西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

レーム水白粉

 字ばかり見てると眼に悪いので、ガラス瓶を公開します。おしろいの箱です。きれいな箱なので買っておいたものです。封が上下にあって未開封です。折角だからこのままにしています。

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「ひとめぼれレトロ日記」というブログを見たら、これについて詳しく書いていました。重複して説明するより、そちらをご覧ください。作られたのは20世紀前半と推測されています。紙箱の中にはガラス瓶と説明書が入っているようです。次の写真はそのブログからです。

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歩兵第七聯隊第一大隊西南戦記綴(4月)

 

      四月一日

晴ル午前第四時四十五分賊徒襲来ノ報アリ第三中隊及ヒ第四中隊ノ右小隊ヲ應援トシテ第一中隊ノ哨所善同寺ニ向ハシム中通ト云ヨリ二手ニ分レ進ミ一ハ古保里村ニ出テ一ハ直ニ善同寺ニ出ツ賊ハ第一中隊ノ左方第二大隊ノ哨所ヲ襲フ擊テ之ヲ却ク数賊ヲ斃スト云フ

第三中隊ノ古保里村出ルヤ凡一大隊計リ右方ノ山麓ニ散在スルヲ聞キ斥候ヲ派遣シテ村落ヲ捜索ス賊砲発我兵壱名ヲ傷ク於是該中隊ハ山ニ沿テ進擊セシム賊遁レ去ル進テ木原山ノ麓松原村ノ右方ニ哨兵ヲ配布ス第四中隊ハ善同寺村ニ入ルヤ第一中隊ト合シ直ニ宇土ニ進軍ノ命アリテ仝所ニ至ル後チ川尻街道ノ左方ヲ我大隊ノ守線トナル於是諸中隊ヲ宇土ニ纏乄更第四中隊ヲ派遣シテ大哨兵トス

第四中隊ノ左小隊ハ街道ヨリ宇土ニ進ム道ニ松山村辺ニ至ル村吏賊ノ潜匿スルヲ報ス兵ヲ遣テ二名ヲ捜乄之ヲ殺シテ至ル何レモ分隊長以上ナラント云フ

會計及ヒ輜重ハ宇土ニ移ス

夜大哨ノ援隊トシテ壱小隊ヲ宇土町入口ニ備ヘシム第二中隊ハ南種山ニアリ

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               4月1日関係地図

 4月1日、別働第一旅団という新しい名称となり、部隊は宇土に進んだ。出発地は小川町であろう。雁回山(標高314m・旧称木原山)の西側に松原町がある。

 薩軍別府晋介・辺見十郎太は募兵のために鹿児島に帰っていたが、この日官軍にもたらされた報告によると1,500人程の新募の薩軍が八代に向かっていることが分かった。衝背軍本体は宇土半島基部の北側にある宇土町まで前進して戦闘中であり、背後の八代方面の官軍は微弱だった。第二中隊がまだ宮原東側の南種山を守っているのは、人吉方面からの裏道を塞ぐ目的だろう。

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       球磨川と八代・宮原・南種山の位置関係

        四月二日

雨正午十二時ヨリ第三中隊ヲ大哨兵ニ交代セント夜間ハ第一中隊ノ壱小隊ヲ援隊トナス

此日第二中隊ヲ宇土ニ引揚ヘキヲ命令ス

去月三十日ノ戦状概略ヲ報告スルヿ左ノ如シ

三十日午前第四時ヨリ大進擊アリ天雨フル我第一中隊ハ宮ノ原ヨリ第三第四中隊ハ小川ヨリ皆道ヲ本道ニ取テ進ム第一(大尉手島孝基中尉木下勝知少尉試補林從順)第三少尉試補内山功仝吉弘鑑徳(中尉岡千仞少尉神代清之進)中隊ヲ以テ戦鬥兵トナシ第四中隊少尉永田政義(中尉有馬純一)ヲ以テ豫備兵トナス河江村ノ出郷ヲ過ル二町余ニシテ本道ノ左方ニ散開シ第二旅團ト右翼ヲ接ス第一中隊ヲ右トシ 第三中隊ヲ左トス各二小隊ヲ以テ援隊ニ充ツ第六時二十分右方山間鯖上ニ當リ砲声聞ヘ暫クシテ全軍一斉ニ進ム蓋シ松𣘺ヲ目的トス午前第九時先ツ久具ニ至テ開戦ス初メ援隊ヲ置シモ茲ニ至テ戦列ニ入ル我兵ノ隊ヲ云(第一大)對スル賊軍ハ大野村及ヒ松𣘺ノ丘阜則チ藤ノ山(大塚伊賀守ナルモノ﹅城趾ト云)砲墪ヲ築キ出テ久具𣘺出小屋及大鳥川大野川ノ堰堤ニ陣シ其身ヲ埋伏ス実ニ所在ヲ認メサルモノ如シ爰ニ至テ敵ノ陣形ヲ詳悉スルヲ以テ我兵ハ中久具ヨリ左方寄田川ニ沿フテ進逼攻擊甚最ム賊軍ハ都テ要地ニ占陣シ展眸ニ便ナルヲ以テ皆ナ我ニ利ナラス弾丸雨注砲聲天地ニ震フ勢ヒ犯スヘカラス我兵難キヲ持シテ屈セス奮戦数時賊兵逡巡ス更ニ第三中隊ニ令シ大野川ノ堤ニ進擊セシム(第三中隊ノ占領スル地位ハ爰ニ至テ両翼ニ比シテ稍突出セリ)賊ノ此部ニアルモノ退テ藤ノ山ノ土塁ニ入ル(此時我兵三名傷ク)彼我勝敗未タ决セス薄暮天晴ル月ヲ帯テ休戦シ諸兵各其侵線ニ固守ス賊敢テ犯サス第四中隊ハ聯隊長ノ命ヲ以テ其左小隊之ヲ指揮(永田少尉)ヲ浦河内ノ方ニ向ハシム 亦戦ニ係ハル(此時二名傷ク)休戦ノ後チ該中隊ハ纏メテ下郷島村ニ陣セシム後其一半ヲ第三中隊ノ散線ニ増加ス此日雨甚シ衣帯ヲ濕シ膚ニ達ス傷者合テ拾名ナリ(第一中隊ノ四名ヲ加フ第三中隊ノ壱名ハ暫時ニシテ死ス)

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 3月30日関係地図(後日の報告だから実際の日付よりも遅れて記載)

  日時は前後するが、本戦記の記述順に従い3月30日の戦場について記す。藤ノ山は松橋の丘陵地帯にあるらしく、城跡というので独立丘陵のような地形だろう。久具橋というのが現在の久具橋と同じ場所なら大野川に架かるその名の場所にライブカメラが設置しているので分かる。ただ、この付近の大野川が人工的な一直線なので、河川改修で流路を変えた可能性もある。改修が江戸時代なら問題ないが。大鳥川は不明。寄田川も不明だが、久具の西にある川だろう。大野川が合流する浅川のことか。

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 以上の場所は久具の微高地北部に分布しており、この北側に薩軍がいて南側の久具との間で戦いが交わされたのである。下郷は久具の南隣にある。別働第一旅団は衝背軍の一画、中央部分を担当していたので、西部の海岸寄りや東部の山間部の戦闘には関与しておらず戦記に登場しない。

三十一日天晴ル午前第八時参謀官令ヲ傳テ曰ク今旦進擊ノ号砲ヲ一発スベシ諸隊冝シク躊躇スベカラス是ヨリ先キ第一中隊ハ伍長稲田忠行ヲシテ兵卒若干ヲ率ヒ出小屋久具𣘺近傍ノ地ヲ偵察セシム賊アラス再ヒ中尉木下勝知ニ一分隊ヲ率ヒシメ久具𣘺ヲ渡リ曲野松山等ノ村落ヲ探偵ス賊松山村ニ在ルヲ見ル其報ヲ得テ一分隊ヲ増加シ之ヲ久具𣘺ニ備ヘ應援タラシム中尉ハ更ニ進テ大野村ニ入リ本道松𣘺ノ丘阜ニ登リ兵ヲ其下ニ伏セ自ラ松𣘺ヲ窺フ哨兵ノアルヲ望見ス一兵卒賊兵ノアルト謂フヤ直ニ之ニ向テ誤テ砲発ス為ニ賊ノ襲ヒ来ランヿヲ謀リ退テ兵ヲ久具𣘺及ヒ其下堤ニ伏セ而乄此堤ヲ失フベカラサルヲ報ス已ニシテ賊追躡シ来ル尋テ全軍戦ヒ起ル第十時号砲ト共ニ諸兵大鬨進テ大鳥川大野川堤ヲ取ル賊力ヲ極テ防戦シ榴弾霰弾ヲ飛シテ我兵ヲ撓ス或ハ空中ニ迸裂シ或ハ土中ニ埋没ス諸兵地ニ躍踊シテ嗤フ☐本日ノ戦ハ右翼軍ノ進ムヲ待テ大進擊ヲ施スヘキ約束ナルヲ以テ此堤ニ戦フヿ凡三十分時已ニシテ右翼ノ軍川ヲ渉リ賊ノ敗スルヲ見ル時機亦至ル大野川ハ汐ノ満干アリ幅凡十五メートル河底泥深徒歩スヘカラス副官中尉石川昌世單身馳セテ舟ニ入ル汐半ヲ干ス舟洲上ニアリ兵卒継キ至ルモノ僅ニ壱名(田中又吉)俱ニ力ヲ極メテ舟ヲ出シ大声シテ兵ヲ呼フ田中又吉ニ命シ呼ヒ来ラシム漸ク五六名副官之ヲ揖シテ前岸ニ渉ス又面スル前ノ如シ凡ソ拾余名ヲ得於是舟ヲ一兵卒ニ委シ前堤ニ登リ兵卒ヲ奨励シ前面ナル大野村ヲ奪ハンヿヲ令ス適々右方数十歩ヲ隔テ兵ノ舟渉スルヲ見堤上ヨリ右折シテ其兵ト合ス(副官兵卒ニ約スルモ継キ来ルモノ亦田中又吉而已)至レハ則チ木下中尉ナリ(中尉ハ麻生伍長兵卒長谷川喜代太郎ニ命シ舟シテ進ム坂伍長稲田伍長兵卒勝二甚藏岡部宇之亟等之ニ従フ)共ニ大野村ニ直前ス賊三方ヨリ砲擊下士兵卒継クモノ則チ五六名大ヒニ呼テ進ム賊火ヲ放テ走ル左轉シテ藤ノ山ニ逼ル賊狼狽シテ退ク直ニ之ヲ奮フ此時兵卒拾余名諸隊数百歩ヲ隔テ継キ進ム賊松𣘺ニ敗走ス我大隊継キ進ムモノ左ノ砲臺ヲ奪フ又進テ松𣘺ヲ陥ル是ヨリ諸兵一斉ニ進ミ官軍大勝利

 曲野では国道3号バイパス工事に伴う発掘調査でスナイドル銃弾が1点出土している。この銃弾は先端に小穴があってそこに木栓を差し込んだ型ではなく、頭部に空洞がある種類である。外見では分からないので図では示されてないが。

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 第二中隊ハ南種山ヨリ引揚トスルトキ川俣ヨリ賊東寺地方ニ二千人程屯在ノ報ヲ得探偵ヲ出シ見ルニ事確実ナラサルヲ以テ午前第十時出発シテ午后第五時宇土ニ至ル其旨届出タリ本月一日戦状ノ概略ヲ報告スル左ノ如シ

午前第四時四十五分賊徒襲来報アリ我第一中隊ノ哨線及ヒ其右方ヘ應援トシテ第三中隊及ヒ第四中隊ノ右小隊ヲ派遣セラル皆中道ヲ二ツニ皈ル(宇土ニ出ルノ街道ナリ)第三中隊ハ古保里ニ出テ第四中隊ハ善同寺村ニ出ツ賊已ニ敗レ去ル第三中隊ノ古保里村ニ出ツルヤ残賊右方山間ニ散在スルノ報アリ則チ壱分隊ヲ斥候トシテ進マシム賊山麓ニ潜ミ居我兵ヲ砲擊ス止ヲ得スシテ少時交戦セリ此時兵卒壱名ヲ傷ク尋テ兵ヲ収メ古保里村ニ帰ル於是仝中隊ヲシテ更ニ山ニ沿フテ進擊セシム賊山ヲ越テ退キ去ル進テ木原山ノ麓ニ至リ松原村ノ右方ニ大哨兵ヲ配布ス第四中隊ハ善同寺村ニヲイテ第一中隊ト合ス適々宇土町ニ進軍スベキノ命アリ第四中隊ノ右小隊ヲ前衛トシテ進マシム木原山ノ辺ニ残賊ヲ見前衛ニ散布ヲ命ス賊忽チ退キ去ルヲ以テ皆宇土ニ入ル伍チ川尻街道ノ左方ヲ以テ我大隊ノ守線トセラル於是全隊ヲ纏メ更ニ壱中隊ヲシテ大哨タラシム

第四中隊ノ左小隊ハ聯隊長ノ命ヲ以テ宇土ニ向テ進ム道ニ松山村ニ至ル村吏賊潜匿スルヲ報ス永田少尉岩城軍曹ニ命シテ壱分隊ヲ率ヒ行テ之ヲ捕ヘシム藪林ノ中ヲ探リ放擊シテ之ヲ脅ス賊二名積藁ノ中ヨリ出テ刀ヲ揮フ銃ニシテ之ヲ斃シ刀ヲ奮ヒ首ヲ斬ル壱名ハ已ニ負傷セシモノナリ

刀二本金二拾四円十二戔ヲ所持ス姓名ハ左ノ如シ

合圖簱ヲ所持スルヲ以テ皆士官ナラント云フ

          賊

             笠 屋 喜 市 郎

             岩 城 季 髙

 別働隊第一旅團第一聯隊第一大隊長

         陸軍少佐 古川 氏潔

 3月17日の旅団編成時に第七聯隊は「髙島大佐ヲ旅團長ニ岡沢少佐ヲ参謀官ニ茨木黒木ノ両中佐ヲ第一第二ノ聯隊長ニ而乄我大隊ハ二中隊ナルヲ以テ第十一聯隊第一大隊ノ第三中隊ヲ合シ第一聯隊第一大隊ト称セラレ茨木中佐ニ属ス」とあるように、第一聯隊になると共に、茨木中佐は聯隊長で古川少佐が第一大隊長である。

      四月四日

晴ル正午十二時ヨリ第四中隊ヲ大哨兵ノ交代トス夜間第三中隊ノ壱小隊ヲ援隊トナス

午后第二旅團ヨリ大砲ヲ以テ賊ノ動静ヲ探リ見ラヽルニ付我隊中壱小隊六弥街道辺ヘ第一時マテ追々出張スヘキ命アリ第二中隊ニ命シテ発進セシム都テ山田少将ノ指揮ヲ受ク該地ニ達スルヤ賊ノ所在ヲ認メテ砲擊スルニ敢テ應セス命ヲ得午后第八時宇土ニ帰ル

午後第八時丗分我大隊ノ内壱中隊至急松𣘺ヘ出張ノ命アリ第一中隊ニ命ス本営ノ直令ヲ以テ受シム仝九時出発ス

 この後、第一聯隊(旧第七聯隊)も背後の八代に援軍として参加するので、この4日における八代の状況を述べたい。この日、八代方面には辺見十郎太・別府晋介率いる鹿児島新募の部隊が襲来した。「戦記稿」(「征西戰記稿」の略)の記述を掲げる。

  是日午前八時賊兵五百許人ヲ二隊ニ分ト一ハ山路ヲ取リ一ハ球摩川ノ南岸

  ニ出テ第二旅團(第三中隊)阪本村ノ分遣兵ヲ夾擊ス我兵防ク能ハス圍ヲ

  衝テ猫谷村ニ走ル長澤大尉八代ニ在リ急ヲ聞テ小川村ニ赴キ部下ヲ指揮シ

  テ防戰ノ凖備ヲナス午後四時賊進テ横石村ヲ侵ス時ニ月岡中尉ノ一中隊ハ

  萩原村ヨリ麥島村ニ至リ河岸及ヒ櫻馬塲等ノ第二線ヲ守レリ賊ノ横石村ニ

  逼ルヲ聞キ一部隊ヲ出シテ應援トシ又一隊ヲ出シテ上宮山ヲ守リ而シテ第

       二線ヲ古麓村ニ進ム是ニ於テ第三第八中隊ハ守線ヲ布テ古田古麓宮地ノ諸

  村ヨリ猫谷ニ至リ以テ八代ヲ守ル八代ノ人民荷檐シテ立ツ會計部員急ニ糧

  食諸品ノ八代ニ殘レルモノヲ松橋ニ運送セントシ人馬ヲ募ルモ應スル者少

  シ奔走勉力シテ遂ニ役夫四十名馬三十頭荷車五輛舟三隻ヲ得之ヲ辨ス八代

  小川ノ両砲廠モ亦急ニ松橋ニ移ル(巻二十二 衝背軍戦記)

 前に引用した黒田報告C09082211300から4月4日の戦況図を掲げる。

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 図を分り易くしてみたのが下図。右上の文字の内、この日の官軍に関する部分を拡大して示した。原図は色分けしているらしいが、単色で公開されているので分かりにくい。官薩両軍に同じ記号を使っているので自分なりに理解して示す。開戦の前官軍の防禦線というのは、薩軍襲来以前の官軍の配置である(赤い破線)。官軍最初の位置は、攻撃されて退き守備をした状態である(茶色の破線)。

 

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 原図には小さな字で説明文が付いている。それをまとめたのが次の画面である。

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 上の説明文の中ほどに白丸は「賊軍別府カ率ユル兵」とあり、球磨川の南岸

