西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

臼杵市井村山の戦跡 田ノ口に戦跡なし。5月23日踏査結果。

はじめに

 巻尺の位置が塹壕内側の窪みです。向こうに見えるのは藤原山。

 塹壕跡から見た北東方向風景。中央左に龍王山、右は大迫山。低地を横切るのは臼坂バイパス。

 大迫山の踏査以来、周辺のいくつかの戦跡が未踏査であることに気づきました。その一つが井村にあったという井村山です。これまで井村の丘陵を山と称していた可能性もあると漠然と考えていましたが、1基だけ井村西部に台場跡が存在する周辺を確認してみることにし、出かけました。下図の中央部に官軍台場跡とある地点の北側です。

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 井村山の台場跡分布図 5号と6号は初めに薩軍が北方の大分市方向を意識して構築、4号は官軍が南から進撃した際に薩軍が築いた。1号から3号は占領した官軍が東側を向いて築いた。

 井村の地形は9万年前の阿蘇Ⅳ噴火に伴う堆積層が浸食され、残った溶結凝灰岩丘陵です。上面の標高は10mから20m前後であり、西方の今回井村山と呼ぶ山は最高所が77mです。東側の丘陵面よりも60m前後高くなっています。また、この山自体も阿蘇Ⅳであり、浸食が比較的少なかった部分です。谷間では凝灰岩の崖面を観察できます。

遺構・戦記について

1号台場跡はすでに存在が知られているものであり、今回確認したものを2号とします。2号台場跡の略図が下図です。

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 2号台場跡がある場所は上面が比較的広い尾根の東部にあたり、東側を向いて「し」字形の土塁があり、内側は窪んでいます。窪みの底に試しに細い棒を差し込んだところ30cm弱で硬い面に達したので、埋まった深さが判明しました。台場跡の規模は南北14.2m、東西5.6m。土塁の北端から52mの距離に次の3号台場跡南端があります。

 3号台場跡は2号よりも幅が狭い尾根上面にあり、尾根の東部に東向きに築かれています。土塁は半円形というか弓状です。内側は窪み、南側から入りやすくなっています。規模は南北8.0m、東西5.0mです。こちらの窪みは厚さ20cmほど埋没しています。台場跡の背後に図示していないが幅3mほどの踏み分け道があり、道の西側は土塁状に高まっています。また、台場跡の北側には地形の傾きに直交するように土塁が一直線に存在し、地図外の一段掘り下げられた平坦面(同じ高さを南北に走る畑跡状のもの。道路跡か?)直前まで続いています。これら二つの土塁は踏み跡により消滅した部分が断続的にあり、相当古いようですが、台場との新旧関係は不明です。

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戦記

 井村山が西南戦争時に登場するのは6月8日からです。大迫山を扱った際に関係文書は網羅したつもりですが、そこからいくつか転載してみます。

 6月8日、戦闘開始。官軍の臼杵進撃の方略・部署表があるが、簡単に記す(「征西戰記稿」)

左翼(司令官奥少佐):白木峠に第十四聯隊の2個中隊と警視三番小隊、その北側の再進越に遊撃第四大隊の1個中隊、その北の白山越に第六聯隊の1個中隊。

中央(諏訪・吉田両少佐):松原峠と吉野越に第十三聯隊の2個中隊と警視四番小隊と第十一聯隊の2個中隊。

右翼(林少佐):野津市口に第十三聯隊の4個中隊。

三道ノ兵午前四時ヨリ進ム左翼先鋒ノ警視兵ハ廣田村ヨリ白木峠ヲ越ヱ臺兵ト合シテ末廣村一里松ニ至リ江無田ノ賊ヲ撃ツ而シテ先ツ諏訪山ヲ取ラサレハ或ハ横撃ノ患アルヲ以テ一分隊ヲ留メ路ヲ轉シテ左翼井村ニ至ルニ賊忽チ江無田橋側ニ出テ襲撃ス我カ兵直チニ井村山ニ登リ戰フ會〃日暮ル賊敢テ逼ラスシテ退ク又中央先鋒ハ突進直チニ水城ヲ拔ク其警視兵ハ臺兵ニ並木峠ニ合シ間行吉野峠ヲ下リ賊ノ不意ニ出テ其背ヲ衝ク賊狼狽潰走ス然レノモ両翼ノ攻撃少シク期ニ後ル﹅ヲ以テ未タ志ヲ達スル能ハスシテ天明ク乃チ警備線ヲ設ケ又工兵隊ヲシテ胸墻ヲ水ケ城ニ築カシム

 一行目の広田村は広内村の間違いです。白木峠は今は九六位峠と呼ばれる場所のことで、その北西側麓に広内があるのが広田村とされた所でしょう。8日に戦いを交えたのは広内村から白木峠を越えて末広一本松に進み、江無田の薩軍と交戦した左翼兵だけのようです。官軍側の探偵報告にも井村が出てきます。

 林少佐の4個中隊が井村山で戦ったとあります。対する薩軍は井ノ村山に4基の台場を築いたという記録が大分市松岡の小区役場の記録にあります(大迫山記事に掲載)。

 次は4号台場跡です。これだけが南向きです。

 図では等高線が少ないので分かりにくいが、要するに平坦面がニ段ある地形です。左右の一段低い面は戦後の食糧難時代に畑を開いた跡かも知れません。4号は北側から登ると、頂上に着いた途端に見つかる状態です。

 きれいな図を示せないので仮に写真で撮ったのを掲げます。5号は平面形がL字形で全長延べ94mです。方位印の部分は右から入り込んだ谷になっています。図の左下部分は小さな広場であり、左外側から自動車がここまで来れるようになっています。昔も同じ経路で登ったのでしょうか。北部土塁部は尾根の片側に一直線に続き、内側は窪んでいます。棒を刺したら20cmくらいで硬くなるので埋まった深さはそんなものです。西部は頂上から屈折し、尾根の端に西側を睨んで造られています。

 西部では土塁だけがあり内側の窪みは見られないが、土塁に沿って通路になっているので踏み均された可能性もあります。土塁だけだったら戦跡かどうか疑問が残るが、南西部にJ字形の台場跡があるのでこれで側面からの攻撃に弱いという塹壕側面を補強していると解釈でき、結局土塁遺構も戦跡だと判断できました。

 この二つは薩軍が築いたと考えられます。南向きの4号は官軍が南から進撃して来た際に、井村山を守っていた薩軍が山の北部に退却し戦闘中に築いたと考えています。

まとめ

 前回大迫山の記事では井村山の台場を造ったのは官軍だと当然のように判断していましたが、記録を読むと初めに薩軍が4基築いていたとなっています。東向きの1号から3号台場跡の向きは官軍説に有利です。官軍は井村山の南西側や南側から薩軍を攻めたとみられるので、台場跡の土塁が東を向いているのは薩軍説には不利です。

 北部で南向きの台場跡4号(土塁跡)・北端部で長大な塹壕(5号台場跡)と6号台場跡を確認し図化しました。5号(塹壕跡)・6号の台場跡は井村山で戦闘が行われる前に薩軍が築いたものでしょう。九六位峠(白木越)・再進峠・白山越のどれかを越え大分方面から来るであろう官軍に備えて築造したのでしょう。4号は官軍が南から攻撃しつつ進軍した際に薩軍が応急的に土嚢ないし土塊を積み上げた痕跡だと思います。

 このような戦闘中に敵に向かう形で築造した台場の類例を挙げれば、大分県佐伯市宇目にある観音山戦跡があります。薩軍が守っている観音山に対し、7月1日麓から官軍が攻め上がり、点々と高い方、薩軍のいる方を向いた台場を築きながら10時間戦闘したことが分かりました(高橋信武2002「宗太郎越え周辺のできごと」『西南戦争之記録』第1号PP.110~134)。観音山には多数の尾根筋があり、そのどれを伝って官軍が攻め上がったのかまでは戦記には載っていませんが、戦跡の分布状態を調べると判明しました。

このような推移が井村山であったことは今まで全く知られていなかった点であり、戦跡踏査は意味ある作業だと理解できると思います。

 やっと戦記にある薩軍台場跡の一部を見つけた感じです。戦記では井村山と田ノ口が並んで登場することがあるので、井村山の北側にある田ノ口集落の周辺にも指呼の間に小山がいくつかあるので、それらにも台場跡があるのではないかと考えています。

 5月23日、田ノ口集落の東側、井村山の北側の山を歩いてみました。下図の田ノ口の「田」の右下にある尾根筋から南東に登り、標高73mの頂上から北側、東側を調べたけど台場跡は発見できずに終わりました。

💭 💛250 ⤵⤴

 

水ケ城山踏査

2022.3.5朝8時に出発し40分で駐車場に着き、大迫山5号台場跡の略図を午前中作成しました。pm2.5のために終日遠景視界は不良でした。その後、第二の目的地である水ケ城山に向かいました。山の南側にある白馬渓(文化年間に臼杵の町人が開発した風光明媚の地)の駐車場からは歩きで谷沿いにある8個の石橋を渡り、行き止まりの溜池土手から舗装道路に出て道路の末端まで進み、撮ったのが下の写真です。臼杵湾の視界不良。

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諏訪山の仏舎利塔が左側に白く写っています。ここからも歩きで水ケ城跡の向こうまで行ったけど、台場跡は確認できなかった。途中で、ちょこちょこ動いて藪の中に隠れる狸を見た。

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なお、中断していた安満他の第三旅団7月の行動を少しずつ追加中です。

大迫山の見学会をおこないました

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臼杵市海部振興協議会が主催して「緑輝く三角台の歴史をたどる春登山」を2月26日(土)午前9時からおこない、西南戦争の官軍遺構群を説明しました。当日は39人の参加があり、天気も良く気持ちのいい近場の山歩きでもありました。上は大分合同新聞3月4日記事。

大迫山では、4基の胸壁(薩軍の場合は台場と呼んでいた)跡を確認済みでしたが、二三日前に「三角台を守る会」の人が除草してくれていたので、新たに胸壁跡一基を確認しました。2号と3号の中間に位置する尾根筋の場所で、付近で一番高くなった尾根の頂上です。いつか略図化しようと思います(3月5日実施)。写真は右端が高橋です。

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 なお、第2号と5号の間にも同様の方向を向いた怪しい部分があるが、草に覆われているので判断は後日にします。

臼杵市大浜・中津浦背後の山歩き

1.2020.2.12、最近気になっていた大迫山の南東側、大浜集落背後の地域を歩いてみました。

 集落の背後の山寄りに大きな墓地があり、そこに駐車できたのでそこから北西側の山に入り、枯葉で滑り易い斜面を立木を掴んで登りました。近年ほとんど立ち入る人がないらしく、斜面には木々に埋もれて戦後の食糧難時代のものとみられる細長い畑の跡が何段もありました。先日歩いた下山古墳の南側斜面を思い出す状態です。標高110m等高線が東側に長さ100mほどの平坦面を描く場所が最初の目的地でした。上面は耕地化されるということもなく、まばらな木々と枯葉が埋めていました。先端部に台場跡があるのではないかと見まわしたけどそれはなく、西側の根元に進むと上面の西縁に沿うように土塁状の高まりが続いているのを確認できました(①)。大迫山4号台場跡のように礫を混ぜ込んで造られており、幅は80cm程で高さは平均20cm程度です。全体は一直線に続き、長さは21m、西側で地形が登りとなる位置から測って51mの場所から始まり、平坦地上面の途中で次第に消えています。

