satsumareb’s diary

これは高橋信武が書いています。

野村忍介自叙傳写本について

西南戦争之記録」第2号に全文を活字化していることを広告しときます。同書を読まない人は知らないようだから。2003年です。※何かここを「つぶやき」のように使っている気がする。そういえば以前、表作成に便利なエクセルでポスター画像を作ったことがあったっけ。

篠原国幹の短冊

 篠原国幹の短冊を紹介する。

 篠原は西南戦争薩軍では桐野利秋と共に西郷に次ぐ立場であったが、開戦初期3月4日に熊本県玉名郡玉東町吉次峠の傍で戦死した。「薩南血涙史」からその状況を引用する。

  薩の亞將篠原國幹、村田新八相謀りて曰く「須らく左右兩翼を張り掩擊し

  て敵を殄(つく)すべし」と、共に倶に新鋭を部勒し一隊をして半高山の

  絶巓より進み、一隊をして三の岳の半腹より進み、以て大に兩翼を張らし

  む。時に篠原身に陰面緋色の外套を被り手に烏金装飾の大刀を提げ始終

  線に挺立して自ら率先風勵す英姿颯爽遠近目を屬す、薩の部將石橋淸八(

  五番大隊八番小隊長)諫めて曰く「今日に在りて公の命其の重きこと山嶽

  も啻(ただ)ならず徒らに卒伍と身命を同ふすべからず速に安全の地に移

  るべし」と、篠原微笑して曰く「余は素と戰鬪に來れり子儻(も)し之を

  危まば宜しく自ら去るべし」と、石橋敢て復た言はず。

  官將少佐江田某嘗て篠原を識れり良射手をして之を狙擊せしむ(傳説に據

  れば後の陸軍少將村田經芳なりと云)篠原遂に之が爲めに斃る、時に天色

  黯澹細雨霏々斯の名將の死を哭して萬斛の涙を濺(そそ)ぐものに似たり

※( )難しい字には読み仮名を入れた。 

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 彼の書は珍しいと思う。歌は次の通りである。

  曲水や今日者名にをふ身の冥加

 (曲水や 今日は 名に負う 身の冥加)

 冥加とは幸運に恵まれることという意味もある。曲水の宴の流れのように曲折のある人生だが今は幸運に恵まれている、明日はどうなるかわからないが、と解釈したい。

 裏側には「篠原國幹筆」とある。

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野村忍介の短冊

 いくつかの短冊や掛け軸、剥がしたものを紹介していこうと思う、何回かに分けて。読めない字があったので、またしても大津祐司さんのお世話になったことをまとめて付記しておきたい。

   今回は野村忍介の短冊である。 西南戦争後、懲役10年の刑を受けた野村は東京の市ヶ谷監獄に投獄され、明治14年釈放されている。

 司法の獄に在り介る頃

 さ九ら炭起さ須とても冬な可良花の古﹅路盤長閑なり遣り 忍

 (司法の獄に在りける頃   桜炭 起こさずとても 冬ながら 花の心は のどかなりけり)

 桜炭とは千葉県佐倉地方の橡で作る良質の炭で、桜は当て字。在原業平の「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」は有名だから、野村もこの歌が心のどこかにあっただろう。これは獄中で詠んだ歌を、出所後に書いたのである。

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 右の短冊は忍介とあるが、野村ではなく月照のことである。末尾の舞は「む」と読む。彼には忍向という号もある。

山田顕義の西南戦争中のある漢詩

はじめに

 別働第二旅団司令長官山田顕義少将の西南戦争中の漢詩を紹介したい。

 これは軸あるいは額から剥がしたのか裏に和紙が貼りついた状態である。本紙の大きさは縦114㎝、横63.5㎝で、朱印が三ヶ所にある。印影の大きさは上右のが縦3.9㎝・横2.1㎝、左下の2点はどちらも縦横3.4㎝である。三行にわたり七言絶句が書かれ、左に空齊という山田顕義の号に主人を続けている。便宜的にこれを作品イと言おう。漢詩捷報未来人未還 思迷官賊両軍間 一夜海南天色赤 王師今應度郎山である。読み下すと次のようになろう。

 捷報(勝ったという報告)未だ来たらず (報告のために帰ってくるはずの)人未だ還らず 思い迷う官賊両軍の間 一夜海南の天色赤し 王師(天皇の軍隊)今まさに郎山を度せんとす

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類似作品

 作品イとよく似ているが全く同じではない漢詩日本大学発行の「山田顕義傳」にある。これを作品ロとしよう。実物の写真がなく活字だけが示されている。

  「陣營中偶作」

  未看傳騎報勝還。思到兩軍官賊間。一夜海南天色赤。王師今應度卽山。

である。第一句は作品イが捷報未来人未還であるのに対し、作品ロは未看傳騎報勝還と表現が異なる。ただし、勝ったという報告をもたらす人が帰ってこないという状態を歌うのは同じである。第二句も思い迷うのか、思いは到るのかと表現が異なるが差異は小さい。第三句は同じである。第四句は最後の二字を郎山と読むのか即山と読むのか、おそらくはどう読むのか解釈が分かれたのだろう。「即山を度せんとす」は意味が通じないと思うがどうだろうか。しかし、郎山を度せんとす、といってもそのままでは意味不明である。ただし、何々郎山のことを漢詩に適したように郎山と略したのなら、理解できる。

 日本大学からはこれとは別に、西南戦争中の山田の漢詩が5点公開されている(丸山茂他「學祖 山田顯義漢詩百選」1993年3月日本大学広報部編)。そのうちの一首は「山田顕義傳」と同じものを四字だけ違う字として解釈したもののようである。

  「陣營中偶作」

  未看傳騎報勝遠 思到兩軍對塁間 一夜海南天色赤 王師今應度郎山

である。前記の作品ロとの違いは第一句末の字が還ではなく遠であることと、第二句が両軍ではなく對塁となり、第四句が即ではなく郎とすることである。この本にある写真(下の写真)では還の字が小さく、しかも不明確であり、敢て遠と読む必然性は認められない。作品イのように還と解釈してよいだろう。両軍と對塁を読み間違える訳がないので別物が存在したのだろう。

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制作の時期と場所

 郎山とはどこにあるのだろうか。前出の丸山氏は「陣營中偶作」を次のように解釈している。「いまだに遠く離れた征討軍から 戦勝を報ずる伝令の馬が現れない 我が思いは 官・賊両軍の激戦地へと飛んでゆく 夜通し 海南の空は 赤々と燃えている 天子の軍は 今まさに五郎山を渡ろうとしているに違いない」というものである。

