西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

今年できた甲骨文字

右部分2個は左折・右折から出来た甲骨文字です。2023.2.1

ブログの更新が時々あって、どうしてかわからないが手間取っていました。さっき挑戦したら更新できたので何かを載せようと思い、新しい甲骨文字を公開します。「止」は足跡の形からできた漢字(本当)です。「ひので」は旦に似ています。2023.1.15 ※小川又次日記5月の加筆を再開しました。

「陣中日誌稿(明治十年 戰争日記)」5月

 熊本平野の会戦で敗れた薩軍熊本市南東の木山から浜町(矢部)を通って人吉盆地方面に向かう様子だった。官軍側では4月25日に木山の灰塚で以降の進軍部署を協議した。もし薩軍が人吉に立て籠もるならば、西側の八代から進撃し、都城に立て籠もるならば鹿児島に分遣した部隊と協議して進路を決めよう、人吉南西側の大口方面に対しては鹿児島県北西部の出水から進撃しようというものである。その結果、阿蘇山南東側に進んだのは別働第二旅団・熊本鎮台・第一旅団・第二旅団・第三旅団だった。

五月一日雨天当濱甼周圍エ更ニ胸壁ヲ築キ各所エ間諜或ハ斥候ヲ出ス

 官軍は地元民を使って薩軍の状況を探っていた。これは5月に限らない。下記のようにこの頃と思われる探偵報告がある。

C09084826900「探偵書 第三旅團参謀部」0913

  藤岡常彦

  馬見原ヨリ五里程ナル三田井村ヘ賊ノ八名程来リシト云フ曲ケ淵戸之口

    是ハ馬見原ヨリ一里或ハ二里半程先キ是ハ延岡ヘ探偵来ルト云フ夫レハ馬見原

  市中之者ヨリ承ル赴此向キ之賊大約千五百人ナリト云フ

  馬見原ハ今日迠至而静謐 

 日付は書かれていない。馬見原の東北東約14kmに三田井があるが歩けば20kmになるだろう。馬見原の東3kmに廻淵があり、中間に標高917mの鏡山が聳える。曲ケ淵は五ヶ瀬川の支流三ヶ所川南岸にあり、その北東上流南岸400mに戸の口がある。この探偵は馬見原よりも先には進まなかった。

五月二日晴天諸(方偏に者:誤字)方エ探偵ヲ出ス前日ノ如シ當濱町ニ着ス己来堅志田村及隈ノ庄ニ在ル官軍ト相通信ス

五月三日晴天朝鮎ノセ第二中隊出張午前第一中隊交代ス

五月四日雨天伍長片山岩太兼テ生死未明ノ処本日午后帰隊ス

 熊本市外南方の川尻町に薩軍が到着した2月20日の翌21日、川尻の薩軍宿泊所を焼こうとして熊本鎮台は二個中隊を潜行させた。しかし失敗し伍長二人・兵卒一人が行方不明となっていた。そのうちの一人が片山伍長であるが、帰隊した4日までに二か月以上たっており、相当苦労して帰隊したのだろう。

 この5月4日阿蘇輪西部の外牧村の平岡卯三郎宇が下記の探偵報告書を第三旅団に提出している。

0C09084827400「「探偵書 第三旅團参謀部」」 0921~0924

         記

  四月廿七日外牧村☐岩神口ヨリ髙千穂七ツ山通リ川ノ口ヲ経ヲダチ越ニテ五

  月二日延岡ヘ着同夕髙畑村ヘ止宿翌三日同所ヨリ引返シ瀧下タ通リ馬見原

  口之様◦罷越今五月四日髙森町ヘ帰着探偵之趣左ニ上申仕候

  一馬見原口ヨリ引上ケ申候賊手負凡ソ百五十名斗リ手負四五名ニ壮者壱名付添

    候新町ト申所迠引退キ同所ヨリ男女共惣出夫イタシ四月三十日瀧下ヨリ

   川舟ニテ二里斗リ下タリクワ鶴上崎ト申所迠罷越候処ニ細島ヱ凡ソ延岡ヨ

    リ五里軍艦三艘到着仕通行難成趣延岡ゟ報知御座候ニ付テ該地ヘ一泊

           翌五月一日川鶴ヨリ横ニ切レ黒木ト申所ヨリウナマ田代之様罷越候ニ付

           込ニ御座候且又延岡ニテノ風聞ニハ細島ヱ軍艦ゟ五百名程御上陸ニ相。

           成延岡士族二名ヲ御拘引ニナリ直ニ御帰艦ニ相成タル由

  一延岡表ヨリ出兵之賊手負ニテ四十名斗リ該地ヘ罷帰居候処右細島ヱ軍艦

   着仕候ニ付テ右手負ハ永井小川延岡ヨリ処ニヨリ一里半位ト申所ヱ移轉仕候

   ニ御座候

  一延岡市中ト細島ヱ軍艦着仕候ニ付テ毎戸諸道具等ヲ取片付☐立為申由

   御座候処右軍艦無程出艦仕候右由ニテ人氣モ大分居リ合候様見受申

           尤市中賊躰之者更ニ見受不申候

  一延岡ヨリ罷帰候途中馬見原迠賊躰之者見受不申尤區戸長躰ノ者袋入之

          刀負候者四五名ニ行逢申候土人之話ニハ宮崎表ヱ罷越候トノ趣ニ御

           座候

 

  右上申仕候事

           熊本縣第四大區九小区外牧村平民

   明治十年五月四日午後第七時髙森ヱ着 平岡卯三郎

 外牧村は阿蘇立野駅の南西側にあり、第三旅団が通過した場所である。この時に地元民に高森付近から延岡にかけての五ヶ瀬川流域の探索を依頼していたのであろう。

 岩神口というのは馬見原の東側、鏡山の北麓にある村の名から来ており、熊本への主要道路があったことが後日の鏡山の戦い部分で出てくる。平岡が高千穂を通った後の七ツ山通リ川ノ口ヲ経ヲダチ越の場所が分からない。延岡に5月2日に着、4日に高森に帰り着いている。先ず4月30日に瀧下(4月30日の記述から北方町滝下だろう)から川舟でクワ鶴(不明)・上崎・川鶴(川水流だろう。カワヅルと発音する)へ。

 川水流で得た情報によると細島に軍艦三艘が来ており、延岡へは通行しづらいと知る。この日は川水流に泊まり、翌1日南下して川水流の南約3km、五十鈴川流域の黒木に行き、黒木から宇納間・田代を探索。黒木の南西11.5㎞の耳川流域に西郷田代があり、宇納間は両者の中間やや西側にある。宇野間で聞いた情報によると、細島には軍艦から兵士500人が上陸し、士族二人を連行したという。平岡探偵が田代の後、どの経路で延岡に至ったのか不明である。帰路では延岡から馬見原までの間に薩軍を見なかったので、五ヶ瀬川沿いに進んでいる。

 この軍艦は実際は浅間と孟春の二艦であり、4月29日佐賀関から細島に進航したのである。上陸して情報収集すると、鹿児島から延岡に警察がやって来て、彼等が延岡区長に負傷者護送や糧米弾薬を運送させているらしいので区長(いわゆる市長)らを召喚し薩軍ニ協力しているのではないかと尋問、一名を浅間に乗せてこの日佐賀関に連行した(「西南征討志 全」)

 この4日、第三旅団は八代方面に向け出発した。三浦少将が山縣参軍に掛け合った結果である。探偵報告書を提出した平岡に探偵を依頼したのは第三旅団だったが、報告に帰った時には八代に転向してしまっていた。しかし、この報告書が第三旅団の綴りに入っているので、追いかけて届けたのか、熊本鎮台などが後日回送したのだろう。

  四日第三旅團ノ兵悉ク馬見原ヲ去リ熊本鎭臺兵代リテ之ヲ守ル

        〇五日探偵者ノ報知左ノ如シ

  昨日四日午後十一時賊徒凡ソ五十餘名延岡街道宮原村ニ來リ直ニ廣木村

  ニ至リ胸壁ヲ築キタリ〇夜賊兵俄ニ赤合村ヨリ南伏野原マテニ砲臺ヲ築

  造セリ(「征西戰記稿」) 

   5月4日、廣木村(広木野)は宮の原村のすぐ北側にある広木野村であるがここに胸壁を築いたのである。赤合村の近くに南伏野原があるのか?

五月五日雨天第三中隊兼テ霍ケ淵出張之處第二大隊第一中隊ト交代ス

 鶴が淵は前出の鮎ノ瀬の下流1.2㎞位の所にある。第三中隊は4月26日にここに向け出発していた。5月5日付で第三旅団に提出された探偵報告書があるが、5月11日付で提出したものの概要版といえるものである。

 次は5日付の探偵報告書。上記の人達とは違う人たちである。

C09084830900「探偵書 第三旅團参謀部」1044~1046防衛研究所

     上申書

一岩神村ヨリ三田井迄ノ途中各村ニ於テ延岡方景況及探偵候處先般来賊徒日洲エ向ケ逃去候者不尠候得共地方ニ於厳粛取締致シ候ニ付不得止手負等之病者ニ至ル迠新町及ヒ向山七ツ山ノ三ヶ所ヲ越エ奈須ヲ経テ人吉エ退去仕候由ニ御坐候

一四五日前延岡沖ニ軍艦二三艘着岸同所第五大区細島ト申候處エ上陸同区〃長并ニ旧延岡藩士及三名軍艦エ拘引相成候由ニ御坐候

一三田井町エ巡査体ノ者徘徊有之ノ義ハ先般東京巡査七八名程出張及三日逼留相成候由且一昨日馬見原御出張之廣島鎭臺第十一聯隊第二大隊二中隊付陸軍少尉松村勇介兵卒七名斥候ノ為メ同所エ出張昨四日午後十二時帰営ノ由ニ付萬一ハ右及条ノ誤聞㰦ト想像仕候尤鹿児島縣巡査ハ一般ニ解放相成候趣ニ御坐候

岩村鹿児島縣令ハ同所本縣ヘ有扣成候由ニ候☐未タ宮﨑支廳エハ出張之処分明ナラス候由

一地図ハ古澤元倫最中尽力周旋致シ居候事ニ御坐候

右之件〃傳聞ノ侭ニテ誤聞モ不鮮候得共不取敢一應上申仕置候尚延岡表エ罷越逐一實况至急上申可仕候也

  十年五月五日     佐伯惟綱㊞

             佐伯惟隆㊞

             楢木野惟利印 

             小山武敬・

             古澤元倫㊞

  陸軍第三旅團

    御本部

      御中

 小山と古澤はなお残って探偵を続けていたが古澤は捕縛され、殺害されてしまう。

C09082818900「明治十年六月 来翰綴 軍團本營」(防衛省防衛研究所蔵)0669~0672

     御届

  熊本縣第十一大区九小区髙森町五百九拾八番地居住士族

        古澤元倫

         四十四年四月

右私父元倫儀本年五月三日征討第三旅團ヨリ為探偵鹿児縣延岡表被差立翌四日小山武敬猶木野惟利佐伯惟綱ノ四名モ同様ニテ熊本縣第十一大区七小区岩神村ヨリ同行罷越右武敬列四名ノ者ハ追々帰着元倫儀ハ旧延岡領梁瀬トカ申所ヨリ相別 レ該地ノ景况精々探偵ヲ遂ゲ罷帰其筋ヱ上申可仕約定ニテ為有之由ニ候処帰着延引甚ダ案労罷在候処豈計ヤ客月十二日髙千穂三田井表ニテ賊手ニ陥リ同所ノ岸ノ上(三田井の役場から南西700m位が岸の上らしい)ト申所ニテ被害セラレタル趣頻リニ風聞有之得共其砌三田井方エハ賊屯集確実探索モ難成不得已其侭押移居候中御進擊ニ付テ賊退散仕候間本月七日親戚ノ者共該地エ罷越シ精々探訪ヲ遂ゲ候処客月九日敬列ト相別レ候テ該日賊ヨリ縛セラレ同十二日三田井村ニテ殺害セラレタル趣聊相違無之左候テ同所ノ田﨑耕之助ナル者ノ所有地ヱ埋メ有之由ニ付死骸見調候処首ヲ刎子且ツ胸ヨリ腹ニ懸ケ七ヶ所ノ刀傷両股ヲモ切放シ有之候得共半髪ニシテ左額ノ骨瘤存在イタシ一躰ノ容貌正シク父元倫ニ紛レ無之候間死骸持越シ既ニ警視局ヨリ檢視ヲモ被仰付過ル八日埋葬相営申候此段御届申上候也

            古沢元倫長男

 明治十年六月十日     古澤光彦印 

            右副戸長

              飯星和三郎㊞

 

 第三旅團

  本營

    御中 

 5月9日に薩軍に捕縛され、12日に殺害されたのである。三田井から薩軍が去った後、6月7日、古澤元倫の親戚が噂を頼りに死骸を探し当て、警視局の検視を経て8日に埋葬した。彼は44歳四か月だった。医者の診断書が附属している。

C09082819000「明治十年六月 来翰綴 軍團本營」 (防衛省防衛研究所蔵)0673・0674

診断書

   第十一大区九小区髙森町 

   五百九十八番屋敷

        古沢元倫

卯死骸診断候処頭ヲ吻断シ肚腹ヨリ胸隔ニ至ル迄刀傷七ヶ処両腿ヲモ切断イタシ有之候尤日數ヲ経候儀ニテ疵ノ廣狭淺深不詳候

 

 右之通御坐候

 

        第一大区一小区五百九番屋敷

        士族醫

明治十年六月十日   師井貞雄印

 

 医師は熊本市から来たのだろうが、同行していたのだろうかは不明。

五月六日晴天馬見原出張第一大隊第三中隊ヨリノ報ニ残賊宮ノ原ト申処ニ胸壁ヲ築キ五十人斗リ明松ヲ携ヘ奔走スル勢アリ此處馬見原ヨリ一里半余昨五日ノ報ニ日向海辺ニ残賊ノ患者乗舩ノ処半ハ海軍ヨリ狙撃ス病症ハ「痘」(あばた)多シト云フナリ

 宮ノ原は馬見原の東南東4.5㎞にある。その北東には津花峠があり、その東に三田井がある。次は熊本鎮台の隈岡大尉の報告である。

C09084029300「戦闘報告原書 明治十年五月十一日~七月十七日 第二旅団」防衛研究所蔵 0620~0623征討総督本営罫紙

昨五日賊兵七拾名余ゴマ山邉ヨリ延岡路ヘ出テツバナ峠ヲ越テ三田井ヘ繰込タルトノ報知アリタリ土人(その土地の人。地元民)ノ説ニ據レハ此賊ハ三田井ヨリ肥日ノ境ヒ岩上口及ヒ川路口等ヘ出ツヘシト果シテ然ラハ速ニ両所ヘ出兵相成度モノナリ

岩上口ハ旧熊本藩ノ関所ニシテ延岡ヨリ熊本ヘノ往還ナリ地形坊禦ニ尤モ便ナルヨシ戸数モ凡百五十余ノ村落アリ川路口モ同様ナリ岩上口ハ三田井ヲ巨ル凡三里髙森ヲ巨ル二里馬見原巨ル凡四里半川路口ハ豊後往還ナレトモ熊本ヘモ延岡等ヨリ通スル道路ナリ一昨日御報知ニ及ヒ候廣木郡(広木野のこと)ノ賊ハ当男坂ニ胸壁ヲ築キ居候趣キナリ今朝当隊ヨリ偵察ヲ赤谷(津花峠の北北西2.7kmに下赤谷があるのでこの付近か)辺江出シ目撃スル処ナリコマ山辺ヘモ胸壁ヲ築キタル趣ナリ戸ノ口村 酒屋角太郎モ今朝偵察兵ヨリ縛シ来レリ即今糺彈中ナリ岩上口ヘモ過刻ヨリ探偵者一名差出置タリ尚追々確報ヲ得御報知申上候

 五月六日     隈 岡 大 尉

    川上少佐殿(川上操六)

 文中、岩上口ハ旧熊本藩ノ関所ニシテ延岡ヨリ熊本ヘノ往還ナリとある岩上は岩神と同じで、先に掲げた熊本県から宮崎県に入った探偵達もこの岩神を通っている。

 隈岡報告の地名を上図に示すが、肥日ノ境ヒ岩上口及ヒ川路口等の川路口は不明。三田井の東か北だろう。男坂は男山の北側の峠道であることが後日の記録に登場する。男山も同様。薩軍側-中津隊・延岡隊を含む-が5月6日には男坂に台場を築いていたことが分かる。この時期、薩軍側は南西側の人吉方向から鏡山の南側を通り、津花峠を越えて三田井方向と行き来していた。男坂や男山では5月下旬まで戦いがあったので、戦跡も残っているだろう。この文には次のものが続いている。

五月四日ゴマ山馬見原ヨリ上里ト申所ヘ八名斗リ参リ哨兵小家ヲ懸ケ申候様子ニテ夫方十人斗リ連レ参リ候由五月五日金スギゴマ山ヨリ一里半七ツ山馬見原ヨリ上里☐☐ノ方ヘ弾薬相運ヒ申候由ニテ弾薬等守衛人五十人斗リ参リ申候由尾前村三十戸斗リヨリ滝村(六戸斗リ)迠ハ一戸ニ二三十人宛止宿致居候由

金スキヨリ山崎江城(江代)迠ハ戸毎ニ賊徒止宿申候由

 一見疑問がわく記述だが、人吉の東側に位置する宮崎県椎葉村胡麻山は馬見原に南から来る五ヶ瀬川左岸にあり、距離15.5km)の南から薩軍が北上して来たのである。馬見原の東側にある津花峠を東に越えて三田井に入り、その後馬見原方向に引き返したのだろう。

五月七日晴天第二中隊成君村エ出張ス午後第二時頃大坂鎭台兵当濱甼エ到着

 「熊本鎭臺戰鬪日記」によると七日午前五時同一中隊第十三聯隊第二大隊第三中隊ヲ馬見原ノ左翼岩上村ニ分遣スとあり、小川又次の第三大隊ではない第二大隊が岩神村に進んだのである。6日までは守備していなかったようである。他にも熊本鎮台部隊は増強され続け、11日には岩神(計1大隊)・馬見原口(1大隊と1中隊)・浜町(4中隊)・川ノ口(1小隊)・成君口(1小隊)・勘場口と鮎ノ瀬と田吉口(小川少佐の2中隊)・菅ノ尾村(1中隊)に配置に就いている。

09084828400「探偵書 第三旅團参謀部」0949~0951

      至急上申

一一昨五日上申申置候通延岡表エハ賊兵壱名モ滞留不罷在一旦鎮静ノ形ニ趣キ候處昨六日午後八時過延岡沖ニ於テ軍艦ヨリ發砲大砲十四五發也延岡町エモ玉五ツ程落チ候由ニテ老幼ヲ背負家財ヲ運ヒ騒動不一方候ニ付速ニ探索仕候處賊兵人吉ヨリ山鹿ヤマゲ越ヲ経テ中村新町延岡ヨリ四里エ二百名細島エ延岡ヨリ五里四百名美々津エ三百名繰出シ候由ニ付細島投錨ノ軍艦直チニ解纜延岡沖通行ノ節發砲致シ候由ニ付市中一般老幼ノ者郊外エ避ケ退キ候様昨夜深更當所區長ヨリ詞達致シ候趣ニ御座候ニ付今早朝細島并ニ中村新町両所エ探偵差出置候間尚事實詳細上申可仕候

一先般延岡通薩洲エ引却キ候賊徒途中ニ於テ細島エ軍艦着湾ノ様子傳聞致シ川鶴及ヒ新町ノ両所エ立返リウナマ越エ赴キ候者共同所エ滞留致シ居候模様ニ付直ニ探偵ニ及ヒ候處ウナマ村エ滞在ノ賊ハ僅カ七八十名程ニテ已ニ過ル四日ヨリ昨六日迠ニ都テ米良方ヲ指シ退却候由ニ候

一當延岡エハ賊兵壱名モ滞留不罷在間旧藩士賊徒エ組セシ者死傷總テ四十名ノ由ニテ傷者ハ居宅ニ於テ療養致シ居候由残黨壮青ノ分ハ舉テ人吉エ立越申候由ニ候

 

右之条件上申ノ為メ佐伯惟綱佐伯惟隆両名晝夜兼行差上申候尚詳細実地探偵ノ上上申可仕候也

  十年五月七日      小山武敬花押

              古澤元倫

  陸軍第三旅團

    本部

      御中 

 これは4人で探偵に行った四人の内、小山と古澤が記入した報告書を両佐伯に持たせた5月7日付の報告書である。小山・古澤は引き続き探索を続けるとある。

五月八日晴天午後第十四聯隊当濱甼ニ到着ス

五月九日晴天鮎ノ瀬出張第一中隊午后第十四聯隊ト交換ス濱甼ニ歸ル

 第十三聯隊第一大隊第三中隊の隈岡大尉は9日の「戰記稿」馬見原諸兵の部署表では同第一中隊・第四中隊と共に延岡口であり、鏡山を含んでいる。ここで紹介している小川又次日記の部隊、第十三聯隊第三大隊は5月11日の「戦記稿」によると勘場口・鮎ノ瀬・田吉口に同大隊の2個中隊が部署配置され、司令官は小川少佐である。彼らは馬見原の西側にいたので、鏡山付近の戦いについては簡単に記述している。同じ部署表で鏡山の北側にある岩神を第十三聯隊第一大隊の2個中隊と第三旅団の2個中隊が担当している。

五月十日晴天用意トシテ鰹節一人ニ付一本宛下給セラル

五月十一日晴天第三中隊新藤村(浜町の南方にあり、先に登場した田吉の南西)出張ノ処午後第十四聯隊ト交代ス当濱甼ニ於テ背負彈藥箱百九十四個ヲ当大隊ニテ新造各中隊エ配與ス辯利最モ冝ク山戰ニハ必ス是ノ如ク物ヲ要ス

