西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

山田顕義の西南戦争中のある漢詩

はじめに

 別働第二旅団司令長官山田顕義少将の西南戦争中の漢詩を紹介したい。

 これは軸あるいは額から剥がしたのか裏に和紙が貼りついた状態である。本紙の大きさは縦114㎝、横63.5㎝で、朱印が三ヶ所にある。印影の大きさは上右のが縦3.9㎝・横2.1㎝、左下の2点はどちらも縦横3.4㎝である。三行にわたり七言絶句が書かれ、左に空齊という山田顕義の号に主人を続けている。便宜的にこれを作品イと言おう。漢詩捷報未来人未還 思迷官賊両軍間 一夜海南天色赤 王師今應度郎山である。読み下すと次のようになろう。

 捷報(勝ったという報告)未だ来たらず (報告のために帰ってくるはずの)人未だ還らず 思い迷う官賊両軍の間 一夜海南の天色赤し 王師(天皇の軍隊)今まさに郎山を度せんとす

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類似作品

 作品イとよく似ているが全く同じではない漢詩日本大学発行の「山田顕義傳」にある。これを作品ロとしよう。実物の写真がなく活字だけが示されている。

  「陣營中偶作」

  未看傳騎報勝還。思到兩軍官賊間。一夜海南天色赤。王師今應度卽山。

である。第一句は作品イが捷報未来人未還であるのに対し、作品ロは未看傳騎報勝還と表現が異なる。ただし、勝ったという報告をもたらす人が帰ってこないという状態を歌うのは同じである。第二句も思い迷うのか、思いは到るのかと表現が異なるが差異は小さい。第三句は同じである。第四句は最後の二字を郎山と読むのか即山と読むのか、おそらくはどう読むのか解釈が分かれたのだろう。「即山を度せんとす」は意味が通じないと思うがどうだろうか。しかし、郎山を度せんとす、といってもそのままでは意味不明である。ただし、何々郎山のことを漢詩に適したように郎山と略したのなら、理解できる。

 日本大学からはこれとは別に、西南戦争中の山田の漢詩が5点公開されている(丸山茂他「學祖 山田顯義漢詩百選」1993年3月日本大学広報部編)。そのうちの一首は「山田顕義傳」と同じものを四字だけ違う字として解釈したもののようである。

  「陣營中偶作」

  未看傳騎報勝遠 思到兩軍對塁間 一夜海南天色赤 王師今應度郎山

である。前記の作品ロとの違いは第一句末の字が還ではなく遠であることと、第二句が両軍ではなく對塁となり、第四句が即ではなく郎とすることである。この本にある写真(下の写真)では還の字が小さく、しかも不明確であり、敢て遠と読む必然性は認められない。作品イのように還と解釈してよいだろう。両軍と對塁を読み間違える訳がないので別物が存在したのだろう。

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制作の時期と場所

 郎山とはどこにあるのだろうか。前出の丸山氏は「陣營中偶作」を次のように解釈している。「いまだに遠く離れた征討軍から 戦勝を報ずる伝令の馬が現れない 我が思いは 官・賊両軍の激戦地へと飛んでゆく 夜通し 海南の空は 赤々と燃えている 天子の軍は 今まさに五郎山を渡ろうとしているに違いない」というものである。

 そもそも何時の作品だろうか。海南という言葉を使っているので東日本が戦場となった戊辰戦争時の作品ではなかろう。やはり西南戦争時に詠んだものだろう。丸山茂氏は、郎山とは熊本県玉名郡玉東町の五郎山を二文字にしたものと記述している。そうだろうか。五郎山は田原坂の西南にあり、横平山の北東側にある低い山であり、「征西戰記稿」によると、3月9日・3月14日に官軍が攻撃し、14日には一部を奪い、15日からは五郎山争奪は戦記に登場しなくなる。この時点で官軍の占領地域に入ったらしい。この時期は熊本城救援のため新たに編成された衝背軍が登場しておらず、山田少将もこの頃まだ九州に出張していない。海路長崎に上陸したのは3月23日で、翌日八代に着いている。五郎山のことなど知らなかっただろうし、知っていても気にして漢詩を作るほどの関係にはなかった筈である。陣營中偶作という題名からも戦地での作であることが分かる。

 

郎山とはどこか

 では郎山とはどこか。「征西戰記稿」や「薩南血涙史」などに出てこない郎山が実在するとは思えない。何々郎山を略して郎山としたと考えるしかない。熊本県水俣市には矢城山という戦跡がある。市街地の東方約6㎞にあり、尾根続きのさらに東側には何度も激戦があった大関山がある。この方面を担当した官軍は別働第三旅団である。別働第二旅団の山田は直接関係ないと思われるかもしれないが、実は山田は4月18日に総督本営から次の辞令を受けている。

  平佐大尉(是純)征討總督ノ命ヲ奉シ隈庄別働第二旅團ノ牙營ニ至リ辭令

  ヲ山少將ニ傳ヘ別働第一二三四旅團ノ總轄ヲ命ス

  (「征西戰記稿」巻二十三 熊本聨絡九)

 従って山田が配慮すべき管轄地域は水俣も当然含まれるのである。

 次は5月15日に別働第三旅団司令長官川路利良少将が水俣から山田に提出した報告である(C09085364200「諸向来翰 乙 別働第二旅團 明治十年五月ヨリ起」防衛省防衛研究所蔵)。

  當團髙岳山ノ尾ニ有之砲塁ハ賊壘ト接近シ賊襲来ノ色アルヲ以テ昨十四日

  後三時三十頃我兵進ンテ直チニ賊塁ヲ乗取リ尚深川村(賊ノ費出所アリ) ニ

  火ス然ルニ矢代山ノ賊依然砲塁ニ據リ我中線ノミ進メ候テハ萬一ノ虞有ルヲ

  以テ右山尾(即賊塁アル所ノ地)ニ引揚ケ固守致シ候其節生捕分捕(臼砲小銃

  中隊旗)等モ有之其他死傷追而調可申出候ヘ共不敢取概畧御届申進候也

           別働隊第三旅團司令長官

     明治十年五月十五日 陸軍少将川路利良

 

  陸軍少将山田顕義殿 ※原文通りにニ段書きできない部分はカッコに入れている。

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 ここに登場する矢代山には薩軍がいて、官軍にとって憂慮すべき存在だとの内容である。でもこれでは郎山とつながらない。この後、5月20日に川路から山田へ報告が来ている。

 

 以下は川路少将から山田少将宛(5月20日)・山田少将から山縣参軍宛電報(5月22日)・別働第二旅団黒川大佐から山田少将宛(5月22日)の三通を合冊して、5月22日に山田少将が山縣参軍に宛てた文書である(C09082213300「明治十年自三月至八月 別働第三(第二)旅團戰闘報告 軍団本營」防衛研究所蔵0619~0626※)。黒川大佐の文は人吉関係だから略す。

  別帋之通届出候間比段御届申候也

  十年      別働第二旅団司令長官

  五月二十二日  山田陸軍少将

 

  山縣参軍殿

  一 昨日中尾山ノ賊ヲ掃撃後續テ昨日鬼ケ岳ニ並ベル巧ミ通シヲ乗取候処

    二郎山ノ賊戦ハズシテ狼狽逃走ス依テ直ニ賊塁ニ人リ陣営ニ放火セリ此

    時討取壱人生捕壱人アリ我軍死傷ナシ

  今朝薩州ウハバノ原ニ向テ大斥候ヲ出シ置候同所ハ薩州小川内ヘ一里半六

  所番所ヘ七合程之道程之由ニ承リ候尚其後ノ景况ハ後ゟ可申進候  

  一本日桜野村ニ於テ賊鹿児嶋縣士族田尻嘉兵衛ナル者ヲ生捕ル

  右概畧及御届候也

                水俣

                 別働隊第三旅團長

  明治十年五月廿日     川路陸軍少将印

  山田陸軍少将殿

    ここに弥二郎山という表現が登場する。前後の戦況からみて、矢城山または矢代山と呼ばれる山のことであろう。水俣市を東西に貫流する水俣川の左岸に中尾山(標高334m)があり、この山は市街地から3㎞弱南東に位置する。その南東約7㎞には鬼岳(標高734m)がある。右岸には大関山(標高902m)や、その西8㎞ほどに矢城山(標高586m)がある。矢城山には5月14日あるいはその直前から19日午前1時頃まで熊本隊が守っていた(佐々友房「戰袍日記」)。15日の川路の報告では矢代山になっている。矢城山・矢代山・弥二郎山と様々に呼んでいるが同じ山とみるべきである。戦況の変化により矢城山が官軍の中に突出する形になったので熊本隊は東側に退却したのである。

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 熊本県南端の水俣の状況、矢城山・矢代山・弥二郎山周辺について山田は山縣参軍に報告しているのである。この直前には水俣から鹿児島県北西部の大口盆地の山野に進入した官軍であったが、逸見十郎太率いる薩軍に西方に追い返され、水俣に退却しての交戦状況報告であり、山田は気にかけていたのである。当時、彼は八代を拠点に球磨川流域の戦線を繰り返し巡視しており、まだ人吉盆地突入は十日ほど先である。人吉の南に隣接する大口(伊佐市)への川路の部隊の進撃状況は気になるところであった。その思いと考えたい。

 

おわりに

 以上、郎山とはどこかということで考えてみた。捷報未来人未還 思迷官賊両軍間 一夜海南天色赤 王師今應度郎山の第一句は別働第三旅団川路少将から勝利の報告が来るのを待っていたということではないだろうか。郎山とは矢城山や矢代山あるいは弥二郎と呼ばれた山であろう。

山梨県出身土橋健治郎の西南戦争従軍日記

 西南戦争の従軍日記を入手したので紹介したい。官軍側の兵士だった人の物である。表紙には「明治拾八年 量水掛付上申及其他事實控・・・・」とあり、後半は手擦れで消えており読めない。表紙はやや厚く、本文は赤い線の罫紙を半分に折り、綴じた体裁である。巻頭の2頁分の紙は破り取られているが、残った部分には何か書かれた痕跡は認められない。次の5頁は山梨県釜無川に関する控えである。西南戦争とは関係ないが、史料を書いた人に関する内容であり、これも掲載する。続く44頁には西南戦争のことが書かれているが、本人に関する従軍記述は少なく、他からの引用が多い。

