西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

「小隊教練書」と今井信郎

何年か前、幕末の兵学書「小隊教練書」(元治元年八月:1864年9月)を買い求めたところ、それは表紙に今井信郎と大きく毛筆で記した文字が消えかかっている本でした。以下、今井についてウィキペデイアから引用します。

「今井は江戸に育ち、安政5年(1858年)、18歳で直心影流剣術の榊原健吉道場に入門、免許取得後講武所師範代の任に就いた。慶応3年(1867年)5月、京都見廻組への入隊を拝命、衝鋒隊副隊長として佐幕活動を行い、同年11月15日に発生した近江屋事件に関わった。明治3年(1870年)2月、嫌疑をかけられ身柄を刑部省の伝馬町牢舎へ移され取り調べを受けた。今井は、龍馬暗殺の詳細を証言、自分は見張り役として参加し手は出していないことを語った。同年9月、禁固刑の判決を受け、静岡で謹慎後、明治5年(1872年)1月に赦免された[1]。」さらに詳しい記述もありました。「元治元年(1864年)、24歳のとき、武田耕雲斎が兵を挙げた。今井は、水戸藩士と交友があった関係から嫌疑を受け、講武所を去って神奈川奉行所取締役窪田鎮章の配下に転じ、扱心流体術の指南を受け、横浜の関税係を勤役の傍ら、剣道師範に携わった。同地には先輩古屋佐久左衛門がおり、歩兵頭として英国の赤隊に模した操練をさかんにやっていた。今井は、ここで古屋と莫逆の交わりを結んだ。」

との説明です。この「小隊教練書」は1864年9月刊行であり、今井が24歳のころです。当時、彼は古屋佐久左衛門と交流があったとのことであり、古屋の影響で購入したのでしょうか。単純に考えると今井信郎と西洋兵学は結びつきにくいようですが、そうではなかったということです。同名の本が長門練兵場藏板として出ていますが、今井の本はこれとは別です。※投稿初心者のため見苦しい体裁になっている点はご容赦下さい。

f:id:goldenempire:20210302210607j:plain

f:id:goldenempire:20210302210434j:plain

f:id:goldenempire:20210304021702j:plain