 下は5月4日に髙森町を出発し、11日に帰着した探偵の報告である。第三旅団に依頼されたのだが、帰り着いた時には第三旅団は八代方面に移動していた。

 次は高森町から5月4日に探偵に出かけた報告書である。5日付で短文の報告を提出した5人の内の2人である。長いので文中に括弧で補足を書き入れたい。 

C09084830500「探偵書 第三旅團参謀部」1022~1030防衛研究所

     延岡表探偵上申

一過ル四日午後髙森町出發翌五日午前第二時頃第十一大区七小区(御船町田代。宮崎県では第六~十二大区が旧都城県だから、この場合は熊本県である)岩神村エ着熊本県から岩神村を経由したのは外牧村を出発した平岡と同じである)工藤三四郎宅エ立寄候処過ル三日髙森町發程仕候古澤元倫出會仕候ニ付三田井方探偵行届候ヤ否ヤ尋問ニ及ヒ候處仝所エハ巡査体ノ者六名程出張致シ居候ニテ官ヨリ派出ノ様子ニモ無之全ク賊巡候ノ兵ナルベシ且椎谷(下図。三田井の南東2.5km。五ヶ瀬川左岸)ト申処エハ賊兵三百名斗滞留ノ由頻リニ巷説有之候段申聞候ニ付古澤元倫同道出発鹿児島縣(当時宮崎県はなく、鹿児島県だった)川内村旧宮﨑県当県境界ノ地(不明)ニ於テ同所副戸長志津幾冶ト申者エハ同行中懇意ノ者有之候ニ付三田井方景况尋ネサセ候處三田井ハ申スニ及ハズ延岡方迄賊兵一名モ居不申云々ハ過日上申仕置候通ニ御坐候

一仝日午後一時過三田井着景况先般上申ノ通同所田﨑耕之助ト申候者髙千穂通リ地理功熟ノ者ニ付古澤元倫小山武敬両名右耕之助宅エ罷越地図編纂依頼仕置同午後三時過同所出発仝九時過宮水驛日之影町宮水。五ヶ瀬川左岸にあり、三田井から南東へ直線距離8.5km)着同所探偵等仕候

一右田﨑耕之助エ依頼致シ置候髙千穂圖面佐伯惟綱佐伯惟隆歸途受取差出候筈ニ候處三田井賊兵出張ニ付遂ニ受取方行レ不申候一翌六日宮水方探偵仕候処別ニ異變無之候ニ付同午前五時出発新町驛日之影町舟の尾のすぐ東)ニ至リ候処過日上申仕置候通残賊ウナマ越ニ滞在ノ由風説有之候ニ付楢木野惟利探偵ノ為メ同所エ滞留跡四名ノ者仝午後六時過延岡仲町松本九平ト申候者宅エ止宿仕候尤阿蘓商社々中商用ノ為メ罷越候者ト声言致シ置候

一延岡旧藩士并ニ市街ノ者景情頗ル探偵仕候處始末賊兵ニ接シ居未タ官軍エ親シク相接シ不申候ニヨリ御真意承知致サス夛賊兵ニ☐惑セラレ候者數多有之候ト見受申候

一右六日午後六時過松本九平宅着即下海手ニ当リ大砲相響キ候ニ付同所市中ノ騒擾tm且細島富高新町ノ景况ウナマ楢木野惟利探偵等ノ儀過ル七日佐伯惟綱佐伯惟隆両名ヲ以テ上申仕置候通御座候 ※上部に:延岡ヨリ細島エ五リ富高新町エ四リ山鹿エ八リ

岩村鹿児島縣令ハ本縣エ着相成居申候宮﨑支廳エハ大屬壱名鳥瞰代理トシテ相勤居申候由ニ御坐候

一同七日細島并冨髙新町過日中村新町トアルハ誤リ也エ賊兵出張ニ就テハ商用ニ關係不尠ヲ名トシ宿亭松本九平ヲ頼ミ探偵差遣シ置候処翌八日午前第二時頃右探偵ノ者罷歸リ全ク六日人吉ヨリ山鹿ヲ経テ賊兵六百名細島及ノヒ冨髙新町両所エ出張尚又七日八百名繰出シ候ヲ目擊仕尚日々繰出シ候由ニテ

右両所ハ不容易混雑ニ付商法等一切被行不申段細島新町両所商法問屋ヨリノ書状等持歸申候書状古澤元倫所持ニ付委細承リ糾シ候處六日ニ賊兵押出候ニ付細島湾投錨ノ軍艦解纜延岡沖通行ノ節発砲ニ付相違無之由且賊兵ハ追々延岡ヲ経テ大分縣エ向ケ立越候由確ト承知仕候由申出

一賊魁西郷隆盛本陣ヲ山鹿エ轉シ候筈ノ由ニテ頻ル用意致シ居候風説有之候ヘ共確報ヲ得不申夛クハ訛傳ニ可有之億側仕候ヘ共此段風説ノ侭上申仕事候

一同八日賊兵大分縣エ向ケ押出シ候由ニテ延岡ヲ初メ道筋村驛エ先觸差出シ候由ニテ已ニ延岡表區長所ヨリ市中一般エ相觸候ニハ騒擾ノ際家財等郊外エ送リ候儀大兵不時ニ支出ノ節不都合有之候テハ不相済儀ニ付炊具蒲団ノ類差送リ候儀决シテ不相成萬一送リ出シ置候者ハ速ニ持歸リ豫テ相備置候様相達候由此段実見仕候薩軍が民家に宿泊する際に炊飯具や布団を使うので、家の中に置いておけということ)

一過ル八日頃ヨリ都城ニ於テ戦争相始リ候由ニ候尤賊兵ハ人吉ヨリ押出シ候由委曲探偵行届難ク開戦ノ模様段ノミ確報ヲ得申候(これは虚報であり、都城ではこの時期に戦闘はなかった)

一同日ヨリ海路舟止メニ相成商船タリノモ乗客通行一切差止メ申候

一髙千穂筋賊兵押シ出シ已ニ三田井ニ於テ官軍探偵ノ者両名就縛(古澤元倫と不明の一人)通行差留候由風説有之且延岡旧藩士ノ者共モ至極煩敷様子ニテ雷管等周旋奔走致シ居私共止宿エモ追々様子見繕体ノ者罷越候抔充分煩敷事ノミ候ニ付協議ノ上一先ツ歸縣ニ决定仕候

一同九日午前五時延岡仲町松本九平宅出立髙千穂出張ノ兵全ク賊兵ヤ否ヤ分明ナラス候ニ付先ツ一應彼ノ地エ向ケ出発梁瀬ト申候處ニテ通延岡ヨリ髙千穂四里弱確説ヲ承知仕候ニハ賊兵出張三田井ハ勿論岩戸越比々良越等ニ至ル迄臺塲ヲ構エ婦女子或ハ商人ニ至ル迄一切通行差留候由ニテ迚モ髙千穂通行出来ガタク候ニ付協議ノ上三名同行萬一賊手ニ罹リ候ラハ遂ニ御報知モ難相成候ニ付両道ニ別レ候ヘハ何レニ凶事有之候ノモ一方ハ必ス歸縣景况上申可仕髙千穂通ヱハ古澤元倫賣荷ヲ駄来商人ノ躰ニ身ヲ變シ罷越前顕ノ通商用ニテ罷越候趣声言致シ置キ候ニ付延岡表滞在中都合ヲ失セザルカ為メ私金ヲ以テ物品買上候品小山武敬楢木野惟利両人ハ再ヒ延岡エ立歸リ豊後口ヘ向ケ罷越候様决定元倫ハ直チニ發程武敬惟利ハ延岡エ立歸リ候處同朝延岡出立ノ景况トハ大ニ相違最早賊兵七百名押シ出候趣ニテ止宿札ヲ張リ今ニモ着仕躰ニ有之候尚精々捜索ヲ遂ケ候処全ク細島及ヒ冨髙新町ヨリ押シ出シ暫時延岡滞留遂ニハ大分エ向ケ罷越候趣ニテ実ニ不容易模様ニ有之候一小山武敬楢木野惟利両名直チニ豊後口竹田道エ向罷越候處追々途中ニテ探偵致シ候處延岡ヨリ三里半斗ノ処ニシテ熊田驛ト申候處有之是ハ豊後口ヨリノ總口ニシテ山川ヲ帯ヒ最モ要害ノ地ニ候由右熊田驛エ三田井口ヨリ賊兵三百名番兵トシテ出張關門ヲ構ユエ陸川両路ノ通行ヲ止メ不絶近村野山林ノ別チナク巡邏致シ候由ニテ前後左右賊兵ニ塞ガレ実ニ私共進退差迫リ寸歩モ進ミナン難ク困難無際候處旧宮﨑縣第六大区六小区長江村四丁目三十七番地平民廣末彌吉ト申候者元熊本鎮台兵卒相勤候由出會雑談ノ末今般延岡表ヱ商用ノ為メ罷越途通行差留リ困却ノ事情相咄(咄の活字を使ったが、実際は右部を舌に書く)候道路不按内ニ候ハ﹅教導致シ遣スヘク申聞先般賊兵熊田驛ニ出張ノ節モ取締巌粛ニシテ右様ノ事相聞候ハハ即刑ニ處スルノ典則ナレハ此度ノ 儀モ仝段ニ可有之殆ント危難ノ事ニ候ヘトモ此度間道按内可致申聞其侭同道弥吉宅前ヱ罷越候處此際ニ付萬一家内ノ者共故障申出候様有之候テハ不都合ノ次第ニ付一應様子伺見候迄畑畔エ潜伏致シ居呉候様申置弥吉壱名歸宅私共田右畑ノ畔ヱ潜伏ノ處暫間ニシテ宅内エ呼入喫飯ノ上身軽ニ出立山中ヲ按内致シ呉候處固ヨリ村里ヲ離レ候處峻嶮屈曲実ニ歩シ難キ地ヲ先導シ山川ノ急流ヲ侵シ向岸ノ繋舟ヲ操リ私共ヲ渡シ候抔千辛萬苦ヲ尽シ遂ニ九日終夜ニシテ上赤村ヱ着夫ヨリ木浦越ヲ経大分縣内木浦驛ヱ出テ寸刻モ至急上申仕度昼夜兼行昨十一日午後三時過髙森町ヱ歸着仕候実ニ右彌吉ノ懇切且該縣ノ士民名分ヲ誤リ賊意ヲ好シスル者夛キヲ慨キ勤王ノ誠意言外ニ顕レ寔(まこと)ニ一種ノ仁物ニ有之候必竟私共無異歸着此段上申仕候儀全ク彌吉尽力ノ為ス処左ナキノキハ熊田驛賊手ニ縛セラレ候ハ必然ニ候故ニ此段上申仕置候ニ付冝敷御含ミ置被為下度候(しかし、廣木彌吉に褒賞が与えられたという記録を見つけることができない)

一廣末彌吉エ依頼旧延岡藩領熊田驛近傍ノ道路并ニ川谷村落里程等ノ細図来ル十五日大分縣木浦驛ニ於テ受取候様訂約仕置候ニ付受取済ニ相成候ハ﹅至急差出可申候筈ニ候

右之件々延岡表探偵上申仕候也

 

 明治十年五月十一日    楢木野惟利印

 

              小山武敬印

 

  第三旅團本部

      御中

 文中、三田井ニ於テ官軍探偵ノ者両名就縛通行差留候由風説有之とあるのは古澤元倫を含むのだろう。三田井で官軍の探偵が捕まり、通行を止められているという風説があった。

 次は5月11日付の提出報告だが、原文とみられるものもある。

C09084829000「探偵書 第三旅團参謀部」(明治十年三月廿四日~同五月五日) 0964~0971防衛研究所

探偵書 第十一大區八小區馬見原町

    平民

     今村貞八

本月三日馬見原町出立元宮﨑縣深墨村日之影町の深角には織田大明神:深角神社がある)天神社ニ馬見原町ヨリ深墨迠八里貳時間休息仕瀧下ヨリ川舟ニテ四日午後十時延岡ニ着シ中町川地屋幸吉宅ニ泊シ同五日滞留探偵左之通

一賊手負延岡ヨリ門河迠一旦着之処軍艦細嶋湊ニ着候ニ 付ウナマ田代和田ツボヤ四ヶ所之様惣引揚區長戸長巡査ハ鹿児嶋縣宮様御出張向江惣御呼出ニテ出方イタシ富高新町區長戸長貳名ハ軍艦ヨリ御用御呼出ニテ乗舩イタシ未タ引取不申候

一同六日延岡出立富高新町ニ参リ延岡ヨリ五里両村繰出候様飛脚ノ者ヨリ承候内山影村ト申所ヘ先勢着之段承リ河地屋ヘ引取止宿ス

一同七日河地屋滞留イタシ居候処當縣九大區五小區ヨリ探偵一瀬熊雄並馬見原町八田熊三参リ熊雄儀ハ引取熊三ハ同宿ス柳澤町松次郎ト申者忰熊本鎭臺ヘ入営致シ居松次郎ハ兼テ知音ノ者ニ付同人ヲ傭ヒ富高新町ヨリ山影村迠探ヲ頼ミ差立候処山影村賊本陳五百名程富高新町ニ貳百名程参リ候ヲ見認メ同人宿所ニ帰リ候ニ付同日午後五時私参リ承リ合河地屋ヘ引取居候処同十時頃官軍ノ軍艦ヨリ旧城下近在大在村城下ヨリ十町程柳澤町河原ニ向ケ大砲十三砲發ニ相成町家ハ家財荷物等運送雜沓仕候(延岡を軍艦孟春が砲撃したのは5月6日だった。「孟春艦石炭ノ盡ルヲ以テ之ヲ裝載セント欲シ細島ヲ發シ途次延岡ノ海岸ニ近ツキ試ニ城趾ニ向テ砲ヲ發ツ十數回ニ及フ然レノモ應セス其賊ナキヲ察シ又發シテ翌佐賀ノ關ニ入リ・・」(「西南征討志 全」海軍省)とあり、発砲数は探偵書が詳しい)

一八日午前八時頃出立引取途中墨原村城下ヨリ三里半ニテ三田井ヨリハキ迠参タル處飛脚ニ出會候處本月六日頃七ツ山方ヨリ三田井ツハナ越エ両所本通リ道筋口一タノ内賊賊 三四百名繰込張番(今村原文では「三田井ツバナ越両所ノ本街道ヘ賊三四百名繰込張番」)致シ通行難行段承リ舩尾迠延岡ヨリ八里引取候処賊四名ニ出會馬見原町ノ者ニテハ無之哉ト差咎候ニ付岩戸村寛助ト偽名ヲ以通リ拔ケ小萩村出店ヘ立寄聞繕候処延岡城下表ヘ馬見原町ヨリ追々探偵入込居候由出店亭主ヨリ咄致 夫ヨリ中村(舩尾ヨリ一里半程)賊貳名ニ出逢差咎其他道筋ニテ賊ヨリ追々差咎候得共高千穂ノ者ト偽名ヲ以通拔秋本村ニ舩尾ヨリ七里程止宿ス

 以下4行0969は貼り紙。ここに入るのか不明確。

本行十日藤好宅ヲ一ト先立出天神社ヘ着替等差置三田井方探索ノ為猶藤好宅人馬継所ヘ出方イタシ候処那須椎葉山ヨリ米ヲ運送スル夫方足ヲ痛メタルヲ相助テ杦ノ越迠(藤好宅ヨリ十丁程)参ル逢中ニテ三田井表並岩戸村方ヘ賊ヨリ繰出候人數ノ多少等聞合候処同日藤好宅ニテ聞取候通ニテ外ニ相☐候儀無之候事

一同十日午前六時頃出立笹ノ越ト申処ニテ賊數十名ニ出會三ヶ所村ヨリノ夫方帰ト申通拔ケ内ノ口村秋本村ヨリ二里半程甲斐藤弥宅ニ着聞繕候処番兵有之通行出来兼候趣ニ付同人宅ヘ止宿シ三田井村賊千人内外岩戸村ニ貳百名計リ押方村ニ百名ツハナ越ヘ三四十名程出兵イタシ候趣藤弥ヨリ承ル同人儀ハ伍長ニテ人馬替等役ノ人也八多滞留出来兼ルニ付同村天神社ニ止宿イタシ本行十日藤弥宅ヲ一ト先立出天神社ヘ着替等差置三田井方探索ノ為猶藤弥家人馬継所ヘ出方イタシ候処那須椎葉山ヨリ米ヲ運送スル夫方足ヲ痛メタルヲ相助テ杦ノ越迠藤弥宅ヨリ十丁程参ル途中ニテ三田井表並岩戸村ヘ賊ヨリ繰出ス之人數ノ多少等聞合候処同日藤弥宅ニテ聞取候通ニテ外ニ相望候儀無之候事藤弥世話ニテ布タナシ壱枚蓑笠ヲ求ム土地ノ人躰ニ支度ヲ換ヘ夫方ノ躰ニテ同十一日午前六時頃出立坂苅村ヘ着馬見原町ヨリ二里半程同村ニテ廣木ノ原臺塲ヨリ宮ノ原村ニ懸ケ賊三百名計リ屯集イタシ居候趣承リ戸川村ヨリ山道通リ廻淵村ニ出境ノ杦往還通リ馬見原町ニ午前十一時歸着ス

一三田井表賊之粮米人吉口ハ壱俵ヲ夫方貳人持ニテ陸續運送スルヲ内ノ口村ニテ見認延岡口ハ瀧下迠ハ川舟ニ積登セ夫ヨリ馬ニテ貳三十駄定附トスルヲ見受申候

一山影村ニ屯集ノ賊ハ延岡旧藩備有シタル大砲六門臺塲ニ備有之弾藥ハ人吉口ヨリ夫方ニテ運送スルヲ内ノ口村ニテ見受申候

右之通ニ御座候事

 十年五月十一日

         今村貞八

    以上みてきた5点の探偵報告は、藤岡(5月初め前後頃)・平岡(4月27日~5月4日)・佐伯等4人(5月?日~5月5日)・小山(5月4日~5月11日)・今村(5月11日)など、異なる日時に官軍通過地域の人々を使ってなされており、情報収集が重要だったことが分かる。もちろん隈岡大尉報告のように陸軍部隊による探索も行われていた。

五月十二日晴天濱甼☐(※一字分虫食)警備ヲナシ探偵等ヲ出スノミ

五月十三日雨天聯隊本部及第二大隊馬見原ニ出張第一大隊第三中隊モ過日同処エ出張セリ午後梨子一個宛下賜其中蜜甘モアリ

五月十四日雨天馬見原ヨリ隔タル十七八丁ノ処ニ鏡山アリ此處エ他大隊兵若干及第四中隊大哨兵ヲ張リ居タリ然ルニ午前五時頃深霧ニ乗シ俄然襲来我軍一時苦戰第二線ニ退シカ暫時ニシテ舊線ニ復ス此ノ時我軍死傷凡十四名就中本隊ノ即死兵卒吉田卯吉外五名負傷伍長佐藤房太郎外三名アリ

「征西戰記稿」14日の記事。

〇十四日午前四時暁霧ニ乗シ延岡街道鏡山ナル熊本鎭臺兵ノ大哨ヲ襲フ我兵一時苦戰シテ之ヲ馬見原町口ニ禦ク豫備隊中隊同第二大隊第二第四中隊第十三聯隊第一大隊第一第三ノ援隊悉ク之ニ當ル賊少シク退ク尾擊シテ鏡山ノ半腹ニ進ム賊又太鼓山(太鼓山は隈岡本地図にある。馬見原の川の西側、道の上の対岸のどこかの山)ヨリ迂回シ我兵ヲ交擊ス我兵悉ク鏡山頂上ノ壘ニ進入シ彼ノ背後ニ出テ(鏡山の北または南から薩軍の背後に迂回したのだが、鏡山ノ半腹の薩軍か太鼓山の薩軍か、これでは不明だが両方だろう)遂ニ之ヲ驅逐ス時ニ午後五時ナリ是ノ夜更ニ部署ヲ改ル左ノ如シ(部署表を文字で示す)

地名    聯隊 大隊 中隊 司 令 官 

延  岡  口  十三 一  三  隈岡大尉

         二  四  佐武中尉

長崎村分遣 十三 一  一  宮崎大尉

鏡   山 十三 一  一  石川中尉

人 吉 口 十三 三     平佐大尉

是夜堀江中佐部下ニ告諭スル左ノ如シ

 今暁賊ノ兵襲來ハ全ク意料ノ外ニ在リ一時哨線ヲ退クノ厄ヲ受ケシモ終ニ悉ク之ヲ掃除シ舊線ヲ恢復スルニ至レルハ一ニ諸將校下士卒ノ勇戰シテ善ク防禦セシニ之レ由レリ今ヨリ後モ若シ一歩モ此線ヲ退カハ到底此地ヲ守ル能ハサルヘシ因テ夜間ハ一層哨兵ヲ增シ適宜ノ兵員ヲ各堡壘ニ伏シ警備ヲ嚴ニシ其防禦力薄弱ノ部及ヒ堡壘前面ノ如キハ勉メテ多ク鹿柴ヲ設ケ注意ヲ密ニシテ盡力ス可シ云々

 5月14日、鏡山とそれに続く北側の官軍守備線は破られ、西側麓に退却して防戦し、後に馬見原の市街手前で喰い止めて再び鏡山頂上を奪回した。

 官軍の馬見原防禦線は境之松から鏡山に至って設けられていたという。境之松がどこにあるのかは戦いに関わった隈岡大尉の「西南戦争隈岡大尉陣中日誌」により詳しい記述がある。次はこの日の全文。