 それ以下の記述は解読文では紹介しないが写真を掲げておきたい。西南戦争に続く94頁分は白紙で、その次は14頁にわたり明治17年の驛逓局云々の記述がある。3頁の空白を置いて明治21年北巨摩郡役場関係の控えが2頁あり、4頁の空白の次の最後の頁に計算のようなものが書かれて本文は終わる。

 

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                  登美村塩嵜村

                   戸長

其所轄塩嵜村土橋健治郎ヘ御用在之候条来ル十五日午前十時礼服着用出廳候様通知可致候

 明治十八年一月十二日

     北巨摩郡役所

前書御達相成候ニ付此段及御達候也

 十八年一月十三日  登美村

          塩嵜村戸長役場印

 

     土橋健治郎殿

        御請書

           土橋健治郎

釜無川量水掛申付候事

 明治十八年一月九日

    山梨縣

右御請仕候也

 明治十八年一月十六日 土橋健治郎

    山梨縣令

     藤村紫朗殿

 

     御請書

         柳木多造   

依願職務差免候事

 明治十八年一月九日

右御請仕候也

 明治十八年一月十六日柳木多

   山梨縣令

    藤村紫朗殿

 

 釜無川量水掛用品請渡済御届

    支給品目

八角時計       壱個

一木製ノ正午計      壱個

一硯箱         壱個

一打 提        壱張

一量水標取扱人心得書  壱冊

一水位日表記入方雛形  壱通

一量水表扣用紙但十二月迠扣(三月ヨリ)拾枚

   合計七品

釜無川量水掛今般任免ニ付曽テ御下渡相成候前書之用品后任エ請渡済候間此段御届仕候也

              

 明治十八年一月十九日 元量水掛柳木多

              土橋健治郎

     山梨縣令

      藤村紫朗殿

 

  釜無川量水掛用品引渡書

    支給品目

八角時計       壱個 

 

 

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 登美村と塩嵜村は山梨県北巨摩郡にあった村で、現在は甲斐市となっている。明治18年当時は塩崎村・登美村は六小区と呼ばれる同じ行政区域だったので、小区の役場である戸長役場が登場しているのである。

 ここに登場する量水標とは明治15年内務省富士川流域各所に設置したものであろう(『水利科学』No.310 2009掲載の「釜無川左岸連続堤防の築造経緯」岩屋隆夫・松浦茂樹・望月誠一)。釜無川富士川の一部の名称である。富士川は深刻な水害が絶えない河川であるため様々な対策が講じられてきた。土橋健治郎に関するこの史料は量水掛というものがあったこと、おそらく一年か二年ごとに交代し、それに必要な用品の内容、それらを次の担当者に引き継ぐ仕組みだったことが分かる。些細ではあるが意味のある記録である。柳木多造の解読は違うかもしれない。

  

 次は西南戦争に関する記述である。太字ではなく通常の字で示す。誤字はそのままとした。

 

鹿児島征討日記序

此書ハ明治十年第二月中旬鹿児島縣私学校ノ生徒等二万餘人西郷隆盛桐野利秋篠原国幹等ヲ主謀ト仰キ肥後表ヘ乱入シ熊本鎮台ヲ始メ諸鎭臺ヲ騒擾シ一挙輦下ニ出ントス朝廷ニハ暴徒征伐ノ命ヲ各鎭台ニ下ス時ニ拙後備軍ニ列スルヲ以テ召集ノ令ヲ下サレ三月上旬郷里ヲ発シ同月中旬肥後田原坂ニ至リ始メテ接戦夫ヨリ所々ニ於テ交戦シ同年九月下旬ニ至鹿児島城山ニ於テ賊徒殲滅シタル事情ノ概畧ヲ記載ス

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尤モ開戦ヨリ三月十九日迠ノ事ハ雜報ヲ集メテ記載ナセシ故我ガ眼前ニ爲セシ事ニハ非ラス

此書中ハ我ガ心覚ノ事ナレバ謬文誤筆ナキヲ欲セズ

 

鹿児嶌征討日記(※カッコ内は小字のニ書きだがカッコに一段で示した)

起源ハ三菱會社ノ赤龍丸ガ大坂鎭臺ノ命ヲ奉シ一月二十七日鹿児島湾ニ入リ海軍省所属造船所ノ弾藥庫ヨリ二千個ノ硝薬ヲ積込ミ三十一日ノ夜モ残ル所ノ千七百個ヲ積入レント數十ノ提灯ヲ照シ本船ヘ運搬ノ途中私学校ノ書生四五十人各道ヲ遮リ火藥ヲ運フニ提灯ヲ携ヘ人家調密ノ地ヲ通行スルハ甚ダ以テ不用心ノ至リナリ速カニ引戻スヘシト嚴シク談判ニ及ブニゾ造船所ノ吏員答ヘテ曰ウヤ至急ノ御用ニテ運送スル火藥ナレバ一刻モ

f:id:goldenempire:20210427075200j:plain延引シカタシ火ノ元ノ儀ハ拙者共注意致スヘシ决シテ御心配アル可カラズト言ヲ藎シテ談示最中又モ數十ノ書生等短鎗ヲ携ヘ何レモ帯刀シテ馳来リ汝等此ノ弾藥ヲ般ヘ積ミ入ルヽ時ハ一人モ残ラズ細首ヲ打放シ申ヘシ抔ト大ニ恐喝付ケ力鎗ヲ捻リリ廻ス有様ハ今ニモ打チカヽルベキ劍幕ナレハ人夫共大ニ恐怖シ皆々逃去リケレハ書込所ノ弾藥ヲ奪テ去リケレバ赤龍丸ハ其夜直ニ該港ヲ出帆シ六日ノ夜神戸ニ着シ右乱暴ノ始末ヲ上申ニヒタリ亦西郷隆盛等ハ私学校ニアツテ百事指揮ヲ爲シケルガ二月二日ノ夜士族ニ命シ歸省中ナル中原尚雄以下四十二名捕縛シ惨酷キ拷問ニカケ強迫シテ西郷暗殺ノ口供ヲ拇印サセタリ其縛セラレシ人々ニハ少警部中原尚雄中警部園田長照權中警部野間口兼一同末廣直方少警部安藥(※楽)兼道同土持髙中警部菅野井誠美權中警部髙﨑親章一等巡査樋脇

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賢助二等巡査伊丹親恒書生半田才七同大山綱助同猪鹿倉保同田中直哉同山﨑基助四等巡査前田素志同髙橋爲淸同松本兼淸二等巡査彦四郎書生柏田盛文等ナリ西郷等ハ本人并ニ口供ヲ鹿児嶌縣令ニ出シ且ツ曰ク政府ハ何故ニ拙者ヲ暗殺セント企テシヤ一應尋問ニ及ヒ度ニ付舊兵隊ヲ引卒シ不日出京致シ候間此段御届ニ及ブト二月五日數百ノ士族ヲ肥後界ヘ出シ他縣人ノ鹿児島ニ入ルヲ禁シ専ラ出兵ノ用意ニゾ及ヒケル當時主上ニハ西京御駐輦ノ折ニテ有栖川山階ノ兩宮三條太政大臣木戸内閣顧問伊藤工部卿山縣陸軍卿初メ勅奏ノ貴顯多ク西京ニアリ六日夜赤龍丸ガ帰航スルヤ鹿児島縣士族暴舉ノ始末逐一上申ニ及ニケルハ主上ニモ深ク叡慮ヲ悩マセラレ現塲取糺トシテ河村海軍大輔林務少輔林公ハ兩(※西)国巡廻中ニテ大分縣下ニアリ途中ヨリ同行セラルヽナルヘシ兩公ハ翌七日直ニ軍艦髙尾丸ニ乗ジ鹿児島港ニ投錨シマヅ属員二名ヲ縣廳ヘ遣ハサレシニ暴徒共之ヲ途中ニ遮リ二名ノ属員ヲ拘留直ニ逸見十郎太ヲ大将トシ八百餘人ノ暴徒等六十餘艘ノ小船

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ニ乗リ髙尾丸ヲ乗リトラント曳々聲ヲ出シテ漕寄セ來リ四方ヲ取圍マントセシカ髙尾丸ハ忽チ其塲ヲ出艦シ櫻嶌近海ニ錨ヲ投チ再ビ使者ヲ以テ大山縣令ヲ招カレ私学校生徒ノ挙動ヲ尋問アリケレバ縣令ハ弾藥掠奪ノ事ヨリ中原少警部以下ヲ縛シ口供ヲ取リタル事迠逐一陳述セラシカバ河村林ノ二公ハ不軌ノ形勢判然タルヲ確認シ一ト先ツ備後尾ノ道迠引揚ケラレ尚舉動ヲ窺ハレシニ十三日ニ至リ遂ニ帰京シテ暴徒反状奏問ニ及ビケルトゾ此時内務卿大久保利通公陸軍少将鳥尾小弥太公玄武丸ニ乗込ミ上京アリ引續テ大山陸軍少将山田陸軍少将等モ上京シ又西京警衛トシテ近衛兵一大隊江田少佐之ヲ卒ヒ鎭台砲兵十二門江見大尉之ヲ卒ヒ何レモ東京丸ニテ上京ス警視局ヨリハ熊本福岡佐賀警衛トシテ上京ス警綿貫中警視警部巡査五百人ヲ卒ヒ進発ス廿日ニ至又檜垣權少警視三間少警視

