編成した。新撰旅団には福島県出身者が720人いた(佐倉桜香2020「新訂征西戦記稿別冊「西南戦役における募兵―壮兵召募と巡査召募―」)。

 本資料の関根氏が警視徴募隊あるいは新撰旅団のどちらに属したかは分からない。

野村忍介自叙傳写本について

西南戦争之記録」第2号に全文を活字化していることを広告しときます。同書を読まない人は知らないようだから。2003年です。※何かここを「つぶやき」のように使っている気がする。そういえば以前、表作成に便利なエクセルでポスター画像を作ったことがあったっけ。

篠原国幹の短冊

 篠原国幹の短冊を紹介する。

 篠原は西南戦争薩軍では桐野利秋と共に西郷に次ぐ立場であったが、開戦初期3月4日に熊本県玉名郡玉東町吉次峠の傍で戦死した。「薩南血涙史」からその状況を引用する。

  薩の亞將篠原國幹、村田新八相謀りて曰く「須らく左右兩翼を張り掩擊し

  て敵を殄(つく)すべし」と、共に倶に新鋭を部勒し一隊をして半高山の

  絶巓より進み、一隊をして三の岳の半腹より進み、以て大に兩翼を張らし

  む。時に篠原身に陰面緋色の外套を被り手に烏金装飾の大刀を提げ始終

  線に挺立して自ら率先風勵す英姿颯爽遠近目を屬す、薩の部將石橋淸八(

  五番大隊八番小隊長)諫めて曰く「今日に在りて公の命其の重きこと山嶽

  も啻(ただ)ならず徒らに卒伍と身命を同ふすべからず速に安全の地に移

  るべし」と、篠原微笑して曰く「余は素と戰鬪に來れり子儻(も)し之を

  危まば宜しく自ら去るべし」と、石橋敢て復た言はず。

  官將少佐江田某嘗て篠原を識れり良射手をして之を狙擊せしむ(傳説に據

  れば後の陸軍少將村田經芳なりと云)篠原遂に之が爲めに斃る、時に天色

  黯澹細雨霏々斯の名將の死を哭して萬斛の涙を濺(そそ)ぐものに似たり

※( )難しい字には読み仮名を入れた。 

f:id:goldenempire:20210503085430j:plain

 彼の書は珍しいと思う。歌は次の通りである。

  曲水や今日者名にをふ身の冥加

 (曲水や 今日は 名に負う 身の冥加)

 冥加とは幸運に恵まれることという意味もある。曲水の宴の流れのように曲折のある人生だが今は幸運に恵まれている、明日はどうなるかわからないが、と解釈したい。

 裏側には「篠原國幹筆」とある。

f:id:goldenempire:20210503090405j:plain

野村忍介の短冊

 いくつかの短冊や掛け軸、剥がしたものを紹介していこうと思う、何回かに分けて。読めない字があったので、またしても大津祐司さんのお世話になったことをまとめて付記しておきたい。

   今回は野村忍介の短冊である。 西南戦争後、懲役10年の刑を受けた野村は東京の市ヶ谷監獄に投獄され、明治14年釈放されている。

 司法の獄に在り介る頃

 さ九ら炭起さ須とても冬な可良花の古﹅路盤長閑なり遣り 忍

 (司法の獄に在りける頃   桜炭 起こさずとても 冬ながら 花の心は のどかなりけり)

 桜炭とは千葉県佐倉地方の橡で作る良質の炭で、桜は当て字。在原業平の「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」は有名だから、野村もこの歌が心のどこかにあっただろう。これは獄中で詠んだ歌を、出所後に書いたのである。

f:id:goldenempire:20210501202647j:plain

 右の短冊は忍介とあるが、野村ではなく月照のことである。末尾の舞は「む」と読む。彼には忍向という号もある。

山田顕義の西南戦争中のある漢詩

はじめに

 別働第二旅団司令長官山田顕義少将の西南戦争中の漢詩を紹介したい。

 これは軸あるいは額から剥がしたのか裏に和紙が貼りついた状態である。本紙の大きさは縦114㎝、横63.5㎝で、朱印が三ヶ所にある。印影の大きさは上右のが縦3.9㎝・横2.1㎝、左下の2点はどちらも縦横3.4㎝である。三行にわたり七言絶句が書かれ、左に空齊という山田顕義の号に主人を続けている。便宜的にこれを作品イと言おう。漢詩捷報未来人未還 思迷官賊両軍間 一夜海南天色赤 王師今應度郎山である。読み下すと次のようになろう。