 そもそも何時の作品だろうか。海南という言葉を使っているので東日本が戦場となった戊辰戦争時の作品ではなかろう。やはり西南戦争時に詠んだものだろう。丸山茂氏は、郎山とは熊本県玉名郡玉東町の五郎山を二文字にしたものと記述している。そうだろうか。五郎山は田原坂の西南にあり、横平山の北東側にある低い山であり、「征西戰記稿」によると、3月9日・3月14日に官軍が攻撃し、14日には一部を奪い、15日からは五郎山争奪は戦記に登場しなくなる。この時点で官軍の占領地域に入ったらしい。この時期は熊本城救援のため新たに編成された衝背軍が登場しておらず、山田少将もこの頃まだ九州に出張していない。海路長崎に上陸したのは3月23日で、翌日八代に着いている。五郎山のことなど知らなかっただろうし、知っていても気にして漢詩を作るほどの関係にはなかった筈である。陣營中偶作という題名からも戦地での作であることが分かる。

 

郎山とはどこか

 では郎山とはどこか。「征西戰記稿」や「薩南血涙史」などに出てこない郎山が実在するとは思えない。何々郎山を略して郎山としたと考えるしかない。熊本県水俣市には矢城山という戦跡がある。市街地の東方約6㎞にあり、尾根続きのさらに東側には何度も激戦があった大関山がある。この方面を担当した官軍は別働第三旅団である。別働第二旅団の山田は直接関係ないと思われるかもしれないが、実は山田は4月18日に総督本営から次の辞令を受けている。

  平佐大尉(是純)征討總督ノ命ヲ奉シ隈庄別働第二旅團ノ牙營ニ至リ辭令書ヲ山

  少將ニ傳ヘ別働第一二三四旅團ノ總轄ヲ命ス(「征西戰記稿」巻二十三 熊本聨絡九)

 従って山田が配慮すべき管轄地域は水俣も当然含まれるのである。

 次は5月15日に別働第三旅団司令長官川路利良少将が水俣から山田に提出した報告である(C09085364200「諸向来翰 乙 別働第二旅團 明治十年五月ヨリ起」防衛省防衛研究所蔵)。

  當團髙岳山ノ尾ニ有之砲塁ハ賊壘ト接近シ賊襲来ノ色アルヲ以テ昨十四日午後三時

  三十頃我兵進ンテ直チニ賊塁ヲ乗取リ尚深川村(賊ノ費出所アリ) ニ 火ス然ルニ矢代

  山ノ賊依然砲塁ニ據リ我中線ノミ進メ候テハ萬一ノ虞有ルヲ以テ右山尾(即賊塁アル

  所ノ地)ニ引揚ケ固守致シ候其節生捕分捕(臼砲小銃中隊旗)等モ有之其他死傷追而

  取調可申出候ヘ共不敢取概畧御届申進候也

           別働隊第三旅團司令長官

     明治十年五月十五日 陸軍少将川路利良

 

  陸軍少将山田顕義殿 ※原文通りにニ段書きできない部分はカッコに入れている。

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 ここに登場する矢代山には薩軍がいて、官軍にとって憂慮すべき存在だとの内容である。でもこれでは郎山とつながらない。この後、5月20日に川路から山田へ報告が来ている。

 

 以下は川路少将から山田少将宛(5月20日)・山田少将から山縣参軍宛電報(5月22日)・別働第二旅団黒川大佐から山田少将宛(5月22日)の三通を合冊して、5月22日に山田少将が山縣参軍に宛てた文書である(C09082213300「明治十年自三月至八月 別働第三(第二)旅團戰闘報告 軍団本營」防衛研究所蔵0619~0626※)。黒川大佐の文は人吉関係だから略す。

  別帋之通届出候間比段御届申候也

  十年      別働第二旅団司令長官

  五月二十二日  山田陸軍少将

 

  山縣参軍殿

  一 昨日中尾山ノ賊ヲ掃撃後續テ昨日鬼ケ岳ニ並ベル巧ミ通シヲ乗取候処弥二郎山

    ノ賊戦ハズシテ狼狽逃走ス依テ直ニ賊塁ニ人リ陣営ニ放火セリ此時討取壱人生

    捕壱人アリ我軍死傷ナシ

  今朝薩州ウハバノ原ニ向テ大斥候ヲ出シ置候同所ハ薩州小川内ヘ一里半六ケ所番所

  ヘ七合程之道程之由ニ承リ候尚其後ノ景况ハ後ゟ可申進候  

  一本日桜野村ニ於テ賊鹿児嶋縣士族田尻嘉兵衛ナル者ヲ生捕ル

  右概畧及御届候也

                水俣

                 別働隊第三旅團長

  明治十年五月廿日     川路陸軍少将印

  山田陸軍少将殿

    ここに弥二郎山という表現が登場する。前後の戦況からみて、矢城山または矢代山と呼ばれる山のことであろう。水俣市を東西に貫流する水俣川の左岸に中尾山(標高334m)があり、この山は市街地から3㎞弱南東に位置する。その南東約7㎞には鬼岳(標高734m)がある。右岸には大関山(標高902m)や、その西8㎞ほどに矢城山(標高586m)がある。矢城山には5月14日あるいはその直前から19日午前1時頃まで熊本隊が守っていた(佐々友房「戰袍日記」)。15日の川路の報告では矢代山になっている。矢城山・矢代山・弥二郎山と様々に呼んでいるが同じ山とみるべきである。戦況の変化により矢城山が官軍の中に突出する形になったので熊本隊は東側に退却したのである。

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 熊本県南端の水俣の状況、矢城山・矢代山・弥二郎山周辺について山田は山縣参軍に報告しているのである。この直前には水俣から鹿児島県北西部の大口盆地の山野に進入した官軍であったが、逸見十郎太率いる薩軍に西方に追い返され、水俣に退却しての交戦状況報告であり、山田は気にかけていたのである。当時、彼は八代を拠点に球磨川流域の戦線を繰り返し巡視しており、まだ人吉盆地突入は十日ほど先である。人吉の南に隣接する大口(伊佐市)への川路の部隊の進撃状況は気になるところであった。その思いと考えたい。

 

おわりに

 以上、郎山とはどこかということで考えてみた。捷報未来人未還 思迷官賊両軍間 一夜海南天色赤 王師今應度郎山の第一句は別働第三旅団川路少将から勝利の報告が来るのを待っていたということではないだろうか。郎山とは矢城山や矢代山あるいは弥二郎と呼ばれた山であろう。

山梨県出身土橋健治郎の西南戦争従軍日記

 西南戦争の従軍日記を入手したので紹介したい。官軍側の兵士だった人の物である。表紙には「明治拾八年 量水掛付上申及其他事實控・・・・」とあり、後半は手擦れで消えており読めない。表紙はやや厚く、本文は赤い線の罫紙を半分に折り、綴じた体裁である。巻頭の2頁分の紙は破り取られているが、残った部分には何か書かれた痕跡は認められない。次の5頁は山梨県釜無川に関する控えである。西南戦争とは関係ないが、史料を書いた人に関する内容であり、これも掲載する。続く44頁には西南戦争のことが書かれているが、本人に関する従軍記述は少なく、他からの引用が多い。

 それ以下の記述は解読文では紹介しないが写真を掲げておきたい。西南戦争に続く94頁分は白紙で、その次は14頁にわたり明治17年の驛逓局云々の記述がある。3頁の空白を置いて明治21年北巨摩郡役場関係の控えが2頁あり、4頁の空白の次の最後の頁に計算のようなものが書かれて本文は終わる。