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警部巡査千有余人ヲ卒ヒ豊後鶴﨑ト長﨑ヘ向ケ出発セリ西郷隆盛ハ桐野篠原ト謀リ国中同志ノ者ニ羽檄ヲ傳ヘ二月九日ヲ以テ麑嶋ヲ発シ此時桐野ハ軍費トシテ西郷ヨリ三拾八万円ヲ受取リシト云フ出水郡出水駅ニ於テ勢揃アリ総勢一萬六千余人或ハ貳万人トモ云フ此時西郷ハ陣中ヘ令ヲ下タシテ曰ク戰塲ヘ臨ム以上一歩モ退ク勿レ其地ニ死セヨ必合戰ト思フ可ラス唯山ニ入リテ戰ヲ駆ルト心得毫モ雜慮スル事勿レ又人民ノ所有ヲ掠ムル者ハ嚴罪ニ處セント時ニ二月十五日拂暁シ発ノ号砲ヲ合圖ニ金鼓ヲ鳴ラシテ繰リ出ス各隊ノ簱馬卯(※印)ハ髙天ニ翻リ銃槍ハ閃々トシテ朝日ニ輝キ総軍一同鯨聲wパケタル音ハ山嶽ニヒビキ之ガ爲ニ大海モ沸キ天地モ崩ルヽカト怪シム計リナリ十七日先鋒ハ求俣駅ニ着ス茲ニ又鹿児島県令大山綱良ハ県官原作造ノ外カ拾一名ヲ専使トシテ熊本福岡大分長﨑其他鎭台ヘ書ヲ送ル十一日原作造外二名先熊本県廳ニ至ル書ヲ出ス其文ニ曰ク

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今般當県官員ヘ傳使申付御通知ノ事件左ニ申進候近日當県ヨリ舊警視廳ヘ奉職ノ警部中原尚雄其外別紙人名ノ者其名ヲ帰省等ニ托シ潜ニ帰県ノ處彼等竊カニ国憲ヲ犯サントスルノ奸謀発覚シタルニ付則チ御規則ニ基キ其筋ヘ申付該人名捕縛ノ上鞠問ニ及ビ候就處ラズ其犯ノ口供別紙ノ通ニ有之候就テハ右事件陸軍大将西郷隆盛陸軍少将篠原国幹陸軍少将桐野利秋等カ耳問ニ筋有之不タルカ右三人ヨリ今般政府ヘ尋問ノ筋有之不日ニ當地発程致シ候間御含ノ爲此段届出候尤舊兵隊ノ者共随行多數出立候間人民動揺不致様一層御保護及御依頼候也トノ書面ヲ以テ届出テ候ニ付県廳ニ於テ書面ノ趣聞届ノ上朝廷ヘ御届置候間爲御心得此段及御通知候也 夫ヨリ専使ハ鎭台ニ至リ西郷隆盛ヨリノ書ヲ鎭台司令長官谷少将ヘ出ス其略ニ曰ク政府尋問ノ爲兵ヲ卒ヒ上京致スニ付尚揮可及儀モ有之候得共通行ノ節ハ兵士ヲ整列シ敬禮ヲ行フヘシトノ主意ナリ谷少将大ニ其無禮ヲ憤リ断

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然通行ヲ拒断セント言ヒケレハ中陸軍大将ノ上京ヲ拒ムハ不可ナラント言者アリ或ハ拒ム可シト言ヒ或ハ敬禮ヲ行フヘシト言ヒ議論紛々决セサリシガ谷少将ハ断乎トシテ拒絶スルノ説ヲ首長シ遂ニ返答ニ及ビケルハ决シテ通行ヲ許サズ強テ通行セントナラバ臨機ノ処分ニ及フ可シト是ヨリ防禦ノ手配ニ及ヒ十七日公然ト哨兵線ヲ張リ數百ノ兵ヲ配分セリ廿日鎭台ノ斥候兵二小隊ヲ川尻町ニ出ル此時薩兵ノ先鋒石井竹之介徳久孝治郎別府新助村田三八ノ四將ハ拂暁朝霧深キニ乗シ旗ヲ川尻町ニ進ミ乍候兵出スルガ川尻町ノ入口ニテ忽チ鎭台兵ニ出逢ヒ茲ニ初メテ戰端ヲ開ク官兵敗レテ熊本ニ走ル廿一日早天薩兵進デ熊本ニ入ル神風連ノ残黨初学校連抔ト稱スル者共千余人薩兵ニ與ミシ専ラ地理ノ嚮導ヲナス此時植嵜村本沙寺邉ヨリ法華坂等ニ大戰シ官兵小勢ナルヲ以テ退テ本城ニ入リ城問ヲ鎖シ此時ハ打テ出ス廿二日午前八時鎭兵一大隊本郷口ノ城門ヲ押開キ鯨声ヲアゲ

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テ擊テ出テ別府石井等カ陳ヲ砲擊ス薩兵モ弾丸ヲ飛シ一進一退死力ヲ盡シ前後ヲ争ヒ戰タリ暫時ニシテ薩兵敗走ス午后三時ニ至リ官兵引アゲテ城門ヲ𧴪ス同四時二十分薩兵雲霞ノ如ク寄来リ大小砲ヲ掛打ケ一挙ニ茲ヲ攻破ラント堀際マテ押寄スレバ官兵城門ヲ左右ニ推シ開キ砲手ヲ揃ヘテ数百釣瓶カケテ押放セバ前ニ進ミシ薩兵共将碁倒シニ押倒サレ案ニ相違シ崩レタツテ烟ノ中ヨリ数十ノ官兵寄手ノ手本ヘ突テ入リ四方八方ニ薙廻レハ遉カ慓悍ヲ以テ世ニ聞ヘシ薩摩武士モ四土路ニナツテ崩レタツ忽チ薩ノ援兵大ニ至リ味方ヲ励マシ一挙ニ乗リ入ラント賊軍ノ兵氣再ビ震ヒ為ニ官兵頗ル苦戰ニ見エタリシガ此時本城ノ天主臺ヨリ眼下ヲ目途ニ発ス否榴弾其図ヲ外サズ薩兵ノ頭上ニ破裂シ死傷夥シク何カハ以テ耐ヘケン忽チ乱レテ敗走スルヲ得タリト官兵取テ返シ當ルニ任セテ薙立レバ薩兵遂ニ敗走シ散々ニ逃去リケリ官兵喇叭ヲ鳴ラシテ軍ヲ纏メ手軽ク人数ヲ引ア

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ゲ堅ク城門ヲ閉ジタリ時ニ桐野秋篠原国幹等各部ノ隊長ヲ會シ議シテ曰ク此城要害堅固ナルニ臺兵死墳ノ勢ヲナシ斯ク防禦ニ力ヲ尽スヲ見レハトテモ力攻ニハナシカタカルヘシ去リトテモ此城ヲ拔カスンバ天下ニ号令スルコトモナラサルヘシ此上ハ人数ヲ分チ城攻ノ兵トナシ一手ハ髙瀬口ヨリ進ンテ南ノ関ヲ取リ早ク筑後ニ出ルニ然シ又久シク大兵ヲ屯シナハ官軍ノ援兵心ス至ラン速カニ兵ヲ出シ拔兵ノ道ヲ断ツノ外アラ可カラズト衆議一定シ駆テ諸軍ノ向所ヲ手配ニ及ビケルニ篠原国幹池上四郎西郷小平村田三八等ハ十大隊ヲ卒ヒテ髙瀬口ヘ進ム先鋒ハ別府新助石井武之助藤井☐之助ナリ其余ハ城攻ノ兵数トシ新堀町二ノ丸口本郷等ヲ始メ鉄桶ノ如ク取リ囲ム廿二日ノ午後寄手ハ再ヒ城ヘ押寄本丸ヲ目途ニ砲擊ナス事雨ノ如ク然レノモ臺兵屈スル色ナク天守台ヨリ廿四ボンドノ巨砲ヲ以テ擊チ立ルニ寄手ハ之ニ避易シ其後ハ城ヘ近ツカサリシト廿三日西郷隆盛旗本

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ノ兵ヲ卒ヒテ川尻ニ着陳ス廿四日ノ晩薩兵ノ大鉋臺花岡山ノ頂上ヨリ巨砲ヲ以テ城ヲ目途ニ連発スレノモ弾丸城ヘ届カズ城中ヨリ花岡山ヘ向ケ廿四ポンドノ巨砲ヲ射擊スルニ目的違ハズ達スル事三発寄手大ニ恐懼シ花岡山ヲ逃ケ下リタリ是ヨリ敢テ城ヘ近カツカサリシト云フ廿五日ニハ北ノ方千段畑京町口モ激シキ戦ニテ此モ賊兵カ利ヲ失ヒタリ同日午後ヨリ賊兵四五十人斗リ植木驛(熊本ヲ距ルヿ三里)ヘ進軍ス時ニ豊前営ノ臺兵大一隊半木ノ葉驛(熊本ヲ距ルヿ五里)ヨリ植木驛ヘ進マントスル折柄ナレバ最初賊徒ガ寄来ルト言フヨリ早ク后軍ヘ報知シ廿六日賊兵ヲ植木驛ノ入口ニ逆ヘ甚タシク戦ヒケル賊徒ノ援兵群リ来リ擊チツ擊レツ互ニ勝敗ナラザリシガ夜ニ入リテ官軍植木ヲ焼拂ヒ退ヒテ髙瀬(熊本ヲ距ルヿ七里)ニ止陳ス賊徒ハ夫ヨリ髙瀬ノ方ヘ進軍スルノ勢ヒアレバ官軍再ヒ合戰ノ用意アリ廿八日官軍ハ城ノ南洗馬ノ辺ニ聚糧シテ玄米六拾俵ヲ得テ帰リ堅ク城門

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ヲ鎖ス三月一日ニハ休戦ナリ仝二日早天ヨリ山鹿口ニ戰ヒ始マリ吉治越川尻リ各所ニモ砲戦アリ仝三日官軍髙瀬口ノ台塲ヲ乗取リ大砲二門ヲ分捕リ仝四日益々進ンテ木ノ葉ヲ進擊攻落シ又一手ノ髙瀬口ハ田原坂ヘ伊倉口ハ吉治越ヘ進軍或ハ勝チ或ハ敗レ昨日ノ賊塁ハ今日官軍ノ砲臺トナリ午前ハ走リ午後ハ追フ恰モ盛夏ノ炎天ニ黒雲ヲ起シ奔雷ノ山ヲ穿チ盆雨ヲ傾ムクルカ如ク或ハ嚴冬ノ風雲飄然トシテ定リナキカ如シ出没死戦目モ当テラレヌ有様ナリ山鹿口ハ双方トモニ激戦ニテ午後六時頃両兵共ニ退軍ス賊兵間道ヲ経テ岩村ヘ出デ道チニ思ハザリキ援兵ヲ乞ハントスルニ道ナク狼狽顚倒何カハ以テ耐ベケン弾丸数射賊の爲ニ逐ヒ散ラサレ一時敗走シタリケルニ又候引返シ憤闘激戦スル中ニ南關ヨリ援兵追々馳セ来リ前後挟擊シタリケルガ其日ハ勝敗ナカリシトゾ仝五日山鹿口ハ