 捷報(勝ったという報告)未だ来たらず (報告のために帰ってくるはずの)人未だ還らず 思い迷う官賊両軍の間 一夜海南の天色赤し 王師(天皇の軍隊)今まさに郎山を度せんとす

f:id:goldenempire:20210430155654j:plain

 

類似作品

 作品イとよく似ているが全く同じではない漢詩日本大学発行の「山田顕義傳」にある。これを作品ロとしよう。実物の写真がなく活字だけが示されている。

  「陣營中偶作」

  未看傳騎報勝還。思到兩軍官賊間。一夜海南天色赤。王師今應度卽山。

である。第一句は作品イが捷報未来人未還であるのに対し、作品ロは未看傳騎報勝還と表現が異なる。ただし、勝ったという報告をもたらす人が帰ってこないという状態を歌うのは同じである。第二句も思い迷うのか、思いは到るのかと表現が異なるが差異は小さい。第三句は同じである。第四句は最後の二字を郎山と読むのか即山と読むのか、おそらくはどう読むのか解釈が分かれたのだろう。「即山を度せんとす」は意味が通じないと思うがどうだろうか。しかし、郎山を度せんとす、といってもそのままでは意味不明である。ただし、何々郎山のことを漢詩に適したように郎山と略したのなら、理解できる。

 日本大学からはこれとは別に、西南戦争中の山田の漢詩が5点公開されている(丸山茂他「學祖 山田顯義漢詩百選」1993年3月日本大学広報部編)。そのうちの一首は「山田顕義傳」と同じものを四字だけ違う字として解釈したもののようである。

  「陣營中偶作」

  未看傳騎報勝遠 思到兩軍對塁間 一夜海南天色赤 王師今應度郎山

である。前記の作品ロとの違いは第一句末の字が還ではなく遠であることと、第二句が両軍ではなく對塁となり、第四句が即ではなく郎とすることである。この本にある写真(下の写真)では還の字が小さく、しかも不明確であり、敢て遠と読む必然性は認められない。作品イのように還と解釈してよいだろう。両軍と對塁を読み間違える訳がないので別物が存在したのだろう。

f:id:goldenempire:20210502073022j:plain

 

制作の時期と場所

 郎山とはどこにあるのだろうか。前出の丸山氏は「陣營中偶作」を次のように解釈している。「いまだに遠く離れた征討軍から 戦勝を報ずる伝令の馬が現れない 我が思いは 官・賊両軍の激戦地へと飛んでゆく 夜通し 海南の空は 赤々と燃えている 天子の軍は 今まさに五郎山を渡ろうとしているに違いない」というものである。

 そもそも何時の作品だろうか。海南という言葉を使っているので東日本が戦場となった戊辰戦争時の作品ではなかろう。やはり西南戦争時に詠んだものだろう。丸山茂氏は、郎山とは熊本県玉名郡玉東町の五郎山を二文字にしたものと記述している。そうだろうか。五郎山は田原坂の西南にあり、横平山の北東側にある低い山であり、「征西戰記稿」によると、3月9日・3月14日に官軍が攻撃し、14日には一部を奪い、15日からは五郎山争奪は戦記に登場しなくなる。この時点で官軍の占領地域に入ったらしい。この時期は熊本城救援のため新たに編成された衝背軍が登場しておらず、山田少将もこの頃まだ九州に出張していない。海路長崎に上陸したのは3月23日で、翌日八代に着いている。五郎山のことなど知らなかっただろうし、知っていても気にして漢詩を作るほどの関係にはなかった筈である。陣營中偶作という題名からも戦地での作であることが分かる。

 

郎山とはどこか

 では郎山とはどこか。「征西戰記稿」や「薩南血涙史」などに出てこない郎山が実在するとは思えない。何々郎山を略して郎山としたと考えるしかない。熊本県水俣市には矢城山という戦跡がある。市街地の東方約6㎞にあり、尾根続きのさらに東側には何度も激戦があった大関山がある。この方面を担当した官軍は別働第三旅団である。別働第二旅団の山田は直接関係ないと思われるかもしれないが、実は山田は4月18日に総督本営から次の辞令を受けている。

  平佐大尉(是純)征討總督ノ命ヲ奉シ隈庄別働第二旅團ノ牙營ニ至リ辭令

  ヲ山少將ニ傳ヘ別働第一二三四旅團ノ總轄ヲ命ス

  (「征西戰記稿」巻二十三 熊本聨絡九)

 従って山田が配慮すべき管轄地域は水俣も当然含まれるのである。

 次は5月15日に別働第三旅団司令長官川路利良少将が水俣から山田に提出した報告である(C09085364200「諸向来翰 乙 別働第二旅團 明治十年五月ヨリ起」防衛省防衛研究所蔵)。