に沿って並んでいる。後で説明するが(戦記の順に解説しているので紛らわし

いのはご勘弁を。)、薩軍は古麓付近で二手に分かれて攻撃し、説明文の通り

別府晋介が率いた部隊は球磨川を南側に渡っている。

    四月五日

晴ル正午十二時ヨリ第三中隊ヲ大哨兵ニ交代セシム夜間第二中隊壱小隊ヲ援隊トス

昨夜松𣘺派遣セラルヽトコロノ第一中隊ハ我背後八代口ヘ賊軍侵入スル報アリテ該地ニ差向ラレタリト云フ

 「戦記稿」では派遣されたのは第一大隊第四中隊で、宮原へ、さらに八代ヘ。4日時点では八代方面にいる官軍は1個中隊だけだった。

    八代神社(妙見宮)は本来、上宮・中宮・下宮の三社からなる。市街地にある下宮は本宮として扱われているが、元々あった東側山中の上宮、中間の中宮は廃絶している。推定になるがこの八代神社中宮の東にある山を両宮山と呼んだのではないだろうか。現在、この山の地下を大平山トンネルが通過している。

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 戦記の記述では、小川村から左山上に登り、両宮の山続きに進み、さらに両宮山の右方に散布して敵を射撃している。木下中尉はそこから宮路谷を越えて萩原に帰った。これらを地図で検討すると宮路谷というのは水無川の谷のことだろう。「戦記稿」では月岡中尉中隊は麦島・ 桜馬場の守備に就いたが一部を上宮山に出している。市街地東側の山地を守備したのである。

 「戦記稿」によると、9時横石村は一小隊で守っていたが昼頃大挙薩軍が来て、官軍は古麓に退却した。薩軍は追撃して妙見山に登り、古麓を砲撃した。妙見山と上宮山とは区別しているのを見ると別の山である。上宮は八峰山(標高574m)の南西1200mにあるらしい。本戦記には八峰山の名が登場しないので、これを上宮山と呼んだのであろう。確かに地図には上宮越という山道が地図に載っている。上宮越を北東側に下り、水無川の谷に着いて左に川沿いに進むと中宮跡がある。少し進んで谷間を抜けた場所の右側に本宮、別名妙見宮という八代神社があり、神社の背後にある東側の山が妙見山だと思っていたが、薩軍が古麓町を山上から銃砲で射撃している点を考えると水無川の南側の山が妙見山である方が合理的である。では妙見宮の東側の山は何とよばれたのだろうか。上宮山と妙見山の付近に両宮山があると思うがはっきりしないが、東側の山は両宮山と呼ばれたかも知れない。

 なお、地元民が妙見山と呼んだ山と戦闘当事者が妙見山と呼んだ山が一致するとは限らない。地名に当て字が多いことから分かるように、戦いに来た人たちは地名の考証に来た訳ではないので、その点は両軍とも適当であった。

 19時過ぎ上宮山も攻撃され、別隊は小川村の間道から上宮山背後に出て攻撃に加わったため守兵は古麓に退いた。

 15時頃から薩軍は小川・深見から宮地に進み、別隊は18時麦島の南1.3km、球磨川の南岸沿いにあるヨウハイ山(高田山というのか)を越て植柳・森国・高田の3村に進んだ。そのため、八代市街が南側からの脅威も受けることになり、官軍は麦島の南岸を守り市街地に薩軍が入るのを警戒した。 

 薩軍側の記録を見ておきたい。3月に鹿児島に募兵に帰ってきた辺見等に応じた坂元盛吉の獄中での上申書である。「坂元盛吉上申書」『鹿児島県史料 西南戦争第四巻』pp.303・304

  明治十年三月二十六日ニ至リ小銃隊三小隊・大砲隊一座ヲ募リ余ニ炮隊長

  ヲ命ス、当日発程、加治木・横川ヲ過キ二十八日大口ニ至ル、爰ニ於テ邊

  見等又小銃隊三小隊ヲ募リ合シテ六小隊并砲隊壱座ヲ引率シ、真幸吉田ヲ

  経テ求摩ノ人吉ニ着ス、官兵八代ニ上陸シ坂元村ニ来ル、四月五日六小隊

  并ニ我砲隊馳テ之ニ赴キ、斥候ヲ以テ之ヲ窺ヒ、直ニ鯨声ヲ作リ短兵ヲ駆

  テ肉薄之ニ迫ル、官軍支ユル能ハス、大川村ニ退ク、此時我六小隊ヲ三分

  シ、一ツハ正面ヲ突キ、外左右翼ヲ廻リ我砲二門ヲ本道ノ左右ニ備ヘ、三

  面斉シク挟撃シテ之ヲ退ク、翌日又追撃シテ萩原ニ至ル、官軍死傷甚多

  シ、遂ニ弾薬欠乏シテ神ノ瀬ニ退ク、

 4月5日、八代から大川(球磨川流域にある小川のこと)に進出していた官軍に対し、攻撃した薩軍の兵力が歩兵六小隊と大砲二門だったことが分かる。

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             坂元盛吉上申書関係地図

次は同じく募兵に応じた人の上申書である。「河野徹英上申書」『鹿児島県史料 西南戦争第四巻』pp.323~326

  未明ヨリ官兵ノ営所小川村ヲ進撃ス、接戦暫時ニシテ官軍支ルコト能ス、

  潰走テ櫻馬場江退キ嬰守ス、我兵凱歌シスカサス突進、尾撃スルヲ以テ死

  骸ハ勿論亦該所ヲ捨テヽ八代江向ケ走ル、爰ニ於テ兵ヲ二手ニ分ケ、壱手

  別府主トナツテ川ヲ越シテ左翼ヨリ、邊見ハ直ニ萩原本道ヨリ八代ヲ衝

  ク、其勢ヒ烈風ノ如クニシテ既ニ町口迄押付、大捷ヤヽ垂トスルノ時ニ至

  リ、本道吾カ右翼ノ壱小隊機会ヲ失シ、却テ官兵ヨリ襲レ潰ヘテ、味方ノ

  背面官軍ノ有トナリ甚苦戦トナル、シカノミナラス弾薬已ニ絶ヘタリ、登

  時辺見衆ニ向ツテ云フ、別府ト合セント、衆従フテ急流ヲ渉ル、其時味方

  隊長小倉勇之介・分隊長有川直治奮闘シテ死ス、其他死傷頗ル多シ、是ヨ

  リ先キ熊本協同隊々長宮嵜八郎斥候トシテ我カ隊ニ加ル、此戦ニ憐ムベ

  シ、銃玉ノ為ニ斃ル、此期ニ当ツテ別府ハ邊見カ跡ヲ追フテ小川村陣営ニ

  至リ、萩原口ノ官兵ヲ払ハント衆ヲ指揮シ且単身当ル、少間ニシテ左足ニ

  重傷ヲ負フ、小隊長黒川幸吉戦死ス、無程日西山ニ入ルヲ以テ戦ヲ止メ、

  兵ヲ櫻馬場江マトメ防禦シ、各隊ノ弾薬ヲ点検スルニ欠乏云フベカラス、

  依テ再挙ヲ後日ニ決シテ翌日各隊ヲシテ神ノ瀬村江繰引、諸口ノ守衛ヲ厳

  ニス、

 球磨川下流の八代の扇状地が始まる場所、八代神社の南にある春光寺には官軍本営があった。そこから西に一直線に伸びた道が桜馬場の跡である。球磨川扇状地が始まる付近で薩軍は二手に分かれての行動に移った。辺見の部隊はそのまま球磨川の北岸を進み、もう一手、川を渡り南岸から八代市街に迫ろうとしたのが別府晋介の部隊だったことが分る。その後、辺見等は右翼の部隊が官軍に押され戦況が不利になったため、南岸の別府等に合流しようと球磨川を渡ろうとした。辺見は宮崎八郎から預かった書類を水中で失ったとされており、辺見も渡河したのだろう。日没時には薩軍が桜馬場に集合しているので、官軍はもっと西側や北側まで退却したことになる。

 熊本士族の協同隊宮崎八郎がこの戦場にいたのは「薩南血涙史」によると、桐野の使命で坂本に来ていたためである。

 この戦記では記さないが「戦記稿」他では5日、薩軍八代神社背後の山、つまり市街の東側の両宮山や北側の山を占領し有利な状況となっている。

 もう一つ、薩軍側の史料を掲げる(「大磯孝平太上申書」『鹿児島県史料 西南戦争第四巻』pp.41~44)。他には見られない情報が記されている。旧暦である。

  坂元ヲ発シ、十五六町ヲ経テ深見谷ノ険ニ官軍ノ守兵アリ、我軍ノ進路ヲ

  遮リ砲発ス、之ニ応シ激戦シ撃テ之ヲ走ラス、古田迄尾撃ス、敵府本(※

  古麓のこと)ノ人家ニ塁ヲ築テ防ク、爰ニ於テ愛甲清之進・有川直治銃丸

  ニ中テ斃ル、敵ノ伏尸五人ヲ見ル、日漸ク没ス、古田ヨリ妙見山ノ兵ヲ連

  ネテ終夜守ル、翌廿二日黎明ヨリ惣軍斉シク奮戦シテ、遂ニ府本ノ塁ヲ抜

  ク、尾撃シテ萩原ニ至ル、我隊溝堤ヲ楯ニ取リ、攻撃暫時ニシテ我軍弾薬

  竭ク、因テ櫻馬場エ引揚タリ、既ニ黄昏ニ至リ別府カ麾下日奈久ヨリ帰リ

  我軍ト合シ、戸或ハ障子ヲ以テ爰ニ胸壁ヲ築キ守ル、其夜未明敵正覚寺

  山ヲ潜ミ背撃ス、因テ我兵防ク能ハス古田ニ退ク、隊伍潰乱防キ戦フ不能

  、終ニ惣軍神ノ瀬ニ引揚タリ、

 深見谷の官軍や古田という地名が出てきた。深見は深水だろう。下深水は小川の東1.2㎞にあり、小川とは山を隔てている。その谷筋を遡ると種山に行くことができる。古田は球磨川北岸の集落で、妙見山の南側にある。別府隊が日奈久から帰ったというのは、萩原付近で辺見隊と別れた別府隊は日奈久の海岸まで行き、軍艦から上陸しようとする端舟を射撃したりしていたのである。その件について、次に海軍の記録を示す。

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 初め薩軍は500人ほどが日奈久に来たが、戻って行き、軍艦の接近情報がもたらされると50人程が再びやって来た。丁卯(ていぼう)艦から降ろした端舟に射撃を加え、軍艦も砲撃している。別府隊は少なくとも500人前後だったとみられる。正覚寺は宗覚寺だろうと先に推測したように古麓の水無川南岸にある。

       四月六日

正午十二時ヨリ第二中隊ヲ大哨兵ニ交代セシム夜間第四中隊ノ壱小隊ヲ援隊トナス

 6日の八代について続ける。「戦記稿」による。官軍は早朝、八代神社背後の山に対して猫谷の山、八峰山の南側、古麓の三方から攻撃したが退却した。薩軍も猫谷、向坂に放火し市街地に迫ったが、敗走した。黒田報告の図に「賊兵ノ放火セル印」というのが市街東方背後の一番高い山に描かれているのが符号する。その後、別働第二旅団の「第三中隊ノ一部隊猫谷ヨリ迂廻シテ賊背ヲ擊ツ賊大ニ敗レ大砲死屍ヲ棄テ走ル河岸ノ諸隊ハ進テ淺瀬ヲ渉リ擊テ麥島ノ賊ヲ攘フ賊球摩川ヲ渉テ逃レ溺死スル者又多シ」という状況になった。この薩軍背後を攻撃したというのが具体的にどこか分からなかったが、先に掲げた「大磯孝平太上申書」の正覚寺が宗覚寺だと見当が付き、その位置も判明したので、宗覚寺から南側に登り妙見山を攻めたらしいと分かった。6日、辺見の率いた右翼にいた部隊が右側から攻撃されて敗走し、それが全軍に波及したという事態がこれで理解しやすくなる。妙見山薩軍は西側低地部の官軍を攻撃するのに集中し、右背後からの奇襲に敗走した。古麓などを見下ろし、薩軍に有利な高所から撃ち下す場を提供していた妙見山が想定外の攻撃のために奪われた結果、平野部の辺見等は逆に不利な立場になった結果、辺見等は球磨川の南岸にいる別府等に合流したのである。

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     四月七日

天雨ル午前第四時第二旅團ヨリ川尻辺砲擊セラルヽニ付我大隊ヨリ壱中隊六弥太街道ヘ出張スベキ命アリ第三中隊ニ命ス隊長及ヒ大隊附皆請フテ之ニ趣ク第六時五分宇土ヲ発ス第八時頃前ノ江村ニ至ル国丁川ノ堤ニ於テ戦已ニ起ル中隊ハ直ニ散開村左右ヨリ進ミ戦闘線ニ達ス交戦甚盛ナリ此戦也砲二門ロケット壱門モルチール二歩兵二中隊半ナリ山田少将中村中佐後チ出テ指揮セラル同第十一時頃右後木原山ヘ賊襲来シ官軍其線ニアルモノ殆ト危ク亦国丁川ノ右翼モ賊迂廻セント謀ル模様アリ援隊追々至リ木原山ノ賊ハ午后第四時頃敗レ走ル我前面モ従テ火力衰フ第五時遊擊隊ト交代シテ宇土ニ帰ル

八代口ノ賊勢亦猖獗ナルニ依リ第二大隊ヨリ壱中隊出張ス故ニ大哨線ヲ我隊ニ増加セラル正午第十二時ヨリ第四中隊ヲ出ス第二中隊ハ大哨ニ引続キ服務ス

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 富合町にある六弥太橋は南側の廻江と杉島の間の浜戸川に架かる橋で、江戸初期には存在した。宇土と川尻を結ぶ主要路線だったらしい。ここで前ノ江とあるのは廻江(まいのえ)のことで浜戸川の南岸に位置する。国丁に通じる国町という地名がある。国丁川の国丁は古代の国庁に由来するという説はなく、国町は鹿児島本線富合駅の西北西約700mにあり、浜戸川の北岸に位置する。国丁川というのは城南町から流れてきて国丁の西方で緑川に合流する浜戸川の事であろう。

 三日前の4月4日、別働第二旅団がアームストロング砲1門・四斤山砲1門で北側の川尻町と杉島村を攻撃し、火箭つまりロケットで川尻南部の大渡町に放火したことが「征西戰記稿」に記載されているので、この日も同団の装備品であろう。

  4月7日、黒川通軌大佐率いる歩兵二大隊と砲兵一小隊の衝背軍が長崎から宇土半島基部北西の戸口浦に上陸し、官軍左翼を担当して川尻町を目指して行動を始めた。背後の八代には球磨川沿いに人吉から辺見十郎太・別府晋介率いる新手の薩軍が襲来していた。官軍は7日、古麓やその東側の山にいた薩軍を攻撃した。「薩南血涙史」を引用する。

  別働第一旅團ハ古麓、猫谷、宮地の薩軍を攻擊し而して、後日奈久に及ば

  んとす、斯くて黑木中佐(爲楨)の率ゐる三箇中隊は午前五時球摩川堤よ

  り進み、薩軍の正面左翼を衝きしも薩軍善く之を拒ぎ、拔くこと能はざる

  を以て一箇中隊の半隊を以て敵壘の左方なる正學寺山より側面を擊たしめ

  たり、薩軍は此時彈藥既に竭き且つ背面備なきを以て遂に保つ可からざる

  を察し(中略)神の瀬に退き敗兵を収めたり

 先に述べたように正學寺山は宗覚寺の南側の山、すなわち妙見山と呼ばれた山であろう。ここは薩軍の左方にあたるというから、当時妙見山の北側に薩軍がいたということである。八代神社の東側の山、両宮山に薩軍が残っていたのだろう。

 上記のように「薩南血涙史」では7日に撤退したとあるが、官軍側の記録では8日まで薩軍の一部は古田に留まっていたとある。

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 薩軍は人吉盆地に近い神の瀬に後退し、5日から続いた戦闘はこの8日に一先ず、終わったのである。   

  四月八日

正午十二時第四中隊第二大隊ノ大哨線ニ移リ第三中隊ヲ我大哨兵タラシム夜間第二中隊ノ壱小隊ヲ出ス八代口ハ六日七日両日ノ戦官軍大勝利賊近地ニアラスト云フ然レノモ第一中隊ハ更ニ該地警備ヲ岡澤中佐ヨリ命セラレタリ

午前第三時熊本臺兵壱大隊賊囲ヲ突出シ木原山ノ線ニ入リ直ニ宇土ニ来ル粗該城ノ近况ヲ聞ケリ

河内村往還中ニ死体ノ腐レタル者アリト云々御達ニ付伍長新郷道廣ヲ遣テ之ヲ実検セシム果シテ去月廿八日生死未明タリシ第四中隊兵卒鈴木岩三郎也収テ之ヲ葬ラシム

昨七日戦状ノ概略ヲ報告スル左ノ如シ

四月七日午前第六時第二旅團ヨリ川尻辺砲擊ニ就キ我第三中隊(中尉岡千仞少尉神代淸之進仝試補内山功吉弘鑑徳)ヲ六弥太街道ヘ派遣セラル同時宇土ヲ発ス小官亦請フテ副官ヲ従ヘテ之ニ趣ク同七時三十分廻江村ノ辺ニ達ス前路已ニ戦争アリ同所ヨリ中隊ヲ左右ニ散開シ廻江村ヲ過テ直ニ国丁川ノ河堤ニ進ム中央本道ニ砲門アリ我中隊ハ諸兵ノ左右翼ヲ占ム賊凡百名余堤ヲ距ル百米突計リニシテ畑中ニ潜伏シ飛弾尤ノモ烈シ交戦数時賊堪スシテ後方ノ堤ニ退ク是ヨリ火力稍衰フ尚左方ヨリ(清藤村ノ方ヨリ)渡舟シテ斥候ヲ出ス此地ハ一賊ヲ不見シテ帰リ報ス徐カニ砲擊ノ中午后第四時遊擊隊ト交換ノ命アリ引纏メテ宇土ニ帰陣ス第七時也