 

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                  登美村塩嵜村

                   戸長

其所轄塩嵜村土橋健治郎ヘ御用在之候条来ル十五日午前十時礼服着用出廳候様通知可致候

 明治十八年一月十二日

     北巨摩郡役所

前書御達相成候ニ付此段及御達候也

 十八年一月十三日  登美村

          塩嵜村戸長役場印

 

     土橋健治郎殿

        御請書

           土橋健治郎

釜無川量水掛申付候事

 明治十八年一月九日

    山梨縣

右御請仕候也

 明治十八年一月十六日 土橋健治郎

    山梨縣令

     藤村紫朗殿

 

     御請書

         柳木多造   

依願職務差免候事

 明治十八年一月九日

右御請仕候也

 明治十八年一月十六日柳木多

   山梨縣令

    藤村紫朗殿

 

 釜無川量水掛用品請渡済御届

    支給品目

八角時計       壱個

一木製ノ正午計      壱個

一硯箱         壱個

一打 提        壱張

一量水標取扱人心得書  壱冊

一水位日表記入方雛形  壱通

一量水表扣用紙但十二月迠扣(三月ヨリ)拾枚

   合計七品

釜無川量水掛今般任免ニ付曽テ御下渡相成候前書之用品后任エ請渡済候間此段御届仕候也

              

 明治十八年一月十九日 元量水掛柳木多

              土橋健治郎

     山梨縣令

      藤村紫朗殿

 

  釜無川量水掛用品引渡書

    支給品目

八角時計       壱個 

 

 

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 登美村と塩嵜村は山梨県北巨摩郡にあった村で、現在は甲斐市となっている。明治18年当時は塩崎村・登美村は六小区と呼ばれる同じ行政区域だったので、小区の役場である戸長役場が登場しているのである。

 ここに登場する量水標とは明治15年内務省富士川流域各所に設置したものであろう(『水利科学』No.310 2009掲載の「釜無川左岸連続堤防の築造経緯」岩屋隆夫・松浦茂樹・望月誠一)。釜無川富士川の一部の名称である。富士川は深刻な水害が絶えない河川であるため様々な対策が講じられてきた。土橋健治郎に関するこの史料は量水掛というものがあったこと、おそらく一年か二年ごとに交代し、それに必要な用品の内容、それらを次の担当者に引き継ぐ仕組みだったことが分かる。些細ではあるが意味のある記録である。柳木多造の解読は違うかもしれない。

  

 次は西南戦争に関する記述である。太字ではなく通常の字で示す。誤字はそのままとした。

 

鹿児島征討日記序

此書ハ明治十年第二月中旬鹿児島縣私学校ノ生徒等二万餘人西郷隆盛桐野利秋篠原国幹等ヲ主謀ト仰キ肥後表ヘ乱入シ熊本鎮台ヲ始メ諸鎭臺ヲ騒擾シ一挙輦下ニ出ントス朝廷ニハ暴徒征伐ノ命ヲ各鎭台ニ下ス時ニ拙後備軍ニ列スルヲ以テ召集ノ令ヲ下サレ三月上旬郷里ヲ発シ同月中旬肥後田原坂ニ至リ始メテ接戦夫ヨリ所々ニ於テ交戦シ同年九月下旬ニ至鹿児島城山ニ於テ賊徒殲滅シタル事情ノ概畧ヲ記載ス

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尤モ開戦ヨリ三月十九日迠ノ事ハ雜報ヲ集メテ記載ナセシ故我ガ眼前ニ爲セシ事ニハ非ラス

此書中ハ我ガ心覚ノ事ナレバ謬文誤筆ナキヲ欲セズ

 

鹿児嶌征討日記(※カッコ内は小字のニ書きだがカッコに一段で示した)

起源ハ三菱會社ノ赤龍丸ガ大坂鎭臺ノ命ヲ奉シ一月二十七日鹿児島湾ニ入リ海軍省所属造船所ノ弾藥庫ヨリ二千個ノ硝薬ヲ積込ミ三十一日ノ夜モ残ル所ノ千七百個ヲ積入レント數十ノ提灯ヲ照シ本船ヘ運搬ノ途中私学校ノ書生四五十人各道ヲ遮リ火藥ヲ運フニ提灯ヲ携ヘ人家調密ノ地ヲ通行スルハ甚ダ以テ不用心ノ至リナリ速カニ引戻スヘシト嚴シク談判ニ及ブニゾ造船所ノ吏員答ヘテ曰ウヤ至急ノ御用ニテ運送スル火藥ナレバ一刻モ

f:id:goldenempire:20210427075200j:plain延引シカタシ火ノ元ノ儀ハ拙者共注意致スヘシ决シテ御心配アル可カラズト言ヲ藎シテ談示最中又モ數十ノ書生等短鎗ヲ携ヘ何レモ帯刀シテ馳来リ汝等此ノ弾藥ヲ般ヘ積ミ入ルヽ時ハ一人モ残ラズ細首ヲ打放シ申ヘシ抔ト大ニ恐喝付ケ力鎗ヲ捻リリ廻ス有様ハ今ニモ打チカヽルベキ劍幕ナレハ人夫共大ニ恐怖シ皆々逃去リケレハ書込所ノ弾藥ヲ奪テ去リケレバ赤龍丸ハ其夜直ニ該港ヲ出帆シ六日ノ夜神戸ニ着シ右乱暴ノ始末ヲ上申ニヒタリ亦西郷隆盛等ハ私学校ニアツテ百事指揮ヲ爲シケルガ二月二日ノ夜士族ニ命シ歸省中ナル中原尚雄以下四十二名捕縛シ惨酷キ拷問ニカケ強迫シテ西郷暗殺ノ口供ヲ拇印サセタリ其縛セラレシ人々ニハ少警部中原尚雄中警部園田長照權中警部野間口兼一同末廣直方少警部安藥(※楽)兼道同土持髙中警部菅野井誠美權中警部髙﨑親章一等巡査樋脇

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賢助二等巡査伊丹親恒書生半田才七同大山綱助同猪鹿倉保同田中直哉同山﨑基助四等巡査前田素志同髙橋爲淸同松本兼淸二等巡査彦四郎書生柏田盛文等ナリ西郷等ハ本人并ニ口供ヲ鹿児嶌縣令ニ出シ且ツ曰ク政府ハ何故ニ拙者ヲ暗殺セント企テシヤ一應尋問ニ及ヒ度ニ付舊兵隊ヲ引卒シ不日出京致シ候間此段御届ニ及ブト二月五日數百ノ士族ヲ肥後界ヘ出シ他縣人ノ鹿児島ニ入ルヲ禁シ専ラ出兵ノ用意ニゾ及ヒケル當時主上ニハ西京御駐輦ノ折ニテ有栖川山階ノ兩宮三條太政大臣木戸内閣顧問伊藤工部卿山縣陸軍卿初メ勅奏ノ貴顯多ク西京ニアリ六日夜赤龍丸ガ帰航スルヤ鹿児島縣士族暴舉ノ始末逐一上申ニ及ニケルハ主上ニモ深ク叡慮ヲ悩マセラレ現塲取糺トシテ河村海軍大輔林務少輔林公ハ兩(※西)国巡廻中ニテ大分縣下ニアリ途中ヨリ同行セラルヽナルヘシ兩公ハ翌七日直ニ軍艦髙尾丸ニ乗ジ鹿児島港ニ投錨シマヅ属員二名ヲ縣廳ヘ遣ハサレシニ暴徒共之ヲ途中ニ遮リ二名ノ属員ヲ拘留直ニ逸見十郎太ヲ大将トシ八百餘人ノ暴徒等六十餘艘ノ小船