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昨日ヨリ連戦憤闘官兵稍々勝利アリシ由髙瀬木ノ葉ノ諸口ハ野津大山ノ両少将河村参軍海軍大輔ノ両少等ノ指揮ニテ官兵ノ後ニ恢復シ仝日休戦ナリ最モ少々ノ迫リ合ハ有リシカ格別ノ事ハナカリシトゾ田原坂ノ手ハ賊ノ一二壘ヲ拔キ四日以来ノ戦ハ諸手大進擊最モ利アリシトゾ其内胸壁ヲ多ク築キタル田原坂ハ賊心死ニ之ヲ固守シ官軍ハ新手ヲ入レ替ヘテ力攻ニ攻メ立レノモ何分ニ賊モ一生懸命ノ勇戦ニテ防禦シ且ツ其ノ地利ヲ得タル事ナレハ思フ侭ニハ拔クヲ得ス死傷ハ毎日数百人中ニモ士官ノ傷ヲ被ル者多シ仝六日拂暁ヨリ山縣参軍大山少将ハ髙瀬口ニ軍ヲ進ム午後八時頃迠木ノ葉口ニテ激戦シ進ンデ田原坂ニ至リ三壘ヲ攻ム強クシテ拔クヿ能ハス依テ手配ヲナシ別軍ヲ以テ直チニ植木口ヘ進メシム山鹿口ハ砲臺ヲ築テ持スル都合ナリ又海岸河内口ハ餘程ノ激戦ニテアリシガ賊敗北ス此時熊本士族ノ内ニテ賊ニ應セシ者モ背キタル者アリシト云フ又仝日一手ノ官軍ハ

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木道峠ノ賊ヲ擊チ破リ間道ヨリ田原坂ヲ突キ大ニ接戦シタリ仝七日田原坂吉治越ヘ二重峠ノ三ヶ所ニ合戦アリケルガ福原大佐銃丸ノ爲メニ重傷ヲ被リタリ 

今般暴ニ付鹿児島ニアル嶋津父子ヘ動使トシテ柳原前光随行トシテ舊福岡藩ノ老候黒田長博舊佐土原藩ノ知事嶋津忠寶ヲハジメ黒田中将安田開拓權大書記官其外教員并ニ兵士進メ巡査数百人之ヲ守護シ黄龍玄武ノ二艦及ヒ春日艦ヲ先導トシテ長﨑ヲ発シ前濱ヘ着セラレ鹿児島ノ様子ヲ探偵ノ上入港上陸ニ相成リ嶋津父子ヘ勅命ヲ傳ヘラレタリ其勅書ニ曰ク 鹿児島県下ノ逆徒熊本縣ニ乱入シ朝憲ヲ蔑如シ官兵ニ抗シ悖(※異体字)乱ノ挙動ニ及フ朕已ニ征討ノ令ヲ布キ二品親王有栖川熾仁ヲ以テ征討総督ト為シ進発ヲ命セリ汝久光實ニ国ノ元功朕ガ素ヨリ信重スル所今特ニ議官柳原前光ヲ遣シ朕ガ旨ヲ諭サシム其レ能ク爾ノ誠意ヲ致セ

仝八日官軍ハ南ノ關ノ本営ヲ髙瀬ニ移シ山縣參軍ヲ始メ進軍ノ事ヲ議シ猶又兵ヲ加ヘテ

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田原坂残塁ヲ拔カント隊伍ヲ整ヒ進軍シ大ニ戦フタリ仝九日田原坂左翼ノ賊塁三ヶ所ヲ攻取リタリ仝十日野津少将スイトナリ木ノ葉口ヨリ伊倉ニ進軍シ大山少将河村參軍ハ髙瀬ニ在陳山鹿口ハ三浦少将師タリ仝時十一日ハ官兵暁ヲ冒シテ吉治越ノ左翼ナル賊ノ臺塲ヲ乗取リタルニ前面ノ賊打立テラレテ終ニ賊兵ニ取戻サレ田原坂ノ方モ賊塁ニ乗取リタル所 野ガ遊兵ニ跡ヲ断シ共ニ之ヲ保ツコトヲ得スシテ此時間ハ實ニ瞬間ニシテ賊ノ砲臺ヲ毀チ官兵築キ替ル隙モナク賊ヲシテ之ヲ取リ戻シ再ヒ元ノ地位ニ返サシメタリ山鹿口ハ午前八時ヨリ開戦シ官軍岩村平山ノ両処ヨリ進擊シ賊塁一ヶ所ヲ乗取シニ賊狭間ヨリ切込ミ頗ル激戦シ官軍退テ平山ノ臺塲ヲ守リ岩村ノ官軍進擊シ大ニ戦フ賊兵鍋村ヲ焼キ去ル海軍ハ白濱近津ノ賊ニ砲擊シタリ賊徒ノ険要トシテ堅ク守ル田原坂ノ地形ハ髙キ山ニモアラザレバ八折九廻或ハ下リ或ハ上リ守ルニ利アリ攻ルニ甚ダ不利ナレバ昔

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ヨリ此所ヲ腹切坂ト云フ若シ敵ノ攻ノ来テ此要害ヲ拔カル事アラバ熊本城之安危ニ抱ハルカ故ニ戦フヨリ死スルニ如クハナシト仍テ腹切坂ト云フ十三日黒田中将ハ兼テ鹿児島ヘ引卒サレシ兵一大隊半ト外ニ東京ヨリ出張シタル兵二大隊ト巡査七百名ヲ合シ軍艦ニテ肥後ヨリ賊ヲ突カルヽノ策ニテ発艦セラレタリ斯クシテ田原口ノ官軍ハ東雲ヨリ薩兵ノ塁ヲ拔カント頻ニ砲シケレバ暴徒等モ心得タリト防禦スル事一時間余リ然ルニ賊ノ拔刀隊ヲハ戦ノ圖ヲ去リ二三十人打チ揃ヒ眞一文字ニ切リ込ンダリ其太刀先ハ最モ尖トク一時潰走シタリ斯カル所ヘ近衛兵ナニ一ト打チト入替リ銃鎗ヲ以テ中段ヲ構ヒ突ト一ヲ以テ四角八面ニ突キ立テ手許ヘトテハ寄セツケサリシガ折シモ巡査ノ拔刀隊何レモ腕力スダレシ人々拾名ヲ一手トナシ不意ヲ狙テ打チカヽリケレバ賊ノ軍勢色メキテ四五十間

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程退テ勝タル此圖ヲ拔カサント進メ々ノ指令アレバ巡査ノ勇氣日頃ニ倍シ田原坂ヲ攻メ登リテ進メタレト云フ十四日拂暁兵ヲ揃ヒ植木口ヲ攻擊ス右翼前面ノ賊塁数ヶ所ヲ乗取リ賊走リ街道ヲ隔テヽ對戦ス田原坂口モ早朝ヨリ側面ヲ攻擊シ拔刀隊ヲ撰編シ砲戦ノ機ニ乗ジテ賊塁ニ切込ミ数塁ヲ拔キ之ヲ毀チ街道ニ添フテ過ク但正面ノ賊ハ未タ拔ケサレ共我兵非常ノ勇氣ヲ奮ヒ必死ノ賊兵六七十人ヲ計リ鏖シタリ十五日猪武者ノ聞ヘアル賊将桐野利秋ハ敵陳ノ眞先ニ進ミテ勢ヒ猛虎ノ如ク押シ来リ頗ル劇戦アリ仝日山鹿口岩村ノ官軍ハ長野原ハヅレ車坂ヘ進軍ノ処賊ノ伏兵左右ヨリ不意ニ砲発シ頗ル苦戦ニテ死傷最モ多分ト云フ十六日山鹿口休戦田原坂植木口ノ戦地ニテ鬼島桐野淵辺永山ノ四名騎馬ニテ軍中ヲ馳セ曲リ大ニ兵ヲ指揮セリ我カ軍之ニ悩マセラレ殊ノ外ノ激戦シタリト云フ十七日早天ヨリ開戦田原坂ノ賊勢ハ甚ダ鋭ドク一二ノ塁ヲ乗取リシモ又彼ニ恢復サレ苦

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戦ノ程ハ云ヒガタカルベシ十八日檜垣權少警視巡査六百人ヲ卒ヒ大分縣ヨリ進ミ入リ午前七時ヲ以テ坂梨ノ本営ヲ発シ二重峠ノ麓黒川村ヘ攻擊シ佐川警部一小隊ヲ卒ヒ間道ヨリ進ミ倉内警部ハ半小隊ヲ卒ヒ本道向ヒ檜垣少警視三百余人ノ将トナリ嶺ヘ通スルノ間道ニ向ヒ一挙ニシテ賊ヲ破ラント勇ミ進ンデ攻メ寄セタリ又本道ヨリ進ミシ兵ハ賊塁ヲ突カントオメキサケンデ打チ立ツレバ賊兵必死ト力ヲ極メ塁中ヨリ砲銃ヲ以テ連発シ烈シク両軍戦ヒシガ死傷甚タ夥シク進ミ得スシテ逡巡スルヲ得タリト賊徒ハ追擊シ我軍大ニ披靡ヘタリ一手ノ官軍ハ黒川村之賊塁ヲ襲ヒカヽル処賊ノ伏兵左右ノ林中ヨリ不意ヲ狙ヒ一目散ニ打立ラレ頗ル大戦ニ及ヒタリ扨テ雜報止テ次紙ハ我カ日記ニ移ル

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※以下の日記部分は途中で終わっており、大部分は空白のままです。次回記載します。

