西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 2月・3月 

はじめに

 西南戦争時に編成された第三旅団の一部隊、第九聯隊第三大隊第四中隊の行動を跡付けてみたい。可愛岳の周辺で戦跡踏査を何度か行ったことがあるが、この部隊はその戦場に登場しており、そこに至るまでとその後の部隊の足跡を見ておきたくなった。

 西南戦争時陸軍には、全国に仙台・東京・名古屋・大阪・広島・熊本に鎮台が、東京には近衛兵も置かれていた。戦場には鎮台毎に出動したのではなく、臨時的に各地の部隊の一部を抜き出して組み合わせて旅団という名称で送り出した(佐倉桜香2020)。また、別に警視隊を四期に分けて募集して送り出している。初めは第一旅団・第二旅団、遅れて第三旅団が加わり包囲された熊本鎮台を解放するために熊本県北部に進んだが(これらを正面軍と呼んだ)、一ヶ月近く経っても熊本城解放の目途が立たなかった。それで熊本城の南方の八代沿岸に新たに編成した別働旅団を投入した(衝背軍と呼んだ)。当初は別働旅団(第一から第五)の名称が短期間に変更され、分かりにくい状態が生じたが、それも間もなく解消された。また、3月14日に第四旅団が、7月中旬に新撰旅団が編成された。

 熊本鎮台の戦記は「熊本鎭臺戰鬪日記」がある。第一旅団・第二旅団については正規のものではないが「從征日記」でもって代えることができる。警視隊には「西南戰鬪日注並附録」があり、第四旅団には「明治十年征討第四旅團戰記」がある。別働第二旅団に関しては「別働第二旅團戰記」が存在するが、第三旅団については該当するものがない。 

 なぜ第三旅団に戦記がないのかについて「西南戰袍誌」著者の亀岡泰辰は述べている。「第三旅團に戰記なるものなし實は本營の某氏戰史の記載を擔任せしも唯漢學者にして章句は巧みなれど常に疎懶にして記事を怠り僅かに最終に至り各隊の簡単なる報告を収集して戰記と稱するも殆んど體裁を爲さず」という状態だったのである。

 したがって戦記がないので主に「征西戰記稿」やアジ歷経由で閲覧できる防衛研究所の史料から第三旅団の動向を述べていきたい。興味のあるところを記述するので、兵站や構成員その他についてはほとんど触れないと思う。

 ※佐倉桜香2020「新訂征西戦記考別冊 西南戦役における募兵-壮兵召募と巡査召募-」

 

第三旅団の戦歴概要

 ここで扱う第三旅団は当初の2月から4月前半は山鹿方面を担当した。司令長官は3月10日に任命された三浦梧楼少将で、同日部隊は熊本県玉名郡和水(なごみ)町岩(戦記では岩村として出てくる)に進出し、牙営(旅団本営)を光行寺に置いた。南西側で横平山や吉次峠田原坂で戦闘が続いているときに第三旅団は山鹿方面に進んで戦ったのである。

 4月14日の熊本城解放後は東方の阿蘇方向に進んで、大津から熊本市北東方面を短期間担当した。4月下旬に薩軍阿蘇外輪山南西の矢部・浜町、さらに人吉方向に移動するとその方面からの来襲を警戒し、大津から阿蘇カルデラ内付近に布陣した。その後は熊本県南部の海岸部にある佐敷町に移動し札松峠や大関山などで戦った後、水俣市から鹿児島県北西部の伊佐市(大口)に入り、高熊山の戦闘に参加している。さらに県北部を横断して宮崎県都城から日向灘沿岸を北上し、延岡で折り返して鹿児島市に着いて9月24日の終戦を迎えている。

