西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

赤松越を本道とする布告

 古代の駅路以来、豊後と日向の行き来は梓山を通っていたが、1873年明治6年)に少し東側の赤松峠を通るように変更された。その布告を紹介する。

 梓山は大分県佐伯市宇目と宮崎県延岡市北川町の境界に東西方向に横たわる山脈の中央部にあり、標高は725mである。駅路は二地点を最短距離で繋ごうとする傾向がある。例えば、よく知られているように九州縦貫自動車道が福岡と熊本の間で、駅路とほとんど同じ場所を通過している。古代の駅路も現代の高速道路も早く目的地に着こうとして建設されたものであり、偶然にもほとんど同じ地域を通過したのである。梓山路線の場合、最短距離ではあるが平野部を通るのと違い不便であり、1873年明治6年)には東側にある谷筋、赤松越を通る路線に変更されている。現在はさらに東側に国道10号が新設されていて、赤松越は廃道となり、荒れるに任せた状態である。

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 布令書の内容

第三百八十号

西海道豊後國ヨリ日向國ヘノ往還重岡驛熊田驛ノ間梓越ヲ廃シ自今赤松越ヲ以テ本道ト定候條此旨布告候事

 

 明治六年十一月十五日右大臣岩倉具視

   布令書明治六年十一月一千七十八号〇二 

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 上図は手前が北、向こうが南である。1877年7月上旬の両軍の対峙状態を示す。赤が官軍、白が薩軍。赤松越は路線名である。主に谷底を通るが峠を越える場所もある。それが赤松峠である。1877年(明治10年)の西南戦争では、官軍が峠を含む尾根筋に多数の台場を築いており激戦が行われ、今もそのまま残っている。6月24日には薩軍が熊田方向から北上し、赤松峠や左右の広範囲に展開していた官軍陣地に攻撃をかけ、一時は峠を突破する状態だったが、弾丸不足のため撤退している。この日の戦闘では官軍側には小川又次少佐その他、薩軍側は野村忍介・増田宋太郎その他が登場している。

 現代の地理認識では、西南戦争の激戦地は随分国道から離れた山の中にあると思われがちだが、当時はそこが主要路線だったのであり、国道10号が通る山間部は当時は随分なへき地だったのである。

野村忍介宛の桐野利秋書状

 

 最近、西南戦争中に桐野利秋が野村忍介に出したという書状を入手したので紹介する。

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書状の内容

 軸装され桐箱に入れられ長年経過した書状である。箱の長軸側面には古びた紙に部號:空白、筆者:桐野利秋、書畫題:書簡、と黒インクで書かれている。書状は薄水色の和紙に貼り、書状自体は幅44.0㎝、縦18.3㎝で、紙面に明白な折り目は観察できない。本文は以下の通りである。一行ごとに空白を入れて示す。

先日ハ一報被下難 有諸事ニ参集ヲ 願上候處実ニ愉 快ニテ咄し致候就而ハ 竹田ノ報國隊モ 余程ノ好都合ノ 由是又可成進ム 様願上候鶴崎 地方ハ如何ニ候や 可成早ク同地ヘ 御進之處ヲ願 上為後日候      

 四月十三日利秋

野村忍介殿   ※「諸事」・「為後日候」は読めなかったので、大分県立先哲史料館の大津祐司さんと三重野誠さんに教えて頂いた。特に大津さんにはいつもお世話になっており、お礼を申し上げたい。

   書状の中身を現代文にすると次のようになろうか。

先日は報告を下さりありがとうございました。色々なことがうまくいくように願っておりましたところ、本当に愉快だと話したことでした。つきましては竹田の報国隊も随分都合がよいとの事で、これまたなるべく順調に行くよう願っております。鶴崎地方はどのような状況ですか。後日の展開のために、なるべく早く鶴崎に進軍するよう願っております。

四月十三日 利秋

野村忍介殿

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 内容から見て書状の日付4月13日は旧暦であろう。4月なら野村忍介率いる薩軍奇兵隊はまだ大分県内には侵入していないからである。書状の日付を新暦に直すと5月25日となる。薩軍奇兵隊が延岡を拠点に初めて大分県内に侵入したのは5月12日である。大分県南部の佐伯市重岡に侵入した奇兵隊約800人は翌日13日に竹田に進んだ。

 西南戦争中の桐野の書状は「西南記伝」に池上四郎・別府晋介宛があるのを把握できたが、それは新暦4月3日の日付であり、野村宛のように旧暦ではない。新暦も旧暦も使っていたということだろうか。また、池上・別府宛の書状は一行7字前後の大きい字形である。一行の字数は6字から8字で、10字が一ヶ所あり、一行の字数と大きな字で書かれている点は池上・別府宛と似ている。

 また、展覧会に出品された目録中に桐野の書状の活字化されたものがある(昭和二年十月「西南戰役遺物展覧會目録」會場 山形屋呉服店 主催 鹿兒島新聞社)。引用する。

  日州球摩の陣中より母へ贈られし書状、信作は陣中の署名に係る久とは夫

  人の名榮熊とは今の利義の事也

  彌御揃御母上様御初皆々様御兩家内御機嫌可被成御座目出度御儀奉恐悦

  候次に私事も無異球摩の内江代と申處ヘ滞在仕候間乍憚御安心可被下候

  又五四日之中より熊本の樣出軍仕筈に御座候間決御氣仕思召被下間敷家

  内中安否伺旁迄忽卒中奉伺候折角時分皆々樣無御痛樣奉祈候不取敢如此

  御座候謹

    四月廿九日               桐 野 信 作

   母上

   久殿

   さよどの

   さた殿

   榮熊殿

   武彦殿

   二白御伯父樣ヘ別段書狀差上不申候間可然被仰上置可被下候也

 4月29日江代から家族に宛てた書状である。ここでは新暦を使っている。利秋の妻は久(ひさ)、利秋の弟の子供榮熊は後日、桐野利義と改名して桐野家を継いでいる。 

 他にも新納軍八宛の書状があるが、鮮明な画像を見ていないので参考にできない。

 