鹿児島征討日誌

今般西国騒擾ニ付突然トシテ後備軍召集ノ令ヲ下サレ三月一日郷里ヲ発シ仝四日東京麻布営所ニ至リ砲術ヲ復習シ鎮西出張ノ命ヲマツニ仝九日ニ鎮西出張ノ命アリ仝日(雨天)午前第九時麻布営所ヲ出発シ仝十時三十分築地ステン所ヨリ蒸氣車ニテ発シ仝十時三十分横濱ニ着シ同所芸居小屋ニ於テ午食シ午後三時同所ノ港ヨリ飛脚舩東京丸(此般廣大ニシテ中間カ七階長九十五間アリ)ニ乗込ミ仝七時仝所ヲ出発シ十一日(晴天)海上十二日(晴天)午前四時攝州神戸ヘ入港直ニ上陸シ兵庫明神町ニ於テ午食シ暫時遊歩シ午後四時再ビ東京丸ニ乗込ミ十三日(雨天)午前四時仝港ヲ出軌シ十四日(晴天)午前四時長州下ノ關ニテ暫時止般シ仝六時仝所ヲ発シ午後四時筑前博多ヘ入港六時上陸一泊ス十五日(晴天)午前十時整列総督奉送トシテ直ニ出軍ノ処變報休止トナリ仝十二時仝所ヲ出軍シ(三時頃筑後地ニ入ル)午後七時松﨑驛ニ着軍一泊ス(博多ヨリ八里也)十六日晴天午前四時松﨑ヲ出軍シ午後二時頃羽犬塚ニテ昼食シ仝五時三十分原ノ町ヘ着軍一泊ス(松﨑ヨリ十里余)十七日(晴天)午前四時原ノ町ヲ出軍シ(拙足痛ニテ原ノ町ヘ逗留ス)坂ノ下ニテ昼食シ(一時頃肥後地ニ入ル)南ノ關ヲ経テ午後五時髙瀬驛ニ着軍一泊ス(原ノ町ヨリ七里余)十八日(晴天)逗留是ヨリ戦地ニテ當駅等半バハ焼跡

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ナリ十九日(晴天)午前六時髙瀬ヲ出軍シ午後二時木ノ葉駅ニ着軍暫時休憩(此日拙原ノ町ヲ出発シ南ノ關髙瀬ヲ経テ午後四時木ノ葉駅ニ着シテ本隊ニ入ル時ニ一統ヘ酒肴并ニ金一円ヲ賜フ田原坂ノ砲声遥ニ聞ヘ其レツシキ事恰モ豆ヲイルガ如シ)仝六時頃ヨリ雨降リ同夜十二時木ノ葉ヲ出軍シ同二時本陳ヘ整裂此時雨降事甚ダシ闇夜ニシテ咫尺ヲ辯セズ既ニ二俣田原坂両所ノ間道險岨泥濘ニシテ歩行甚ダ苦シム暫時ニシテ二俣戦塲ニ至リ我隊(第一聯隊第一大隊ナリ尤モ一中隊に中隊ノミナリ之ハ木ノ葉ニ在リテ未ダ進マズ三中隊四中隊ノミ進メリ)指揮長ヲ分黎明大進擊(時ニ雨止ム遥カ右吉治越遥カ左山鹿口等大進擊アレノモ遠陳故委細不詳ナリ)此時右小隊ハ内藤中尉左小隊ハ齎藤大尉河原少尉最モ中軍ヲ備ヘ然ル所内藤中尉勢盛ンニシテ左リ田原坂三ノ臺塲ヘ先陳シ喇叭ノ合図ニテ銃鎗ヲ以テ躍リ入リ二ノ臺塲乗リ取リ戰将ニ酣ナリ暫時ニシテ二俣ノ賊軍潰走ス尋テ田原坂一ノ臺塲ヲ陥滓(手偏)シ此時右小隊指揮長内藤中尉ヲ始メ即死数拾人負傷シタル者又甚ダ多シ二俣田原塲山鹿此三ヶ所ハ諸山連綿ス然リト𧈧モ山鹿口ハ破ルルヤ否ヤ山鹿ノ賊軍忽然トシテ潰走ス此時賊ノ屍ハ積デ山ノ如ク(去ル四日ヨリ大戦七合

f:id:goldenempire:20210427093704j:plain猶拔事能ハズ兩陳ノ間距離僅カニシテ海戦ノ死骸互ニ引ク事能ハズ故ニ猶ホ夥シ古語ニ云フ加藤清正熊本城ヲ築キシノモ田原坂ハ熊本城ノ喉ニシテ五百ノ兵ヲ以テ五万勢ヲ防ク事三年猶ホ易ト云ヘリ)大砲小銃刀鎗長刀ノ類山野ニ棄靡スル物数千挺是ヨリ(拙野津少将ノ指揮ニテ齋藤大尉ノ命ヲウケ一小隊ニテ植木駅ノ山鹿ノ間道ヲ防ケリ)二俣ヲ破リシ官軍植木ヲ過ギ向坂ヘ田原坂ヨリ二里余進軍ス賊軍道路ノ両端ニ伏兵ヲ設ケ官軍ノ進軍ヲ待チ両端ノ伏兵齋シク起リ正面両側三方ヨリ乱射シ弾丸大雨ノ如シ之カ爲ニ甚ダ苦戰ス賊兵勝ニ乗シテ追擊ス再ビ田原坂ヘ押戻サント猶嚴シク擊チ来リ官軍植木驛マデ退キ茲ニ防グ(向坂ヨリ植木マテ十丁程アリ官軍此間ノ苦戰ニ即死百十三名ヲ残セリ見レバ賊運之ヲ集メテ一穴ニ埋メ官軍死骸何人タル標札ヲ立テタリ)田原坂ヲ破リシ官軍植木口左ヘ進軍シ山鹿ノ敗賊ト大ニ戰フ夜ニ入リテ官軍植木町ヘ火ヲ懸ケ諸ノ篝ヲ取リ前軍中ノ備ヲ設ク(此時拙山鹿ノ間道ヲ引アゲ本隊ヘ組込ミトナル)仝夜一時頃ヨリ雨降ル事甚ダシ此時賊ノ拔刀隊二百人斗リ突ニ我軍ヘ乱入ス官兵手早ク銃鎗ヲ取リテ之ニ當ルニ賊兵屈シテ退却ス仝四時頃ニ至リテ雨止黎明ニ至ルヤ否ヤ臺塲ヲ築キ警備ヲ加ヘ二十一日(雨天)午後三時頃熊本街道ヨリ二千人斗リノ軍勢列ヲ組ミ悠々然トシテ進ミ

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来ルヲ見テ熊本城兵トナス其軍稍々進附ケバ賊兵ナリ我兵ヲ鏖ニセント擊チ来ル弾丸透間ナク我兵防ク事能ハズシテ拾丁程退キ地形ヲ擇ミ茲ニ防カント臺塲ヲ築クニ土俵ナク持チ来ル飯俵ヲ楯トナシ(此臺塲髙ハ三丈五天横三十丁間余リナリ)打チ来ル敵ヲ的トナシ死力ヲ盡クシテ戰フニ賊兵茲ヲ破リテ田原坂ニ至ラント猶モ嚴シク攻来リ其ノ砲聲恰モ大雷頭上ニ落ルガ如シ二十二日(雨天)午前五時頃(時ニ雨止ムマデノ)劇戦ニテ官軍少シク進ミ進後五時迠ノ戰ヒニ於テ官賊両軍トモ堡壘ノ防禦線七里ニ跨ル其他名ハ遥カ右キ吉治越ヨリ木留木尾野村石川鳥ノ巢隈府マデ七里ノ連陳最モ重ニシテ互ニ敵陳ノ様子ヲ探ラントスルニ一人モ忍ヒ窺フ透間ナシ仝夜一時頃ヨリ雨降ル廿三日(雨天)午前五時三十分ヨリ軍曹一人伍長二人兵卒八人探偵トシテ線外ヘ進歩セシ処賊兵頗ル弾丸ヲ飛バシ依テ直ニ帰陳ス(拙此ノ時軍曹宮野伍長上ノ山兵士十一名ニテ遥カ左リノ林中ヲ探偵セシニ軍曹宮野恐怖シ敢テ進マズ故ニ悠々ト林中ニ休足シ午後后二時頃自ラ陳ベテ本隊ニ入ル軍曹宮野ハ後チ木山ノ戦ヒテ足ヲ射ラレテ病院ニ入ル伍長上ノ山ハ後チ軍曹ニ進ミ無事ニテ凱旋セリ)指揮長迫田少佐ニ報ズ直様迫田ノ命ヲ以テ進ミ大ニ戰ヒ

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頗ル分捕ル(賊軍第六大隊ノ米四拾俵銃器数百挺人夫不在故火焼ス)交戦僅カ日暮ニ及デ本線ニ引アゲ野陳ス廿四日(晴天)我三中隊第一ノ臺塲ヘ伍長一人兵士拾八名増加ス此時大垣伍長即死ス是ヨリ数々戦ヲ挑ム此辺ノ地形ハ田ナク畑ノミ総テ凹凸ノ地ニテ二三町ノ間ニ一丈二丈ノ髙低ナキハナシ道窪ク畑髙ク道ヲ歩ムニ一町ヲ隔テ人頭見ヘズ両陳ノ間近キハ拾間遠キハ弐百間ヨリ三百間ニアリ互ニ壘ヲ堅固ニシ或ハ空堀ヲ鑿リ或ハ鹿柴(木ノ枝或ハ竹ノ釘ヲ地ニサシテ人馬ノ歩ミ難キヲ主トス)ヲ樹ヘ攻メ来ラバ鏖ニセント軍術ヲ百法ニ回ラシ軍機ヲ事冝チ任セテ専ラ防禦ノ備ヲ設ケ透間ヲ目ガケテ狙擊ヲナシ敢テ大兵ヲ出サズ然レノモ連陳数里ニ跨リ大小ノ銃砲数万ナル故ニ瞬門ト𧈧モ昼夜砲聲止事ナク植木口ハ熊本ヘノ本街道ナレドモ連陳ノ中央ナルガ故ニ進擊ナシ難シト𧈧熊本鎭台兵ハ薩兵ニ圍マレ籠城シ(午後一を消して一時モ)早ク熊本城ノ通路ヲ擊チ開カント木留鳥ノ巢等ノ口々ハ日々大兵ヲ引テ攻擊スレド賊壘堅固ニシテ拔ケズ木留石川鳥ノ巢等ノ戰ヒハ遠隔故委細ハ不明ナリ