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ニ乗リ髙尾丸ヲ乗リトラント曳々聲ヲ出シテ漕寄セ來リ四方ヲ取圍マントセシカ髙尾丸ハ忽チ其塲ヲ出艦シ櫻嶌近海ニ錨ヲ投チ再ビ使者ヲ以テ大山縣令ヲ招カレ私学校生徒ノ挙動ヲ尋問アリケレバ縣令ハ弾藥掠奪ノ事ヨリ中原少警部以下ヲ縛シ口供ヲ取リタル事迠逐一陳述セラシカバ河村林ノ二公ハ不軌ノ形勢判然タルヲ確認シ一ト先ツ備後尾ノ道迠引揚ケラレ尚舉動ヲ窺ハレシニ十三日ニ至リ遂ニ帰京シテ暴徒反状奏問ニ及ビケルトゾ此時内務卿大久保利通公陸軍少将鳥尾小弥太公玄武丸ニ乗込ミ上京アリ引續テ大山陸軍少将山田陸軍少将等モ上京シ又西京警衛トシテ近衛兵一大隊江田少佐之ヲ卒ヒ鎭台砲兵十二門江見大尉之ヲ卒ヒ何レモ東京丸ニテ上京ス警視局ヨリハ熊本福岡佐賀警衛トシテ上京ス警綿貫中警視警部巡査五百人ヲ卒ヒ進発ス廿日ニ至又檜垣權少警視三間少警視

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警部巡査千有余人ヲ卒ヒ豊後鶴﨑ト長﨑ヘ向ケ出発セリ西郷隆盛ハ桐野篠原ト謀リ国中同志ノ者ニ羽檄ヲ傳ヘ二月九日ヲ以テ麑嶋ヲ発シ此時桐野ハ軍費トシテ西郷ヨリ三拾八万円ヲ受取リシト云フ出水郡出水駅ニ於テ勢揃アリ総勢一萬六千余人或ハ貳万人トモ云フ此時西郷ハ陣中ヘ令ヲ下タシテ曰ク戰塲ヘ臨ム以上一歩モ退ク勿レ其地ニ死セヨ必合戰ト思フ可ラス唯山ニ入リテ戰ヲ駆ルト心得毫モ雜慮スル事勿レ又人民ノ所有ヲ掠ムル者ハ嚴罪ニ處セント時ニ二月十五日拂暁シ発ノ号砲ヲ合圖ニ金鼓ヲ鳴ラシテ繰リ出ス各隊ノ簱馬卯(※印)ハ髙天ニ翻リ銃槍ハ閃々トシテ朝日ニ輝キ総軍一同鯨聲wパケタル音ハ山嶽ニヒビキ之ガ爲ニ大海モ沸キ天地モ崩ルヽカト怪シム計リナリ十七日先鋒ハ求俣駅ニ着ス茲ニ又鹿児島県令大山綱良ハ県官原作造ノ外カ拾一名ヲ専使トシテ熊本福岡大分長﨑其他鎭台ヘ書ヲ送ル十一日原作造外二名先熊本県廳ニ至ル書ヲ出ス其文ニ曰ク

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今般當県官員ヘ傳使申付御通知ノ事件左ニ申進候近日當県ヨリ舊警視廳ヘ奉職ノ警部中原尚雄其外別紙人名ノ者其名ヲ帰省等ニ托シ潜ニ帰県ノ處彼等竊カニ国憲ヲ犯サントスルノ奸謀発覚シタルニ付則チ御規則ニ基キ其筋ヘ申付該人名捕縛ノ上鞠問ニ及ビ候就處ラズ其犯ノ口供別紙ノ通ニ有之候就テハ右事件陸軍大将西郷隆盛陸軍少将篠原国幹陸軍少将桐野利秋等カ耳問ニ筋有之不タルカ右三人ヨリ今般政府ヘ尋問ノ筋有之不日ニ當地発程致シ候間御含ノ爲此段届出候尤舊兵隊ノ者共随行多數出立候間人民動揺不致様一層御保護及御依頼候也トノ書面ヲ以テ届出テ候ニ付県廳ニ於テ書面ノ趣聞届ノ上朝廷ヘ御届置候間爲御心得此段及御通知候也 夫ヨリ専使ハ鎭台ニ至リ西郷隆盛ヨリノ書ヲ鎭台司令長官谷少将ヘ出ス其略ニ曰ク政府尋問ノ爲兵ヲ卒ヒ上京致スニ付尚揮可及儀モ有之候得共通行ノ節ハ兵士ヲ整列シ敬禮ヲ行フヘシトノ主意ナリ谷少将大ニ其無禮ヲ憤リ断

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然通行ヲ拒断セント言ヒケレハ中陸軍大将ノ上京ヲ拒ムハ不可ナラント言者アリ或ハ拒ム可シト言ヒ或ハ敬禮ヲ行フヘシト言ヒ議論紛々决セサリシガ谷少将ハ断乎トシテ拒絶スルノ説ヲ首長シ遂ニ返答ニ及ビケルハ决シテ通行ヲ許サズ強テ通行セントナラバ臨機ノ処分ニ及フ可シト是ヨリ防禦ノ手配ニ及ヒ十七日公然ト哨兵線ヲ張リ數百ノ兵ヲ配分セリ廿日鎭台ノ斥候兵二小隊ヲ川尻町ニ出ル此時薩兵ノ先鋒石井竹之介徳久孝治郎別府新助村田三八ノ四將ハ拂暁朝霧深キニ乗シ旗ヲ川尻町ニ進ミ乍候兵出スルガ川尻町ノ入口ニテ忽チ鎭台兵ニ出逢ヒ茲ニ初メテ戰端ヲ開ク官兵敗レテ熊本ニ走ル廿一日早天薩兵進デ熊本ニ入ル神風連ノ残黨初学校連抔ト稱スル者共千余人薩兵ニ與ミシ専ラ地理ノ嚮導ヲナス此時植嵜村本沙寺邉ヨリ法華坂等ニ大戰シ官兵小勢ナルヲ以テ退テ本城ニ入リ城問ヲ鎖シ此時ハ打テ出ス廿二日午前八時鎭兵一大隊本郷口ノ城門ヲ押開キ鯨声ヲアゲ

