西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

今日、借りてきた本

図書館に時々行くので今日借りてきた本を備忘録のように記す。

町田市立国際版画美術館「謎解き浮世絵叢書 小林清親 東京名所図」

どこを描いたのか昔の地図と現在の地図とを示しているので面白そうだが、まだ読んでいない。

〇実方葉子「木島櫻谷 画三昧への道」東京美術

この画家は知らなかったが、日本画の描き方が気に入った。

〇丸山俊明「京都の歴史と消防」京都・大龍堂書店

なんとなく面白そう。

〇地方史研究協議会「日本の歴史を突き詰めるーおおさかの歴史」

パラパラっと見たら馬部隆弘さんの「淀川沿いに造られた軍事施設をめぐる謎ー文献史学的遺構論からみた楠葉台場」があったので、まずこれを読む。楠葉台場が計画され鳥羽伏見の戦いで使われた状況までの概要が記されている。詳しくは各論文を見る必要があるとのこと。

 

借りてきたといってもすべて読むわけではなく、斜めに読むことも多い。

豊後大野市緒方町小富士山踏査

 2023.2.23、竹田と緒方町を歩いた。

 先ず、竹田市西光寺背後の尾根を歩いてみた。「戦地取調書」に台場があったと描かれているので確認したかった。

 図の三角がそれで、満徳寺の東の山に二ヶ所、西光寺の北東側に一ヶ所ある。

 西光寺の本堂前には寺の前の河原で薩軍に殺された藤丸警部の銅像がある。広場の北側は斜面で墓地になっている。何年か前、ここで墓石を見て歩いたことがあった。今日はその中央にある階段を抜けて頂上を右手に進み、山に入る。手入れされていない尾根の上に江戸時代からの墓石が延々と続き、竹田市の他の尾根でも同様だったなと記憶がよみがえった。

   やや広い場所にピラミットのような形の上に十字架がある墓石があり、その東側に細尾根が突き出しており、その支尾根先端に土塁のようなものが東向きにあった。上図の青色破線〇(大体この辺り)。右側面から土塁の向こう末端までは垂直に20mくらい落ちる凝灰岩の崖面となっていた。前方を遮る地形がないので下を通る者を射撃しやすい場所である。下を覗き込むのが怖い。崖面には木がなく、脆いかもしれないただの凝灰岩が切り立つだけ。これを読んで現地に行って、土塁から向こう側を見下ろさないでほしい。念のために記すと、落ちたって自己責任だから。下の写真は土塁?のこちら向きの面に画板を立てて撮った。

 尾根を北上して満徳寺のそばまで見た。寺の北東にある尾根は一旦下がって再び登らなければならないので小山のようになっている。時間がなかったのでそこには行かなかった。歩いた範囲には他に台場跡らしきものはなかった。図の緑線が歩いた経路である。この他、最初に尾根に取りついた場所よりもさらに南側にも台場が描かれているが、今回はそちらには行かなかった。

 その後、10時に待ち合わせていた由布晃さん(竹田市片ケ瀬)宅に行き、小富士山とその南西側にある岡藩主中川家墓所に案内して頂いた。由布さんからは以前、片ケ瀬に西南戦争直後の墓石があると教えていただき見に行ったことがある。それは戦争で墓石が荒らされたので再建したというようなことが彫り込まれていた。今回の山は自分は初めてだった。途中、南側の景色が美景だった。青空を背景にしたらもっときれいだっただろう。帰りに見た時も同様だった。

 遠景左の傾いたのが傾山1605m、右の高いのが障子岩1409mだと思う。撮った所から傾山まで14.5km。

 小富士山の南西の小高い場所に下の写真の中川家墓所がある。石段・石垣は凝灰岩だが、灯篭や墓石は兵庫の御影石を使っている。

 人物は由布さん。かまぼこ状の石は儒教思想による形とのことだった。今朝見た西光寺背後や、以前歩いた拝田原でも見たことがある。

 そのあと、小富士山に南西側から歩いて登った。頂上尾根に二ヶ所、凝灰岩製の祠があった。屋根の一辺が110cmくらいあり屋根正面に西側のは中川家の花びらのような丸十字家紋、東側のは二つの矢羽根紋を彫り込んでいた。面白かったのは小富士山の頂上や途中の斜面などあちらこちらに大きな礫岩があったことで、石英や緑色その他の円礫が含まれていることだ。由布さんの注意喚起で気づいたことである。阿蘇東側の大野川流域は9万年前に阿蘇溶結凝灰岩が台地を形成したが、その台地面から突き出た高い山は阿蘇山噴火よりもはるかに古い時代のものである。日本列島の原型が大陸から切り離される前にプレートの衝突で沿岸の砂礫が次第にたかまり、この高さに残っているのだろうと勝手に推測した。数千万年かそれよりも古い時代のことである。

 帰り道、遠景写真を撮った所で昼食、由布さんがガスで湯を沸かして入れた熱いお茶とコーヒーが美味しかった。

 由布さんの家に戻り、車二台に分かれて荻町の高花公園に行き、先日写真だけ撮ってブログに載せてた一基の台場を図化した。下の写真のように台場跡に線を加えないと何だかわからないと思うが今回はそのままを掲げる。このように上方から撮影できて、樹木が少ないという好条件の台場跡は少ない。プラ磁石が湿気て不調だったので今日作成した略図を修正する必要がある。写真の右側は一段高いが、そこに台場跡らしい窪みがあるのを前回確認したがこれは後日図化したい。今日は曇りだった。

 小高野関係の史料

 今回、岡藩中川家墓所と小富士山を歩いたのは西南戦争時に台場か何かを築いたのではないかと考え、それを探したかったからである。

 アジ歴でみるC09083757000「探偵電信報告 出征第一旅團」(防衛省防衛研究所蔵)0539~0541は竹田のから退却した後、臼杵に進撃しそこで降伏した薩軍兵士の自供である。小高野に出張したとある。薩軍の一部が宿泊したのか周辺に守備を置いたのかは不明だが探してみる価値はありそうだった。

         生捕人

       鹿児島縣下日向国諸縣郡馬原村

                  士族

                  什長 

                  当分押伍改称田口敬之助

旧正月十四日頃同村知人ヨリ私学校ヘ入校ノ義示談之趣承リ種種相断タレノモ終

 ニ戸長等ノ先導ニ而麑児島表ヘ發呈セシナリ

一二番大隊六番小隊ヘ編入大隊長貴島清小隊長永井半之亟

旧正月廿三四日比麑島出立八代通ヲ来リ肥後ノ国ニ来リシカ炮声頻リナレノモ自

    隊ニハ城ニ向ハスシテ山鹿口ニ出滞陣シ同所ニテ戦ハス隈府ニ至十五六日是レ

 ヲ守リ同所ニテ始メテ戦タリ然ル処竹羽(※竹迫)ニ引キ揚亦同所ヨリ大津ヘ同

 断同所ヨリ二重峠ヘ引キ亦同所ヨリ矢部濱町ヘ引キ夫ヨリ馬見原ヘ退キ亦同所

 ヨリ椎葉山ヲ越ヘ山家々々ニ立寄リ是ヨリ直ニ延岡新町ヘ引揚ケ細島近傍ニ一

 泊番兵等ヲナシ同所ヨリ竹田小高ニ出張竹田表敗走ノ節ハ三日間ヲシテ臼杵

 ニ着セリ

一馬見原ヨリ退去ノノキハ銘々米五合位宛携帯途中ニテ焚キ或ハヒエ抔ヲ喰ヒ行ク

 者モ有之實ニ難渋セリト

一弾薬ハ敷根方ニテ出来スルヤ少々宛運送スヘシ

一当時小隊長竹ノ内六之助麑島草ケ田(※草ム田)ノモノナリ半隊長東郷辰ニ分隊

 長ハ菊地某ナリ

一隊中ニテ銃器乏シ破損ノ器械ハ都度〃〃ニヨリ修スヘシ

一西郷及桐野両人ノ居所ハ隊長以下是レヲ知ラスト

一隊中人氣紛々迚モ一定スル能ワス就中日比ニ至リ脱隊スルモノ多シ畢竟降伏セ

 ンヿ希望スト雖モ長官無理ニ進メシム故ニ無據出勤セリト

臼杵ヘ出張ノ隊ハ凡テ七中隊此人員凡ソ八百人位アラント唱ヘリ

   六月十二日

 

本人熊本鎭臺本営ニ於テ取調候處右通申出候ニ付大畧記載差出候也

   十年六月十二日               吉田大尉

 

 

    野津少將殿

 

     外ニ三葉差添差出候事 

 田口は什長という階級で、押伍を改称したものという。10人位の兵士の隊長である。これを読むと田口は竹田で戦闘に参加したとかの記述は見られない。小高野を通り過ぎたのではなく、周辺に滞在して守備についていたのではないだろうか。小高野にずっと滞陣していた可能性がある。