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 おわりに

 土橋健治郎の所属部隊は東京鎮台第一聯隊歩兵第一大隊第三中隊である。兵士だろう。聯隊長は長谷川好道中佐、中隊長は齋藤時之大尉である。日記に登場するように中隊将校には以下、加島義質中尉、内藤延慈中尉、河野茂太郎少尉、大野粛章少尉試補がいた。 

 東京鎮台の従軍日記は珍しいと思っていたら、東京鎮台歩兵第一聯隊第二大隊第一中隊兵士の従軍日記を所持していたのを忘れていた。山梨県都留郡大明見村の宮下義壮「西南の役従軍日記」1993年私家版である。その冒頭に「三月上旬郷里ヲ発シ同月中旬肥後田原坂ニ至リ始メテ接戦夫ヨリ所々ニ於テ交戦シ同年九月下旬ニ至鹿児島城山ニ於テ賊徒殲滅シタル事情ノ概畧ヲ記載ス」とあるものの、日記は4月24日までで終わっているのが惜しい。本資料は本来の日記を清書したとみられるが、それ以後を記さなかったのは、途中でもういい、個人の記録はあまり意味がないと考えたのだろうか。あるいは後日継続しようと思っていながらそのままになったのか。記述中には自分の行動をほとんど記していないし、前半部分にわざわざ戦争の概要を記したように自分に関することは意味がないと考えるようになったのかも知れない。

 土橋健治郎に関する布告を入手したので付記しておきたい。明治15年10月19日以前に職猟免状を紛失したので見つけた者は最寄り警察署へ届け出てほしいというものである。

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赤松越を本道とする布告

 古代の駅路以来、豊後と日向の行き来は梓山を通っていたが、1873年明治6年)に少し東側の赤松峠を通るように変更された。その布告を紹介する。

 梓山は大分県佐伯市宇目と宮崎県延岡市北川町の境界に東西方向に横たわる山脈の中央部にあり、標高は725mである。駅路は二地点を最短距離で繋ごうとする傾向がある。例えば、よく知られているように九州縦貫自動車道が福岡と熊本の間で、駅路とほとんど同じ場所を通過している。古代の駅路も現代の高速道路も早く目的地に着こうとして建設されたものであり、偶然にもほとんど同じ地域を通過したのである。梓山路線の場合、最短距離ではあるが平野部を通るのと違い不便であり、1873年明治6年)には東側にある谷筋、赤松越を通る路線に変更されている。現在はさらに東側に国道10号が新設されていて、赤松越は廃道となり、荒れるに任せた状態である。

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 布令書の内容

第三百八十号

西海道豊後國ヨリ日向國ヘノ往還重岡驛熊田驛ノ間梓越ヲ廃シ自今赤松越ヲ以テ本道ト定候條此旨布告候事

 

 明治六年十一月十五日右大臣岩倉具視

   布令書明治六年十一月一千七十八号〇二 

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 上図は手前が北、向こうが南である。1877年7月上旬の両軍の対峙状態を示す。赤が官軍、白が薩軍。赤松越は路線名である。主に谷底を通るが峠を越える場所もある。それが赤松峠である。1877年(明治10年)の西南戦争では、官軍が峠を含む尾根筋に多数の台場を築いており激戦が行われ、今もそのまま残っている。6月24日には薩軍が熊田方向から北上し、赤松峠や左右の広範囲に展開していた官軍陣地に攻撃をかけ、一時は峠を突破する状態だったが、弾丸不足のため撤退している。この日の戦闘では官軍側には小川又次少佐その他、薩軍側は野村忍介・増田宋太郎その他が登場している。

 現代の地理認識では、西南戦争の激戦地は随分国道から離れた山の中にあると思われがちだが、当時はそこが主要路線だったのであり、国道10号が通る山間部は当時は随分なへき地だったのである。

野村忍介宛の桐野利秋書状

 

 最近、西南戦争中に桐野利秋が野村忍介に出したという書状を入手したので紹介する。

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書状の内容

 軸装され桐箱に入れられ長年経過した書状である。箱の長軸側面には古びた紙に部號:空白、筆者:桐野利秋、書畫題:書簡、と黒インクで書かれている。書状は薄水色の和紙に貼り、書状自体は幅44.0㎝、縦18.3㎝で、紙面に明白な折り目は観察できない。本文は以下の通りである。一行ごとに空白を入れて示す。

先日ハ一報被下難 有諸事ニ参集ヲ 願上候處実ニ愉 快ニテ咄し致候就而ハ 竹田ノ報國隊モ 余程ノ好都合ノ 由是又可成進ム 様願上候鶴崎 地方ハ如何ニ候や 可成早ク同地ヘ 御進之處ヲ願 上為後日候      

 四月十三日利秋

野村忍介殿   ※「諸事」・「為後日候」は読めなかったので、大分県立先哲史料館の大津祐司さんと三重野誠さんに教えて頂いた。特に大津さんにはいつもお世話になっており、お礼を申し上げたい。

   書状の中身を現代文にすると次のようになろうか。

先日は報告を下さりありがとうございました。色々なことがうまくいくように願っておりましたところ、本当に愉快だと話したことでした。つきましては竹田の報国隊も随分都合がよいとの事で、これまたなるべく順調に行くよう願っております。鶴崎地方はどのような状況ですか。後日の展開のために、なるべく早く鶴崎に進軍するよう願っております。

四月十三日 利秋

野村忍介殿

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 内容から見て書状の日付4月13日は旧暦であろう。4月なら野村忍介率いる薩軍奇兵隊はまだ大分県内には侵入していないからである。書状の日付を新暦に直すと5月25日となる。薩軍奇兵隊が延岡を拠点に初めて大分県内に侵入したのは5月12日である。大分県南部の佐伯市重岡に侵入した奇兵隊約800人は翌日13日に竹田に進んだ。

 西南戦争中の桐野の書状は「西南記伝」に池上四郎・別府晋介宛があるのを把握できたが、それは新暦4月3日の日付であり、野村宛のように旧暦ではない。新暦も旧暦も使っていたということだろうか。また、池上・別府宛の書状は一行7字前後の大きい字形である。一行の字数は6字から8字で、10字が一ヶ所あり、一行の字数と大きな字で書かれている点は池上・別府宛と似ている。

 また、展覧会に出品された目録中に桐野の書状の活字化されたものがある(昭和二年十月「西南戰役遺物展覧會目録」會場 山形屋呉服店 主催 鹿兒島新聞社)。引用する。

  日州球摩の陣中より母へ贈られし書状、信作は陣中の署名に係る久とは夫

  人の名榮熊とは今の利義の事也

  彌御揃御母上様御初皆々様御兩家内御機嫌可被成御座目出度御儀奉恐悦

  候次に私事も無異球摩の内江代と申處ヘ滞在仕候間乍憚御安心可被下候

  又五四日之中より熊本の樣出軍仕筈に御座候間決御氣仕思召被下間敷家

  内中安否伺旁迄忽卒中奉伺候折角時分皆々樣無御痛樣奉祈候不取敢如此

  御座候謹

    四月廿九日               桐 野 信 作

   母上

   久殿

   さよどの

   さた殿

   榮熊殿

   武彦殿

   二白御伯父樣ヘ別段書狀差上不申候間可然被仰上置可被下候也

 4月29日江代から家族に宛てた書状である。ここでは新暦を使っている。利秋の妻は久(ひさ)、利秋の弟の子供榮熊は後日、桐野利義と改名して桐野家を継いでいる。 

 他にも新納軍八宛の書状があるが、鮮明な画像を見ていないので参考にできない。

 

薩軍鶴崎攻撃

 薩軍鶴崎攻撃について野村忍介等の「野村忍介外四名(奇兵隊連署上申書」が概説的である(「鹿児島県史料 西南戦争」第二巻)。

  顧フニ大分県庁下亦空虚ナラン、機失フヘカラスト、復タ一中隊毎ニ壮

  士二十名総員百六十名ヲ撰抜シ、鎌田雄一郎・嶺崎半左衛門之ヲ率ヒ、

  十六日午前一時ヲ以テ発ス、行ク凡ソ十三里余大分ヲ距ル僅カニ半里計、

  官兵来着守リ已ニ厳ナルヲ聞キ、忽チ方向ヲ転シ鶴崎進撃ニ決シ、鎌田

  兵士十五名ヲ分テ之ニ馳ス、時ニ鶴崎ニハ警視隊ノ着艦ニ際シ、兵士上

  陸或ハ湯沐シ或ハ喫飯スルニ会フ、我兵直チニ分署ヲ雷撃シテ数名ヲ斬

  ル、是ニ於テ満街喧噪シテ巡査事不意ニ出ルヲ以テ兵器ヲ取ルニ暇アラ

  ス大ニ狼狽逃走ス、我兵縦横奔馳一時ニ数十名ヲ斃ス、巡査隊長潰兵ヲ

  招集シテ銃槍ヲ列ネテ方陣ニ備フ、兵員凡ソ数百人、此際我隊鎌田重傷

  ヲ負フ、且本隊未タ達セス、故ヲ以テ退軍ス、途ニ本隊ト相会シ遂ニ犬

  飼駅ニ退ク、十七日竹田ニ抵ル、

というものである。野村は間違えているが警視隊は鶴崎に上陸したのではなく、東方約17㎞の佐賀関に上陸し鶴崎までは陸行している。また、また薩軍が竹田に帰着したのは18日である(高橋信武「松岡用務所日記」)。大分県庁を抑えようと進んだところ、市街の外側で官軍が配置についているのが判明し、目的地を東方の鶴崎警察署に変更した。攻撃目標が代わったので小勢の警察署のために百数十人全員で行くのは多すぎると考えたのか、190人が鶴崎手前の乙津に留まることになった(「鹿児島県史料 西南戦争」第一巻PP.675に「残リ賊百九十名ハ近傍乙津ト云フ処ヘ屯シ」)。本隊と別れ、鎌田雄一郎が15人の部下を率いて鶴崎町に進入した。ところが予想外だったのは約250人の豊後口第二号警視隊(東京警視隊)が当日佐賀関に上陸、直ちに鶴崎に進んで町中に休憩していたことである。薩軍は夜11時暗闇の中を小勢で警視隊が休憩している複数の宿に突入した。薩軍側は竹田士族一人が捕らえられ死亡し、隊長の鎌田雄一郎が負傷した。官軍側は死者2人・負傷者4人が生じており、薩軍側は戦果を過大に評価している。