薩軍鶴崎攻撃

 薩軍鶴崎攻撃について野村忍介等の「野村忍介外四名(奇兵隊連署上申書」が概説的である(「鹿児島県史料 西南戦争」第二巻)。

  顧フニ大分県庁下亦空虚ナラン、機失フヘカラスト、復タ一中隊毎ニ壮

  士二十名総員百六十名ヲ撰抜シ、鎌田雄一郎・嶺崎半左衛門之ヲ率ヒ、

  十六日午前一時ヲ以テ発ス、行ク凡ソ十三里余大分ヲ距ル僅カニ半里計、

  官兵来着守リ已ニ厳ナルヲ聞キ、忽チ方向ヲ転シ鶴崎進撃ニ決シ、鎌田

  兵士十五名ヲ分テ之ニ馳ス、時ニ鶴崎ニハ警視隊ノ着艦ニ際シ、兵士上

  陸或ハ湯沐シ或ハ喫飯スルニ会フ、我兵直チニ分署ヲ雷撃シテ数名ヲ斬

  ル、是ニ於テ満街喧噪シテ巡査事不意ニ出ルヲ以テ兵器ヲ取ルニ暇アラ

  ス大ニ狼狽逃走ス、我兵縦横奔馳一時ニ数十名ヲ斃ス、巡査隊長潰兵ヲ

  招集シテ銃槍ヲ列ネテ方陣ニ備フ、兵員凡ソ数百人、此際我隊鎌田重傷

  ヲ負フ、且本隊未タ達セス、故ヲ以テ退軍ス、途ニ本隊ト相会シ遂ニ犬

  飼駅ニ退ク、十七日竹田ニ抵ル、

というものである。野村は間違えているが警視隊は鶴崎に上陸したのではなく、東方約17㎞の佐賀関に上陸し鶴崎までは陸行している。また、また薩軍が竹田に帰着したのは18日である(高橋信武「松岡用務所日記」)。大分県庁を抑えようと進んだところ、市街の外側で官軍が配置についているのが判明し、目的地を東方の鶴崎警察署に変更した。攻撃目標が代わったので小勢の警察署のために百数十人全員で行くのは多すぎると考えたのか、190人が鶴崎手前の乙津に留まることになった(「鹿児島県史料 西南戦争」第一巻PP.675に「残リ賊百九十名ハ近傍乙津ト云フ処ヘ屯シ」)。本隊と別れ、鎌田雄一郎が15人の部下を率いて鶴崎町に進入した。ところが予想外だったのは約250人の豊後口第二号警視隊(東京警視隊)が当日佐賀関に上陸、直ちに鶴崎に進んで町中に休憩していたことである。薩軍は夜11時暗闇の中を小勢で警視隊が休憩している複数の宿に突入した。薩軍側は竹田士族一人が捕らえられ死亡し、隊長の鎌田雄一郎が負傷した。官軍側は死者2人・負傷者4人が生じており、薩軍側は戦果を過大に評価している。

 警視隊が休憩していた旅籠の一つ、佐伯屋が翌年大分警察署に提出した「薩賊乱入之際手續書」の控えが子孫宅にあり、史料紹介されている(北川徹明「旅籠佐伯屋と鶴崎西南戦争」『西南戦争之記録』第3号)。内容は省くが、室内での狼藉の跡が生々しくわかる具体的な被害状況が記されている。

 薩軍は戦闘を切り上げ全員が南下して17日午前4時、大分市松岡に到着・休憩し、川舟を集めさせて大野川を遡り戸次に上陸し竹田へ向かった。この前後の状況を地元の小区用務所が記録しており、これを紹介したのが「松岡用務所日記」である。竹田では士族を一堂に集めて脅迫し報国隊という部隊編成を強要し、5月19日に約600人で成立している。

 

その頃の桐野利秋

 桐野は熊本平野撤退後、4月23日に奇兵・振武・行進・干城・正義の各隊と熊本隊・協同隊などと阿蘇外輪山西麓の矢部を発した。各隊は胡摩越あるいは那須越を越えて熊本県球磨郡水上村江代に27日に到着している。薩軍五番大隊兵士だった平田盛二の「日誌」(「鹿児島県資料西南戦争」第三巻PP.708)にこの時の桐野が登場する。

  一今日矢部濱町ヨリ熊本之内管村かこひと云所エ転営相成、午後一時ヨリ

   同三時比ニ着シ一泊シ候事、

  同 廿四日  雨

  一今日午前五時管村出立、シバサント云フ大山ヲ越ヘ、午後六時ニ及テ鹿

   兒島県ノ内尾前ト云フ村ヘ着シ、一泊シ候、尤右大山エ雪有之、相喰ミ

   候、

  丑四月廿五日  雨

  一今日午前六時尾前出立、当所ヨリ桐野先生エハ別レ、栗支尾ト云村ノ那

   須源六ト云家内ヘ立寄相休ミ、午後六時ニ及テ人吉之内岩野ノ高野村ト

   云処エ着シ、一泊シ候事、尤此道エ野タケト云フ高岡ヲ越候事、 

 これによると桐野は4月25日朝には宮崎県東臼杵郡椎葉村不土野の尾前にいたことになる。山都町管村囲から尾前までは山の尾根筋を通ると約20㎞の距離がある。平田はこれを13時間かかっている。その後、尾前から南に進み熊本県境の不土野峠までは川沿いに13㎞ほどあり、峠から南西の江代までは5㎞くらいの下り道である。桐野が尾前から江代に移動するのに1日弱は要しただろう。したがって、桐野が25日朝に尾前を出発していたなら、早くても25日遅くか26日には江代に着いたのではないだろうか。桐野は江代に本営を置き、28日に諸将を集めた会議で各隊の配置方面を決定した。