 また、ブログ「西南戦争之記録」で公表した玉来村・吉田村入田村などの報告に次のように小高野が登場する。

同十六日ヨリ同廿二日迠薩軍隊長不詳凢三百余人ヲ卒テ入田村ノ内字小髙野ヘ滞在

 小高野は初めに薩軍が侵入してきた宇目の方向に位置し、当初から現に300人ほどが滞在していたのである。知られていなかった情報である。

 ブログ「陣中日誌稿(明治十年 戰争日記)」5月でも小高野が登場する。

五月廿九日晴天午前四時頃ヨリ第一中隊ハ前面坊主山ニ第二中隊ノ右小隊ハ鬼ケ城ニ左小隊ハ玉来口本道ヨリ第三中隊ハ竹田市中ヲ経テ岡城ニ第四中隊ハ古城ニ攻撃奮進以テ悉ク賊塁ヲ拔ク此賊皆「ウタエタ指シテ逃去スト云フ此日我死傷詳カナラス賊ヲ斃スヿ數十名亦銃及ヒ彈藥其他諸器械數十個ヲ分捕ル同夜第一中隊モ小髙野地方ニ第三中隊ハ城東十川村ニ第四中隊ハ城跡ニ大哨兵ヲ配布ス此日竹田市中過半兵燹ニ罹リ而シテ本隊ノ即死ハ兵卒小川紋吉負傷軍曹松下俊彦外四名アリ于時小川紋吉其中隊ニ語テ曰ク本日苦戰ナル可シ必死以テ先鋒タランヿヲ望メ共其死センヿヲ暁リ敢テ許サ﹅リシカ開戰忽直先ニ進ミ銃劔ニ賊首ヲ貫ヤ惜哉自身已ニ斃ス爲メニ衆大ニ奮フ

 これからみて、薩軍を竹田から追い出した直後に熊本鎮台部隊が、薩軍が去った方向を警戒し配置についたことが分かる。

 以上の記録を見ると小高野周辺では戦いはなかったようだが、西南戦争に無関係だったのでないことが分かる。

 

「安田 榮の西南戦闘日記」田中 茂氏編集・解説

 これは昨年12月10日付で田中茂氏(宮崎市在住)が出版された別働第二旅団伍長の従軍日記です。解説を合わせて全43頁。安田は浜田藩士であったが結婚後福島県士族となり、西南戦争勃発にあたり従軍し、各地を転戦して無事凱旋した記録です。

 現在、若干部数が残っており、希望者には送料負担のみで配布できるそうです。

田中茂さん☎0985-28-7046

「西南戦地取調書 豐後」の内、竹田市

 小川又次日記の舞台が竹田になったので、標記の史料の内、竹田市部分を掲げることにしました。これは以前に入手したもので、西南戦争後に参謀本部が関係各県に戦地の状況を取り調べて提出させたものです。ポツダム宣言受諾直後、軍関係史料が連日焼却され、各地の軍関係施設で黒煙が上がり続けるという事態になった際、心ある人が持ち出したもののようです。文字は大分縣罫紙に書かれています。市町村作成資料を大分県兵事課が取り纏め、清書して提出したものです。

 内容は村・町単位で作成した説明文と絵地図から構成されています。精粗バラバラであり、戦跡が一番多い宇目は一番簡単かつ詳細不詳の内容です。

   このブログでは本文の上部にフリガナがある場合にその通りに表示できないので該当部の直後に小文字で表示します。少しずつ訂正加筆します。

 

 

二十八ノ5

 大野 直入 南海部 北海部(以上は表紙)

 

校合済

明治十年西南ノ役戦地取調書

      大分縣(以上内表紙)

                   直入郡竹田町

新五月十三日午後五時頃薩軍凢八拾名鹿児嶋縣日向國臼杵郡ヨリ大分縣大野郡重岡村ヲ経テ竹田町ヘ乱入處々ニ屯ス仮リニ本營ヲ同町商加嶋吉郎宅ニ設ケ直ニ同町商後藤六平外三拾名ヲ召集シ市中火盗ノ警備ヲ命ス衆辞スレノモ許サス翌十四日ヨリ市街ヲ巡邏セシム且ツ哨兵ヲ四方ニ置キ竹田士民ノ部外ニ出テ或ハ物品ヲ運搬スルヲ嚴禁ス

 但後藤六平外三拾名十三日ヨリ廿八日迠巡邏ノ報勞トシテ壱人ニ付玄米三斗入俵或ハ銅銭壱円宛ヲ授與ス官軍廿九日進擊ノ際薩軍ト共ニ逃走シ後各自首ス

同十四日暁ニ至テ薩軍逐次ニ増加シ無慮六百余名ニ及フ大迫薩人最モ多シ隊長ノ如キハ竹下某峯﨑某荒巻某大迫某石塚某野間某鎌田某吉村某前田源七等トス本営ヲ更ニ同町黒野元平宅ニ移シ且ツ分営二三ヲ設置シ竹田士族ヲ誘導ス堀田政一竹田士族先ツ之ニ應シ首謀タリ遂ニ報國隊四小隊ヲ編製ス該隊ニ於テ故ラニ通行券ヲ専製ス

十四日薩軍竹田登髙社ニ強迫シ帳簿ヲ點検シ現在金壱万余圓ヲ掠奪ス

十六日同町分営渡部眞直宅ヘ滞在ノ隊長野間某賊兵二百名ヲ率イ大野郡今市駅ヲ経テ大

分縣廳ヲ襲ハントス大分郡畑中村ニ至リ官軍警備ノ嚴ナルヲ探知シ路ヲ東方ニ轉シ黄昏同郡鶴﨑町ニ避ク東京警視隊ノ上陸スルニ際會ス同夜其不意ヲ襲フ賊軍嚮導佐藤輝夫竹田士族戰死ス翌十七日賊兵大野郡犬飼町ヲ経テ復タ竹田町ニ帰営ス

十六日中津隊ノ中賊魁後藤純平矢田宏等来着ス

同日報國隊ヨリ同町冨商等ヘ軍資金ヲ募ル其金員巨額ニシテ各家頗ル困却ス則チ相共ニ謀テ薩軍隊長石塚某ニ哀訴ス石塚曰ク軍資ヲ人民ニ募ル理ナシト後チ報國隊長堀田政一ヨリ該件取消ノ旨ヲ示セリ

同日賊兵同町郵便局ニ強迫シ官金若干ヲ掠奪ス

同廿九日拂暁騎群峠直入郡飛田川村賊塁ヨリ頻リニ急ヲ告クモ應援ノ兵ナク彈丸モ既ニ欠乏シ該塁忽チ敗ル随テ各所ノ賊塁悉敗潰ス

同日午前七時頃薩軍大野郡市塲村地方ヘ悉皆退去ス

同日午前九時頃官軍四方ヨリ竹田町ヘ進入戰争ナシ所々ニ放火ス此際最モ風烈手後二時ニ至テ灰燼ニ屬スル附屬家屋土藏等ハ除キモノ凢ソ四百拾余戸

薩軍五月十三日ヨリ同廿九日退去ノ際迠竹田町滞在中各自能ク法律ヲ守リ酒色ヲ恣ニスルノ擧動ナク給與方ノ如キハ兵卒一人ニ食料米壱升菜料金二銭五厘宛ノ定メアリ

 但本営分営ノ家主ヘハ前後壱銭ノ宿料モ授與ナシト云フ

五月十三日午後六時薩軍竹田町ヘ乱入直ニ一ノ病院ヲ同町ニ設ク院長其付屬拾壱名許尤モ同月廿八日ヨリ同廿九日拂暁迠悉皆大野郡市塲村地方ニ引揚ク

 但死傷者ハ其時々大野郡重岡村地方ニ運搬セリ

同町ニ於テ戰争及ヒ築塁等ノケ所ナシ

 右之通候也

  明治十六年九月十一日       右戸長 草 刈 正 弘

                   直入郡竹田町

明治十年五月十三日小雨欝トシテ終日不霽午後四時薩軍竹田警察署町竹田村字鷹匠町蓮昌院ニ置ク竹田區裁判所字八幡川豊音寺ニ置ク襲来砲擊ス是先賊熊本縣下阿曽郡坂ノ上ノ戰ニ潰ヘ矢部地方ヲ経テ人吉ニ至リ終ニ日向ノ延岡ニ退キ再ヒ隊伍ヲ整列シ本月十二日大野郡重岡ニ出テ直チニ本地ニ進撃セリト云フ事火劇ニ出ルヲ以テ防禦ノ術ナク警吏判官等狼狽シテ各地エ遁走セリ内區長吉田肇等亦走テ熊本鎭台ニ此ノ景况ヲ告ク當時竹田地方人心匈々トシテ道路目ヲ以テス直チニ番兵ヲ各地ノ要所ニ置キ拾名乃至二拾名ヲシテ巡邏セシメ士民ノ部内ヲ出ル或ハ物品ヲ運搬スル等ヲ堅ク禁シ守備甚タ嚴ナリ午後六時ヨリ賊軍増加シ翌十四日八中隊ニ及フト云フ四十人乃至八十人ヲ小隊トナス方時竹田士族ノ輩各地ニ集合シテ官ニ中立シ其方向ヲ議セシム如何セン堀田政一等一二ノ不平党アリテ賊ニ與シ中津ノ賊徒後藤純平等ト謀リ村町無頼ノ徒ヲ驅使シ士族ノ各所ニ潜伏スル者及ヒ賊ニ應セサルモノハ災害家族ニ及フト強迫シ終ニ士族輩一千有余ヲ随従セシムルニ至ル抑竹田カ賊ニ應セシハ脅迫ニ出テ止ヲ得サルニ出ツ是ヨリ先大分縣廳守備ノ為メ若干名ノ出張セル等ヲ以テセリ勤王ノ士ナルヲ知ルニ足ルベシ於此十九日本村正覚寺ニ隊伍ヲ編製シ報國隊ト称シ三小隊トナシ豊岡政一中川涛太郎豊岡太郎隊長ナリ軍備稍具ル此日ヤ天気鬱陶人心ヲシテ不快ナラシムノミナラス数千ノ烏鳥本堂ノ上ニ啼鳴充満シ頗ル凶ヲ告クル如トシト云フ報國隊編制ナルヤ學校財産小區用金其他ヲ以テ軍用金トナシ亦堀田政一ノ名ヲ以テ

