西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

「安政七申年 聞書 三 勝氏米國航海紀行」 ※少しずつ続けます。

はじめに

 上記の題名の写本を入手した。このブログで前にサンフランシスコの要塞に付いて解説資料を紹介したが、最近たまたまこの写本が売りに出されているのを発見し、購入したものである。同じ販売者には「聞書 五 彦根一件」という同様の体裁・字形のものもあることからして、題名の三は勝氏米國紀行全体を含むようである。

 ネットで調べたら和田勤2023「万延元年遣米使節随行艦咸臨丸艦長勝海舟渡米記録の諸写本について」というのがあった。それによると、海舟が記録した渡米記録は「海軍歴史」に活字化されているが、彼自身が自身の記録を抜粋したものを含めその他20数点存在するという。中には公式報告として海舟が作成したものもあり、それには元の記録にあった上司に対する悪口や自身の渡航時の健康状態、それに伴う出来事などは触れられていないということである。また、別の写本の一部系統では文章が欠落し、文意は繋がらないものもあるという。

 今回の写本は和田論文にないものらしく、ここでは、こういう写本が存在するということに重点を置いて文字のある頁を全て紹介したい。いかにも江戸時代の人が書いたような、自分にとっては難解な写本であるが、幸いなことに「海軍歴史」があるので、これを手元に置いて読んでいきたい。それでも読めない部分はあっさり▢にするので読める人はPDFで確認していただきたい。

 写本の装丁は袋綴(ふくろとじ:文字面を外側に2つ折りしたものを重ねて、折目の反対側を糸で綴じた本。 仮綴をした後で表紙をつけ、糸で綴じる)。外形寸法は縦23.7㎝・横17.0㎝である。表紙と裏表紙は一枚の大きな紙を折り曲げており、さらに上部は幅5.0㎝から5.3㎝で内側に折り曲げて補強している。同様に下側も3.4㎝位の幅で折り曲げる。表紙を裏側から見て右端から7.8㎝幅で折り曲げており、形状は台形(上辺の長さ、中心側は11.0㎝)である。裏表紙の台形部は幅5.8cm・上辺16.3㎝である。

 内部は初めの6枚は本文同様折り曲げた白紙で、文字のある紙が40枚、続いて折り曲げた白紙が4枚あり、裏表紙となる。厚さは8㎜弱。虫喰いがあるが補修はされていない。なるべく筆記のとおりに活字化を心がけるが「た」の別字は活字が無いので「た」とした。

 カッコ内には現代風に読み易くして示す。

本文

米國航海紀行 

                   勝麟太郎

安政六未年七月米利堅國より軍艦出帆春へ起の風説有

安政六未年七月メリケン国より軍艦出帆すべきの風説あり)

 これ旧年米利堅國と仮定約取替の時其本條約の如ハ彼可首府華盛頓使節有留へしと(これ旧年メリケン国と仮条約取り換えの時、本条約のごときは彼が首府ワシントンに使節あるべしと)

の約なりし尓(※被を見え消しし我を添える)我国の軍(※被を消し軍を添える)(の約なりしに我国の軍艦)

いまた航海尓なれす且其舩小▢尓して多人数乗かた起尓よりて今年彼国の軍艦ポウハタ

(いまだ航海になれず、かつその舩小▢にして多人数乗りがたきによりて今年彼の国の軍艦ポウハタ)

ン舩▢▢来り我國の使節を首府へ送り▢▢といふ叓起り若彼地尓て使節の内疾病ある可

(ン舩▢▢来り我国の使節を首府へ送り▢▢という事起こり、もし彼の地にて使節の内、疾病あるか)

又不時の故障生せし時軍艦奉行其欠(※糸偏)を補セん可為又非常の備等を以て軍艦壱

(又不時の故障生ぜし時、軍艦奉行その欠を補せんがため又非常の備えなどを以て軍艦一)

艘彼地へ航海春へきの議興りしなりしと云然れ共當時其説紛々として是非を志らさりし

(艘彼の地へ航海すべきの議おこりしなりと云う、然れども当時其の説紛々として是非を知らざりし)

尓又十一月軍艦奉行水野筑後公の時此議必定春へし何ら可のしめ(※しめは不確実)

(に又十一月軍艦奉行水野筑後公の時、此の議必定すべし何らかのしめ軍)

艦并乗組の人員食料及薪水等目算春へ起との事也依之其儀春る所數條なりし▢其一者軍

(艦ならびに乗組の人員・食料及び薪水など目算すべきとの事なり。これによりその議する所數条なりし▢その一は軍)

艦の撰定ニあり今品川尓繋く処 観光丸

(艦の選定にあり。今、品川につなぐところ 観光丸)