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 次に上方に向かって進む。三角台を守る会によって新しい径(人が歩く)が整備される途中らしく道具が脇に置かれているのを見つつ三角台に到着。先客が二人、長椅子に腰かけて豊後水道を眺めていた。次の目的地は北東方向に続く尾根を通って中津浦集落背後の尾根線まででしたが、4号台場跡を抜けていったのが間違いで、羊歯に遮られてしまう。しばらく羊歯を折り取る作業を続けたが断念した。後で地図を見たら三角台から北東に破線が記されており、これを通るべきだったようです。見過ごしてしまった。

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 帰りは同じところを通りたくなかったので、②方向に径を進み、途中で①とは谷を共有する南側の尾根に行くらしい筋を降りることにしました。その途中の景色が次の写真です。臼杵湾の対岸に市街地が透けて見えます。先日の絵も近景はこんな感じでできればよかったのですが。

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 かなり下の方に着き、尾根が南東に延びた場所でまたも土塁状のものを確認。それは西側眼下に県立海洋科学高校の運動場を見下ろす場所にあり、長さ13mで幅0,8mのものです。これも礫混じりでした。高さは10cm程度しかなく、尾根の先端側では不明瞭になっています。その先、尾根先端はかつて畑化されたらしく長さ10mほど高さ20cm程度一段低く平坦にされています。

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 はたしてこれら土塁状の高まりは西南戦争時に造られたものでしょうか?内側に窪みがない点は否定的な要素ですが、どちらも平坦面の西端に縁どるように存在する点は戦跡として捨てがたいものがあります。戦跡とした場合、どちら側が築いたのか判断できません。もう少し北東側の戦跡分布を広範囲に調べる必要があるようです。降り着いた場所には大東亜戦争戦死者達の慰霊碑がありました。

2.2022.2.18 前回に続き大浜の未踏査部分とその北東側の中津浦の背後の山を歩きました。10時過ぎから12時35分までで終了し、初めの気温は4度でその後も10度くらいまでしか上がらず、雲も減っていい天気でした。下図は前回の地図に本日分を加えたものです(3~6)。

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図右の往路・復路の記号は今回は該当しません。歩いた場所には台場跡はなく、前回大浜背後で見つけた土塁二つの結論は付けることができずに終わりました。中津浦集落の写真を上の方から撮りたかったけど木々に遮られていて断念しました。

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 上は3付近から撮影した大浜集落です。

 次回は水ケ城跡の南側尾根を歩きたいと思っています。

賀状

何年も前から年賀状を出していません。今年度も出さないつもりです。悪しからずご了承ください。昔は何通来たとか言って喜んでいたのですが。

というわけで、皆様の新年がいい年でありますように!

臼杵市大迫山(諏訪山)の官軍胸壁跡

はじめに 1月31日、小川又次「明治十年戦争日記」を追加しました。

 下の絵は大迫山及びそこから見た諏訪山・水ケ城等の戯画です。佐倉桜香氏の2021「新訂 征西戦記考-西南戦役・官軍陸戦史-【軍装図解編】」を参考にしました。西南戦争の際、戦争を描いた木版画が1,500種類ほど販売されていますが、残念ながら臼杵市内は画材になっていないので作成しました。※2月9日に少し加筆(左端のズボンに黄色線・水筒)。

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 2021.12.第二週は戦跡を歩いたのでいい運動になりました。第三旅団安満隊の続きも気になるけど、それは後回しにして最近の出来事を報告しつつ関連することを検討します。(※絵に手を入れるように少しずつ輪郭が明確になる、ように書きます。材料を少しずつ加える、ということ。)

天包山

 週の頭には宮崎県西米良村の天包山(あまつつみやま)戦跡で宮崎県埋文センター(堀田・黒木・谷口の3氏)が調査しているのを熊本の岡本真也さんと見物に出かけました。頂上は標高1,188mだけど標高900m位の所に駐車し、坊主岩という花崗岩のそばを抜け、荒れた車道を歩いて少しずつ高度が上がり頂上へ。車道はあるが雨で流れて溝があり、ジープだったとしてもやっと通れるだろう場所が何ケ所かあった。

 頂上の中継塔の階段を三個登ると北側に石堂山1,547m、その左つまり西方に市房山1,721m、南方に白髪岳1,417mその他の山並みもきれいに見えました。天包山はほとんど花崗岩だらけだったが、頂上付近には堆積岩も少し転がっており、水晶片もみかける。

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              上は石堂山(天包山から)

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            左の尖った山が市房山、右が石堂山

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市房山の左側。左中央の高山が白髪岳、その手前右の黒い山の右斜面が一里山峠、その右向こうが人吉盆地。

 人吉盆地のあたりは高い山がないのでそれと分かる。天包山の戦跡は頂上にある中継塔の背後150m位進んだところにあり、尾根の先端に台場跡がいくつかあります。ここは7月に戦闘があり、すでに「西南戦争之記録」で遺構・遺物・戦況を堀田孝博さんが報告しています。駐車場に戻り、付近の旧道傍にある官軍の胸壁跡というのを見て、その日は一ツ瀬川の村所むらしょの蛇行地点にある河岸段丘上の宿に泊まりました。

大迫山

 さて先週と今週の昨日2021.12.8臼杵市の大迫山に二回出かけました。ここは昨年、入手した「西南戦地取調書 豊後」に官軍の陣地があったと記載されており、以前確認に行ったところ台場跡を2基発見し、後日2020.5.21臼杵市教育委員会の神田高士さんと鎌谷涼平さんと図化しておいたところです。

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 大迫山と記された場所は臼杵湾の奥、北側の低い山地にあり、南側は谷部を中心に臼杵市総合公園が造成されており、さらに南側の低い山には前方後円墳の下山古墳と仏舎利塔があります。下山古墳の後方部には台場跡とみられる痕跡があり、仏舎利塔の北側に続く尾根で以前、墓地の造成中に薩軍の銃弾を発見したことがあります。

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上の写真は下山古墳後方部頂上の窪みです。後円部側から後方部頂上左部を撮りました。白い画板は中央の窪みに置いています。

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上の写真は同じ頂上を北側から撮影。右方に後円部があります。写真ではなんのこっちゃですが。

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古墳の中央南部に斜めにある傾いた単甲形石製品です。凝灰岩製。下部の苔むしたところ以外は朱の痕跡が認められます。上半部が欠損しており、もしかしたら西南戦争の銃砲弾が当たって欠けたのかと思って観察しましたが、銃砲弾が当たったようには見えないものでした。古墳の周囲を歩いて台場跡がないかと探したけど、なし。その代わり南側斜面全体に階段状の畑の跡を4,5段か確認し、一ヶ所だけ上方の崩落を防ぐため凝灰岩を積んだ石積みを見つけました。戦後の食糧不足の際に山を削って細長い畑とし耕地化したのでしょう。もしかすると古墳上の石製品はその時に壊され石積みのどこかに再利用されたのかも知れません。石積みの中から欠片は見つからなかったけど。2021.12.20

 絵図ではそこが薩軍がいた浅間ケ迫とされています。下図の上部に159mの表示がある山は竜王山です。官軍は竜王山を通って大迫山に進んだようです。

 大迫山と記載がある部分には三角点があり、地名は諏訪山です。国土地理院地図には仏舎利塔傍に諏訪山の記載があり、三角点の山を含めると広範囲が諏訪山ということになります。場所を限定するという意味で明治時代の戸長が使用した大迫山という名称も、ここで採用する根拠があるというべきでしょう。

 

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 先日、大迫山の一画に砲台跡があると地元の村上中造さん(三角台を守る会)が市教委の担当者(神田さん)に話し、付近には西南戦跡があるという話になって高橋に連絡がやって来ました。それで先週、村上さんと打合せて台場跡を見に行くことになりました。待ち合わせ場所には村上さんの他、守る会の会長稲垣万三郎さんと、会員の松尾直彦さんもいて4人で登りました。付近の人や知る人ぞ知るいい散歩道になっているようでした。

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           左から松尾さん・稲垣さん・村上さん

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散歩道は守る会が開いたということでしたが、2号の数㍍南東側を通過しています。2号はこの道を意識して場所を選定したのかと思ったけど違いました。

 彼らが砲台跡という場所は尾根筋の先の方、三角台という見晴らしよく整備された場所の手前50m位にあります。高橋が発見していた上図2基(1号は東西9,4m、南北9,4mで中央部は自然地形を掘り残し、土塁部分は東部で一ヶ所踏み均されているが、尾根の真ん中にあるため通り過ぎる人が踏み均したためであろう。土塁部分はほぼ全方位を睨んで存在する。1号の場所から尾根の先の方、西南側斜面に変換する場所まで探したが、他に胸壁(台場)跡はなかった。2号は東西4,5m、南北3,6mで尾根の南側を向いて土塁部がある。)とは別の場所であり、さらに北東に登って行ったところにあります。次に掲げる大迫山東端の4号胸壁跡(いわゆる砲台跡と言い伝えられるもの)に至る途中にも確実に台場跡だと判断できるものが1基ありました(3号)。

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        大迫山の官軍胸壁(台場)跡3号と4号(砲台跡)

 東端の遺構4号は地元で砲台跡と呼んでいるものです。全形は円形で、中央部はわずかに窪み、南北10mほどで、直交した長さは9mです。西部は長さ20cm前後の角礫を多量に混ぜた土塁状をなすが、東側は明瞭な土塁は認められない状態です。中央部が少し窪み気味であるため、東部も土塁に似た作図をしました。東端に島状に盛り上がる部分は遺構ではないだろうと思います。樹木の根部分が偶然盛り上がったもののようです。3号は4号から28,8m離れてあり、内側の掘込みはL字形で、南側から東側を向いて造られています。後日の図化では枯れたシダに埋もれていたので清掃に若干手間取りました。 

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砲台跡。南東側から撮影。左の木の向こう側に西側への踏み跡道が分かる。西部

土塁が低いこと、遺構の中央部がわずかに窪むことが見て取れる。

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砲台跡。最初の写真と同じ方向から、やや上から土塁部を撮影。浮いた角礫は二次的な存在であり、本来の状態ではない。

 4号は写真で分かるように土塁部は低い状態です。台場跡は周辺で一番高い場所にあり、三方向に踏み分け道が遺構内を通過しています。ここから50m程東に三角台という見晴らしの良い場所があり、臼杵湾や市街などが見渡せます。

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三角台から臼杵市街方向を撮影(将棋頭台場跡は幕末海岸砲台で幅10mの土塁がある。台場は私立東中学校の運動場全体の規模があり、上写真は屈折した土塁部を囲った)。明治初期には城跡と将棋頭砲台が海に直接面していました。埋立は第二次大戦後。臼杵の戦いは決着したのは6月10日で、市浜方面から攻撃する官軍に加え、官軍の一部が市街背後の鎮南山から進撃し決着がつきました。

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将棋頭台場跡の東側の埋立地に市役所があり、その東部にある駐車場付近から撮影。左背後遠くにある山は大分市との境の再進峠(頂上の三角点の地名は大臼。したがって大臼山です)。山脈の向こう側に丹生地区があり、そこには丹を採集したことに由来した名称から丹生神社もある。辰砂を採集、つまり採辰を再進としたという説を聞いたことがあるような、ないような。