通行券ヲ発セリ翌二十日熊本鎮台ノ進征スルト聞クヤ賊軍ヲ進メテ本郡恵良原村字戸ノ下ニ開戰ス星ヲ見テ退ク拝田原村字山下本村崩岩蛇塚等ノ要所ニハ賊兵ヲ置キテ官軍ノ進擊ヲ防守ス亦嚴ナリ同二十四日官軍進擊シテ山下以下ノ賊塁數ケ所ヲ拔ク是日ヤ砲聲實ニ山岳ノ一時ニ潰崩スルニ異ナラス官賊ノ死傷亦尠ナシトセス山下ノ賊ハ烏嶽山手ニ退キ崩岩蛇塚ノ賊ハ字茶屋ノ辻ノ塁ニ退ク

二十五日茶屋ノ辻賊軍早暁官軍ヲ掩擊シ蛇塚ノ塁ヲ拔クモ衆寡不敵遂ニ官ニ擊取セラルヽト云フ

同二十九日暁各地ノ官軍大進発火ヲ放チテ遂ニ竹田ノ賊巣ヲ拔ク此日晴天ナレノモ火煙日光ヲ覆ヒ朦朧タ月夜ノ如ク余炎翌三十日ニ至リ消ス類焼戸数二千戸ニ近シ賊大野郡緒方地方ニ向ヒテ去ル竹田士族ノ賊ト共ニ潰走スルモノ四拾余名ナリ外一千余名ハ直チニ官ニ自首ス

 鬼城・茶屋辻周辺の台場分布を推定してみた。現在、茶屋辻は山が削り取られ、谷が埋め立てられて競技場となっており、戦跡は消滅していると思う。鬼城と田能村竹田墓(下図の名所記号の所)のある尾根は行ったことがある。鬼城頂上は江戸時代からの墓地になっており、銃弾痕の残る墓石が幾つか立っているが台場跡は見かけなかった。

 絵図によると茶屋辻には二股に分かれた小川が黄色で描かれ東西二ヶ所北流しているが、これらを緑線で1974年測量の下図上に推定した。

 上図右の田能村竹田墓のある尾根筋に薩軍の台場が並んでいたらしいと当初は想定したが、間違いだった。旧地形ではそれよりも西側に、記号の南に延びる尾根があり、そこに台場が並んでいたと考えられる。総合運動公園造成で旧地形は削られて、台場跡は空中高い位置にあったことになる(以前、遺跡保護運動をしていた大学の専門家が道路建設では旧地形が深く掘り除かれることを理解しておらず、建設後は道路面の下に遺構が埋められてしまうと理解していたのに驚いたことがあったのを思い出した)。しかし、この辺りでは未だ台場跡は1基も確認していない。

 絵図では鬼城から西に川を渡る橋を描いている。現在、黄色く描かれた今の道路が橋跡の少し上流(川は左から右に流れている)で渡っていると分かる。絵地図からみるに、当時の橋は茶屋辻から西に進んだ道が川沿いの道にぶつかる先に架かっていた。川の西岸(図の左外)に阿蔵山がある。「戰記稿」では5月24日、城茶屋ノ辻ノ地タルヤ四塞ニシテ阿藏ニ通スル板橋アリ道路ハ阿藏山ニ通スル小徑三個ヲ除クノ外、有ルヿナシ故ニ十一時ニ十分我カ一發ノ砲聲ヲ期シ靜間中尉浩輔一小隊ヲ率テ本道ヨリ潜カニ阿藏山ヲ下リヲ渉リ村ニ入リ鬼城ニ攀躋シ賊壘ヲ距ル僅ニ五米突ノ處ニ達シ一齊ニ発射シ壘ニ入リ遂ニ數壘ヲ拔キ黄昏兵ヲ収メ守線ヲ竹田ヨリ五丁ノ處ニ定メ警備ヲ嚴ニスとある橋がこれである。

                     直入郡挟田村

明治十年五月十三日午後第四時薩軍隊長石塚某貳千有余人ヲ卒テ日向國延岡駅ヲ経テ豊後國竹田駅ヲ本営トシ同月廿九日午前第十時迠滞在ノ処官軍追擊ニヨリ大野郡市塲駅地ニ引拂フ

同年五月十六日竹田士族堀田政一ノ脅迫ニ依リ兵隊トナルモノ僅カニ五人

 但死傷等壱人モナシ

同年同月廿七日正午ヨリ賊軍挟田村字観流亭及ヒ丹六才登リ山ヨリ字遠見塚及上ケ尾ノ官軍ニ向ヒ同月九日午前十時迠三日間戰争アルモ官賊軍共ニ勝敗ナシ

右戰ニ兵火ニ罹ル者五戸

 但放火ハ官賊不詳

同五月十五日ヨリ同廿九日マテ人夫ヲ屬ニ出スヿ凢ソ貳百余人其賃銭拾壱銭三厘或ハ六銭ヲ受取ルモノ貳拾有余人無賃銭ニテ兵粮等ヲ戰地ニ運送等之為使役者百数拾人

右 之 通 候 也

 明治十六年三月六日    右戸長 安東義三郎

 

 現代の地図に絵図の台場を推定して記入したのが下図だが、官軍台場は地点を記入しにくかった。挾田川を挟んで東に官軍、西に薩軍が分布したことがわかる。この分布状態は法師山を官軍が奪った後だろう。この範囲の台場跡は今まで誰も探したことがないと思う。それでとにかく現地を探してみる必要がある、と思う。

 

                    直入郡

                       三 宅 村

                       枝   村

                       中   村

明治十年五月五日ヨリ同廿五日迠賊軍竹田本営ヘ人夫百人ヲ出ス但無賃

同日枝村ト植木村界字法師山ヘ賊ノ斥候兵拾名斗リ疆壁ヲ築キ竹田ヨリ交代ニテ守ル

同二十五日午後一時頃東京警視廳萩原大警部ノ兵大野郡神堤ヨリ来リ一時間程戰争アリ賊敗走官兵死傷五六名直ニ麓ナル字石原ヲ本営ト定ラル

同二十七日拂暁ヨリ鏡口ヘ進擊戦争凢三時間官軍苦戦午前九時頃引揚死傷凢五拾名

同二十九日拂暁ヨリ再進擊賊敗走尾擊シテ竹田町ニ入ル

 右之通候也

 明治十六年八月三十日    右戸長 伊東魂平

 挿図では法師山の賊徒塁(薩軍台場跡)が一基だが、実際は官軍台場跡が10基、絵図にある薩軍台場跡1基が残っている(「西南戦争戦跡分布調査報告書」2009 大分県教育庁埋蔵文化財センター調査報告 第44集)絵図では左が北である。

 この報告書で北向きの11号だけを薩軍台場跡と推定して報告したように、絵図では頂上北部に北向きに薩軍台場が示されており、正解だった。しかし、西南戦争直後に参謀本部に地元が提出したこの報告は安易なものであり、あまり実態を示していなかったことが分かる。当時現地を訪ねて台場跡分布状態を調べ報告書を作成した村や町はほとんどなかったとみられる。しかし、後で掲げる会々村だけは現地を調べて報告した可能性がある。

                     直入郡植木村

明治十年薩軍竹田駅ヘ進入滞在時日及隊長氏名兵卒員数等ハ竹田村ニ仝ジ

同年五月廿五日当村字弓嶽ニ對スル字法師山トノ間ニテ官賊両軍放擊凢一時間勝敗未决賊走ル死傷ナシト云ヘリ

兵火ニ罹ル者六戸

 但火ハ官軍ノ放火ニ拠ル五月廿九日未明字荻迫大擧屬追擊ノ際ナリ死傷等ナシ熊本鎮

 台兵大凢百五拾名余

右之通候也

 明治十六年九月六日   右戸長 児 玉 直 友

 上図では賊軍がいたのは緑色に塗られた政所と荻迫の中間地帯ということになっている。 

 政所と荻迫付近を拡大すると該当しそうな台地あるいは山は三ヶ所ある。このうち1では下図のように薩軍台場を7基確認済である。台場跡の土塁部分が向く方向を矢印で示す。道路を挟んだ東側の山には何もなかった。2と3については踏査したかどうか記憶が曖昧である。台場跡はなかったような気がする。文末に掲げた会々あいあい村の史料では1の東側の山に複数の台場があるように描かれている。