  此御軍艦百五十万力螺旋(※螺旋は海軍歴史による)蒸気舩大銃廿門備此舩往年阿

(この御軍艦百五十万力ラセン蒸気舩、大銃二十門備え、この舩、往年オ)

蘭国王ゟ献貢せしもの也(※海軍歴史では、せしもの)

(ランダ国王より献貢せしものなり)

朝陽丸 此御軍艦百馬力螺旋蒸気舩スクー子ル形大銃十二門備是四ヶ年前阿蘭国尓て造

  りし者也

蟠龍丸 此御舩六十万力上記舩英国(※ヱキリスの振り仮名)ゟ献セしもの

翔丸 帆前商船今大銃四挺を備ふ

右等の内蒸滊航海尓可なるもの観光丸朝陽丸の二舩なり就中航海尓便

(右らの内、蒸気航海に可なるもの観光丸・朝陽丸の二舩なり。なかんずく航海に便)

なるもの螺旋蒸気ニ有故尓西洋諸国其製造晩(※車偏)今尓出るものハ悉く螺旋蒸気舩

(なるものラセン蒸気にあり、ゆえに西洋諸国その製造晩今に出るものはことごとくラセン蒸気舩)

機を用ひ敢て車輪の新製を見す是遠海尓航春る尓者帆舩ならされ者其利少なきニよる(※るは不確実)(機を用い、あえて車輪の新製を見ず。これ宴会に航するには帆舩ならざれば其の利少なきによる)

今海外諸国の車輪舩を用ゆるものハ其製皆古くして近年の製造なら須是等を以て見る時

(今海外諸国の車輪舩を用ゆるものは其の製みな古くして、近年の製造ならず。これらを以って見るとき)

盤朝陽丸然る可(※)き可将加之諸索具充全其舩の堅装部揺動セ須旁以用ゆる尓足る可

(は朝陽丸しかるべきか、はたこれに加え諸索具充全、その舩の堅装部揺動せず、かたがたもって用ゆるに足るべ)

き也と云是を良とセられし故乗組以下薪水食料石炭より其他百端の事物を悉く筆記して

(きなりと云う。これを良とせられし故、乗組以下薪水・食料・石炭よりその他百膽の事物をことごとく筆記して)

是を呈したりし〇其乗組人員ハ指揮官壱人運用兼砲術方三人同見習一人航海兼運用方一

(これを呈したりし〇その乗組人員は指揮官一・運用兼砲術かた三人・同見習い一人・航海兼運用かた一)

人同見習三人蒸気者三人同見習壱人公用方弐人醫師壱人同手傳壱人水夫小頭三人同格二

(人・同見習三人・蒸気もの三人・同見習一人・公用がた二人・医師一人・同手伝一人・水夫小頭三人・同格二)

人砲手小頭一人水夫四拾四人内砲手兼八人帆縫弐人火焚小頭三人火焚▢三人大工壱人鍛

(人・砲手小頭一人・水夫四拾四人、内砲手兼八人・帆縫い二人・火焚き小頭三人・火炊▢三人・大工一人・鍛冶一人。このほか奉行従者五人・通弁官一人)

冶壱人此外奉行従者五人通弁官壱人

(※海軍歴史では次に米国航海予算23行 3 食料その他用意品の準備56行がある)

〇或ハ聞く別舩航海の事先年永井玄蕃岩瀬肥後の両公是を建議セられしニ當時其事いまた不定なりしを水野公是を主張し苦心セられし由爰に至て(※海軍歴史では「勘定奉行竹内下野守もまた与かりて力あり。」が入る)廟堂の英断とみ尓定り専ら出帆の用意ニ及し也

※以下は2024.4.26追加

一十一月十八日軍艦奉行井上信州木村▢州両▢いふ朝陽丸盤舩形小尓して荷物乗組十分なら須観光丸ハ稍〃大形也是を以て今度の航海尓充つべきの事也

(※「海軍歴史」ではこの次に24日の記事が15行ある。)

一同月廿五日乗組諸士等舩中の規則階級を論して不止我一書を以て是を同志ニ示須其書の略〃云

  軍艦規則厳正百叓人▢備セさ連ハ其用ニ應セさるハ云〃」▢▢軍艦を設け諸士を抜粋して其運用用法を学しむる事纔尓五年と▢▢」廃セる▢のハ諸士の研究抜粋ナル故其大体を会得春るの速なる尓因るとの▢物尓他尓故なきの知るへ可ら須時勢の志からしむる所人力の及さる所ニ出▢云」又▢▢小▢を以て強論し時日を失▢事なか連云〃」