五月十四日

 第一中隊ハ午前第五時頃、賊、馬見原ヘ襲来、依テ同処ニ赴援スベキノ命ニ依リ、同処ヲ発シ直ニ馳セテ該所ニ至リ、一分隊ヲ以テ第二ノ胸壁ニ充テ残余ヲ援隊トス、然ルニ十時頃、彼レハ太鼓山ヘ迂回シ発射烈シキヲ以テ右小隊若干名トモ、小隊若干名、佐土原中尉之ヲ指揮シ土肥原少尉試補之ニ副トナリ該山ノ半腹ヨリ頻リニ横擊シタル処、賊ハ瞬時ニ潰走シテ山谿ヲ遁走スルヲ尾擊ス。故ニ四方ヲ探知シテ銃器其他ヲ分捕シテ再ビ太鼓山ヲ占領シ防禦線ヲ極ム。午后第七時、援隊トナリ馬見原ニ舎営ス。又第三中隊ハ亦樺山地方ニ転移スルノ際、午前第四時頃、賊兵暁霧ニ乗ジ第三大隊第四中隊ノ守線、延岡街道大哨線ノ左翼ヲ迂回シ窃ニ我線内ニ襲来ノ報アリ、依テ直ニ赴援スベキノ命ヲ受ケ、馳セテ鏡山麓下ノ小坂峠ニ至レバ、彼ハ街道ノ正面、或ハ右翼ノ原野ニ散布シ、鬨喚シ、将ニ市街ニ迫ラントス。故ニ新井少尉、桜井少尉試補ニ右小隊ヲ附シ正面ニ向ワシメ、大田少尉試補、長南少尉試補ニ左小隊ヲ附シ右翼ノ原野ニ迂廻シ岩神村ニ向カフ。左小隊ハ、鏡山ノ正面ヨリ攀☐(足偏に守)シテ山上ノ胸壁ニ進入ノ議ニ決シ、右小隊ハ第二大隊第一中隊ノ一小隊ト左小隊ハ第三大隊第四中隊共ニ競進シ其目的ヲ達ス。賊ハ大ニ狼狽シテ防禦ニ術ナク胸壁ヲ捨テヽ走ルヲ尾擊シ旧線ヲ恢復ス。爾後直ニ、廻リ淵近傍ニ偵察ヲ派出シテ退却後、彼ノ景況ヲ探知スルニ、再襲ノ色ナシ。此ノ日、桜井少尉試補以下之兵卒死傷スル者八名、而シテ俘虜一員其他銃器弾薬若干分捕ス、第四中隊ハ午后第四時半頃、福原大尉引率シテ樺山ヨリ馬見原ニ帰来シ、又第二中隊ハ仮屋村ニ分遣スルヲ以テ此日戦闘ニ預カラズ。

 下は同書唯一の挿図である。字を書き込んでいる傍に分かりやすく活字を加えた。上下に分けて拡大表示する。

〇は3列の守線で、右つまり東からイ・ロ・ハと呼ぶことにする。鏡山頂上尾根に南北に走るイが当初の官軍守線。その左、西側の麓に二列の守線が並ぶのは、図の書込みによる限り、右側のロが襲来して来た薩軍が臨時に築いた前線、左側のハが鏡山頂上尾根から退却して踏みとどまった官軍防禦線である。ハには予カ中隊と書き込まれ、開戦後に駆け付けた隈岡隊はここを守ったのである。この守線の左に直線が一列あり、ここには予カ隊ト三ノ四中隊とある。長方形の印も官軍部隊の位置を示すものだろう。一番左側の〇列や長方形は日記には記述はないが、援軍に駆け付けたり、戦闘中に頂上からここまで退却して、戦闘を続けたのかも知れない。以上の時間差を示したのが下図である。

 この図左下には彼レハ太鼓山ヘ迂回シ発射烈シの太鼓山の表記もあり、場所が分かる。

 この日の戦いについては熊本鎮台参謀が第二旅団の野津少将と岡本中佐に宛てた報告がある。

C09084028300「戦闘報告原書 第二旅團」 0590・0591

今暁霧ニ乗シ賊兵我馬見原防禦線境之松ヨリ鏡山ニ至ルニ襲来セシヲ以テ第二防禦線馬見原町ヨリ日州街道ノ出口ヲ固守ス故ニ賊兵馬見原町ニ侵入スルヲ得ズ終ニ鏡山ノ絶頂ニ退ケリ此時賊兵ヲ斃ス凡二十五六名而乄賊兵再ヒ来攻ムルノ色ナシ我兵少シク死傷アリ尚確報ヲ得バ至急ニ及御報知候得共当時之景况荒増及御報知置候也

 五月十四日   濱町出張

          熊本鎭臺参謀

   野 津 少 将 殿

    岡 本 中 佐 殿

 この報告が書かれた段階の薩軍は鏡山頂上尾根に退いただけであり、まだ戦いは続いていた。この報告には当初官軍が守っていたのが我馬見原防禦線(境之松ヨリ鏡山ニ至ル)とあり、境之松という場所から鏡山までに防禦線を配布していたのである。先に掲げた「隈岡大尉陣中日記」本文や「戰記稿」、後者の基になった「熊本鎭臺戰鬪日記」(「戰記稿」とほぼ同文)には境之松は登場しない。隈岡が言及していないのは、薩軍が襲来した後に駆け付けたのであり、当初の守備線を知らなかったと思われたが、挿図には登場するので、彼の分担ではなかっただけらしい。その部分は次の通り。第一中隊ハ午前第五時頃、賊、馬見原ヘ襲来、依テ同処ニ赴援スベキノ命ニ依リ、同処ヲ発シ直ニ馳セテ該所ニ至リ、一分隊ヲ以テ第二ノ胸壁ニ充テ残余ヲ援隊トス

 境之松がどこにあるのか国土地理院地図では分からないが、西川功・甲斐☐常1979「西南の役髙千穂戰記」の地図にはその場所が記されている。この本は戦闘前後の両軍の動きや集落に残る刀痕や両軍に使われた住民に関する記述などが豊富にあり、詳しくはそちらを読んでいただきたい。戦いの推移については自分なりの理解ができていないので、この「髙千穂戰記」も参考にしつつ述べてみたい。下図はその挿図。

 図の左上部に県境の境が太く黒い線で引かれ、岩神の左側に境の松と書かれているのがそれである。図にも鏡山頂上尾根筋から境の松、道路を挟んで北側の大野(国土地理院地図に大野はない。これが示すように詳しく現地調査が行われた書物である)まで官軍の守備があったと描かれている。この位置比定が正しければ境之松は肥後と日向の境に植えられていたことになる。

 最近、岡本真也さんから鏡山と西側山地を踏査していくつも台場跡を発見したと教えていただいた。それらの分布図によると「高千穂戰記」の境之松の位置比定に疑問が生じた。鏡山頂上から北西に官軍台場群が残っているのだが、その守備線は境之松とされる地点よりも西側に存在する。松が残っていないにしても標識か何かがあるのだろうか。やはり現地踏査が重要だなと再確認したわけである。2023.1.24地図を検討した結果、赤字部分を取り消したい。境之松は県境にあったでよい。台場跡の分布調査によって、細かな戦闘経過が明らかになった、としたい。

 この戦いに参加した薩軍部隊名について官軍側の記録は触れていないが、「高千穂戦記」や薩軍側記録によると、中津隊・正義五番中隊(小倉清左エ門)・同六番中隊(肥後壮之助)・同七番中隊(橋本諒介)・奇兵十六番中隊(小浜半之丞)・延岡隊である。生き残って懲役刑を受けた人(一般の兵士以上の階級)が(おそらく監で獄)上申書を書いており、鏡山に関する上申書を見ておきたい。

 次の4件が中津隊士の上申書。

中津隊 

「福井代次郎外一三名(中津隊)連署上申書」第二巻pp.842・843

我隊ハ奇兵隊一中隊・正義隊・延岡隊等ヲ嚮導シテ三田井ノ間道ヲ踰豐地大分県ニ入ラント約シ、五月三日同所出発五日廣木野村ニ至リ、男山・ツバナ越(津花峠も守備したのか)等ノ各所ヲ守ル、八日同所出発三田井駅ニ転ス、而テ敵高森ニ在ルヲ以後道ヲ絶タレン事ヲ慮リ未タ豐地ニ進ム事ヲ得ス、故ニ又馬見原屯在ノ敵ヲ進撃セント欲シ十二日男山ニ帰ル、十四日午前三時頃鏡山ニ進ム、敵兵塁ヲ山上ニ築キ守ル、我軍三方ヨリ進登銃丸雨注激戦数刻、敵遂ニ守リヲ棄テ走ル、我軍益進ミ将ニ馬見原牙営ニ迫ラントス、敵兵杉山(杉山!この状況は延岡隊に詳しいので後で掲げる)ニ入テ殊ニ死戦スルヲ以進ム事能ハス、且弾薬頓ニ尽ク、仍テ我衆皆退ク、総軍死傷百名ニ過キス、薩軍ハ廣木野ヲ守リ我隊ハ男山ヲ守ル居ル事数日廿三日敵軍大挙来テ我男山ノ守リヲ衝ク、守兵僅五十名ニ足ラス死ヲ以防守ス、時ニ増田宋太郎等衆ヲ励マシ劇シク防戦スルヲ以敵兵遂ニ侵入スルヲ得スシテ退ク、廿五日三田井駅敗聞至ル、仍テ諸軍守ル事ヲ得ス退キ七ツ山・小崎村等ヲ経テ六月一日大楠村ニ着、

 中津隊は男山から進撃し、馬見原手前まで迫ったが元居た男山に退却した。その後23日に官軍が襲来し退けている。七ツ山が出てくるがこれは男山よりも東側の七ツ山である。宮崎県には七ツ山が沢山あり、どのことか迷うことが多い。

「筑摩宗太郎外五名連署上申書」第二巻pp.571・572

矢部ニ退ク、止ルコト二三日、桐野利秋独リ当所ニ在リ、是ヨリ兵ヲ豊後路ニ出スヘシト議ヲ定メ則チ兵ヲ二道ニ分チ、一ハ野村忍助ヲシテ奇兵廿一中隊ヲ率ヒテ日州路ニ出テ、延岡城ヲ根拠トシ豊後路ニ出シ、一ハ立木(高城)七之丞ヲシテ正義二中隊・奇兵十六番中隊ト我中津隊ヲ先鋒トシテ即チ(人吉盆地の)湯ノ前ヲ発シ奈須越ヨリ多加良木(財木)ヲ経テ坂本ニ到ル、官兵ノ鏡山ニ在ルヲ聞キ急ニ兵ヲ室野ニ進メ砲台ヲ男山ニ築キ以テ各隊ノ至ルヲ待ツ、各隊尋テ至ル、共ニ三田井ニ到リ大鹽越(オサカゴエ)ヲ戌ル、オサカゴエは三田井北西側背後の尾根筋を横断する場所にある小坂越である。

五月廿二日馬見原進撃ノ議ヲ以テ同処ヲ引揚ケ復室野ニ会ス、

二十三日(5月14日)中隊長小濱某相議シテ奇兵十六番中隊・正義六番中隊・同七番中隊ト我中津隊ノ凡七百余名分ツテ三隊トナシ、一ハ本道、一ハ岩神ノ間道ヨリ、一ハ山下ヨリ、急ニ暁霧ニ乗シ巌石ヲ攀チ各抜刀ニテ直チニ鏡山ノ頂ニ築ク官兵ノ砲台ヲ襲テ立ニ数名ヲ斃ス、各隊皆奮戦砲台ヲ落スコト凡十数ヶ所、将ニ馬見原ヲ衝カントス、官兵能ク防ク、砲戦終日我兵弾薬ノ乏シキヲ以テ復退テ男山ヲ守ル、此役ヤ死傷二十余名、我中津隊死傷五名、

五月廿五日本営ノ命ヲ以テ奇兵十六番中隊・正義七番中隊ト与ニ三田井ヲ守リ、正義六番中隊ヲ以テ坂本及ビ檜ノ木原(場所不明)ヲ守リ、我中津隊ヲ以テ男山ヲ守ラシム、居ルコト十余日ニシテ官兵未明ヨリ我男山ヲ襲フ、我兵能ク防ク、砲戦終日日暮ルヲ以テ官兵亦鏡山ニ退ク、翌日官兵復来ル、終ニ撃テ之ヲ退ク、已ニシテ報アリ、三田井ノ守敗レ悉ク七折ニ退クト、終ニ各隊ト共ニ七ツ山ニ退キ数ヶ所ニ戌ヲ安キ居ルコト五日、亦同所ヲ発シ七折ノ大楠村ニ到ル、

「矢田宏上申書」第四巻pp.48・49

矢部・馬見原・胡麻山・椎葉ノ嶮艱ヲ経過シ江代ニ着ス、不日シテ三田井進軍ノ令アリ、我隊之レカ先鋒タリ、孤軍ヲ以テ長駆シ嶮岨ヲ閲テ兼行直ニ坂元ヲ突ク(中津隊はどこから坂本に至ったのか?)、巡査兵今ヲ望ンテ馬見原ニ走ル、而シテ後軍遅緩我隊援兵ナシ、即チ塁ヲ馬見原口ニ築キ疑兵ヲ張リ之ヲ守ル、後隊尋テ臻ル、我隊直ニ三田井ニ進入、尋テ奇兵拾六番隊長小濱某等兵ヲ率ヒ来ル、各道ヲ分ツテ哨兵ス、五月十四日ニ至リ灰床村(不明)ニ転移シ、夜土人ヲ募リ嚮導トシ、笛闇夜兵ヲ潜メテ鏡山ニ達ス、這ノ山尤トモ峻絶、敵兵許多ノ炮塁ヲ築キ拠テ以テ要衝ノ地ト為ス、之ニ於テ各隊ヲ分チ三道ヨリ進ム、我隊岩神口支道ヨリス(中津隊は岩神口を進撃)、宏等七名闇黒ニ紛レ隊ニ遅ル、迷テ路ヲ失フ、頓ニ岩神本道敵塁ノ前ニ出ツ、敵兵烈シク炮発ス、時ニ山手及ヒ諸道ノ軍戦ヒ既ニ開ケ、炮声地ニ震シ山岳為ニ崩レントス、我兵叱咤匍匐シテ進ミ、一同抜刀炮塁ニ殺到ス、敵三名ヲ斃シ進ムノ折柄、左岡ノ塁ヨリ(何処か)発丸注グカ如ク、直ニ吶喊之ニ赴キ炮塁ヲ乗落ス、既ニシテ後兵尋テ進ミ支道ノ兵亦敵ヲ破ツテ来会ス、即兵ヲ併セ暁霧ニ乗シ鯨呼突進ス、官兵度ヲ失ヒ先ヲ争フテ走、山岳ヨリ顚墜スルモノ無数、味方機ニ乗シ左右ニ殺到シ、終ニ大ニ之ヲ敗ル、六時ヨリ九時ノ間塁柵ヲ落スコト廿四五、斃屍累々郊野ニ縦横ス、殆ント将ニ馬見原ヲ取ラントス、既ニシテ而シテ坂本々営ヨリ急報アリ、云ク、大至急事アリ、各隊長官速ニ来会セヨト、因テ内変アルカト疑ヒ馳セテ該地ニ到レハ他ノ異事ナシ、増田・小濱等帰来怒リ且ツ罵ツテ云、豎児人ヲシテ軍機ヲ失セシムト、切歯之ニ久シ、而シテ味方ノ兵気大ニ沮喪シ敵勢復振フ、我隊・奇隊互ニ殿戦シテ退ク、旧塁ニ防線ス、這ノ日我隊死傷拾余名、銃器・弾丸等ノ分捕許多ナリ、斯ニ於テ我隊男子坂(男山の北側にあると考えられる男坂ニ転守、日アリ半隊長楼井某(桜井の誤写)・梅谷及宏等隊用アリ、大分県下竹田出張奇兵本営ニ到ル、

「和久井鉄馬・大原一二三連署上申書」第四巻pp.518

同五月十日比暁霧ニ乗シ肥後国馬見原口鏡山ノ官軍ヲ進撃シ、直チニ台場数ヶ所ヲ取ル、官兵退走、亦炮台ニ拠テ頻リニ連発シ、且民家エ放火シ烟焰山ヲ蔽ヒ、炮声天地ニ響、接戦殆ント終日、終ニ勝敗決セスシテ我兵右ノ炮台ヲ棄テ置キ男山ニ引揚ル、此役中津隊死傷五名アリ、同五月十四日爽昧鏡山ノ官軍ヨリ男山ノ我兵襲撃セラレ、此時僅ニ中津隊而已ニテ拒戦シ頗ル苦戦ノ処、正義隊応援二三十名馳来リ、山頂ヨリ横ニ炮撃シテ漸ク勢ヲ得、又進テ力戦シ、終勝敗決セスシテ互ニ兵ヲ引揚ル、此役中津隊手負壱名アリ、以下は6月24日記事

 冒頭は10日ではなく、14日のことであり、14日とあるのは更に後日のことである。

中津隊に関して死傷者一覧の記録(高橋信武2012「日記和帳-中津隊士の記録-」『西南戦争之記録』第5号)があり、鏡山周辺では以下のように2人戦死、2人負傷が分かる。重松権十郎(肥後ノ國馬見原村鏡山戰死)柳 久太郎(同所ニ手負)石山益男(同書に時戰誌)矢野駒吉(同所ニ而手負)田中征晴(宮野村男山手負)

 図は中津隊が人吉盆地手前の江代から馬見原に進んだおおよその経路を示す。

奇兵拾六番中隊

「四元悟次郎・芳野覚悟太郎連署上申書」第四巻pp.60・61

五月三日三田井ヲ守ル、地方山アリ鏡山ト云フ、高聳峻嶮要衝ノ地ニシテ敵兵拠テ固守ス、四日夜方サニ暗黒、土人ヲ嚮導トシ兵ヲ潜メ枝ヲ攀チ桂(蔓)ヲ縋リ、山溪ノ路ナキニ往キ鏡山ノ絶頂ニ躋達ス、夜方サニ半ハナリ、兵ヲ分チテ三トナシ、座シテ東方ノ白キヲ竢(足偏)ツ、天既ニ明クレハ煙霧渺獏咫尺ヲ弁セス、我兵三面撃テ下ル、敵兵狼狽先ヲ争テ走ル、日漸ク午時ナリ、既ニ廿九塁ヲ抜ク、兵益ス疾鋭追蹤将サニ馬見原ニ逼ラントス、敵本営使ヲ馳セ諸隊長ヲ会セシハ中隊長小濱半之丞之ニ赴ク、兵士戦ヒヲ休メテ其返ルヲ俟ツ、少ラクアリテ小濱帰来ル、大ニ怒且罵テ云ク、本営人ヲ得ス、児輩我ヲシテ軍機ヲ失ハシムト、遂ニ三田井ニ退ク、仝廿五日黎明敵兵大挙来リ攻ム、我軍大ニ破レ大楠ニ退ク、尋テ豊後方面ニ陣ス、又六月廿五日赤松峠ニ進撃ス、

「平山小左衛門上申書」第二巻pp.83

矢部ヘ退ク、三小隊合シテ奇兵拾六番中隊ト改メ、其時半隊長トナリ直ニ南郷街道ヘ番兵凡二週間、夫ヨリ馬見原ノ内鏡山ヘ進撃大勝利、官兵ノ即死八十余名ナリ、味方ノ戦死僅ニ弐十余名、即、日三田井ヘ引揚、四週間滞陣ノ処官兵屡々進撃シ、

 

「小濱半之丞上申書」第二巻pp.345・346

我曹分レテ立野ニ至リ鎌田雄一郎等ト共ニ之ヲ守ル七日許、已ニシテ各方面敗績シ兵ヲ収テ全軍矢部ニ屯シ、之ヲ守ル事二昼夜、兵勢振ハサルヲ以テ軍ヲ収テ一旦人吉ニ退キ軍議ヲ定ント、軍ヲ分テ二ト為シ一ハ圍口ヲ踰ヘ、一ハ椎葉山ヲ経テ江代ニ至リ、是ニ於テ二道ノ兵聚合ス、桐野利秋更ニ議シ、飜テ馬見原ヲ扼守セント欲ス、野村忍介等之ヲ不可トシ議遂ニ決セス、利秋憤激松岡淸助及我曹ヲシテ馬見原ヲ扼セシム、即チ部下ヲ率ヒ胡麻山ニ抵リ探偵ヲ出ス、即チ還テ官軍已ニ馬見原ニ防備ヲ構フト報ス、是以テ隊ヲ駐メテ胡麻山ヲ扼セシメ、淸介ト共ニ江代ニ抵リ具状ス、利秋曰ク、事已ニ今日ニ迫ル、迅ニ三田井ヲ守ルニ如クハ無シト、中津隊・延岡隊及我隊ヲシテ之ニ向ハシム、胡麻山ヲ正義隊ニ譲リ即発シテ三田井ニ拠ル、兵ヲ分テ諸方ノ間道ヲ塞キ相持スルコト数日、利秋令ヲツタヘ兵已ニ全集セハ速ニ馬見原ヲ攻撃ス可シト、是ニ因テ我曹戦略ヲ議シ兵ヲ分チ二道ヨリ進ミ、室野ニ至リ宮原ニ会シテ再ヒ軍議ヲ為シ、細作ヲ出シテ敵況ヲ得、是ニ於テ兵ヲ分テ五道ヨリ進ミ皆馬見原ニ向フ、即チ延岡隊・正義六番中隊坂元ヲ発シテ鏡山ヲ踰ヘ、中津隊・正義七番中隊及ヒ我隊室野ヲ発シテ進軍ス、官軍境松・鏡山ノ二険ニ拠テ拒ク、我軍直ニ撃テ之ヲヤブリ尾シテ将ニ馬見原ニ至ラントス、官軍止リ拒ク、争戦時ヲ遷ス、小隊長上原某之ニ死ス、死傷凡ソ二十三名、此時ニ当リ正義本営高城七之丞飛書ヲ伝ヘテ急ニ我曹ヲ宮原ニ会セシム、即チ之ニ赴ク、議畢テ再ヒ戦場ニ向フ、我軍兵ヲ収テ退クニ会フ、官軍少ク尾撃ス、而テ我曹室野・坂元・宮原等ノ地ヲ扼守ス、居ル事一日之ヲ中津隊ニ譲リ、正義五番中隊・延岡隊及ヒ我隊転シテ三田井方部ヲ守ル、数日ニシテ官軍襲来テ我右小隊ノ線ヲ攻ム、我曹大ニ防キ戦フ、利アラス死傷凡三十有余名ニ至ル、官軍益々迫ル、是ニ至テ我兵僅ニ十余名ヲ余ス、衆寡匹敵ス可ラサルヲ以テ走ル、路梗塞藪中ニ潜匿シ、深更ニ至リ漸ク遁レテ中邑ニ出ツ、

