南北戦争の軍艦を想定して造った焼き物です。塗装はアクリル。表面の穴は着弾痕です。
軍装資料集「新訂 征西戦記考ー西南戦役・官軍陸戦史ー軍装図解編】」には比ぶべくもないペイントで描いた未熟な漫画です。
稜堡を造ったけど世の中が平和になったので、日本風の城郭建築を追加したらしい。
下は目指したのはもっと渋い色だったらしいけど失敗作の城館。
今はやってませんが、数年間陶芸を習っていました。
右から九州の縄文土器(約3,000+α年前)2点・中世の備前焼2点。焼く前の段階です。
熊本城飯田丸で出土した焼き物爆弾かなというのを複製してみました(二番目の写真)。出土品の図面を添付したいのですが、報告書を閲覧できる奈良文化財研究所のネットにはあいにく飯田丸のPDFが載ってないので残念。胴部内面にトンネル状の空間が一周し、側面に通じる小穴が確か3個あったような。複製するときは先ず瓢箪のように胴部が幅狭くくびれた壺を作り、くびれ部分を帯状の粘土で覆ってつくり、後で外から穴を開けました。穴は最初の壺形の内部まで貫通するのは一ヶ所だけです。しかし、後からくっつけた帯がどうしても窪んでしまい、ふっくらした外観になりません。やむを得ず、燃えてしまうビニール紐をくびれの上から充填し、その上から粘土帯を貼り付けたら何とかなりました。報告書(出土品は破片ばっかりなので、分かりやすい)を見ると、胴部のトンネル部分内側には縄の圧痕が付いており、昔の人も自分の復元方法と同じやり方だったのでした。写真は焼く前です。
穴が3個あるのは次のように解釈しました。内部には火薬やガラス破片などを詰め、火縄で点火する仕組み。火縄の長さを穴の位置で調整し点火時間を決める。一個目の穴は火縄の端を出しておいて点火するためのもの。二個目は短い時間で点火する場合に一個目と同じ役目をするもの。三個目は最短時間で爆発させるもの。これと同じ武器は西南戦争時の記録には登場していません。今のところ、この実物が西南戦争時のものであるかや、どこで作られたかは不明です。どこか熊本県内の窯跡から破片でも見つかればと思います。
踏査に出かけるときの格好です。日射病にならないよう余分と思うほど水を携帯し気を付けているけど、長時間になって払底すると悲惨です。
鹿児島城の大手門は本丸の東側の一直線の石垣面の一部分が内側に入り込んだ内枡形です。主に枡形内側の石垣三面と床面には銃砲弾跡らしき多数の窪みが残っていて、西南戦争時のものとみられ、今回はこれについて記述します。
【御楼門付近の発掘調査中の写真。調査初期の状態で、まだ石垣は草蒸した状態。報告書から。】
本丸石垣の外側三方は堀になっていて、橋を渡って枡形の内部に入る仕組みです。ここには1873年(明治6年)に焼失するまで木造の御楼門が建っていました。鹿児島城跡は明治4年に鎮西鎮台(熊本鎮台)分営が置かれ歩兵4個小隊がいましたが、前述の火災により同年解散しています(「鹿児島市史1」参照)。したがって、1877年(明治10年)の西南戦争時には御楼門の建物はない状態でした。
この地は1884年以降、鹿児島県立中学造士館、尋常中学造士館を経て、1901年(明治34年)に第七高等学校造士館となりました。1945年6月、空襲により校舎が全焼したため11月に出水郡高尾野町の出水海軍第二航空隊の旧施設に一時移転し、1946年には第七高等学校に改称しました。旧校地に復帰したのは1947年9月でした。その後のことは略します。
近年、御楼門の建物を復元しようということになり、それに伴い鹿児島県教育委員会が枡形の内外を発掘調査しています。枡形に限って述べれば、石垣面の土や草を除去したところ以前は見えなかった多数の大小の窪みが明らかになり、石垣面の石の隙間は漆喰できれいに補填されていたことが明らかになりました。石垣と床が接する場所からは埋まった溝が現れ、また、枡形の床面はきれいに成型した石材が敷き詰められ、その床面には窪みがいくつか確認されています。詳細は発掘調査報告書が刊行され、だれでも奈良文化財研究所の「全国遺跡報告総覧」を通してPC上で見ることが可能です。書名は「鹿児島(鶴丸)城跡」です。