一同廿六日此日諸士又無異儀萬叓を勉強す就中水夫の如起ハ敢て寸暇なく索具諸帆の修理皆其手尓成る捷敏賞するニ堪たり

一同晦日乗組諸士ニ示須舟中申合(虫喰)

舩中規則ハ舩将より令する也我輩教頭の名有りて舩将尓阿ら須然連共運轉針路其他航海の諸術盤又指揮なさざること能す故尓今仮尓則を定め諸士へ示須

一舩内の水の用法を减するを以て第一と須今上下を等く一日壱人弐升五合と者かり餘量ハ决して用ゆる事をゆるさ須病用盤制外なるへし米壱人尓五合飯となす尓海水を以て洗ひ清水を以て流須事一度此用水壱升焚尓五合を用ゆ是壱升五合三度の食用五合を雜用五合を充つ

一梳剃の為尓多水を用ゆる事なか連髪月代ハ四五日ニ一度水壱合ゟ多起を禁須(すきそりの為に多水をもちゆる事なかれ さかやきは四五日に一度 水一合より多きを禁ず)

一平日衣服ハ適宜の温度なる所尓て一衣三日を経他衣尓換ふを定と春へし(※「海軍歴史」では続いて「厳暑の地にては一日二衣を換ゆべし。」が入る)雨雪霜露其他▢濡れる衣盤必らす速尓着替春へし汗出たる時又同断垢付汚穢の衣ハ着る事なか連悪臭ある服ハ尤禁須虱を生セしむる者ハ過銭を出す遍し

 但し換へ用ゆる衣は木綿或ハ布の下着のみ

一當番の者ハ必括袴或ハ小袴を用ひ非常の者ハ部屋内尓のミ白衣甲板上ハ袴を用ゆ白衣細帯尾籠の體尓須舩内歩行を厳禁す総て士官ハ衣服整頓形容端正なる遍し

福聚寺の絵 2024.4.23

 少しだけ手を入れました。畑の地面色をなるべく統一。後で草や野菜を書き加えたら地面も見えにくくなるけど。

 下は昨日の段階。

 そして次が今日の状態です。凝灰岩の崖の縁にある植物に影を加えました。題字の修正もまだ未完成。久し振りに大分県埋蔵文化財センターに鉄道展示と新規報告書を見に行った。綿貫俊一さんと話し、次に遇った横沢慈さんがいつも絵を見てくれているとのことだった。新人の古屋さんとあいさつ。(なんか日記みたいになりました。)

福聚寺の絵2024.4.22

先日の段階がこれ

そして今日朝。題字の「之」(古筆風にしてみた。他の字もそのうち)・遠景左の白山の稜線(船底のような稜線は南が高いが、いつも大分市から見てるので逆になっていた)・水田など。

 題字に手を入れたがまだ修正していない字もある。銃弾が飛んでるのを赤色にしてみた。

明治11年の軍用水筒 Military canteen from 1878

明治11年の軍用水筒 に関する記録を掲げる。

C04028260200「明治十一年自三月十九日至五月十日 大日記 自第二百七十二号至第五百三十六号 乾各鎭臺 第五局第八課」防衛研究所蔵0094~0097

 第二百八十八号

 安乙第二百四拾二号ヲ以武力面桶及水飲蓋之義ニ付御照會之趣致承知候右者御臺於而

 修理応用相成度候修理費及ヒ但書ハ御異見之通ニ而可▢候此段及御回答候也

(※分かり易く言い換えてみる。「安乙第242号でブリキ製弁当箱と水筒の蓋について問い合わせがあったことは了解しました。これはそちらの鎮台で修理してください。修理費と但し書きはあなたの御異見の通りです。この件について御回答いたします。」)

 

  明治十一年三月廿日

         第五局長代理

          二等副監督小池正文

   東京鎮臺司令庁長官

    陸軍少将野津鎮雄殿

 武力面桶及水飲器之両品客歳戦役出發之際受領致各隊ヘ相渡候分別紙表面之通

 此頃各隊ゟ返収候處戦地ニ於テ破損紛失等為致候趣ニテ即今回着現数如此ニ有

 之然ルニ該器ニアツテハ今後行軍或ハ野営演習等ニ使用候器ニ付修理應用見込

 之分當台ニ於而修繕相要候哉又ハ更ニ御交換可相成候哉若シ当臺ニ而直ニ修理

 相加候儀ニ候ハ﹅被報表外金之内ヲ以支償致度候間依而何分之御報答有之此段

 表面相副及御照会候也

(ブリキ製弁当箱と水筒の両品は去年西南戦争に出発する際、受領し各隊に渡しましたが別添の表のとおりです。この頃各隊から返納されましたが、戦地で破損したり紛失などしたことについては、その数値はこのようなものです。しかし、これらの品は今後行軍や野営演習などで使う器であり、修理して使用する見込みの品は自分たちの鎮台で修繕する必要があるのか、または交換してくれるのですか?もし、自分の鎮台で直ちに修理するのであれば表に示した代金で行いたいので、表を添えて何らかのお答えを待つのでお答えください。)