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テ擊テ出テ別府石井等カ陳ヲ砲擊ス薩兵モ弾丸ヲ飛シ一進一退死力ヲ盡シ前後ヲ争ヒ戰タリ暫時ニシテ薩兵敗走ス午后三時ニ至リ官兵引アゲテ城門ヲ𧴪ス同四時二十分薩兵雲霞ノ如ク寄来リ大小砲ヲ掛打ケ一挙ニ茲ヲ攻破ラント堀際マテ押寄スレバ官兵城門ヲ左右ニ推シ開キ砲手ヲ揃ヘテ数百釣瓶カケテ押放セバ前ニ進ミシ薩兵共将碁倒シニ押倒サレ案ニ相違シ崩レタツテ烟ノ中ヨリ数十ノ官兵寄手ノ手本ヘ突テ入リ四方八方ニ薙廻レハ遉カ慓悍ヲ以テ世ニ聞ヘシ薩摩武士モ四土路ニナツテ崩レタツ忽チ薩ノ援兵大ニ至リ味方ヲ励マシ一挙ニ乗リ入ラント賊軍ノ兵氣再ビ震ヒ為ニ官兵頗ル苦戰ニ見エタリシガ此時本城ノ天主臺ヨリ眼下ヲ目途ニ発ス否榴弾其図ヲ外サズ薩兵ノ頭上ニ破裂シ死傷夥シク何カハ以テ耐ヘケン忽チ乱レテ敗走スルヲ得タリト官兵取テ返シ當ルニ任セテ薙立レバ薩兵遂ニ敗走シ散々ニ逃去リケリ官兵喇叭ヲ鳴ラシテ軍ヲ纏メ手軽ク人数ヲ引ア

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ゲ堅ク城門ヲ閉ジタリ時ニ桐野秋篠原国幹等各部ノ隊長ヲ會シ議シテ曰ク此城要害堅固ナルニ臺兵死墳ノ勢ヲナシ斯ク防禦ニ力ヲ尽スヲ見レハトテモ力攻ニハナシカタカルヘシ去リトテモ此城ヲ拔カスンバ天下ニ号令スルコトモナラサルヘシ此上ハ人数ヲ分チ城攻ノ兵トナシ一手ハ髙瀬口ヨリ進ンテ南ノ関ヲ取リ早ク筑後ニ出ルニ然シ又久シク大兵ヲ屯シナハ官軍ノ援兵心ス至ラン速カニ兵ヲ出シ拔兵ノ道ヲ断ツノ外アラ可カラズト衆議一定シ駆テ諸軍ノ向所ヲ手配ニ及ビケルニ篠原国幹池上四郎西郷小平村田三八等ハ十大隊ヲ卒ヒテ髙瀬口ヘ進ム先鋒ハ別府新助石井武之助藤井☐之助ナリ其余ハ城攻ノ兵数トシ新堀町二ノ丸口本郷等ヲ始メ鉄桶ノ如ク取リ囲ム廿二日ノ午後寄手ハ再ヒ城ヘ押寄本丸ヲ目途ニ砲擊ナス事雨ノ如ク然レノモ臺兵屈スル色ナク天守台ヨリ廿四ボンドノ巨砲ヲ以テ擊チ立ルニ寄手ハ之ニ避易シ其後ハ城ヘ近ツカサリシト廿三日西郷隆盛旗本

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ノ兵ヲ卒ヒテ川尻ニ着陳ス廿四日ノ晩薩兵ノ大鉋臺花岡山ノ頂上ヨリ巨砲ヲ以テ城ヲ目途ニ連発スレノモ弾丸城ヘ届カズ城中ヨリ花岡山ヘ向ケ廿四ポンドノ巨砲ヲ射擊スルニ目的違ハズ達スル事三発寄手大ニ恐懼シ花岡山ヲ逃ケ下リタリ是ヨリ敢テ城ヘ近カツカサリシト云フ廿五日ニハ北ノ方千段畑京町口モ激シキ戦ニテ此モ賊兵カ利ヲ失ヒタリ同日午後ヨリ賊兵四五十人斗リ植木驛(熊本ヲ距ルヿ三里)ヘ進軍ス時ニ豊前営ノ臺兵大一隊半木ノ葉驛(熊本ヲ距ルヿ五里)ヨリ植木驛ヘ進マントスル折柄ナレバ最初賊徒ガ寄来ルト言フヨリ早ク后軍ヘ報知シ廿六日賊兵ヲ植木驛ノ入口ニ逆ヘ甚タシク戦ヒケル賊徒ノ援兵群リ来リ擊チツ擊レツ互ニ勝敗ナラザリシガ夜ニ入リテ官軍植木ヲ焼拂ヒ退ヒテ髙瀬(熊本ヲ距ルヿ七里)ニ止陳ス賊徒ハ夫ヨリ髙瀬ノ方ヘ進軍スルノ勢ヒアレバ官軍再ヒ合戰ノ用意アリ廿八日官軍ハ城ノ南洗馬ノ辺ニ聚糧シテ玄米六拾俵ヲ得テ帰リ堅ク城門

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ヲ鎖ス三月一日ニハ休戦ナリ仝二日早天ヨリ山鹿口ニ戰ヒ始マリ吉治越川尻リ各所ニモ砲戦アリ仝三日官軍髙瀬口ノ台塲ヲ乗取リ大砲二門ヲ分捕リ仝四日益々進ンテ木ノ葉ヲ進擊攻落シ又一手ノ髙瀬口ハ田原坂ヘ伊倉口ハ吉治越ヘ進軍或ハ勝チ或ハ敗レ昨日ノ賊塁ハ今日官軍ノ砲臺トナリ午前ハ走リ午後ハ追フ恰モ盛夏ノ炎天ニ黒雲ヲ起シ奔雷ノ山ヲ穿チ盆雨ヲ傾ムクルカ如ク或ハ嚴冬ノ風雲飄然トシテ定リナキカ如シ出没死戦目モ当テラレヌ有様ナリ山鹿口ハ双方トモニ激戦ニテ午後六時頃両兵共ニ退軍ス賊兵間道ヲ経テ岩村ヘ出デ道チニ思ハザリキ援兵ヲ乞ハントスルニ道ナク狼狽顚倒何カハ以テ耐ベケン弾丸数射賊の爲ニ逐ヒ散ラサレ一時敗走シタリケルニ又候引返シ憤闘激戦スル中ニ南關ヨリ援兵追々馳セ来リ前後挟擊シタリケルガ其日ハ勝敗ナカリシトゾ仝五日山鹿口ハ