西南戦争の痕跡というのは報告書でも述べられていますが、それは石垣面に残る多数の窪みのことです。
【正面突き当りの石垣下部。大きな窪みは砲弾が直撃したものか。】
枡形周辺が西南戦争の戦場になったのはいつのことでしょうか。以下は「征西戰記稿」鹿児島戰記からの概略です。
薩軍の大部分が熊本県内に出払っている隙に、官軍は別働第一旅団・同第三旅団、第四旅団を鹿児島県に派遣し、4月26日から鹿児島市に到着し始めています。彼らは城山や市街地周辺に防禦線を構築し、薩軍が熊本県内から帰来し襲来することに備えていました。御楼門に近い場所での戦闘を掲げてみます。薩軍は5月5日、新昌院谷(新照院谷のこと。城山の西側)・草牟田(城山の北西側)の両道というから主に西側から城山に向かって攻撃し、撃退されています。御楼門のある東側は戦場にならなかったようです。5月7日、城山の西から南に位置する甲突川の官軍守線を襲い、撤退しています。5月18日には甲突川の西側にある武大明神の丘・二本松とタンタド(城山の北東側)の上から官軍に向かい砲撃し、24日は逆に官軍が甲突川に架かる西田橋・高麗橋から西側に向かって攻撃しています。下図は5月9日に官軍側が作成した両軍の配置図です(C09080858100密事探偵報告口供書類 明治10年4月25日~10年8月3日(防衛省防衛研究所蔵)。上から左下に流れるのが甲突川で、川の左岸などに点々で示すのが官軍守備線です(原史料は赤点ですが、PCでは白黒で公開)。甲突川に架かる橋は上流から新上橋・西田橋・高麗橋・武ノ橋で、市街地や城山・琉球館(私学校の右側)周囲に×印を並べた外側に薩軍がいました。図の左部分、薩軍がいるのは丘陵地帯で、武の丘・尾畔山・原良山などです。以上のように5月段階には御楼門周辺で激しい戦闘はなかったようです。
次に6月を見てみます。6月22日から25日までは鹿児島市北方の重富に上陸した官軍が南下、吉野・雀宮さらに城山の北約1kmの催原楽まで進撃していますが、御楼門付近は平穏でした。一方、城山の南西側方面では24日に官軍が甲突川の四つの橋から進撃したように、引き続き官軍の勢いが増して6月中には薩軍は次第に鹿児島市から遠ざかっていきました。7月には薩軍を追って鹿児島湾北部沿岸から大隅半島側に戦場は移ってます。
では、御楼門跡の西南戦争の痕跡はいつの時点の戦闘を反映しているのでしょうか。下記で引用しますが報告書にあるように9月段階の戦闘の痕跡でしょう。
8月15日に宮崎県延岡市和田越の会戦で敗れた薩軍は、18日に包囲網の一画である可愛岳(えのだけ)の官軍本営を破り、二週間の山中移動を経て9月1日、鹿児島市に帰ってきて、私学校に休憩していた新撰旅団・警視隊一個大隊そのほか少数の官軍を撃退し、城山一帯を奪回しました。4月段階とは逆に、今度は官軍が出払っており、薩軍が鹿児島市内のほとんどを制圧できたのです。わずかな官軍は私学校の東約150mの米倉に立て籠もり、応援の官軍が来るまで持ちこたえていました。しかし、薩軍の兵数は数百人しかおらず、城山を中心に狭い範囲を守ることしかできない状態でした。
前記の報告書から石垣の写真・図・説明文を引用します。
【上の写真は橋を渡って突き当り面(Ⅲ面)の石垣清掃後の状態。石垣の左上から中央部下にかけて連続的に暗く映っている部分は窪んだ所です。なお、向かって左の石垣がⅠ面、右がⅡ面です。】
【上はⅠ面です。正面石垣(Ⅲ面)に比べると窪みは少しです。】
【上はⅠ面(左)とⅢ面(右)の接した部分。下はⅢ面。】