 砲台跡とされる4号遺構は海に向かう側に明瞭な土塁部がないので、この遺構は幕末の海防台場ではなく、規模の面でも到底考えられません。西側の台場群の側に土塁を造っているので、同方向の敵を意識し西南戦争時に官軍が築いたものと判断します。「西南戦地取調書 豊後」では官軍陣地としてジグザグ記号を一ヶ所に描いていますが戦跡全体を一つの記号で示したようです。絵図を含めこの村の報告書を作成した戸長は官軍の胸壁の存在を充分知っており、最も大きな4号が後世まで砲台跡として伝承されたのでしょう。地元民が賃金払いで雇われて築造に参加した筈です。

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三角台から北西大分市方向を見る。左の最高所は再進峠520m、その右の船底状の場所は白山523m。再進峠(大臼山)には大迫山に来る前に官軍が野営し、台場跡が残る。

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          大迫山3号 上は西から

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  3号 上は東から(写真では何のことかわからないのが分かると思います。)

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         大迫山の官軍胸壁(台場)跡分布図(※青丸は意味なし)

戦況の推移

 「征西戰記稿」巻四十二 臼杵戰記によると臼杵の戦いは6月1日に始まっています。

豐後口第二號警視隊村田大警部ノ部下ハ五月十七日鶴崎ヲ去リ大分ニ至リテ警備セシ  カ六月一日午前六時賊兵遽(※にわか)ニ來リ竹田街道掻懐(※かきだき)村哨兵線外

ノ諸山ヲ圍ミ火撃頗ル烈シ乃チ津久見嶺哨兵ノ二分隊及ヒ臼杵士族ノ隊ヲ合シ力戰

之ヲ禦クト雖モ事不意ニ起リ衆寡敵セス我兵百人賊凡ソ千人遂ニ退テ臼杵城ニ據ル賊、

勢ニ乗シ追躡、城ヲ圍ミ午後六時戰始テ止ム

 大分県南部の宇目町重岡に薩軍が侵入したのが5月12日で、政府側は臼杵も危ないとして5月17日に警視隊百人を臼杵に派遣しています。これは臼杵からの要請によるものであり、臼杵士族も隊を結成し官軍側に加担しました。どこから薩軍が来るかわからないので、南側の津久見方面をも警備していたが、結局、西方の野津方面から薩軍は襲来しています。津久見方面守備兵を急遽撤収し野津方面に配置替えしたものの官軍側は大敗し、臼杵薩軍の占領地域となり、次は大分市が攻められるのではないかと考えられました。しかし、薩軍が市境を越えることはなく、官軍が臼杵奪回を目指すことになったのです。

 当時、参戦した臼杵士族は約800人で臼杵隊を結成していましたが43人が戦死し、生存者は薩軍に降伏したり、泳いで臼杵湾北部の諏訪方面に渡ったり、小舟で佐賀関方面や四国、下関などに逃走しました。江戸時代臼杵藩では武士の心得として水練があり、藩主御覧の水泳行事も行われていました。後年、1823年頃(文政6年)伊予松山の水泳術である神伝流を習得していた松山藩士の山ノ内勝重が臼杵に来た際、臼杵藩士にそれを学ばせたのが臼杵に伝わる「山ノ内流」の始まりでした(高橋長一1978「臼杵物語」)。6月1日、薩軍に敗れた士族たちは得意の水泳で洲崎から諏訪、蟹礁がにばえへと泳ぎ渡ったが、日中に泳いだ者は洲崎から銃撃され23人が戦死しています。警視隊も十数名が戦死し、残りは大分市に逃げました。

 臼杵における西南戦争本では臼杵隊が関係した薩軍侵入時の出来事が主に記されています。しかし、後日の官軍による臼杵奪回の戦闘にまつわる諏訪山周辺についてはほとんど記述がありません。士族隊は解散し、臼杵奪回の戦いには関与していなかったためでしょう。

 初めに紹介した絵図の前には北海部郡諏訪村戸長による報告文が一枚綴じられています。

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内容を書き写してみます。

                             

  

北海部郡諏訪村

  新六月七日ヨリ同月九日マテ諏訪村字下山ニ薩軍来リ其隊長姓名不

    詳人數三拾人率テ此地ニ滞在

   但同郡市濱村地方ヨリ來リテ市濱村地方ニ去ル

  新六月九日諏訪村字下山及字浅間ケ迫兩所ニ於テ正午ヨリ三時間程

  戰争アリ砲發ナ

   賊軍敗走ス死者無之傷不詳 

  別帋圖面中標記ノケ所ハ則薩軍戰地ノ塲所

  同圖面中標記ノケ所ヨリ則官軍進撃勝利之塲所

  右之通ニ候也

        北海部郡諏訪村戸長

   明治十六年八月廿日             平川権内

 

 

 6月7日に市浜から薩軍30人程が下山に来て、9日まで在陣したとあります。9日の戦いについて正午から3時間だったとしています。

 臼杵薩軍が侵入し臼杵を守る臼杵士族隊と官軍を追い払ったのが6月1日、陸軍が奪回のため攻撃を始めたのが6月8日でした。3日、大分県職員が臼杵地方北西部の末広村から臼杵占領中の薩軍について探偵情報を提出しています。

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     探偵書

      大分縣九等属多田信

大分縣廳ノ命ヲ以テ昨二日臼杵地方末廣村ヘ探偵トシテ出張ノ所既ニ末廣村ゟ(※より)半里程先迠行シニ自分兼而(※兼ねて)知己アリ此者ハ目今賊ノ炊事ニ雇ワレシ者ゟ左ノ通申出タリ

一賊ノ人員目下凢千五百名分斗(※ばかり)整ユルト云フ

臼杵地方賊ノ哨兵ハ諏訪山中津浦大濱篠生望月深田野門前等ニ配賦シ又哨兵線外諸ノ山中ニ不絶巡察ヲ出ス由(※「深田野門前」は「深田家野門前」が正しい。)

一沿海之漁舟ヲ集メ該地ノ賊員三分ノ二ヲ尽スノモ(※トモ)我軍艦ヲ奪取ルノ手段ヲ為ト云フ

臼杵地方ニ者(※は)多分桐野来リ居ルト云フ併虚実不分明(※桐野利秋臼杵に来ていない)

一彼ハ専ラ府内ヘ突入スル見込之由併シ我軍艦ヲ奪取タル上ナラデハ之ヲ行ヒ難シト云

 

     六月三日諏訪

 臼杵北方の大分市や西方の戸次に進む官軍は臼杵の敵情を探るため、県職員や民間人を臼杵に潜り込ませ情報を集めていました。たとえば、県に依頼され臼杵に来て薩軍の情報を探っていた鶴崎の人は露見して殺害されています。先に見た諏訪村戸長の記述では薩軍が諏訪村の下山に来たのは7日とありますが、多田報告では2日段階ですでに薩軍は諏訪山やその東側沿海部の中津浦・大浜にも哨兵を配布していたと報告しています。多田報告に出てくる諏訪山が浅間ケ迫や下山前方後円墳仏舎利塔のある範囲なのか、大迫山を含んだ広い地域であるのか解釈は分かれるところです。後日、官軍が進撃したときにどこで戦いがあったのかに関わるからです。

 もうひとつ、6月5日付けの官軍側の探偵報告があります。

「明治十年騒擾一件」pp.219青潮社H10.3

    四等巡査釘宮亀吉外壱人ヨリ上申

本月一日賊臼杵ヘ襲来後津久見村ヨリ近傍探偵仕候処、最早賊市中ヘ入込警備嚴重ナルニ付、同二日津久見ヲ発シ四大區七小區佐志生村ヘ着、同地ヨリ尚賊ノ舉動探索ノ為メ土着平民ヲ以テ差遣シ置候処、同三日帰家ノ上申立左ノ通、

一四大區十四小區下リ松臼杵町東ニアル海岸ノ要地、同七小區大濱村右同上北ニアル海岸ノ要地、土橋臼杵町入口、シヨウクハン三重市口臼杵ヨリ三里余ノ地小區三重野村字龍大分道北ニアル一里余ノ地、江無田橋大分本道、十六天神右同上ノ地、通留間右同上ノ、市濱村右同上ノ地、右十ケ所ノ地ヘ堡塁ヲ築キ其他小高キ要地ヘハ哨兵アル由、

一賊本営ハ臼杵町字畳屋町茶屋菅次郎宅ニテ其他本道筋ヘハ警備嚴ナル由、

一消防組ト唱エル者凡三百名位ニテ軍艦ヨリ炮撃セシ彈丸ノ破裂セシヲハ消防スル由、

   右探偵ノ侭及具上候也、

 これは6月1日の薩軍による臼杵侵入後に臼杵の南側の津久見から臼杵の様子を探偵しようとした大分県巡査釘宮亀吉の報告です。臼杵市中は警備厳重で忍び込むことができなかったので、臼杵湾北岸の佐志生さしゅう村におそらく舟で移動し、釘宮巡査は2日そこの住民に薩軍側の情報収集を依頼しました。

 以下は住民が3日に佐志生に帰還しての情報です。下リ松さがりまつ・大浜村・土橋・シヨウクハン・龍王・江無田橋・十六天神・通留間とおるま・市浜村に堡塁を築き、その他小高いところには哨兵を配置しているとし、その他本営や消防対応について報告しています。10ヶ所とあるが9ヶ所しか掲げられていませんが。上記地名は下図に所在地を掲げました。その内、シヨウクハンは場所不明ですが、距離三里余から見れば臼杵市街から野津町に入る手前だろうと思います。しかし、そこよりも手前の臼杵市街地と野津町との中間に丁字形に道路が分岐する障子岩という地名があります。しょうじいわと言う所ですが、これをショウガンと読み、筆写の際か、活字化の際にショウクハンと誤読あるいは解読されたと解釈しておきます。三里余を重視して野津町に近すぎる場所に比定するとここだけが孤立しすぎると思うからです。それに障子岩で戦いがあったと読んだ記憶があります。f:id:goldenempire:20211227203545j:plain

 ここで注目したいのは龍王山に堡塁を築いているという点で、これは前掲の多田報告にない部分です。 

 6月3日、重岡方面にいた熊本鎮台第十三聯隊の第二大隊と第三大隊、砲兵第六大隊(四斤山砲二門)は次の方略により堀江中佐を司令官とし行動を開始しています(「征西戰記稿」)。 

方略:午後一時三重市ヲ發シ臼杵ニ向ケ進軍シ野津市驛ニ營スヘシ

既ニシテ堀江中佐ノ隊臼杵ニ向テ進メハ沿道ノ賊悉ク去リテ臼杵ニ在リ更ニ府内ヲ襲ハントス乃チ我兵モ亦方向ヲ戸次ニ轉シ哨ヲ布テ賊情ヲ探ル

 府内とは大分市のこと。「征西戰記稿」には6月4日の臼杵関係記事はないが、大野川左岸松岡付近の小区役場の記録には4日の官軍記事がある(高橋信武2019「松岡用務所日記」pp.345~360『先史学・考古学論究Ⅶ』龍田考古会)