 延岡隊・正義六番は坂元発し鏡山を越す。中津隊・正義七番・奇兵十六番は室野発進軍。

 

正義五番中隊

「平瀬宗兵衛上申書」第二巻pp.109

人吉ノ内湯ノ前ニテ隊伍編製、正義五番中隊半隊長ニ挙ラレ、四月下旬三田井ヘ転陣、夫レヨリ鏡山ニ進撃大勝利ヲ得ルト雖トモ弾薬乏シキ故三田井ヘ退テ陣ス、五月初旬官兵襲来ル、終ニ我兵敗走シ中村ニ引揚ケ、夫レヨリ又破レテ長井村ニ取囲マル、

 

「久永喜兵衛上申書」第二巻pp.115

旧三月初旬矢部ニ引揚ケ江代ニ於テ正義五番中隊中隊長トナリ、夫ヨリ馬見原ヘ進撃、利無クシテ三田井ヘ引揚ケ、此地ニ番兵スル事数十日、旧四月初旬敵兵襲来此時敗軍ニテ延岡ノ内中村町ニ引揚、

上は次の藥丸に酷似する。

「藥丸兼文上申書」pp.191

四月下旬矢部ヨリ椎葉山(椎葉山という特定の山はなく、椎葉村や近隣の山地のこと)ヲ経テ湯ノ前ニ至ル、時ニ正義五番中隊ト編制、此時分隊長トナリ、三田井ニ発ス、同所ヨリ馬見原ニ進撃ス、勝利ナクシテ三田井ニ引揚爰ニ哨兵スル事十余日、戦利ナクシテ中村ニ退キ、其時半隊長トナリ、

「木藤與右衛門上申書」第四巻pp.345・346

翌日又矢部ニ引揚、爰ニ至ツテ隊号改正ノ事アリ、我隊正義ニ番中隊ト改称ス、四五日爰ニ番兵ス、又馬見原ヨリ胡麻山ヲ越へ、湯ノ前ニ至リ隊制ヲ改メ、我正義弐番左小隊ヲ正義五番中隊トス、五月十二日豊後方面比呂木野(広木野)ヘ陣シ、同十五日進テ鏡山ノ敵ヲ撃チ之ヲ走ラス、追撃里余ニシテ又比呂木野ニ凱旋セリ、同廿五日転シテ三田井口へ陣ス、爾来四方ノ戦我軍皆利アラス、全軍退テ永井村ヲ保ス、

 胡麻山も集落の地名らしく、そういう特定の山を指すのではないだろう。この場合、胡麻山地域の山を経過したということだろう。

「川上寶山上申書」第四巻pp.436・437

翌日矢部ニ引揚ケ、夫ヨリ胡麻山ヲ経人吉ノ内湯ノ前ニ着ス、此ニ於テ隊号ヲ変シ我隊正義五番中隊ト改称ス、五月十二日比呂木野ヘ繰出シ、同十五日鏡山ノ官軍ヲ追散シ、馬見原迄追討シ、味方大勝利、此時ノ分捕針打銃十余挺・同弾薬数千発、同十八日延岡ノ内三田井ヘ転陣、我隊朝壁(昨日2023.1.21ブラタモリに出ていた浅ケ部)ヲ守ル、同廿五日官軍襲来、味方諸塁破レテ中村ヘ引揚ケ築塁固守ス、

 中村の前に浅ケ部を守ったことが分かる。正義七番中隊の金丸は鏡山攻撃以前に浅ケ部越を守っている。後で掲げるように朝ケ部越ヘ番兵ヲナスとある。浅ケ部越の尾根を西に進んだ峠にある小坂越を5月25日に官軍が西から攻撃し奪っている。この時、浅ケ部越も攻撃された。下図の下側に三田井がある。後で触れる機会がないので記すが、5月25日この尾根線を占領した官軍は三田井を見下ろす状態で陣地を築いている。

C09080659100「鹿児島事件 軍畧戰況」防衛省防衛研究所蔵0372

一昨廿五日第一旅團ニテヲサカ葛原岩戸ノ要害ニヨル賊ヲ落シ三田井ヲ取リ三田井ヲ眼下ニ見ル所ニ於テ守リヲ付ケタリト小澤大佐ヨリノ報知

「北原吉藏・久保之近連署上申書」第四巻pp.459

一五月十二日頃比呂木野ニ陣ス、同十五日馬見原ノ内鏡山ノ敵ヲ進撃シ、互ニ勝敗分タス、退テ延岡ノ内三田井ヲ守ル、同廿五日未明ニ敵襲来リ、連戦スル数刻、遂ニ利アラスシテ椎畑ニ退キ、

 

正義六番中隊

「肥後壮之助上申書」第四巻pp.195

我遂ニハ矢部ニ引揚ヘキ令アルニ依テ矢部ニ至ル、同廿七日頃本営令シテ人吉ニ引カシム、我隊ハ胡麻山ヲ越へ湯ノ前ヘ引揚滞陣ス、爰ニ於テ隊号ノ変制アリ、余更ニ正義六番ノ中隊長トナル、五月十日頃日向国高千穂ノ内坂元村ヘ繰込ミ固守ス正義五番中隊・同七番中隊・奇兵十六番中隊・延岡隊・豊後ノ中津隊ハ男坂・廣木野ノ間ヘ固守ス、官兵鏡山并笠部越其他ノ要所ヘ守備ス、同十五日昧爽我惣軍鏡山・男坂等ヨリ進撃、我隊ハ笠部越ヨリ進軍、窃ニ敵ノ背後ニ廻リ突起、直チニ敵柵五六箇所ヲ攻抜キ官兵散乱、我軍尾撃シテ兵仗・弾薬数千発ヲ収メ、馬見原町川口辺迄衝撃ス、官兵急ニ軍ヲ整ヘテ防戦ス、時ニ雨甚シク日モ既ニイリ、戦ヲ休メテ旧塁ニ守ル、此日官軍死傷甚タオオシ、我軍モ亦死傷アリ、同四五日ヲ経テ男坂并廣木野両所ヘ官軍攻撃、男坂ノ守兵中津隊右翼ノ高岳ヨリ官軍烈シク襲来、銃丸雨ノ如シ、我右小隊ノ内半隊ヲ割ヒテ赴援シ、険ヲ越奮戦シ、官軍漸ク退キ旧塁ヲ復シテ守兵ス、同十八日頃三田井口敗軍ノ報アリ、本営ノ指揮ニ依テ七ツ山迄退軍ス、同廿日頃米良応援ノ令ヲ受テ茲ニ至ル、

 鏡山戦闘の際、薩軍側は麓の馬見原町の近くまで進んだ。馬見原町川口辺迄とあるのは川口という地名があると誤解されがちだが、町の東側にある川の手前という意味である。これは「西南記伝」も影響しているらしい。その部分を掲げる。

大に官軍を敗り、追撃して馬見原、川口に至る。

 この書き方だと川口は地名だと勘違いされてしまう。

「外山金次郎上申書」第四巻pp.247

同十三日太陽暦4月26日)頃江代ニ引揚ク、時ニ各隊ノ編制ニヨリ我隊ハ正義六番中隊左小隊ト為リ数日滞在、鹿兒島県下坂本ニ出軍、旧四月二日(5月14日)鏡山ヘ味方進撃戦争数刻、遂ニ官軍ヲ破リ弾薬弐千余ヲ分捕、追撃大ニ勝利ヲ得、午后二時又坂本迄引取、其后旧五月十五日(6月25日)大楠ヘ出張ス、

 正義六番中隊は坂元から鏡山を攻撃。次の島名も同様。肥後壮之助は笠部越より進軍という。

「島名正治上申書」第四巻pp.338・339

湯之前江引揚ク、十余日止陣ス、爰ニ於テ隊号ヲ編制シテ正義六番中隊トス、然ル処五月中旬本営ノ令ニ従ヒ日向国高千穂ノ内坂本村江出張ス、是ノトキ官軍同所ノ鏡山江台場ヲ築キ固守ス、三四日ヲ経テ我隊外ニ四中隊ヲ以テ鏡山江進撃ス、我正義六番中隊ヲ以テ官軍ノ背後ニ出ツ、官軍虚ヲ打タレ時間ヲ費サスシテ鏡山陥ル、勢ヒニ乗シテ尾撃スルコト二拾町計リ、爰ニ於テ弾丸四五千発ヲ得、是時官軍馬見原ノ町(町口という地名があるわけではない)ニ止リ防禦ス、爰ニ於テ暫時戦フト雖モ守り固クシテ敗ル能ス、依テ我五中隊共ニ旧守坂本村江退陣ス、四五日ヲ経テ坂本村ノ内男坂ノ守リ江官軍大勢ヲ率ヒテ攻撃ス、我隊奮戦シテ遂ニ官軍ヲ追散ス、即時兵ヲ集メテ旧守ニ付ク、然ル処二三日ヲ経テ出張本営坂本村之守ヲ巡廻シ、衆ニ云テ曰、三田井村ハ味方ノ要所ニシテ所謂咽喉ノ地ナリト、依テ旧守坂本村ヲ捨テ即時三田井村江引揚ヘキ令ヲ受ク、故ニ兵ヲ三田井ニ引揚ク、

正義七番中隊

「金丸雄造上申書」第四巻pp.388

矢部ニ引揚滞陣スルモノ数日、大隊編制アリ、我隊正義一番中隊右小隊トナル、続テ胡麻山越ヲ通リ四月二十八日人吉ノ内湯ノ前村ヘ至ル、四日滞陣、五月二日余ニ正義七番中隊右小隊半隊長ヲ命セラル、此日我隊三田井口方面出張ヲ達セラレ、翌三日午前八時出発川崎ヘ到着ス、滞在五日、発足、金杉・寶木駅延岡ノ内宮ノ原村ヲ経八日三田井村ニ達ス、四日ヲ過キ朝ケ部越ヘ番兵ヲナス、時ニ馬見原進撃ノ軍議有リ、十三日三田井ヲ発シ諸野村(室野)ヘ到着ス、十五日馬見原ニ進撃セントテ午前三時正義五番・六番中隊及奇兵十六番中隊・延岡隊・中津隊ト合シテ進軍、我隊ハ本道ヨリ鏡山ニ向ヒ奮戦シテ入ル、本道正面ハ四重ノ台場ヲ築キ間道ノ台場合シテ十八九ナリシカ、朝霧ノ間ニ乗リ敵ノ北クルヲ追フコト一里半余、馬見原ノ人家近キ所迄押詰、復戦闘数刻ニ及フ、時ニ引揚ノ令アリテ我隊午後四時頃諸野ニ帰営ス、此日敵兵棄ル処ノ死骸拾有余、弾薬・銃器等分捕ス、味方死傷三十余名アリ、同十六日宮ノ原ヘ出張、廣木ノ台場及戸川ヲ守ル、八九日ヲ経我隊押伍・兵士二十余名斥候ニ出シカ、敵ノ斥候ニ出合赤谷村ニ戦フ、我斥候ハ利アラスシテ退ク、尋テ官軍来リ我台場ノ正面(広木野・戸川の正面)ヲ攻ム、我兵防戦、土民百余人ヲシテ山上(池田上申書では左翼山上とある)ヨリ呼譟シテ声援ヲナサシム、是ニ依テ左翼官兵退ク、日暮ニ及ヒ両軍交々退ク、翌三日三田井方面敗、我台場之正面ヘモ敵兵攻来、終日防戦フ、時ニ三田井方面七折迄引揚ノ報知有リ、翌未明三田井口応援トシテ七ツ山迄引揚ケ、

 上記の八九日ヲ経我隊押伍・兵士二十余名斥候ニ出シカ、敵ノ斥候ニ出合赤谷村ニ戦フに対応する記録が「熊本鎭臺戰鬪日記」5月19日部分にある。

馬見原口第十三聯隊第二大隊第二中隊ノ斥候回淵ニ至リ前岸人聲聞ユルヲ以テ之ヲ報ス又正面ノ歩哨ヨリ拔刀鹿柴ヲ切リ拂ヒ進入ノ報アリ少尉吉井昇直チニ兵卒六名ヲ卒井至ル偶々濃霧深フシテ敵ノ多少判然セスト雖ノモ之ニ發放セシム忽チ一人ヲ傷ケ之ヲ穂ヘ敵情ヲ糺スニ全ク賊ノ斥候兵五十名計リ回淵ニ來リ其先鋒トシテ線内ニ入リ我情ヲ探偵スルモノナリ

「池田伊介上申書」第四巻pp.473・474

是ヨリ直ニ矢部ニ引揚ケ甲佐街道馬谷(場所不明)ニ守兵ス、後二日ヲ経テ胡麻山ノ険ヲ越ヘ四月廿八日人吉ノ内湯ノ前村ニ到着ス、於是我隊ハ正義七番中隊ニ合併シ、三田井口出兵ノ命ヲ受ケ川崎ニ至リ、滞在スルコト五日ニシテ又金杉・宝木・宮ノ原ノ各所ヲ経テ三田井村ニ着シ朝ケ部越ヲ守ル、五月十三日馬見原ヘ進軍セント諸野村(室野)ニ至リ、翌十四日ハ休足、同十五日黎明ヨリ正義五番・六番・七番三中隊、奇兵十六番中隊、延岡隊、中津隊各同時ニ進発、我隊ハ鏡山ニ向イ、暁霧ニ乗シ星馳☐発瞬時ニ敵堡ヲ抜ク拾八九、尚追撃シテ馬見原ヲ距ルコト二町ニ至ル、於是敵兵返戦、両軍挑ミ戦フノ際、本営ヨリ引揚ケノ令アリ、依テ是非ナク此地ヲ引揚ケ、午後四時頃ニ至リ諸野村ニ帰陣ス、此日ノ戦頗ル火急ニ追撃シタルヲ以テ数拾ノ敵屍路傍ニ縦横ス、味方モ亦死傷三拾余名ニ至ル、同十六日宮ノ原ヘ繰込ミ廣木・戸川ノ両所ヲ守ル、後八九日ヲ経テ哨兵ヲ出セシニ赤谷村ニ於テ敵ノ進軍スルニ会シ、暫時防戦遂ニ利アラスシテ退ク、依テ敵兵追撃直ニ我正面ニ来ル、於是我隊長橋本諒介一籌ヲ投シ、土民百余人ヲ左翼山上ニ登セ、喊ヲ造テ勢援ヲナサシメタルニ、我偽策ニ陥リ本道ニ掛リシ敵ハ狼狽シテ一時ニ敗走セリ、因テ其他ノ敵モ利ナクシテ薄暮ニ及ンテ引退ク、翌日三田井口ノ味方敗レ七折村ヘ退ヲ以テ敵兵尋テ我守塁ニ来リ攻ム、依テ此日ハ終日防戦、薄暮ニ及ヒ敵自ラ退ク、然ルニ七折村ヘ応援スヘキノ報アルヲ以テ翌早朝七ツ山迄至リシニ、又人吉口苦戦ニ付迅速応援スヘキノ命アルニヨリ、緩急ヲ斗リ是ヨリ道ヲ転シテ人吉口ニ向イ尾川迄至リシニ、人吉既ニ敗レテ

 最初の行に出てくる甲佐街道馬谷は場所不明だが、間谷山(マンタン山)という可能性がある。 

 

「橋本諒介上申書」第二巻pp.507・508

黄山ヘ転陣ス、翌日官軍来ル、我軍大敗シ矢部ヘ引退キ馬見原ヨリ胡麻山ヲ越テ旧藩人吉領内湯ノ前ニ引揚暫時滞陣、新古兵入替ヘアリ、正義隊ヘ変制、余ヲ七番中隊長ニ命ス、令ヲ受テ日州三田井ヘ繰込、諸隊手配アリ馬見原ヘ進撃ス、官兵鏡山ノ峠ヘ台場数ヶ所ヲ築、朝霧深我隊潜ニ本道ノ右脇山中ヲ登リ、境松ノ敵背ヨリ衝ク(本道の右脇が境松である)、官兵狼狽シテ逃レ走ル、尾撃シテ町口ノ台場ニ至ル、我軍深入シ又応援不来シテ引返シテ宮之原ヘ転陣ス、豊後中津隊一小隊ニテ男坂ヲ守リ我中隊廣木野ヲ守ル、時ニ馬見原ノ官兵襲来テ右ノ山上ヨリ我軍ヲ眼下ニ狙撃ス、我兵孤軍ニテ甚難義ナリ、土民共ヘ紙旗ヲ持セ後ロノ山上ニ登セ防カシム、又坂元ヨリ分隊ノ応援ヲ得、山上ノ官兵ヲ追落シ終ニ勝利ヲ得、三日ヲ過キ三田井ノ敗報アリ、七ツ山ヘ転陣ス、

 後半部分の戦い(宮之原ヘ転陣ス、豊後中津隊一小隊ニテ男坂ヲ守リ我中隊廣木野ヲ守ル、時ニ馬見原ノ官兵襲来テ右ノ山上ヨリ我軍ヲ眼下ニ狙撃ス、我兵孤軍ニテ甚難義ナリ、土民共ヘ紙旗ヲ持セ後ロノ山上ニ登セ防カシム、又坂元ヨリ分隊ノ応援ヲ得、山上ノ官兵ヲ追落シ終ニ勝利ヲ得)は上申書の多くが記述する中津隊の守る男山が攻撃された戦いに符合するらしい。正義七番中隊は男山の南側低地部の広木野を守っていたが、他の上申書を加味すると地元民達を後ろの山に登せ、紙旗を振り、大声で応援させている。

延岡隊                                             

「加藤 淳上申書」第二巻pp.256 延岡隊半隊長

廿四日人吉ニ出兵ノ令アリ、即時出発、道ヲ椎葉山ニトリ、廿六日玖摩郡江代村ニ至リ、居ル事数日、高千穂三田井村ヲ保守スヘキノ令アリ、乃チ正義・奇兵三中隊並ニ中津隊ト共ニ江代ヲ発シ、三田井ニ赴ク、中津隊前進シテ高千穂三ヶ所村坂本ヨリ報シ曰、官兵馬見原ニ屯シ諸ニ炮台ヲ築ク、依テ廣木野其他胸壁ヲ築キ之ニ備フトイヘトモ、兵寡シテ保シ難キヲ恐ル、疾ク兵ヲ進メ援ケヨト、昏暮坂本ニ至ル、地勢肥後ヨリ日向ニ衝入スルノ要路且人吉ニ通スルノ経路ナルヲ以テ、諸隊議シテ各隊ノ一部ヲ分チ集メテ之ヲ守ラシメ、翌日尽ク三田井村ニ至ル、時ニ五月五日ナリ、此時官兵未タ高千穂ニ入ラス、居ル幾何モナク馬見原口ニ進軍ノ令アリ、十二日諸隊ト共ニ三ヶ所村坂本ニ至リ攻撃線ヲ探偵ス、十四日午前一時坂本ヲ発シ、奇兵一中隊・中津隊本道ヨリ、正義一中隊鏡山ノ正面ヨリ、正義一中隊并我隊ウツボキ越ノ間道ヨリ進、又正義ト道ヲ分チ、正義隊ハ山嶺ヲ伝ヘ鏡山ノ右翼ヨリ、我隊ハ鞍岡村笠部ヨリ馬見原ニ向フ、払暁正義山上ノ炮台ヲ横撃シ、我隊山下ヨリ進ム、官兵鏡山ノ炮台ヲ捨テ馬見原ニ走ル、我隊尾シテ進ム、馬見原ヲ距ル僅カニ数町、渓流路ヲ横断シ小橋ヲ架スルアリ、左半隊少シク後レ右半隊進テ橋ヲ渡ル、路直チニ右折ス、乃チ路ニ沿フテ進ム町余、官兵路上正面ノ杉山ニ起リ下射狙撃ス、地勢嶮悪進ム能ハス、僅カノ碍物ニ拠リ之ニ応ス、左半隊橋ヲ越ル能ハス、余時ニ之ニ属ス、已ムヲ得スシテ共ニ右方ノ山腹ニ登リ之ヲ援ク、距離遠隔更ニ効ナシ、時ニ官兵凡拾余名右半隊ノ後山ニ出テ其背ヲ撃ントス、左半隊疾ク之ヲ認メ銃ヲ発シテ之ヲ遮リ近ツカサラシム、右半隊力戦馬見原ニ達スル能ハス、終ニ流ニ沿ヒ退キ上流ヲ渉ル、左半隊亦山ヲ下リ之ニ合ス、官兵マタ追躡セス、時ニ共ニ進ム処ノ正義隊已ニ退キシヲ以テ我隊亦坂本ニ退ク、此戦ヤ死傷拾人ニ充タス、此時正義ノ仮本営ヲ設ケ高城七之丞諸隊ヲ指揮ス、十五日退テ再ヒ三田井ヲ守ルヘキヲ令ス、依テ本日奇兵・正義各一中隊ト共ニ再ヒ三田井ニ赴キ、余ハ尽ク止ルヲ以テ并甚タ寡シ、奇兵一中隊小坂越并ニ岩戸村ヲ、正義一中隊朝壁越并ニ本道西口ヲ、我一小隊七曲リ并本 道東口ヲ守ル、