石垣に残る窪みについて報告書の記述を見てみましょう。
私学校跡の石塀には西南戦争の銃弾痕が無数に残る。この弾痕は明治10 年9月1日~24 日,特に9月20 日以降の官軍の攻撃によるものと考えられる(鹿児島市史Ⅲ 上村行徴日記)。弾痕は③と同様が多数残る。①は白化した大型の金属片が残存する。先端は石垣に食い込んでいるために全体像については不明確であるが,信管と弾体(弾殻)が分離する四斤砲の信管ではないかと思われる。着弾面の幅,深さから威力のある火器であったことは間違いない。②は着弾面の幅に対して非常に深く,貫通力のある火器であることは間違いない。内部に金属片も一部残る。また,二重凹状は旧日立航空機(株)立川工場変電所の機銃掃射跡に類似する。④は石垣面Ⅰ面側のⅢ面寄りに炸裂したような痕跡から曳火式信管による四斤砲の弾体(弾殻)片と考えたい。ただし,砲弾片が圧着していないと③と区別はつかないと思われる。
砲弾痕パターンと対比させると以下のような想定が出来る。
①西南戦争時の四斤砲(榴弾,榴霰弾,霰弾の区別は不明)
②第二次大戦時の機銃掃射痕
③西南戦争時の小銃弾痕(エンフィール・スナイドル等)
④西南戦争時の四斤砲弾体(弾殻)片
ただし,西南戦争時の御楼門部枡形内の戦闘状況の記録を示す史料は無く,また,第二次大戦の機銃掃射がおこなわれた伝聞はあるが記録はない。石垣に残る砲弾痕については,今回の調査目的外であり,悉皆調査等を実施していないことから推測の域であることは了承されたい。
前述したが,今回の調査目的に石垣面の調査は含まれていない。しかし,御楼門建設によって石垣を観察出来る面積が少なくなることや,御楼門建設に先立ち石垣のクリーニング作業によって認知されていなかったおびただしい砲弾痕の状況,また県立埋蔵文化財センターで石垣面についても現地説明会等を実施したことから今回,考察をおこなった。
冒頭の私学校というのは正しいのでしょうか?本丸の北側にある私学校の石塀弾痕について述べ、御楼門の記述に移り変わっていくということでしょうか。上記で御楼門石垣の窪みが似ていると指摘された日立航空機立川工場変電所の機銃弾痕を下に示します(写真はネット「廃墟系」から)。
指摘にあるのは二重凹状の窪みとされるものが混じる点だけです。さらに言えば窪みがまばらにある点は石垣面と似ているといえます。しかし、御楼門跡Ⅲ面石垣のよう幅広く列状をなす痕跡は立川にはありません。別に機銃掃射でなくとも、砲弾の破片でも二重凹状の窪みといわれるものはできる筈です。
実は調査中に現地を見たのですが、その時、調査員の弥栄久志さんから床面の窪みの中には門に対して斜め方向の楕円形をなすものがいくつかあり、ちょうど官軍の大砲があった斜め左前方約150mの米倉や肝付邸付近からの砲弾が地面に衝突した痕跡らしいと説明していただきました。なるほど、合理的な解釈だと思いましたが、報告書では床面の窪みの解釈は見られないようです。
【上の写真は調査中の御楼門から官軍がいた肝付邸・米倉方向を見て。矢印は四斤砲弾が床面に衝突したと想定したもの。】
【上の文書は9月6日段階の米倉と肝付邸付近の官軍配置。新撰旅団の砲兵もいました。下記は解読文です。
C09085907300「新選旅団第四大隊本団達留」明治10年6月20日~10年10月18日(防衛省防衛研究所0636~0641
肝付屋敷東角堀外ノ臺塲ヨリ同所右之方門前之臺塲 第二大隊壱中隊
米蔵正面ノ両門前臺塲 但夜間ハ三拾名ヲ川向胸壁ニ分遣ス依テ援隊トシテ砲隊ヨリ三拾名ヲ出スベシ 第二大隊二中隊
米蔵左(右)側面門外臺塲 第一大隊壱中隊
米蔵西角塀外臺塲 第壱大隊二中隊
米蔵裏面ヨリ肝付屋敷境界外面臺塲 第四大隊四中隊
第四中隊ノ右翼ヨリ肝付屋敷ノ周囲ニ沿ヒ米蔵ノ境界ニ至ル 第壱大隊第三第四中隊