                     直入郡平田村

新五月二十日ヨリ薩軍隊長姓名不詳兵卒凢貳百名ヲ率テ此地ニ滞在直入郡竹田村ヨリ来リ同廿五日同地ニ去ル

五月廿三日官軍進擊字稲荷峠ヨリ字下原向ヘ掛ケ同日午前第七時ヨリ同廿五日迠三日間戦争アリ賊軍死傷不詳官軍死傷凢三拾人ト云ヘリ

五月廿三日一日人夫貳拾人賊軍ニ仕役官軍進入ニ紛レ同日帰村

五月廿三日ヨリ廿九日迠官軍病院并分営等ヲ設ケ七日間滯陣炊出等ニ仕役ニ成ル

右之通候也

 明治十六年八月廿日    右戸長 太 田 原 平

 北半分・南半分に活字を入れる。

    

 城原往還沿いに両軍の台場が築かれたようである。絵図の台場の位置を現代地図に推定記入したものがこれ。上平田の西側は不正確になった。

 次は上図の下側から右側地域である。

                     直入郡飛田川村

明治十年新五月廿一日報國隊第貳番小隊長南方實一小隊人員八拾人ヲ率テ同郡竹田町出発同日午前一時頃本村字古城城牟禮城墟ニ出兵同所西ノ鼻ヨリ南ノ方ニ廻リ臺塲ヲ築滞在

同廿二日同隊滞在

同廿三日官軍城原口ヨリ進擊午前七時頃開戦薩軍一小隊隊長名不詳應援トシテ出兵本道竹田ヨリ日田道ヨリ進軍字切通シニテ防戦午前十時頃官軍引上薩兵モ古城ニ引上休戦報國隊即死壱人手負壱人薩兵ハ不詳

同廿四日折々砲戦午後二時頃官軍岩木口本村内古城南ヨリ進擊賊軍一小隊ヲ古城東ノ鼻ニ廻シ砲戦一時間余戦争官軍敗走賊軍古城東ノ方ニ臺塲ヲ築滞在

同廿五日折々砲戦三番隊小隊長堀田政一一小隊人員八拾人ヲ率テ出兵貳番小隊ニ代ル薩兵モ更代

同廿六日午前四時頃ヨリ官軍襲擊賊軍苦戦十二時頃官軍引上

報國隊即死壱人手負三人同日令ニ依リ報國隊ハ同所引上ケ直ニ竹田村上角口下石ノ臺塲ニ出兵其後薩兵戦守同廿九日総軍引上ノ令ニ依リ竹田町ニ退軍戦争勝敗不詳

新五月廿二日ヨリ同廿九日迠薩軍隊長蒲田某百余人ヲ率ヒ本村字三砂谷ヘ滞在

 但日向地方ヨリ来リ同地方ヘ去ル

同日ヨリ字爪尾板屋地神塔田原ノ各所ニ臺塲ヲ築

同廿四日字柱松ニ於テ一時間程戦争アリ賊勝利賊死傷ナシ

同日ヨリ同廿九日迠各臺塲ヨリ日々砲戦勝敗ナシ死傷不詳

同廿九日兵火ニ罹ル者貳拾五戸但官ノ放火

同月廿二日ヨリ同廿九日迠人夫ヲ屬ニ出ス事凢百人其賃銭ハ壱人一日金拾銭ノ約束ノ處賊俄ニ敗走ニ付賃銭不拂シテ去ル

 内七拾人余ハ各所ヘ糧食ヲ運送ス三拾余人ハ村内各所ノ臺塲小屋掛等ヲナス

同月十六日ヨリ同十八日ニ至リ報國隊堀田政一豊岡太郎等ノ脅迫ニ依リ兵隊トナル者拾三人雜役トナルモノ拾五人病院炊出塲本分営等ナシ

右之通候也

 明治十六年八月廿日   右戸長 金 子 勇 夫

 上図の字田原に六ヶ所、台場が書き込まれているが(下図)、これらは踏査していなかった。竹田駅の西側あたる。

 上の地図は藤島純高2003「『古城峠攻略記』について」(「西南戦争之記録」第3号)による古城の台場跡分布図である。塗りつぶしが台場跡であり、白抜きは伝承による想定台場位置である。古城の南麓を巡る道は地形に沿っているため現在のものと屈曲状態が似ており、今も位置が変わっていないようである。したがって絵図と比較しやすい。絵図では大きく見て三ヶ所に台場が分布し、中でも西部の逆L字形は特徴的である。しかし現状ではもっと多く存在する。絵図報告が不正確だったと言わざるを得ない。さらに城跡の周囲に古城の薩軍を攻撃するため官軍の台場が多数築かれたとされているのに絵図には描かれていない。

 

 

                   直入郡

                      玉 来 村 

                      吉 田 村

                      入 田 村

                      君ケ園村

                      拝田原村 

                      岩 本 村

明治十年五月十三日午後四時頃薩軍数百人直入郡竹田町ニ忽然襲来同廿九日迠滞在尤此ノ二十九日ニ大敗走ニテ大野郡宇目地方ニ去ルト云

 但其隊長ハ石塚忠右衛門野村某ト云ヘリ

同十六日ヨリ同廿二日迠薩軍隊長不詳凢三百余人ヲ卒テ入田村ノ内字小髙野ヘ滞在

 但竹田町ヨリ来リ大野郡寺原村ノ方ヘ去ル

同十七日ヨリ同廿二日迠入田村ニ於テ人夫ヲ賊ニ出スヿ凢八拾五名其賃無賃銭ナリ字丸山辺臺塲建築或ハ又死傷四名ヲ竹田村光西寺迠運搬ス

同十九日ヨリ同廿一日迠三日間玉来村字鞍掛吉田村庚申塔辺ニアル官軍ニ對シ戦争死傷四人アリト云

同十八日玉来村區戸長役塲元六大區四小區用務所薩軍歩兵六名来リ諸雜品掠奪シ竹田町エ去ル

同十九日午前八時頃竹田町ヘ屯集スル薩軍之内凢二中隊二手ニ分レ一手ハ玉来村ヲ経テ君ケ園村之内字ハヱノ尾ニ出一手ハ吉田村ヲ経テ岩本村ノ内字サキヲク峠ニ出君ケ園村之内字石原村ニアル官軍ニ對シ午前九時ヨリ開戦暫時ニシテ官軍恵良原村之内字戸上ニ引揚ク賊軍追擊同所戸下ニ至ル薩軍同日午後四時頃玉来村ヲ経テ竹田町ニ去ル此戦ニ賊兵即死二名負傷三名ト云ヘリ

同日吉田村ニ於テ賊ノ脅迫ニヨリ人夫二十二名岩本村ヨリ同断人夫四名都合二十六名ト岩本村ヨリ空俵二百トヲ募集シ以テ同村字サキヲク峠ノ臺塲建築或ハ手負二名ヲ竹田町ニ護送セリ

同日薩軍熊本縣下下仁田水村佐伯伊三郎ノ所有金ヲ掠奪シ玉来村ヨリ人夫拾人駄馬五疋出サシメ右略奪金竹田町ニ運搬ス其賃金壱人ニ付金三拾銭ツヽ臺塲築立或ハ糧食運搬等ヲナス但無賃銭ナリ

同廿一日午前六時官軍熊本鎮台玉来村ニ進擊シ同村字阿藏尾立鞍掛吉田村ノ内字庚申塔拝田原村字耳切峠コンヒラ峠源次郎峠等ヲ始トシ處々ニ臺塲ヲ築キ玉来村市街ニ官軍本営ヲ建ツ

同日拝田原村ノ内字ヲカネサマ山上嵩中川神社地竹田村字崩岩ヘビ塚等ノ数ヶ所ニ薩軍臺塲ヲ築キ玉来村地方ノ官軍ニ對シ開戦是ヨリ同廿九日迠砲聲止ム時ナシ

同日吉田村字塚原ヱ薩軍凢四拾名臺塲ヲ築キ屯ス同廿二日午前七時官軍切込ミ戦争賊遂ニ敗走シ入田村ノ内字鐙ヘ引拂ヘリト云

同廿三日玉来村字阿藏兵燹ニ罹リ焼失スル者拾八戸

 但火ハ官ノ放火ト云ヘリ

同廿六日拂暁ヨリ拝田原村字ヲカネサマ山字鳥越辺大戦争初メ賊勝利後チ大ニ敗走竹田ヘ引拂此日拝田原村字鳥越辺兵火ニ罹リ焼失スル者拾九戸賊死傷十二名ト云ヘリ

 但火ハ前同断

薩軍竹田地方ヘ襲来シ其脅迫ニヨリ随従セシ者玉来村ニ二十三名君ヶ園村ニ五名拝田原村ニ八人吉田村ニ五人ナリト云

右之通候也

 明治十六年十二月八日  右戸長総代 田 代 早 苗

 他の地図では見ることのできない地名や詳しい記事情報がみられる。台場の分布は描かれず、官軍・薩軍がいた場所を大雑把に書き入れている。小高野丸山は多分あれだろうという山はあるがまだ踏査していない。 

 「西南戦地取調書」の末尾近くに直入郡會々村の報告がある。他の村・町に比べて提出が遅れたため、初めに大分県令の言い訳一枚があり、次に村作成の文章三枚を県が清書したものが続き、最後に村作成の絵図一枚である。

