西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

福聚寺戦闘復元図 ※完成に向けて進行中です。

 福聚寺戦記絵の進行途中の状態。想像図です。

 まだこれから色や形が変化していく予想です。へたうま(実は上手だが、へたくそに見える絵)を目指しています。寺のまわりには現在と違って民家はなく、畑の中にポツンとある。竹藪を切って柵を作り、畳を立てかけて銃弾を防ぐ。季節は田植え準備の頃。

下は2024.4.7。屋根を曲線にし、題字を改変。その他少しずつ加筆。9万年前に流れてきた阿蘇凝灰岩の台地上にあるので、水田地帯に面する面は凝灰岩の崖になっている。

 どこが変わったか分からない程度に進行中です。東側の諏訪山方面と南側の江無田方面と銃弾を交わしています。東向きの石垣面の内、土嚢(どのう)や畳で覆われなかった部分では弾痕を見ることができます。南側向きの石垣面は補強のためコンクリートで覆われているため、表面を観察できません。もしかしたら弾痕があるかも知れません。

軍用水筒 Military canteen  ※つづき

 最近まで西南戦争頃の軍用水筒を調べていたが、結論をまとめ終えた。12頁の制限があったので写真を掲げる余裕はなかった。活字になるまで1年かかるのでここで簡単に紹介したい。

 画像が薄いけどこれしかないので我慢してください。熊本城跡出土の水筒です。報告書から転載。

 上は熊本城百閒櫓(ひゃっけんやぐら)跡出土水筒で、欠損し穴が空いています。ブリキ製で押し潰されてぺしゃんこです。図示されてないけど青い四角部分には吊具(紐通し)やその痕跡が残っています。

 上は熊本城本丸御殿跡出土品を報告書から掲げた。御殿は西南戦争初期に焼けている。他にもかなりの数の破片が出土した。上図の上は水筒が二つ重なった状態である。本体は口部分と胴体部分をハンダ付けしている。胴体に四ヶ所直線状の線が引かれているのはブリキ板に切れ込みを入れていることを示す。田原坂西南戦争資料館に一個だけ展示している西南戦争時の水筒がこれと同種のものである(下の写真)。

 この切れ込みは平面的なブリキ板を立体的に曲げる工夫である。この水筒は潰れていなければ横断面は碁石状であるが、潰れた出土品だけ見てもわからないだろう。ハンダ痕しか残っていないが肩に2個、胴下半に2個、紐通し痕がある。水筒基部は欠損しているのでここにあっただろう紐通しは見ることができない。下の写真も同一個体。縮尺数字は全体の長さが20㎝。

 図下部は水筒の口に栓が付いた状態のもので、上部に平たい銅円盤があり、それを貫いて銅の棒がコルクを貫いていた。但しコルクは燃えたためか存在しない。下端は銅の円盤の下に四角いナット状の銅部品で止めている。最上部は棒を曲げて輪っかにしている。この輪には焼けていて残らないが革紐を通す。この種の栓が実見しただけで10個くらいあった。報告書には上の図しかないが。この栓が西南戦争当時の軍用水筒の栓だと確認できた。 

 西南戦争時と直後の記録では、官軍が携帯した水筒はブリキ製水筒と黒い革で包み、下部がコップのように取り外せるガラス製水筒との二種類があったとある。近年熊本城から出土したのはブリキ製だけだが、世の中では以前から当時のガラス製水筒が知られていた。このブログで以前、臼杵の復元図を描いた時にも肩からガラス製水筒を下げている図にしたが、実は史料ではブリキ製が圧倒的に多かったとある。

 明治7年の台湾出兵時に軍用水筒が初めて実戦で使われたようだが、田原坂西南戦争資料館勤務の作田徹さん方には西南戦争当時のブリキ製水筒が3点伝来している。3点とも形、成形方法が異なる。今回それも見ることができたが、実に脆(もろ)い製品である。ガラス製のように世の中に残存していないのもそのためだろう。

 結局、当時の軍用水筒は熊本城の他に田原坂に4点あり、4点とも作り方と形が異なっている。しかし、規模という点では大同小異だった。同時期に多様な水筒を作るとは考え難いので、4点のうちの少なくとも1点は初めて軍用水筒を作り始めた台湾出兵時から存在したと推定した。これらに比べた場合、ガラス製水筒は明らかに大きい。ブリキ製水筒が小さすぎる。

 詳細の公表は来年春の活字化までお預けです。

大分市の春

 今日の大野川右岸、九六位山から麓。杉の植林地帯には桜はない。田んぼの緑が美しい。

 背後の標高450m前後の山脈はプレートの付加体で1億年前とかの地層で、日本列島がまだ大陸の縁辺だった頃に海岸線に衝突して付着したもの。砂岩・緑デイ片岩などからなる。手前の標高150m前後の低山は100万年前頃の河川堆積層で、水平に砂や円礫、火山灰などが多数堆積している。

 山際の集落名は「火振」(ひふり)、古代の狼煙(のろし)は官道のそばの低い山に設けられた。四十里(約20㎞)ごとにあった。大分県内には「日岳」・「飛山(飛び火山)」・「富山」・・・がある。

 茨城県の飛山という山城跡を発掘した時に「烽家」と墨書のある土師器の皿が出土し、ああ飛山というのは「飛び火の山」だったのかと初めて分かったのである。これらの地名を手掛かりに古代の官道がどこを通っていたのか考えることができる。昼は煙を揚げ、夜は長い棒の先端にカゴを付け、何か燃えるものを入れて遠くからでも見えるように振り回した、たしか。隣の狼煙台が応答しなかったら直ちに駆け付けねばならなかった。それで狼煙台は低い山で、かつ見通しの良い立地が選ばれた。

 下の地図は大分市の別府湾沿岸地図。昔、飛山横穴墓群という古墳時代の横穴墓群が発掘調査されている。山の北側斜面下部に岩を掘り抜いた横穴群があり、県道拡幅の邪魔になるので調査したのち破壊された。当時は狼煙台があったとはだれも思わなかった。しかし、幸いにも工事範囲外だった山上に残っているはずだ。地図の神社記号のある場所。確かに海側にこの小山だけが突出しており、上に上れば遠く東西が見晴らせただろう。煙を揚げて隣の狼煙台が反応しなければ、大至急出かけてっ知らせる決まりだった。ここに登ったことはない。担当した役所の跡がどこか付近にあるのだろう。

写真の付近には古代の官道は付近に想定されていないと思うが、それよりも新しい時代のものだろうか。

 写真手前中央の小高い山に遺跡があるかも知れないが、登ったことはない。

 

 

少し下流。右岸戸次(へつぎ)の近郊農業地帯。向こうの山は桜が満開で、いかにも春らしい。