 征討別働隊第一旅團第一聯隊第一大隊長

明治十年四月七日  陸軍少佐古川氏潔

 8日、熊本城に籠城していた熊本鎮台第十三聯隊第一大隊が包囲を突破して宇土町東方の木原山に着き、衝背軍と合流した。

    四月九日

晴ル午後第壱旅團ハ猥庄地方ヘ轉陣ニ付我大隊ハ隈庄ヘ繰込ヘキ命アリ仝二時三十分第二中隊ヲ率ヒ宇土ヲ発ス第四時三十分隈庄ニ入ル此地ハ第三旅團ノ持塲ナリシモ小勢保守シガタキヲ以テ今ハ線外ニアリ大隊長更ニ哨線ヲ計画シ第二中隊ノ壱小隊ヲ出シ右第三旅團ニ連リ左ノ第二聯隊ノ第二大隊ニ連ル大哨所ヲ上宮地ニ置ク

第三第四中隊ハ馬ノ瀬村大哨交代次第此地ニ繰入ルヘキヲ命シ置ク 

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 馬ノ瀬村に関しては、宇土駅の北西1.2kmと西1.4kmの二ヶ所に隣接して該当地名がある。およその場所はそこである。  

   四月十日

雨午前第八時木下中尉八代ヨリ至ル該地ハ賊敗走後所在ヲ見ズ諸隊追々引揚タルヲ以テ該中隊引揚方ノ建議ニ来シ彼地初戦ヨリ死傷ハ凡二十名ナリト戦記未タ調製ナラス概略ノミナリ

本日第三中隊ハ午前第八時第四中隊ハ午后第四時隈庄ニ繰入ル

大哨兵ハ第二中隊ニテ小隊宛交換セシム

 八代襲来の薩軍は7日・8日の戦いで撃退し、球磨川沿いに人吉方面に撤退させたので官軍は八代に三個中隊だけを残して他は宇土方面に撤収させた。木下中尉もそれで引き上げてきたのである。

   四月十一日

晴ル熊本鎭臺第十三聯隊第一大隊(突出シテ来ルモノ)ヲ當第一旅團ヘ附属相成リタル旨布達アリ

午前第五時大川大尉壱分隊ヲ率ヒ吉野村辺ヲ斥候ス當處鎭撫方村田友矩ヨリ賊ノ粮米築地村善右エ門方ニ残シアルヲ聞取篤ト取糺シタリシニ相違無■ヲ以テ現米(※玄米)拾九俵ヲ収穫シ来ル

大哨兵ハ上宮地ノ方第二大隊ニ譲リ第三中隊ヲシテ塚村ノ前面ニ配哨シシム

此夜大隊長ヲ旅團ニ召シ明日御舩攻擊ノ部署アリ我大隊ハ隈庄ヲ守備スルノミ故ニ更ニ哨所ヲ画ス三中隊ヲ以テ隈庄ノ周囲ヲ守ルノ策定ナリ

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  塚村とは塚原古墳群がある付近のことか。

   四月十二日

拂暁御舩ヘ攻擊アリ我大隊午前第二時ヲ以テ守地ニ就ク

御舩攻擊官軍大勝利午前第十一時仝地ニ入ルト云フ於是隈庄ハ線内タルヲ以テ哨兵撤シ市街入口ニ歩哨ヲ置ク之ヲ第四中隊ノ壱小隊ニ出サシム名ケテ警備隊ト云フ

 部隊の一部は熊本平野南東部の御船に進んだ。

    四月十三日

晴ル正午十二時ヨリ第三中隊ノ壱小隊ヲ警備ニ交代セシム

此日越智軍曹ヲ八代手嶋大尉ニ差役ス人員及ヒ戦闘報告ヲ出サシム使命ヲ萩原村ニ傳フト𧈧ノモ適賊再襲シ来リ十二日ヨリ開戦シ官軍曩ニ占領スル処已ニ二三ヶ所ヲ失フト此日防禦線ヲ球磨川ヨリ宮地村ニ取リ戦争中ニシテ萩原村モ賊ノ砲弾頭上ニ迸裂シ勢ヒ甚タ猖獗ナリト云フ帰テ之ヲ報告セリ

 こちらは八代方面派遣隊の記事である。宮地村は古麓の北にあり、八代神社の地ということ。11日戦記の隈庄北東にある上宮地と紛らわしいが別である。この日、黒川大佐率いる別働第四旅団遊撃隊が緑川下流を北側に渡り、川尻町の西側に進み(下図の△)、別働第二旅団(下図では別働が抜けている)も東側で緑川を越え川尻町手前まで進んでいるので、下図の黒川図は13日の状況であろう。

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   四月十四日

正午十二時ヨリ第二中隊ノ壱小隊ヲ警備隊ニ交代セシム

未明ヨリ川尻地方ニ戦争アリ濱手ヨリ向ヒタル官軍本日川尻ヲ陥レタリト云フ

八代口ハ賊再ヒ襲来危嶮ニ付我大隊ノ三中隊直ニ該地ヘ出張スヘキ命アリ午后第九時四十分三中隊ヲ率ヒ隈庄ヲ発ス天暗黒道路泥濘篝火ヲ以テ道ヲ照シ勇ヲ鼓シテ進ム豊村ヲ経テ右折シ鏡町ノ往還ニ出ツ

勅使片田侍従番長ヲ以テ軍労為慰撫金ヲ賜フ

 豊村は不明。右折して鏡町往還に出るのだから、往還よりも東側にある筈。

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   四月十五日

午前第六時鏡町ニ達ス三時間休憩ヲ許ス朝飯ヲ喫ス仝九時発進正午十二時八代ニ至ル此地ハ第四旅團参謀官山地中佐更ニ来テ諸隊ヲ部署シアルヲ以テ仝官ノ萩原村ニアルヲ聞キ仝地ニ趣ク議シテ本日ノ部署ヲ定ムル左ノ如シ

第二中隊第四中隊ハ休憩終テ後チ球磨川ノ堤及ヒ夫ヨリ宮路村ニ通スル小川ノ堤ニ大哨兵ヲナサシム第三中隊ハ午后第四時ヲ以テ宮ノ原ニ派遣シ該地ニアル青木大尉ノ隊ト共ニ守備ヲナサシム第一中隊ハ八代ニ休憩ス

賊兵ハ球磨川ノ左右山手ニ占拠シ其右ハ龍ケ峰ヨリ川床(※川床は八代神社の東北東1.1km。龍ケ峰から南に延びる尾根の東側にある。)向坂(※龍ケ峰の東麓にある坂谷のこと)宮地古麓等ノ山脉ニ其左ハ球磨川ヲ隔テヨウハイ山麓ヨリ下テ村落或ハ川堤等ニ拠ル皆要所ヲ占メ十分我ヲ展眸シ敵合凡二百米突大砲數門ヲ連発シ戦争間断ナシ此夜哨兵交代ノ際第二中隊ノ兵卒壱名ヲ傷ク第一中隊近日ノ戦状ヲ報告スルヿ左ノ如シ

 以下は時間を遡り4月4日から13日までを記している。第一大隊第一中隊長の手島大尉が書いたものである。

四月四日午后第八時第一中隊八代山出張ノ命アリ賊徒人吉ヨリ球磨川ヲ下リ八代ニ迫ルノ後患アルヲ以テ仝夜第九時三十分宇土村出発仝十二時松𣘺ニ着黒参軍高嶋少将ノ命ヲ受ケ八代ノ應援トナル諭旨ヲ受ケ仝夜松𣘺ニ大休憩翌五日午前第二時松𣘺駅出発午前第十時八代駅ニ着ス安田権大書記官井上参謀補助ニ出會ス于時横石村ヨリ前方草履掛ケト云フ処ニ兼テ出張ノ長澤大尉ノ隊本日戦争正ニ盛ンナル由依テ斥候兼戦鬥ヲ凖備シ木下中尉ノ一小隊ヲシテ小川村ニ向テ前進セシム人員曹長以下七拾名五日午后第一時三十分八代駅出発ス我兵小川村ニ達スルノキ長沢大尉ノ一分隊ハ既ニ小川村引上ケタリ賊兵ハ熊

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 4月5日、第一中隊は13時30分八代から小川に向かう。上流守備の別働第二旅団第三中隊は横石で薩軍を迎え撃つが敗れ、すでに13時古麓に退いていた。薩軍妙見山八代神社の南側)に進み、古麓を大砲で射撃した。

川ノ西山脉ニ散布ス而シテ吾軍小川村ニ至ルノキ互ニ放発スルナシ然ルニ賊川上ヲ渉リ左方山上ニ進ムト聞ク是ニ於テ木下中尉(※木下勝知は手島と同じ第一中隊)長沢大尉ノ隊中士官某ニ告テ我兵ヲ小川村ヨリ左山上ニ進ム其ノキ賊兵彼ノ岸ヨリ放発ヲ始ム我カ兵ハ左方迂廻ノ賊ヲ討ント頻リニ進ムモ山上ノ地形タル蔭蔽夛ク展望ノ便ナシ然ルニ響音ヲ聞キ之ヲ目的トシテ終ニ両宮ノ山続キニ至ル于時岡中尉ノ中隊(※第三中隊)開戦中タリ直ニ兵ヲ進メ両宮山ノ右方ニ散布セシメ賊ノ左方ヲ烈射スルモ進擊不便ノ地ニシテ日没ニ及ヒ砲声僅少トナルノキ岡中尉ノ中隊ハ要地ニ拠テ防禦ノ凖備アリト木下中尉ハ仝隊士官ニ會シテ之ヲ聞ク是ニ於テ木下中尉ハ我カ兵ノ爰ニ至ル斥候ノ趣意タルヲ告ケ宮路谷ヲ越テ一旦萩原村ニ帰ル殆ント午后第九時ナリ

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 木下隊は小川から左の山に登り、両宮山(推定地)・宮路谷を経て古麓に帰った。

 八代神社(妙見宮)は本来、上宮・中宮・下宮の三社からなる。市街地にある下宮は本宮として扱われているが、元々あった上宮、中宮は廃絶している。国土地理院地図には八丁山の北側尾根に上宮越という東西に走る山道がある。その部分から北東に点線の道が引かれた終着点に神社記号がある。標高574mの八峰山の1.2km手前である。ヤマップの投稿を見てそれが上宮らしいと気づいた。とすれば八峰山が上宮山ということになる。では両宮山とはどこか。暫定の推定だが八代神社の東側の山ぐらいしか思い付かない。この山の真下を大平山トンネルが通過している。

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 この日の戦記では、小川村から左山上に登って両宮山の山続きに進み、さらに両宮山の右方に散布して敵を射撃している。木下中尉はそこから宮路谷を越えて萩原に帰った。これらを地図で検討すると宮路谷というのは古麓川の谷のことだろう。

 以下の文章は長いので文中に(※)を入れて補足説明しておきたい。

此ノキ安田権大書記官井上参謀補助及ヒ外士官三名萩原ニ来會シ警備ノ為我カ一小隊(木下中尉之ヲ率ユ)ヲ仝処ニ止メタリ孝基(※第一中隊長手島孝基大尉)モ木下中尉ノ戦闘始末ヲ聞カン為メ萩原ニ至リタリ初メ我兵ヲ小川村ヨリ山上ニ進ムルノキ伍長稲田忠行足痛ヲ告ケ仝村ニ残シ置キシニ仝隊兵卒甲谷伊三郎早埼仁太郎ノ両名モ稲田伍長ト共ニ仝所ニ残シ置タリ后長沢大尉ノ隊戦鬥ノノキ共ニ合シテ烈戦ス稲田伍長ハ銃創左腕ニ受ケテ八代ニ皈ル孝基之ヲ鏡ニ送ル早﨑仁太郎ハ其ノキ賊ニ囲マレ止ムヲ得ス小川村ノ農中山平藏方ニ潜伏シ八日ニ至リ衣服ヲ農家ヨリ備リ受ケテ農民ノ態ヲナシ中山平藏ニ護送セラレテ八代ニ皈ル甲谷伊三郎ハ五日長沢隊トノモニ戦セシノキ戦死ノ処后八日ニ至リ岡沢中佐ノ参謀本営ヨリ死体迸リ来ル右両名共八代駅松江村福壽寺ニ埋葬ス此日第五時ヨリ林少尉試補ノ一半隊ヲ以テ日奈久街道ヨリ熊川ヲ渉リ八代ニ入ルノ堰堤勘助渡塲ノ近傍ニ哨兵ヲ布置セシム(此隊ハ翌六日進テ萩原口ニ於テ防戦ス)且野村少尉試補ノ一半隊ヲシテ前川(※八代城の南を流れる球磨川の支流)ヲ渉リテ熊川ノ河岸舛柳村(※八代城の南約1.6㎞の球磨川左岸沿にある植柳町のことだろう)ノ左側ニ散兵ヲ布置シ防守セシム仝夜各中隊長及ヒ安田権大書記官井上参謀補助ト協議進擊ニ决ス翌六日午前第四時孝基猫谷山(※標高574mの八峰山のことか)ニ登リ山上ヨリ両宮山及ヒ宮路辺ニ在ル賊兵ヲ打チ下スニ决セリ(※6日、薩軍は市街地東側にある両宮山・宮地山を占領し、官軍は猫谷山から攻撃)木下中尉ノ一小隊及ヒ山田大尉ノ中隊羽山少尉ノ一小隊ト馬塲中尉ノ一分隊ヲ引卒シテ猫谷山ニ登リ午前第九時頃吾兵猫谷山ニ至ル賊兵両宮山辺ニアリ開戦ス午後第一時頃迠進擊ス賊兵少シク退然レノモ賊兵僅少ニシテ要地ヲ占領ス之レヲ強擊スルモ我カ兵ヲ夛ク損スル而已ニ乄格別ニ益ナキノミナラス仝時ニ正面攻擊ヲ始ムルト云フ最初ノ約束モ少ク齟齬セシ如ク更ニ山下ニ攻擊ノ砲声ヲ聞カス反ツテ萩原口ノ危急ナルヲ傳聞ス且粮食モ山上ニ運輸困難ナルヲ以テ黄昏ニ至ラザル内兵ヲ整エテ山ヲ下リ探偵ヲ出シテ方向ヲ决セント孝基諸将校ト協議シテ猫谷村ニ下リ吾兵ニ粮食ヲ與フ于時土人ニ聞クニ小川口破レテ賊兵八代ニ迫ル依テ向坂ニ斥候トシテ麻生伍長ニ兵卒四名ヲ附シテ探偵セシムルニ賊兵向坂ニ在ラスト即チ向坂ニ登テ方策决ス木下中尉ノ一小隊ヲシテ先ツ宮路村ニ向ツテ進擊セシム賊兵古麓辺ヨリ要擊ス我兵屈セズ宮路村ノ堰堤ニ達ス于時午后第六時頃ナリ馬塲中尉ノ一分隊ヲ向坂ノ(カルド※カルドは意味不明)ニ残シ置キ羽山少尉ニ一分隊ヲ引率シテ孝基次ヒテ宮路村ニ至ルノキ永田少佐ハ二中隊ヲ引テ来リノモニ仝所ニ相戦フ我カ兵均シク進擊ス勝ニ乗シテ追擊ス賊兵潰走ス宮地村ノ堤上ニ於テ夛ク賊兵ヲ斬ル仝夜木下中尉ノ一小隊ト羽山少尉ノ一小隊トヲ合シテ宮路村堤上ニ大哨兵ヲ布置セリ而シテ林少尉試補ハ萩原口破ヲ聞テ自ラ進テ(前夜日奈久街道ノ堤上渡シ塲ニ哨兵ヲ布ケリ)萩原口ノ堤上ニ進テ力戦防禦前軍進擊ノノキ均シク進ム野村少尉試補ハ一半隊ヲ以テ前夜川ヲ越エテ卯柳村ニアリシモ萩原ノ破レヲ聞テ八代後村マテ退クモ直チニ兵ヲマトメテ萩原口ニ出テ林少尉試補ト合シテ防戦セリ此日兵卒即死二名銃傷四名アリ翌七日宮路村堤上大哨兵ノ処賊兵黎明ノ頃凡ソ十名程堤上ノ𣘺ヲ潜越シテ我カ歩哨線エ拔刀シテ切リ込直ニ銃鎗ヲ以テ衝突シ及ヒ射殺スト𧈧ノモ之カ為メニ刀傷ヲ受クル者兵卒拾名アリ而シテ天既ニ明クルヤ直チニ全軍進擊残賊ヲ拂テ古麓村ニ至ル賊兵敗走シテ坂本辺ニ退ク

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岡澤中佐以下官軍八代ニ引キ上ケタリ孝基諸持口ニアル我カ一中隊ヲマトメ八代ニ至テ命ヲ待ツ于時七日午前第十一時頃ナリ本日休憩ノ命アリ翌八日一分隊岡澤中佐本営風紀衛兵ト乄出ス午後第五時八代出町鑑𣘺ヘ一小隊哨兵ト乄出ス林少尉試補之ヲ指揮ス翌九日風紀衛兵仝樣差出ス鏡𣘺哨兵交代トシテ一半隊木下中尉之ヲ指揮ス此日岡澤中佐及ヒ諸兵隊宇土町ヘ引上ケノ命アリ当第一中隊及ヒ山本大尉ノ一中隊ト月岡中尉ノ一中隊ト八代ヨリ熊川筋横石迠ノ警備ヲ命セラル各中隊長協議致スヘク樣達セラル即チ当第一中隊ハ古麓ヲ本拠トナシ猫谷山近傍ヘ備ヘ月岡中尉ハ古田ヨリ小川横石マテ各持塲ヲ定メラル依テ仝夜九時頃女加称𣘺ノ哨兵ヲ向坂ニ轉シム且ツ木下中尉ト林少尉試補ト交代セシム而シテ木下中尉ヲシテ急行宇土村ニ至リ当中隊八代交換ノ議ヲ建言ス

 女加称𣘺はメガネ橋と読むらしい。石橋だと思うがどこにあるかは分からない。

仝十日午前第五時孝基全中隊ヲ以テ古麓村ニ本拠ヲ移シ哨処ヲ定メ諸隊ト連絡ヲナシ夫々防禦ノ手配ヲナス仝日一半隊ヲ以テ向坂ノ交代タラシム当林少尉試補之ヲ指揮ス仝日午後第七時木下中尉皈テ諸件ヲ報ス此日午后第二時頃宮路村々落田畝中ニ於テ賊兵銃丸ニ罹リタルモノ薩州木入田淵村農三四郎ナルモノヲ土人ノ報知ニ依テ捕縛シ直ニ八代鎮撫方上田貢ヲ以テ茨木中佐古川少佐ノ本部ニ護送セシメタリ追〃土人ノ探偵ヲ要スルニ賊兵再挙横石辺ニ迫ルノ形况アリ時々之ヲ本軍ニ報セリ