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昨日ヨリ連戦憤闘官兵稍々勝利アリシ由髙瀬木ノ葉ノ諸口ハ野津大山ノ両少将河村参軍海軍大輔ノ両少等ノ指揮ニテ官兵ノ後ニ恢復シ仝日休戦ナリ最モ少々ノ迫リ合ハ有リシカ格別ノ事ハナカリシトゾ田原坂ノ手ハ賊ノ一二壘ヲ拔キ四日以来ノ戦ハ諸手大進擊最モ利アリシトゾ其内胸壁ヲ多ク築キタル田原坂ハ賊心死ニ之ヲ固守シ官軍ハ新手ヲ入レ替ヘテ力攻ニ攻メ立レノモ何分ニ賊モ一生懸命ノ勇戦ニテ防禦シ且ツ其ノ地利ヲ得タル事ナレハ思フ侭ニハ拔クヲ得ス死傷ハ毎日数百人中ニモ士官ノ傷ヲ被ル者多シ仝六日拂暁ヨリ山縣参軍大山少将ハ髙瀬口ニ軍ヲ進ム午後八時頃迠木ノ葉口ニテ激戦シ進ンデ田原坂ニ至リ三壘ヲ攻ム強クシテ拔クヿ能ハス依テ手配ヲナシ別軍ヲ以テ直チニ植木口ヘ進メシム山鹿口ハ砲臺ヲ築テ持スル都合ナリ又海岸河内口ハ餘程ノ激戦ニテアリシガ賊敗北ス此時熊本士族ノ内ニテ賊ニ應セシ者モ背キタル者アリシト云フ又仝日一手ノ官軍ハ

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木道峠ノ賊ヲ擊チ破リ間道ヨリ田原坂ヲ突キ大ニ接戦シタリ仝七日田原坂吉治越ヘ二重峠ノ三ヶ所ニ合戦アリケルガ福原大佐銃丸ノ爲メニ重傷ヲ被リタリ 

今般暴ニ付鹿児島ニアル嶋津父子ヘ動使トシテ柳原前光随行トシテ舊福岡藩ノ老候黒田長博舊佐土原藩ノ知事嶋津忠寶ヲハジメ黒田中将安田開拓權大書記官其外教員并ニ兵士進メ巡査数百人之ヲ守護シ黄龍玄武ノ二艦及ヒ春日艦ヲ先導トシテ長﨑ヲ発シ前濱ヘ着セラレ鹿児島ノ様子ヲ探偵ノ上入港上陸ニ相成リ嶋津父子ヘ勅命ヲ傳ヘラレタリ其勅書ニ曰ク 鹿児島県下ノ逆徒熊本縣ニ乱入シ朝憲ヲ蔑如シ官兵ニ抗シ悖(※異体字)乱ノ挙動ニ及フ朕已ニ征討ノ令ヲ布キ二品親王有栖川熾仁ヲ以テ征討総督ト為シ進発ヲ命セリ汝久光實ニ国ノ元功朕ガ素ヨリ信重スル所今特ニ議官柳原前光ヲ遣シ朕ガ旨ヲ諭サシム其レ能ク爾ノ誠意ヲ致セ

仝八日官軍ハ南ノ關ノ本営ヲ髙瀬ニ移シ山縣參軍ヲ始メ進軍ノ事ヲ議シ猶又兵ヲ加ヘテ

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田原坂残塁ヲ拔カント隊伍ヲ整ヒ進軍シ大ニ戦フタリ仝九日田原坂左翼ノ賊塁三ヶ所ヲ攻取リタリ仝十日野津少将スイトナリ木ノ葉口ヨリ伊倉ニ進軍シ大山少将河村參軍ハ髙瀬ニ在陳山鹿口ハ三浦少将師タリ仝時十一日ハ官兵暁ヲ冒シテ吉治越ノ左翼ナル賊ノ臺塲ヲ乗取リタルニ前面ノ賊打立テラレテ終ニ賊兵ニ取戻サレ田原坂ノ方モ賊塁ニ乗取リタル所 野ガ遊兵ニ跡ヲ断シ共ニ之ヲ保ツコトヲ得スシテ此時間ハ實ニ瞬間ニシテ賊ノ砲臺ヲ毀チ官兵築キ替ル隙モナク賊ヲシテ之ヲ取リ戻シ再ヒ元ノ地位ニ返サシメタリ山鹿口ハ午前八時ヨリ開戦シ官軍岩村平山ノ両処ヨリ進擊シ賊塁一ヶ所ヲ乗取シニ賊狭間ヨリ切込ミ頗ル激戦シ官軍退テ平山ノ臺塲ヲ守リ岩村ノ官軍進擊シ大ニ戦フ賊兵鍋村ヲ焼キ去ル海軍ハ白濱近津ノ賊ニ砲擊シタリ賊徒ノ険要トシテ堅ク守ル田原坂ノ地形ハ髙キ山ニモアラザレバ八折九廻或ハ下リ或ハ上リ守ルニ利アリ攻ルニ甚ダ不利ナレバ昔

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ヨリ此所ヲ腹切坂ト云フ若シ敵ノ攻ノ来テ此要害ヲ拔カル事アラバ熊本城之安危ニ抱ハルカ故ニ戦フヨリ死スルニ如クハナシト仍テ腹切坂ト云フ十三日黒田中将ハ兼テ鹿児島ヘ引卒サレシ兵一大隊半ト外ニ東京ヨリ出張シタル兵二大隊ト巡査七百名ヲ合シ軍艦ニテ肥後ヨリ賊ヲ突カルヽノ策ニテ発艦セラレタリ斯クシテ田原口ノ官軍ハ東雲ヨリ薩兵ノ塁ヲ拔カント頻ニ砲シケレバ暴徒等モ心得タリト防禦スル事一時間余リ然ルニ賊ノ拔刀隊ヲハ戦ノ圖ヲ去リ二三十人打チ揃ヒ眞一文字ニ切リ込ンダリ其太刀先ハ最モ尖トク一時潰走シタリ斯カル所ヘ近衛兵ナニ一ト打チト入替リ銃鎗ヲ以テ中段ヲ構ヒ突ト一ヲ以テ四角八面ニ突キ立テ手許ヘトテハ寄セツケサリシガ折シモ巡査ノ拔刀隊何レモ腕力スダレシ人々拾名ヲ一手トナシ不意ヲ狙テ打チカヽリケレバ賊ノ軍勢色メキテ四五十間

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程退テ勝タル此圖ヲ拔カサント進メ々ノ指令アレバ巡査ノ勇氣日頃ニ倍シ田原坂ヲ攻メ登リテ進メタレト云フ十四日拂暁兵ヲ揃ヒ植木口ヲ攻擊ス右翼前面ノ賊塁数ヶ所ヲ乗取リ賊走リ街道ヲ隔テヽ對戦ス田原坂口モ早朝ヨリ側面ヲ攻擊シ拔刀隊ヲ撰編シ砲戦ノ機ニ乗ジテ賊塁ニ切込ミ数塁ヲ拔キ之ヲ毀チ街道ニ添フテ過ク但正面ノ賊ハ未タ拔ケサレ共我兵非常ノ勇氣ヲ奮ヒ必死ノ賊兵六七十人ヲ計リ鏖シタリ十五日猪武者ノ聞ヘアル賊将桐野利秋ハ敵陳ノ眞先ニ進ミテ勢ヒ猛虎ノ如ク押シ来リ頗ル劇戦アリ仝日山鹿口岩村ノ官軍ハ長野原ハヅレ車坂ヘ進軍ノ処賊ノ伏兵左右ヨリ不意ニ砲発シ頗ル苦戦ニテ死傷最モ多分ト云フ十六日山鹿口休戦田原坂植木口ノ戦地ニテ鬼島桐野淵辺永山ノ四名騎馬ニテ軍中ヲ馳セ曲リ大ニ兵ヲ指揮セリ我カ軍之ニ悩マセラレ殊ノ外ノ激戦シタリト云フ十七日早天ヨリ開戦田原坂ノ賊勢ハ甚ダ鋭ドク一二ノ塁ヲ乗取リシモ又彼ニ恢復サレ苦