仝四日 官軍横尾法雲寺ニ百五十人斗リ出張スト云

 横尾には法雲寺があるが、同寺では官軍が宿泊したことを伝承していません。 

「征西戰記稿」を続ける。

警視ノ三小隊ハ午前五時三重市ヲ發シ野津市ニ至テ更ニ戸次ニ轉シ哨ヲ峯越ニ布ク小倉枝隊第十四聯隊第二大隊第二中隊ノ左小隊ハ大分城ヲ出テ散兵線ヲ古國府村ノ川畔ニ布ク

 三重町を当時は三重市みえいちと呼んだ。小倉枝隊とは熊本鎮台の小倉分営のこと。峯越とは具体的地名ではないと思います。熊本鎮台の一小隊が哨兵配置についたのは大分川左岸でしょう。背後に丘陵があるけどそこまで兵を配布したのかは不明です。

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 6月5日の臼杵関係記事は以下の通り(「征西戦記稿」)

五日小倉枝隊ノ右半大隊及ヒ遊撃一中隊府内ヲ發シ横尾村ニ進ミ奥少佐戸次ニ於テ堀江中佐ニ會ス

警視隊ハ其三番小隊ヲ横尾ニ四番小隊ノ各半隊ヲ犬飼及ヒ竹中ニ六番ヲ戸次ニ出シ各〃線路ヲ轉セシメ又傳令巡査三名ヲ臼杵方面ニ遣リ賊情ヲ偵察セシム

 この部隊は第十四聯隊でした。隊長は奥保鞏おくやすかた少佐で、彼は後に陸軍大将・元帥になっています。横尾は大野川の支流が西側に分かれて流れる乙津川の西側に位置する。前面に臼杵との境をなす佐賀関半島の山脈が横たわり、左から右に再進峠・白木峠・九六位山・松原峠を遠望できる場所です。臼杵から山脈を越えて来襲するであろう薩軍に備えて配置についたとみられます。  

 次は6月6日の臼杵関係記事。

鎭臺兵ハ第十三聯隊第二大隊ノ内(※数字が抜けていると思われる)中隊ヲ般若寺村ニ、同第三大隊ノ内二中隊ヲ佐柳村ニ歸セシム其工兵第六小隊第三分隊ハ午前八時中津留ヲ發シ府内方面ノ戰線ニ至リ胸墻六個ヲ築キ午後八時中津牟禮ニ歸ル是日第二旅團ノ二大隊吉田諏訪ノ兩少佐各一大隊ヲ率ヰ野崎中佐之ヲ指揮ス○一(第二旅團日記) ニ曰ク吉田少 佐ノ兵ハ第十一聯隊第三大隊ノ第三第四兩中隊ニシテ其他ニ第六聯隊第一大隊ノ第四中隊 アリ野崎中佐ニハ少尉古垣俊雄附属セリト午前四時小倉ヲ發シ午後六時別府ニ上陸シ府内ニ抵リ賊兵ノ來襲ニ備ヘ又機ニ應シ臼杵近傍ニ向ハントス

 般若寺村・佐柳村・中津留は大野川右岸の戸次町周辺(下図)にあるが、工兵隊が作業後に帰った中津牟礼は三重町の南西部とやや遠く、宇目の西側にある。彼らが作業した府内方面とはどこだろうか。

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 6月6日に熊本鎮台の一部が大分臼杵境の山脈に進軍している記録があります。「西南戦争従軍日誌 第十四聯隊第二大隊」(S58 下関文書館史料叢書25)です。その後の記述の中に大迫山と同じ場所らしい山が登場しています。

    六月五日

迫水少尉試補ハ第一中隊第一小隊ヲ率ヒ廣内村ヘ分遣ス古志中尉ハ第二中隊左小隊ヲ率ヒテ岡村ニ進ミ各支道ニ哨兵ヲ布ク市尾村ヘ分遣哨ヲ置キ軍曹ヲシテ交々指揮セシメ藤井大尉右小隊ヲ指揮シ横尾村ニ駐リ其地ニ警備ス

    六月六日

第一中隊横尾村ニ在リ

第二中隊古志中尉部隊ヲ引率シ白山峠ニ進ミ数ヶ所ニ堡塁ヲ築キ防禦ノ準備ヲナス而シテ后同所ヲ第六聯隊ニ譲リ小在村ニ退ク

    六月七日

第一中隊第二小隊廣内峠ヘ警備線ヲ張ル第二中隊ハ本日午后藤井大尉右小隊ヲ率ヒ横尾村ヲ発シ夜行シテ廣内峠ヲ赴ユルニ及ンテ拂暁ナリ

   六月八日

第一中隊ハ午前第四時廣内峠ヲ発シ臼杵ヘ進軍末廣村ニ到ル賊臼杵ヲ距ル十四五丁江牟田川ニ沿ヒ各所ニ胸壁ヲ設ケテ本道ヲ拒守ス茲ニ於テ本道左傍ノ高丘森林ヲ捜索シ打越山ニ致テ警備ヲナス此トキ午前第九時ナリ而シテ線外ナル井村ニ軍曹矢嶋重政ヲ長トシ斥候ヲ出ス稍在テ賊百名余突然襲来スト雖モ敢テ劇戦ニ至ラス賊退去ス午后第五時頃ナリ第二中隊及ヒ警視隊ヲ以テ功擊アリ勝敗決セス第七時頃ヨリ当打赴山ニ據テ守戦ス(※打越山とか打赴山とあるのは大迫山のことだろう。井村から龍王山を経て大迫山に警備を置いたのだろう)

第二中隊ハ藤井大尉部隊ヲ指揮シ白木峠ヨリ田ノ口村ニ向テ進ミ賊ノ所在ヲ偵察セシメンカ為メ柗尾軍曹ニ銃卒五名ヲ附シ進行セシム然ルニ賊大挙襲来スルニ遇フ是ニ於テ柗尾軍曹率ユル處ノ銃卒ヲシテ要地ヲ占メ奮激シテ之レヲ拒ム彼レカ不意ニ出ツルヲ以テ賊先ツ退ク此報ヲ得ルヤ藤井大尉右小隊ヲ率ヒ進ンテ防禦線ヲ占ムルニ際シ古志中尉左小隊ヲ率ヒ小在村ヨリ来リ合ス已ニシテ午后第二時ニ及ヒ賊再ヒ来襲互ニ進退決セス日暮ニ及ヒ天曇リ雨降ル賊漸ク退ク已ニシテ左方山頭ニ数人ノ渉ルアリ其装ヲ見レハ傘ヲ持シ或ハ笠蓑ヲ負ヘリ皆曰ク土民ノ遁逃スル者ナリト故ニ敢テ拒マス且クシテ亦タ加斯者ヲ見ル是ニ於テ之ヲ偵察センカ為メ古志中尉佐藤少尉及澤曹長澤軍曹進ンテニ三丁ニ及ヒ彼レ已ニ山林中ニ入リ発射スル事急ナリ之レニ因テ其装ヲ変スル者賊ノ計策タル事ヲ知リ路ヲ左側ノ山林ニ資リ退ク藤井大尉之ヲ見テ部隊ヲ率ヒテ左傍黒岩山ニ登リ賊ノ廻路ヲ塞キ奮激拒戦夜半ニ及ヒ部隊ノ戦面ニ来ル處ノ賊退ク故ニ部隊ヲ整頓シ其地ヲ警備ス   

 上記で記す6月8日の第十四聯隊第二大隊の第一中隊と第二中隊の動向を見ておきたい。

 第一中隊は広内峠(九六位峠・白木越ともいう)を越えて末広村を通り地名は記さないが龍王山経由で大迫山に進んだらしい。さらに西方の井村に斥候隊を派遣したところ、午後5時頃井村方面に薩軍約百人が襲来してきたので撃退している。江無田方面から来たのだろう。大迫山では第二中隊と警視隊が(多分諏訪山方面を)攻撃したが勝敗はつかず、大迫山での防禦で止んだ。

 第二中隊は白木峠を通り田ノ口村に進んでいます。田ノ口村は末広の北東1,1km、井村の北西1,1kmの位置にある。彼らは田ノ口からさらに進んでいるが地名を記していないが、おそらく井村の丘陵上を東南東に進んだのだろう。第一中隊斥候隊が井村付近で薩軍と交戦したときに第二中隊も参加したようです(ただしこの戦闘は午後5時頃とあるが)。午後2時に再び敵が来襲し、日暮れ時に雨模様となって敵は退却していった。その後、第二中隊から見て左方の山に住民に変装した薩軍が現れ射撃してきたので、第二中隊は左側の黒岩山(場所不明)に登り敵の迂回路を塞いで交戦し、この戦いは夜半に敵の退却で終了している。

 戦闘を目撃した当時13歳だった木下千次郎が後年記した観戦記を孫引きし次に掲げます(葉山耕三郎「勤王『臼杵隊』餘聞集」)。戦場の住民の様子が分かり面白い。

六月八日。午前七時半頃、水ケ城より砲聲殷々、臼杵湾の淺間、孟春二艦よりも霰彈飛來せり。賊徒と官軍との大戰爭が開始せられたるなり。余は、八時半頃、熊崎に歸り、里餘の臼杵市街の砲聲を聞きて、只管、官軍の勝利を心に祈るのみなり。

斯くて、水ケ城の官軍と田篠原(※江無田の中央部に田篠川がある)の賊徒は、終日砲擊を交へたり。夕近く雨。賊の一隊、雨中を突きて、熊崎三島神社附近に、喊聲を舉げて來襲せり。何の故なるかを知らず。

夜、十時過ぎ頃。三島氏(※三島神社宮司宅の裏なる竹藪中に、賊徒來りて壘壁を築き、井村臺の官軍と對陣せり。官軍の砲彈飛來して、余等の潜伏せる屋上に當り、危險極り無し。故に、十畳一間に集り、古畳三十餘枚を以て壁と成し、其下に蟄居す。或、銃丸その畳に當りて響を立つ。漸くにして戰止む。午前一時過ぎなり。即ち、賊徒の聲なく退散せるものの如し。

六月九日。早暁、軍服に帯劔の官兵、劔着銃を携へ來りて云ふ。「余等は、熊本鎭臺兵なり。賊徒征討の爲來れり。安堵せよ。本日中に賊を掃去せしめむ。」と。温言訓告、村民歡喜雀躍。初めて皇軍の恩惠に感ず。官兵、直ちに空俵數百俵を徴

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發して、福聚寺の門前、小高き處に土壘を築きたり。午後二時頃より、諏訪山方面にて大激戰ならんか銃聲砲音頻りに聞ゆ。余は好奇心を以て、母及親戚等の制止を聞かず、鬱蒼たる樟樹深山の如き三島神社の境内より、同所の醫師某と唯二人にて、臼杵市街及諏訪山の戰鬪を觀望せり。即ち一隊の賊徒、官兵に追はれて、江無田橋を經て退却するを、福聚寺門前の官兵、壘中より狙撃せり。程なく、賊の數十名、身に一物も着けず赤褌の儘大刀を構へて突撃し(「赤褌隊」と稱せり)。官兵も亦、銃を捨て、軍刀を振つて接戰十數合、眞に亂戰亂鬪、喩ふるに物無し。賊徒の力戰優り。此の接戰を觀たるは終生忘れ得ざる感激にして、臼杵中之を觀望せるは、余と醫師某との二人のみならん乎。

 これによると左方山頭ニ数人ノ渉ルアリ其装ヲ見レハ傘ヲ持シ或ハ笠蓑ヲ負ヘリ皆曰ク土民ノ遁逃スル者ナリト故ニ敢テ拒マス且クシテ亦タ加斯者ヲ見ルという住民に変装した薩軍が立て籠もったのが三島神社であったことが分かります。矢張り地元民の記述の方が詳細です。同地は井村のある丘陵(9万年前に阿蘇Ⅳ凝結凝灰岩が流れて来て古い地形の裾や海を埋めてできた地形)の東北に突き出た部分で、今も神社周辺は森のように樹木が茂っています。福聚寺(ふくじゅうじ)は江戸末期創建の寺院で、建物は今も当時のものを改修した程度です。住職によると東に面する石垣に一ヶ所銃弾痕があるということでした。冒頭に掲げた戯画に福聚寺も描いています。なお、ここから江無田橋の薩軍が振り回す刀の光を目撃したという記録が大分県地方史に載っています。

 ついでに昔二十歳頃自分で描いた福聚寺と自分の生まれた家(中央。十年以上前まであった)の絵を掲げます。捨てるのがもったいなくて残していました。未完成ですが。福聚寺の松の表面には戦時中に油を集めたという痕跡があります。西南戦争時の銃弾が松の中に隠れているかも知れません。背後の尖った山は大分市との境界をなす山脈の一部、白石山です。実家は戦時中の建築でしたが、それ以前は畑だったと思います。ここが戦場だったとは!