 薩軍に占領された時から地元士族が川尻鎮撫隊を結成し、住民の保護に当たっていた。隊長は上田休で、同姓の上田貢は血縁者だろうか。

翌十一日一半隊野村少尉試補ヲシテ向坂ノ哨兵交代タラシム此日午前我カ巡邏兵伍長代理棚上政次郎古田近傍ニ於テ山中ヨリ一人出来ルヲ見ル呼ヒ留レハ即チ彼レヨリ我ハ薩人北島兼亮ナルモノナリ賊中ヲ脱シテ官軍ニ降服ヲ願フモノナリト依テ捕縛シテ皈ル一應糺断スルニ全ク賊ノ間諜ニ相違ナシ依テ縛シテ鎮撫方二名ヲ附シテ髙嶋少将ノ本営ニ護送シタリ此日山地中佐並ニ二中隊ノ援隊到着ニナリタリ

 山縣参軍の指示により山地中佐は二個中隊を率いて宇土を出発し、うち一個中隊を宮原に留め、残りの一個中隊と共に八代に着いてこの方面の官軍の指揮を執った。

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 11日の「戰記稿」を掲げる。「十一日賊軍再ヒ八代ヲ拔カント期シ兵ヲ其東面一帯ノ山峯ニ配布シ又別軍ヲ岩奥村ノ邊ヨリ南種山地方ニ出シテ宮ノ原驛ヲ襲ヒ以テ八代ノ背後ヲ斷ツノ勢ヲ示ス(略、山地中佐は)南種山興善寺山ニ配兵シテ宮ノ原ヲ守備セシメ」という状況になった。

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翌十二日賊兵横石ニ迫ル開戦ス月岡中尉ノ持口支フル能ハス破レテ萩原ニ退ク依テ我カ持口古麓ハ賊ノ正面第一線トナル依テ防禦線ヲ短縮シテ即夜林少尉試補ヲシテ宮路村ニ野村少尉試補ヲシテ向坂ヲ下テ其下ノ村落ニ拠守セシム木下中尉ハ一小隊ヲ以テ依然古麓ニ拠守セシム左翼ハ即チ出町女カ称𣘺辺ヨリ向坂ノ下ニ至ル田辺中尉ノ一中隊トス右翼ハ即チ球磨川堤上萩原ニ至ル山本大尉ノ中隊ナリ

 戦記は続くが中断して解説する。八代平野から薩軍は撃退されていたが、未だ遠くには去っていなかった。12日、球磨川北岸の横石の一中隊は上流域からの薩軍に追われて古麓に退却し、薩軍は山間部を廻って宮原をも襲う気配だったので、官軍は八代市街北側の興善寺背後の山と南種山に守備を置いて備えている。

翌十三日午前賊兵古麓ニ迫ル防戦午后ニ至ル此地形タルヤ山上宮地谷ノ上ヨリ直チニ打チ下スニ依テ勢ヒ支エ難ク止ヲ得ス古麓ヨリ三丁程退却シテ防戦ス于時孝基(※第一大隊第一中隊長 手島孝基大尉)萩原口山地中佐ノ本営ニ呼ヒ寄セラレ戦状ノ尋問並ニ援兵繰出方ヲ議セラル越智軍曹熊庄ヨリ来テ古川少佐ノ命ヲ傳フ即時山本大尉ノ一半隊ヲ應援ニ出サル野村少尉試補ハ弾丸乏シク且ツ賊ノ迂廻ヲ憂テ木下中尉ノ所在マテ退却ス孝基之ヲ合シテ防戦ス林少尉試補ノ持口ハ依然トシテ動カス夜ニ入テ孝基山地中佐ノ命ニ依テ堤上櫻ノ馬塲辺少シク進擊ス賊ヲ退テ堤上臺塲ヲ建築シテ固守ス賊敢テ進擊セス其夜彼我砲声絶ヘス此日兵卒即死三名伍長一名銃傷兵卒銃傷九名アリ兵卒生死不分明壱名アリ

 兵数の少なさから十分な防禦体制を整えられない。守線を長くすると防禦が薄くなるので要地に縮めて鍵形とし、迂回攻撃に備えた。薩軍の一部は上宮山を下り古麓を三時間攻撃したがそれ以上進めないので、「古麓ノ山間ニ入リ轉シテ稻荷山ヨリ宮地村ニ向」(「戰記稿」)かって攻撃したがこれも撃退された。これによると稲荷山というのが宮地の東側にあるらしい。薩軍はさらに官軍の左翼に迂回しようとしていたので宮地の左、向坂(坂谷のこと)・猫谷道(両方に通じる道だろう)に一小隊を派遣しているが、攻撃はなかった。

  是日午前六時賊ノ古麓守線(第一聯隊第一大隊第一中隊※手島大尉の隊

  ヲ犯スヤ第一旅團ノ兵ハ木下中尉一小隊(第一聯隊第一大隊第一中隊)ヲ

  以テ先ツ之ニ當リ林少尉試補(從順)ハ其一半隊ヲ宮地村ニ野村少尉試補

  ハ一半隊ヲ猫谷山ノ前面ナル丘阜ヲ下リ其麓ニ撒布シ共ニ兵ヲ交ヘタリ午

  後賊勢愈〃熾ニシテ古麓ノ地形素ヨリ我ニ不利ナルヲ以テ退テ宮地ノ一半

  隊ニ合シ防戰尤モ勉メタリ(一ニ曰ク退テ球摩川堤上ノ兵ニ合ス林ハ猶ホ

  宮地ニ在リ依然トシテ動カスト※手島の記述はこちらの方である)夜ニ入

  テ山地中佐ノ指揮ニ由リ進擊櫻馬塲ニ至ル賊遂ニ敗レ退ク乃チ直チニ胸壁

  ヲ堤上ニ築キ以テ防禦線ヲ定メ固守ス賊敢テ近ツカス後(十七日)俘虜ノ

  言ニ據レハ別府晋助是日ノ戰ニ傷ケリト云フ(「戰記稿」)

 13日の官軍は418人、薩軍はおよそ千人だった。官軍の死傷は戦死4人、戦傷25人で、失踪1人だった。戦闘後、山縣参軍は新たに四個中隊と警視隊300人を派遣している。その警視隊は龍ケ峯西麓の興善寺村に哨兵を配置した(「西南戰鬪日注並附録」一)。

翌十四日於仝処終日防戦ス此日午后第一時頃大隊長古川少佐第二第四中隊ヲ引率シテ八代ニ到着ス即チ山本大尉一中隊ト持口交代シ午後第四時八代ニ休憩ス

 本日衝背ノ全軍熊本城ニ連絡セリト云フ

 14日、龍ケ峯では西側の麓にある東川田村・明神山に官軍が進み山腹上方の薩軍と交戦した後、両軍とも峯から退いている。球磨川方面では薩軍が川の両側、八代平野の東側山地に連なって存在し続けていた。北は龍ケ峯から宮地に、南は遥拝山等、市街地南側の球磨川南岸を占めていた。北方では南種山の井取越という不明場所を占め、西方の宮原を圧迫していた。

 14日の官軍は1,229人に増え、戦死2人・戦傷9人だった。本戦記には15日の記述はない。戦闘がなかったのではないが。官軍は13日に古麓から300m位西側に後退して守ったが、この状態が15日も続いている。 

   四月十六日

晴ル明日進擊ノ内約アリ午後第一時越智軍曹ヲ宮ノ原ニ差役ス

午後第二中隊ハ哨兵ヲ交代シテ萩原村ニ引揚ク

 16日、薩軍は二千人余りになっていたので官軍の倍近い人数である。官軍は翌日大進撃を行なおうと準備していた。

   四月十七日

拂暁大進擊アリ画策宜シキヲ得官軍大勝利午后第七時止戦傷者合テ四十八名ナリ悉ク萩原村ニ引揚休憩ス

第四中隊ノ本日川床山ニ戦フヤ我弾薬ヲ輸送スルモノ沼道賊弾ノ来ルヲ恐レ之ヲ山上ニ輸サス

賊勢猖獗頗ル苦戦ニ渉リ弾丸殆ント尽ントス古川少佐従僕與太郎常ニ水瓶ヲ携ヘ従フ於是命シテ銃弾ヲ取リ来ラシム與太郎命ヲ受ケ難色アリ單独山下ニ走リ自ラ一筐ヲ荷フテ至ル自余ノ夫卒之ニ励マサレテ逐次之ヲ輸ス遂ニ戦捷ヲ奏スルニ至ル此與太郎戦塲ニ出テ飛丸ノ間ヲ過キリテ恐レズ團隊傳ヘテ賞揚スルニ至ル

茨木中佐ヨリ軍曹某ヲ差遣シ近况ヲ問ハル

本日伍長坂松五郎仝井口勝男ヲ軍曹ニ任ス

 12日以来の薩軍の第二次攻撃は17日、官軍の反撃によって終了した。

17日の「戰記稿」によると萩原方面にいた官軍の計画は「密ニ萩原ヲ出、向坂ヨリ繞テ古麓前面ノ賊壘ニ當ル」とあり、意味するところは古麓の東側にある山地の薩軍を側面あるいは背面から攻撃しようとするものだった。先述のように向坂は竜峰山(龍ケ峯)の東斜面の谷にある坂谷という集落のことである。西側から龍ケ峯に登り、敵を撃破して南側の古麓に迫ろうとする計画だった。

 萩原から手島大尉の第一中隊・有馬大尉の第四中隊が出発し向坂に達したとき、遭遇した敵の哨兵を倒して坂の下で開戦し、敵を退けて坂の上に達した。同じく向坂まで同行していた大川大尉の第二中隊は山に登らず谷を南方の川床まで進んだ。敵百余人は蜘蛛の子を散らすように逃げたので、川床に放火し敵の輜重を焼いた。児玉大尉の第四中隊は向坂の谷の左、南側を上り頂上の尾根を南下し、川床山上の薩軍と二時間ほど戦った。この時、宮原から進んだ青木大尉の中隊の半分は猫谷道に備えるため向坂(坂谷)に留まった。残り半分は初めから龍ケ峯の西側を南下し、東川田から龍ケ峯に登り、川床山薩軍を背後から攻撃している(次に掲げる青木報告は東川田経由部隊には触れていない)。その後、薩軍を破った官軍は古麓東側の山から古麓の薩軍を攻め、萩原の官軍も呼応して挟撃し、薩軍球磨川流域北岸の小川集落まで退却した。官軍はそれを追い、薩軍はさらに上流に退却し、以後八代に対する薩軍の攻撃は行われなかった。

 この日の官軍戦死者は20人、戦傷者は68人だった。宮崎八郎の書が入っていたのかも知れない辺見十郎太のカバンを分捕っている。下は茨木聯隊長による17日の戦闘報告表である。ここに逸見十郎(辺見十郎太だが)のカバンのことが出てくる。小川で分捕ったのなら宮崎の書(日記とされる)は入ってなかっただろう。次に拡大して示す。f:id:goldenempire:20210607201406j:plain

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 これとは別になるが、13日に宮原から興善寺村に派遣されていた警視隊も進んで「イトリ越ヲ擊チ四方谷ニ至ル賊迂回シテ我左翼ヲ襲うフ交戰五時ニ至リ未タ决セス西川田村ニ退キ哨兵線ヲ張リ守備ス」という状態だった(前掲「日注」)。

 下記は、4月11日に宇土から宮原に出張して以来宮原周辺にいたと思われる青木大尉(第四聨隊第二大隊第三中隊長青木秀三)の17日に関する報告である。古麓東側山地の薩軍を攻撃するため龍ケ峯の東側を迂回し、峯上に進んで、南下進撃するためだった。

  本月十七日午前第四時當中隊之内二小隊平野村及ヒ布施峠(※場所不明)

  迠繰出シ候處図ラス敵ノ斥候ヲ見認乄候ニ付直チニ同處ヘ散布致候然ルニ

  賊忽チ潰散候依テ厳ク進軍北クルヲ追ヒ新開村重見村屋形ケ原村(※館原

  という集落が重見の南西側にある)通過シ山谿ヲ攀リ臥蜂木峠ヨリ谷川越

  (※この二ヶ所は不明だが図では推定地を示す)ニ至リ第一旅團第一聯隊

  第一大隊第三中隊ト合シ龍ケ峯裏ヲ通リ川原村瀬戸石川床村迠進軍ヱンヒ

  ール銃一挺胴乱一個分取シ向坂ヲ経テ古麓迠繰込午後第七時宮ノ原駅ヘ引

  揚隊中死傷無之此段御届申上候也

 

   十年四月十九日  青木大尉印

 

    黒川大佐殿 

   青木大尉の報告は彼の中隊の半分に関するものであり、「戰記稿」によると残り半分は竜峰山の西側を南下し、東川田から竜峰山に登って参戦しているが、これには記されていない。 戦記の第一大隊は球磨川下流域の萩原周辺から上記部隊は竜峰山(龍ケ峯)の東麓を進行しており、官軍守備地域の東部外縁が分かる(下図)。

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   四月十八日

昨日戦争后賊敗退近地ニアラス全隊八代ニ引揚休憩スベキ命アリ午前第九時八代ニ至ル

近日戦状ノ概略ヲ報告スルヿ左ノ如シ

十五日正午第十二時全隊八代ニ至ル山地中佐ヨリ部署ヲ受ケ第三中隊ヲ以テ宮ノ原ニ派遣ス其他ハ夜ヨリ宮地近傍大哨兵ニ充ラル賊兵ハ球磨川ノ左右山手ニ占陣シ其右ハ龍ケ峰ヨリ川床宮地古麓等山脉ニ其左ハ川ヲ隔テヨウハイ山ノ麓ヨリ下テ村落川堤等ニ拠ル皆ナ要地ニ拠就シ十分我ヲ展眸シ防禦甚タ利ナラス凡古麓ヲ以テ中央正面トス惣勢凡千余人小川ヲ以テ本拠トナスト云フ我大哨兵タル賊兵ニ近接スル凡二百米突砲擊常ニ絶エス自ラ戦鬥隊次ヲナス此夜第二中隊第四中隊兵卒二名ヲ傷ク(第一中隊ハ是日ヨリ八代ニ休憩ス)十六日午後第四時我大隊(第二第四)ハ交代シテ萩原ニ休憩ス明日進擊ノ内約束アリ左ノ如シ

 第一古川少佐引率ノ兵二中隊ヲ以テ猫谷ノ左方ヨリ迂廻シ進ミ古麓ノ正面ヲ

  目的トナシテ進擊ス第二月岡中尉指揮スル一中隊ヲ以テ隈川ヲ渉リ川南方

  ノ賊ニ當リ進擊ス

 第三手島大尉伊藤中尉ノ指揮スル二中隊ヲ古麓ノ正面ヲ衝ク

  但シ此二中隊ノ進擊ハ古川少佐指揮ノ二中隊迂回シテ進入スルヲ見レハ進

  軍喇叭ヲ吹奏セシメ進擊ス

 第四田邉中尉ノ一中隊ヲ萩原ノ近傍ニ置くキ援隊ト為ス

 第五左翼ニアル警視隊一小隊モ前面(則チ古麓)ト共ニ正面ノ賊ニ當ル

  但シ外警視隊ハ隈川渕ヲ守衛ナサシムルト𧈧ノモ時機ニ依リ月岡中尉ノ進軍

  ニ依リ該隊ノ應援ト為ス

 岡中尉ノ中隊ハ宮ノ原ヲ発シ山手猫谷越等ノ賊ニ當リ側面ヨリ進ム

十七日午前第四時第二中隊第四中隊ハ萩原ヨリ第三中隊ハ宮ノ原ヨリ皆賊ノ右側面ヲ目的トス第二第四中隊ハ枚ヲ啣テ向坂ニ向フ先捜兵直ニ坂下ニ開戦シ吶喊シテ進ミ賊ヲ山上ニ追ヒ登ル第二中隊ハ先ツ賊ヲ尾シテ川床ニ至ル(此ノキ左小隊ハ坂ノ右方ヨリ道ヲ隔テ左方川床山頃ノ賊ヲ砲擊ス)賊不意ヲ打レ狼狽シテ四方ニ散ス凡百余人且仝処ニ輜重及ヒ中隊ノ本処ヲ置ク叓急ナルヲ以テ之ニ放火シ亦坂上ニ會ス此ノキ生捕二名アリ第四中隊ハ一小隊半ヲ坂ノ左方川床山頃賊ニ迫ル賊勢猖獗戦凡ソ二時間敵合凡十余歩接戦ヲナスモノ夛シ賊遂ニ破レ兵器ヲ捨テ走ル分捕銃器最モ夛シ賊数名ヲ殺ス此時第二中隊ノ半小隊モ撒兵線ニ増加セシメ共ニ戦フ死傷二十九名(第二中隊即死六名傷六名第四中隊即死三名傷十四名)適々第三中隊モ(右小隊ハ坂谷ニ止メ猫谷道ヲ壓ス)一小隊ヲ以テ龍峰ヲ越テ来ル賊腹背兵ヲ受ケ散々ニ破ル是ヨリ先第四中隊ノ半隊ハ右轉シテ宮地山ニ進ム亦タ第二中隊ノ一小隊半ヲ進マシメ各々賊ヲ破テ古麓及ヒ山上ニ出ツ(此ノキ第二中隊傷者六名)此時生捕三名賊ヲ殺スヿ亦多シ此際第一中隊ハ正面ヨリ進擊シテ戦ヒ最モ烈シ賊ヲ斬ルヿ四十余追テ古麓ニ至ル(此ノキ木下中尉傷ク都テ銃鎗ヲ以テ接戦スルヿ多シ)我兵死傷十有三名(即死二名傷十一名)於是賊兵都テ山上ニ隠レ暫時休戦ス凡第十一時ナリ更ニ古麓ニ於テ軍議アリ亦小川袈裟堂ヲ目的トシテ山上ノ賊ヲ拂フ賊丸尾山辺ノ山脉ニ伏ス我第二中隊ハ古麓山ノ上ヨリ第三第四中隊ハ上宮山袈裟堂道ヨリ午后第一時第二中隊開戦ス仝中隊ハ續テ虚擊ヲナサシメ此際第一中隊一ノ谷ヨリ潜行シテ攀登シ賊ノ右側ヲ打ツ諸道ノ兵皆機ニ投シ賊大敗ス追テ本道及ヒ小川ニ出テ賊ヲ打ツヿ最モ夛シ分捕大砲二門銃器弾薬等積テ堆ヲナス弾薬等ハ之ヲ輸ノ暇ナク川中ニ投ス午後第七時止戦皆ナ萩原ニ引揚ケ小川古田等ハ放火シテ帰ル此日正面ノ部中第一中隊ヲ以テ先登第一トス其余林西山両少尉試補等手ニ賊ヲ斬ルヿ数名我兵死傷合テ四十八名(即死十一名傷三十七名)賊斬獲枚據ニ堪エス実ニ近来ノ大快戦ナリ