 5月11日頃、高知県の藤 好静、村松政克が延岡に密航して来た。野村忍介が応対し、藤らの希望により江代の桐野の所に案内させている。その時桐野は最早日向ハ兼テ思ノ通リ我手ニ入リ候ニ付従此豊後ニ入リ竹田ヲ手ニ入日向ニテ大砲ヲ鋳立細島ヘ臺塲ヲ築キ大砲ヲ据ヘ海軍ヨリノ砲發ヲ防キ竹田ヨリハ大分ヘ兵ヲ出シ筑前筑後豊前ヲ乗取リ肥前ニ廻リ長﨑ヲ占メ暫ク鋭ヲ養ヒ外國ヨリ軍艦二艘ヲ買求メ馬関ヘ進ミ官ノ海軍ト勝敗ヲ一瞬ニ决シ摂津ヘ進撃ノ見込ニ候と述べたという(C09080861100密事探偵報告口供書類 明治10年4月25日~10年8月3日(防衛省防衛研究所蔵)。

 野村宛書状を書いた5月25日は江代出発の当日あるいは直前であろう。野村はこの頃延岡の奇兵隊本営にいた。延岡から日向・山陰・坪谷・湯山峠を通って江代まで約120㎞というのが大雑把な距離である。乗馬でも最低1日は掛かるだろう。

 

江代から宮崎へ

 熊本から撤退した西郷隆盛は人吉を本拠とし大本営と称していたが、官軍が迫ってきたため五月下旬には宮崎市に移動した。同じころ江代の桐野も宮崎に転営している。桐野が宮崎に行くときに通った経路は、宇野東風「硝煙彈雨丁丑感舊録」PP.121に「桐野利秋は、江代を去りて延岡に出で、尋で宮崎に至るといふ」とある。「薩南血涙史」5月29日の部分では「是より先き桐野利秋は宮崎に本營を移し鹿兒島方面及び豊後口等の諸軍を遥に統監し」とあり、正確な日は記さない。

 桐野は宮崎市で旧宮崎県庁であった宮崎支廳(当時、宮崎県は廃止され、鹿児島県となっていた)を軍務所と改め、大区事務所を郡代所、戸長役所(いわば市役所)を支郡所と変更し、28日に各戸長副戸長に令達しているのでおそらく28日以前に宮崎に来たはずである。結局、宮崎市には5月27日頃から7月31日までおり、戦況の悪化に伴い8月3日には日向市耳川北岸に移動していた。最近、宮崎県埋蔵文化財センターが耳川下流域両岸の戦跡分布調査を行い、多数の台場跡を確認しており、報告書刊行がまたれる。

 

おわりに

 桐野は大分に進んだ奇兵隊の情報をどう把握したのだろうか。多分、奇兵隊員が野村の手紙を騎馬で持参し、その際大分の状況についてやり取りしたと思われる。書状の冒頭に「先日ハ」とあることから、野村の手紙を受け取ったその日にこの書状は書かれたのではなく、何日かたってから書かれたものだろう。報國隊モ余程ノ好都合ノ由とあるから、19日に報国隊が結成されたことも野村の手紙やあるいは持参者からも聞いていたのである。25日に書いているので、その時点では5月16日に一度鶴崎に突入したけれど撤退して竹田に帰ってきたことも知っていただろう。とすれば、野村は竹田侵入に成功したという情報を桐野にすぐには伝えておらず、報国隊ができた19日以後に初めて伝えたらしい。書状には鶴崎地方ハ如何ニ候や可成早ク同地ヘ御進之處ヲ願上為後日候とあり、一度撤退した鶴崎への侵入を促している。

 以上、桐野利秋が野村忍介に宛て書いた書状について紹介したが、これが偽物かどうか、残念ながら筆跡から判断する能力は持ち合わせていない。

 

甲突川右岸丘陵の戦場

  下流に向かって右手を右岸という。鹿児島市内の城山の西側山裾を北西側から流れ下って、南東側の鹿児島湾に注ぐのが甲突川である。この川の右岸には幅1㎞前後の平地を隔てて標高100m前後のシラス台地が分布している。この右岸台地の西南戦争の戦場についてあまり注目されてこなかったのではないだろうか。現在、宅地化が進行し西南戦争当時の地形が蚕食され続けている。今回は、この地域も戦場になったということを指摘し(指摘するまでもないだろうが)、意外に戦跡が残っているかもしれないという注意喚起を行いたい。大分県に住んでいるのでなかなか鹿児島

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カシミール3Ⅾより】

まで出かける機会がないので、実際、現地に台場跡が存在するのかは地元の人に任せることにし、史料から考えてみることにしたい。

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【上図は「西南記伝」附図】

 鹿児島城大手門の銃砲弾痕跡の説明で述べたように、西南戦争では鹿児島市内は二回戦闘地域になっている。官軍が薩軍の隙を衝いて鹿児島市内を占拠した後に薩軍が帰県したときと、延岡和田越の会戦で敗れた薩軍鹿児島市内に戻ってきて市内に突入したときである。

 甲突川右岸における一回目の状況について。4月26日以降、官軍(この日は別働第一旅団・別働第三旅団が27日、第四旅団が5月4日)が鹿児島市に上陸を開始し、照国神社・私学校から海岸・多賀山・城山・甲突川などの配置についた。彼らは城山や市街地周辺に防禦線を構築し、薩軍熊本県内から帰来し襲来することに備えていた。