砲隊
但兵員配布之上余リアラハ援隊トナスヘシ
援隊 輜重隊
右之通リ守線之持塲ヲ相定候条厳重守備可致候事
明治十年九月六日 在鹿児嶋米蔵
新撰旅團
参謀副長
立見少佐
第一大隊長
第二大隊長
第四大隊長
砲隊長
輜重隊長
中】
【上図は9月14日現在の状況です。右から私学校・鎮台焼け跡(御楼門のある所。本丸)・二ノ丸です。二ノ丸には二か所に薩兵が七八人いると観察しているものの、鎮台焼け跡と私学校にはいないようです。県庁・二ノ丸から照国神社方面の隊長は山野田一輔でした(「西南記伝」中2)。】
上記文書は米倉・肝付邸付近守備の新撰旅團司令長官が9月14日に提出した報告です。「賊兵堡塁竹柵其他一二ノ防禦物ヲ築設スル日〃倍密ナリ(略)縣廳跡旧私学校ヨリ我胸壁ニ向テ少シク放射セリ」とあり、薩軍が防禦物を築き続け、御楼門を含む縣廳跡・旧私学校から射撃していたことが分かります。防衛研究所の推奨する文書名は「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09082992200、来翰録 明治10年5月14日~10年9月31日(防衛省防衛研究所)」ですが、これは上に掲げた本来の史料名とは言えない表記です。単に「来翰録」とするのではなく、「十年九月 来翰録 日知屋村出張本営」としなければ文書の性格が分かりません。いつも抱く感想をここで述べさせていただきました。
一方、石垣面にある多数の窪みはどう解釈したらいいのでしょうか。特に幅広い帯状の窪み群ができた原因があるはずです。石垣を眺めていて、写真を撮り、画像を見て帰宅後も考えてみました。そして見過ごしていた現象に気づいたのです。
その後、2018年7月14日に鹿児島県考古学会で「考古学からみた西南戦争の構築物・武器」と題して講演する機会を頂きました。その中で御楼門の石垣面の窪みについての解釈を次のように発表することにしました。
上の写真は正面石垣(Ⅲ面)南部です(この時、適当な写真がなかったので佐倉桜香さんのつぶやきの写真を名前を明記して借用しました。上図はその時の物です。)。この写真を見て上部の幅広い窪みの帯には簡単に気が付くでしょう。よく見るとその下にも同じ傾きで窪みが並んでいるように見えます。さらにその下にももう一列。
本丸を奪った薩軍は、出入り口である御楼門をそのままの状態にしては置けないと考えたでしょう。9月1日かその直後に、ありあわせの材料で低い土塁状のものを作ったのではないかと思います。上の図がその状態です。官軍は遮蔽物の上部に向かって銃砲擊を浴びせたのが、最下段の窪み列だと考えます。もちろん遮蔽物にも多数が命中した筈ですが、それは石垣面には残る訳がありません。
やがて、日時がたつと次第に土塁状のものは高く、長くなったのでしょう、中段の窪み列が遮蔽物の高さを示していると思います。
最後の段階の遮蔽物の規模を反映するのが上段の列でしょう。最も窪みが多い点から見て、この期間が最も長かったのでしょう。あるいはこの段階は射撃を受けることが激しかったのか。南側の石垣(Ⅰ面)と正面石垣(Ⅲ面)を連読的にみると遮蔽物がⅢ面からどれくらい離れていたのか推定できます。銃砲弾痕跡から考えて少しずつ遮蔽物を積み上げたのではなく、三回に分けてそうしたとみるべきです。
では、Ⅲ面の南寄りに遮蔽物を作った理由は何でしょうか。Ⅲ面右側から遮蔽物に入るには危険性があります。それを避けるために曲がり角の石垣上部を撤去し、梯子で上り下りしたのではないでしょうか(Ⅰ面石垣がⅢ面石垣に接近した上部に配水用の凹形の石があります。現在、この上にある3個くらいの石は表面がきれいですが、これは調査後に古い石と取り換えたものです。撤去された石は銃砲弾の跡が著しいものでした。したがってこの部分を当時取り外して梯子を架けた、というわけでもなさそうです)。以上、憶測を重ねてみました(ネットでみると憶測とは「根拠もなく、いいかげんに推測すること。当て推量」)。でも、解釈はしておくべきだと思います。(いつか続きを書きたいと思います。)