 写真を示すので理解できると思うが欄外に十八年四月接の墨書、上部欄外に編纂課の楕円朱印、頁欄外上部に割印のように上が欠けた一辺31mmの朱印がある。本来は大分縣兵事課であろう。欄外右に受乙第四〇四号(号は別字)と読めなかった丸朱印、その下部に須藤の楕円朱印が押されている。当時、参謀本部にいた須藤定穀大尉だろう。また、大分縣と書いた付箋が貼られている。県毎に割り振って整理していたのだろう。

 以上が欄外の説明で、以下は罫線枠内について。

陸第四拾七号  參謀本部受領 參月第四九六号

客年九月一日付陸第二百六号ヲ以テ去ル十年戰地書類御回付之節申進置候直入郡會々村ノ分屡督促候處漸ク指出候ニ付即チ及御回付候此段申進候也

 明治十八年三月廿六日  大分縣令西村亮吉印

     參謀本部副官茨木惟昭殿

 

  明治十年薩軍ニ関シタル事蹟概畧

           大分縣直入郡會々村

一新五月十三日午後薩軍隊長竹下某岩嵜某大迫某石塚某等総兵凡千八百餘人ヲ引卒シ竹

 田街ニ乱入スル哉直ニ哨兵ヲ当村(字下木字屏風ケ淵字赤坂字三砂字川下)各所ヘ分

 置シ士民ノ部外ニ出テ或ハ物品ヲ運搬スルヲ禁シ守備ヲ嚴ニス同五月廿一日ヨ 

 リ仝廿九日マテ六小隊(一小隊兵卒八十人工卒輜重卒十五人)当村(字上鹿口〇字平字

 千引字七里峠字内河谷峠字三砂)諸所ニ塁壁ヲ築キ滞在

  但新五月十三日午後五時頃鹿児島縣日向地方ヨリ竹田街ニ乱入仝月廿九日午

  前八時頃当縣大野郡宇目郷地方ニ去ル

一仝五月十六日薩軍随従竹田報國隊ノ兵旧六大區十一小區々長吉村某ヲ字下木ニ

 斬

一仝五月十九日薩軍随従竹田報國隊ノ兵大分縣十等警部藤丸某ヲ熊本縣阿蘇郡

 岩村ニ捕ヘ字下木ニ斬ル

一仝五月廿三日木原口(熊本街道)ヨリ官軍進撃字上鹿口ニテ凡五時間戰争賊兵敗

 レ退ク此戰官賊死傷不詳賊飛田川村ノ内字古城ヲ根拠トシ字上鹿口ニ數塁ヲ築

 キ防ス官軍平田村ノ内字杖取ニ塁壁ヲ築キ尚該地方ニ哨兵線ヲ張リ對陣仝廿

 八日折々小戰アリ仝廿九日未明ヨリ官軍大進撃終ニ古城ノ根塁ヲ拔ク賊兵忽

 チ上鹿地方ノ塁ヲ捨テ去ル此戰官ノ死傷不詳賊死三人傷不詳

一仝五月廿六日三宅村字法師山口ヨリ「官軍(警視隊)進撃賊一戰ニシテ字千引地

 方塁ヲ捨テ去ル官軍字鏡迄尾撃シ此処ニ守備ス賊軍字米納沢峠字内河谷峠等

 ニ陣仝廿七日拂暁賊ノ拔刀隊凡三十四人突然後手ヨリ顕レ出前後ヨリ挟撃(

  此南ハ山北ハ川一線路)官軍苦戦終ニ大ニ敗レ根塁法師山ニ退ク此戰官軍ノ死三

 十名(将校二名)負傷者凡八十餘名賊死傷ナシト云フ仝廿九日官軍進撃賊各所

 ノ塁ヲ捨テ去ル

一同五月廿六日字内河谷峠ニテ小戰アリ勝敗不詳 

一仝五月廿九日字古城ノ賊塁敗潰スルヤ字三砂ノ塁ニ止リ官軍ノ進路ヲ遮リ凡一

 時賊終ニ敗レ去ル此戰官軍ノ死傷二名傷不詳賊死二人ト云ヘリ

一仝五月廿九日官軍四方ヨリ進撃字平字瀧ノ上等ニ塁ヲ築キ續テ竹田街ニ進軍ス

一仝五月廿九日賊軍敗走ノ際兵火ニ罹ルモノ二百一戸但官ノ放火

一仝五月十三日ヨリ仝廿九日マテ人夫ヲ賊ニ出スヿ凡百五十人其賃金壱人金拾銭

 ノナルモ賊俄ニ敗走賃金不拂シテ去ル最糧食ヲ運搬シ其他雜役ス

一仝五月十七日薩軍ニ随従ノ巨魁竹田士族堀田政一谷川忠悦等ノ脅迫ニ拠リ兵隊

 トモノ百二十二人内砲隊十五人小銃隊百七人内戰死四人

一右仝雜役トナルモノ七十五人

 右者明治十年五月十三日ヨリ仝廿九日マテ薩軍ニ関シタル事蹟概畧取調別紙戰

 地添進達候也

   大分縣直入郡會々村外一

 明治十八年三月十四日  戸長 草 刈 正 弘

 

  陸軍省七等出仕横井忠直殿

 絵図を分割して示す。

 この絵図にも多数の台場記入があり、多くは未確認のままである。字浦谷の地名がある場所の西側で川の屈曲に囲まれた部分に台場が描かれているのは初めて知った。また、その西側、字鏡の東側の山にある台場跡は確認済みだが、その北側にも連続して存在するのは現地を確認していない。

 その他、この絵図には西部含めて点々と台場が描かれており、今後これを基に分布調査すべき課題が多いと感じる。他の村の報告に比べ、台場跡の分布状態が詳しく描き込まれており、会々村だけ提出が遅れたのはその作業に時間をかけたためかも知れない。 

 

 まとめ

 この史料は西南戦争にとっては貴重な情報源となっている。また、明治初期の地図情報としても貴重である。佐伯市分についてはまだ印刷されていないが、投稿済である。

 

「陣中日誌稿(明治十年 戰争日記)」6月 ※5月に加筆中です。後日月別に細分予定。

六月一日晴天午後當隊宇田枝ヲ発同三時頃ヨリ牧口エ繰込ム此日熊本縣士八名当地ニ着当隊附属有志ノ列ニ加エ入ス

六月二日晴天午前本隊牧口引揚ケ久原村及髙寺村ノ間道ヨリ重岡街道賊背ニ出ントシ午前五時頃三重市ヲ攻撃ス到レハ賊ナシ野津市迠追進ス此日三重市ニテ熊本縣士二名当隊附有志輩ノ列ニ加入ス※この日の「戰記稿」には有志の件は載ってない。

六月三日晴天午前十一時頃当隊野津市ヲ引揚ケ午後五時頃ヨリ戸次ニ繰込ム※野津市とは野津のこと。

六月四日晴天終日休戰賊臼杵ノ官軍ヲ拂ヒ勢ニ乗シ府内ニ出ントス故ニ鶴崎嵜地方ニ探偵ヲ出シ亦タ枩原峠近傍ニ斥候ヲ出ス警備ス※枩原峠(松原峠)とは戸次から臼杵市松原に行く途中の峠だろう。7日に芳野峠(吉野峠)が登場するので、それから考えると吉野峠の北側にあるらしい。

六月五日晴天当戸次ニ滞陣ス午後ヨリ降雨探偵ヲ出シテ賊情ヲ候

六月六日晴天戸次ニ滞陣ス頃日炎暑ナレノモ病兵甚タ稀ナリ

六月七日晴天午前昨日ニ同シ午後七時頃当大隊芳野峠エ出張同處ニ露営ス

※吉野峠とみられる「峠」という字が記された峠道の東側に登ってみたが、戦跡は確認できなかった。峠から北西に行き止まりになった道が描かれているのが本来の路線だろうか。標高290mの部分を調べる必要がある。

六月八日晴天臼杵攻撃ノ爲メ午前第一時頃本隊芳野峠ヲ発シ拂暁水ケ城(※みずがじょう)ヲ乗リ取リ第二第三中隊及第一中隊右小隊ヲ水ケ城エ同十一時頃第一中隊ノ左小隊ヲ下末廣村エ第四中隊ノ右小隊ヲ荒田山ニ配布ス午後三時頃第四中隊ノ左小隊ハ第二大隊ノ應援トシテ野村ニ進撃奮戰此夜第四中隊左小隊ハ引揚ケ水ケ城ニ復ル此日即死ハ軍曹吉田久吉外二名負傷軍曹小林良教外六名アリ賊ヲ斃スヿ數名此日臼杵湾ヨリ我海軍ノ砲射セリ左右翼軍ト攻撃ノ相圖齟齬セシカ中央軍獨リ突進水ケ城ヲ拔ト雖モ賊屡ク左右ヨリ迂回シ大ニ配兵法ニ苦ム

 上図に捕捉すると、畝状竪堀群は上方から一直線に下に向かって溝(堀)を掘り、類例の発掘調査によると溝の底は逆三角形に尖る。隣の溝との境も上に向かって尖っていた筈である。この仕掛けにより弱点の緩斜面の守りを強化した。信長や秀吉が活躍したころに登場し、各地で流行した。