 警視隊が休憩していた旅籠の一つ、佐伯屋が翌年大分警察署に提出した「薩賊乱入之際手續書」の控えが子孫宅にあり、史料紹介されている(北川徹明「旅籠佐伯屋と鶴崎西南戦争」『西南戦争之記録』第3号)。内容は省くが、室内での狼藉の跡が生々しくわかる具体的な被害状況が記されている。

 薩軍は戦闘を切り上げ全員が南下して17日午前4時、大分市松岡に到着・休憩し、川舟を集めさせて大野川を遡り戸次に上陸し竹田へ向かった。この前後の状況を地元の小区用務所が記録しており、これを紹介したのが「松岡用務所日記」である。竹田では士族を一堂に集めて脅迫し報国隊という部隊編成を強要し、5月19日に約600人で成立している。

 

その頃の桐野利秋

 桐野は熊本平野撤退後、4月23日に奇兵・振武・行進・干城・正義の各隊と熊本隊・協同隊などと阿蘇外輪山西麓の矢部を発した。各隊は胡摩越あるいは那須越を越えて熊本県球磨郡水上村江代に27日に到着している。薩軍五番大隊兵士だった平田盛二の「日誌」(「鹿児島県資料西南戦争」第三巻PP.708)にこの時の桐野が登場する。

  一今日矢部濱町ヨリ熊本之内管村かこひと云所エ転営相成、午後一時ヨリ

   同三時比ニ着シ一泊シ候事、

  同 廿四日  雨

  一今日午前五時管村出立、シバサント云フ大山ヲ越ヘ、午後六時ニ及テ鹿

   兒島県ノ内尾前ト云フ村ヘ着シ、一泊シ候、尤右大山エ雪有之、相喰ミ

   候、

  丑四月廿五日  雨

  一今日午前六時尾前出立、当所ヨリ桐野先生エハ別レ、栗支尾ト云村ノ那

   須源六ト云家内ヘ立寄相休ミ、午後六時ニ及テ人吉之内岩野ノ高野村ト

   云処エ着シ、一泊シ候事、尤此道エ野タケト云フ高岡ヲ越候事、 

 これによると桐野は4月25日朝には宮崎県東臼杵郡椎葉村不土野の尾前にいたことになる。山都町管村囲から尾前までは山の尾根筋を通ると約20㎞の距離がある。平田はこれを13時間かかっている。その後、尾前から南に進み熊本県境の不土野峠までは川沿いに13㎞ほどあり、峠から南西の江代までは5㎞くらいの下り道である。桐野が尾前から江代に移動するのに1日弱は要しただろう。したがって、桐野が25日朝に尾前を出発していたなら、早くても25日遅くか26日には江代に着いたのではないだろうか。桐野は江代に本営を置き、28日に諸将を集めた会議で各隊の配置方面を決定した。

 5月11日頃、高知県の藤 好静、村松政克が延岡に密航して来た。野村忍介が応対し、藤らの希望により江代の桐野の所に案内させている。その時桐野は最早日向ハ兼テ思ノ通リ我手ニ入リ候ニ付従此豊後ニ入リ竹田ヲ手ニ入日向ニテ大砲ヲ鋳立細島ヘ臺塲ヲ築キ大砲ヲ据ヘ海軍ヨリノ砲發ヲ防キ竹田ヨリハ大分ヘ兵ヲ出シ筑前筑後豊前ヲ乗取リ肥前ニ廻リ長﨑ヲ占メ暫ク鋭ヲ養ヒ外國ヨリ軍艦二艘ヲ買求メ馬関ヘ進ミ官ノ海軍ト勝敗ヲ一瞬ニ决シ摂津ヘ進撃ノ見込ニ候と述べたという(C09080861100密事探偵報告口供書類 明治10年4月25日~10年8月3日(防衛省防衛研究所蔵)。

 野村宛書状を書いた5月25日は江代出発の当日あるいは直前であろう。野村はこの頃延岡の奇兵隊本営にいた。延岡から日向・山陰・坪谷・湯山峠を通って江代まで約120㎞というのが大雑把な距離である。乗馬でも最低1日は掛かるだろう。

 

江代から宮崎へ

 熊本から撤退した西郷隆盛は人吉を本拠とし大本営と称していたが、官軍が迫ってきたため五月下旬には宮崎市に移動した。同じころ江代の桐野も宮崎に転営している。桐野が宮崎に行くときに通った経路は、宇野東風「硝煙彈雨丁丑感舊録」PP.121に「桐野利秋は、江代を去りて延岡に出で、尋で宮崎に至るといふ」とある。「薩南血涙史」5月29日の部分では「是より先き桐野利秋は宮崎に本營を移し鹿兒島方面及び豊後口等の諸軍を遥に統監し」とあり、正確な日は記さない。

 桐野は宮崎市で旧宮崎県庁であった宮崎支廳(当時、宮崎県は廃止され、鹿児島県となっていた)を軍務所と改め、大区事務所を郡代所、戸長役所(いわば市役所)を支郡所と変更し、28日に各戸長副戸長に令達しているのでおそらく28日以前に宮崎に来たはずである。結局、宮崎市には5月27日頃から7月31日までおり、戦況の悪化に伴い8月3日には日向市耳川北岸に移動していた。最近、宮崎県埋蔵文化財センターが耳川下流域両岸の戦跡分布調査を行い、多数の台場跡を確認しており、報告書刊行がまたれる。

 

おわりに

 桐野は大分に進んだ奇兵隊の情報をどう把握したのだろうか。多分、奇兵隊員が野村の手紙を騎馬で持参し、その際大分の状況についてやり取りしたと思われる。書状の冒頭に「先日ハ」とあることから、野村の手紙を受け取ったその日にこの書状は書かれたのではなく、何日かたってから書かれたものだろう。報國隊モ余程ノ好都合ノ由とあるから、19日に報国隊が結成されたことも野村の手紙やあるいは持参者からも聞いていたのである。25日に書いているので、その時点では5月16日に一度鶴崎に突入したけれど撤退して竹田に帰ってきたことも知っていただろう。とすれば、野村は竹田侵入に成功したという情報を桐野にすぐには伝えておらず、報国隊ができた19日以後に初めて伝えたらしい。書状には鶴崎地方ハ如何ニ候や可成早ク同地ヘ御進之處ヲ願上為後日候とあり、一度撤退した鶴崎への侵入を促している。

 以上、桐野利秋が野村忍介に宛て書いた書状について紹介したが、これが偽物かどうか、残念ながら筆跡から判断する能力は持ち合わせていない。

 

甲突川右岸丘陵の戦場

  下流に向かって右手を右岸という。鹿児島市内の城山の西側山裾を北西側から流れ下って、南東側の鹿児島湾に注ぐのが甲突川である。この川の右岸には幅1㎞前後の平地を隔てて標高100m前後のシラス台地が分布している。この右岸台地の西南戦争の戦場についてあまり注目されてこなかったのではないだろうか。現在、宅地化が進行し西南戦争当時の地形が蚕食され続けている。今回は、この地域も戦場になったということを指摘し(指摘するまでもないだろうが)、意外に戦跡が残っているかもしれないという注意喚起を行いたい。大分県に住んでいるのでなかなか鹿児島

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カシミール3Ⅾより】

まで出かける機会がないので、実際、現地に台場跡が存在するのかは地元の人に任せることにし、史料から考えてみることにしたい。

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【上図は「西南記伝」附図】

 鹿児島城大手門の銃砲弾痕跡の説明で述べたように、西南戦争では鹿児島市内は二回戦闘地域になっている。官軍が薩軍の隙を衝いて鹿児島市内を占拠した後に薩軍が帰県したときと、延岡和田越の会戦で敗れた薩軍鹿児島市内に戻ってきて市内に突入したときである。

 甲突川右岸における一回目の状況について。4月26日以降、官軍(この日は別働第一旅団・別働第三旅団が27日、第四旅団が5月4日)が鹿児島市に上陸を開始し、照国神社・私学校から海岸・多賀山・城山・甲突川などの配置についた。彼らは城山や市街地周辺に防禦線を構築し、薩軍熊本県内から帰来し襲来することに備えていた。

 5月に鹿児島市に帰ってきたときの薩軍の配置状態について「鹿児島県史料 西南戦争」第四巻からみておこう。安藤源之丞上申書PP.94~103「黎明ニ及ンテ全軍伊敷村ニ至リ配兵ス、我隊矢上ケ城ヲ守ル、同八日又転シテ玉龍山床安ノ峯ヨリ内ノ丸本道ヲ中央ニシ、右ハ龍之尾ノ險ニ拠リ各所塁ヲ築テ守兵ス、児玉矢八郎隊・武強兵衛隊ハ上ノ原丸山、園田武一隊ハ冷水山上、藤井直次郎隊ハ冷水本道、行進砲隊ハ内瀬山上、伊集院英輔隊同山下、毛利權兵隊・市来弥之助隊・仁禮孝右衛門隊ハ玉江橋近辺ヨリ原良村、奇兵一番山野田一輔ハ同所尾畔山ヨリ西田村、黒江八左衛門隊・松元與八郎隊田上村ニ各築塁守兵ス」 