七月八日賊襲來第二中隊前面谷合ヨリ進来リ凢一大隊斗三分ノ一ハ我左ヘ向ヒ一ハ正面ニ出ツ一ハ海岸ヨリ出ツ我兵向討テ悉ク之ヲ走シ殊ニ海岸ノ迂回兵ハ狼狽ヲ極メ死体ヲ捨退ク逐テ湊村ニ向ヒ河岸ニ至リ午前第九時半守線ニ帰ル此段御届申候也
十 年 七 月 九 日
七月廿三日午前第六時半当隊第一中隊笠木村守線ヘ賊徒三百名斗襲來候就テ該中隊ヘ警備厳重申付候内間モ無ク同中隊右翼ヘ向ヒ賊ヨリ発放シ尋テ開戦ニ及ヒ当隊附属砲兵小隊ヨリモ射擊為致午前十一時頃賊ヨリ旧砲ヲ放チ益小銃ヲ連発シ勢□相加候間我左翼ヨリ二分隊ノ兵ヲ分派シ一分ヲ以テ迂回シ道ヲ支ヘ余ハ賊ノ側面ヲ射ツ同時ニ前面ヨリ進撃致シ僅ニ四五拾米突ノ地ニ近接致候中賊左方ゟ迂回シ來リ左翼分派兵ノ一分ヲ斃シ背面ヨリ分派兵ヲ射撃致候故該兵ヲ以テ直ニ迂回兵ニ應ス對戦為致候假リ旧線前凢四五百米突即進出候地ニ新線ヲ設ケ工兵ヲ以テ處々散兵壕ヲ築キ益射撃戦闘為致候薄暮ヨリ午后十時頃迠一層賊ノ放発烈敷十時過頓ニ放火相止メ候就直様斥候指出候處已ニ北走致候而退路不分明且ツ地形不詳候就尾擊指止メ新線ヲ厳重為致申候此段御届申候也
十 年 七 月 廿 六 日
追テ其節ノ死傷左ノ通候間此段添テ御届ケ申候也
将校死一人傷二人下士以下死四人傷四拾二人也
【末尾の「御届申候也」というこれ以前の文書も必ずしも大隊長の報告というわけではなさそうだ。笠木村は曽於市大隅町にある。南東約5㎞の岩川官軍墓地には79基の墓石があり、当日の戦死者はここに埋葬されたのだろうか。
第四旅団としては13日、惣陣山から荒磯岳に哨兵線を進めている。
14日から22日までの記述がないので、この期間の動静を「征西戰記稿」から記そう。14日、別働第一旅団が百引で敗れたので第四旅団から二分隊を援兵として出した。鹿屋市百引は惣陣山の南南東約14㎞にある。この日、旅団は左翼を荒磯岳(標高539m)に、右翼は南西約4.8kmの惣陣山(標高484m)から福山海岸に延びていた。15日、福山原の哨兵線に敵兵800~1,000人が襲来したが退けた。この戦いで薩軍が鉄製銃弾を使ったのを初めて見た。19日、左翼を荒磯岳の南東3.1㎞の陣岳(標高430m)に進め,
20日、右翼を神牟礼に進めた。22日、梶ケ野から続いて笠木まで約3kmに遊撃第二大隊の哨兵線を布いた。23日の薩軍は逸見十郎太が率いていた。
24日、陣岳の東2.5kmにある末吉町通山を攻撃、敵を追撃し都城に入った。これは同旅団の別部隊であるため履歴にはない。25日、都城を発し蓼池道から山之口(おそらく都城盆地にある場所)に進行し、さらに「麓村ノ東凡ソ十丁許ノ山ニ據リ哨線ヲ布」いている。麓村は都城市の東端にあり、そこから1km位の山に哨戒線を置いたというから標高335mの城山一帯であろう。
※上図はカシミール3D。都城盆地の北東部に麓集落があり、そこから1km位に東に当たるのが城山である。ここに警備線を布いたとみられ、現地には台場跡があるかも知れない!
7月24日の都城攻撃に加わったのは第四旅団のほか、第三旅団・別働第一旅団・別働第三旅團だが履歴の記述に関係ない部分に触れなかった。26日、山之口(この山之口は宮崎市西部にある)に滯陣、27日出発し宮崎県田野に到着している。】
七月廿八日田野村ヨリ進軍午前九時過清武村前ニ到乄賊徒對河岸髙台上ニ據リ胸壁ヲ築キ銃砲ヲ放テ固守スルニ付兵ヲ河岸ニ伏セ相射擊スルニ殆ト一時進テ河ヲ渉リ彼レ岸ヨリ清武村ニ入ラシメ賊潜ニ台ヲ下リ清武村ノ人家ニ放火シ我進路ヲ遮ル依而第三中隊ヲ以テ右翼ヲ迂回セシム午前(后)四時半頃大久保本通ノ賊破ルヽヲ以テ山塁自焼シ北走ス直ニ第二中隊ヲ以テ之ヲ遂ヒ狩野村ニ於テ之ヲ尾擊ス賊徒破レテ死体ヲ捨テ走ル夜暗黒地理不詳ニヨリ此レニ追擊ヲ止メ午后十時守線ヲ中野ニ布キ警備為致候此段御届候也