 別働隊第一旅団歩兵第一聯隊第一大隊長

 明治十年四月    陸軍少佐古川氏潔 

 話は前後してしまったが、17日の経過は先述の通りである。

     四月十九日

此日無事

   四月二十日

我大隊宮ノ原守衛ヲ命セラル午前第十時八代ヲ発シ午后第五時宮ノ原ニ着ス即時南種山ヘ第四中隊ヲ派遣シ大哨兵ヲナサシム

 南種山は人吉への通路上に位置するので、薩軍の三回目の攻勢を警戒しての配備で5月段階には人吉攻略のために人吉盆地の周辺から官軍は分進することになるが、その時、種山道と呼ばれた起点がこの種山である。

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   四月二十一日

南種山大哨兵ヲ第一中隊ト交代セシム衝背軍ノ熊本城ニ連絡スルヤ賊軍ハ収テ矢部地方ニ退キシニ昨日ニ至リ気焰熾ニシテ再ヒ御舩竹宮等ニ突出シ来リ戦争盛ナリシニ今暁第四時遂ニ敗退セリト云フ

    四月二十二日

南種山大哨兵ヲ進テ畑中ニ移ス第二中隊ヲシテ大哨兵トナス

 南種山の東約600m、氷川の上流南岸に畑中はある。3月25日部分の地図を参照願いたい。

    四月二十三日

畑中大哨兵交代トシテ第三中隊ヲ派遣ス

午後内旨アリ我旅團ヲシテ鹿児嶋ニ進軍セシメラルヽト依頼テ其凖備ヲナス尋テ命アリ明廿四日ヲ以テ團隊松𣘺ヘ引揚ヘシ云々

    別働第一旅団の六個大隊はこの日鹿児島に向かうことに決まった。「戰記稿」では22日に命ぜられたとある。

    四月二十四日

午前第六時宮ノ原出発仝第十時松𣘺ヘ着ス

第三中隊ハ直ニ哨所ヨリシ午後第二時松𣘺ニ来ル命アリ我旅團ハ海路ヨリ鹿児嶋ヘ出張スベシト明日ヲ以テ松合沖ヨリ乗舩スルノ約束タリ此日伍長藤田一林山田豊政髙柳義央ヲ軍曹ニ任ス而乄隊附皆故ノ如シ

    四月二十五日

乗艦ノ凖備ヲシ各中隊ハ午食終テ松合ニ趣キ夫ヨリ端舟ニ移リ滊舩九州丸ニ乗艦ス聯隊大隊ノ本部及第二大隊ノ壱中隊モ仝艦セリ夜半漸ク終ル

    四月二十六日

午前第五時拔錨波穏ナリ一時三里半ヲ駛スルト云フ

    四月二十七日

午前第五時鹿児嶋湾ニ投錨ス仝十時ヨリ上陸ヲ始ム第三時兵隊ハ上陸ス適風波起リ端舟ヲ出スヿ能ハズ為ニ輜重ハ明日ノ輸送ニ譲ル

第一第四中隊ヲ大哨兵トナス市街ト武士街トヲ境界トセラルト云フ我持塲ハ元勘定所前ヨリ石燈籠通リヲ海岸ニ至ル都テ穏ナリ大隊本部ハ金生町ニ置ク

當市街ノ景况平穏ニシテ商佔其業ニ安シ幼童学校ニ遊フ兵隊ノ上陸スルニ及テ人民美飾シテ縦観スルモノアリタリ

 「戰記稿」では27日、別働第一旅団に増補として別働第五旅団の歩兵二大隊と教導団近衛砲工兵が加えられた。また、27日には田邊中佐率いる別働第三旅団が鹿児島市に上陸し、鹿児島湾北部沿岸の巡視を始めている。

 茨木中佐・古川・永田両少佐の隊は3月17日に別働第一旅団第一聯隊に改称され、配兵位置は「照國神社ヨリ日置馬塲ヲ通シテ松原神社ノ海岸ニ」とあり、第二聯隊(黒木中佐、坂井・井上両少佐)は「麑島城山一帯」である。

    四月二十八日

本日宿陣ヲ元勘定所ニ移ス

大哨兵ノ左翼ヲ墓ノ辺ニ張出ス第二第三中隊ヲ大哨トナス夜間ハ援隊ヲ第二大隊ヨリ出ス夜更ニ戒厳ノ令アリ第四中隊ヨリ壱小隊ヲ髙見馬塲ニ出ス而乄平穏ナリ

 「戰記稿」によると茨木・古川・永田各中佐の配兵位置は「照國神社ヨリ日馬塲ヲ通シテ松原神社ノ海岸ニ」とある。官軍全体の中では西部を担当する形である。

    四月二十九日

本日第二大隊ヨリ大哨ヲナス 

第一中隊ヲ参軍本営及ヒ旅團本陣ノ衛兵ニ充テラル大哨線ハ壱大隊宛受持ノ筈ニ决セラル

聯隊本部及ヒ大隊本部ヲ英語學校ニ移ス

    四月三十日

大哨兵第二第四中隊出張ス夜間第一第三中隊ヲ援隊トナス

谿山郷ノ内中村辺ヘ第三中隊行軍ス旅團ノ命令ニ依ル参謀吉田大尉附属ス其地方ニ硝石等貯アリ已ニ巡査隊ノ者千行収容ノ手配タルヲ以テ帰陣ス

勝見村ノ士族三十名余旧知事ノ護衛ト号シ哨線ニ来ル参謀部ノ指揮ニ依リ線外ニ退ク 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歩兵第七聯隊第一大隊西南戦記綴(3月)

はじめに

 アジ歴にある史料を読んでみようと思う。活字化されてない史料だがペン書きの読みやすい字で書かれている。これは石川県金沢市金沢城内にあった名古屋鎮台金沢営所の部隊の西南戦争時の戦記である。名古屋鎮台は名古屋に第六聯隊、金沢に第七聯隊が分かれて存在していた。

 第1図は左が簿冊の表紙、右が本文である。本文はすべてこの書体で書かれているので、誤読の可能性が小さいことを理解頂けると思うので、以下の本文は掲げない。毎日の記述に続いて補足・解説を加えるやり方で進めたい。原文で二段書きしてる部分はここではそのように表記できないので( )に入れて示す。ヿ=事・ノモ=ども・乄=してはそのままにし、ホ=等だけは等に改めた。原文で字の上から線を引いて見え消しし、上部に字を加えているのもここでは表現できないので上部の字を( )に入れる。アジ歴の原文を見たい場合はアジ歴を開いてレファレンス番号C13080000200を入力し閲覧を選べば閲覧できる。C13080000200「歩兵第七聯隊第一大隊 西南戦記綴 明治一〇、三、一―八、八」(防衛省防衛研究所蔵)が本戦記の名称である。

 この戦記はNo.1からNo.9に分けて閲覧できるようになっており、1と2は3月の記録、3は4月の記録、4は5月の記録、5は6月の記録、6は「明治十年三月 戰記綴 第一大隊」の表紙、7は戦闘次第書で戦闘があった日に限る記述、8は勲功者、9は1の下書きのような文書である。

 月毎に読んでいくことにし、8の勲功者や9の下書きは扱わないでおこうと思う。

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             簿冊の表紙・本文の状態

3月の行動

    明治十年三月一日

名古屋鎭臺ヨリ命アリ我歩兵第七聯隊第一大隊ヲ大坂表ニ出張スヘシト聯隊長亦令シテ翌二日ヲ以テ行ヲ脩メシム是ヨリ先キ鹿児島縣士西郷隆盛桐野利秋篠原国幹等衆ヲ卒ヒ兵器ヲ弄シ熊本縣下ニ乱入シテ(此書大隊ノ記事ナルヲ以テ強テ他ノ事由ヲ舉ケス以下仝シ)二月二十一日臺兵ヲ熊本城ニ囲ム已ニ二月十九日ヲ以テ詔シテ征討ノ命ヲ下サル是ニ至テ我大隊此命アリ蓋シ以テ待ツヿアルナリ故ニ行装最モ急速ヲ要シ下士兵卒ノ行軍ニ堪ヘガタキモノ十九名ヲ營所ニ残シ少尉神代清之進ヲシテ宿割士官トナシ下士二名ヲ従ヘ即発セシメ亦第四中隊ノ左小隊ヲシテ本隊ニ後ルヽトコロノ輜重護衛タラシム計官亦之ニ属ス則軍装ヲ命スルモノ左ノ如シ

 

此夜永井曹長大坂ヨリ鳥尾中将ノ命ヲ含テ来リ亦急進ヲ催ス

      三月二日

天晴ル午前第三時三十分搭營隊ヲシテ先ツ発セシム大隊ハ聯隊長ノ命ヲ以テ仝五時二十分整列塲ニ整列ス大隊長陸軍少佐古川氏潔副官陸軍中尉石川昌世医官陸軍々医小泉親正計官陸軍々吏補髙柳信昌第一中隊長陸軍大尉手嶋孝基仝隊附陸軍中尉木下勝知仝少尉永田政義仝試補林従須第二中隊長陸軍大尉大川矩文仝隊附陸軍少尉吉田鐘吉中川千寿尋仝試補桐渕直第三中隊長陸軍大尉上田速実仝隊附陸軍中尉岡先仞仝少尉神代清之進仝試補吉弘鑑徳内山功第四中隊長陸軍大尉児玉通良仝隊附陸軍中尉有馬純一仝試補島村友直渡辺奏助下士兵卒看病人卒等合テ六百七十二名其整頓ヲ告クルヤ聯隊長自ラ検閲ヲナスヿ式ノ如シ終テ直ニ行進ヲ始ム寒天途頭甚タ悪シク午後第四時小松駅ノ舎營ニ着ク此日患者殊ニ少シ 

 聯隊所在地である金沢城の南西約26㎞に小松がある。

      三月三日

午前第六時発程暁天ヨリ降雪終日止マス路頭亦甚タ泥濘ナリ闔隊大イニ疲勞ノ色アリ午後第七時金津駅ノ舎營ニ着ク患者合テ三十名又靴傷ニ罹ルモノ頗ル夛ク午後便冝草鞋ヲ用ユルヲ許ス此日第四中隊ノ第三半隊ハヲ卒ユ(有馬中尉之)小松駅ニ次ス 

 金津は2004年から「あわら市」となった。小松の南西30㎞。当時はまだ鉄道線路はなく、駅とは街道の中で宿ることのできた設備のある所をいう。次スとは、やど(宿)す。行軍二日目にしてワラジに替えたものが30人ということは、軍靴の品質も悪かったのだろう。

      三月四日

午前第六時発程終日曇天路傍ノ積雪二尺有余近日ニ比シテ稍暖ナリ午後第七時十分鯖江駅ノ舎營ニ着ク此日台四中隊附陸軍少尉村山政明戸山學校ヨリ復隊今朝ヲ以テ本隊ニ加列ス患者合テ九十五名第四中隊ノ第三半隊ハ大聖寺ニ仝第四半隊及ヒ補之ヲ卒ユ(渡辺少尉試)會計一行ハ小松駅ニ次ス 

 金津から鯖江まで約30㎞。

      三月五日

午前第六時発程終日降雨路次甚タ悪シ午後今庄駅ニ舎營ニ着ク患者合テ百三十五名ナリ此日台四中隊ノ第三半隊ハ舟橋駅ニ第四半隊及ヒ會計一行ハ大聖寺ニ次ス

 鯖江から今庄まで約21㎞。患者とは具合の悪くなった者をいう。

      三月六日

午前第六時出発午前降雨而午後晴ル北陸ノ咽喉木芽嶺ニ掛ル山路最モ﨑嶇タリ積雪五尺余一陣ノ寒風来ル毎ニ枝葉ノ雪ハ散シテ烟ノ如ク馬ハ四蹄ヲ埋テ嘶キ進マス行甚タ艱難ヲ極ムト𧈧ノモ滿目ノ風色実ニ爽快餘情雪ヲ掬シテ行歩ヲ慰シ近日ニ比シテ却テ行進ヲシテ速ナラシム嶺ヲ下ル二里ニシテ通路平坦ナリ遂ニ路傍一塊ノ雪タニ見ス午後第一時十分敦賀駅ノ舎營ニ着ク患者合百四十五名ナリ此日第四中隊ノ第三半隊ハ武生駅ニ第四半隊及ヒ會計一行ハ舟𣘺役ニ次ス 

 木ノ芽峠は標高625m位。今庄から敦賀まで約21㎞。前日の病人135人も行軍したのだろう。恢復した人もいるだろうし、新たに悪くなった人を加えて本日は患者が145人となった。

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金沢営所から神戸までの行程と日時(以降もアジ歴以外の地図はカシミール3D使用)

      三月七日

午前第六時発程終日晴天疋田ヲ経テ深坂峠ニ掛ル山路嶮ナリ積雪二尺午後第一時塩津駅ニ着ク湖口ニ滊舩四艘ヲ艤シ以テ本隊ノ至ルヲ待ツ大休憩終テ乗舩大隊本部及第一中隊ヲ江州丸ニ第二中隊ヲ丹頂丸ニ第三中隊ヲ以呂波丸ニ第四中隊ヲ明進丸ニ午後第三時十分拔錨湖上風波烈シ一時三里ヲ馳ス江州丸及ヒ明進丸ハ午後第八時十分大津ニ着ス着岸前丹頂丸以呂波丸ト相後ル後ニ云フ丹頂丸ハ片田ノ洲上ニ乗リ上ケ急ヲ報スルニ依リ以呂波丸ハ針路ヲ轉シテ之ヲ救フ而乄力及ハス止ヲ得スシテ大津ニ駛リ曩ニ着スル所ノ二舩ヲ遣リ悉ク之ニ移シ乗セ夜二時着駛ス馬ハ東シ東海道ヲ経テ陸地ヲ行カシム此日第四中隊ノ第三半隊ハ今庄駅ニ第四半隊及ヒ會計一行ハ武生駅ニ次ス 

 深坂峠は標高約360m。敦賀から塩津まで約16㎞、さらに琵琶湖を63㎞縦断し大津着。馬が東に向かって陸を行ったというのは、弾薬箱その他を琵琶湖岸の東回りで運んだということだろう。琵琶湖では明治7年には15隻の木造汽船が就航しており、江州丸はこの年2月に建造されたばかりの64トンの木造汽船だった(ネット情報「びわ湖鉄道歴史研究会湖上連絡運輸の歴史研究」)。

      三月八日

午前第七時発程天晴ル西京七條ノ停車塲ヨリ半大隊宛両度ニ乗車各一時三十分間ニシテ梅田ノ停車塲ニ達ス大坂鎮臺ノ命ニ依リ第三營ニ着營ス午後第五時ナリ司令長官四條少将大坂鎮臺々下警備向委任被仰付タル旨布達アリ此日第四中隊ノ第三半隊ハ敦賀駅ニ第四半隊及ヒ會計一行ハ今庄駅ニ次ス亦第三中隊長上田大尉吐血症ニ罹リ入院セリ 

 朝、大津を出発したのだろう。大津から七条ノ停車塲まで約11km。七条ノ停車塲とは京都駅のことで、この年2月に開業したばかりだった。七条停車場から梅田まで約43km。※下の写真は「むかしもん文庫」さんが複製した七条停車場の葉書。

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       三月九日

我大隊大坂衛戍ノ勤務ニ服ス四條少将ノ大坂警備ヲ任セラヽルヤ名古屋鎮臺ノ幕僚ヲ率ヒ事務所ヲ鎮臺ノ中ニ設置セラル我大隊亦総テ少将ノ指揮ニ属ス此日第四中隊ノ第三半隊ハ湖上ヲ航シ大津駅ニ第四半隊及會計一行ハ敦賀駅ニ次ス而我大隊戦地出張ノ内命アリシヨリ有馬渡辺ノ両尉及會計官ニ電報シ護送ノ弾薬ハ大津營所ニ収藏セシメ速ニ本隊ニ合スベキヲ命ズ

       三月十日

我大隊ノ携銃ミニヘールヲ引換ヘスナイードルヲ携ヘシム第四中隊ノ第三半隊ハ此日第三營ニ着ス第四半隊及ヒ會計官ハ大津駅ニ次ス  

そういえば、小倉営所の鎮台兵も熊本に行く途中でスナイドル銃に変更していた。

       三月十一日

名古屋鎮臺令シテ我大隊ノ三中隊ヲ神戸ニ繰込シメ其第三中隊ヲ以テ神戸守衛ニ充テ第四中隊ハ尚ホ坂地ニ屯在セシム故ニ病兵ノ従軍シ難キモノ五名ヲ送院ス午後第五時十五分仝三十分ト両度ニ乗車各一時十分間ニシテ神戸ニ達シ右半大隊ハ滋野中佐ノ約束ヲ受クヘキ命ナルヲ以テ本港ノ陸軍参謀部ニ届出タリ此日第四中隊ノ第四半隊ハ中隊ニ會計一行ハ本隊ニ合ス