 以上、5月14日の鏡山一帯の戦闘関係記録を見てきた。薩軍側は当日午前1時前後に三方向に分かれて進み、やっと明るくなりだした頃攻撃を始め、鏡山頂上の官軍を素早く追い落としたようである。

 しかし、その後は馬見原町の手前まで攻め込んだが、退却している。台場跡の分布調査を岡本さんが継続中だが、終了し公開されたらさらに詳しい戦闘経過が 明らかになると思う。今回は素材記録を掲げるにとどめたい。

五月十五日雨天午後大隊本部及第二第三中隊馬見原エ繰込ム途路甚ダ困難ナリ

五月十六日晴天過日焼失スル畑室ト云フ處ニ午前九時頃残賊一名躍出スルヤ第三中隊兵卒安部政治ナル者兵糧護送ノ際單自之レヲ斃ス午後第一中隊及近衛一大隊到着ス

「熊鎭日記」5月16日

  賊赤谷及ヒ男山ニ在リテ對持ス

 一旦占領した鏡山から退却した薩軍は遠く去ったわけではなく、室野(中津隊)、広木野・赤谷から室野西側の男坂(中津隊・正義七番・正義六番)、宮の原から坂本(正義六番)に留まっていた。

五月十七日曇天午前當隊第四中隊岩上村エ出張ス同聯隊第一大隊豐後地方ニ進発ス

 5月12日、延岡の熊田から薩軍奇兵隊佐伯市宇目に侵入し、13日竹田を占領した。それまで大分県内には官軍がいなかったため、五ヶ瀬川上流域付近に展開していた最寄りの熊本鎮台兵を引き抜いて竹田に向かわせたのである。大分県に行く際は延岡方面に進んだのではなく、阿蘇山方向に戻って南東部外輪山を通っている。

五月十八日晴天午前当大隊豐後竹田ニ向ヒ進発ス(馬見原ヨリ四里半)午後髙森ニ着泊ス

 小川又次の第十三聯隊第三大隊は竹田に向かったため、以後三田井(高千穂)方面の記述はなくなる。先に薩軍側記録をいくつも掲げた際、14日の鏡山戦闘後のことも記述があったので、それについて触れる。

 中津隊の記録で薩軍ハ廣木野ヲ守リ我隊ハ男山ヲ守ル居ル事数日廿三日敵軍大挙来テ我男山ノ守リヲ衝ク、守兵僅五十名ニ足ラス死ヲ以防守ス、時ニ増田宋太郎等衆ヲ励マシ劇シク防戦スルヲ以敵兵遂ニ侵入スルヲ得スシテ退ク「福井代次郎外一三名(中津隊)連署上申書」)。その後男山を50人足らずで数日守っていた23日、官軍が大挙攻撃してきたが増田宋太郎他も奮戦し退けた件がある。同じく我中津隊ヲ以テ男山ヲ守ラシム、居ルコト十余日ニシテ官兵未明ヨリ我男山ヲ襲フ、我兵能ク防ク、砲戦終日日暮ルヲ以テ官兵亦鏡山ニ退ク、翌日官兵復来ル、終ニ撃テ之ヲ退ク「筑摩宗太郎外五名連署上申書」でも同じ戦いとみられる記述がある。ただ、翌日も攻撃されたとある点は他にはない点である。十四日爽昧鏡山ノ官軍ヨリ男山ノ我兵襲撃セラレ、此時僅ニ中津隊而已ニテ拒戦シ頗ル苦戦ノ処、正義隊応援二三十名馳来リ、山頂ヨリ横ニ炮撃シテ漸ク勢ヲ得、又進テ力戦シ、終勝敗決セスシテ互ニ兵ヲ引揚ル(「和久井鉄馬・大原一二三連署上申書」)では、この戦いに正義隊が応援に来たことを記す。

 奇兵十六番中隊は男山の戦いについては記さないが、正義隊の中でも六番中隊にその記述が見られる。四五日ヲ経テ男坂并廣木野両所ヘ官軍攻撃、男坂ノ守兵中津隊右翼ノ高岳ヨリ官軍烈シク襲来、銃丸雨ノ如シ、我右小隊ノ内半隊ヲ割ヒテ赴援シ、険ヲ越奮戦シ、官軍漸ク退キ旧塁ヲ復シテ守兵ス「肥後壮之助上申書」)。官軍は中津隊右翼の高岳から襲来したというのは他にはない記述である。和久井等の上申書を参考にすると、六番小隊の半分にあたる右小隊のさらに半分が2,30人ということになる。

 正義七番中隊の「橋本諒介上申書」によると、当時彼等は広木野を守っており、男山と同じく攻撃されて苦戦し、南側の坂本から不明な分隊の応援を得ている。具体的にどこから攻撃されたのかは不詳である。男山の戦いは下図のような状態だったのだろう。延岡隊の記述にはこの戦いが登場しないので、東方の三田井に移動していたらしい。そして5月25日に官軍が三田井を占領するのだが、それ以前、「延岡隊は七曲及び烏嶽を守り、別に一分隊を☐(篝)戸に置き、」(山室元吉1988「延岡丁丑戦記」※1917の復刻)という状態だった。

五月十九日晴天本隊髙森ヲ発シ午後黒岩ニ到着(髙森ヨリ凡四里半是処人家十七軒井戸二ヶ所有スル)髙森町守兵トシテ永田少尉ニ一半隊ヲ附シ同処ニ残ス亦第三中隊ノ左翼ハ街道ヲ進ミ仁田原村エ着泊ス

 仁田原がどこにあるのか不明。

 仁田原が黒岩と恵良原や竹田の間の地域に見つからないが、黒岩の北方の阿蘇市に仁田水という地名がある。アジ歴で「仁田水」を検索したら下記の記録が見つかった。いくつか読めない字があり、誤読した字もあるかも。

C09082224400「戰鬪報告」防衛省防衛研究所蔵0123~0127

熊本鎭台高木少尉尋二郎報知〇五月廿二日(第一旅團参謀部宛)第一旅團参謀部宛

 

馬見原出張熊本鎭臺兵豊後路ヘ出張候ニ付該地方偵察之為メ當隊陸軍少尉高木尋次郎派出為致候所左之件探偵致来候本月十八日ゟ十九日ニ掛ケ熊本鎭臺之内二大隊豊後路ヘ進入ニ付同☐恵良原村ニ至リ廿日本兵之同地ニ而賊ト戦フヲ見ル迠ノ件々左之如シ

一十九日上直見村ニテ賊之間諜ヲ捕獲シ賊情ヲ糾スニ賊ハ竹田ニ籠リ居テ四方之金穀ヲ掠ムル由尤賊勢ハ千余也ト右ニ付同日一大隊ヲ恵良原村迠進メ壱大隊ヲ黒岩村ニ留メ翌廿日竹田ヘ進撃ノ策ヲ定ム

一廿日早朝恵良原村ノ一大隊ヲ直ニ竹田ヘ向ケ黒岩之一大隊ノ内若干仁田水村ノ方ヘ回シ之モ同ク進ル所仁田水邊ニハ絶テ賊之景状ナシ然ルニ賊ハ早クモ官軍ノ竹田ヘ進入ヲ探知シタリト見ヘ恵良原村ヲ距ル殆ント十余丁ノ所ニ繰出シ居☐☐ニ本台兵ノ斥候ヲ撃ツ之ゟ互ニ開戦トナリ賊ハ右翼ニ迂回シ本台兵ノ後ヲ絶ントス此賊殆ト二百余名茲ニ於テ本臺兵壱中隊半ヲ黒岩邊ニ戻シ却テ賊ヲ挟撃ノ手配ヲ為ス☐リシヨリ後ハ迂回賊行方知レス蓋シ退キタルナルベシ

一右之景况ニテ互ニ地理ニ因リ戦ヒ午後四時頃ハ末戦ナリ但賊ノ現場ニ配布スル人員ハ凡五六百名程ト見受併シ強兵ニアラス且十ノ三四ハ帯刀ノ者多シ

一再恵良原村ニテ捕獲スル間諜ノ口供ニハ三田井邊之賊ヲ本日竹田ヘ繰込筈ニ付最早着シタルベシト且元ト竹田ニ来リ居シ賊ハ六百名程ナリシカ同地ニテ士族及ヒ不浪之☐ヲ五百余名相募リ此中ニハ自ラ願セシ者モ有之又強迫ニ依而不得止組セシ者モアル由

一該地方ハ一面ニ山坂ノミニシテ且上色見ゟ玉来迠之間ハ碌ナ村落モナク米穀等ハ勿論乏シキ地ナリ

一竹田ニ至ルニハ三道アリ曰ク坂梨街道曰クツル町街道是ナリ此道ハ素ゟ本道ニ非ラスト雖モ何レモ竹田ニ通スルヲ以テ當日ノ戦ニモ賊ハ余程掛念ト見ヘ現ニ始戦後該方ヘ手配スルヲ見受ケタリ然ノモ官軍敢テ該道ニ向ハズ之レ蓋シ兵ノ足ラサルヲ以テノ故ナルベシ

一川上連隊長ノ胸策ニハ廿一日ノ内ニハ是非トモ竹田迠突込ト聞及タリ尤恵良原ゟ同所ヘノ里程ハ二里ニ近キ由

前書之通候間及上申候也

 

 十年五月廿二日     陸軍中佐國司順正

 

      第壱旅團本営

        参謀部

          御中

 國司順正(くにしよりまさ)中佐は近衛歩兵第二聯隊長であり、第一旅団に属していた。高木尋次郎少尉を大分県に派遣し、情報を探って報告させた中に、黒岩之一大隊ノ内若干仁田水村ノ方ヘ回シという部分がある。5月20日に黒岩から仁田水に少数兵を派遣したというのであり、この仁田水が他の記録では仁田原に化けたようである。ただ、「陣中日誌稿」では19日にすでに仁田原(仁田水の間違い)に派遣している。報告では仁田水には薩軍の姿はなかったが、恵良原えらばる付近に襲来し戦闘になっている。この時、薩軍の人数が二百余人だったという情報は見たことがなく貴重である。

 しかし「戰記稿」をみたら仁田水と書いているではないか!

(豐後口戰記:5月19日)十九日第十三聯隊ノ第一大隊ハ正午色見ヲ發シ午後五時恵良原村ニ抵リ同第三大隊ノ二中隊ヲ高森ニ遺留シ其他ハ黒岩ニ至リ第三中隊ハ左翼ノ街道ニ進ミ仁田水ニ泊ス 

 さらに「熊本鎭臺戰鬪日記」にも上とほぼ同文で仁田水とあった。結局、「陣中日誌稿」だけが間違えていたわけである。

 この文書の末尾に関係地図が書き込まれており、ここでも仁田水が登場する。

 仁田水は熊本県から竹田方面に通じる北側の路線として描かれている。

 19日に小川少佐が書いたものがある。

C09084030200「明治十年五月二日~七月十七日 戦闘報告原書 第二旅団」防衛省防衛研究所蔵0645・0646

本日午後第六時半當地着昨日當地ニ賊来リ警部ヲ縛セシ由ニ候得共今日ハ未タ異情無之第一大隊ハヱラ原ニ遣発聯隊長モ同所ヱラ原之模様ハ未タ何之報知モ無之候得共首尾能到着与存候二田水ゟハ第三中隊ヲ遣セリ是モ首尾能到着以多之(※いたし)居候与(※と)存候尤野尻村聊カ懸念ニ付同所ヲ〆度(※占めたく)候間其趣ヲ馬見原ニ而堀江中佐ヘ御申遣之可有之此段御通知旁〃申進候也

          黒岩村

  五月十九日午後  小川少佐

 

 高森ニ而

   永田少尉殿 

 19日午後6時半に黒岩村に到着した小川少佐が、永田少佐(少尉?)に野尻村が少し懸念だから同所に占拠したいとの伝言を馬見原の堀江中佐に伝えるよう依頼したもの。18日に黒岩村薩軍に捕縛されたのは、竹田周辺の情報を探り熊本鎮台に報告していた大分県警部藤丸宗造だった。仁田原がここでは二田水になっている。仁田原を仁田水・二田水と記すのは小川だけらしい。

五月廿日晴天午前二時第一第二及第四中隊ハ黒岩ヲ発シ第三中隊仁田原村ヲ發シ恵良原ニ着ス黒岩ヨリ凡ソ二里三合余暁ヨリ同處ニ於テ開戰暫時ニシテ賊退去ス此時我軍ノ傷者三名アリト云第一中隊午前八時三十分髙城エ進撃賊ノ右翼ヲ襲フ賊轉シテ下峠ニ據ル亦進デ終ニ下峠ヲ乗リ取ル賊退テ我左翼ニ向フ我山ニ添テ戰午後四時頃賊退テ以テ髙城ニ引揚ケ同処ヲ守ル第一大隊ノ一中隊ト共ニ夜間當所ヲ守備ス

 上記のように高城付近で5月20日に戦闘があったことはあまり注目されてこなかった。高城というから山城跡の可能性もあるが、近くにこの名の城跡はないようである。「熊本鎭臺戰鬪日記」でも、この戦いがどこで行われたのか以下のように分かりにくい内容となっている。

竹田口午前第四時三十分第十三聯隊第一大隊第四中隊ノ左小隊探偵ノ爲メ玉來近傍ニ至ルヤ賊ノ侵襲ニ會シ即チ要地ニ據リ開戰ス故ニ我恵良原ノ大哨兵第一中隊ハ各歩哨ヲ增加シ警備ヲ嚴ニシ第二中隊ノ右小隊ハ玉來本道ニ同左小隊ハ第三大隊第一中隊ト共ニ高城村ニ配布シ第三中隊ハ哨兵線ニ赴援ス又中尉友岡生順ハ半隊ヲ卒井探偵兵ヲ援ケ戰ヒ數刻賊屡々左右ノ連山ヲ迂回スト雖ノモ既ニ我ニ備アルヲ以テ却テ我兵ノ横擊ニ苦ミ午後第四時賊遂ニ退去ス此日第三大隊ノ各中隊モ恵良原ニ着ス偶々戰ヒ酣ナルヲ以テ互ニ防戰ス

 ここでは高城ではなく高城村となっている。それであれば、恵良原近くの集落名である。この20日、高城村の戦いは午後4時に終わっているところを見ると、少なくとも半日くらいは戦ったのではないだろうか。

 高城集落の東側に阿蘇凝灰岩台地の南北面と東面が削られ、細長い地形になった所を官軍が守ったのではないかとこれを書きながら推測した。いつか調べてみたい。

 上図の標高431mがある所(黄色線のすぐ北)は高鼻公園といい、現地には西南戦争時に官軍が拠り、薩軍と戦ったという説明板がある。説明文によると19日に戦闘があったとあるが、20日とすべきだろう。下写真は東を向いて撮影。尾根は東西に長く、尾根筋に旧道があったのだろう。地表面は改悪を受けており、旧地形はあまりのこっていないが、北側斜面に台場跡かな、というものが一か所あった(2023.2.1)

 上が高鼻公園北側斜面の台場跡らしきもの。内側の窪みに植樹され、その際掘り上げた土が木の傍に円墳状をなす(赤線)。その前に公園の東下を抜けて高城方面に初めて行ってみた。下写真では中央左の杉林の西側背後が目指す尾根。右に曲がり踏切を越し、西に進み登りついた右側に何かの公民館か何かの施設があり、そこから踏査開始。

標高456mの西に駐車し、東に尾根上面を歩いて重機で掘削された東端まで歩いたが、遺構らしきものは確認できなかった。木々の間に直径1cm以下の竹や笹が密生していたが(下の写真)、いつかの可愛岳南東側尾根(長尾山左翼)を北から登った時に比べれば楽ちんだった。あの時は羊歯のために1m進むのに5分かかったから。今回の尾根は足元は枯葉と笹で見にくい状態だったので、蝮の季節でなくて良かったと考えながら歩いた。東端は高さ3m前後の凝灰岩の崖面が削りだされており、無理をせず自然地形を探して北側に回って降りた。小雨模様の中をとぼとぼ歩いていると軽トラの人が声を掛けてくれたので、すぐ先に駐車していると応答。

    薩軍側の「西南記伝」ではこの場所での戦いにつき「野村忍介他四名連署上申書」をほぼ丸写しして次のように記す。

 此日、奇兵隊石塚、淸水、嶺崎等の諸隊長、援隊八箇小隊を分て三と爲し、一は本道より、其一は左翼の間道より、其一は右翼の間道より、惠良原に前進せしが、本道の兵、先づ官軍の斥候三十餘名と會し、更に進むこと五六丁にして、熊本鎭臺兵の嶮に據て守るに會し、一薺に之を攻擊せり。

 官軍惠良原の大哨兵、第一中隊は、歩哨を增し、警備を嚴にし、第二中隊は、哨兵線に赴援し、友岡中尉正順は、半隊を率ゐて偵察隊を援け、奮戰之を久うせり。薩軍、屡ば左右の山を迂回せしも、官軍の備あるを以て、退きて竹田、玉來の間なる崩岩、鳥越、中川社、古城等の要隘に據りて、官軍と對峙せり。

 高木少尉の探偵報告では薩軍の人数が二百余名とあったが、ここでは八箇小隊である。この時期、当初の一個小隊200人という大体の決まりは消滅していたので、小隊の人員数は激減していた。本来なら1,600人の筈である。

 この日20日、高城村の戦いは午後4時に終わっているところを見ると、少なくとも半日くらいは戦ったのではないだろうか。この日午前、高森の永田少尉に第三大隊の行動予定を通知し、恵良原に玄米200俵位があるとの報知を受けたことも知らせている。

C09084030200「明治十年五月一一日~七月十七日 戦闘報告原書 第二旅団」(防衛省防衛研究所蔵)

江良原ニ進入シタル第一大隊ハ午前第二時整列進軍之筈報知アリ黒岩村ニ止リタル当大隊ハ午前第一時整列江良原ニ向ケ出発スル筈ナリ尤二田水村ニ遣タル第三中隊モ同シク第一時ニ出発スル筈ナリ当地ニ居ル我□主管モ同シク江良原ニ繰込ムナ

江良原ニ玄米二百俵位ハ有之由聯隊長ゟ報知アリタリ

右之事情ハ熊本及馬見原ニモ御報知有之度候也

 五月廿日午前  小川少佐

  高森出張

   永田少尉殿 

 五月廿一日晴天暁ヨリ近傍山谷ニ銃声ヲ聞ノミ彼レ我戰ヲ挑マス

 「戰記稿」によると、この日熊本鎮台の野津道貫大佐が恵良原に到着し、また県内での戦闘は記録されていない。

五月廿二日晴天午前一時頃第壱中隊ヲ恵良原ニ残シ第一第三大隊該所引揚ケ両道ヨリ玉来エ進撃拂暁ヨリ玉来ニ着恵良原ヨリ凡ソ一里余同處周圍ニ胸壁ヲ築ク第三中隊ハ北方ノ山ヲ占メ中川神社ノ賊塁ニ對シ昼夜連戰ス第四中隊ハ午前八時飛田川村ノ山上ニ大哨兵ヲ配置シ午後一時頃賊襲来リ直ニ撃テ之ヲ退カシム此日即死伊藤建藏外一名負傷栗林角次外五名ナリ

 下は南から見た崩岩くずれいわ国道57号・中川神社。当時、今の国道部分にあった道は崩岩にある民家の屋根位の高さで尾根を越えていただろう。中川神社の社の板壁にはいくつも銃弾痕があったのを見たことがあるが、何も考えなかったのだろう新品の板で改悪されてしまった。

 上図は崩れ岩から中川神社・拝田原までの台場跡分布状態である(「西南戦争戦跡分布調査報告書」2009大分県埋蔵文化財センター)薩軍側のものが分布している。

C09084031900「明治十年五月一一日~七月十七日 戦闘報告原書 第二旅団」防衛省防衛研究所蔵0721・0722野津大佐報知各陸軍少将宛〇五月廿六日付

五月二十二日玉来発該地景况ノ概畧    

一五月二十二日早朝惣軍玉来口ヨリ進撃奮闘夜ニ及ブト虽ノモ賊拠守スル処ノ地岳高ク谷  

 深ク前面ニ川ヲ帯ヒ眞ノ絶嶮ナルヲ以テ遂ニ其地ヲ畧スルヲ得ズ因テ其夜ハ備ヲ厳ニ

 乄(※して)兵ヲ戦闘線ニ止メ翼朝ヲ待テ尚進撃ノ積也此日味方ノ死傷僅七名ニ過ス賊

 ノ死傷ハ不分明ナリ

一賊ノ人員ハ旧岡藩士族ヲ合シテ八百名程ノ見積

一賊ノ器械ハ和銃ヲ合シテ人員三分ノ一ニ足ラズト云大砲ハ和ノ百目筒五六門ヲ用ヒテ

 切ニ発射スレノモ味方ノ妨害ヲ為スニ至ラズ

一久住驛ニ在ル米倉ヲ奪ヒ既ニ岡ヘ運送シタル由

一所々富家ヨリ金穀ヲ奪ヒタル数モ頗ル多キ由

一野尻口ヨリ賊吾軍ノ背後ヲ絶ツノ恐アリタレノモ昨二十三日熊本鎮臺ヨリ既ニ該地ヘ出

 張シタルヲ以テ其患ナシ

一久住方ヘモ賊数出没ス吾軍之ニ向ヘハ忽チ岡ノ該地ニ退去スルヲ以テ警ヲ聞キ出立シ

 タル吾軍数々賊ノ踪跡ヲ見ザルニ至ル

 これは22日を含んだ野津大佐の報告である。「戰記稿」などにはない内容もあり、掲げた。

五月廿三日晴天午前五時頃賊兵第四中隊右翼ノ後面ニ襲来之ニ應戰ス賊抗スル能ハスシテ退ク因テ古城下玉来村ノ山上ニ進撃午後一時頃舊線ニ復ル第二中隊午後一時恵良原峠ヲ発シ門田村女男峠進撃ス偶第一大隊第一中隊ヨリ出シタル斥候兵ニ遭ヒ共ニ女男峠ノ賊ヲ追ヒ大峠ニ相對シテ戰フヿ數時間同四時引揚ケ舊線ヲ守備ス即死兵卒枩岡勇平外一名負傷兵卒小花後作外三名アリ