十 年 七 月 廿 九 日
【田野村は宮崎市の南西約15㎞、途中に清武がある。狩野村は不明だが、清武川の左岸、田野町中心部の対岸に狩屋原という所があるのでそれだろうか。ここから東北東約8.5㎞に中野という所がある。清武川左岸、清武中心街の対岸である。】
七月卅一日午前九時左翼旅團ノ進撃ニヨリ宮崎ヲ自焼スルニ付直ニ河ヲ渉リ第一中隊ヲ先鋒トシテ賊ヲ逐ヒ海岸通リ急行午后三時過住吉村ニ至ル然ルニ賊石嵜村ニ胸壁ヲ築キ之レニ據ル以テ部署ヲ定メ再ヒ進軍已ニシテ先捜兵塁近ニ及ヒ賊ヨリ発放開戦相射撃スル殆ント四時間賊遂ニ破レテ死体ヲ捨テ走ル遂テ廣瀬川ニ達シ對戦ス賊復タ事フル叓能ハス夜半廣瀬捨テ退ク依而河岸ニ守線ヲ設厳備為致申候也
十 年 八 月 一 日
八月十二日午前第五時細島ヨリ進軍同六時半過き門川岸ニ至ル賊河岸ニ塁ヲ築キ銃砲ヲ連発シ固守ス即時之レニ應ス河ヲ隔テ戦フ午後三時半頃左翼大隊ヨリ進撃ニ而賊退キ破レ逐テ川ヲ渉リ門川村外レニ守線ヲ設ク同六時半過賊等返シ来リ守線ニ迫リ我兵之ニ應ス頃刻ニシテ馳逐ス賊復退テ海岸ノ山ニ據リ依而兵ヲ収メ守線ヲ固守致候此段御届申候也
十 年 八 月 十 三 日
八月十四日午前第一時尾末ヲ発シ乙島ニ渉リ黎明海路ヨリ第二中隊ヲ先鋒トシテ庵ノ川村ニ入ル賊已ニ去テ踪ナシ直ニ延岡ニ向ヒ進軍セシム轟村ニ残賊尚僅ニ在リ逐テ四散セシム延岡ニ入ル賊復已ニ去ルヲ以テ宝財島ノ残徒ヲ逐ヒ大武村ニ到ル午后七時半左翼両大隊柚ノ木田ニ開戦ニ付進テ之レニ換リ對戦同夜此ニ守線ヲ設ケ守備相致候此段御届申候也
【柚ノ木田は祝子川(ほおりがわ)左岸に位置し、大武の北に接し、700m位北に無鹿がある。柚ノ木田も大武も水田地帯である。宝財島は方財嶋のことで、此の日、逸見十郎太の部隊が延岡市街方面からここに脱出してきた。】
八月十五日午前六時和田越ニ向ヒ進軍賊無鹿村ニ據リ友内村和田越山ヲ守ル依リ而第二中隊ノ内一小隊ヲ先鋒トシテ無鹿村右方ヨリ進撃セシメ第四中隊及第四大隊ノ内一中隊之レニ次ク第二中隊残余ノ一小隊ハ本道ヨリ機ニ投セシム先鋒第二中隊ノ一分隊ヲ右ノ山上ニ備ヘ賊左ヲ射撃ス余疾呼ナシテ突入ス山下ノ賊退路ヲ失フテ斃ル尋テ河岸ニ沿フテ進入シ第四中隊ハ第二ニ次キ進テ友内山ノ賊ト戦フ短兵ヲ以テ相逼リ山ノ上下ニ在テ接戦ス本路進入シ第三中隊残余ノ一小隊ハ戦已ニ酣ナリニ及ヒ和田越山ヲ攻取リ之レニ據テ眼下ニ友内山及ヒ余ノ賊ヲ討ツ賊遂ニ堪エス兵器死体ヲ捨テ走ル第四中隊直ニ之レヲ尾撃シ賊ヲ斃シ午后第一時兵ヲ無鹿村ニ収メ和田越山友内山等ニ守線ヲ設ケ守備為致候此段御届候也
十 年 八 月 十 六 日
【8月15日、官軍に追われて宮崎県を北上してこの地にたどり着いた薩軍は延岡北部の和田越一帯の尾根に布陣し、前面の平野に布陣する官軍との間で半日の戦闘、和田越の戦いが行われた。大分県で戦い、県境付近に後退していた薩軍奇兵隊(野村忍介隊長)も前日、延岡に戻るよう指令を受けており、急いで西郷らに合流しつつあった。薩軍は奇兵隊がこの段階にもまとまりを維持していただけで、他の部隊は敗退を続けてきたためそうではなかった。
本書の筆者は和田越に向かって戦ったと記す。第二中隊の記事が続く部分に登場するので、筆者は第二中隊だったらしい。無鹿村は和田越一帯の尾根南麓にあり、友内山は和田越道の東側にある。和田越山という表現は他では見たことがないが、和田越の峠道が通過する尾根筋であろう。】
八月十七日午前(※見え消しで后)四時河島須佐山ヲ進撃ス第一中隊ノ内三分隊山ノ右腹ヨリ進ミ第二中隊ノ内三分隊同左腹ヨリ進ム其第一中隊ハ正面正攻ノ虚勢ヲ為ス第二中隊ハ山腹ヲ迂回シ午後第六時半賊塁ノ左側ニ達シ直ニ疾呼突入シテ賊ヲ殺傷ス賊狼狽兵器死体ヲ捨去ル山腹急峻且黄昏ニ及フヲ以テ追撃ヲ止メ守線ヲ設ケ厳備為致候此段御届申候也