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戦ノ程ハ云ヒガタカルベシ十八日檜垣權少警視巡査六百人ヲ卒ヒ大分縣ヨリ進ミ入リ午前七時ヲ以テ坂梨ノ本営ヲ発シ二重峠ノ麓黒川村ヘ攻擊シ佐川警部一小隊ヲ卒ヒ間道ヨリ進ミ倉内警部ハ半小隊ヲ卒ヒ本道向ヒ檜垣少警視三百余人ノ将トナリ嶺ヘ通スルノ間道ニ向ヒ一挙ニシテ賊ヲ破ラント勇ミ進ンデ攻メ寄セタリ又本道ヨリ進ミシ兵ハ賊塁ヲ突カントオメキサケンデ打チ立ツレバ賊兵必死ト力ヲ極メ塁中ヨリ砲銃ヲ以テ連発シ烈シク両軍戦ヒシガ死傷甚タ夥シク進ミ得スシテ逡巡スルヲ得タリト賊徒ハ追擊シ我軍大ニ披靡ヘタリ一手ノ官軍ハ黒川村之賊塁ヲ襲ヒカヽル処賊ノ伏兵左右ノ林中ヨリ不意ヲ狙ヒ一目散ニ打立ラレ頗ル大戦ニ及ヒタリ扨テ雜報止テ次紙ハ我カ日記ニ移ル

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※以下の日記部分は途中で終わっており、大部分は空白のままです。次回記載します。

鹿児島征討日誌

今般西国騒擾ニ付突然トシテ後備軍召集ノ令ヲ下サレ三月一日郷里ヲ発シ仝四日東京麻布営所ニ至リ砲術ヲ復習シ鎮西出張ノ命ヲマツニ仝九日ニ鎮西出張ノ命アリ仝日(雨天)午前第九時麻布営所ヲ出発シ仝十時三十分築地ステン所ヨリ蒸氣車ニテ発シ仝十時三十分横濱ニ着シ同所芸居小屋ニ於テ午食シ午後三時同所ノ港ヨリ飛脚舩東京丸(此般廣大ニシテ中間カ七階長九十五間アリ)ニ乗込ミ仝七時仝所ヲ出発シ十一日(晴天)海上十二日(晴天)午前四時攝州神戸ヘ入港直ニ上陸シ兵庫明神町ニ於テ午食シ暫時遊歩シ午後四時再ビ東京丸ニ乗込ミ十三日(雨天)午前四時仝港ヲ出軌シ十四日(晴天)午前四時長州下ノ關ニテ暫時止般シ仝六時仝所ヲ発シ午後四時筑前博多ヘ入港六時上陸一泊ス十五日(晴天)午前十時整列総督奉送トシテ直ニ出軍ノ処變報休止トナリ仝十二時仝所ヲ出軍シ(三時頃筑後地ニ入ル)午後七時松﨑驛ニ着軍一泊ス(博多ヨリ八里也)十六日晴天午前四時松﨑ヲ出軍シ午後二時頃羽犬塚ニテ昼食シ仝五時三十分原ノ町ヘ着軍一泊ス(松﨑ヨリ十里余)十七日(晴天)午前四時原ノ町ヲ出軍シ(拙足痛ニテ原ノ町ヘ逗留ス)坂ノ下ニテ昼食シ(一時頃肥後地ニ入ル)南ノ關ヲ経テ午後五時髙瀬驛ニ着軍一泊ス(原ノ町ヨリ七里余)十八日(晴天)逗留是ヨリ戦地ニテ當駅等半バハ焼跡

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ナリ十九日(晴天)午前六時髙瀬ヲ出軍シ午後二時木ノ葉駅ニ着軍暫時休憩(此日拙原ノ町ヲ出発シ南ノ關髙瀬ヲ経テ午後四時木ノ葉駅ニ着シテ本隊ニ入ル時ニ一統ヘ酒肴并ニ金一円ヲ賜フ田原坂ノ砲声遥ニ聞ヘ其レツシキ事恰モ豆ヲイルガ如シ)仝六時頃ヨリ雨降リ同夜十二時木ノ葉ヲ出軍シ同二時本陳ヘ整裂此時雨降事甚ダシ闇夜ニシテ咫尺ヲ辯セズ既ニ二俣田原坂両所ノ間道險岨泥濘ニシテ歩行甚ダ苦シム暫時ニシテ二俣戦塲ニ至リ我隊(第一聯隊第一大隊ナリ尤モ一中隊に中隊ノミナリ之ハ木ノ葉ニ在リテ未ダ進マズ三中隊四中隊ノミ進メリ)指揮長ヲ分黎明大進擊(時ニ雨止ム遥カ右吉治越遥カ左山鹿口等大進擊アレノモ遠陳故委細不詳ナリ)此時右小隊ハ内藤中尉左小隊ハ齎藤大尉河原少尉最モ中軍ヲ備ヘ然ル所内藤中尉勢盛ンニシテ左リ田原坂三ノ臺塲ヘ先陳シ喇叭ノ合図ニテ銃鎗ヲ以テ躍リ入リ二ノ臺塲乗リ取リ戰将ニ酣ナリ暫時ニシテ二俣ノ賊軍潰走ス尋テ田原坂一ノ臺塲ヲ陥滓(手偏)シ此時右小隊指揮長内藤中尉ヲ始メ即死数拾人負傷シタル者又甚ダ多シ二俣田原塲山鹿此三ヶ所ハ諸山連綿ス然リト𧈧モ山鹿口ハ破ルルヤ否ヤ山鹿ノ賊軍忽然トシテ潰走ス此時賊ノ屍ハ積デ山ノ如ク(去ル四日ヨリ大戦七合