 5月に鹿児島市に帰ってきたときの薩軍の配置状態について「鹿児島県史料 西南戦争」第四巻からみておこう。安藤源之丞上申書PP.94~103「黎明ニ及ンテ全軍伊敷村ニ至リ配兵ス、我隊矢上ケ城ヲ守ル、同八日又転シテ玉龍山床安ノ峯ヨリ内ノ丸本道ヲ中央ニシ、右ハ龍之尾ノ險ニ拠リ各所塁ヲ築テ守兵ス、児玉矢八郎隊・武強兵衛隊ハ上ノ原丸山、園田武一隊ハ冷水山上、藤井直次郎隊ハ冷水本道、行進砲隊ハ内瀬山上、伊集院英輔隊同山下、毛利權兵隊・市来弥之助隊・仁禮孝右衛門隊ハ玉江橋近辺ヨリ原良村、奇兵一番山野田一輔ハ同所尾畔山ヨリ西田村、黒江八左衛門隊・松元與八郎隊田上村ニ各築塁守兵ス」 

 これは主に城山の北側から甲突川右岸に進入した薩軍の状況である。催馬楽城というのは矢上氏の山城であるが(「鹿児島県の中世城館跡」)、これを矢上ケ城と呼んだのだろうか。とすれば南洲公園の北北西約900m付近である。玉龍山とは島津氏の菩提寺であった池之上町の福昌寺のことである。現在は島津久光の墓があることで位置が分かる。南洲公園の西から南側の地域に下竜尾町上竜尾町があり、この付近に龍之尾ノ險があるようだ。その西側に冷水町があり、ここは同時に岩崎谷の北約600mの地である。上ノ原は催馬楽の西1㎞ほどの所である。尾畔山は後述する地図史料に出てくる。

 5月中旬の鹿児島市内の状況について記述した別働第三旅団の食事作りに雇われていたと思われる人、佐野新兵衛の提出した探偵書がある。

C09082316300「明治十年五月以后 探偵書 海 参軍本營」0115~海軍省罫紙 防衛研究所

                       鹿児島筑後町平民

                       当時別働隊第三旅團

                       第二大隊第二中隊一番小隊

                       賄方

                          佐野新兵衛  

   自分儀本月十一日午前十一時物品買入ノ為メ櫻島ヘ渡リ夫ヨリ谷山ヘ罷

   越シ諸品買求置キ同十二日同所海岸ニテ出舩心配致シ居候内忽チ士族三

   人駈来リ會所ニ御用有之候故直ニ来レト云ニ任セ倶々會所ヘ行シニ荒縄

   ヲ以テ両手ヲ縛シ吟味ノ席ヘ被差出鹿児島ヲ出シ事ヨリ物品ヲ買入等不

   審ニ有之迚糾問有之糾問人ノ姓名ヲ知ラス程能ク相答候ヘ共不審不晴趣

   キヲ以テ已ニ打擲セラレントスル際兼テ知ル川鍋戸長西郷次郎太ト云フ

   者其席ニ臨ニ糾問人ト倶ニ其席ヲ退キ暫時咄声有之再ヒ席ニ出テ縄ヲ鮮

   キ玄関ヘ被差廻尚西郷ヨリ種々尋ヲ受ケ候間是又品能申述シニ同人云貴

   殿ハ是非鹿児島ヘ帰ル積リナルヤト問フ御詮議嚴敷候テ出舟難相成候ハ

   ヽ致シ方無之候ヘ共可成丈帰宿致シ度ト相答タリ

  一西郷云フ此度ノ軍議ハ鹿児島市中焼失シ然ル後一方ハ城山口一方ハ竹之

   𣘺最モ汐ノキヲ謀リ一方ハ海岸三方ヨリ一挙ニ攻擊候筈ナリ故ニ屡々鹿児

   島ヘ放火人差遣シタレノモ事不果候ニ付貴殿鹿児島ヘ帰リ度事ナラハ指許

   ス故直ニ市中ニ火ヲ放ツヘシ然ル上ハ此度賞誉ノ筋モ可有之トノ義ニ付

   偽テ承諾致シタリ

  一西郷云鹿児島市中ニテハ此方ヨリ攻擊ノ兵員何程位ト評判スル哉ト問鹿

   児島近傍ニ屯集スル兵凡ソ六千人位ト風評有之旨相答候処能ク分リ居ル

   ナリト云フ

  一西郷云味方ノ勢モ追々着ス大砲モ隈ヨリ取寄ル筈ニニテ最早着スル頃ナ

   リ何レ悉ク整次第発スル模様ト話シ有之

  一西郷云是迠伊敷ノ玉里ト云所ニ本陣有之候ヘ共過日官軍ノ大砲丸本(彈

   脱カ)営ノ前ニ落シタレノモ破烈不致故負傷人ハ無之夫故小野ト云所ニ営

   ヲ移シタリト云フ

  一谷山ハ諸物運送便利ノ地ナルニ付下方ノ戸長ハ悉ク谷山ニ出張相成居ル

   ナリ

  右ノ廉々聞込ミ本日暁天谷山ヲ発シ午前九時帰宿仕候事

   十年五月十六日

 佐野新兵衛は5月11日に物品買入のため桜島に渡り、それから鹿児島市街南部の谷山に移動してここでも買い物をした。翌12日、谷山の海岸で乗船準備をしていると士族3人が駆け付け拘束されて会所に連行された。ここで川鍋戸長の西郷次郎太(当時の行政単位は大区小区制といい、市町村は廃止されていた。戸長は市長のような役職だった)から市中への放火を依頼され、承諾したので解放される。この時、西郷戸長が言うには「これまでは伊敷の玉里に薩軍の本陣があったが、小野に移した」と。

 玉里には島津家の大名庭園と屋敷があったので、ここのことだろう。この報告を重視した別働第三旅団は以後、哨兵線内への人民の通行を厳禁し、また桜島からの入港してくる民間人に限り厳重に取り扱うことにしている。