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 次は前後するが6月7日の記事(「征西戦記稿)

  七日鎭臺兵臼杵攻撃ノ爲メ戸次ヲ發シテ各道ニ進ム者左ノ如シ

   第十三聯隊第二大隊 -野津市

   同第三大隊     -吉野峠

   第十四聯隊第二大隊 -廣内峠

   工兵第六小隊第二分隊-吉野峠 廠舎四棟ヲ築造ス 

 この日までに官軍は臼杵進撃の部隊を各地に分遣しています。1大隊は760人前後でした。1大隊の中に4個中隊があり、それぞれの中隊は左右の小隊に分かれていました。戸次から臼杵方向の吉野峠・広内峠に分進し、北側では横尾以北に熊本鎮台第十四聯隊他の4個中隊と警視三番小隊がいた。さらに、戸次の南側では野津市に熊本鎮台第十三聯隊第二大隊がいた。

 この7日に吉野峠に進んだ第十三聯隊第三大隊の日記を掲げてみます。この大隊は3日に野津市から戸次に移動し、4日には鶴崎と松原峠に斥候を出して薩軍が府内に進む可能性について警戒していました。6日も戸次滞陣、7日は吉野峠に移動して露営しています。史料は第三大隊長小川又次「明治十年 戰争日記」(まだ活字になっていないもの)です

六月七日晴天午前昨日ニ同シ午後七時頃当大隊吉野峠ヱ出張同處ニ露営ス

六月八日晴天臼杵攻撃ノ爲メ午前第一時頃本隊吉野峠ヲ発シ拂暁水ケ城ヲ乗リ取リ第二第三中隊及第一中隊右小隊ヲ水ケ城エ同十一時頃第一中隊ノ左小隊ヲ下末廣村エ第四中隊ノ右小隊ヲ荒田山ニ配布ス午後三時頃第四中隊ノ左小隊ハ第二大隊ノ應援トシテ野村ニ進撃奮戰此夜第四中隊ハ引揚ケ水ケ城ニ復ル此日即死ハ軍曹吉田久吉外二名負傷軍曹小林良教外六名アリ賊ヲ斃スヿ數名此日臼杵湾ヨリ我海軍ノ砲射セリ左右翼軍ト攻撃ノ相圖齟齬セシカ中央軍獨リ突進水ケ城ヲ拔ト雖モ賊屡ク左右ヨリ迂回シ大ニ配兵法ニ苦ム(※大隊は約750人、中隊は約150人・小隊は約75人)

 8日、左右翼軍ト攻撃ノ相圖齟齬セシカ中央軍獨リ突進とあるのは白山・白木峠(九六位峠)方面軍の進撃が遅くなり、野津大佐が奥少佐を叱責した件でしょう。

六月九日晴天昨日ヨリ連戰午後十一時頃第四中隊ノ左小隊ハ我前面ノ賊塁ヲ突クニ地形不便進退數回ニシテ終ニ賊塁ヲ乗リ取リ十六天神ノ森ニ至リ尚ヲ進撃シテ「ヱムタ村」中橋ノ左方ニ迫ル此時同右小隊ハ敗賊ノ側面ヲ火擊シテ左小隊ト連絡ヲナシ該処ヲ警備ス亦第三中隊ハ午前ヨリ水ケ城下「ヱムタ村」ノ賊塁ヲ破撃ス此時第一中隊左翼ニ進ミ應援シ尋テ市濱ニ進撃ス第三中隊市濱村ヲ守ル第二中隊ハ臼杵外ノ川峯ニ至リ相對シテ戦午後第八時ニ警視隊ト交代ス此日即死少尉試補有馬純清外二名亦タ銃其他諸器械數十個ヲ分捕ル此日海軍ヨリモ砲射スルヿ急ナリ少尉試補島田未周賊二名ヲ刃殺ス須賀少尉試補モ一名ヲ斬リ後チ倶ニ傷ヲ受タル

 十六天神は6月5日の釘宮巡査等の報告では薩軍が台場を築くか哨兵を配置していた所です。江無田と市浜の中間、日豊本線の南側で、こじんまりした高まりが十六天神です。

 また、臼杵外ノ川峯とは臼杵川の左岸にあった産島のことでしょうか。かつて臼杵七島という島が存在し、この中に産島があります。丹生島(現在の臼杵公園)・竹島(現在の津久見島)・松島(中須賀大橋のある中州の西端)・磯島(江無田の十六天神)・産島(新地交差点と中須賀大橋との中間点)・森島(大橋寺の位置)・鷺島(大橋寺の西側。光蓮寺付近)です。

 川峯とあるので川の中にある島だとすれば、松島と森嶋、鷺島の方が該当する可能性が高いかも知れません。下図は臼杵七島の内、津久見島以外の推定場所です。産島は当時は周囲が埋め立てられておらず、島だったかも知れません。

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        東から見た十六天神。少しだけ周辺よりも高い。

 この頃、海軍は薩軍が四国に渡ろうとしているとの情報を得ていたので軍艦が豊後水道を巡回していました。

 6月8日、戦闘開始。官軍の臼杵進撃の方略・部署表があるが、簡単に記す(「征西戰記稿」)

左翼(司令官奥少佐):白木峠に第十四聯隊の2個中隊と警視三番小隊、その北側の再

  進越に遊撃第四大隊の1個中隊、その北の白山越に第六聯隊の1個中隊。

中央(諏訪・吉田両少佐):松原峠と吉野越に第十三聯隊の2個中隊と警視四番小隊と

  第十一聯隊の2個中隊。

右翼(林少佐):野津市口に第十三聯隊の4個中隊。

三道ノ兵午前四時ヨリ進ム左翼先鋒ノ警視兵ハ廣田村ヨリ白木峠ヲ越ヱ臺兵ト合シテ末廣村一里松ニ至リ江無田ノ賊ヲ撃ツ而シテ先ツ諏訪山ヲ取ラサレハ或ハ横撃ノ患アルヲ以テ一分隊ヲ留メ路ヲ轉シテ左翼井村ニ至ルニ賊忽チ江無田橋側ニ出テ襲撃ス我カ兵直チニ井村山ニ登リ戰フ會〃日暮ル賊敢テ逼ラスシテ退ク又中央先鋒ハ突進直チニ水城ヲ拔ク其警視兵ハ臺兵ニ並木峠ニ合シ間行吉野峠ヲ下リ賊ノ不意ニ出テ其背ヲ衝ク賊狼狽潰走ス然レノモ両翼ノ攻撃少シク期ニ後ル﹅ヲ以テ未タ志ヲ達スル能ハスシテ天明ク乃チ警備線ヲ設ケ又工兵隊ヲシテ胸墻ヲ水ケ城ニ築カシム

 一行目の広田村は広内村の間違いです。白木峠は今は九六位峠と呼ばれる場所のことで、その北西側麓に広内があるのが広田村とされた所でしょう。8日に戦いを交えたのは広内村から白木峠を越えて末広一本松に進み、江無田の薩軍と交戦した左翼兵だけのようです。

 この日、下士4人が戦死し、将校1人・下士18人・兵卒2人が負傷しています。

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 上図の赤丸は高橋が確認した官軍台場跡です。臼杵方向を向いて築かれています(白木峠の北、二番目にある台場跡で先日大塚進也氏と略図の練習をしました)

 6月8日には中央軍だった吉田道時少佐隊の戦闘報告があります。この隊は翌9日に諏訪山を攻撃しているので、前日の動向も見ておきます。

C09084471200豊後口枢要書類綴 明治10年6月8日~10年8月19日(防衛省防衛研究所蔵)00006・0007

       六月八日臼杵攻擊ニ付大豫備隊報告

本日臼杵攻擊ニ付大豫備隊ノ命ヲ奉シ零時十二時戸次村ヲ発シ榎木峠ヨリ進軍月形村ヲ経テ中臼杵山ニ一地ヲ占ム時既ニ黎明諸口開戦ヲ聞クヤ前面左右山脉ニ哨兵ヲ配布シ又斥候ヲ出シテ賊情ヲ探偵ス然ルニ賊退去前軍進入スルニ依リ哨兵ヲ引揚ケ漸次ニ前進荒太峠梺ニ至ル此時蕨野村江引揚ヘキ報ヲ得同所ニ引揚ル処尚落合村一小隊吉小野江兵士二十名程分遣シ本軍ハ王座村江繰込ヘキ報アルヲ以テ部署ノ通リ各所ニ兵ヲ分派シ本軍ハ王座村江繰込処尚亦諸兵ヲ引揚末廣村江進軍スヘキ旨報知有之依テ全隊ヲ引纏メ同日午后十二時頃末廣村ニ着陣ス

     所轄隊之部署

        第十聯隊第貳大隊

     死  傷

        無之

 

   明治十年六月九日  陸軍少佐吉田道時

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 吉田隊はこの日は戦闘がなく進軍して終わっています。報告に登場する地名は戸次村・榎木峠・月形村・中臼杵山・前面左右山脉・荒太峠・蕨野村・落合村・吉小野・王座村・末廣村です。荒太峠は荒田に通じる山中の尾根の峠を意味するものでしょう。高速道路のトンネルの真上位でしょうか。梺とあるので進行状況からみて中臼杵側の麓から高速道路に直交する方向から登り、尾根伝いに江無田か井村方向に進軍しようとしていたのかも知れません。しかし、他の隊の戦況に応じて左方に転回し末広村に進みました。中臼杵から江無田・井村に一直線に続く尾根があります。その北部に中世の山城跡である水みずがじょうがあります。ここは江無田に本拠を置く臼杵氏の本城でした。

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 前掲の「松岡用務所日記」には8日に官軍が水城を占領したとの記述があります。原文は書き直しが多く読みづらいものですが、消された当初の文は記さず、最終の文章を以下に示します。同日記は探偵を出したり道案内したり官軍に協力した大分市南部の村役場の記録であり、村役場の立場で見聞きしたことを記録しており、必ずしも事実とは限らないものです。