 第三旅団の牙営の移動状況を現在の郡市町村名と共に記すと以下のようである。旅団の司令長官三浦梧楼少将の本営の移動状況が分かる。玉名郡和水町岩(3月10日・3月11日時点の兵数は小使・従僕・馬丁を除いて3,908人である。山鹿市の中心部から北西約4km)・山鹿町(3月31日)・菊池市七城町橋田村(4月4日※小使・従僕・馬丁・傭夫を除いて3,864人。山鹿市中心部から南東約8km)・素崎村(4月5日。橋田の南南東約1.5kmの七城町に蘇崎がある)・岡村(4月6日。蘇崎の南約3.2km、ここでいう北田島の北西側に岡がある)・菊池市泗水町南田島村(4月8日)・石坂村(4月15日。南田島の東約8.5kmに伊坂がある)・菊池市旭志伊萩村(4月19日)・大津市?下中久保田村(4月20日)・阿蘇郡高森(5月3日)・蘇陽町馬見原(5月5日)・大津町(5月7日)・八代(5月9日※5月10日時点の第三旅団の人数は小使・職工・従僕・馬丁・夫卒を除いて3.460人である。この日、水俣方面の戦状が不利との報告により10個中隊を海路派遣することになった。)葦北郡佐敷(5月12日)・水俣市久木野村(6月10日)・伊佐市大口(6月22日)・霧島市横川村(7月2日)・霧島市国分(7月11日)・霧島市田ノ口村(7月23日)・都城市庄内(7月24日)・高城(7月28日)・宮崎市倉岡(7月30日)・佐土原(8月2日)・高鍋(8月3日)・高松村(8月4日)・都濃町(8月5日)・美々津町(8月9日)・新町(8月11日)・富高新町(8月12日)・日向市日知屋(8月13日)・延岡(8月15日)・美々津(8月29日)・高鍋(8月30日)・本城(8月31日)・鹿児島田ノ浦(9月5日)・下荒田村騎射場(9月6日※戦争終結まで)。

 

第四中隊の出征

 第九聯隊第三大隊第四中隊は大阪鎮台大津営所所在の部隊である。「征西戰記稿」(以下では戰記稿と略す)の旅団編制表では第四中隊の人数は分からないが、第三中隊と第四中隊の兵数は合わせて264人となっており、半分とすると132人である。  

 大阪鎮台には第八・九・十聯隊があり、このうち3月10日までに第一旅団・第二旅団に分散して戦地に出張していたのを第九聯隊に限定して掲げる。第九聯隊第一大隊の全四中隊、第二大隊第二中隊・第四中隊、第三大隊第三中隊である(「戰記稿」)。第三大隊については次の史料がある。

  第六十六号

  大坂鎮臺

  其臺歩兵第九聨隊第三大隊及ヒ第十聨隊之中一大隊ヲ大坂ニ繰上可申此

  旨相達候事

    但京都御警衛之義ハ大津在屯兵之中ゟ二中隊可差出事     

   明治十年二月二十六日

      陸軍中将鳥尾小彌太  

  (C09081692500「明治十年自二月至五月 發翰日記 神戸陸軍参謀部」)

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 第九聯隊第三大隊のうち第三中隊だけは2月27日にすでに戦地出張中である。上記は残りの三個中隊の内の二個中隊に対する命令だろう。ここで扱う第四中隊を含んでいるのかは分からない。第九聯隊は3月8日になって別働第二旅団に編入されている。

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  第二百五十二号

  歩兵第九聨隊

  第三大隊

  別働隊第二旅團江編入申付候事

    明治十年三月八日

    征討総督本営

     (「明治十年自二月至五月 發翰日記 神戸陸軍参謀部」防衛研究所蔵)0189・0190

 

  第二百八十四号 

  一昨夜当地出帆ノ隊ハ第九聯隊第三大隊ニテ太平丸ニ乗組出帆セリ三月十

  日午後四時三十分着ス(C09081708500「明治十年自二月至五月 發翰日記 神戸陸軍参謀部」防衛研究所蔵)0215・0216

 一昨夜出帆というから3月8日夜出港か。別働第二旅団に編入が決まり、即日出発したのである。2月27日には第三大隊第三中隊は戦闘中だから残りの第一・二・四中隊のどれか。先日投稿した第七聯隊の事例から考えて、神戸から博多まで直行したとすれば35時間くらいである。早ければ10日中には福岡の博多港に着いたはずである。実際その通りに博多に着いたが、上陸できないような海面の状態だったと次の記録が示す。 