六月九日晴天昨日ヨリ連戰午後十一時頃第四中隊ノ左小隊ハ我前面ノ賊塁ヲ突クニ地形不便進退數回ニシテ終ニ賊塁ヲ乗リ取リ十六天神ノ森ニ至リ尚ヲ進撃シテ「ヱムタ村」中橋ノ左 方ニ迫ル此時同右小隊ハ敗賊ノ側面ヲ火撃シテ左小隊ト連絡ヲナシ該処ヲ警備ス亦第三中隊ハ午前ヨリ水ケ城下「ヱムタ村」ノ賊塁ヲ破撃ス此時第一中隊左翼ニ進ミ應援シ尋テ市濱ニ進撃ス第三中隊市濱村ヲ守ル第二中隊ハ臼杵郭外ノ川峯ニ至リ相對シテ戰午后第八時ニ警視隊ト交代ス此日即死少尉試補有馬純清外二名亦タ銃其他諸器械數十個ヲ分捕ル此日海軍ヨリモ砲射スルヿ急ナリ少尉試補島田末周賊二名ヲ刃殺ス須賀少尉試補モ一名ヲ斬リ後于倶ニ傷ヲ受タル六月十日晴天午前第三時頃ヨリ第一及第二中隊ト合シ望月村ヨリ賊左翼ニ出テ早嵜ノ賊ヲ迂回ス賊忽チ敗去尾擊シテ臼杵城ニ進入亦タ第三及第四中隊ハ守地ヨリ直ニ本道ヲ進ミ倶ニ賊ノ比クルヲ追テ長野村ニ至リ此處臼杵ヨリ凡ソ二里此時臼杵市中數十戸兵燹ニ罹ル捕獲一名銃器弾薬等分捕セリ

六月十一日雨天本日長野村☐☐ニ滞陣賊跡ヲ探シ旦諸兵ノ整頓アリ

六月十二日晴天午前六時長野村出発鐘山ヲ跋渉リ同十時頃床下村ノ内荒打村エ着長野村ヨリ凡ソ二里仝處ニ警備ス

六月十三日晴天荒打村ニ滞陣夜第四中隊ノ于小隊及第一中隊佐泊エ出張スルニ賊逃走シテ一名モナシ

六月十四日晴天此日荒打村滞陣ス第四中隊右小隊及第一中隊佐泊ヨリ歸陣ス

六月十五日晴天本日荒打村ニ滞陣ス休戰斥候ヲ切畑村邊ニ出ス

六月十六日晴天前日ニ異ナルナシ此日尺間山ニ登リ遥ニ☐重岡地方ヲ望ム美麗ニシテ眺望至テヨシ佐泊因尾及川登等ハ眼下ニ見ユ

六月十七日晴天荒打村ヲ発シ同八時頃川又村エ着里程荒打村ヨリ凡七合同處ニ泊ス

六月十八日曇天午後雨降リ簾山近傍ノ賊ヲ攻撃ノ爲メ午前川又村ヲ発シ拂暁「ハキ」村ノ山上賊ノ左翼ニ出此際川登リ谷及因尾谷ノ探偵未タ充分ナラサルヲ以テ第四中隊ヲ残シ「ウツヽ谷」ト「ハキ」村ノ入口ヲ警備セシム偖「ハキ」村ノ山上ニ至ルヤ賊已ニ走テ跡ナシ夫ヨリ山脉ヲツタヒ里程山脉二里余進テ舩越峠ヨリ笠越峠ニ到ル比日殆ト沒ス故ニ警備ヲ設ケ爰ニ露営ス

六月十九日雨天午前川登リ谷ノ探偵粗就ルヲ以テ第四中隊ヲ三俣ニ進メテ因尾谷ノ警備ニ充ツ而シテ第一中隊ハ拂暁ヨリ進テ月形村及横川村ノ賊兵ヲ襲フニ彼レ山頂ノ壘ニ據テ固守ス午後三時頃賊退撓ノ色アルヲ以テ終ニ進テ賊塁ヲ拔キ猶ホ近傍ノ賊ヲ射撃ス然ルト雖モ賊又龍王山ノ頂ニ據テ死守ス于時日没ス同夜笠越峠ヲ守ル第三中隊ハ第一中隊ノ右ニ連絡シ終ニ戰フ第二中隊ハ昨日ヨリ攻撃兵ノ援隊トナリ因尾谷及小川谷ニ哨兵ヲ配布ス本日午前六時ニ至リ同処ヲ引揚ケ舩越峠ニ進テ同處前面ノ山上ニ左小隊ヲ出シテ戰ヲ排ム不詳兵卒水島平八外壱名アリ此日ニ至ル二昼夜霧雨盆ヲ傾ルカ如ク諸渓水爲メニ漲り糧食運搬等殆ト困却ス

六月廿日雨天拂暁ヨリ賊塁ニ突入スルヤ豫メ支フル能ハサルヲ暁リ夜間竊ニ逃走セリ依テ午後四時小川谷ニアル小繃帯所及其他警備ノ隊不残月形村ニ繰込ム

六月廿一日雨天第一中隊及第二中隊ハ竹脇村ニ進入第三中隊ノ左小隊ハ大原村エ進発直ニ大原峠ニ大哨兵ヲ配布ス

六月二十二日晴天第三中隊右小隊ヲ大原村エ進入セシム

六月二十三日曇天午前月形村ヲ発シ同十一時頃重岡田野村ニ到着里程凡四里亦第三中隊ハ大原峠ヲ第四中隊ニ譲リ辯路ヲ経テ重岡ニ来會ス又第二中隊ヲ水ケ谷ニ派遣シ梓峠ヲ警備ニ充ツ

六月廿四日雨天午前五時三十分頃賊赤枩峠エ襲来ノ報アリ依テ第一中隊ノ内二分隊茱萸ノ木ケ峠ニ進メ賊ノ背後ヲ討タシム亦残リ兵員ヲ田ノ峯ニ進マシメ同六時頃第四中隊ノ一小隊ヲ第一大隊ノ援隊トシテ赤枩峠新道ヲ進マシム我線已ニ破ル故ニ轉シテ此小隊ヲ六十峯ノ右側ニ配布シ第一大隊第三中隊ト共ニ賊ノ襲撃スルヲ禦ク彈丸雨住賊數十ヲ斃ストモ勢ヒ猖獗此時遊撃兵一小隊来リ援ス亦第四中隊ノ一小隊ヲ援隊トシテ赤松峠ニ進マシム于時大雨深霧咫尺ヲ辯セス五時頃ニ至テ賊終ニ潰走ス依テ第一中隊二分隊田ノ河内ノ峯ニ引揚ケ同処ヲ警備ス第四中隊ハ第一大隊ノ舊線ニ復ス守ル同第七時三十分頃第四中隊ノ右小隊ハ第一大隊第三中隊ト交替ス此日賊ヲ斃スヿ數十名亦此際赤松峠ニ向フ第四中隊ノ一小隊ハ最モ奮戰セリ即死軍曹小宮荏三郎外二名不詳曹長清水英蔵外十名アリ

 

六月廿五日晴天当大隊ハ梓峠口持塲ノ處昨日賊襲ヲ受ケシヨリ全隊該處ニ到ルヲ得ス亦赤枩峠第一大隊ノ警備線ニ連絡スルヲ以テ梓峠ノ警備薄弱ナク

六月廿六日雨天第一及第三中隊ハ十六峠エ第四中隊ハ赤枩峠エ大哨兵ヲ配布ス

六月廿七日雨天有志輩第一中隊ノ應援トナル亦切込谷ヨリ攻撃路ヲ探索セシム

六月廿八日晴天賊「ヱコノ一ノ胸壁(※エコオノの胸壁が正しいが何故か意味不明にしている)ヲ候ヒ又梓峠ノ警備線ヲ候フ

六月廿九日晴天賊八戸ヨリ川ニ沿ヒ下赤村及矢立峠ニ出没シテ木浦口ノ舉動ヲ候フ下赤ノ出入夛ク賊ニ従フ

六月三十日晴天賊赤松峠及陸地峠ニ襲来スルモ我軍撃破スルヲ以テ不日兵ヲ撰ミ挙木浦口ノ口ヲ劇チ重岡ノ背後ヲ襲ント計ルノ探偵ヲ得警備最モ嚴重ナリ

七月一日晴天夜第四中隊ノ左小隊長田村(※どこ?)エ出張ス

七月二日晴天賊下赤及矢立峠ニ出没ス

七月三日晴天午前第三時頃第二中隊持塲梓峠ニ賊兵五百計リ暁霧ニ乗シ襲來ス依テ我兵奮擊之ヲ防クト雖ノモ衆寡敵セス終ニ守リヲ失フ是ヨリ先キ急戰ノ報ヲ得若干兵ヲ

派遣シ梓峠ノ急戰ヲ救ハシム中道ニシテ事ノ及ハサルヲ知リ其兵ヲ以テ水ケ谷前面ノ山上ニ配布ス亦第一中隊ヲ二分シ右小隊ヲ城ノ越ニ配布ス左小隊ヲ黒土峠ニ進マシメ遊撃三番中隊ヲ應援トナサシム然ルニ彼レ拔戸山(※板戸山)ヲ経テ迂回ス勢ヒ防ク可カラス乳母山ニ止テ追撃ヲ禦ク于時午前第九時ヨリ午後第一時頃賊勢追々増加シ第四中隊モ亦タ賊勢猛クナルヲ以テ支ユル能ハス退テ乳母山ヲ守ル之ヨリ先キ中尉石川博及中隊ノ士官敗兵ヲ纏メ且ツ戰ヒ且ツ退キシハ指揮甚ダ冝シ此日即死少尉永田磐之助外四名負傷曹長菱刈実逡外十九名而シテ賊ヲ斃スヿ數十名ナリ