臼杵ノ賊ヲ征スル参軍野津大佐(※そもそも参軍と呼ばれたのは山縣有朋であり、野津道貫は大

 佐でした)ノ嚮導シテ本日天明午前三時三十分戸次市ヲ発シ道ヲ松原峠ニ取リ九六位※くろくい)松原村通村ヲ経テ末廣へ至ル戸長吉田廣次宅ヲ以テ本営トス〇抑此役ニ向フ官軍昨七日午後二時隊長壱大隊ヲ引卆シテ野津市口ヘ進行其隊長ヲ不知ヨリ此一大隊ヲ右翼トス仝日午後五時堀江中佐壱大隊ヲ引卆シテ吉野通進行仝日午後十一時三十分壱中隊吉野通進行是レハ蓋シ堀江中佐ノ援兵ナラン以上尽戸次市ニ在リシ兵ナリ〇白木口ヨリ奥少佐一軍二中隊斗ヲ卆引シ進行〇白山口ヨリ林少佐一軍二中隊斗ヲ引卆シテ進行スト云フ○先陣堀江中佐ハ薩賊ノ虚ヲ察シ八日午前五時水ケ城ヲ乗取リ進擊ノラツパ一声直ニ海軍孟春浅間ノ弐艦之レニ應シ発砲数声賊ノ哨兵狼狽水ケ城ノ麓ニ在リ於是開戦堀江ノ兵鯨波ヲ放チ直ニ山下ニ捍下シ丸尾谷(※丸尾  谷は水ケ城の東麓にあり、現在コスモス病院や臼杵病院がある尾根に挟まれた地域で、江無田の西隣です)ニ砲壘ヲ築ス賊江無田原ノ砲臺ニ據ル昼夜ノ接戦ナリ〇奥少佐ノ手ハ午後二時リ末廣長尾(※不明)ニ砲臺ヲ築スノ賊井ノ村ノ山上ニアリト接戦深更ニ及ヒ賊江無田橋ヘ退ク〇官軍一手ハ末廣壱里松ニ出張賊壱ノ井出ノ砲臺ニ據ル○午前十一時ヨリ折ゝ翼ノ接戦ナリ〇右翼野津市口ヨリ進ム官軍壱大隊ヲ三割シ其壱分ハ中臼杵ヨリ荒峠ヲ経字野村手無地藏(※手無地蔵は野村にある県道502号線が直線的に走る中央 部付近にその名のバス停がある)迠進ム賊神嵜(※手無地蔵の南東約500mの台地上に神崎がある)在リ接戦然ルニ賊神嵜ゟ野村ノ山林ヲ経テ官軍ノ横間ヨリ砲発ス故ニ官軍敗ル苦戦進テ荒田村ニ在リ午後六時三十分賊野村ノ民家両三軒ヲ焼ク官軍此民家ヲ楯ニシテ砲発スル故賊來テ放火スト云フ〇其壱分ハ本道ヲ進行壱分ハ深田村ヨリ姫嶽山ノ尾通リヲ取切ルト聞ク〇賊ノ砲臺右翼山南、☐尾、洲嵜茶山津久見峠、小川内、神嵜、〇左翼井ノ村山四、一ノ井手(※江無田橋の上流右岸約400m)三、江無田原二△、江無橋元五、荒尾(※不明)六、諏訪山七、上リ尾(※不明)一、等其他所々ニ築柵クト云フアリ尚砲臺アリ〇該日官軍ノ死傷十余人賊死傷不過十名ナリト云フナリ惜哉本日白木白山両口ノ官兵遅参ナル故大勝利ヲ不奏某ノ隊長野津大佐ヨリ厳重責アリ明治十年六月八日臼杵アル賊ヲ征スル参軍野津大佐ノ嚮導シテ午前三時

十分戸次市ヲ発シ道ヲ松原峠ニ取リ九六位松原村通村ヲ経テ末廣ヘ至ル戸長吉田治ノ宅ヲ以テ本営トス抑此役ニ向フ昨七日午後二時一大隊野津市口ヲ経テ進行此大隊ヲ右翼トス仝日午後五時堀江中佐一大隊ヲ引卆シテ吉野通リ進行仝日午後十時三十分一中隊吉野通リ此一中隊ハ蓋シ堀江中佐ノ援兵ナラン歟以上尽ク戸次市ニ在リシ官軍ナリ白木峠ヨリ奥少佐一軍二中隊ヲ引卆シ進行白山峠ヨリ某ノ少佐一軍二中隊ヲ引卆シテ進行スト云フ先陣堀江中佐ハ薩賊ノ虚ヲ察シ八日午前五時水ヶ城ヲ乗取リ進擊ノラツパ一声直ニ海軍孟春淺間ノ二艦鯨波ヲ放チ直ニ山下ニ押シ下シ丸尾谷ニ砲壘築ス臼杵ノ接戦ハ往古ヨリ此水ケ城ヲ以テ勝負ヲ决スト云フ彼ノ天王山ヲ豊臣明争シ如シ賊モ水ケ城ノ天險ヲ不知ニハ非ス毎夜哨兵ヲ此山ニ出スト雖ノモ其虚ヲ謀官軍ハ天道ヲ以テ背天賊ヲ征スルハ即チ天地懸隔ノ☐カ賊ハ江無田ノ砲臺ニ拠昼夜ノ接戦ナリ奥少佐ノ一軍ハ末廣之レニ應シ発砲数声賊ノ哨兵ハ水ヶ城ノ麓ニ於テ狼狽ス於是開戦堀江大佐ノ軍兵長尾野ニ砲臺ヲ築ス賊ノ砲臺井野村ノ山上ニアリ接戦ス深更ニ及ヒ賊ハ江無田橋ヘ退ク官軍一手ハ末廣一里松ニアリ賊ハ一ノ井手砲臺ニ拠ル午前十一時ヨリ折〻接戦ス

以上左翼ノ戦况也

 井村(井ノ村・井野村)の台地に薩軍がいたことは他には記録されていないので貴重です。各地にあった薩軍の台場の基数も記録されています。井村山4・一ノ井手3・江無田原2・江無田橋の元に5・荒尾6・諏訪山7・上リ尾1です。諏訪山の7基というのは下山と浅間迫を含んだ数値でしょう。それにしても同地で薩軍の台場跡は1基も確認していません。下山古墳にあるのは官軍の台場跡です。

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 この史料により8日午前5時に堀江中佐隊が水城に進んでいることが分かり、前出の吉田隊が予定を変更して荒田峠から末広に進軍した理由はおそらくこれでしょう。白木・白山口の進軍が遅れなかったら諏訪山を占領し、全体の戦況が官軍に有利に展開した筈だと野津大佐は考えたのでしょう。日記筆者は野津大佐の道案内をしていたので、奥少佐を叱責する現場を目撃したのでしょう。他には記録がない出来事です。

(軍旗について蛇足)

 もし、大迫山に官軍が軍旗を掲げていたとしたら、どんな旗だったでしょうか?

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 奥少佐の属した第十四聯隊の聯隊旗は開戦当初、聯隊長心得だった乃木希典少佐と共にあったが、2月22日に熊本県植木の戦いで薩軍に奪われており、臼杵戦争の時期には第十四聯隊旗は官軍側はもっていなかった。聯隊旗の下に大隊旗がある。左翼部隊だった白山口の奥少佐は大隊旗を携行していたかもしれない。下記のようなジグザグ紋様の旗だったとみられる。ネット「ニッポンの旗」によると第二大隊の場合、紋様の色は赤と白と黒のジグザグ紋様が示されている。但し年代は明記されていないが。

軍旗布告C04017571000明治7年 「太政官布告3終 従11月至12月」(防衛省防衛研究所蔵)0427~29

※欄外に「十八年三月官第五百三号改正削除」とあるので、0427の加筆部分と大隊旗・嚮導旗に×を加えているのは18年改正時の加筆だろう(今回はその図は載せていませんが)。西南戦争時には生きていた規定だった。

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 「西南戦地取調書 豊後」の中には多数の絵図があり、官薩両軍の所在地を別の記号で描き分けているがこの中で赤色のジグザグ模様(山が三つ)を官軍の印にしているのは諏訪村戸長が提出した大迫山の一葉だけです。戸長は頻繁に官軍の本営に出入りしていた筈であり、もしかしたら戸長宅が本営だったかも知れません。したがって第二大隊の軍旗を見たのでこの模様を地図記号に借用したのではないでしょうか。

 6月9日の戦況 

「戰記稿」の9日の記事です。

九日更ニ海軍ト約シ海潮市濱川ノ滿ツルヲ期シ午前五時左翼ヲシテ諏訪山ヲ攻撃セシメ戰ヒ酣ナルニ及ヒ中央江無田ヨリ喇叭ヲ吹キ猛烈ニ賊壘ニ迫ル賊慓悍善ク禦ク既ニシテ其五六十名拔刀來リ衝ントス孟春淺間ノ二艦烈ク其壘ヲ射彈スルニ會ヒ逡巡ス我兵之ニ乗シ諏訪山ノ絶頂ヲ畧取シ直チニ衝突兵ヲ放チ海陸皷譟尾撃市濱ニ至ル賊川ヲ隔テ臼杵天滿宮等ノ壘ニ據守ス時ニ日既ニ暮ルヲ以テ我モ亦市濱川ヲ限リテ壘壁ヲ築キ對戰夜ヲ徹ス 

左翼警視兵ハ江無田ノ賊ニ當リ井村ノ右側ニ出テ其分隊ヲ合シ中央ヨリ逼リ遂ニ之ヲ拔キ追躡大橋寺橋ノ間ニ至テ對戰ス賊、夜ニ乗シ屡〃橋上ニ出テ短兵以テ衝突セントス輙チ撃テ之ヲ郤ク

 上文の後に掲げられた表によると、9日の官軍の死傷は熊本鎮台の士官1人が戦死、2人が負傷し、下士卒2人が戦死、8人が負傷し、警視兵6人が戦死、20人が負傷しています。

 諏訪山についてみると、午前5時に左翼兵(奥少佐)が攻撃を始め(戦いが盛んになると中央の江無田からも進撃した、という部分は間違いでしょう。この時点では江無田は薩軍が占領していた筈です。)ています。それに対し薩軍は5,60人が抜刀して反撃しようとしたが、海軍の軍艦孟春と浅間が薩軍の台場をめがけて砲撃を始めたのでためらう様子だったのに乗じて官軍は諏訪山の絶頂を奪った。引き続き、諏訪山の南側に薩軍を追い下り、市浜に進んだ。薩軍臼杵川を越えて右岸の高台にある臼杵天満宮などに立て籠もって対抗する状態で日暮れとなった。官軍は市浜川(臼杵川だろう。官軍は川の名前を知らなかったのだろう)を境として対戦状態のまま徹夜となった。

 「戰記稿」記事では諏訪山を奪うのに要した時間は不明です。

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 先に吉田道時隊の8日の戦闘報告表を見ておいたが、同隊の9日の戦闘報告も存在する。