  第二百七十四号

  第九聯隊第三大隊昨夕到着舩之處風波ニ付未タ上陸セス上陸次第南ノ關

  へ繰込筈ナ

   三月十一日午前十時十分福岡発

         〃十時三十七分着

            小 澤 大 佐

   鳥尾中将殿 (C09081806000「明治十年自二月至五月 發翰日記 神戸陸軍参謀部」防衛研究所蔵0200)

 第九聯隊第三大隊は3月10日夕方博多に着いたが、風波のため直ぐには上陸できなかったが、11日中には上陸しただろう。

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     大阪鎭臺第九聯隊第三大隊第三第四中隊

  出征第三旅團編入更ニ申付候事

   明治十年三月十四日 征討総督本營(C09084850200「第一号自三月十日至四月卅日 來翰綴 第三旅団参謀部」防衛研究所蔵)

 3月14日の「戰記稿」には「十四日第三旅團ニ編入セラレシ兵左ノ如シ」として第九聯隊第三大隊第四中隊中尉安滿伸愛(やすみつ のぶえ)の他二つの隊があり、その中の一中隊は山鹿市岩村の部署が割り当てられているが安満の隊はまだ割り当てられていない。この日現在の第三旅団の隊数は、歩兵22個中隊・砲兵1小隊と2分隊・工兵3分隊である。

 安満中隊が派遣された山鹿方面は、3月10日以前には熊本鎮台第十四聯隊や第一・第二旅団の一部が派遣されるに留まり、この方面の司令長官は任命されていなかった。10日、第三旅団司令長官三浦梧楼少将が三個大隊を率いて福岡県南端を通り熊本県北部の玉名郡南関から山鹿の北西側に位置する玉名郡和水町(なごみまち)平山の岩(岩村として登場)に牙営を置き、3月12日には南東3km弱の鍋谷・城村に進撃している。山鹿市街地の西側手前である。

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 田原坂が陥落した3月20日には薩軍山鹿市街を去り、21日には市街地西側の志々岐を取り、牙営を山鹿市街に移した。22日植木口の官軍と連絡を通じたが、まだ東方の隈府(菊池市中心部)、南東側の田島・鳥巣は薩軍の占領地域だった。

 3月25日、この日山縣参軍からに西隣の植木口にいる野津鎭雄第一旅団長・大山巌第二旅団長(三好重臣旅団長負傷のため臨時兼務)の手紙が第三旅団三浦少将に届いた。それは、植木の東方に当たる鳥栖(現在の地図では鳥巣)村には薩軍が増加していると聞くが、第三旅団から二中隊を出して警備を付けた方がいいのではないか、という注文だった。三浦少将は26日に不愉快そうな返事を出して言うには、廣町味取町ノ中間連絡ノ爲メ更ニ二中隊出兵ノ儀縷ゝ御申聞ノ趣承知仕候然ル處當所ノ儀ハ一昨夜來申出候通防禦線六七里ニ亘リ當時ノ兵ヲ以テ配當候ノキハ既ニ三ヶ所ノ要路ニ可差出兵無之因テ南關ノ兵ヲ引揚候様達置候位ノ儀ニ有之迚モ出兵難爲致候若シ(第三旅団防禦線は六七里の長さがあり寡兵のために鳥栖には出せないので、後方の抑えとして置いていた南関の兵を引揚げるよう命令しました。)又山鹿新町ノ防禦ヲ手薄ニ致シ出兵爲致可然儀ニ候ハヽ新町ヲ棄テ唯孤立ノ山鹿ヲ守リ可然儀ニ候哉若シ果シテ然ラハ當所ハ迚モ守備可致見込無之竟ニ全軍ノ勝敗ニモ關係可致ト存候間此邊篤ト御熟考御指揮被下度元來圖面ト實地トハ自カラ景况ヲ異ニシ現地上防禦困難ノ事モ有之候間願クハ實地御巡回ノ上御指揮ヲ仰キ候(山鹿新町の防禦を手薄にしてよいなら山鹿だけを守れということですか、それなら山鹿も守備を全うできる見込みがないし、そうなったら全軍の勝敗にも影響しますよ。じっくり考えて下さい。図上と現実とは異なるので現地を見てください。)書き進めるうちに次第に調子が乗ってくる三浦の怒りが伝わる返事である。