       三月十二日

夜半第三中隊長代理岡中尉来リ云フ我第一大隊ヲ以テ長﨑出張ヲ命セラル故ニ該隊神戸守衛ヲ解カルヽノ電報名古屋鎮臺ヨリ達セリト而乄本隊ハ未タ何等ノ命ヲ得ス

       三月十三日

征討総督本營ヨリ我大隊ノ右半大隊ヲ征討別働第二旅團ヘ編入セラルヽノ命ヲ得タリ即時乗舩ノ凖備ヲナス先ツ長﨑港ニ到ルヘキノ口達アリ参謀部諸員ト午後第七時三十分三菱郵舩社寮丸ニ駕ス仝八時拔錨海上風波穏ナリ播摩洋ヲ航ス一時四里ヲスルト云フ此日第三中隊ハ神戸港守衛ノ如シ第四中隊ハ大坂ヨリ神戸ニ繰込午前第九時ヲ以テ至ル亦征討従軍ノ大隊本部及ヒ二中隊出発スルヲ以テ四條少将ニ電報ス 

 別働第二旅団編入を命じられた時刻は記さないが、「即時乗舩ノ凖備」をして神戸港で19時半に乗船している、二時間程前に命じられたものか。社寮丸とは、明治7年の台湾出兵の際に兵員輸送用に米国商船シャフツボリー号324トン・長さ60.9mを買収し、台湾征討の関係で台湾の港である社寮に因んで名付けたもの。

      三月十四日

午前第八時讃岐夛度津ニ投錨ス是ニ於テ第十三聯隊ノ中一中隊仝シク別働隊ニ編入セラルヽヲ以テ該隊ノ乗舩ヲ待ツ午後三時四十分拔錨水島洋ヲ航ス風波穏ナリ 

 島津久光への勅使を護衛して鹿児島に行き、用務終了後に鹿児島から13日に長崎に入港していた黒田清隆中将は、14日征討参軍に任命されている。当時熊本城に籠城していた第十三聯隊が別働第二旅団に編入するというのは間違いか。

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               先頭部隊の行程・航路

       三月十五日

周防洋ヲ航ス午後第一時長門ノ下関ニ投錨ス砲廠部ヨリ弾薬銃器等ヲ積入ルト云フ髙柳軍吏補隊用ヲ以テ上陸ス仝九時拔錨此夜玄界洋ヲ航ス風波穏ナリ

       三月十六日

午後第四時二十分肥前長﨑港ニ着艦ス是ニ於テ搭營隊及ヒ前衛若干ヲ編制シ先ツ上陸セシム午後第五時悉ク浦五島町ノ舎營ニ着テ兵隊ヲ休憩セシムヘキノ口諭アリ竊ニ聞ク是ヨリ先キ参軍黒田中将髙島大佐ト別働隊ヲ此港ニ集合シ懸軍ヲ以テ賊軍ノ背後ヲ衝クノ策ヲ畫セラル是ニ於テ諸隊ノ港駐スルモノ凡ソ九中隊ナリト云フ

      三月十七日

旅團編制蓋シ成ル歩兵二聯隊ニ砲兵ヲ加ヘラルヽト云フ髙島大佐ヲ旅團長ニ岡沢少佐ヲ参謀官ニ茨木黒木ノ両中佐ヲ第一第二ノ聯隊長ニ而乄我大隊ハ二中隊ナルヲ以テ第十一聯隊第一大隊ノ第三中隊ヲ合シ第一聯隊第一大隊ト称セラレ茨木中佐ニ属ス 

 「征西戰記稿」によると衝背軍は17日に「是日賊背ニ出ルノ旅團ヲ名ケテ別働軍ト曰フ」とある。

       三月十八日

茨木聯隊長副官以上ヲ本部ニ會シ示諭アリ因ニ云フ別働隊ナルモノハ其任最モ重大ニシテ之ヲ使用スルニ當リ其難キ素ヨリ論ヲ俟タズ諸士官以下力ヲ協セ志ヲ一ニシテ目的ヲ達スヘキ也今示諭スル所亦豫メ期シ難シト𧈧ノモ各自戒飾セハ亦滿一ニ裨補アルヘシ而乄口諭最ノモ剴切ナリ先ツ道ヲ海路ニ取ルノ目的ナルヲ以テ上陸ノ手配ヲ議定セラルヽ左ノ如シ

゜背嚢携帯具ハ艦中ニ残シ置クヿ ゜弾薬百発宛携帯ノヿ ゜鞋足袋ハ附着ノ外ニ壱足宛携帯ノヿ ゜塩肉用意ノヿ

此日旧左半大隊ハ神戸ニアツテ出征別働第二旅團ヘ編入セラルト云フ 

 高島大佐は歩兵一大隊・警視隊700余人を率いて午前4時長崎港を出発し、19日午前6時過ぎ八代市街から直線距離11kmの日奈久の須口に上陸した。

        三月十九日

第一中隊兵卒二名第三中隊伍長壱名戦役ニ堪エ難キヲ以テ當港海軍仮病院ニ送ル此夜出征ノ乗舩割ヲ示サル聯隊本部及ヒ第二大隊ヲ社寮丸ニ第一大隊本部及ヒ第壱第二中隊ヲ赤龍丸ニ仝第三中隊及旅團本部附属軍医部ヲ浦丸ニ其時限ノ如キハ明日ノ命ニ依ルヲ以テ緩急速ニ整頓ヲ要ス云々此夜第四中隊附陸軍少尉試補渡辺奏助神戸ニヲイテ病没ス

 赤龍丸は西南戦争の発端となった鹿児島にある陸軍砲兵属廠の弾薬製造器械や弾薬を大阪に移送しようとした際に使用した船でもある。瓊浦丸は英国蒸気船モリエルを明治7年に買い取り、瓊浦(たまうら)丸と名付けたもの。

        三月二十日

正午十二時ヨリ乗舩スベキノ命アリ午后第二時悉皆乗舩ス此役也先ツ肥後国葦北郡日奈久ヲ目的トナスト云フ仝第二時五十五分拔錨天草下島ノ西南ヲ航ス駛行スルヿ壱里余ニシテ社寮瓊浦ノ両艦遥ニ我後ロナルヲ見ル須臾ニシテ我ニ先チ進ミ遂ニ形ヲ見サルニ至ル此日旧左半大隊ハ神戸ヲ発艦ス 

 衝背軍の内、赤龍丸・社寮丸・瓊浦丸は八代海に南西側から侵入したことが分かる。

      三月二十一日

午前第七時天草島ノ牛深ニ停舶ス社寮丸ハ已ニ拔錨スルヲ見ル瓊浦丸ハ亦我ヨリ後レ来ル髙柳軍吏補隊用ヲ以テ上陸ス諸舩皆ナ需要品ヲ此所ニ取ルト云フ仝九時十分拔錨天草下島ト長島トノ間ヲ航ス波甚髙シ午後第二時十分日奈久港ニ着艦ス我本隊ニ先ツ一日第二聯隊ハ軍艦ト共ニ此港ニ至ル賊ノ戌兵戦ヲ挑ム軍艦大砲ヲ放ツニ及ヒ辟易山林ニ遁逃シ尋テ上陸難ナク此地ヲ占領セリト云フ是ノ時ニ當ツテ賊軍熊本ヲ囲城シ木留山鹿ノ諸嶮ニ戦ヒ殺傷相當迭ニ勝敗アリト聞ケリ聯隊長ヨリ令アリ我第三中隊ヲ日奈久ニ留置其他ハ八代ニ進軍スベシト而乄陣ヲ距ルヿ二里余端舟便セズ風波亦烈シ先ツ社寮丸ヨリ上陸ヲ始夜ニ入ル午後第九時風強ク波髙シテ夜間舟ヲ揖シ得ス明朝ニ至ルヘキヲ以テ兵隊ヲ休憩セシムヘキノ命アリ

午後第十時二十五分鳳翔艦長ヨリ少尉試補粕谷精一ヲシテ参軍ノ旨ヲ奉シ諸艦ヲ地方ヘ近寄セシム命ニ應シ仝十時四十分拔錨一轉シテ進ミ仝十一時十五分陸ヲ距ル十丁余ニシテ投錨ス海底三尋ナリト云フ是ヨリ酒ヲ■ニ盛リ以テ舟子ヲ励シ陸續上陸ヲ始ム  

 一字不明。

     三月二十二日

晴天午前第八時四十五分悉皆上陸ス輜重遠用ノモノハ本艦ニ残シ置ケリ第三中隊ヲ此地ニ残シ午後第三時三十分八代ニ達ス我半大隊ノ至ルヤ第二大隊ノ二中隊ヲ宮ノ原ニ進軍セシメラル當八代ヲ距ル二里余此地ニ合戦アリ賊兵千余一昨日ノ戦ヒ甚苦難ナリト云フ午後第四時第一中隊ヨリ進軍セシムルノ命アリ未タ方向ヲ詳ニセス聯隊長牛嶋大尉ヲ召シテ示授セラル蓋シ向坂ヨリ川床小浦ノ間道ヲ経テ賊軍ノ迂回ヲ防キ進テ宮ノ原ニ會セシムルノ約束ナルベシ直ニ発進セシム第二中隊ハ風紀衛兵及ヒ宮ノ原ヘ弾薬ヲ護送ス各一分隊ヲ以テ之ニ充ツ

本縣士族八代ノ土人後藤基徳ナルモノヲ本部ニ召シテ當地ノ近况ヲ問フ二月中旬賊魁西郷隆盛兵千余ヲ率ヒテ此地ニ次ス其夜俄ニ道ヲ海路ニ取リ独リ熊本地方ニ趣ク壮士五六十人ヲシテ左右ヲ護セシメ傍人其面ヲ見ル能ハス其前夜旬日賊勢ノ通行スルモノ殆ント二萬ナラント云フ

八代士族夛シ熊本士族ノ賊ニ應スルヤ檄ヲ傳ヘテ之ヲ招ト𧈧モ能ク方向ヲ辯シ大義ヲ唱テ之ヲ却ク然レノモ弾丸ノ地ニ孤立シ勢ヒ累卵ノ如ク閉息シテ官軍ノ入ルヲ待ツノミ始メ有志輩鎮撫方ト号シ人民ヲ保護ス官軍ノ入ルヤ之ヲ警視部ニ属シ探偵及ヒ戦地ノ嚮導トナス周旋甚タ最メタリ午后第四(十)時折笠軍曹ヲシテ糧ヲ第一中隊送ラシム

本日命アリ左ノ如シ 下士卒ハ軍隊手帖ヲ必ス懐中スヘシ 八代ヲ出発スル各大隊ハ病室伍長ヲ残シ置ベシ 

 向坂は場所不明地名。後述するが坂谷が正しいようだ。川床・小浦・坂谷は龍ケ峯(現在の地図では竜峰山)の東側の細長い谷筋にあり、八代平野からは龍ケ峯の山脈があるため直視できない。

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           上陸した洲口から宇土半島南部

      三月二十三日

雨今朝折笠軍曹帰リ報シテ云フ昨夜第一中隊ノ糧ヲ少浦ニ輸致ス未タ沼道賊ノ処在ヲ見ス其小浦ニ潜伏スルモノハ官軍進擊ヲ聞キ遁レ走リタリ故ニ本日ハ宮ノ原ニ會合ナルベシト午後第六時三十分手嶋大尉ヨリ髙田伍長ヲシテ報告セシメテ曰ク黎明小浦ヨリ軍ヲ進メ赤越山ヲ過ク方サニ山蹊ヲ下ラントス茲ニ賊軍會戦シ小勢且弾薬ニ乏シ援兵及ヒ弾薬ヲ乞フ云々ナリ直ニ之ヲ旅團長ニ上申シ出援ノ命ヲ奉ス速ニ第二中隊ヲ勒シ将ニ発セントス更ニ鏡町口危嶮ノ報アリ轉シテ仝地ニ應援スヘキヲ再命セラル第八時四十分八代ヲ発ス途ニ傷者数夛ノ八代ニ帰ルヲ見ル仝第十一時二十五分鏡町ニ達ス是日當所ノ戦ヒ大勝利進擊一里余夜ニ至テ旧線ニ復ル適々點賊我左側面川尻ノ方ヨリ急襲シ来テ甚タ苦戦死傷頗ル夛シ殆ト敗兆アリタリト然レノモ漸ク戦面線ヲ回復シ事已ニ去ルト云フヲ以テ中隊ハ仝所ニ止メ進テ氷川ノ戦塲ニ至ル彼我両堤ヲ保持ス巨离凡四五丁余於是黒木中佐ニ面議シ命ヲ傳フ亦目今援助ヲ要スヘキ形勢ナキヲ以テ明朝ヲ待テ発途前ノ命令ヲ酌量シ臨機方向ヲ轉スヘキヲ約シ鏡町ニ帰リ次ル更ニ吉田少尉ヲ派遣シ中佐ノ許ニアラシメ以緩急ニ備フ

此日旧左半大隊ハ長﨑ニ着艦シ直ニ當八代エ発進ノ命ヲ拝スト云フ

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             宮ノ原と東側の関係地図

  23日、第七聯隊は宮ノ原の東にある南種山や立神山を攻撃し、結局南種山を占領した。この日の南種山攻撃については25日に茨木聯隊長が報告書を提出しており、すぐに読むことになるが25日の記事が詳しい。戦闘「征西戰記稿」では

  二十三日高島大佐ハ茨木隊長(第一聯)ヲ宮ノ原ニ遣リ該道ノ兵ヲ統轄セシ

  ム

  昨日坂谷ニ至リシ一中隊ハ北種山方面ノ偵察ヲ行ハントシ拂暁小浦村ヨリ

  進ミ將ニ赤浦越ニ抵ラントシ賊ニ谿間ニ會ヒ即チ開戰ス午前八時ナリ賊一

  タヒ潰走シ更ニ立神村ノ山頂ニ據リ射擊ス因テ南種山村ニ在ル一中隊大隊

  第三中隊(第一聯隊第二)ヲシテ迂路ヲ取リ之ニ向ハシム(略)

とあり、本戦記で向坂とあるのが坂谷に、赤越山とあるのが赤浦越となっている点以外は本戦記を基にしたように似ている。坂谷は竜峰山頂上の東800m付近の山腹に位置する集落である。ここから北東約2㎞に小浦地方がある。向坂という地名はこの辺りにはないし、誤記だろう。

 本戦記では触れていないがこの付近の戦いには警視隊も参加していた。参考になるので「征西戰記稿」の記事を掲げる。

  是日警視隊ハ午前第九時赤山及ヒ豐之内ノ哨線ニ在ル第一號ノ一番小隊第

  三號ノ三番小隊ヲ氷川ヲ渡リ立神山ノ賊ヲ擊ツ賊兵凡ソ五六百防戰甚タ力

  ム對戰シテ午後ニ至ルモ未タ拔ケス是ニ於テ其一番小隊長中島警部則(時)

  奮然衆ヲ勵マシテ進ム賊支ユル能ハス之ヲ追フ數丁中島遂ニ之ニ死ス又三

  番小隊ハ午後三時左半隊ヲ立神山ニ収メ哨兵ヲ排ス時ニ午後六時ナリ(略)

 ここに出てくる赤山と豐之内は氷川左岸で、宮ノ原の東方にある集落である。第七聯隊第一大隊の西側を担当したことになる。

    三月二十四日

黎明吉田少尉戦塲ヨリ帰テ異状ナキヲ報ス於是約ノ如ク方向ヲ轉シ第一中隊ニ合セント道ニ宮ノ原ヲ過ク茨木聯隊長ノ此地ニアルヲ以テ尚部署ヲ受ク

第一中隊ノ會戦スルヤ第二大隊ノ第三中隊ト賊ノ立神山ニ拠ルヲ合擊シ遂ニ之ヲ拂ヒ進テ北種山ニ進擊シ全勝ヲ得退テ南種山ヲ守ル村ト云フ(平野ノ部)則チ第二中隊ヲシテ其左方立神山ニ沿フテ第二大隊第三中隊ノ保守スル地部ヲ交換セシメ大隊本部ヲ立神村ニ置ク氷川ノ北側ニアリ 

 この日、第一聯隊は立神山を奪い、続いて北種山に進撃して奪った。戦線は氷川の北岸地域に北上した。3月17日の旅団編成により第七聯隊は衝背軍の第一聯隊に名称変更した。

      三月二十五日

晴ル午後大雨第一中隊本月二十三日戦状ノ概略ヲ報告スルヿ左ノ如シ

二十三日聯隊長ノ口達ヲ以テ第一中隊偵察巡廻ノ命アリ午后第五時三十分八ツ代ヲ発ス向坂ニ至ラント乄天将ニ暮ントス山腹隊ヲ止メテ休憩ス于時髙嶋大佐急進シテ諭旨ヲ授ケラル赤越山及ヒ平野村辺ヲ径過シテ途中賊兵ニ逢ハヽ速ニ擊破シテ明朝皈営スヘキ云々アリ尚進ンテ小浦村ニ至リ土民ヲ出シテ賊状ヲ探偵セシムルニ正シク宮ノ原ノ残賊赤越山辺ニ出没スルアリト依テ仝夜ハ小浦村ニ頓宿ス二十三日黎明更ニ軍ヲ進メテ赤越山ヲ過ク方ニ山蹊ニ下ラントス前衛木下中尉直ニ開戦ス午前第九時ナリ尚陸續應援ヲ出シテ擊戦ス後藤大尉ノ中隊ト相會ス賊立神山ニ拠テ砲発ス我軍猛烈ニ攻擊賊勢漸ク退ク午后第一時過キ砲声止ム然ルニ賊又迂廻シテ北種山ニ潜伏シ我背后尾擊セントスルノ兆候アリ再ヒ後藤大尉ト相議シテ之ヲ攻ム我カ軍南種山ノ平野村ニ拠ル賊ハ北種山ニ拠ル擊戦数時黄昏進擊ニ决ス若宮神社(※下図参照)ノ民家ニ放火ス烟炎山ニ登ル于時山上ニ進擊ス賊狼狽シテ退ク全勝ヲ得テ遂ニ兵ヲ整ヘ平野村ノ村落ニ防禦線ヲ計画ス午后斥候ヲ出シテ賊状ヲ探ルニ凡ソ二三百名程モ北種山ノ口上白谷辺ニ在リテ時々我カ動静ヲ窺フナリ當日ノ戦争ニ上下士官兵卒ノモ死傷ナシ然レノモ僅カニカスリ弾ニテ衣服ヲ打拔カレタルモノ三名アリ二十四日永田少佐ヲ以テ第一中隊更ニ平野村防禦線ヲ固守スヘキノ別命アリタリ