C09082316200「明治十年五月以后 探偵書 海 参軍本營」0113 防衛研究所

  別紙口供ノ内放火云々ハ現実委託ヲ受ケシ義ニ付熟々勘考スルニ哨兵線人

  民通行被差許候而若シ右様ノ類紛レ込ミ彼レノ術中ニ陥リ候テハ却テ人民

  モ大害ヲ被リ不容易義ニ付断然通行嚴禁相成リ度最モ櫻島人民ニ限リ特ニ

  入港ノ方法厳重ニ御設ケ相成候方可然ト愚考候間此段添テ上申候也

     五月十五日       田邉陸軍中佐

       川村参軍殿

 「薩南血涙史」は玉里邸を本陣にしたことは記していないが、邸は数ヶ所出てくる。5月3日には「玉里島津邸前に至り兵を整へ黎明を期し進擊を開始し」とあり、4日は「午前六時玉里島津邸前に達し遂に進擊の期を失せり(略)再び玉里邸前に會せしむ」、「前夜十二時(4日のこと)を以て再び玉里邸前に會し預定の部署を変更す」などである。どれも部隊を玉里邸前に整えてから出撃しており、邸内を使用したことは憚って触れなかったらしい。

 甲突川右岸付近での戦闘を「征西戰記稿」から掲げてみる。薩軍は5月5日、新昌院谷(城山の西側)・草牟田(城山の北西側)の両道というから主に西側から城山に向かって攻撃、7日には甲突川下流を渡ろうとして撃退されている。御楼門のある東側は戦場にならなかった。5月7日、城山の西から南に位置する甲突川の官軍守線を襲い、撤退した。5月18日には甲突川の西側にある武大明神の丘・二本松とタンタド(城山の北東側)の上から官軍に向かい砲撃し、24日は逆に官軍が甲突川に架かる西田橋・高麗橋から西側に向かって攻撃した。この日官軍が進んだのは右岸の平地までであり、背後山上の薩軍から猛烈な射撃を受けている。

西田橋ヨリ進ム所ノ一半隊、約ノ如ク射擊ヲ始ムルヤ他ノ一小隊半ハ幾ント武村ニ達セントシ途ニシテ炬火ヲ見、直チニ進テ其守兵ヲ殪ス賊忽チ拔刀來リ薄ル又擊テ之ヲ却ケ要壘三所ヲ拔キ遂ニ進テ村落ニ入ル時ニ天適ゝ曙ケ賊更ニ山上ノ要壘ニ據リ我ヲ瞰射ス勢ヒ最モ猛ナリ因テ左右ニ撒布シ之ニ應ス左翼田上村ノ一中隊ハ山腹ヨリ賊ノ射擊ヲ受ケ其目的ヲ達スル能ハス兵ヲ左右ニ撒布シ對抗頗ル勉ムレノモ賊全力ヲ戰線ニ竭シ猛烈ニ火擊スルヲ以テ姑ク其鋭ヲ避ケントシ退テ地物ニ據リ撒布ス武村ノ兵モ亦左翼横擊ヲ受クルノ憂アルヲ以テ徐々西田高麗両橋ノ方位ニ退ク」という。「鹿児島県史料 西南戦争」第二巻に薩軍側の記録がある。高橋直次郎上申書PP.261~265

「翌日小野村ニ転陣シテ該村ヲ守ル、翌日原良村ヘ転陣ス、其地ヨリ尾畔ノ丘・筋違橋・袖掛松ノ丘ニ至ルマテ尽ク台場ヲ築キ之ヲ守ル、尋テ米製ボード及ヒ野戦砲ヲ尾畔ノ丘ニ据ヘ、又砲台ヲ武ノ丘ニ築キ、十二斤砲ト四斤半二砲ヲ据ヘテ県庁及ヒ下町辺ヲ発射ス、官兵之ニ困ムト云」

    結局、この時点では薩軍が武村の背後山上に多数の陣地を構築していたのである。村の付近の平地にも3基の台場があったらしいが、勿論今は残っていないだろう。武村背後の丘の薩軍十二斤砲は24日、別働第一旅団に分捕られている。

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 6月24日、官軍は下流の武橋から南西に進み谷山地方を攻撃した。甲突川の南側にある新川に架かる涙橋付近では薩軍の20余塁を抜き、北西側の台地である紫原まで追撃し、さらに武山を攻撃して奪った。別働第三旅団は「武山ノ賊ヲ擊ツ本團ハ左翼軍ト爲リ(別働第一旅團ヲ右翼軍トス※原文はニ段記述)午後一時山腹ニ開戦シ賊ノ退クニ乗シ尾擊シテ絶頂ニ至ル賊ハ谷ヲ隔テ險要ニ據リ死守ス我軍頗ル苦戰午後五時八木中尉第二大隊ヲ率テ來リ援ク第一大隊乃チ大ニ力ヲ得テ更ニ右翼軍ト議シ將サニ銃劍ヲ以テ三面ヨリ賊壘ヲ衝突セントス時會〃黄昏且ツ大風雨ニシテ賊我カ突進ヲ覺ラス因テ吶喊之ニ乗シ要壘二所ヲ衝ク賊遂ニ銃器彈藥ヲ棄テ常盤及ヒ伊集院街道田上村ニ向テ逃ル尾擊數丁ニシテ止ミ哨ヲ両所ニ排ス」とある。

 この日の戦場紫原とは甲突川河口から南西約3㎞にある台地で、武山はそこから北西約2.5㎞辺りであろう。紫原一帯は宅地化されており、わずかに志學館大学付近に少しだけ旧地形が残るようである。武山という孤立した山はなく、武村背後の山という漠然とした意味だろう。紫原に比べればやや旧地形が残る。