十 年 八 月 十 八 日
【「征西戦記稿」この日の戦闘経過は下記の第四旅団8月17日記事に登場する。但し戦記稿では履歴の午前四時は午後四時となっている。(※16日)老田嶽ノ中央以東總テ我有ト爲ルト雖モ其西角ハ賊兵大ニ堡壘ヲ築キ固守セリ〇十七日午後一時遊擊兵大隊(第二)ハ守線ヲ老田山ニ設ケ同四時川島須佐山ニ向ヒ古荘大尉第一中隊ノ三分隊ヲ率ヰ山ノ右ヨリ進ミ淺田中尉第二中隊ノ三分隊ヲ率テ左ヨリ進ム其第一中隊ハ賊兵ノ射擊劇烈ニシテ直進スル能ハス故ニ正攻ノ虚勢ヲ爲サシメ第二中隊ハ山腹ノ險阻ヲ攀躋シ密樹ノ間ヲ潜行シ午後六時始テ賊壘ノ左側ニ達シ一薺ニ突起、銃槍疾呼シテ壘中ニ躍入シ十餘名ヲ殺ス賊狼狽兵器彈藥死屍ヲ委テ走ル支脈上ナル山壘ノ賊モ亦瞰射ヲ受ケ守ル能ハス守地ヲ棄テ走ル是壘ヤ■ニ一川ヲ隔テ長井谷ヲ俯瞰シ最モ要害ノ地タリ是ニ於テ無鹿川北復タ賊ノ隻影ヲ見ス
【ここに登場する山地の戦跡分布調査結果を報告したことがあるが(「西南戦争之記録」第5号)、老田岳と考えられる標高324mの峰には15基の官軍台場群が残り、そこから北側の尾根筋にはしばらく台場跡は見られないが、突然官軍側を向いた台場跡が2基現れる。官軍と薩軍との直線距離はほぼ1㎞であり、その距離なら密樹状態の山の斜面を2時間かかったというのは納得できる。戦記稿の時間が正しいだろう。■はPCに活字がない。】
九月廿四日大進擊岩嵜谷ノ賊勦討ニ付當大隊ヨリ一中隊ヲ進撃隊トシ一中隊ヲ應援隊ト為ス進軍セシム進撃隊ハ第一中隊第二中隊ヨリ編組ス應援隊ハ第三第四中隊ヨリ編伍ス右隊午前一時浄光明寺下ニ集合同三時半同處出発シ進擊中隊ノ内先鋒小隊潜行シテ岩嵜山ノ賊塁ニ近付柵ヲ破リ銃劔ヲ以テ突然進入ス賊防禦ニ遑ナク塁ヲ捨テ去ル直ニ之レヲ尾擊シ荊棘ノ間ヲ攀テ岩嵜山頂巨塁ニ侵入シ賊亦拒守スル能ハス退テ支脉上ノ山塁ニ據リ依而一ハ此賊ニ對シ一ハ眼下ニ岩嵜ノ賊巣ヲ乱射ス進擊隊自余ノ一小隊ハ之ニ次ク進撃隊(「次ク進撃隊」の後、二頁近い空白)次ク進テ山腹ヨリ岩嵜本路ヲ取リ應援隊ハ岩﨑本路ニ向ヒ普心院ヨリ私學校ノ間ニ配布シ賊ノ迂回突兵等ニ供ス各部ノ兵對戦スル殆ント二時間午前七時前ニ及テ岩嵜ノ賊山上ヨリ瞰射ノ烈敷ニ堪得ス遂ニ賊魁ヲ首乄数十名據営ヲ捨岩嵜谷口ニ向ヒ鋭ヲ尽シテ闖下シ來リ山上山下兵相俱ニ討ツテ数賊ヲ殪ス賊将西郷隆盛爰ニ死ス匡賊一團ト成リ疾走シテ私學校ノ北隅ニ出ツ此時正面ノ叢林中ニ埋伏セシ一部ノ應援隊一時ニ連発シ邀エ撃テ之ヲ扞拒ス賊益勢威ヲ張リ直ニ此兵ニ向ヒ突擊ス山麓ニ備フル進撃隊及應援隊三面ヨリ之ヲ合撃シ大ニ其鋭鋒ヲ挫ク於茲賊已ニ突貫スル能ハサルヲ以テ路傍之巨塁ニ入リ各面ノ兵ニ当リ奮闘ス同時山頂ノ兵ハ支脉上ノ賊塁ヲ討テ之レヲ駆遂ス第一大隊ノ兵側面ヨリ之ヲ援ク山下塁内ノ賊ハ尚屈セスシテ奮戦ス依之進撃隊應援隊ノ中ヨリ一部兵ヲ分テ私學校ノ内ヨリ柵ヲ破リ賊塁ニ向ヒ突進ス余ノ兵ハ山ノ麓及正面ヨリ第一大隊ノ兵若干背面ヨリ悉ク短兵ヲ以テ奮進突戦就中山麓ノ兵ハ木石ヲ取テ塁ニ擲下シ賊ノ庇廠ヲ碎ク賊之カ為メニ壓セラレ死力ヲ尽ス能ハス私兵蝟集シテ塁ヲ突キ賊将桐野利秋及村田新八別府普介池野上四郎逸見十郎太等ヲ始メ七拾余名茲ニ死シ此時坂田諸潔等十余名降伏セリ右□ヲ残賊捜索ニ付攻取ノ地ニ守線ヲ布キ警備致候此段御届申候也
十年九月廿五日
【これで西南戦争は終わった。筆者は遊撃歩兵第二大隊第三中隊の兵士だが、この戦闘に加わったかの記述はない。下図は防衛研究所蔵C09083002900の地図である。縦配置にすると小さくなるので横向きにした。16日の攻撃前の計画図であり、薩軍の台場分布も正確に把握しての図ではない。城山にある台場のおおよそに位置として理解いただきたい。】