五月廿四日暁ヨリ第一大隊及本隊二ヶ所ニ分レ進撃ス一方ハ玉来口一方ハ古城口ニテ戰鬪ス第三中隊ハ中川神社ノ賊塁ニ突入ノ命ヲ受ケ第二中隊ノ左小隊ヲ援隊トシテ午前四時頃前面第一ノ賊塁ヲ乗リ取リ賊十四名ヲ斃ス續テ追撃中川神社内賊壘モ亦タ是ヲ取ル猶追撃スルニ彼レ要地ニ據ルヲ以テ進ヲ得ス依ヲ進撃テ該地ヲ占メ援隊ト共ニ守備ス第二中隊ノ右小隊ハ午前八時頃女男峠ノ賊塁ヲ拔キ猶ヲ進撃小髙野ノ賊塁ニ對シテ戰フ時第一大隊ノ第一中隊来リ會ス共ニ攻撃午後六時引揚ケ舊線ヲ守ル此時賊ヲ斃ス數十名我軍死傷詳カナラス就中本隊ノ即死ハ軍曹黒川要外一名負傷少尉試補吉原留藏外十九名アリ亦銃及彈藥其外器械等ヲ分捕數夛アリ且ツ此中ニ昔日ノ英雄中川清秀帯スル処ノ劔アリト云フ

 「戰記稿」を掲げる。

二十四日竹田口ノ軍ハ午前三時守地ヲ發シ六時三十分拜田原絶頂ヨリ山砲一門ヲ以テ崩岩押宮等ヲ砲擊ス賊頗ル狼狽我兵、機ニ乗シ押宮ヲ猛射シ壘下ニ迫リ銃槍吶喊勇進シテ之ヲ拔ク賊第二ノ胸壁ニ據ルニ遑アラス死尸十三及ヒ重機彈藥ヲ棄テ潰ユ鬼城茶屋辻ノ地タルヤ四塞ニシテ阿藏村ニ通スル板橋アリ道路ハ阿藏山ニ通スル小徑三個ヲ除クノ外、有ルヿナシ故ニ十一時ニ十分我カ一發ノ砲聲ヲ期シ靜間中尉浩輔一小隊ヲ率テ本道ヨリ潜カニ阿藏山ヲ下リ橋ヲ渉リ村ニ入リ鬼城ニ攀躋シ賊壘ヲ距ル僅ニ五米突ノ處ニ達シ一齊ニ發射シ壘ニ入リ遂ニ數壘ヲ拔キ黄昏兵ヲ収メ守線ヲ竹田ヨリ五丁ノ處ニ定メ警備ヲ嚴ニス枝軍ハ賊ノ左翼ニ迂回シ第三線ヲ擊破シ古城ノ賊壘ヲ距ル凡ソ三十米突ノ地ニ至ル工兵第三分隊ハ茶屋辻第四分隊稻荷山ニ出テ戰ヒ且ツ胸墻ヲ築ク是ノ日賊尸中ニ帳簿アリ是ノ口ノ賊將ハ野村忍介大迫新八郎石塚長左衛門等ナル事ヲ記セリ

 押宮はどこかの神社であろう。この付近で該当しそうなのは中川神社と扇森稲荷社の二つである。上記の文中、押宮と稲荷山が出てくるが、拝田原から砲撃したのは崩岩・押宮等であり後半の枝軍の部分で稲荷山が登場する。以上からみるに崩岩の隣にある中川神社が押宮だろう。

 別に、この日の記録がある。 

C09082228000「戰鬪報告」防衛省防衛研究所蔵0211~0215

   野津大佐報知各陸軍少将宛〇五月廿六日付

五月廿三日拂暁ゟ諸口進撃ヲ定ム前面ハ即チ竹田市街之本道司令大迫少佐右翼司令福原大尉左翼ハ枝軍トシテ小川少佐ヲシテ指揮セシム仍チ枝軍ハ午前第壱時整列久住街道ゟ古城跡ノ賊右塁ニ向ヒ出發ス平田村ニ到ルヤ俄然賊ニ出會開戦ス第一第二線数塁ヲ突撃乗取リ第三線ニ到ルノキ賊必死ヲ極メ防戦ス賊亦我左翼ヲ迂回スルト雖我若干隊ヲ以テ之ニ當リ直ニ散乱セシム黄昏ニ至ルヲテ戦止亦本街道正面ナル茶屋ノ辻鬼ケ城押宮(一名中川神社ト云フ)崩岩等ハ天然ノ要地ニシテ岩窟尤モ聳ヱ竹田ニ通スル第一要路ナルヲ以テ進撃ヲ止メ墟撃ヲナサシメ且右翼ゟ攻襲偵察トシテ一小隊ヲ進メテ迂回シ彼カ哨兵線ヲ破リ進撃スト雖モ素ゟ侵入之意ニ非サルヲ以テ午後第五時戦ヲ止メ玉来街ノ周囲 ヲ扼守ス

同廿四日午前第三時發軍シ部署ヲ前日ノ如クス山砲壱門ハ拝田原ノ絶頂ニ備第六時三十分崩岩押宮等ハ發射スルニ賊少シク狼狽之形容ヲ顕ス故ニ其機ニ乗シ一層火力ヲ猛烈シ押宮賊塁ヲ乱射シ直ニ彼ノ塁下ニ迫ル各兵銃鎗ヲ以テ奮擊突入シタリ此時賊ハ突然之進襲ニ驚キ狼狽シ遂ニ第二ノ胸壁ニ據ル能ハス此時賊之死体十二三余及ヒ銃器弾薬ヲ捨テ潰走ス第十時阿藏山ゟ地理ヲ窺ニ鬼城茶屋ノ辻ノ地タルヤ山麓ニ川ヲ帯ヒ嶮阻尤モ甚敷阿藏村ニ通ル古橋ト云フ板橋アリ且道路ハ阿藏ノ山ニ通スル三枝路ニシテ別ニ便路アルヿナシ故ニ第十一時ニ十分賊塁ニ破裂丸ヲ打タシメ漸次各兵ヲ本道ゟ進マシメ山ヲ下リ橋ヲ渉リ阿藏村ニ至リ小時間潜居シテ休憩ヲ為シ潜ニ鬼ケ城ニ攀躋シ彼ノ胸壁ヲ距ル凡三十メートルノ処ニ至リ銃鎗ヲ以テ再☐メートルノ巨离ニ近接シ直ニ發射シテ塁内ニ乱入シ終ニ数塁ヲ拔ク賊ハ尤モ狼狽シテ銃器弾薬等捨テ走ル夫ゟ暫時進撃ヲ為シ黄昏戦ヲ止メ竹田市街ヲ去ル凡ソ十一丁之所ニ線ヲ極メ守備ヲ巌ニス此時枝軍ハ賊ノ左翼ニ迂回シ遂ニ第三線ヲ撃彼之古城跡之目下ニ迫ル古城賊塁ヲ离ル凡三十米突留ニ至ル

 

 我軍死傷  四拾六名

 分捕 品  銃器二十五挺  弾薬七

       雜具種類アリ

 賊之死者三拾名余ニテ其内分隊長面高某ナル者アリ傷者不詳竹田近傍ヘ賊兵鹿児嶋人多ク

       隊長  野村丑之助

           大迫新二郎

           石塚長右衛門

       上長  川北新九郎

右者過ル廿三日ゟノ戦闘之概略御報告致候也

 

  五月廿六日    野津陸軍大佐

  各陸軍少将殿

 

逐而山縣参軍ヘ御報知之儀御依頼申候尤モ巨細ニ御報知可仕之處数日之連戦ニ而少シモ猶豫無之御含置被下度候也

 上は5月23日・24日についての野津大佐の報告である。押宮(一名中川神社ト云フ)から矢張り押宮は中川神社だった。 

 上は崩れ岩。前掲の繋ぎ写真では近景が分からないので掲げる。1965年北村清士著「西南戦争血涙史」にほぼ同じ方向からの写真(下)があるが、崖下に今ある民家は建て替わっている。手前から左に抜ける道路、国道57号は下の写真にはなく、当時は崖下を右に回っていたのだろう。今の国道は崖を掘り割って通過している。

五月廿五日晴天終日各哨所々於テ互ニ狙撃ヲナスノミ

五月廿六日晴天午後七時警視隊百五十名到着ス明日十四聯隊ノ第三大隊及ヒ第一旅團ノ二中隊當玉来甼エ到着ノ筈ナル旨被相達昼夜各哨所互ニ狙撃ス其距離凡「三十ヤルト「三百ヤルト」ナリ

五月廿七日晴天終日四方ニ銃砲聲アリ午後二時頃ヨリ雹降(※隈岡本では雷降ス)此日熊本縣士五十名従軍志願当隊ニ属ス

五月二十八日晴天昼夜互ニ狙撃ヲ行フノミ

五月廿九日晴天午前四時頃ヨリ第一中隊ハ前面坊主山ニ第二中隊ノ右小隊ハ鬼ケ城ニ左小隊ハ玉来口本道ヨリ第三中隊ハ竹田市中ヲ経テ岡城ニ第四中隊ハ古城ニ攻撃奮進以テ悉ク賊塁ヲ拔ク此賊皆「ウタエタ指シテ逃去スト云フ此日我死傷詳カナラス賊ヲ斃スヿ數十名亦銃及ヒ彈藥其他諸器械數十個ヲ分捕ル同夜第一中隊モ小髙野地方ニ第三中隊ハ城東十川村ニ第四中隊ハ城跡ニ大哨兵ヲ配布ス此日竹田市中過半兵燹ニ罹リ而シテ本隊ノ即死ハ兵卒小川紋吉負傷軍曹松下俊彦外四名アリ于時小川紋吉其中隊ニ語テ曰ク本日苦戰ナル可シ必死以テ先鋒タランヿヲ望メ共其死センヿヲ暁リ敢テ許サ﹅リシカ開戰忽直先ニ進ミ銃劔ニ賊首ヲ貫ヤ惜哉自身已ニ斃ス爲メニ衆大ニ奮フ

 小高野が数日ぶりに再登場している。24日に日記では第二中隊ノ右小隊ハ午前八時頃女男峠ノ賊塁ヲ拔キ猶ヲ進撃小髙野ノ賊塁ニ對シテ戰フ時第一大隊ノ第一中隊来リ會ス共ニ攻撃午後六時引揚ケ舊線ヲ守ルとある。小高野を攻撃したが占領に至らず退却している。29日は結局薩軍が宇田枝を指して逃走(ウタエタ指シテ逃去ス)したので、第一中隊モ小髙野地方ニ第三中隊ハ城東十川村ニ第四中隊ハ城跡ニ大哨兵ヲ配布スとあり、戦わずに小高野を占領している。小高野というのは付近では小高くて目立つ小富士山を指すらしい。まだ踏査していない。

五月丗日晴天当(※隈岡本は以下を書き込む。大隊及警視隊休戰當地ニ滞陣ス其他ノ各隊ハ昨日「ウタエタ」ニ繰込ム玉来ノ)大隊本部ヲ当竹田町ニ轉ス

五月丗一日晴天午前十一時竹田甼ヲ引揚ケ是ヨリ一里余ヲ経テ草深野ト云處アリ是處ヨリ牧口村ト宇田枝村ノ両途ニ別ル則チ第二及第三中隊ハ牧口エ第一中隊及第四中隊ノ右小隊且ツ有志輩五十名ハ宇田枝エ進撃ス第四中隊ノ左小隊ハ是ヨリ凡ソ二里余ヲ隔タテ三ノ宮エ出発午前竹田ヨリ凡ソ四里余ヲ隔タル岩戸ニテ暫時戰鬪アリ官軍ハ第一大隊及十四聯隊ノ第三大隊若干兵ナリト云フ午後戰止ム此日本部ヲ宇田枝ニ移ス

 5月は隈岡本ではテニオハの変更が主であり、小川本に忠実で書き込みは少ない。

1877年2月小林清親の版画

 西南戦争の際、2月15日には薩軍が鹿児島を出発開始しており、19日には征討の命令が出ている。両軍が初めて戦火を交えたのは1877(明治10)年2月21日でした。今回紹介するのはその間の2月20日に版行届が出された小林清親筆の三枚続き版画です。当時、西南戦争版画は千点以上描かれており、珍しくはないが有っているものを時々掲げます。

 新聞 鹿兒嶋水股風説と題し画中の詞書は次の通り。 

四海波に往返のけむりも高く万代を謡ふ御代に鹿兒けん下に士族の暴行なれど実地を水股其風せつも信用ならす殊に雷機の私報も止りさすかに士族のヱレキもくづれ是鎮静の近き記す
 明治十年二月

 この時点ではまだ戦闘が始まっていなかった。説明文は鹿児島県下で暴行が行われているが、鎮静は近いだろうとある。画工・板元は次の通りで、海上に浮かぶ船は太平丸です。

 19日に征討令が出ているので西南戦争の版画ということができるが、版行を届け出た20日よりも前の版画準備段階にはまだ征討令も出ていなかっただろう。戦争になるかは明らかでない段階だったので、このような漠然とした説明になったのでしょう。画中の人物に名前が添えられていないのも、架空の絵だからでしょう。

「陣中日誌稿(明治十年 戰争日記)」2月から4月 少しずつ加筆します。

 本文がペンで書かれた「陣中日誌稿(明治十年 戰争日記)」を紹介したい。熊本の古本屋から購入したものである。序に記すと、この日誌は以前東京で売られていたと鈴木徳臣さんから聞いたことがある。

 巻頭の附言によれば、本日記の筆者は熊本鎮台第十三聯隊第三大隊長の小川又次少佐である。巻頭で「陣中日誌稿」と称すけれども表紙の表記は「明治十年 戰争日記」と異なり、明治十年十一月に作成を終えたものである。素人目で検討すると、表紙の「戰」の字は本文中の同字と似ている。例えば2月27日に書かれた「戰」は左部下の十部分が上にある日の中央よりも右側に偏っている点は表紙字と同じである。また、その「田」であるべき部分がどちらも「日」になっている。表紙の「年」は横画が4本で、本文中の附言の字も同じである。他の字もあえて形が異なると強調すべき特徴はない。したがって、表紙も小川又次が書いたと考えられる。そこで以下では「陣中日誌稿(明治十年 戰争日記)」と呼ぶことにする。

 この陣中日誌稿とよく似たものがすでに活字化されている。原口長之・永田日出男・中村哲也校訂「西南戦争隈岡大尉陣中日誌」熊本史談会1980の中の「四冊ノ合冊 十三年三月十一日 陣中日誌稿」である。それによれば原本は福岡市逸木定親氏所蔵品で、「正本丁丑擾乱熊本城兵陣中日誌隈岡長道自記自筆」と題されている。その本文は「陣中日誌稿」・「戦闘日誌」・「正本熊本城日誌」からなる。

 その「陣中日誌稿」は4冊の稿本を補筆訂正して合冊したものといい、2月上旬から10月6日までの記録である。本文の上部に注記があり、本文中にも所々に横にフリガナ状に書き足しがある。「戦闘日誌」は2月8日から4月7日までを記した「籠城日載闘形況書」と4月8日から10月6日までを記した「突囲後戦闘景況書」に分かれる。後者は「戦闘日載籠城之部」が表紙を入れて三枚あり、2月上旬から2月20日までの記録である。「陣中日誌稿」の表紙に「四冊ノ合冊」とあるものの三冊しか合冊されていないという。

 校訂者達は「陣中日誌稿」は隈岡が執筆したというが実際は小川又次が執筆したものだと考えるので、以下では毎月の記述の後に隈岡本の陣中日誌稿との相違点を検討し、別に補足も行いたい。

 

明治十年 戰争日記

         附言

一此日記ハ大隊ノ記録ニ基キ各官ノ手記臆等ヨリ採録スレハ事実ニ齟齬ナキト雖モ事務夛忙ノ際或ハ誤認脱漏ナキ能サルヲ以テ陣中日誌稿ト顕ス

一我軍或ハ我軍ノ負傷云々ト記スルハ戰争方面ノ諸隊又ハ總軍ヲ指稱スルモノトス

一本隊或ハ即死何某負傷何某又ハ即死何名負傷何名ト記シ他隊ノ名号ヲ記サヽルハ悉皆第三大隊ノモノトス

一中隊号ノ上ニ聯隊或ハ大隊号ヲ記サヽルハ第三大隊中ノ中隊又ハ小隊トス

一第一或ハ第二大隊ト記シ上ニ聯隊号ヲ記サヽルハ十三聯隊中ノモノトス

一聯隊号ノ上ニ鎭台号ヲ記サヽルハ十三聯隊トス

   明治十年十一月       陸軍少佐小川又次

抑モ薩賊発スルノ説アルヤ二月上旬ヨリ本台ヘ日々兵糧ヲ運輸シ何トナク市中ノ人氣穏カナラス或ハ家財等ヲ近郷ヱ移シ災ヲ避ントスル者アリ而シテ同月十二三日ノ両日練兵塲ニ於テ招魂祭典ヲ施行セラレ日中ハ競馬或ハ角力夜中揚火等ニテスコブル賑フ爲メニ人氣少シク穏カナリ二月十四日鹿兒島縣動揺ノ事ニ付諸將校詰切下士以下日曜日ト雖モ外出ヲ止メラル同十五日ヨリ夜間鎭台近傍諸民ノ往来ヲ止メ警備ヲナス同十六日前日ニ同シ同十七日縣廳ヨリ出火ス然レ共直ニ消方シタル

 熊本鎮台の当初の構成を示すと、本営・歩兵第十三聯隊・同十四聯隊・砲兵第六大隊・予備砲兵第三大隊・工兵第六小隊などからなり、聯隊は第一から第三の大隊に分かれ小川又次は第三大隊長だった。各大隊はさらに四つの中隊に分かれ、隈岡長道大尉は小川の大隊とは異なり第一大隊第三中隊長だった。冒頭三番目に掲げられた「本隊或ハ即死何某負傷何某又ハ即死何名負傷何名ト記シ他隊ノ名号ヲ記サヽルハ悉皆第三大隊ノモノトス」からみて、第三大隊長小川が自分の部隊の記録として作成したことは明らかである。日付の後に陸軍少佐小川又次とあるのも同様であるが、隈岡本では名前の部分は省かれている。

二月十八日雪天午後二時非常号炮三発相圖ニテ速ニ整列各持塲エ配布ス右半大隊ハ藤嵜ヨリ片山邸邊傍左半大隊ハ漆畑ヨリ野炮兵営建築處本部ハ本台軍旅守衛處跡エ移シ諸品ハ本臺ノ倉庫エ運輸ス此日城内ノ周圍ニ仮ニ柵門ヲ造ル又縣廳ヨリ人民一同立退ク可クノ命ヲ下スヤ人民錯乱シ家財ヲ近郷山谷ニ運ヒ或ハ穴ヲ穿テ之ヲ埋メ幼ヲ携エ老ヲ扶ケ雜沓市人東西ニ走ル実ニ目モ當ラレス景况ナリ

二月十九日曇天午前第十一時比天守櫓出火非常号砲諸隊消方ニ盡力スト雖モ折節烈風ニテ遂ニ有名ノ城櫓モ一時ノ火焰トナレリ延テ城下坪井辺數百戸数ヲ焼ス午後四時頃火勢漸ク衰フ其時本部ヲ第二大隊本部ニ合ス午後五時頃小倉十四聯隊第一大隊ノ左半大隊着ス同八時頃洗馬橋焼失諸所ヨリ出火ス此日一同エ慰労トシテ酒肴ヲ賜ル亦タ薩賊ノ先鋒川尻甼ニ着スルト云フ

二月二十日晴天軍曹岡本鋭威ニ兵卒若干名ヲ附シ川尻地方ノ探偵ヲ命スルヤ賊已ニ同處ニ乱入警備スルヲ閉キ兵卒途中白川ノ堰堤ニ残シ衣服ヲ變ジ車夫トナリ單身川尻ニ到リ賊情ヲ聞見シ帰報セシハ能ク命令ヲ守リ果决膽勇ト云フ可シ午後七時頃新甼洗馬段山今京甼花畑山﨑各所焼失四方ノ火焰天ニ漲ル此夜第一大隊ノ第三中隊及第一中隊川尻驛エ侵襲ヲナスト雖モ火光恰モ白昼ノ如クニシテ遂ニ策就ラス退陣ス此時第一中隊伍長小枩義正同片山岩太第一大隊第三中隊兵卒若干生死未明此日綿貫少警部引卒スル所ノ警視隊入城ス

二月二十一日曇天各所ノ火勢尚熾ナリ午後一時頃各哨兵ヨリ銃発ス同時線内宮ノ二ヶ所焼失

二月二十二日晴天四方ノ火勢尚止ス午前七時三十分頃賊徒花岡山ヨリ段山藤嵜片山邸ニ向ヒ破竹ノ勢ニテ我ニ迫ル我軍之レヲ防禦交モ発射ス彈丸雨注此時賊数百名ヲ斃ス而シテ即死ハ中尉五嶋顕忠外十五名負傷大尉寺内清祐外四十名アリ午後六時ニ至リ戰ヒ少シク弛ム此日藤﨑片山邸最モ激戰