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             若宮神社

 別働第一旅團歩兵第一聯隊第一大隊長

 明治十年三月  陸軍少佐古川氏潔

今午後第八時大隊長ヲ聯隊本部ニ右シ明日大進擊ノ部署アリ我大隊ノ右翼南種山(第一中隊)ハ依然之ヲ保守シ第二中隊ノ左翼ヲ張テ進擊シ総軍ノ右翼部ハ小川ヲ目的トナスト云フ猥リニ違背進擊スルヲ許サス

此日午前旧藩大隊(山田川路両少将ノ旅團八代ニ上陸ス此半大隊モ其員中ニアリシナリ)ハ八代ニ上陸シ直ニ我大隊ニ編入セラル中隊番号故ノ如シ故ニ旧第十一聯隊第一大隊第三中隊ハ第二大隊ニ轉セラレタリ其左半大隊ハ宮ノ原ニ着次第一中隊ヲ明日此地ノ應援ニ差向ケラルヽ別命ヲ以聯隊長ヨリ傳ヘラル

 若宮神社の民家に放火したのは官軍である。官軍は薩軍に負けず劣らず盛んに放火した。本戦記では3月23日から25日までの進路上に様々な地名が登場する。向坂・立神山・赤越山・北種山・南種山などの場所がどこにあるのかを理解しなければ文書を読んだとしてもただ読んだだけで、内容が分かったということにはならない。

 3月23日の記述にある向坂が坂谷であることには触れた。向坂は4月の戦記にも登場するので、ここで場所が判明したのは好都合である。

 40年程前になるが、九州縦貫自動車道の事前発掘調査でスナイドル銃弾2点が出土した遺跡がある。立神ドトク遺跡である。氷川の北岸にあり、当時、自分は南岸の平原瓦窯跡発掘調査のアルバイト生活をしており、毎日麓から歩いて小山の上にある現場まで通い、一年前後も付近の現場の調査員たちと同じ民宿生活をしていた。一帯は戦跡だらけだったのに、当時は西南戦争のことなど頭の片隅にもなかったのが悔やまれる。

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   立神ドトク遺跡(九州縦貫自動車道建設前に発掘調査している)

 立神山という山は地図にはない。立神地区の山を立神山と呼んだのであろう。氷川の北側にあるのは確かだろう。しかし、この付近は特徴のない低い山が万遍なく分布しており、特定しづらい。ここは熊本県内でも有数の大型前方後円墳を含む野津古墳群の所在地でもある。古墳の上に陣地を築いたかもしれないが未確認である。立神山は第6図のように広範囲に想定しておこう。

 南種山の位置はどこか。3月24日の記事では南種山ヲ守ル村ト云フ(平野ノ部)とあり、25日の記事でも我カ軍南種山ノ平野村ニ拠ル賊ハ北種山ニ拠ルとあり、南種山が河俣川の左岸に位置する平野村にあるとしている。しかしこの表現だと南種山といわれる地域は広い範囲を指す言葉であって、平野村がその一部に含まれているとも受け取ることができる。つまり、平野村とは別に南種山の種山村があるとも受け取れる。という訳で河俣川下流域の両岸を意味する可能性がある。とにかく氷川の南岸地域にあるのは確かである。

 南種山が分かれば北種山は氷川の対岸、北岸であろう。24日記事には賊ノ立神山ニ拠ルヲ合擊シ遂ニ之ヲ拂ヒ進テ北種山ニ進擊シ全勝ヲ得退テ南種山ヲ守ル村ト云フ(平野ノ部)則チ第二中隊ヲシテ其左方立神山ニ沿フテからすると、西方の宮ノ原から攻めていった官軍が立神山を奪い、さらに東方の北種山に進んだと理解できる。北種山は候補地が二つある。もしくは両方がそう呼ばれた可能性もある。戦跡の分布調査をすれば結論を下せるかも知れない。

 赤越山とはどこか。二十三日戦状ノ概略によると「宮ノ原ノ残賊赤越山辺ニ出没スルアリト依テ仝夜ハ小浦村ニ頓宿ス二十三日黎明更ニ軍ヲ進メテ赤越山ヲ過ク方ニ山蹊ニ下ラントス」の部分に小浦村に頓宿したとあるのは谷間の集落に泊まったということか。さらに山谿に下ろうとしたとき、前衛部隊が開戦したという。

 次の記録は第二旅団聯隊長茨木惟昭中佐が提出した当日、3月23日の戦闘に関する報告表である。これによると、戦闘に参加したのは第一大隊の第一中隊と第二大隊の第二・第三中隊で総員は514人であり、薩軍は山手口(山の方)に約1,100人だった。戦闘地名の欄には「宮ノ原村ノ西北南谷立神阿弥陀寺越大野村赤越山立神山南北種山辺ニ於テ」とあり、戦闘ノ次第概略の欄には「午前第八時頃開戦正午十二時頃賊大敗午后第八時止戦」とある(C09085076900「明治十年三月☐ 戰鬪報告原稿 出征別働隊第一旅團」0046防衛省防衛研究所蔵)。

 茨木聯隊長はこれとは別に、次の報告も旅団司令長官に提出している(09085087200「明治十年三月☐ 戰鬪報告原稿 出征別働隊第一旅團」0046防衛省防衛研究所蔵)。

本日当聯隊第壱大隊第壱中隊第二大隊第二第三中隊戦闘概略不取敢左江報告致候也

   第壱聯隊長

 三月二十三日(十年)  陸軍中佐茨木維昭印

 

  陸軍大佐髙嶋鞆之助殿

 

第壱大隊第壱中隊大尉(手嶋)ハ黎明小浦村ヨリ發シ南種山ノ賊ヲ攻擊セント欲シ赤越山ノ谿間ニ於テ開戦ス賊ハ立神村ノ山頂ニ據リ發砲ス茲ニ於テ第二大隊第二中隊壱小隊(後藤大尉引卒)ト倶ニ立神村ニ向ヒ進擊ス賊要地ヲ占メ迂回セントスル色アリ直ニ我兵ハ早ク山頂ヨリ之レヲ横擊シ賊防キ不能シテ立神北種南種ノ三村民家ヲ放火シ北ルヲ逐ヒ終ニ立神村ノ山上要地ヲ占メタリ亦宮原口ニ在ル第二大隊第三中隊(加藤大尉)仝第二中隊壱小隊(大供中尉引卒)ハ宮原ノ山頂ノ巢窟ヲ拔キ頗ル劇戦シ賊大野山ニ北ル数塁ヲ乗取リ黄昏ニ至リ山上ノ要處ヲ占メ哨兵ヲ配布セリ本日ノ賊兵死傷夥シ亦隊中ニモ損セリ其人名等ハ逐而詳細戦闘報告表ヲ以テ申出スヘキナリ

 種山という集落が氷川の南岸にある。ここは南から来る河俣川との合流地点でもあり、河俣川の右岸に種山、左岸に平野の集落がある。茨木中佐の報告書には、南種山攻撃を目的に黎明に小浦村を出発したとある。

 同じ簿冊に前掲文書に酷似するものがある。異なる字句を指摘してみる。

  本日当聯隊第壱大隊第壱中隊第二大隊第二第三中隊戦闘概略不取敢左江報告致候也

   第壱聯隊長

   三月二十三日(十年)  陸軍中佐茨木維昭印

 

    陸軍大佐髙嶋鞆之助殿

 

  第壱大隊第壱中隊大尉(手嶋)ハ黎明小浦村ヨリ發シ南種山ノ賊ヲ攻擊セン

  ト欲シ赤越山ノ谿間ニ於テ開戦ス賊ハ立神村ノ山頂ニ據リ發砲ス茲ニ於テ

  第二大隊第二中隊壱小隊尉引卒(後藤大)ト倶ニ立神村ニ向ヒ進擊ス賊要

  地ヲ占メ迂回セントスル色アリ直ニ我兵ハ早ク山頂ヨリ之レヲ横擊シ賊防

  キ不能シテ立神北種南種ノ三村民家ヲ放火シ北ルヲ逐ヒ終ニ立神村ノ山上

  要地ヲ占メタリ亦宮原口ニ在ル第二大隊第三中隊大尉(加藤)仝第二中隊

  壱小隊尉引卒(大供中)ハ宮原ノ山頂ノ巢窟ヲ拔キ頗ル劇戦シ賊大野山ニ

  北ル数塁ヲ乗取リ黄昏ニ至リ山上ノ要處ヲ占メ哨兵ヲ配布セリ本日ノ賊兵

  死傷夥シ亦隊中ニモ損セリ其人名等ハ逐而詳細戦闘報告表ヲ以テ申出スヘ

  キナリ

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          報告書を筆写したと見られる文書

 この文書の頁番号は0302だが、その直前には3月26日までの死傷者一覧が記されているので、0302は23日に書かれたものではない。茨木の印がないし、提出報告書を後日書き写したものと考えられる。気になるのは提出した報告書では赤越山となっている地名が、ここでは赤山越となっている点である。実際、赤山という村落が平野の南西にあるので、この集落の東側に越える尾根を赤山越と呼んだに違いにない。したがって23日の戦記にある赤越山というのは間違いであろう。そうすると戦記が理解しやすくなる。筆写した人は地名の間違いに気付いたに違いないが、戦後、戦記を作成する段階では提出した方が反映されたのだろう。 なおこの件に関してはNo,9の戦闘次第書にも登場しているので、後の方の文書をここで取り上げると紛らわしいので、その際に検討したい。

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 衝背軍が作成した3月21日から23日の鏡町・宮原地図(下は正しい方位にし、

    一部分を拡大したもの)

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              官軍作製戦地地図 

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                 3月23日のまとめ

 宮原付近の戦闘は3月20日に始まっていた。鹿児島への勅使護衛兵だった高島鞆之助大佐の部隊は3月19日、八代南方の日奈久(ひなぐ)の洲口に上陸し(歩兵一大隊半と巡査700人)、20日には八代の北側にある氷川の南岸、宮原(みやのはる)と鏡村に進出し開戦した。薩軍は北方にあたる小川付近から氷川北岸に哨兵を配置し、宮原東方の複雑な丘陵地帯も占拠し、鏡村・宮原を奪おうとしていた。官軍は当初は兵数が少なく押され気味だった。

 立神山の南側、氷川の南岸の豊の内・油谷には21日に警視隊が哨兵を配置していた。第七聯隊第二大隊は3月22日に上陸後すぐに八代から宮原(みやのはる)に進み、氷川を挟んで北部の薩軍との対戦に参加していた。宮原の下流にある鏡村一帯は別の衝背軍が戦っていた。第一大隊が宮原付近の攻撃に到着したのは翌23日だった。

 第一大隊第一中隊は八代平野の東側の山脈竜峰山の東側中腹にある坂谷を黎明に出発し、小浦村を経て北上した。薩軍が八代の背後を迂回して市街に進むのを警戒したのである。左側の急峻な竜峰山から続く尾根の北部を越えたであろう、さらに赤山越を過ぎようとしたとき、東北側の南種山にいた薩軍と午前8時から9時頃戦いが始まった。前日宮原に着いていた第二大隊第三中隊も東方に進んでこの戦いに参加している。午後1時頃には氷川の北にある立神山の一部を警視隊と共に占領したようだが、完全に占領するのは翌日になってからだった。

 「薩南血涙史」から3月23日の種山・立神方面の薩軍の対応状況をみておきたい。

  黎明高島大佐の率ゐる別働第二旅團及び警視隊は方面に於ける薩軍を攻擊

  せんとし、立神山、宮原山、砂川の薩軍に逼る、陣ケ平の柚木隊(第六番

  大隊八番)中摩隊(第六番大隊三番隊)等力戰して之を拒ぐ、瞬時にして

  戰ひ愈激し、此時柚木正次郎は兵を分ち潜に繞りて山上より官軍の側面を

  擊ち奮戰して之を走らせり、既にして官軍又兵を增し返戰して激しく發砲

  す、偶本道の遊軍守を失して走る、柚木隊、中摩隊止むを得ずして小川に

  退き種子山を守る、宮原口の橋口隊(第三番大隊八番中隊)は其兵を分ち

  一面は前面に當り、一面は山手より横擊して之を走らし大に利を得進んで

  鏡村の官軍を攻擊す、敵嶮に據り善く拒ぐ遂に拔ぐ可らざるを察し兵を収

  めて舊塞に還る、兒玉隊は進みて野津村に戰ひ此處に築壘して拒守せり、

  都城隊(遊撃一二番)は小川より種子山に轉じ之を守備す(pp.388)

 立神山の部分が本戦記に対応すると思われるが、陣ケ平という地名は不明である。上面の平らな山は氷川北側には立神地区にしかなく、北種山は地形から該当しないので、立神の一部であろう。これら薩軍側各隊長の口供書がないようなのでより詳しく知ることができない。末尾の種子山を守備したというのは氷川北側の北種山だろう。