  當團髙岳山ノ尾ニ有之砲塁ハ賊壘ト接近シ賊襲来ノ色アルヲ以テ昨十四日

  後三時三十頃我兵進ンテ直チニ賊塁ヲ乗取リ尚深川村(賊ノ費出所アリ) ニ

  火ス然ルニ矢代山ノ賊依然砲塁ニ據リ我中線ノミ進メ候テハ萬一ノ虞有ルヲ

  以テ右山尾(即賊塁アル所ノ地)ニ引揚ケ固守致シ候其節生捕分捕(臼砲小銃

  中隊旗)等モ有之其他死傷追而調可申出候ヘ共不敢取概畧御届申進候也

           別働隊第三旅團司令長官

     明治十年五月十五日 陸軍少将川路利良

 

  陸軍少将山田顕義殿 ※原文通りにニ段書きできない部分はカッコに入れている。

f:id:goldenempire:20210502055443j:plain

 ここに登場する矢代山には薩軍がいて、官軍にとって憂慮すべき存在だとの内容である。でもこれでは郎山とつながらない。この後、5月20日に川路から山田へ報告が来ている。

 

 以下は川路少将から山田少将宛(5月20日)・山田少将から山縣参軍宛電報(5月22日)・別働第二旅団黒川大佐から山田少将宛(5月22日)の三通を合冊して、5月22日に山田少将が山縣参軍に宛てた文書である(C09082213300「明治十年自三月至八月 別働第三(第二)旅團戰闘報告 軍団本營」防衛研究所蔵0619~0626※)。黒川大佐の文は人吉関係だから略す。

  別帋之通届出候間比段御届申候也

  十年      別働第二旅団司令長官

  五月二十二日  山田陸軍少将

 

  山縣参軍殿

  一 昨日中尾山ノ賊ヲ掃撃後續テ昨日鬼ケ岳ニ並ベル巧ミ通シヲ乗取候処

    二郎山ノ賊戦ハズシテ狼狽逃走ス依テ直ニ賊塁ニ人リ陣営ニ放火セリ此

    時討取壱人生捕壱人アリ我軍死傷ナシ

  今朝薩州ウハバノ原ニ向テ大斥候ヲ出シ置候同所ハ薩州小川内ヘ一里半六

  所番所ヘ七合程之道程之由ニ承リ候尚其後ノ景况ハ後ゟ可申進候  

  一本日桜野村ニ於テ賊鹿児嶋縣士族田尻嘉兵衛ナル者ヲ生捕ル

  右概畧及御届候也

                水俣

                 別働隊第三旅團長

  明治十年五月廿日     川路陸軍少将印

  山田陸軍少将殿

    ここに弥二郎山という表現が登場する。前後の戦況からみて、矢城山または矢代山と呼ばれる山のことであろう。水俣市を東西に貫流する水俣川の左岸に中尾山(標高334m)があり、この山は市街地から3㎞弱南東に位置する。その南東約7㎞には鬼岳(標高734m)がある。右岸には大関山(標高902m)や、その西8㎞ほどに矢城山(標高586m)がある。矢城山には5月14日あるいはその直前から19日午前1時頃まで熊本隊が守っていた(佐々友房「戰袍日記」)。15日の川路の報告では矢代山になっている。矢城山・矢代山・弥二郎山と様々に呼んでいるが同じ山とみるべきである。戦況の変化により矢城山が官軍の中に突出する形になったので熊本隊は東側に退却したのである。

f:id:goldenempire:20210430165208g:plain

 熊本県南端の水俣の状況、矢城山・矢代山・弥二郎山周辺について山田は山縣参軍に報告しているのである。この直前には水俣から鹿児島県北西部の大口盆地の山野に進入した官軍であったが、逸見十郎太率いる薩軍に西方に追い返され、水俣に退却しての交戦状況報告であり、山田は気にかけていたのである。当時、彼は八代を拠点に球磨川流域の戦線を繰り返し巡視しており、まだ人吉盆地突入は十日ほど先である。人吉の南に隣接する大口(伊佐市)への川路の部隊の進撃状況は気になるところであった。その思いと考えたい。

 

おわりに

 以上、郎山とはどこかということで考えてみた。捷報未来人未還 思迷官賊両軍間 一夜海南天色赤 王師今應度郎山の第一句は別働第三旅団川路少将から勝利の報告が来るのを待っていたということではないだろうか。郎山とは矢城山や矢代山あるいは弥二郎と呼ばれた山であろう。