七月四日晴天第二中隊城ノ越前面ナル乳母山ヲ守ル彼レ頻リニ我右翼ニ迫ルト雖モ我固守シテ之ヲ防ク午後第八時頃十一聯隊松村中尉ノ隊ト交代シ城ノ越ヲ守ル此日昼夜連戰我軍ノ死傷十三名就中本隊ノ即死兵卒開田岩太負傷ハ湯川少尉ナリ

七月五日晴天時々狙撃ヲナスノミ此日遊撃第五大隊重岡ニ到着ス

七月六日晴天昨日当地エ司令長官到着アリ亦タ曩日琉球エ分遣セス少尉橋本☐作及兵員復隊セリ

七月七日晴天板戸山及黒土峠ノ賊ヲ攻撃セシム爲メ地形探偵スルニ山髙深谷ニシテ進路ヲ得ス

七月八日晴天竹柵及鹿柴尖橛等ヲ設ケ又攻撃路ヲ索ムト雖モ得ス互ニ狙撃ナス爲メ兵卒佐藤金五郎負傷ス

七月九日雨天對壘狙撃ヲナス前日ノ如シ

七月十日晴天賊大砲ヲ用ヒ撃ツヿ急ナリ又大ニ虚聲ヲ張ル

七月十一日雨天梓峠及黒木峠ニ夜間僚火ヲ焚ク

七月十二日雨天對塁狙撃ヲ爲ス互ニ盛ナリ伍長中川萬太郎負傷ス

七月十三日晴天午前ヨリ我軍砲聲ヲ始メ賊窮縮僅ニ狙撃ヲナスノミ

七月十四日雨天午前賊情至テ静ナリ午後盛ニ狙撃ヲ始メ喧々タリ

七月十五日雨天黒澤口進撃勝利ノ報アリ又互ニ狙撃

七月十六日雨天陸地口ニ降伏人一名アリテ大ニ賊情ヲ知ルヿアリ

七月十七日雨天時々互ニ狙撃ヲナスノミ

七月十八日雨天賊情極メテ静ナリ我軍夜ニ至テ大声ヲ発シ或ハ一声放火ヲ爲ス

七月十九日雨天時々互ニ狙撃ヲナスノミ

七月廿日晴天時々狙撃ヲ爲シ夜ニ至テ互ニ舌戰ヲ爲ス

七月廿一日晴天午前第一中隊ヲ水ケ谷街道ニ第二中隊ヲ二分シ右小隊ヲ黒土峠本道エ左小隊ハ彼レノ右翼エ迂回ス第三中隊ハ黒土峠エ進

撃互ニ発射ス終ニ午前引揚ケ舊地ヲ守ル此日中尉黒萩重和外十六名負傷伍長満尾栄次外五名戰死ス而シテ我軍死傷八十余名アリ

七月廿二日晴天時々狙撃ヲ爲スノミ

七月廿三日晴天第一中隊ノ持塲田ノ峯及第四中隊ノ持塲弓ノ尾エ賊襲来ス故ニ城ノ越ノ豫備隊ナル第二中隊援ニツク一時烈戰午後第二時撃退ク此日兵卒深澤八十松外二名負傷ス

七月廿四日雨天互ニ狙撃ヲ爲スノミ

七月廿五日雨天賊情至テ静ナリ我軍夜ニ及テ駒啼峠ニ夛数ノ燎火ヲ焚ク

七月廿六日晴天互ニ狙撃ヲ爲シ或ハ舌戰ヲ爲ス

七月廿七日晴天昨日夜半ヨリ板戸山ノ賊ヲ攻撃先驅トシテ第三中隊ノ右小隊及遊撃第四大隊ノ内二十五名ト共ニ藏小野村ヨリ板戸山エ進ミ山頂ノ賊塁ニ突入右ノ壘ヲ乗リ取タリ賊三名ヲ斃ス尚ヲ援隊ナル左小隊ヲ増加シ續々進撃黒土峠ノ諸壘ヲ拔ク第一中隊ハ我持塲ノ胸壁ヨリ長線山ノ賊ヲ狙撃ス同九日頃賊ノ退去スルヲ目撃シ同一小隊ハ遊撃一分隊ト共ニ尾撃進入シ水ケ谷本道ニ哨兵ヲ配置シ守ル此日佐藤馬五郎負傷ス

七月廿八日晴天第二中隊ヲ板戸山ノ警備ニ充ツ而シテ賊尚ホ梓峠ニ據ル

七月廿九日晴天賊徒梓峠ニ據リ堅塁ヲ築キ警戒頗ル嚴ナリ夜間ヲ最トス

七月丗日晴天勢賊日々増加ノ形况アリ而夜間喧シ

八月一日晴天賊情粗々前日ノ如シ水ケ谷ニ斥候ヲ出ス彼驚テ狙撃スル盛ナリ

八月二日晴天第四中隊ヨリ切込谷ヨリ梓峠ノ左翼ニ斥候ヲ出ス深山幽谷経路ナシ

八月三日晴天第三中隊ヨリ前日ノ如ク斥候ヲ出ス敢テ山登ル能ハス賊戒夜間最モ嚴ナリ

八月四日晴天拂暁前梓峠ニ攻撃偵察ヲ出スニ賊其景况ヲ察スルヲ以テ戰ヲ交エス引揚ク

八月五日雨天對塁互ニ狙撃ヲナスノミ賊夜間燎火最モ夛シ

八月六日雨天斥候ヲ派シテ大峠ノ賊情ヲ候ヒ時々大声ヲ発シテ虚声ヲ張ル黄昏僅カニ虚撃ヲ行フ

八月七日雨天拂暁亦虚撃ヲナシ而シテ後チ夛ク人影ヲ顯ハサス竊ニ賊情ヲ候フ

八月八日雷雨午前九時雷雨頻リニナルヤ各隊持塲ヨリ若干兵ヲ前進セシメ賊ヲ脅カス此時少シク狼狽ノ体ニテ人員ヲ増加ス僅カニ銃ヲ発シテ後チ笑テ歸ル

八月九日晴天曽木及黒木ニ方テ砲声ヲ聞ク

八月十日雨天曽木方位ノ砲声盛ニ聞ユ賊少シク同様ノ色アルヲ以テ虚撃ヲ行フ

八月十一日晴天或ハ曇天冨髙ノ新甼ニ方シ砲声ヲ聞ク

八月十二日晴天賊兵若干暁霧ニ乗シ長線前方ノ山ニ来リ我動静ヲ候フ我亦若干兵ヲ出シ迂回セシメ直ニ撃退セシム又冨髙辺ノ砲声ヲ聞ク

八月十三日晴天賊天幕ノ位置ヲ變エ奔走ノ体旦陣中変態ノ情アルト察シラレ昼其動静ヲ候フ而シテ延岡方位砲声最モ盛ニ聞ユ

八月十四日晴天賊情前日ノ如シ午後一時頃馬上ノ賊二名梓峠ニ顕ル彌々變態アルヲ察シ明朝攻襲偵察ヲ出サント謀ル午後三時頃最モ賊静ナリ

八月十五日晴天午前日時過ヨリ梓峠ノ賊棄燎ヲ照シ自ラ逃散スルノ非アルヲ以テ同四時頃第四中隊第四中隊及遊撃隊ヨリ若干名偵察トシテ前進ス賊果シテナシ依テ第舎ニ放火ス「ヱコ野」ノ賊モ之ニ同シ此日延岡近傍ノ髙山ニ放火アリテ拂暁迠砲声頻リニ響ク午前七時頃砲声止ム此時警備線ニ在ル兵員半數ヲ梓峠ニ進メ警備ヲナシ亦八戸村及下赤村及黒木峠(※黒土峠)ニ斥候ヲ出ス

八月十六日晴天拂暁第三中隊ノ一小隊ヲ熊田ニ向ケ派遣ス八戸村及

下赤村ノ探偵就ルヲ以テ旧線ノ守兵則チ城ノ越近傍ニ在ル者悉皆梓峠ニ進マシム

八月十七日晴天午前一時梓峠地方ノ諸隊延岡ニ向ケ進発八戸ヲ経テ屋敷ノ内ヲ通過シ森屋谷ノ築上ケニ配兵ヲナシ第四中隊ノ兵員若干出シ第一及第二旅團ノ本営ニ到ラシム正午十二時鹿兒島縣下白石村ニ本部ヲ移ス此日第三中隊ノ一小隊ハ熊田ヨリ火ノ谷村エ進軍對戰ス此日兵卒安養寺浅太郎負傷熊田ニテ降伏人三千余人アリ