 但別表廃毀見込之分ハ派出営▢之検査ヲ経賣却之處分ニ致可然哉此段モ為念申副候也

(ただし表で廃棄の見込みとしたものについて、検査を経た後で売却処分すべきなのか、これについても念のために言い添えておきます。)

十一年三月十五日 東京鎮台司令長官

          陸軍少将野津鎭雄

   第五局御中

 行軍及野営演習用面桶水飲器存破取調表

 品 目   適應     修理應用    廃毀   計

 武力面桶  千九百零六個 三千百弍拾四個 百弍拾個

(ブリキ製弁当箱 使用可能1906個 修理すれば使えるもの3124個)

 仝水飲器  三百五拾九個 弐千百三拾個

(ブリキ製水筒 使用可能359個 修理すれば使えるもの2130個)

 硝子水飲器 百二拾弐個  四拾八個    四拾弐個

(ガラス製水筒 使用可能122個 修理すれば使えるもの48個 廃棄42個)

 備 考    表中面桶水飲器ノ両品同数ナラサルハ各隊戦地ニ於テ破壊或ハ

             紛失スル故ニ其差異ナルモノニシテ即今各隊ヨリ返収分ヲ揚ク

        ルノミナリ

 陸軍第五局からの問い合わせに対する東京鎮台からの回答と質問である。出征に際して受領したブリキ製の面桶(弁当箱と解釈した)とブリキ製水筒・ガラス製水筒について、東京鎮台所属の各隊から鎮台本部が回収した戦後段階の数量が記されている。ただし本来の受領数は分からない。

 数値を足すとブリキ製面桶は5,150個、ブリキ製水筒は2,489個、ガラス製水筒は212個である。適応や修理応用という言葉の意味は明確でないが、適応は使用可能、修理応用は修理すれば使用できると解釈可能だろう。備考欄では面桶と水筒の数量は本来一致すべきだが、戦地で破壊・紛失したため一致しないという。ブリキ製面桶は5,150個だが他に戦地で破壊・紛失したものも不明数あった。個人装備品だから本来水筒も同数だったことになるが、東京に戻ってきたときには面桶のほぼ半分の2,485 個に減少している。残存した水筒の比率はブリキ製(92,2%)とガラス製(7,8%)で、破損の比率が同率と仮定すれば受給時もほぼ同様に圧倒的多数はブリキ製だっただろう。

 

 西南戦争中の東京鎮台の人数に付いて「征西戰記稿」附録では、士官147人・下士624人・卒4,701人の計5,472人となっている。他に東京鎮台予備砲兵第一大隊148人・同騎兵第一大隊24人・同工兵第一大隊134人・同輜重兵第一小隊62人がある。これらすべてを足すと5,840人である。東京鎮台の一部は明治7年の台湾出兵にも動員されており、当時製作が始められていたブリキ製水筒の他、すでに輸入されていたプロシアから輸入したガラス水筒も持参したのではないかと思う。出兵後、今回と同様に鎮台が回収し、西南戦争に際して再支給したのだろう。もしかすると台湾出兵した鎮台はこの程度でも比較的にガラス製水筒携帯率が高いのかもしれない。

 

高熊山の岩 ※「年刊 田原坂」追加

 Xを見ていたら鹿児島県伊佐市高熊山頂上にある岩の写真を載せて、弾痕がついているとあった。これは従来言われているとおりです。しかし、この山の斜面にもいくつも同様の岩があり、なぜこの頂上の岩だけを強調するのか疑問です。

 皆さんもここを訪問する機会があったら、前後左右や上から観察してみてください。また、周辺の岩も。

 

  今日(2024.4.19)、熊本の岡本真也さんから次の冊子が送られてきた。

 田原坂西南戦争資料館の展示案内「年刊 田原坂」2024年3月第1版に担当者が調査・実見したものを集成した西南戦争の弾痕」調査報告が載っている。熊本県内48ヶ所・大分県内1ヶ所・宮崎県内2ヶ所・鹿児島県内2ヶ所である。この冊子の中に「コラム「高熊山の弾痕」は弾痕か?」というのがあり、該当部分を貼り付けておきます。

 下をクリックすると回してみることができます。

scaniverse.com