二月廿三日晴天午前三時頃ヨリ對戰盛ニシテ賊大砲三門ヲ発射ス午後三時頃小萩山ニ大火ヲ見ル同三時藤嵜八幡社焼失同夜互ニ狙撃ヲ行フ而シテ即死伍長村津幸二郎外一名

二月廿四日曇天午前今京甼焼失其際進撃僅ニシテ引揚ケ

二月廿五日晴天午前本丁学校焼失其時同處進撃午後引揚ケタリ

二月廿六日晴天午後本妙寺山ノ麓賊兵糧ヲ馬ニテ運送ス同十時頃本台ニテ花火ヲ発ス

二月廿七日曇天午前四時線内ニ於テ運動喇叭ヲ吹奏ス同五時頃止ム午後一時第三大隊ヨリ撰拔兵一中隊余外ニ東京巡査兵附属坪井廣丁ヨリ進撃頗ル激戰同六時引揚ケ此時即死兵卒穴井善一外一名負傷兵卒木許長十郎外十二人アリ就中第一中隊兵卒竹内杢太郎勇進撃賊塁ヲ枕ニシテ斃ル

二月廿八日晴天片山邸近傍對戰ノミ午後植木出火之模様ヲ見ル第三中隊兵卒才藤弥七去ル廿二日逆撃ノ際面部及腰部ニ重傷ヲ受ルト雖モ心膽強勇少シモ不屈壱週日間不飲不食賊塁ノ下ニ死斃ノ真似ヲ爲シ本日黄昏帰来賊情ヲ報シ可憫後チ終ニ死ス

 2月17日部分では「招魂祭典・・」の横に隈岡は「九年十月廿三日当県士族暴動ノ際戦死ノ者」、「水曜日」の横に「下士官以下外出日」、本文末尾に以下を書き足している。「又掃除等ハ前日ニ同ジ。此日各兵ニ銃剣ヲ研グ事ヲ許ス。故ニ兵気頗ル振フ。是ハ少佐奥保鞏ノ発論。」である。奥は隈岡の属する第一大隊の大隊長である。

 18日部分では「本台軍守衛處」を「本台軍守衛處」に変更している。これを見ると、小川が何らかの資料を書き写す際に間違えたのを亀岡が気付いて訂正したのだろう。

 20日、「熊本鎭台戰鬪日記」では川尻駅侵襲は21日午前1時であり、小川は江戸時代と同じく夜明けを一日の開始として記述している。小川が「乱入警備スルヲ閉キ」を亀岡は「乱入警備スルヲ」に訂正している。「今京甼」を裏京町とするが、24日も同じように変えている。「片山岩太」の次を隈岡本では16字抹消しているとあるが、小川で「第一大隊第三中隊兵卒若干生死未明」とある部分を消したのであろう。字数も一致する。自分の中隊の記録を消したのである。

 22日、「午前七時三十分頃賊徒」の次に以下を書き足す。「明八橋・新町通ヨリ正面法華坂・古城」。「西南戦争隈岡大尉陣中日誌」の中の「正本熊本城日誌」2月18日部分に「第三中隊ハ隈岡大尉之ヲ率ヒ、古城及ビ鞍掛坂・法花坂左翼ヲ守ル。」とあるように隈岡は自分の守備範囲の情報を加えたのである。さらに末尾の「此日藤﨑片山邸最モ激戰」を「此日法花坂及ビ古城、藤崎片山邸最激戦」というふうに前と同様に第三中隊の状況を加えている。

 23日「大砲三門ヲ発射ス」の次に「四方ノ砲声雷ノ如シ。同七時過ギ、我軍山野砲ヲ頻リニ発射ス。」を加え、末尾に「負傷軍曹品川梅蔵外六名アリ。」を足す。

 24日、末尾に「此ノ時夫卒二名ヲ生捕、而シテ即死一名アリ。」を書き足している。27日、「喇叭ヲ吹奏ス」の脇に「城中本営ニ喇叭卒ヲ集メ、襄平落城ノ狀ヲ彼レニ示サント戯レニ此事ヲナセリ。」を書き足す。

三月一日曇天午後嶌﨑辺ノ賊ヨリ発射スルノミ同七時頃ヨリ雨降

三月二日晴天風烈シ片山邸辺互ニ発射ス午后小萩山出火時々四方ノ砲声ヲ聞ノミ

三月三日晴天彼レ二ノ丸其他我線内エ砲丸數百発スルヲ射入ス筒口ニ我軍旗ニ類似シタル物建アルヲ発見ス本日布達左ノ通リ

    過日爲探偵高瀬南関エ完戸監獄差遣候處本日帰台同處辺處々戰争官

    軍勝利ヲ得不日大舉賊兵ヲ追撃スル確報ヲ得タリ依テ此旨相達候

     三月三日     谷少将

 

三月四日雨天昼夜ノ別ナク彼砲丸數百ヲ我線内ニ輳射ス此時第一大隊ノ第四中隊第二大隊ノ第四中隊兵舎ニ射込ム本日負傷一名アリ

三月五日雨天午前六時頃ヨリ暁ニ至リ植木方面ニ當リ頗ル砲声アリ時々花岡山ヨリ彼砲射ス

三月六日晴天午後植木方面ニ出火アリ亦同方ノ砲声ヲ遥聞ク

三月七日午後晴天九時頃ヨリ野砲兵営哨兵賊ト交射スルヿ盛ナリ坪井花岡山賊頻リニ我線内ニ砲発ス本日負傷一名アリ

三月八日晴天午前九時頃植木驛方ニ砲声アリ午後六時頃雨天各處休戰

三月九日雨天午後五時頃賊安政橋及花岡山ヨリ頻ニ砲射ス砲丸二ノ丸病院ニ入ル爲ニ傷ツク者二名同六時頃休ム

三月十日晴天午前植木口ノ砲声尚ヲ熾ナリ賊花岡山ヨリ時々砲発スルノミ各處休戰

三月十一日晴天午前三時頃植木口ノ砲声前日ノ如シ午後二時頃ヨリ同三時迠野砲兵営前面ノ賊及花岡山ノ賊ヨリ砲発シ負傷ノ兵卒中川萬太郎外二名アリ此日京甼口エ矢章ヲ射ル段山エモ来ルソノ文ニ曰ク

  今般政府妄リニ暗殺ヲ謀リ自ラ国憲ヲ犯ス罪有之尋問ノ爲メ西郷陸軍大

  将將外二名衆ヲ師ヒ此ニ至ル然ルニ當縣鎭台名義ヲ辯セス城ヲ閉テ逆エ

  拒キ人民ヲ妨害ス其罪甚タシ我衆憤怒シ將ニ日ヲ刻シテ城中ヲ鏖シニセ

  ントス然レ共蒙昧脅従ノ輩其憫ム可キニ在テ諸口々前罪ヲ悔ヒ兵器ヲ捨

  テ来服スル者ハ必スシモ其罪ヲ問ハス且ツ山鹿髙瀬諸道ノ東軍我悉ク之

  ヲ撃破ス各縣義兵ノ起ル蜂巢ヲ破ルガ如ク然ルニ公等尚孤城ヲ守リ糧竭

  キ援絶エ危キヿ瞬息ニ在リ公等其レ速ニ向背ヲ决セヨ

   明治十年三月十一日     鹿兒嶋陣中

三月十二日晴天午前賊一名白旗ヲ携エ竹先ニ文書ヲ附シ我軍中ニ来ル直ニ捕エテ本台ニ送ル此賊年頃四十余年午後五時頃京甼近傍漆畑二ヶ所焼失同時巡査若干名各及第三中隊段山ノ賊ヲ襲擊ス彈丸雨注此役甚タ激戰ナリト雖ノモ尚撓マス衆奮進遂ニ賊據過半ヲ拔ク就中少尉試補安藤格及警部池畑某最奮戰終ニ死ス此日巡査死傷詳カナラス本隊ノ即死ハ安藤少尉試補外一名負傷伍長橋本孝信外一名アリ

三月十三日雨天段山昨日ヨリ連戰午後二時頃ニ至リ賊支フル能ハス悉ク逃走我之ヲ尾撃ス其銃丸雨注ノ如シ此時銃器彈藥日本刀數百ヲ分捕亦タ賊骸死六十七名余且ツ生捕二名アリ直ニ段山人家焼失ス速ニ該所ニ警備ス斃賊ノ死骸ヲ見ルニ夛クハ筒袖外套ヲ着シ脚絆(※月篇)ヲ用ユ右腕ヲ白木綿ニテ結フ帽ハ種々ナリ守城ノ日ヨリ本日迠二十日間昼夜ノ連戰而シテ即死少尉試補渋谷精外五名負傷新井忠吉外二十五名アリ本日布達左ノ通リ

  昨日ヨリ段山屯集ノ賊徒攻撃本日午後第二時撃破盡ク該處ヲ遁走致シ候

  ニ付爲心得此旨相達候事

          谷少将

三月十四日晴天午後三時嶋嵜エ進撃賊同村ヲ火ス又山崎ノ賊ト交射ス暫時ニシテ止ム夜ニ至テ植木口砲声頗々耳下ニ聞ユ布達左ノ通リ

 一昨日来賊ノ險要ニ據ル者ヲ攻撃シ昨日午後ニ至リ頗ル苦戰ノ趣ニ付親カ

 ラ哨處ニ臨ミ見聞候処十四聯隊迂回兵ノ勇進拔取候義將校指揮ノ至ルト下

 士兵卒奮発競進トノ處到且砲兵隊発射精妙工兵隊☐交通路築造ノ功等深ク

 感服ノ事ニ候尚其筋エ上申ノ上何分ノ御沙汰可有之候得共不取敢此旨一同

 エ可申聞ク候也

   明治十年三月十四日     陸軍少將谷干城

三月十五日晴天午前九時頃本妙寺エ進撃同所焼失同十時頃裏京甼家中焼失同時頃出京甼エ進撃両所ノ賊悉ク逃去ス第三中隊漆畑哨所持塲ノ處野砲営ニ移轉ス終日植木口ニ當リ砲声アリ而シテ負傷一名アリ

三月十六日晴天午前休戰午後山崎及花岡山ノ賊ヨリ砲発ス同三時頃本京甼酒藏焼失ス植木口ノ砲声夜間ニ至リ近ク聞ユ

三月十七日晴天終日休戰賊一名捕獲ス過日段山ニテ撃殺セシ賊ノ死骸六十七名ヲ同處ニ埋ム余死骸ハ賊地ニ近キヲ以テ取集メス植木口ノ砲声昨日ニ同シ

三月十八日晴天四方ノ賊時々砲射ス植木方ノ砲声追日近ク薄暮ヨリ大津ノ方位ニ当リ連山ニ放火シ火焰一線ニ見エ好景ナリ本日賊一名捕獲ス

三月十九日晴天植木口ノ砲声止ム時々安政橋ノ賊ヨリ砲発ス既ニ午後四時頃本台ニ射込ム日頃内堀ニテ魚ヲ取ルヿ夛シ本日植木口ノ官軍同所エ乗込ム夜間四方ノ砲声ナシ賊花岡山下ノ河流ヲ壅ス爲メニ嶌﨑及野砲営前面ノ田畑流水溢レテ湖水ノ如シ

三月廿日雨天午前昨日ニ同シ午後時々砲声アリ植木方ニ当テ出火甚タ熾ナリ同九時頃火勢衰フ同十一時頃俄然埋門千葉城野砲営其他各哨所ニ戰ヒヲ始ム然レ共僅ニシテ止ム亦植木口ニ當テ砲声アリ夜半ヨリ烈風トナル本日負傷一名アリ

三月廿一日雨天午前十時頃晴レ烈風植木口ノ砲声前ニ同シ時々互ニ砲発スルノミ

三月廿二日曇天當方及植木口トモ昨日ニ同シ夜間各哨兵賊ト問答最モ喋々タリ

三月廿三日雨天植木及川尻邉砲声日〃近ツク川尻邉ニ當リ出火アリ当方昨日ニ同シ頓テ貯藏ノ濁(ドブ)酒モ竭タリ

三月廿四日曇天昨日ニ同シ宇土及御舩邉ニ銃砲声アリ

三月廿五日晴天午前休戰午后坪井邉焼失植木街道砲声前ノ如シ薄暮ヨリ阿蘓山ヲ放火ス時々大砲及小銃互ニ発射ス日頃野砲営ニ於テ花火ヲ揚ル

三月廿六日晴天昨日ニ同シ午後松橋辺ニ砲声アリ同五時頃ヨリ大風雨トナレリ

三月廿七日晴天午前四時頃巡査一小隊第一大隊ヨリ一小隊第二大隊ノ一中隊第三大隊ノ左半大隊ニテ京甼及牧嵜島嵜エ進撃拂暁賊ノ不意ヲ襲フ午前十一時頃勇進京甼賊ノ胸壁ヲ畧取シ終日各哨所戰鬪ス午後一時頃京甼翁樓前エ我一胸壁ヲ築キ牧﨑及嶌嵜ハ午後第六時引揚ケ此時賊ノ死傷無算即死軍曹冨永吉尚外六名負傷少尉河部勝連外二十六名アリ就中冨永軍曹ノ牧﨑ニ於テ戰死スルヤ同僚及兵卒大ニ働キ之カ爲メ衆奮戰セシハ信ニ感心セリ薄暮ヨリ諸處出火植木口及ヒ枩橋ノ砲声前日ニ同シ彼レヨリ我営中ニ発射スル砲丸破烈ノ音響ハ恰モ百雷ノ如シ

三月廿八日晴天午前休戰午後時々互ニ砲発ス同三時鹿子木村ノ方位出火熾ナリ諸道ノ砲声益々盛ナリ山鹿口官軍ノ間諜ノ来語ニ山鹿地方ノ官軍對敵スル線七里ニ及ヒ而シテ昨日向坂ヲ取リ木留ニ陣ス賊勢日々衰フ既ニ彈竭キ我射スル彈ヲ土民ニ拾ハセ價ニ二厘五毛ニテ買上ル由其ノ代金ニ代エル皆証書ヲ以テスルト而シテ彼レノ會計出セシハ偽リト云テ與エス於テ是土人其無情不正ヲ知テ再ヒ役ニ出サルト云フ城内各哨所戯テ鼓及三味線或ハ鐘ヲ鳴ス亦タ賊ト舌戰スルヿ囂シ

三月廿九日晴天午前休戰諸道ノ砲声前ニ同シ午十二時ニ至リ少シク弛ム薄暮ヨリ阿蘓山ニ火焰ヲ見ル木留口ノ砲声盛ナリ賊牧嵜村ヲ火ス

三月卅日雨天午前七時頃ヨリ百官沖ヨリ海軍発砲スルヿ頻リナリ午後一時頃止ム終日大津及木留辺ノ砲声不止薄暮ヨリ大風トナル此日互ニ時々砲射スルノミ而シテ負傷一名アリ

三月卅一日晴天午後木留口ノ砲声最モ盛ナリ時々彼レ花岡山ヨリ我線中ニ砲射ス夜間本台ニテ花火ヲ上ル

 3月分には両者の相違点は少ない。3月3日隈岡本では末尾付近の「此旨相達候」の次に「今一層勉励可致様其部下ヘ無漏可相達候事」が入る。14日「迂回兵ノ勇進」の直後に隈岡は「十三聯隊及ヒ巡査、連戦不屈、遂ニ塞ヲ」を加え、文意が通りやすくなっている。小川が何かを転写する際に見落としたのを隈岡の場合は見落とさなかったということか。同じく「砲兵隊発射精妙工兵隊☐」の☐部分に隈岡は「胸壁」を加える。19日「魚ヲ取ルヿ夛シ」の横に「此魚ハ悉ク病院ニ送リ負傷者ノ食用ニ充ツ」とある。31日  籠城軍が揚げた花火は軍用火箭だろうか。4月1日も揚げている。

 次は4月です。原文でフリガナ状の部分は、ここではその機能がないので( )に入れて示します。 

四月一日晴天午前木留ノ砲声前日ニ異ナルナシ同十一時頃小萩山ヲ放火ス午后六時頃當内ヘ彼レ砲丸ヲ射入ス傷者ナシ夜間段山ニテ花火ヲ揚ル

四月二日雨天午前七時頃ヨリ諸道ノ砲声益々近ツク小萩山近傍出火午後御舟川尻ノ砲声最モ近ツク夜間出甼焼失ス

四月三日晴天午前京甼方位焼失午後金峯山ノ方位ニ砲声アリ蓋シ海軍ナラン薄暮ヨリ川尻ニ當テ大火ヲ見ル諸道ノ砲声前日ニ異ナルナシ

四月四日晴天午前木留ノ砲声不止午後坪井出火アリ頃日櫻花滿開ス

四月五日晴天諸道ノ砲声昨日ニ同シ線内棒安坂傍ノ病室住ノ江邸各處エ胸壁ヲ築キ是レ郭中ノ第二線ナリ

四月六日晴天是迠糧米壱人ニ付壱合五タノ処今朝ヨリ粟粥八勺昼夕粟飯トナル其分量米一舛ニ付粟三合ヲ加エ進撃ノ際ハ此限リニアラス精米ハ本月十八日限リト云フ先月下旬ヨリ夜食ヲ廃ス終日木留邉ノ砲声近ク聞ユ諸ニ放火アリ夜間各所賊ノ哨兵ト舌戰ス

四月六日雨天終日川尻近傍ノ砲声盛ナリ彼レ花岡山ヨリ砲丸數十ヲ我線内ニ射込ム

四月八日曇天午前第三時第一大隊竊ニ明五橋(亀岡では明五橋なし)安政橋ノ中間ヨリ川尻ニ進撃ノ命ヲ受ケ勇進之カ援助ノ爲メ本隊ヨリ若干第二大隊左半大隊工兵隊巡査兵ハ山崎及安政橋明五橋エ十四聯隊内若干長六橋ニ進撃ス同五時頃一舉倶ニ圍ヲ破ル後チ第一大隊ノ向處銃声ナシ同九時頃九品寺ノ賊有スル米藏ヲ襲フ米千三百余俵ヲ分捕ル午後賊悉比クル賊ノ死體三十余名アリ傷者無算此日九品寺村及安政橋近傍ニ隠逃スル人民穴ヲ穿テ住居スル者我軍ヲ仰キ見テ慕ヒタリ営ナシ賊ノ人夫十名余ヲ捕ラエテ城内エ送ル午後四時引揚ケ此時雨ヲ催ス此日信ニ快戰第一大隊突出テ佐ケ加フルニ糧米ヲ得自ラ橋上ニ立テ躍リ初メテ死中ノ快ヲ得タリ昼夜木留及川尻ノ砲声最モ盛ナリ我軍死傷七十三人内死廿余名アリ就中本隊ノ負傷軍曹大嶌直度外六名ナリ

四月九日雨天午前十時頃晴ル午前(後)一時頃京甼哨所ニテ互ニ銃発シ時々砲声アリ此日該道ノ砲声ナシ夜間小萩山ニ火光ヲ見ル

四月十日雨天四方ノ砲声前日ニ異ナルナシ午後左之通リ布達アリ

  今般賊徒ノ征討ノ海陸軍既ニ東西ニ麑(げい。亀岡では集シ賊徒糧道斷切セラレシ上ハ敗散遠キニ非ラス此際彼レ窮鼠ノ勢トナリ突然死戰ヲ决スル義モ難測目(亀岡では(亀岡では次に最モ警戒厳粛ヲ要スルノ時ニ候条各自一層勵精奉務候様篤ト可申聞此旨及諭辰候也

          陸軍少将谷干城

  當臺守城既ニ五旬餘ヲ経ルト雖モ人氣不撓守備信嚴ニシテ最初ノ戰鬪已来曽テ賊ノ侵襲ヲ受ケス我數回之攻撃毎戰捷ヲ奏シ殊ニ一昨八日突圍及進撃ノ如キハ十分ノ成策算外ノ勝利ヲ獲ルト謂エシ是レ偏ニ各隊各部同心戮力我カ天皇階下ノ爲メ難(亀岡では苦ヲ不厭各其職務ヲ勉強スルノ致ス處屡勝利ヲ得賊勢ヲ挫折シ不日其成功ヲ奏スヘキハ必然ニテ深ク感賞之至リニ候追テ其節エ上申ニ可及候条此旨篤ト可申聞此旨相達候

    明治十年四月十日      陸軍少将谷干城

  永々守城中各隊各部一同勉強奉職候ニ付爲慰労別紙目録之通リ酒肴料下賜候条右金員當臺會計部ニ於テ(亀岡ではここに受取此旨相達候事

    但シ人夫ヲ除クノ外雇下士下使ニ至ル迠兵卒ニ凖シ可相渡候事

      目録

一金壱円二十戔  奏任    一金一円    判任

一金八十戔    諸卒

  右慰労トシテ酒肴料下賜候事

四月十一日晴天終日川尻及木留辺ニ當リ砲声アリ薄暮ヨリ京甼及片山邸ニテ戰ヒヲ始ム

四月十二日晴天昨夜八時頃當縣城下ノ人民一名舩ニ乗リ片山邸ノ下ニ来ル捕テ賊情ヲ問フニ賊最早策竭キ近日切込ノ説アリト云フ午前ヨリ諸道ノ砲声益々近ツク時々互ニ砲発ス花岡山下ニ舩十艘余ヲ浮(右は字)フ      