f:id:goldenempire:20210427093704j:plain猶拔事能ハズ兩陳ノ間距離僅カニシテ海戦ノ死骸互ニ引ク事能ハズ故ニ猶ホ夥シ古語ニ云フ加藤清正熊本城ヲ築キシノモ田原坂ハ熊本城ノ喉ニシテ五百ノ兵ヲ以テ五万勢ヲ防ク事三年猶ホ易ト云ヘリ)大砲小銃刀鎗長刀ノ類山野ニ棄靡スル物数千挺是ヨリ(拙野津少将ノ指揮ニテ齋藤大尉ノ命ヲウケ一小隊ニテ植木駅ノ山鹿ノ間道ヲ防ケリ)二俣ヲ破リシ官軍植木ヲ過ギ向坂ヘ田原坂ヨリ二里余進軍ス賊軍道路ノ両端ニ伏兵ヲ設ケ官軍ノ進軍ヲ待チ両端ノ伏兵齋シク起リ正面両側三方ヨリ乱射シ弾丸大雨ノ如シ之カ爲ニ甚ダ苦戰ス賊兵勝ニ乗シテ追擊ス再ビ田原坂ヘ押戻サント猶嚴シク擊チ来リ官軍植木驛マデ退キ茲ニ防グ(向坂ヨリ植木マテ十丁程アリ官軍此間ノ苦戰ニ即死百十三名ヲ残セリ見レバ賊運之ヲ集メテ一穴ニ埋メ官軍死骸何人タル標札ヲ立テタリ)田原坂ヲ破リシ官軍植木口左ヘ進軍シ山鹿ノ敗賊ト大ニ戰フ夜ニ入リテ官軍植木町ヘ火ヲ懸ケ諸ノ篝ヲ取リ前軍中ノ備ヲ設ク(此時拙山鹿ノ間道ヲ引アゲ本隊ヘ組込ミトナル)仝夜一時頃ヨリ雨降ル事甚ダシ此時賊ノ拔刀隊二百人斗リ突ニ我軍ヘ乱入ス官兵手早ク銃鎗ヲ取リテ之ニ當ルニ賊兵屈シテ退却ス仝四時頃ニ至リテ雨止黎明ニ至ルヤ否ヤ臺塲ヲ築キ警備ヲ加ヘ二十一日(雨天)午後三時頃熊本街道ヨリ二千人斗リノ軍勢列ヲ組ミ悠々然トシテ進ミ

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来ルヲ見テ熊本城兵トナス其軍稍々進附ケバ賊兵ナリ我兵ヲ鏖ニセント擊チ来ル弾丸透間ナク我兵防ク事能ハズシテ拾丁程退キ地形ヲ擇ミ茲ニ防カント臺塲ヲ築クニ土俵ナク持チ来ル飯俵ヲ楯トナシ(此臺塲髙ハ三丈五天横三十丁間余リナリ)打チ来ル敵ヲ的トナシ死力ヲ盡クシテ戰フニ賊兵茲ヲ破リテ田原坂ニ至ラント猶モ嚴シク攻来リ其ノ砲聲恰モ大雷頭上ニ落ルガ如シ二十二日(雨天)午前五時頃(時ニ雨止ムマデノ)劇戦ニテ官軍少シク進ミ進後五時迠ノ戰ヒニ於テ官賊両軍トモ堡壘ノ防禦線七里ニ跨ル其他名ハ遥カ右キ吉治越ヨリ木留木尾野村石川鳥ノ巢隈府マデ七里ノ連陳最モ重ニシテ互ニ敵陳ノ様子ヲ探ラントスルニ一人モ忍ヒ窺フ透間ナシ仝夜一時頃ヨリ雨降ル廿三日(雨天)午前五時三十分ヨリ軍曹一人伍長二人兵卒八人探偵トシテ線外ヘ進歩セシ処賊兵頗ル弾丸ヲ飛バシ依テ直ニ帰陳ス(拙此ノ時軍曹宮野伍長上ノ山兵士十一名ニテ遥カ左リノ林中ヲ探偵セシニ軍曹宮野恐怖シ敢テ進マズ故ニ悠々ト林中ニ休足シ午後后二時頃自ラ陳ベテ本隊ニ入ル軍曹宮野ハ後チ木山ノ戦ヒテ足ヲ射ラレテ病院ニ入ル伍長上ノ山ハ後チ軍曹ニ進ミ無事ニテ凱旋セリ)指揮長迫田少佐ニ報ズ直様迫田ノ命ヲ以テ進ミ大ニ戰ヒ

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頗ル分捕ル(賊軍第六大隊ノ米四拾俵銃器数百挺人夫不在故火焼ス)交戦僅カ日暮ニ及デ本線ニ引アゲ野陳ス廿四日(晴天)我三中隊第一ノ臺塲ヘ伍長一人兵士拾八名増加ス此時大垣伍長即死ス是ヨリ数々戦ヲ挑ム此辺ノ地形ハ田ナク畑ノミ総テ凹凸ノ地ニテ二三町ノ間ニ一丈二丈ノ髙低ナキハナシ道窪ク畑髙ク道ヲ歩ムニ一町ヲ隔テ人頭見ヘズ両陳ノ間近キハ拾間遠キハ弐百間ヨリ三百間ニアリ互ニ壘ヲ堅固ニシ或ハ空堀ヲ鑿リ或ハ鹿柴(木ノ枝或ハ竹ノ釘ヲ地ニサシテ人馬ノ歩ミ難キヲ主トス)ヲ樹ヘ攻メ来ラバ鏖ニセント軍術ヲ百法ニ回ラシ軍機ヲ事冝チ任セテ専ラ防禦ノ備ヲ設ケ透間ヲ目ガケテ狙擊ヲナシ敢テ大兵ヲ出サズ然レノモ連陳数里ニ跨リ大小ノ銃砲数万ナル故ニ瞬門ト𧈧モ昼夜砲聲止事ナク植木口ハ熊本ヘノ本街道ナレドモ連陳ノ中央ナルガ故ニ進擊ナシ難シト𧈧熊本鎭台兵ハ薩兵ニ圍マレ籠城シ(午後一を消して一時モ)早ク熊本城ノ通路ヲ擊チ開カント木留鳥ノ巢等ノ口々ハ日々大兵ヲ引テ攻擊スレド賊壘堅固ニシテ拔ケズ木留石川鳥ノ巢等ノ戰ヒハ遠隔故委細ハ不明ナリ

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 おわりに

 土橋健治郎の所属部隊は東京鎮台第一聯隊歩兵第一大隊第三中隊である。兵士だろう。聯隊長は長谷川好道中佐、中隊長は齋藤時之大尉である。日記に登場するように中隊将校には以下、加島義質中尉、内藤延慈中尉、河野茂太郎少尉、大野粛章少尉試補がいた。 

 東京鎮台の従軍日記は珍しいと思っていたら、東京鎮台歩兵第一聯隊第二大隊第一中隊兵士の従軍日記を所持していたのを忘れていた。山梨県都留郡大明見村の宮下義壮「西南の役従軍日記」1993年私家版である。その冒頭に「三月上旬郷里ヲ発シ同月中旬肥後田原坂ニ至リ始メテ接戦夫ヨリ所々ニ於テ交戦シ同年九月下旬ニ至鹿児島城山ニ於テ賊徒殲滅シタル事情ノ概畧ヲ記載ス」とあるものの、日記は4月24日までで終わっているのが惜しい。本資料は本来の日記を清書したとみられるが、それ以後を記さなかったのは、途中でもういい、個人の記録はあまり意味がないと考えたのだろうか。あるいは後日継続しようと思っていながらそのままになったのか。記述中には自分の行動をほとんど記していないし、前半部分にわざわざ戦争の概要を記したように自分に関することは意味がないと考えるようになったのかも知れない。

 土橋健治郎に関する布告を入手したので付記しておきたい。明治15年10月19日以前に職猟免状を紛失したので見つけた者は最寄り警察署へ届け出てほしいというものである。

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