C09084472000、豊後口枢要書類綴 明治10年6月8日~10年8月19日(防衛省防衛研究所)0024~0026

 報告表の前半は略す(添付画面をご覧いただきたい)が、この隊は第二旅団歩兵第十聯隊第二大隊で、当日の総員は300人です。

六月九日臼杵諏訪山攻撃ニ付戦鬪報告

本日攻撃隊ノ命ヲ奉シ午前第五時未廣村ヲ発シ合併第一中隊及第貳中隊ノ一小隊ヲ本道ヨリ左翼諏訪山ニ向ケ進ミ亦第二中隊ノ一小隊ヲ本道押江トシテ進軍諏訪山攻攻撃隊ハ夫々部署ヲ定メ諏訪山北方ノ山ヲ迂廻シ臼杵ノ賊ヲ攻撃スルヲ目的トス然ルニ賊諏訪山北方ノ嶮ニ據リ我兵ノ進入ヲ支遮スルヤ直ニ開戦之ヲ撃ツ此時賊ノ保塁ヲ巨ル凡ソ二百米突ナリ亦本道ニ進ム一小隊モ地物ニ據リ漸次ニ前進シ正面ノ賊ヲ撃ツ此際賊兵諏訪山ニ増加シ我隊ニ輻射シ戦闘時ヲ移スト雖ノモ賊敢テ退去ノ兆ナク爰ニ於テ我兵ヲ奨メテ山上ニ突入シ亦本道ノ一小隊ニ前面突撃スヘキヿヲ命シ亦諏訪山ニ在ル援隊ノ一半隊ヲ率ヒ諏訪山ノ背後賊ノ交通線ヲ絶ント頻リニ射撃ス同時ニ全部隊猛撃終ニ午后四時頃賊敗走山梺ノ河(※熊崎川)ヲ渉リ遁走スルヲ追撃市濱村ニ至リ川ヲ隔テ挑戦數刻時既ニ黄昏終ニ臼杵ヲ拔ク不能諸隊ト倶ニ川(※臼杵川)ヲ隔テ要所ニ土塁築キ警備ヲ着ク

      所轄隊之部署

  攻撃隊   第十聯隊第貳大隊合併第一中隊同第二中隊ノ内一小隊

  本道押軍  同        合併第貳中隊ノ内一小隊

      死   傷

  即死   士官          一名

  同    下士          一名

  負傷   士官          四名

  同    下士          一名

  同    兵卒          三名

 

  明治十年六月十日 陸軍少佐吉田道時

  

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 午前5時に末広村を出発した後の行動が分かりにくい。部隊は二つに分かれて進んだようで、本道よりも左翼の諏訪山北方ノ嶮方向(合併第一中隊と第二中隊の1小隊)と本道と称する正面に向かったらしい。この時薩軍の一部も諏訪山北方ノ嶮にいたらしいが、北方ノ嶮とはどこのことか。その山の南部に仏舎利塔があり北部が墓地になっている山の北部、浅間ケ迫であった可能性もあるし、大迫山のことかも知れない。この記録では結論を下せない。

 上記の吉田隊の記録が別にあるので掲げる。一寸、時間的にさかのぼる所から始めます。

C09084163500~C09084163700「明治十年 戰鬪景况 戰鬪日誌 第二旅團」1879~1882

六月四日午前第三時松橋出発松合港ニ至リ隅田丸ニ乗込午前第十一時宇土浦解繿仝五日午后第六時小倉浦ニ滞船仝六日午前拔錨直ニ下ノ関ニ投錨第九時仝港ヲ拔錨午後第六時豊後国別府浦ニ着船直ニ上陸舎営ス仝七日午前第二時別府出発府内ニ隊ヲ止メ進軍ノ令ヲ竢ツ午后第二時同處進軍戸次村ヘ繰込舎営ス

六月八日臼杵攻撃ニ付午前第一時戸次ヨリ進軍臼杵口總進撃豫備隊トシテ中臼杵ニ陣シ進テ荒田峠ノ麓ニ至ル午后第一時命令ニ依リ同地ヲ引揚ケ蕨ノ村ニ休憩シ直ニ王座村江繰込分遣隊ヲ吉小野村ニ備フ午後第九時仝所ヨリ末廣村江繰込舎営ス

  四月三十日ヨリ六月八日迠司令官吉田少佐

     臼杵攻撃

六月九日臼杵攻撃ノ部署ニ付司令官ニ従ヒ午前第五時末廣村ヲ発シ右小隊ハ本道ノ左側山谷ノ間道ヲ取リ稲田村背後ノ山腹ニ至リ諏訪山北方ノ山ヲ迂回シ諏訪山ノ賊ヲ擊ヲ目的トス依テ進路ヲ取リ斥候ヲ出シテ前地探偵ヲ遂ケ漸次ニ諏訪山ノ麓ニ至ル處賊山岳ノ嶮ニ據リ進入ヲ支遮スルヤ直ニ開戦我兵ヲ奨メテ奮戦劇鬪スト雖モ賊兵増加輻射スルヲ以テ戦鬪時ヲ移ス爰ニ於テ尚兵ヲ勵マシ一斉ニ猛撃突入賊狼狽敗走我兵之ニ乗シテ進ミ遂ニ諏訪山ノ賊塁ヲ拔ク是ヨリ左小隊ハ末廣村ヲ発之際本道警視隊ノ守線薄弱ナルヲ以テ之レニ備ヘ諏訪山迂回ノ期ニ乗シ正面突入ノ命アリ直ニ該地ニ至リ地物ヲ撰テ兵ヲ散布シ賊ヲ狙撃セシメ諏訪山働作ヲ窺フニ諏訪山ノ半腹ヨリ進テ賊ヲ擊チ退ケ已ニ山頂ニ至ル其期ニ乗シ直ニ正面ヨリ田畦ヲ匍匐シテ本道正面ノ胸壁ニ突入ス賊兵防ク能ハス遂ニ敗レテ城下ニ逃ル爰ニ於テ右小隊ト合シ北ルヲ追テ市濱村ニ至ル處市街ノ中間ニ流川有テ是地ヲ横断ス賊兵其川岸ノ要處ヲ占メ我兵ノ𣘺ヲ渡ルヲ竢ツテ狙撃ス故ニ我兵容易ニ進ムヿ能ハス川ヲ隔テ塁ヲ築キ警視隊ト共ニ𣘺ヨリ右方ニ在テ挑戦ス又右小隊ハ本道𣘺ノ左方海岸ニ在 テ挑戦スルヿ徹夜此日ノ戦ヒニ大尉溝部素史中尉石黒茂幸負傷下士一名傷兵卒傷三名分捕品大砲散弾四拾二個小銃弾一千放ヱンヒール銃二挺

  六月九日指揮官奥少佐司令官吉田少佐

     臼杵攻撃(※以下は10日の記事であり、諏訪山に直接の関係はないので触れない)

 右小隊の進路を下図に示す。本道ノ左側山谷ノ間道ヲ取リ稲田村背後ノ山腹ニ至リ諏訪山北方ノ山ヲ迂回シ諏訪山ノ賊ヲ擊ヲ目的トス

 右小隊が諏訪山の麓まで進んで攻撃を始めたので、左小隊は西側から諏訪山を攻撃したと理解したい。下山古墳に胸壁を築いたのは左小隊だったかも知れない。

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 6月9日については吉田隊の他、第二旅団第六聯隊北川正與隊の戦闘報告があります。

C09084472200「明治十年 豊後口樞要書類綴 第二旅團」(防衛省防衛研究所蔵)0032・0033

   六月九日於海部郡諏訪村戦闘報告表

    六月十一日   第二旅團歩兵第六聯隊第三大隊第四中隊長 陸軍大尉北川正與㊞ ※総員は127人。負傷5人。

   戦闘景况ノ部

当日臼杵攻撃ニ付午前八時田口村ヲ発シ岩嵜村山谷ヲ迂回シ諏訪山ノ中央及ヒ左翼ニ出テ諸隊ト倶ニ山頂ノ賊ヲ攻撃ス午后第二時過賊敗走逃ルヲ逐テ殆ト臼杵城下ニ迫ル日没ニ至リ諏訪山下ノ河岸ニ據リ臼城ニ對シ射撃ス

    雑報ノ部

一元込銃  壱挺    一インヒール銃壱挺

一弾薬   壱箱    一ガン燈   貳個

一提灯   壱張    一帽     壱個

臼杵城臺塲脇ニ於テ分捕品

 北川隊は田ノ口村を出発し岩崎村を経て諏訪山の中央と左翼から諏訪山の薩軍を攻撃しています。諏訪山の西側と北側の谷から攻め上ったのでしょう。午後2時過ぎに薩軍は敗走し、北川隊は諏訪山の下の河岸から対岸の臼杵城を射撃しました。戦闘後臼杵城の台場脇(場所は不明です)で分捕った戦利品です。元込め銃はスナイドル銃か。先込め銃のエンフィールド銃もあり、弾薬一箱は多分500発入りです。龕燈は携行用灯火具。下図は原文です。

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 下図は6月8日段階の北川隊の人員馬匹の数です。

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 海軍の報告も見ておきます。日進と孟春が海上から薩軍を砲撃しています。

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日進艦報告C09112274300「自明治九年至十一年 公文類纂拾遺一」本省公文 (防衛省防衛研究所蔵)0863~海軍省罫紙

六月九日午前十時十五分佐伯湾ヨリ臼杵湾ニ着艦ス浅間艦在港廿八日ヨリ臼杵城西ナル髙(※土を消して山を加える)水ヶ城邉ニ官軍進入ト相見得時々砲戦見受候ニ付同艦ヨリ數々陸地ヲ砲擊セシ旨ヲ同艦ヨリ報知セシ處午後ニ至リ陸軍之一隊臼杵之北東ナル大濱之髙山ヲ越ヘ進入又一隊ハ臼杵之北ナル諏訪山ニ登リ再戦シ水ヶ城ヨリモ時々野砲ヲ發シ諸口之攻撃相始候ニ付當艦直ニ拔錨臼杵城之東西適冝之地ニ至リ舳艫(※ヘサキ・トモ:艦首と艦尾)ニ錨ヲ投シ砲門ヲ開キテ市中ヨリ繰出ス賊之援兵又ハ防ク賊之背面或ハ賊之據リ得ヘキ森林等透間ナク攻擊之處賊之砲聲次第ニオトロヒ午後二時半頃ニ至リ北京(東)(※京を消して東を加える)ナル大濱之髙山及諏訪山之陸軍ニ當ル賊兵散乱海岸ヨリ臼杵城向ヒ敗走ス此時本艦ヨリ大砲小銃ヲ發シ之レヲ擊ツ此際賊城中ヨリ小銃ヲ以テ本艦ヲ擊ツ賊之銃丸數々本艦ニ達ス直ニトツプ狙撃手ヲシテ之ニ應セシメ又大砲ヲ發シ之ヲ撃ツ賊又敢テ發セズ同三時頃ニ至リ水ヶ城之方ヨリモ官軍追々進撃賊皆臼杵城之方ニ敗走諸口之官軍城ニ迫レルヲ以テ同三時ニ十分砲撃ヲ止メ投錨ス臼杵湾之南ニ隣レル津久見湾臼杵ヨリ佐伯ニ至ル本道ニシテ賊之逃路ナルヲ以テ浅間艦ヲ之ニ報カシム然ルニ本日之戦争官軍ト賊トノ區別明瞭ナラス之カ為メ砲撃之際往々疑惑ヲ生セシヲ以テ合圖打合之為同四時四十分吉村少尉迎少尉伊藤少尉補水兵九名ニ上陸ヲ命ス右端舟進ンテ臼杵之川口ニ至リシ處賊側面ヨリ不意ニ端舟ヲ狙撃シ端舟ヨリモ之ニ應シ頗ル苦戦之後陸地ニ漕寄セタルヲ見右應援之為メ別ニ端舟ヲ出シ賊之銃丸達セサル之地ヨリ上陸セシム暫時ニシテ右端舟吉村少尉ヲ乗セ帰ル来ル(※ルの上にリを加える)同人ハ深手ヲ負ヒタリ又兵髙橋定四郎ハ即死坪田利兵衛ハ薄手ヲ負ヒシニ付(官負傷ノ容躰医官ノ診断書添)迎少尉ハ右死傷人本艦ヨリ送リ方ニ藎力シ伊東少尉補ハ水兵四名ヲ引連レ本営ニ行シヲ告ク