四月十三日晴天午前川尻及木留辺ノ砲声彌近ツク午後ニ至テ止ム亦タ九時頃ヨリ木留ニ當リテ暫ク砲声ス

四月十四日晴天暁ヨリ木留方ニ當テ砲声アリ同六時止ム俄然我軍花岡山近傍ニ来同處及阿蘓山辺ニテ合戰同處焼失ス此時花岡山ノ賊砲射スルヿ頻リナリ午後三時過ヨリ俄ニ第二大隊ノ第二第三及第四中隊坪井ニ進撃ス同時ヨリ雨降同四時十五分東京鎭台兵山崎練兵塲ニ来着ス其後野津少將當台ヘ来着ノ説アリ京甼口少シク賊ト交射ス其他花岡及牧﨑辺ノ賊砲発ヲ止メ追々逃走ス薄暮ヨリ坪井焼失此時砲ヲ京甼口ニ増加シ猶彼レヲ撃ヿ急ナリ木留辺砲声ナシ川尻ニ三旅團来着其他木留及植木辺ニ我軍三万余来ルト云フ本日負傷一名アリ又左ノ布達アリ

  第壱旅團五中隊今夜向甼止宿致シ候旨報知有之候条爲心得此旨相達候事

   但シ三好少将ノ持

四月十五日晴天第一中隊及第二中隊ノ左小隊ヲ偵察トシテ橋髙及甼地方エ派遣ス朝食ヨリ平常ノ通リ米二合トナル午前休戰追々各旅團到着ス花岡牧﨑及嶋嵜河内ノ賊悉ク逃走ス木留ニ少シク砲声アリ夕食菜ニ鯛烏賊ヲ喫ス午後一時頃ヨリ木留辺出火ス同二時過出京甼学校近傍焼失ス同三時頃京甼哨兵ノ内ヨリ探偵ノ爲メ出京甼辺エ出スル賊三十名胸壁ニ據リ狙撃ス夫ヨリ互ニ発射暫時ニシテ引揚ケ本台ヨリ清酒ヲ給フル同四時頃第一大隊帰着本日布達左ノ通リ

  征討別動第一旅團到着縣廳二ノ丸及砲兵営ニ陣ス第二旅團到着向甼ニ宿陣ス(隈岡本ではこの後に「此日朝、第四中隊ノ内、一小隊ヲ二本木方位警備ニ派遣ス。同中隊曹長岡本鋭威、残賊三四名大砲ヲ引キ逃ントスルヲ見認メ、一巳抜刀、追撃、遂ニ大砲一門・小銃及日本刀数多ク獲。兵卒尖三平外二名負傷ス。」)

四月十六日晴天第一中隊ヲ木山近傍ニ偵察ノ爲メ派遣スルヤ賊竹宮及保田窪邉ニ屯在スルヲ以テ同夜砂取甼エ警備ス午前第四中隊ノ一半隊ヲ水前寺方位ニ第三中隊ハ立田山地方ニ偵察トシテ出ス此日清酒下賜リル總督官ヨリ御沙汰左ノ通リ

  永々之守城一同勉強太義之旨髙瀬師陣總督官ヨリ陸軍少佐平岡芋作ヲ以

  テ本日御沙汰ニ相成候間爲心得此旨相達候事

午後十一時本隊水前寺エ連絡ノ爲メ出発ス第一及第二中隊ハ水前寺第四中隊ハ本村天神宮近傍ニ配布第三中隊モ是レニ連絡ス第四中隊ノ左小隊ハ安政橋近傍ニ配布ス本日御沙汰書ノ寫シ左ノ通リ

                  陸軍少将谷干城

   鹿兒島逆徒益凶暴ヲ逞シ熊本城ヲ圍ミ攻撃ニ及候處殊ニ力戰屡賊軍ヲ撃破リ能ク孤城ヲ堅守候段叡聞ニ達シ深ク苦労ニ被思食候依テ爲慰労酒肴下賜候猶此上奮発兵士ヲ卒ヒ勵シ速ニ平定ノ功ヲ奏スヘキ旨御沙汰候事

    但シ士官兵隊等ヘモ此旨相達ヘク候事

     明治十年三月   太政大臣三條實美

四月十七日雨天終日休戰別動第一旅團ノ中一大隊水前寺砂取甼ヘ着ス賊此處ヨリ廿(隈岡では丁余ヲ隔テ八丁馬塲及竹宮辺ニ胸壁ヲ堅守ス第一中隊是ニ對シテ砂取甼辺ノ田畑ニ大哨兵ヲ布ス午後六時第二中隊ト交代ス第五時前大隊本部ヲ砂取甼エ移ス熊本以北ノ電信不通ノ處本日ヨリ始業セリ且布達左ノ通リ

 

  此般別紙之通リ物品下賜候就テハ酒肴之義モ別紙金額表ニ照シ一時其軍資金ヨリ繰

  替支給相成度木綿綿撒糸其外ハ當営ニテ分配スヘクニ付會計主任ノ者早々御指出シ

  相成度此段申進候也

    十年四月十六日    八代口派出黒田征討參軍

    熊本鎭台司令長官

        谷陸軍少将殿

  追テ籠城ノ者一同文官ヘモ下賜リ候儀ニ有之候条武官等級ニ照シ下賜リ

  取計有之度 候也  (前行の追テから12行目の黒田征討參軍までは隈岡にはない。)

  佐官并相当官   十円宛     中尉并相当官凖士官迠 五円宛

  大尉并相当官   七円五十銭宛  下士并警部   二円五十戔

  兵卒并巡査    壱円宛     文官判任    二円五十戔宛

  文官七等以上   五円宛     同等七十五戔宛

  同尉官以下凖士官 十円宛     同兵卒并巡査  二円宛

  今般將校軍隊爲御慰門侍片岡利和ヲ勅使トシテ被差下佐官以下兵卒ニ酒

  肴料并負傷之者エハ皇太后官皇后官ヨリ御沙汰書之通リ下賜候条此旨相達候事

    十年四月十六日        黒田征討參軍

      谷陸軍少将殿

             征討參軍黒田清隆

  鹿兒島縣賊徒征討ニ付ハ八代口出張ノ諸軍隊勇奮劇鬪夛人數創候段

  皇太后官皇太后被聞召思食ヲ以テ別紙目録之通リ創傷者エ下賜リ候旨

  御沙汰候事

    明治十年四月             宮内省

        目録

  一綿撒糸   五十反    一煙草   四百斤

  一白木綿   二百五十反  一葡萄酒  千本

  今般負傷者エ下賜候綿撒糸ハ  両皇后女官ト倶ニ親ク御撒被遊候義ニ

  候条此旨相心得候様一同エ御達有之度此段申入候也

    明治十年四月   官内郷徳大寺實則

     黒田征討參軍殿

  追テ今般負傷ノ者エ右賜物ハ神戸出張陸軍省ヘ相托シ其許エ回送之筈ニ

  候条到着之上可然御取計有之度候也

四月十八日晴天終日休戰ト雖モ夜間時々賊ヨリ虚撃行フ本部ヲ本村ニ移ス

四月十九日晴天大哨兵ヲ時々僅ニ偵察ヲ出ス賊虚撃ヲナス前夜ノ如シ午前九時頃第一第二大隊砲兵第六大隊及工兵第六小隊砂取甼ニ着ス

四月廿日晴天暁天頃竹官ヨリ渡瀬向距离凡壱里ニ開戰彈丸雨注竹宮ハ建宮ナリ且進且退キ交刃數回午後第四中隊及第一大隊第二中隊共ニ勇奮突撃遂ニ彼レノ數塁ヲ拔ク賊之カ爲メ退去第二線ニ據テ尚ヲ防禦ス本日ノ戰争右翼ハ八代辺ヨリ中央竹宮原ヲ経テ左翼大津辺ニ至ル戰線十二三里砲煙天地ヲ覆ヒ彼レ我ヲ辯ヒス銃声鋭ク砂礫ヲ投スルカ如シ実ニ盛戰ニシテ大進撃ナリ翌拂暁ノ頃賊悉ク逃去木山此處ヨリ竹宮五里ニ走ルト此日即死中尉小林清吉外四十名負傷大尉瀧川忠教外七十七名アリ而シテ賊ヲ斃スヿ數百名(隈岡本では即死中尉小林清吉外十五名、負傷大尉瀧川忠教外六十九名・賊ヲ斃ス事、數十名ニシテ是レ無算第四中隊給養軍曹島田末周最モ奮戰賊四名ヲ刃殺ス亦三木大尉モ一名ヲ刃殺ス

 この頃から耳慣れない地名が登場し始めるので地図で示す。

四月廿一日晴天午前八時頃当處引揚ケ午后六時頃ヨリ本隊小峯原ニ大哨兵ヲ張リ同八時頃大隊本部ヲ新外村エ轉ス木山辺ニ当リ大火ヲ見ル

四月廿二日晴天午前小峯原ヲ引揚ケ午後三時頃福原村エ着ス途中猫ブクト云處アリ

 福原村に着いた官軍は必ず周囲に哨兵を置いた筈だから、薩軍が去った南側を警戒する必要がある。上図の〇印付近は踏査したら台場跡があるかも知れない。

四月廿三日晴天午后右半大隊福原村ヲ引揚ケ木戸屋ニ進軍ス凡ソ一里半此間里程一里半午后同處エ繰込ム※線消し部分には字が見えないように紙が貼り付けられている。

四月廿四日雨天午前七時頃右半大隊木戸屋エ進軍ス本部モ午后同處エ繰込ム(隈岡本では本部以下は大隊則チ小川少佐モ午后同処ヘ繰込ム。

四月廿五日雨天昨日午前右半大隊三葉淵エ繰込ム本日午後報知左之通リ

  今暁金内並ニ矢部濱甼辺ノ残賊悉皆奈須ノ「オマエ」ト申処エ逃集ス

四月廿六日雨天午前十一時頃晴ル同六時第三中隊(隈岡本ではここに第三中隊鶴ケ淵ヘ発ス。右半大隊金内ヘ発ス。第四中隊が入る)ハ木戸屋守兵ノ爲メ同処ニ残ル金内ノ賊逃走ス

四月廿七日大風雨午前第一第二及ヒ第三中隊ハ矢部濱甼エ進発ス同六時頃本部及第四中隊モ同断濱甼ニ進発午后三時頃濱甼着路上甚ダ險難木戸屋ヨリ凡六里余当地ニ彈藥二万千五百発余銃器五十五挺外ニ喇叭一個其他雜物賊逃去ノ際取落シ置キ候旨ヲ以テ人民持来ル探偵者ノ曰ク奈須ノ「オマエ」ノ賊悉ク人吉「サガラ」及日向地方ヲ指シテ逃走ス人吉迠熊本ヨリ三十里余布達左ノ通リ

  永々滞陣火立(隈岡本では火立ではなく欠乏。これから見て小川又次は書き写す際に間違えている)品モ可有之候得共不取敢襦胖袴下手拭ホ(等。等をホと書くことが多い)各一枚宛支給候条會計部ニ於テ受取可ク此旨相達シ候事

    十年四月廿七日     熊本鎭台本營

四月廿八日晴天午前六時頃第四中隊濱甼ヨリ馬見原エ分派ス又當濱甼ヨリ凡一里余隔タツル緑川ノ上流ニシテ鮎ノ瀬ト云處エ賊三百名余来ル由薄暮ノ比報ヲ得タリ依テ第二中隊ノ兵若干及工兵若干ヲ鈴木中尉ニ附シ破橋且ツ探偵トシテ該方ニ出ス其途中ヨリ三道ニ分ル右ハ「カンバ」中ハ「アイノセ」左ハ「タヨシ」夫ヨリ兵ヲ三分シテ三途ニ向フ渡塲皆激流ナリ則チ其二ヶ所ノ橋ヲ毀落シ歸ル後チ若干兵ヲ派遣シ各持塲ニ胸壁ヲ築キ警備ヲナス

 4月28日、薩軍300人程が鮎ノ瀬に現れたので官軍は浜町から三道に分かれて進み、薩軍が攻撃してくる場合に渡る可能性がある橋二つを破壊し、塹壕を築いて守備した。これでは官軍が積極的に進撃する積りがなかったと見るしかない。タヨシは鮎ノ瀬に向かって右側に位置する田吉だろう。カンバは「熊鎭日記」ではカシワとある場所だろう。何処にあるのかわからないが左の道だから鮎ノ瀬よりも西側に通じた場所だろう。

四月廿九日晴天拂暁ノ頃「アイノセ」入口ニ賊二十名余探偵トシテ来ル我兵直ニ狙撃シテ之ヲ退ク午前第四中隊馬見原ヲ引揚ケ濱町ニ復ル第二大隊及第六聨隊ノ内二中隊到着ス午后衛戍兵各復隊ス

 アイノセは鮎ノ瀬である。4月4月29日の熊本鎮台全体の配置を「熊鎭日記」から要約すると次のようになる。この日、薩軍約300人が鮎ノ瀬を攻撃し、次いで管村に侵入した。  

四月三十日晴天午前第七時第四中隊仮屋村エ出張此処ヨリ四里余第二大隊第一中隊モ前同断熊本ヨリ兵粮及彈藥等日々運送陸續タリ亦馬見原ニ於テ彈藥十九箱銃五十七挺砲丸鑄造器一個及雜器若干分捕到着スルヲ以テ直ニ當所出張參謀部エ納ム此日第一大隊当濱甼ニ着ス

 地名を検討するため、4月24日の熊本鎮台の記録「熊本鎭臺戰鬪日記」を見ておきたい。

  四月二十四日  本營 福原村

  第十三聯隊第三大隊左半大隊木戸屋ニ進ミ右半大隊ニ合併シ中野村ヲ守

  備スル第十四聯隊第二大隊第二第四中隊ト交換シ十四聯隊ノ二中隊ハ悉

  ク福原村ニ歸陣ス本日暴雨工兵第六小隊第二半隊中野村ニ至リ廠舎ヲ修

  築ス

 24日前後の「明治十年戰争日記」では中野村は登場しない。引用部分によれば小川又次の第三大隊は木戸屋に進み中野村を守備したとあるので、小川又次の「・・戰争日記」では中野村は木戸屋地方に含めたのだろう。

 以上のように書いてきて思うのだが、4月下旬の熊本鎮台の進路はこれまで検討されたことがないのではないか。

 

 

明治十年の巡査の辞令・慰労金証書などの史料紹介。がPCのネット接続が不完全で・・・買い替え時かなあ・・・

netto  これらは一条千代吉氏が四等巡査心得として警視局に採用され、西南戦争に従軍、終戦時に退職して慰労金を下賜された一連の辞令や証書です。

 辞令は縦21.4cm・横28.0cmの和紙で、木版印刷した空白部分に一条千代吉・四・十・五・十七」を毛筆で記入しています。4点に共通するが紙色は薄い茶色だが、本来の色だろうか。裏打や糊付け痕はない。

 二番目は縦21.1cm・横27.9cmの和紙で、これも木版印刷。「四等巡査一条千代吉・十・九・廿四」は毛筆書きです。裏面に空気が入って浮かんだ部分があり、薄い和紙で全体を裏打ちしているように見える。明治の明は口の中によん画を加えている。戦争が終わった9月24日の日付であり、一条氏は戦死することなく勤めを終えたのです。

 次は縦21.4cm・横27.9cmの和紙の上下に裏側から幅8.5mmの緑色を帯びた和紙を貼り付けている。上下の貼り付けはこれだけで、額か何かに貼り付けて飾っていたのかも知れない。毛筆で書き加えているのは「元四等巡査心得福嶌縣一条千代吉・九・廿四」であり、明治十年の十は印刷のように見える。これも上のものと同様に裏側全部を裏打ちしている。この明も一つ前のものと同じ字形です。

 四枚目です。縦20.4cm・横27.9cm。これも裏打ちされているようです。罫紙になっていて、右部分は八行、中央に賞勲局、左部分は六行になり、すべて朱色の木版印刷です。明治の明の左部分は目になっています。毛筆部分は「一條千代吉・四等巡査心得・拾五・十二・十七」です。これも裏打ちされています。苗字の條が前の三者と相違しています。三番目の警視局の紙に慰労金二十円下賜と書いているのに、賞勲局では十五円下賜に減らされています。

 警視から慰労金が下賜されるとの証書は、これだけ上下に紙を貼り付けており記念として壁にでも掛けていたのでしょうか。この一点で西南戦争に従軍したこと、無事帰還し慰労金を下賜されたことが分かるからです。

 同一人物の辞令などが4点揃っているのは珍しいのではないかと思います。

淵辺高照の水野武一郎宛書状

 淵辺高照の書状を紹介したい。

 まず彼が何者なのかについて、「西南記伝」下・2の本営護衛将士伝「淵邊群平傳」の記述を掲げる。

  淵邊群平、名は高照、初め直右衛門と稱す。薩摩の人。天保十一年鹿兒

  島高麗町に生る(※1840年)。世、島津氏に仕へ帽子、其藩士たり。

  辰の役、藩隊の監軍と爲り、參謀黑田淸隆の隊に屬して、其謀議に參

  し、北越に出征して功あり。凱旋の後、賞典祿八石を賜はる。明治二年、

  鹿兒島常備隊の敎導と爲り、四年、出でゝ近衛陸軍少佐に任じ、尋て北條

  縣四年十一月十五日、津山、鶴田、眞島の三縣を廢し、北條縣を置き、美

  作全國を管す參時と爲り、六年五月、陸軍少佐に復任す。此歳十月、征

  論破裂し、西郷隆盛を辭して鹿兒島に歸るや、群平亦職を辭して郷に

  り、力を私學校創立に盡す。十年の役、薩軍本營附護衛隊長と爲りて熊本

  に向ひ、帷幕に參す。己にして桐野利秋の命を受けて鹿兒島に歸り、壯丁

  を募りて二箇大隊を編成し、別府晋介、邊見十郎太と共に八代方面に向ひ、

  官軍の背面を衝きしも、利あらず、四月二十一日、鵬翼隊大隊長爲り、大

  野方面に戰ひ、轉じて人吉に退き、五月三十日、官軍と戰て重傷を負ひ、吉

  田に送られ、終に起たず。年三十八。

 記述はまだ三倍くらい続くが、上記部分により淵辺の概要は理解できる。鹿児島藩士であり、戊辰戦争に従軍し、鹿兒島常備隊教導・近衛陸軍少佐・北條県参事(知事)などを経て、征韓論の際に辞職して帰郷し私学校に関わった。西南戦争では本営付護衛隊長となり、後に鵬翼隊大隊長となり、人吉・水俣境の大野本営で大関山や久木野方面などの指揮を執り、5月30日負傷し、亡くなっている。

 書状は障子紙のような和紙に包まれている(縦25.1cm・横33.2cm)。それには左端に「十年

ノ役薩軍ノ猛将タリシ渕邉權六ノ手簡 水野武一郎ハ兵庫縣大参事ノ時」と毛筆で書かれている。淵辺高照に権六という名があるのか分からないが、本紙書状には淵辺高照・水野武一郎とあるので、権六とも称したのであろう。

 水野武一郎を人名辞典類で探したが該当人物が見つからなかったので、兵庫県立図書館に水野武一郎について問い合わせたところ、不明とのことであった。

 書状本紙は縦17.4~17.5cm、横53.7cmで、包み紙に比べれば厚手である。横長の紙の中央部分で接合しており、重なる幅は2㎜程度である。その部分から2.5cm右側も同様の接合がある。字は接合後に書かれている。今回も読めない字が33字程あったので、大分県立先哲史料館の三重野誠館長と久保修平さんに解読していただいた。それが以下である。

爾来不得貴意候     あれ以来ご意見を伺えていませんが

得共弥御安康當縣ハ   いよいよお元気のことで当県に

御奉之由遣申而者   お勤めとのこと

陳ハ今後諸縣御呼 申し上げますが今後諸県を(政府が)呼び出すとのこと

出ニ付今廿一日午後第三 であり、今月21日午後三時

時旅籠町菊屋     旅籠町菊屋☐

兵衛所江致安着ニ付  卯兵衛の方へ無事到着し

久シ振ニ當御縣之☐☐  久し振りに当県(※兵庫県?)の

御高證等拜     事につきご意見を

承致度御座候即(or御) 受け賜わりたく思いますので

閑暇ニて候ハゝ夕刻   お暇でしたら夕刻

より御わん被成(or述) からお出でください

心中抔呉々も奉    胸中の意見なども

願候孰レ拝顔百    伺いたいと思い、拝顏して色々なことにつき

可得貴意候恐々     ご意見を伺いたく存じ

敬白          謹んで申し上げます。

 三月廿二日

水野武一郎様淵辺高照

        上置

  淵辺が北條県参事だった時の肉筆と考えられる史料が残っている。

C09121263500「明治五年八月 諸県」(防衛省防衛研究所蔵)

  庚第八百三十一号

  假縣廳之儀ニ付伺

  當縣廳之儀追而佳處ヲ擇ヒ新建築之積ニハ候得共夫迠之處津山城郭内在来之

  舊廳當分拝借以多し度此段相伺候也

   壬申八月四日北條縣参事渕邊髙照㊞

 

 

   山縣陸軍太輔殿

   書面當分可貸渡ニ付証書可差出事

 仮県庁の儀に付き伺い

 当県庁の儀追って佳い處を択び新建築の積りにはそうらえども、それまでの

 處、津山城郭内在来の旧庁当分拝借いたしたく、この段あい伺い候なり

 壬申(1872年)八月四日 北條(ほうじょう)県参事淵辺高照㊞

 

 山縣陸軍太輔殿

 書面当分貸し渡すべきにつき証書差し出すべきこと

 山縣の回答部分は分かりやすいように青字で示した。北條県の設置は明治4年で、初代参事(※知事)は淵辺高照。明治6年5月まで任官。北條県は現在の岡山県の北部内陸部にあり、鳥取県に隣接していた。県庁は津山城内の旧藩庁を使った。この史料は淵辺の印もあり、自筆であろう。書状に比べ丁寧に書いている。

 紹介した史料が何時書かれたのか明確でないが、北條県参事になった明治4年から、帰郷する明治6年までの間だろうと推定する。水野武一郎が本当に兵庫県の大参事だったのか確認できないので、両者の関係も不明である。

 解読に協力いただいた三重野誠さんと久保修平さんにお礼申し上げたい。