 28日の「戰記稿」には「是日大坂鎭臺歩兵第九聯隊第三大隊第三中隊(大尉本城幾馬)ハ高瀬ヨリ同第四中隊(安満中尉)ハ南關ヨリ山鹿町ヘ至レリ」とあり、安満の隊は直前には山鹿口の後方の抑えとしてか熊本県北端の玉名郡南関町にいたのである(「戰記稿」)3月28日付の安満による届出がある。

C09084856200、来翰綴 第1号1149~

  来第百四十五号

  當中隊壱分隊坂下分遣中往来人夫別紙之品〃所持通行候ニ付取調候處途

  中ニ於テ拾揚候段届出候間現品相添此段御届申候也

 

   明治十年三月廿九日

      歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長心得

          陸軍中尉安満伸愛㊞

 

    第三旅團

      参謀部

        御中

 

          記

  一毛布          拾枚

  一込矢          弐拾本

  一外套          弐枚

  一畧袴          壱枚

  一陣中嚢         三個

  一胴乱          壱個

  一畧帽          壱個

     計七品

      外ニ

  一日本刀         壱本

   右ハ福岡縣第八大区六小区春吉村平民早田☐太郎ト申人夫去ル廿五日

   坂下通行之際携帯致居候ニ付取調候處人夫小頭山部業太郎ノ所有品ニ

   而有候段申立候得共其証無之ニ付右山部業太郎通行迠預リ之☐處昨

   廿八日坂下分遣隊引揚相成候ニ付而ハ同所警察所等も無之ニ付無☐當

   所ヘ持越候事

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 文中に坂下分遣中とある坂下は南に行けば玉名市街地(高瀬)、南東に行けば山鹿に通じる南関町南部の主要路線上にあり、哨兵として第四中隊が配置についていたということだろう。25日に不審者を発見確保しているので、それ以前から配置についていたとみられる。

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   3月30日の「戰記稿」に第四中隊の記録がある

  是日鳥栖口最モ劇戦シテ賊ノ堡壘數十ヲ略取ス安滿中尉ノ一中隊ハ太タ苦

  戰賊ノ壘下ニ在テ進ム能ハス退ント欲スレハ賊ノ狙擊ヲ奈トモスルナク相

  對スル十米突ノ距離ニシテ朝ヨリ暮ニ至ルマテ田畔ニ在リテ戰ヘリ〇是日

  大雨終日泥濘脚ヲ沒シ進退意ノ如クナラス諸兵ノ困難前後其比ヲ見ス然レ

  共遂ニ鳥栖村ニ入ルヲ得ス午後八時兵ヲ味取町ニ収メ山鹿ノ兵ハ山鹿町ニ

  歸ル

 

 

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 地図の下部にある二子山石器製作遺跡は縄文時代の打製石鍬の石材産地であり、古墳時代の円墳もある。墳上に台場跡が北・東を向いて造られている。周辺には数十基あったはずだが今は不明。

 分捕り品は小銃48・弾薬1,030発・刀剣28本だった(同)。第四中隊の戦死20人・戦傷49人(同)かと思ったが、間違い。この方面の第三旅団の死傷者だった。当日、鳥巣(とんのす)で負傷した第4中隊兵士の記録があるので掲げる(C09082110200「戰鬪履歴 軍團事務所」0482)

         診断書

         大坂鎭臺歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊

               一等歩卒 堀内松之助

  右者本年三月三十日肥後國鳥巣ニ於テ負傷左下脚外踝ヨリ一寸許下部ニ

  於テ銃丸射入内部ヲ通過シ足踵ニ貫通現今全治足踵ヲシテ十全地ニ附ス

  ル能ハス依之追テ傷項策定候迠帰郷療養為致可然者ト及診断候也

    明治十年十一月廿七日

            大坂鎭臺病院長

              陸軍一等軍醫正堀内利國

              主任醫官

              陸軍々醫  用吉左久馬 

 負傷者の中には治療し完治しても隊に復帰できそうもない者もいたのである。