 前述の高橋直次郎上申書には続いて24日の戦闘を記している。

「六月廿四日未明涙橋ニ当リ轟然タル砲声ヲ聞ク、思フニ敵兵ノ突出タラント、馳テ尾畔ノ丘ニ登リ、遠眼鏡ヲ以テ之ヲ望ムニ果シテ然リ、未タ幾ナラス涙橋ノ味方破レ、敵兵進テ唐湊の丘ヨリ二本松ノ丘ニ上リ劇発ス、武村辺ヲ守ル別隊頭上ヨリ射ラレ、引テ武ノ丘ニ来ル、官兵続テ尾シ来ル、即チ右小隊半隊・左小隊半隊ヲ率ヒテ之ヲ援フ、官兵猖狂死屍ヲ越テ来ル、我兵殊死シテ戦フ、暮ニ至ル丸尽キ遂ニ破ル、依テ尾畔ノ丘ニ引揚ク、本日ノ戦ヒ我兵傷者七八名、官兵死傷其数ヲ知ラス」

 二本松の場所はこの記述により唐湊の北で、武の丘(武山ともいう)の南にあると推定できる。二本松について別働第一旅団第一大隊の記録がある。

  戦鬪始末書

  明治十年六月二十三日午後第十時髙雄丸ニ乗投シ敵背ヲ迂回セント欲シテ

  翌二十四日午前第一時錦江湾江拔錨シ航海数時ヲ出テスシテ同四時過鹿児

  島城ヲ巨ル凡一里余西南脇田江村ノ灘ニ投錨直ニ艇舩ヲ以テ半大隊(各中

  隊ヨリ一小隊宛)同村落ニ揚陸セント欲スル際敵ノ目擊ニ觸レ狙擊セラレ

  為ニ艇夫驚愕狼狽シテ漕遣セサルヲ以テ僅ニ濱岸ヲ巨ル数間ニシテ忽地揚

  陸スル能ハス甚タ隔靴嘆少ナカラスト雖ノモ辛ク叱シテ漸ク陸ニ達シ直チニ

  開戦交弾數發ニシテ我兵三手ニ別レ(右第三中隊ヨリ一小隊中央第四中隊

  ヨリ一小隊左第一第二中隊ヨリ各一小隊)村落ヲ衝突スル処敵兵防戦セス

  シテ二個ノ退路ヲ取テ敗走ス(一手ハ眼鏡橋ヲ渡テ谷山ノ方ニ一手ハ村後

  山上ニ各十五名斗リ)此ニ於テ尾擊シテ同村後山上ニ攀躋シ尚モ追擊スル

  三四丁ニシテ我右翼隊敵十五名拔刀シ来ルヲ斃シ各部共ニ愈々摩利支天山

  (俗ニ二本松ト云フ)ヲ指シテ進擊シ同第七時頃残リ半大隊来着シ薺シク

  進ンテ容易ニ摩利支天山ヲ取リ該地ヲ以テ中央トシ守地ヲ撰定シテ兵ヲ配

  布ス然リ而シテ同第十一時過第一中隊武大明神岡ノ西山ヲ進擊シテ敵兵ヲ

  走シ山頂ニ到リ武大明神岡ノ左側小丘ニ在ル敵兵ト對擊シテ止マス同第十

  二時過残三中隊武大明神岡ヲ進擊スル処察スルニ敵兵寡少ナリト雖ノモ山嶺

  ニ堅牢ノ塁壁ヲ設備シ防戦甚タ勉メ我兵繞出スヘキ攻路ナク為メニ銃鎗ヲ

  以テ衝突スル四回ニ及フト雖ノモ拔ク能ハス唯勇墳激戦「彼我ノ巨ル近キ処

  二間斗」弾丸ノ交接雨麻ノ如キ際先ノ西山ニ在ル一隊中央ノ小丘ヲ衝突ス

  ルノ吶喊ト薺シク亦衝突シテ竟ニ敵兵ヲ退ケテ以テ塁内ニ侵入シ即チ山頂

  ヲ以テ防禦線ト為シ直チニ兵ヲ配布シテ守勢ニ移ル時ニ同第七時頃ナリ

   前書之通致御届候也

       第一大隊長心得

  六月廿七日     陸軍大尉上野忠恕印

  第一旅團司令長官

   陸軍少将髙嶌鞆之助殿(C09085092000「戦闘始末書 第一大隊」『戰鬪報告原稿 明治十年三月☐ 出征別働隊第一旅團』)

 これによると、二本松は摩利支天と呼ばれた場所でもある。現地には石塔があるらしいが、ネット情報では詳しい地図画像を見つけることができない。

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 この後、薩軍は鹿児島湾北部沿岸に移動したので、次に甲突川右岸が戦場になったのは9月である。f:id:goldenempire:20210410111657j:plain

【上の図は「新編西南戦史」附図。左が全体図、右が部分拡大。下は甲突川右岸の拡大図。上伊敷・小野・永吉・原良・常盤・武村などの集落名や甲突川に架かる橋が上流から玉江橋・新上橋(しんかんばし)・西田橋とある。しかし、尾畔山はない。】

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 9月1日に鹿児島に突入してきた薩軍に関して「征西戰記稿」では城山よりも東側の地域に関する記述が多い中に、9月5日から始まる警視隊の部分に次の二行がある。

「同七時山下警部(住義〇重田警部ニ代リ)第二中隊ヲ率ヰ内之丸ヲ經テ伊敷村ニ入リ六日午前八時水上阪ニ出テ明神山ノ賊ヲ擊ツ零時ニシテ賊悉ク走ル肯テ之ヲ追ハス拔ク所ノ壘ニ據ル」

 明神山は甲突川右岸丘陵にある水上阪の近くであろう。武村にある建部神社は武大明神ともいわれ、鹿児島中央駅の南西約7.5㎞に位置し、条件が揃っている。第二旅団の9月6日の記録(第二旅団)では、同じく甲突川右岸丘陵で戦闘があったことを記す。