       三月二十七日

晴ル第一中隊ハ第三中隊ト守地ヲ議乄宮ノ原ニ引揚休憩スヘキヲ命ス大隊本部

亦仝地ニ移ル會計官ハ二中隊ヲ給養ノ為メ立神ニ止ル

第四中隊ノ守線ヲ画シ尾髯山ノ左方ニ哨兵ヲ出シ援隊ヲ大野村ノ本山ニ置ク

第二中隊本月二十六日戦状ノ概略ヲ報告スル左ノ如シ

三月二十六日諸道ノ官軍大進擊アリ我二中隊ハ(大尉大川距文少尉吉田鐘吉少

中川千尋仝試補桐渕直)兼テ立神近傍ノ防禦線ヲ保守ス午前第七時仝處山間

(園山ト云フ)ヲ進ミ大野村ニ向フ我先捜兵賊軍ノ所在ヲ発見セシヲ報ス於是

援隊ヲ叢林ニ伏セ敵状ヲ窺ヒ彼レハ前山(坂野ト云フ)ニ散在シ凡二三百計ヲ

所々ニ地物ヲ占領セリ直ニ開戦左右小隊攻擊道ヲ分ツ右小隊ハ第一半隊(大川

大尉桐渕少尉試補)ヲ進メ大野村左側ノ山端(大野村ノ山続ニシテ村前及右翼

ニ突出セル地)ニ至リ地區ヲ占領シ交戦数刻敵丸雨注ス (桐渕少尉試補津田伍

長喇叭☐梅音治此時傷ク)亦仝時ニ右方ニ對スル山間ニ敵兵出沒シ我兵ヲ側擊

ス急ニ援隊(中川少尉)ヲシテ我右側ナル丘陵ニ散兵ヲ増加シ斉ク前方及ヒ右

方ノ敵ト劇戦ス(兵卒下☐太郎此ノキ傷ク)敵火次第ニ减スルヲ察シ急ニ彼ノ拠

ル所ノ堡塁ニ向テ突進ス賊地ヲ棄テ走ル少時尾擊ス東北ノ東小川ニ向テ進ム此

際左小隊ハ右方ニ進越シ鳶巢近傍ノ山畔ニ出ツ馳テ其山上ニ登リ於小戦ス少時

ニ乄賊右方ニアル叢林中ヨリ敵ノ増加スルヲ見亦砲擊ス既ニシテ賊右方ニ廻走

スルヲ以テ半隊ヲ分チ左右山渓ヨリ馳セ下リ一村ヲ過テ急ニ敵ヲ追フノ后ニ右

小隊ト相合シテ小川ニ入ル此日天晴ル将校以下傷者合テ四名更ニ宮ノ原ニ引揚

 別働隊第一旅團歩兵第一聯隊第一大隊長

 明治十年四月     陸軍少佐古川氏潔 

 場所不明の地名がたくさん出てきた。白谷・尾髯山・園山・坂野・鳶巣である。本山だけが地図に載っている。 

 三月二十八日

晴ル午前三時命アリ第三旅團ヨリ一大隊松𣘺辺ヘ斥候トシテ進軍スルニ依リ第

三第四中隊ヲ援兵タラシメヨト於是西山下副官越智軍曹ヲ南種山及本山ノ両哨

地ニ遣シ令ヲ傳ヘシム尋テ事迅速ヲ要スルヲ以テ更ニ副官ヲ派遣シ整フトコロ

ノ部隊ヲ率ヒ小川ニ繰込ブ(ベ)キヲ再命ス本日ノ事総テ第三旅團参謀官中村中

佐ノ指揮ヲ受クベキヲ以テ大隊長ハ先ツ小川ニ至ル而乄中佐発進スルノ後第九

時両中隊至ル仝九時三十分有馬中尉壱分隊ヲ率ヒ斥候トシテ本道ヨリ松𣘺地方

ニ進マシム已ニ仝地ニ當テ炎燃ノ天ニ漲リヲ見砲声ノ地ニ震フヲ聞ク尋テ児玉

大尉モ亦中隊ヲ率ヒ発ス時已ニ移ルヲ以テ大隊長大隊附ヲ従ヘ小川ヲ出ツ道ニ

諸隊ノ陸続戦ニ趣クヲ見ル令シテ喇叭伍長ヲ岡中尉ノ許ニ遣リ其中隊ヲ急進セ

シム河辻村ノ出郷ヲ過ク右方山間ニ賊兵ノ出没スルヲ第三旅團ノ傳令使ヨリ聞

ク且ツ我隊ヲ止メ之ニ當ランヿヲ乞フ辞シテ尚進ミ豊福村ニ至ル副官ヲ止メテ

第三中隊ノ至ルヲ待チ令ヲ傳ヘシム大隊長ハ亦進テ中村中佐ヲ索ム未タ所在ヲ

詳ニセス

是ヨリ先キ第四中隊ハ豊福村ヲ過ル壱丁余曩ニ派遣スルトコロノ斥候隊ト合シ

中村中佐ノ命ヲ以テ賊軍ノ左側面ヲ衝突スベキ為メ右方ノ往還ニ沿フテ進マン

トス適賊軍モ我右翼ニ迂回セントスルニ會シ浦河内村ノ辺ニ戦塲ヲ開ク我兵直

前ス賊山間ノ松蔭ニ潜拠シ三方ヨリ包囲突擊セラレ遂ニ支フベカラザルニ至ル

是時ニ當テ大隊長ハ左翼久具村ノ辺ヲ巡視シ帰テ本道ノ右方ニ中村中佐ニ遇ス

軍議変セス戦已ニ敗色アリ第三中隊ハ亦来ラサルヲ以テ副官来リ陳ス於是第四

中隊ノ戦面ヲ開キ得行テ之ヲ督ス中隊長等已ニ敗スルノ儀ニアルヲ以テ隊伍紛

乱整フヘカラス漸ク危嶮ヲ保ツニ遇ス適々傳令使ヲシテ収兵ノ命アリ遂ニ敗退

シテ豊福村ノ辺ニ隊伍ヲ整フ人員已ニ半ヲ减ス続テ該隊ヲシテ先ツ本道ヨリ引

揚シム大隊長及ヒ大隊附ノモノ皆退テ豊福村ニ憩フ敗兵道ニ咽塡ス実ニ大兵ノ

敗スル名状スヘカラザルモノアリ漸ク退テ豊福村ヲ距ル二丁余賊尾擊シ来リ村

ノ左右側ヨリ我兵ヲ狙擊ス隊長大隊附ノ者ニ令シテ之ニ應セシム徐々ニ向江村

出郷ニ至ル先ツ地物ニ拠テ諸隊ヲ散蔓ス

第三中隊ノ進ムヤ第三旅團傳令使ノ差圖ニヨリ外﨑村ニ入リ夫ヨリ右方山間ニ

散布シ賊ノ迂廻ニ備ヘ将ニ進擊セントスルノキ本軍已ニ収兵スルヲ見山麓ニ沿フ

テ走リ亦来テ河江村ニ合ス於是中村中佐ノ来テ配兵スルニ際シ山田少将ノ出ラ

ルヽニ値フ命ヲ得テ團隊小川ニ引揚午后第五時舎營ニ就ク本日ノ戦約束十分ナ

ラズ遂ニ此敗ヲ取ル死屍夛ク敗手ニ入ル死傷ヲ実検スルニ将校三名下士率四拾

三名生死未明五名ナリ初メ壱大隊ノ大斥候タリシモ後チ数大隊ヲ増加セリト云

第一第二中隊ハ此日宮ノ原ニ休憩セリ

 28日の記述に登場する地名のうち、向江村と外崎村だけがどこにあるかわからない。

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              3月28日関係地図

 地理上の関係は北に豊福があり、南側に向江村、さらに南に外崎村が存在することになる。外崎村は位置の分かる河江村の北側にあるはずだ。その位置には竹崎という集落があるが、これを外崎と筆写の際に間違えたのではなかろうか。崩れた字体では読み間違えそうな竹と外である。この日の「征西戰記稿」にはどちらも登場しないのだが。この簿冊の末尾にある元の文書(C13080001000)を確認すると矢張り、竹と書いている。なお、31日部分に掲載されている28日の報告では竹崎村になっている。

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       簿冊後半にある戦記の原文(竹嵜村とある)

 第七聯隊進路よりも少し東側になるが、中世城跡に台場跡らしいものがある。氷川町の高城跡である。この年代の調査ではまだ西南戦争はあまり意識されなかったようであるが、中世の城跡に似つかわしくない遺構だと思う(大田幸博1978「熊本県の中世城跡」熊本県文化財調査報告 第30集)。西南戦争時の台場ならこの前後の築造であろう。東を向いているので官軍が造ったものかも知れない。

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 28日の第四中隊の報告が31日部分に掲載されている。

        三月二十九日

晴ル正午第十二時ヨリ第二中隊ヲ南種山ノ大哨兵ニ充ラル會計官及輜重兵ハ小

川ニ移ス 昨日ノ戦生死未明タリシ藤田政次郎ハ道ヲ失シテ賊中ニ入リ夜賊線

ヲ越テ帰リ来ル

午后第四中隊ノ死屍収穫ノ為メ伍長新郷道廣ニ兵卒三名ヲ附シ昨日ノ戦塲ニ遣

ス豊福村ニ至テ賊哨ヲ隠見シ帰テ行ク能ハサルヲ報ス兵卒田村梅十ナルモノア

リ独山麓ニ沿フテ遂ニ浦河内村ニ至リ土人ノ死体ヲ環視スルニ紛レ某々々ノ死

体ヲ実検シ来ル而乄土人ノ惨毒ナル衣服ノ血ニ塗レタルヲ剥キ川ニ洗ヒ干シタ

ルヲ見タリト然レノモ近傍ニ賊哨ノ出没スルヲ以テ力及バス帰テ状ヲ報告ス其膽

勇嘉スルニ足ル明三十日第四時ヲ以テ大進擊ノ内命アリ大隊長宮ノ原ニ行テ部

署ヲ受テ帰ル亦第一中隊ハ仝時限小川ニ繰込ノ約ナリ此日旅團長髙島大佐ヲ少

将ニ岡澤少佐ヲ中佐ニ任セラレタルノ布達アリタリ

 この日別働旅団の名称を次のように改め、以後はこのままだった。別働第二旅団(高島大佐)は同第一旅団(高島は少将となる)とし、同第三旅団(山田少将)を同第二旅団とし、同第四旅団(川路少将)を同第三旅団とした。

       三月三十日

天雨フル午前第四時小川ヲ発シ本道ヲ進ミ河江村ノ出郷ヲ過ル二丁余ニシテ我

大隊ハ往還ノ左方ニ散開シ第一第二中隊ハ戦鬥兵トナリ第四中隊ハ後方ニアツ

テ豫備隊トナル全軍ヲ概見スルニ第四旅團ハ(川路少将)右翼ニアツテ山道ヲ

進ミ先ツ鯖上ニ戦鬥スルヲ聞ケリ其左リヲ第三旅團トス(山田少将)我大隊ハ

之ト連絡シ左翼ハ殆ト海辺ニ及ト云全軍進擊午前九時久具村ニ至テ開戦ス我大

隊(第一中隊第三中隊)ハ中久具村ヲ挟テ左方寄田川ノ堤ニ沿フテ配布ス両隊

ノ面地形ヨカラズ飛丸来ルヿ尤モ烈シ未タ諸口ノ進取十分ナラス奮戦数時是時

ニ當テ第三中隊ニ命令シ大野川ノ堤ニ進擊セシム是ニ至テ左右隊ヨリ稍突出ス

ルノ勢ナリ薄暮前亦第一中隊ニ進擊ヲ令ス大ニ進テ畑中ニ伏ス日遂ニ暮ル砲声

漸ク止ム未タ一塁ヲ陥レス休戦ノ後小川ニ引揚クヘキノ命アリ中隊ヲ中久具村

ノ入口ニ纏ム已ニシテ再命アリ昼間占領スルトコロノ地區ヲ確守スヘシト於是

各隊皆侵線ニ就キ嚴ニ警戒ヲ加フ此日雨甚シ衣帯ヲ渋シ肌ニ達ス然レノモ前日ノ

敗アリ勇気凛々引揚ノ命アルニ當テ皆不平ヲ鳴シタリ大隊本部ハ中久具村ニ露

宿ス

第四中隊ハ豫備タルヲ以テ聯隊長ノ命ヲ以テ其左小隊ハ浦河内ノ方ニ向ヒ戦鬥

ヲナス休戦ノ後纏メテ下郷村ニ陣セシム後亦其一半ヲ第三中隊ノ線ニ増加ス傷

者合計拾名ナリ

去ル二十八日生死未明タリシ第四中隊兵卒坪﨑松次郎ハ其日ノ戦ヒ賊ニ包囲セ

ラレ浦河内村民家ニ潜ミ居シカ本日午前官軍ノ入ルヲ以テ帰投ス仝隊兵卒山内

金左エ門モ負傷シテ該地ニアリト報ス亦病院ヘ送ルノ手配ヲナサシム

第二中隊ハ南種山ニアツテ大哨兵ヲナス此日我旅團第一旅團ト改称セラル

 前日に旅団名の変更があったのは反映されていない。これまでは別働第二旅団だったので、戦記を読む際紛らわしかった。鯖上は場所不明だが、娑婆神峠というのがあるのでこれのことだろう。川路の別働第三旅団1,200人が攻撃し占領した。茨木聯隊長の戦闘報告表を掲げる。

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               3月30日関係地図

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      C09082211300別動第2.第3旅団戦闘報告の図

      三月三十一日

晴諸隊皆ナ昨日ノ侵線ニ相持スルヲ以テ号砲一発ヲ合圖トナシ大進擊ヲ行フヘ

キノ命アリ午前第七時砲声轟ク諸軍大閧斉シク進テ前面ノ川堤ニ達ス都テ右翼

軍ノ進ヲ待テ便宜進取スヘキ約ヲシ以テ我兵此堤ニ劇戦スルヿ数十分時第十時

右翼ノ賊兵敗走スルヲ見諸軍亦進擊シテ賊塁ヲ陥レ直ニ松𣘺ニ突入ス本日戦我

大隊常ニ諸隊ニ先キンス松𣘺ヲ占領スルニ至テ先要所ニ哨兵ヲ置ク後チ部署ア

リ第一中隊ヲ善同寺村辺ニ哨兵タラシム余ハ皆舎営ス傷者纔ニ一名ノミ

去ル二十八日生死未明タリシ第四中隊兵卒京藤成吉ノ死体ヲ松𣘺ニ見ル負傷シ

タモノヲ縛シ残酷ナル害ニ遇ヒタリト土人ノ語リシト云フ収テ鏡町ニ送ル且ツ

仝地戦塲本日全ク官軍ノ地トナルヲ以テ小泉軍醫副及ヒ下士等ヲ遣シ死屍ヲ検

シ仮埋葬仝地ニナサシム

會計官及輜重ハ此地ニ移ス第二中隊ハ南種山ニナリ本日曹長西山廣定(大隊附

)野村維直(第一中隊)ヲ少尉試補ニ軍曹田川正要林為隆江橋亮安藤傳三郎折

笠晴雄ヲ曹長ニ伍長岩城豊常中嶋脩三ヲ軍曹ニ各々官ヲ授受シ分課ヲ錯互セラ

ル伍長山口玄三ニ大隊武器掛リノ職ヲ攝セシム

第四中隊本月二十八日浦河内村戦状ノ概略ヲ報告スルヿ左ノ如シ

二十八日天晴ル午前第三時頃第三旅團ノ一大隊松𣘺辺ニ大斥候トシテ進軍スル

ニ依リ我第二中隊(中尉岡千仞少尉神代純一少少尉試補内山正明仝試補島村友

直)第四中隊(大尉児通良中尉有馬純一少尉村山正明仝試補島村友直)ハ應援

ノ命ヲ得小川ニ至ル中村中佐ノ約束ニ就ク中佐アラス第九時卅分有馬中尉ニ

分隊ヲ率ヒ斥候トシテ先ツ発セシム継テ第四中隊ニ進軍ヲ命ス時已ニ移ルヲ

以テ大隊附将校(副官中尉石川昌世)下士ヲ率ヒ小川ヲ発ス道ニ諸隊ノ陸続戦

ニ趣クヲ見ル於是更ニ傳令使ヲ派遣シ第三中隊ヲシテ速発セシム第十時豊福ニ

至ル副官ヲ止メテ令ヲ第三中隊ニ傳ヘシメ中村中佐ニ面謁シ命ヲ得ルトコロア

ラントス戦ヒ已ニ酣ナリ馳テ戦地ヲ探索シ第四中隊ノ戦面ニ出ツ(副官第三中

隊ノ豊福ニ至ラザルヲ以テ已ニ茲ニ来リ属ス)已ニ将校以下負傷スルノ後ニア

ルヲ以テ隊伍紛乱整フベカラス是ヨリ先キ第四中隊ノ久具ニ至ルヤ中佐ノ命ヲ

以テ賊軍ノ左翼則チ側面ヲ衝突スベキ為メ右方ノ往還ニ沿フテ浦河内ニ出ツ道

ニ賊兵ヲ発見シ忽チ戦端ヲ開ク我兵直前ス賊廻テ三方ヨリ包囲シ弾丸飛集忽チ

数名傷ク苦戦凡ソ三時間已ニシテ収兵ノ命アリ是ニ至テ辛シテ漸ク引退ク二三

町ニシテ小池ノ堤ニヲイテ隊ヲ整フ人員半バヲ减ス午後第二時ナリ此戦ヤ敵合

僅ニ二十歩計ノ将校以下死傷四拾六名生死未明五名ナリ第三中隊ハ道ニ竹﨑村

ニ至ル右方山間ニ賊ノ出没スルヲ以テ傳令使ノ差圖ニ依リ仝処ニ散布シ山間ニ

向フ已ニシテ本軍ノ収兵ニ際スルヲ以テ本道ニ帰ル賊官軍ヲ尾擊シ来リ豊福ニ

至ル大隊下士ヲシテ之ヲ砲擊セシメ徐々引退ク河江村ノ出郷ニ至テ更ニ小川ニ

引揚ノ命アリ仝所ニヲイテ舎営ス午后第五時ナリ

第四中隊生死未明五名ノ内一名ハ賊手ニ死シ三名ハ帰ル報告標ニ詳ナリ

  別働第一旅團第一聯隊第一大隊長

  明治十年四月   陸軍少佐古川氏潔

 善同寺村は宇土駅の南南東1.9㎞にある善道寺町のことだろう。3月31日の記録は4月分にも記載があるので、そちらで検討する。

 

次回からは名古屋鎮台のある大隊の戦闘日記を読み進めます。

次回から数回に分けて、アジ歴にあるC13080000200「歩兵第七聯隊第一大隊 西南戦記綴」を読んでみます。原文はインクで書かれた読みやすい記録なので、ほとんど原文は貼り付けずに活字化していこうと思います。先回りして読んでもらっても構いません。

野村忍介の和歌「命ならて外に・・」

 野村忍介の掛け軸を紹介する。軸装の結果、表面に現れた本紙の大きさは縦149.7㎝、横62.3㎝である。

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南洲翁を手向奉流歌

 命ならて外爾手向む物无那し袖者なミた能時雨のミして 忍

 (南洲翁を手向け奉る歌   命ならで 外に手向けん 物もなし 袖は涙の 時雨のみして)

 同じ歌を書いたものが世の中に他に存在するので区別するため、これを作品イとする。高野和人「西南戦争 戰袍日記写真集」には同じ歌を記した野村の短冊、作品ロが掲載されている。この短冊は熊本隊士松村勝三の子孫・松村英昌氏蔵である。「明治十一年九月二十四日、西郷隆盛の一回忌に際して、市ヶ谷監獄に服役中の元奇兵連隊長野村忍介は、追悼の歌を詠んでその霊を弔った」とし、

  南洲先生の一回忌にあたりて 命ならて外に手向けんものもなし 

  袖は涙の時雨のみして 忍

と紹介している。1877年9月24日、鹿児島市城山で西南戦争は決着がつき、その一年後に野村は収容された東京の市ヶ谷監獄で西郷を偲んで詠んだのである。

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    初めの詞書はイとロは異なるが、作品イが西郷の一回忌追悼の歌だと分かる。参考のために、前回紹介した短冊の署名も最初の写真左下に掲げている。3点は似ているとはいい難いが、先に紹介した月照の「忍介」と比べれば、野村の忍は似ている。

※これも大津祐司さんに難解字を教えて頂いた。

私学校の石垣は移動しているのを知っていますか?

 下段に載せたのは鹿児島市にある私学校跡東南部から鶴丸城跡(今の黎明館)にかけての石垣が写った作製年不明のハガキです。現状の私学校跡石垣は1955年(昭和30年)に国道10号が拡幅された際に西側に13m移設されたとの事。何年か前に地元の前迫亮一さんに教えてもらうまで、昔のままだと思っていたので、意外だった。この写真は移設前の状態か?東面石垣は移設できただろうが、それに接続する南面の石垣は東部が13m撤去されたんじゃなかろうか?北面石垣の東部も。ハガキには鳥打帽に和服の男と旧制高等学校生徒らしき人が写っているが、戦前の写真だろうか?。この写真と同じ方向・同じ位置で撮影して確認してみたいと思うこの頃。

 鶴丸城跡に建つ瓦葺建物は第七高等学校造士館だろう。第七高等学校校舎群は1945年6月の空襲で全焼している。11月に出水郡高尾野町の出水海軍第二航空隊の旧施設に一時移転し、1947年9月に旧校地に復帰した。戦前の複数年の校舎内配置図をいくつか国会図書館デジタルで見たことがある。

 

 

 

 

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昔のはがき

慰労金証書

 これは西南戦争に従軍応募し無事生還した人に慰労金を与えるとの証書である。縦21.4㎝・横27.9㎝の和紙に木版印刷されたもので、個人情報と月日は毛筆で追記している。

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本文は次の通り。

      元二等巡査心得

           福 島 縣

             關根多利五郎

  曩ニ西南騒擾ノ際ニ方リ能ク報國ノ義務ヲ辯シ速ニ應募出京引續従軍候段

  奇特ノ事ニ候依テ為慰勞金貳拾圓下賜候事

   但慰勞金ノ儀ハ歸郷ノ上縣廳ヨリ可下渡事

  明治十年十一月十二日

     警視局

 警視局の字が巨大で、暗に権威の大きさを匂わせているかのようである。

 佐倉桜香氏によると、西南戦争時の政府による募兵は一般の陸軍部隊と警察部隊に分かれていた。後者は2月下旬から開始した巡査第一号召募では、東北4県の士族を対象に3,800人が集められ警視徴募隊を編成している。さらに4月上旬開始の第二号召募では関東・東北諸県の士族を対象にした結果、10,833人の応募者があり彼らを新撰旅団に編成した。新撰旅団には福島県出身者が720人いた(佐倉桜香2020「新訂征西戦記稿別冊「西南戦役における募兵―壮兵召募と巡査召募―」)。

 本資料の関根氏が警視徴募隊あるいは新撰旅団のどちらに属したかは分からない。