八月十八日晴天同處ニ降伏人二千余人来リ本日第三中隊ノ一小隊ハ日ノ谷ヨリ江ノ嶽エ進軍ス賊終ニ支ル能ハス塁ヲ捨テ走ル之レ第一第二旅團ノ中間ヨリ賊突出シタリト云

八月十九日晴天拂暁ノ頃ニ祝子川辺ニ銃声ス薄暮モ銃声ヲ聞ク而シテ脱賊ノ方向判然セサルヲ以テ警備ヲ前後ニ設ケ且斥候ヲ祝子川ニ向ケ派出ス

八月廿日晴天午前各哨兵引揚ケ午後三時ヨリ発程シ元ノ大分縣田能村ニ同夜十二時ニ到着ス里程凡六里余第三中隊ノ一小隊ハ矢立峠ヨリ来リ會ス

八月廿一日晴天午前「フスベノ」(※佐伯市宇目の伏部野)エ本部ヲ轉ス而シテ脱賊竹田ニ出ントスルノ報知アリ

八月廿二日極晴天ニシテ暑酷シ午前四時「フスエノ村ヲ」発シ旗返シ

峠ヲ歴テ午後宇田枝村ニ着泊ス里程凡八里而シテ尾平越地方ニ探偵ヲ出シ別ニ異状ナシ

八月廿三日晴天午前一時宇田枝ヲ発シ同七時竹田町ニ繰込ム亦昨日後備軍第四大隊着シタル

八月廿四日曇天午十二時五発程午後八時熊本縣下靏甼エ到着里程凡六里

八月廿七日大風雨三田井及河内邊ニ斥候ヲ出ス

八月廿八日晴天午前七時靏甼ヲ発シ南郷新甼エ午后一時判到着同日俵山ノ嶺ヲ越道甚ダ險ニシテ曲折ス道程八里

八月丗日晴天午前五時木山ヲ発シ同午前十時川尻エ着ス径甚タ平坦道程四里

八月丗一日曇天午前八時川尻ヲ発シ同日午前十一時松橋甼ニ到着道平☐道程凡三里此夜第一及第四中隊松橋ヲ発シ海路ヨリ鹿兒島縣米ノ津ニ進ム

九月一日晴天大隊本部及残リ中隊有志輩共ニ午前八時松橋港ヲ発舩ス海上中途ニシテ暴風雨ニ遭フ

九月二日晴天先鋒トシテ出水麓ヲ発シ里程八里ノ内六里坂ナリ過日暴風雨ニテ大木ヲ倒シ山路甚タ艱苦午後四時宮ノ城エ着ス則チ仙臺川ノ上流ナリ此處ニテ警備ヲナス

九月四日晴天宮ノ城ニ滞陣シ諸處ニ斥候ヲ出ス賊情ヲ候フ

九月五日晴天午前四時先鋒トシテ宮ノ城発シ山ノ口ニ焚出処ヲ設ケ「ハヱ」山峠ニ到ル午後二時頃雨降ル僅カニシテ晴ル山上ニ大哨兵ヲ配布ス此處ヨリ鹿兒島城ヲ眼下ニ見ル

九月六日晴天午前六時先鋒トシテ「ハヱ」山峠ヲ発シ郡山郷ヲ経テ小野村エ到着六里余(里程凡)午後一時ナリ同五時頃ヨリ各中隊ハ武村ノ上エ大明神山ニ大哨兵ヲ配布ス

九月七日晴天当本部モ武村ニ繰込ム各哨所ハ夜ニ入リ暁ニ至ル迠竹柵二重ヲ造ル夜雨降ル

九月八日晴天西田町ニ斥候ヲ出シ賊情ヲ候フ

九月九日晴天前日ニ同シ夜間合戰アリ暫時ニシテ止ム

九月十日晴天竹柵ヲ堅固ニシ大哨兵ノ位置ヲ改良ニス賊城山ニ籠リ折日大砲ヲ以テ狙撃ヲナス

九月十一日雨天大明神山ニ一小隊ヲ残シ後面及第二警備ト定ム

九月十二日晴天追日各旅團到着亦大砲ヲ増加シ賊塁ヲ撃ツ

九月十三日晴天髙麗橋近傍ニ三所ヨリ大砲時々発射賊至テ静カナリ

九月十四日晴天時々砲発ス賊小銃ヲ発スト雖モ今暁ヨリ砲ヲ射スルヿアリ

九月十五日晴天賊徒人夫ノ体ヲナシ来降スル者六人過日ヨリ日々

六七人宛来降セリ賊ゾ會議スルヿヲ問フニ不知ト云又人員ヲ問フニ凡ソ二百ニ過スト云本日賊兵人夫ノ姿ヲナシ我隊ニ降伏セリ

九月十六日晴天各線堅固ニ胸壁ヲ作ル夜間嚴ニ警備ヲナス大砲日々増加シ四方八方ヨリ射発頻リナリ依テ賊砲発スルヿ稀ナリ

九月十七日晴天守線ヲ固フシテ不慮ヲ戒ム賊至テ静カナリ

九月十八日雨天各哨所夜間鯨波ヲ造リ又ハ銃発スルアリ第三旅團ノ方面最モ甚シ

九月右二十日晴天賊至テ静ナリ賊亦敢テ圍ニ迫ラス我軍砲撃スルヿ前日ノ如シ

九月廿一日雨天夜間花火ヲ上ル昼間我軍ヨリ砲撃スル甚盛

九月廿二日雨天砲撃ヲ行ナイ警備ヲ戒ム前日ノ如シ此日賊ノ使者来ルト云フ

九月廿三日晴天午後二時頃ヨリ音樂ヲ奏シ又大明神山上ニ於テ揚火ヲ點ス

九月廿四日晴天午前四時頃ヨリ各旅團并ニ当鎭臺ヨリ若干ノ兵員ヲ以テ城山賊ノ堅塁ヲ突クニ一時銃声益々熾ナリ然レ共賊支ユル能ハス或ハ斃レ或ハ自殺或ハ降伏旗ヲ數十本立流シ

賊夥シト雖モ該時ニ至テ是ヲ事ト顧ム者一人モ無ク亦生捕モ數十名アリ即暫時ニシテ西南騒優ノ結局ナリ

九月廿五日曇天此日酒肴ヲ賜フ

九月廿六日晴天此日城山見物スルヿヲ許サレ一昨廿四日城山攻撃兵聯隊本部ニ於テ酒肴ヲ賜フ

九月廿七日晴天午後ヨリ設宿トシテ当鎭台ヨリ下士官若干ヲ先ニ発セシム本日警備ヲ解ク

九月廿八日晴天午前七時鹿兒島武村ヲ発シ午後伊集院ニ着泊ス

九月廿九日晴天伊集ヲ発程午後水引エ着泊ス

九月丗日晴天水引甼ヲ発シ午後阿久根ニ着泊ス

十月一日晴天阿久根ヲ発シ午後水俣ニ着泊ス

十月二日晴天水俣ヲ発シ午後此間三ツ峠アリテ一坂アリエ着泊ス

十月三日晴天佐敷ヲ発シ午後日奈久ニ着泊ス

十月四日晴天日奈久ヲ発シ午後松橋ニ着泊ス道至テ平坦ナリ

十月五日晴天午前松橋ヲ発シ午後一時頃川尻ニ着泊ス

十月六日晴天午前川尻ヲ発シ同十一時三十分頃熊本城ニ凱旋ス其式畢テ酒肴ヲ賜フ

酒肴ヲ賜フ時其式左ノ通リ

賊夥シト雖モ該時ニ至テ是ヲ事ト顧ム者一人モ無ク亦生捕モ數十名アリ即暫時ニシテ西南騒優ノ結局ナリ

九月廿五日曇天此日酒肴ヲ賜フ

九月廿六日晴天此日城山見物スルヿヲ許サレ一昨廿四日城山攻撃兵聯隊本部ニ於テ酒肴ヲ賜フ

九月廿七日晴天午後ヨリ設宿トシテ当鎭台ヨリ下士官若干ヲ先ニ発セシム本日警備ヲ解ク

九月廿八日晴天午前七時鹿兒島武村ヲ発シ午後伊集院ニ着泊ス

九月廿九日晴天伊集ヲ発程午後水引エ着泊ス

九月丗日晴天水引甼ヲ発シ午後阿久根ニ着泊ス

十月一日晴天阿久根ヲ発シ午後水俣ニ着泊ス

十月二日晴天水俣ヲ発シ午後一坂アリ(此間三ツ峠アリテ)エ着泊ス

十月三日晴天佐敷ヲ発シ午後日奈久ニ着泊ス

十月四日晴天日奈久ヲ発シ午後松橋ニ着泊ス道至テ平坦ナリ

十月五日晴天午前松橋ヲ発シ午後一時頃川尻ニ着泊ス

十月六日晴天午前川尻ヲ発シ同十一時三十分頃熊本城ニ凱旋ス其式畢テ酒肴ヲ賜フ

酒肴ヲ賜フ時其式左ノ通リ一肴ノ料理ハ☐形ノ板上ニ保シヤウ紙ヲ斜メニ折テ其上ニ鯛及午房混布運根牧キ玉子鯣メ(※するめ山芋等ヲ附シテ兵舎ニテ酒肴ヲ喰呑ナス

 

  明治十年十二月中旬寫之