「六日昨夜發遣セシ各團ノ諸隊共ニ進ンテ賊ヲ擊ツ賊兵初メ且ツ之ニ應ス我兵發射七八回常盤村ノ賊先ツ走ル武山尾畔山ノ賊亦從テ潰ヘ悉ク新上橋ヲ渡テ城山ニ入ル我兵其壘ヲ奪フテ之ニ據ル本團ノ三中隊ハ猶ホ進ンテ西田村ヲ略シ城山ノ賊壘ニ對シテ守備ス降賊ノ言ニ曰ク賊ノ派出本營常盤村ニ在リ諸巨魁皆此ニ在リト我兵ノ小野村ヨリスル者其進入ヲシテ早キ一歩ナラシメハ左右合擊或ハ之ヲ擒スルヲ得シナリ時ニ第三旅團ノ斥候兵モ亦此ニ會ス而シテ該團諸隊ハ現ニ大門口松原ノ沿道ヲ略シ守備ヲ置クト雖モ兵員寡少谷山街道ノ一面未タ之ヲ塞ク能ハス時ニ熊本鎭臺兵(樺山中佐及ヒ川上少佐ノ所部)阿久根宮ノ城地方ヨリ來リ我守線ノ右翼ニ進ミ踵テ別働第一旅團兵(岡澤中佐ノ諸部)モ亦來リ更ニ鎭臺兵ノ右翼ニ進ミ遂ニ第三旅團ノ左翼ニ連絡ス是ニ於テ合圍始テ全シ」

 別働第二旅団9月6日の部分にも尾畔山付近が登場する。

「是ヨリ先キ賊根據ヲ城山ニ構ヘ分遣兵ヲ尾畔山及ヒ武村ノ山上ニ置キ伊集院街道ヲ扼ス我擊テ之ヲ占領セント欲スレノモ兵員足ラサルヲ以テ果サス故ニ伊集院谿山ノ方面ハ賊容易ニ出沒スルヲ得タリ而シテ今ヤ第三旅團兵海路天保山ヨリ上陸云々」

 同じ6日に熊本鎮台もこの付近に守備を布いている。

「六日生山峠ノ一大隊(第十三聯隊第三)ハ郡山ヲ經テ小野村ニ至リ遂ニ武村ノ大明神山ヲ占領シ哨兵ヲ布ク即チ第一旅團哨線ノ右ニ在リ而シテ左ヲ別働第一旅團ニ接ス」

 9月15日、熊本鎮台は甲突川右岸丘陵地帯の一部に兵を部署している。それは「武村地方ヨリ大明神山右翼ニ至ル」・「大明神山ヨリ武町街道及ヒ二本松第二線ニ至ル」・「大明神山左翼ヨリ一本松マテ」である。薩軍を追い出した丘陵地帯で、包囲網の第二線として警戒を続けていたのである。24日の最後の攻撃には、この付近からも攻撃兵が選ばれている。

 ところで尾畔山を「おあぜやま」と読むのかと思っていたら違うことが分かった。

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C09082100700椎木村出張参謀部 密事襍書 明治10年8月4日~10年9月12日(防衛省防衛研究所)1498

「ヲクロ山タケ村山上両所之拠賊第一旅團ニ於テ明六日拂暁攻擊当團兵三中隊應援差添右掃攘ノ上ハ直ニ同処ニテ右翼第三旅團ト連絡ノ筈ニ付右時機ニ應シ聲援可致此旨相達候事

 九月五日   三好少将

  野崎中佐殿

 つまり、尾畔山はオグロ山であった。

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  上図は甲突川右岸の記録に登場する地名とその推定位置である。この地域には多数の台場が築かれたと考えられるが、冒頭に述べたようにその解明・分布調査は行っていない。

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 上図は二番目に掲げた「西南記伝」の附図のうち、甲突川右岸の拡大である。尾畔山や台場跡は載っていない。

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 上は静岡県の人から購入した手描き地図である(A図)。縦31.8㎝・横44.6㎝の和紙。城山周囲の包囲網とその部隊名・各旅団の境界・竹柵や城山に薩軍台場の分布状態を描いているのが特徴的である。誰が何時描いたのか。武村を竹村としているので地元民ではないと思う。これによく似た地図が「鹿児島県史料 西南戦争」第三巻pp.727にあるが(B図:下図)、城山一帯の薩軍台場の形は違っている。

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また、橋の記載・東西南北がなく、やや簡素な絵である。しかし山や川の輪郭、竹柵の全体形はよく似ている。A・Bは「西南記伝」(が参考にしたであろう元)の地図とは似ていない(C図)。A・B・Cすべて共通して、甲突川右岸丘陵にもあった官軍による包囲網が描かれていない点は「西南記伝」と同じである。A・B図の永吉村の南には「小黒村」とあり、おぐろむらと発音すべきことが分かる。

 アジ歴史料を検索していたら、原良村の住人から聞き取った薩軍情報と甲突川両岸の台場分布図が一緒に公開されているのを見つけた。図には半円形に台場が示されているが、分かりやすくするため〇で囲んで示す。赤丸が官軍、青丸が薩軍である。

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   以下は解読文。

原良村☐☐

勘 助

右之者當月六日城ニ入過ル九日帰来左之ケ条申立候

一城中米ハナシ皆粥ヲ喰フ

一西郷桐野佐藤ノ三名ハ去ル七日被見受タリ

一小銃弾薬ハアリ

一大砲弾薬ハ少ナシ

一人員ハ凡ソ弐百八十名ノ☐

土人(即人夫)ハ追〃城中ゟ脱シ去ル

一他縣ノ人夫ハ四五十人位アリ

一醤油ハ少〃アリ

一味噌ハナシ

 この人は9月6日に城山に行き、9日に帰宅している。そして、添付図がこれである。いつの状態なのかは判然としないが、甲突川右岸丘陵を完全に占領した9月6日以降の状態であることは間違いない。

