篠原国幹の短冊を紹介する。
篠原は西南戦争の薩軍では桐野利秋と共に西郷に次ぐ立場であったが、開戦初期3月4日に熊本県玉名郡玉東町吉次峠の傍で戦死した。「薩南血涙史」からその状況を引用する。
薩の亞將篠原國幹、村田新八相謀りて曰く「須らく左右兩翼を張り掩擊し
て敵を殄(つく)すべし」と、共に倶に新鋭を部勒し一隊をして半高山の
絶巓より進み、一隊をして三の岳の半腹より進み、以て大に兩翼を張らし
む。時に篠原身に陰面緋色の外套を被り手に烏金装飾の大刀を提げ始終戰
線に挺立して自ら率先風勵す英姿颯爽遠近目を屬す、薩の部將石橋淸八(
五番大隊八番小隊長)諫めて曰く「今日に在りて公の命其の重きこと山嶽
も啻(ただ)ならず徒らに卒伍と身命を同ふすべからず速に安全の地に移
るべし」と、篠原微笑して曰く「余は素と戰鬪に來れり子儻(も)し之を
危まば宜しく自ら去るべし」と、石橋敢て復た言はず。
官將少佐江田某嘗て篠原を識れり良射手をして之を狙擊せしむ(傳説に據
れば後の陸軍少將村田經芳なりと云)篠原遂に之が爲めに斃る、時に天色
黯澹細雨霏々斯の名將の死を哭して萬斛の涙を濺(そそ)ぐものに似たり
※( )難しい字には読み仮名を入れた。
彼の書は珍しいと思う。歌は次の通りである。
曲水や今日者名にをふ身の冥加
(曲水や 今日は 名に負う 身の冥加)
冥加とは幸運に恵まれることという意味もある。曲水の宴の流れのように曲折のある人生だが今は幸運に恵まれている、明日はどうなるかわからないが、と解釈したい。
裏側には「篠原國幹筆」とある。