依テ又端舟ヲ出タシ髙橋定四郎死傷及坪田利兵衛ヲ連帰ラシム暫時ニシテ最初差出セシ端舟ヨリ迎少尉帰艦伊藤少尉補本営ニ趣ク途中水兵愛甲秀一討死之由ヲ報ス八時十分伊東中佐海陸攻撃手筈打合之為メ上陸ス家村少尉伊東少尉補随行翌十日午前三時伊東中佐家村伊東等帰シ愛甲秀一死体ヲ持帰ル六時過キ陸上ニ於テ攻撃ヲ始メシニ付直ニ揚錨進ンテ昨夜打合ニ従ヒ城并市中ヘ向ヒ二三回砲撃之處賊臼杵之南東ニ當レル山ヲ越ヘ敗走官軍臼杵ヲ乗取シ様子ニ付砲撃ヲ止メ碇泊午前十一時五十分同所揚錨佐賀関回艦シ昨日戦死之水兵ヲ埋葬ス

右昨日ヨリ之戦状御届仕候也

            佐賀関碇泊                 日進艦長

 十年六月十日       海軍中佐伊東祐亭(亨)

       東海鎭守府司令長官

         海軍少将伊東祐麿殿

 

 上記文中、午後ニ至リ陸軍之一隊臼杵之北東ナル大濱之髙山ヲ越ヘ進入又一隊ハ臼杵之北ナル諏訪山ニ登リにある大浜は臼杵湾に面する集落です。その背後にある高山は大迫山であり、陸軍兵が大迫山を越えて諏訪山に向かって進軍するとともに、別の陸軍兵が諏訪山に登るのが見えたのです。吉田隊の左右小隊の進軍状況に符号します。

 日進は船体の側面に大砲を並べた当時の典型的な軍艦だったので、目標に対して船体が平行になるように艦首と艦尾から錨を下ろして艦を固定し砲撃しています。その後、午後二時半ころに両山の薩軍が退却し臼杵城下に退くのを目撃しています。やや遅れて午後三時頃、水ケ城からの陸軍兵が進撃し城下の方に進撃したことも記しています。トップ狙撃手とはマストの途中にある展望台のようなところから小銃で狙撃したということでしょう。

 以上の報告をみると、大迫山では交戦はなかったようです。今回、諏訪山周辺の諸記録をみていて諏訪山に薩軍の台場が7基あったということを知ったが、現在確認しているものは1基もなく、まだまだ分布調査が不足していることに気付きました。

 2022年1月1日大迫山からの素描

 元旦、大迫山に行き、簡単に風景を素描(現在、修正加工中)したあと、尾根続きの北側にある龍王山頂上まで行ってみました。小学校以来の頂上でした。当時は西側から登ったけど、今度は南側から。頂上近くは羊歯が茂り、人が通る細い路線だけがシダがない状態です。頂上の手前数㍍の所に下を向いた台場跡らしきものが道を横切って存在していたけど、羊歯が密生していたので全貌は不明。手で折り取ってみたがもう一度行って再確認が必要です。

 その後、1月9日に龍王山に西南側から途中台場跡がないかと探しながら登りました。結果は他になし。龍王山頂上東側の部分については、びっしり密生した羊歯を除去して観察した結果、どうやら頂上付近を巻く山道が草に埋もれたものらしいという結論に達しました。それにしても羊歯に埋まりきった古道はどこからきてどこに行くのか、一寸気になります。 

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 戦死者数について

 西南戦争時に臼杵で戦死した官軍側の人数について関心を抱く人もいると思うので、述べます。

 大分県護国神社社務所が発行した「西南の役百年祭しおり」によると同神社に祀られている人は明治維新前後に斃れた5人、明治7年の佐賀の乱戦死者15人、台湾の役戦死者7人に加え、神風連の乱戦死者12人、西南戦争戦死者663人(警視隊104人-うち6月1日臼杵町20人、6月6日市浜1人、6月8・9日水ケ城6人、全期間大分県役人巡査等10人・6月1日臼杵士族隊43人陸軍関係506人-うち6月8日水ケ城2・野田村1・市浜1、6月9日臼杵2・野田2・諏訪山1、6月12日臼杵口1、6月23日臼杵1)を数える。

 したがって臼杵で戦死した総数は81人です。このうち半数以上は薩軍臼杵に侵入した6月1日であり、半数は臼杵隊でした。臼杵隊は6月8日からの臼杵奪回戦には関与しなかったようです。

桐野利秋の池上(いけのうえ)四郎宛書状

 先日、桐野利秋が池上四郎に宛てて書いた書状を入手したので紹介します。とても読みづらい字で書かれており、早速いつもながら大津祐司さんのお力をお借りしようと大分県立先哲史料館に持参しました。三重野誠さんと松尾大輝さんも加わり検討していただき、その後数日大津さんが悩んだ結果、ほぼ解読できました。

 

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 軸装されているので書状の寸法は正確には分からないが、表面に出ている寸法は横48、5cm、縦17,3cmです。参考までに記すと、以前紹介した宮崎県江代から桐野が野村忍介に出した書状の寸法は横44,0cm、縦18,3cmでした。

 以下は大津祐司さんによる解読です。( )内はそれに基づく高橋による読み下し。

  山ケゟ残士四百五十也 (山ケより残士四百五十なり)

  自然可仕是道も早々(自然仕るべく是の道も早々)

  出陣与申上候間  (出陣と申上げ候間)

  清正朝迠籠    (清正朝鮮籠※迠をセンと解した。従って、朝鮮籠) 

  城之遖御ふみこたへ(城之遖あっぱれ御ふみこたへ※遖は三重野さん解読)

  か祢いつれハ勝  (かねいづれは勝)

  利之事奉存候   (利之事と存じ奉り候)

  右之趣早々如此  (右之趣早々此の如く)

  御座候 以上   (御座候 以上)

   三日朝 利秋記 (三日朝 利秋記)

   池上殿     (池上殿)

      貴下     (貴下)

 籠城軍はいずれ降伏するだろうとの文意、池上宛であることからして、桐野利秋が熊本城攻城側であった西南戦争中の手紙と考えてよい。しかも熊本城の籠城が解けたのが4月14日だから、薩軍が包囲を継続し玉東町・植木町山鹿市などが戦場になっていた頃だろう。とすれば冒頭の山ケは熊本県山鹿のことです。

 開戦当初の2月22日・23日、薩軍は熊本城を攻撃したものの簡単に落とせなかったので、24日には城の包囲は五番大隊長池上四郎に任せ、本州から九州北部を経て南下する官軍を迎え撃つため、包囲軍以外の残りの部隊を分けて北上あるいは西進させることとしました。その際、四番大隊長桐野利秋は山鹿方面に向かい、一番大隊長篠原国幹田原坂方面に、二番大隊長村田新八と六番七番連合大隊長別府晋介は木留方面に、三番大隊長永山弥一郎は海岸方面に移動しています。その他、山鹿には二番大隊の1個小隊、五番大隊の7個小隊、飫肥隊の4個小隊の他、道案内として熊本の協同隊一小隊が加わりました。

 三日朝とあるのは、3月3日か、4月3日かの二つが考えられます。薩軍が鹿児島を出発し始めたのが2月15日だから当然、2月3日ということはない。また、薩軍が山鹿を撤退したのは田原坂が敗れた翌日の3月21日であり、この手紙が4月3日に山鹿から出されたということもあり得ない。したがって、3月3日に書かれたものと考えます。

 内容を検討してみます。

 山ケゟ残士四百五十也は、山鹿より残士450人だということだが、よくわからない。3月3日段階には「薩南血涙史」によると山鹿には、四番大隊9個小隊・五番大隊7個小隊・ニ番大隊1個小隊と飫肥隊3個小隊(山鹿で4個小隊に分割)・協同隊1個小隊の合計21個小隊が存在していました。開戦初期の当時は1個小隊は約200人でした。つまり4,400人前後です。3月3日、桐野は山鹿の西北方向にある南関に向けて進撃しました。その兵力は本隊7個小隊と支隊6個小隊でした。

 冒頭に450人です、という記述があるので、これ以前に池上から質問があったことが想像されます。おそらく、というか当然、当時は頻繁に手紙の交換が行われたはずであり、三日朝の朝はその後出すかもしれない三日昼や三日夕、三日夜と区別するための書き方でしょう。とすれば、まだ世上に現れていない桐野の戦中の手紙は膨大にあることになります(余談でしたが)。

   この段階までに発生した死傷者数は不明ですが、全体の 21個小隊から3日に戦闘に出かけた13個小隊を引くと8個小隊です。その人数が450人だとすると450÷8=56、つまり一個小隊は56人に減っていたと解さねばなりません。が、これは余りにも少なすぎです。450人の詳細は分からないとしておきます。 

 自然可仕是道も早々 出陣与申上候間 

 自然という言葉は今は使わない用法でしょう。450人も早々に出陣すると申し上げておきますので、

 清正朝鮮籠城之遖御ふみこたへか祢いつれハ勝利之事奉存候

 加藤清正は朝鮮征伐で蔚山城に籠城し、結局包囲軍を撃退したという天晴れな働きをし、その経験を生かして築城した熊本城で現在籠城している天晴れな官軍もいずれは持ち堪えることができずに薩軍が勝利すると思います、とでも理解すべきなのか。

 右之趣早々如此 御座候 以上 三日朝 利秋記 池上殿 貴下

 右のように考えます。以上 三日朝 利秋記 池上殿 貴下。

 貴下とは主に同輩ないし下の者に対して用いる言葉です。この時は同じ大隊長であり、戦前は桐野は陸軍少将、池上は陸軍少佐でした。当時、池上四郎は西郷隆盛の傍にいて全体を掌握し、相談する状態だったと思います。桐野に対する問い合わせや情報提供は当然西郷も知っていたでしょう。桐野も大先生に宜しくとの一文を添えてもよかったのですが、おそらく日常的に書状を送っていたので、添文を略したのではないでしょうか。

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 ところで、日付が旧暦ということもあり得ます。野村宛のは旧暦でした。旧暦2月3日は新暦3月17日です。「薩南血涙史」によると3月17日には黎明官軍大舉して山鹿の諸壘を攻擊せしが薩軍善く之を拒ぐ・・とあり、書状の少ない情報からは決めつけられないので、この書状の日付が新暦3月17日だった可能性も残しておきます。

 史料紹介を以上で終わろうと思います。解読文を作成していただいた大津祐司さんを始め、三重野誠さん・松尾大輝さんやその他、協力していただいた皆さんにお礼を申し上げます。