まとめ
「西南戦争履歴」の作者について考えてみる。表紙には駒嶺主と記しており、その人物が作者だと考えていいのだろうか少し疑問が残る。冒頭に「大隊長ヨリ告諭」とあり、遊撃歩兵第二大隊が作者の所属部隊であることは想像できる。遊撃歩兵第二大隊は遠藤芳信氏によると、「3月25日遊撃歩兵第二大隊(下士89名,兵卒右772名)が編成され(名古屋鎮台の管轄下になり,3月14日編制の第四旅団に編入,10月1日に解隊の指令)」との経過を経ている〔北海道教育大学紀要.人文科学・社会科学編57-1「日露戦争前における戦時編成と陸軍動員計画思想(5):西南戦争までの壮兵編成と兵役志願・再役志願制度」2006〕。遊撃歩兵第二大隊の名簿を調べると表紙の駒嶺主という人物は見当たらず、第三中隊の上等卒に「駒ケ峯重幸」という人がいた。岩手縣士族岩井郡下米内出身で上田村住二十二年七ヶ月とある(C09085011200本営各部各隊将校以下 人名簿 第6号 明治10年9月27日~11年1月10日 防衛省防衛研究所蔵)。
第三大隊第三中隊上等卒
仝(岩手縣士族岩井郡下米内)駒ケ峯重幸 上田村住(同)二十二年七ヶ月
※駒ケ峯性は秋田県に多い。
また、彼には明治15年には「陸軍兵卒服役中鹿兒島逆徒征討ニ際シ盡力其勞不少候ニ付金貳拾圓下賜候事」との記録がある(C08010510100明治15年 陸軍省日誌 貞 貞丙 自10月同年至12月(防衛省防衛研究所)2816~)が、その姓からはケが抜けており、さらに峯が嶺に替わっている。名前の表記が今ほど厳格でなかったことが窺われる。これで駒ケ峯重幸と駒嶺主の差は少し縮まったことになる。
しかし、履歴本文の冒頭頁上部に押された印鑑は駒嶺重幸であり、表紙の駒嶺主とは異なるのはなぜだろうか。
ところで、明治20年9月の陸軍軍吏学舎入学生徒に駒嶺重晶という人がいる(C10050282500兵部省陸軍省雑 明治20年 編冊 省内各局(防衛省防衛研究所)1674~)。
軍吏学生とはウィキペデイアによると、「陸軍軍吏となるべき教育を受ける。歩兵科、騎兵科、砲兵科、工兵科、輜重兵科の現役特務曹長、および1年以上その階級にある前記各兵科の現役曹長と陸軍一等書記の志願者で試験に合格し選抜採用された者。修学期間は約1年。」とあり、軍吏学生になるための入学試験受験資格はおそらく10年前後の軍務経験が必要だったらしい。駒嶺重幸が明治10年に22歳であるから受験した年には32歳だろう。ちょうど受験資格を満たした時期である。前に掲げた軍吏入学関係文書の巻頭に記載されている久保則知は明治10年9月29日付で鹿児島屯在兵隊會計部付を申し付けられた記録があり、この時20歳8ヶ月だった。10年後には30歳であり、駒嶺と同年代でありこの年頃の者が受験したことの裏付けとなる。ただ、受験生の名前が重晶であるのが気になるが、同一人物である可能性は捨てがたい。
明治37年の次の資料では駒嶺重晶は函館要塞経理部長となっており、文書名は「・・・駒嶺主計ヘ伝送ノ件」である(C03020178000明治37年 「満密大日記 明治37年 8月 9月」防衛省防衛研究所蔵0331・2)。]
陸軍軍吏学舎を卒業した後、駒嶺重晶は経理分野の勤務を続けていたのである。駒嶺主計、これが本誌表紙の署名「駒嶺主」ではないだろうか。
つまり戦後二十数経って昔の記録を綴じ直したのではないかと考える。「西南戦争履歴」の西南戦争という言葉は西南戦争時点ではそれほど使われなかった用語である。当時の呼び名は鹿児島事件・鹿児島県暴動・西南之役・西南戦争之役等々であり、戦後だいぶたってから西南戦争という言葉が一般化し、それを使ったのだろう。そもそも赤の他人の記録したものに自分の名前を書くだろうか。たとえ親や兄弟が書いたものであっても、それに自分の名前は入れないだろう。