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 描かれたのは地図の下が甲突川右岸丘陵で上が城山である。両方に多数の台場の位置が記入されている。見にくいのでアジ歴の番号で検索すればもっと詳しく見られるかもしれないが、原図は薄い。この図は第一旅団の簿冊に綴じられていたので、甲突川右岸の武村周辺に配置についていた第一旅団が把握できる範囲で作成した可能性がある。この地図により尾畔山の場所が分かった。

 この地図には部隊名が記されている。例えば次の記録に登場する八田大尉や花岡中尉、宮崎大尉などであり、この史料に附属すべき地図とみることができる。

C09083526300第一旅団戦闘景況戦闘日誌 明治10年2月26日~10年9月3日(防衛省防衛研究所)0735~

〇同三日午前第二時三十分前驅諸隊共ニ重冨ヲ発シ同不第九時三十分薩摩国上伊敷村ニ至ルニ賊鹿児島城山并尾畔山等ニ塁ヲ築キ防禦ヲナス爰ニ於テ前驅諸隊小野村ヨリ原良山ニ登進シ右翼伊集院本道ヨリ原良山ヲ経テ左翼永吉村迠ノ山上ニ塁ヲ築キ警備ヲ付ス則右翼八田大尉中央原良山ハ林中尉左翼ハ花岡中尉ノ諸隊ナリ〇翌同四日警備同上〇同五日(3字不明)シ當方面守線薄弱ニ付別働第二旅團ノ内一中隊ヲシテ永吉村山上ニ増加シ亦警視隊二百余名ヲ以テ右翼八田大尉ノ援隊ニ備フ〇同六日午前第八時進擊ニテ當方面ハ尾畔山ヲ攻擊スルニ賊僅ニ屯在スト𧈧ノモ遂ニ守ヲ捨テ新上橋ヲ越ヘ城山ヲ指シテ遁走ス因テ尾畔山及ヒ原良村等ヲ略シ八田大尉ハ尾畔山ニ林中尉ハ原良村ニ花岡中尉ハ左翼永吉村迠則宮崎大尉ト連絡ヲ保チ警備ヲ厳ニス爰ニ於テ鹿児島城山ヲ全ク取圍ム〇同七日此日ヨリ日々(略)

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  上図は上記の台場分布図を参考に国土地理院地図に台場推定位置を示したものである。城山に関しては、第一旅団側から観察できた城山の状況がこれだったのではないだろうか。城山にあった薩軍台場の配置状態は所蔵する手描き地図とは異なるが、こちらの方が真実に近い気がする。

 「薩南血涙史」に尾畔山・武山丘陵での9月段階の記述がみられないのはどういうことだろうか。  

C09083851200出征第一旅團 雑綴(防衛省防衛研究所)蔵0319~21征討総督本営罫紙

鹿児嶋縣下小野村ヨリ尾畔山并武村ノ山頂ナル賊走掃除之戦略

本月三日鹿児嶋縣管下重富口脇元ニ於テ三好少将ヨリ豫メ定ラレタル部署ニ依リ長谷川中佐引率ノ諸隊ハ拂暁白金坂ヲ超越シ川上村ヨリ上伊敷ヲ経テ小野村ニ至リ候處吾方面江ハ格別賊兵モ在サレハ直ニ原良村ノ山頂ヨリ伊集院街道ノ要地ヲ占メ守備ヲ付ルト𧈧ノモ兵員僅少ニシテ薄弱ナリ故第二旅團参謀長野津大佐ヘ兵員増加ノ儀ヲ照會セシカ尾畔山并武山ノ賊掃攘之義ニ决ス同六日第二旅團第八聯隊第三大隊波多野少佐ノ二中隊并警視一中隊援隊トシテ狙撃一中隊ヲ伊集院街道ヨリ道ヲ右傍ニ取リ水上坂ノ山脉ヲ亘リ大明神丘ノ賊ヲ反撃セシメ亦長谷川中佐ノ三中隊及東京隊第三聯隊第三大隊ノ内一中隊ノ隊ナリ(即チ花岡中尉)ヲ合シ水上坂ノ左翼或ハ原良村ヨリ尾畔山ノ頂上ナル賊塁ヲ反擊ス援隊トシテ別働第二旅團井上大尉ノ一中隊ヲ以略中村少佐ノ隊ト連絡ヲ保チ而乄援隊ハ先鋒隊ノ進入ニ従ヒ徐々前面江進軍スル約ヲナシ伊集院街道江整列ス午前第八時十分各隊同時ニ敢テ應セス官軍尠シク發射シ賊四名ヲ斃ス尚進ンテ武山及男畔山等ノ諸塁ヲ拔ク賊ク西田ウシロ方面ヨリ新上橋ヲ通過シ岩﨑越ヲ経テ城山ヘ走ル于時午前第十時十五分全ク武尾畔ノ両山共吾軍ノ有トナル故ニ各要所ヘ兵ヲ配布シ守備ヲ厳ニセリ(略)

 9月6日、武山及男畔山等から撤退した薩軍の行く先は「征西戰記稿」では岩崎越が抜け落ちているが、西田の後方面から新上橋からさらに岩崎越を経て城山の薩軍に合流している。決して城山以外の遠方に逃げたわけではない。「薩南血涙史」の筆者、加治木常樹には戦後もその情報は伝わらなかったらしい。

南北戦争の軍艦

南北戦争の軍艦を想定して造った焼き物です。塗装はアクリル。表面の穴は着弾痕です。

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軍装資料集「新訂 征西戦記考ー西南戦役・官軍陸戦史ー軍装図解編】」には比ぶべくもないペイントで描いた未熟な漫画です。