 これは主に城山の北側から甲突川右岸に進入した薩軍の状況である。催馬楽城というのは矢上氏の山城であるが(「鹿児島県の中世城館跡」)、これを矢上ケ城と呼んだのだろうか。とすれば南洲公園の北北西約900m付近である。玉龍山とは島津氏の菩提寺であった池之上町の福昌寺のことである。現在は島津久光の墓があることで位置が分かる。南洲公園の西から南側の地域に下竜尾町上竜尾町があり、この付近に龍之尾ノ險があるようだ。その西側に冷水町があり、ここは同時に岩崎谷の北約600mの地である。上ノ原は催馬楽の西1㎞ほどの所である。尾畔山は後述する地図史料に出てくる。

 5月中旬の鹿児島市内の状況について記述した別働第三旅団の食事作りに雇われていたと思われる人、佐野新兵衛の提出した探偵書がある。

C09082316300「明治十年五月以后 探偵書 海 参軍本營」0115~海軍省罫紙 防衛研究所

                       鹿児島筑後町平民

                       当時別働隊第三旅團

                       第二大隊第二中隊一番小隊

                       賄方

                          佐野新兵衛  

   自分儀本月十一日午前十一時物品買入ノ為メ櫻島ヘ渡リ夫ヨリ谷山ヘ罷

   越シ諸品買求置キ同十二日同所海岸ニテ出舩心配致シ居候内忽チ士族三

   人駈来リ會所ニ御用有之候故直ニ来レト云ニ任セ倶々會所ヘ行シニ荒縄

   ヲ以テ両手ヲ縛シ吟味ノ席ヘ被差出鹿児島ヲ出シ事ヨリ物品ヲ買入等不

   審ニ有之迚糾問有之糾問人ノ姓名ヲ知ラス程能ク相答候ヘ共不審不晴趣

   キヲ以テ已ニ打擲セラレントスル際兼テ知ル川鍋戸長西郷次郎太ト云フ

   者其席ニ臨ニ糾問人ト倶ニ其席ヲ退キ暫時咄声有之再ヒ席ニ出テ縄ヲ鮮

   キ玄関ヘ被差廻尚西郷ヨリ種々尋ヲ受ケ候間是又品能申述シニ同人云貴

   殿ハ是非鹿児島ヘ帰ル積リナルヤト問フ御詮議嚴敷候テ出舟難相成候ハ

   ヽ致シ方無之候ヘ共可成丈帰宿致シ度ト相答タリ

  一西郷云フ此度ノ軍議ハ鹿児島市中焼失シ然ル後一方ハ城山口一方ハ竹之

   𣘺最モ汐ノキヲ謀リ一方ハ海岸三方ヨリ一挙ニ攻擊候筈ナリ故ニ屡々鹿児

   島ヘ放火人差遣シタレノモ事不果候ニ付貴殿鹿児島ヘ帰リ度事ナラハ指許

   ス故直ニ市中ニ火ヲ放ツヘシ然ル上ハ此度賞誉ノ筋モ可有之トノ義ニ付

   偽テ承諾致シタリ

  一西郷云鹿児島市中ニテハ此方ヨリ攻擊ノ兵員何程位ト評判スル哉ト問鹿

   児島近傍ニ屯集スル兵凡ソ六千人位ト風評有之旨相答候処能ク分リ居ル

   ナリト云フ

  一西郷云味方ノ勢モ追々着ス大砲モ隈ヨリ取寄ル筈ニニテ最早着スル頃ナ

   リ何レ悉ク整次第発スル模様ト話シ有之

  一西郷云是迠伊敷ノ玉里ト云所ニ本陣有之候ヘ共過日官軍ノ大砲丸本(彈

   脱カ)営ノ前ニ落シタレノモ破烈不致故負傷人ハ無之夫故小野ト云所ニ営

   ヲ移シタリト云フ

  一谷山ハ諸物運送便利ノ地ナルニ付下方ノ戸長ハ悉ク谷山ニ出張相成居ル

   ナリ

  右ノ廉々聞込ミ本日暁天谷山ヲ発シ午前九時帰宿仕候事

   十年五月十六日

 佐野新兵衛は5月11日に物品買入のため桜島に渡り、それから鹿児島市街南部の谷山に移動してここでも買い物をした。翌12日、谷山の海岸で乗船準備をしていると士族3人が駆け付け拘束されて会所に連行された。ここで川鍋戸長の西郷次郎太(当時の行政単位は大区小区制といい、市町村は廃止されていた。戸長は市長のような役職だった)から市中への放火を依頼され、承諾したので解放される。この時、西郷戸長が言うには「これまでは伊敷の玉里に薩軍の本陣があったが、小野に移した」と。

 玉里には島津家の大名庭園と屋敷があったので、ここのことだろう。この報告を重視した別働第三旅団は以後、哨兵線内への人民の通行を厳禁し、また桜島からの入港してくる民間人に限り厳重に取り扱うことにしている。

C09082316200「明治十年五月以后 探偵書 海 参軍本營」0113 防衛研究所

  別紙口供ノ内放火云々ハ現実委託ヲ受ケシ義ニ付熟々勘考スルニ哨兵線人

  民通行被差許候而若シ右様ノ類紛レ込ミ彼レノ術中ニ陥リ候テハ却テ人民

  モ大害ヲ被リ不容易義ニ付断然通行嚴禁相成リ度最モ櫻島人民ニ限リ特ニ

  入港ノ方法厳重ニ御設ケ相成候方可然ト愚考候間此段添テ上申候也

     五月十五日       田邉陸軍中佐

       川村参軍殿

 「薩南血涙史」は玉里邸を本陣にしたことは記していないが、邸は数ヶ所出てくる。5月3日には「玉里島津邸前に至り兵を整へ黎明を期し進擊を開始し」とあり、4日は「午前六時玉里島津邸前に達し遂に進擊の期を失せり(略)再び玉里邸前に會せしむ」、「前夜十二時(4日のこと)を以て再び玉里邸前に會し預定の部署を変更す」などである。どれも部隊を玉里邸前に整えてから出撃しており、邸内を使用したことは憚って触れなかったらしい。

 甲突川右岸付近での戦闘を「征西戰記稿」から掲げてみる。薩軍は5月5日、新昌院谷(城山の西側)・草牟田(城山の北西側)の両道というから主に西側から城山に向かって攻撃、7日には甲突川下流を渡ろうとして撃退されている。御楼門のある東側は戦場にならなかった。5月7日、城山の西から南に位置する甲突川の官軍守線を襲い、撤退した。5月18日には甲突川の西側にある武大明神の丘・二本松とタンタド(城山の北東側)の上から官軍に向かい砲撃し、24日は逆に官軍が甲突川に架かる西田橋・高麗橋から西側に向かって攻撃した。この日官軍が進んだのは右岸の平地までであり、背後山上の薩軍から猛烈な射撃を受けている。

西田橋ヨリ進ム所ノ一半隊、約ノ如ク射擊ヲ始ムルヤ他ノ一小隊半ハ幾ント武村ニ達セントシ途ニシテ炬火ヲ見、直チニ進テ其守兵ヲ殪ス賊忽チ拔刀來リ薄ル又擊テ之ヲ却ケ要壘三所ヲ拔キ遂ニ進テ村落ニ入ル時ニ天適ゝ曙ケ賊更ニ山上ノ要壘ニ據リ我ヲ瞰射ス勢ヒ最モ猛ナリ因テ左右ニ撒布シ之ニ應ス左翼田上村ノ一中隊ハ山腹ヨリ賊ノ射擊ヲ受ケ其目的ヲ達スル能ハス兵ヲ左右ニ撒布シ對抗頗ル勉ムレノモ賊全力ヲ戰線ニ竭シ猛烈ニ火擊スルヲ以テ姑ク其鋭ヲ避ケントシ退テ地物ニ據リ撒布ス武村ノ兵モ亦左翼横擊ヲ受クルノ憂アルヲ以テ徐々西田高麗両橋ノ方位ニ退ク」という。「鹿児島県史料 西南戦争」第二巻に薩軍側の記録がある。高橋直次郎上申書PP.261~265

「翌日小野村ニ転陣シテ該村ヲ守ル、翌日原良村ヘ転陣ス、其地ヨリ尾畔ノ丘・筋違橋・袖掛松ノ丘ニ至ルマテ尽ク台場ヲ築キ之ヲ守ル、尋テ米製ボード及ヒ野戦砲ヲ尾畔ノ丘ニ据ヘ、又砲台ヲ武ノ丘ニ築キ、十二斤砲ト四斤半二砲ヲ据ヘテ県庁及ヒ下町辺ヲ発射ス、官兵之ニ困ムト云」

    結局、この時点では薩軍が武村の背後山上に多数の陣地を構築していたのである。村の付近の平地にも3基の台場があったらしいが、勿論今は残っていないだろう。武村背後の丘の薩軍十二斤砲は24日、別働第一旅団に分捕られている。

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 6月24日、官軍は下流の武橋から南西に進み谷山地方を攻撃した。甲突川の南側にある新川に架かる涙橋付近では薩軍の20余塁を抜き、北西側の台地である紫原まで追撃し、さらに武山を攻撃して奪った。別働第三旅団は「武山ノ賊ヲ擊ツ本團ハ左翼軍ト爲リ(別働第一旅團ヲ右翼軍トス※原文はニ段記述)午後一時山腹ニ開戦シ賊ノ退クニ乗シ尾擊シテ絶頂ニ至ル賊ハ谷ヲ隔テ險要ニ據リ死守ス我軍頗ル苦戰午後五時八木中尉第二大隊ヲ率テ來リ援ク第一大隊乃チ大ニ力ヲ得テ更ニ右翼軍ト議シ將サニ銃劍ヲ以テ三面ヨリ賊壘ヲ衝突セントス時會〃黄昏且ツ大風雨ニシテ賊我カ突進ヲ覺ラス因テ吶喊之ニ乗シ要壘二所ヲ衝ク賊遂ニ銃器彈藥ヲ棄テ常盤及ヒ伊集院街道田上村ニ向テ逃ル尾擊數丁ニシテ止ミ哨ヲ両所ニ排ス」とある。

 この日の戦場紫原とは甲突川河口から南西約3㎞にある台地で、武山はそこから北西約2.5㎞辺りであろう。紫原一帯は宅地化されており、わずかに志學館大学付近に少しだけ旧地形が残るようである。武山という孤立した山はなく、武村背後の山という漠然とした意味だろう。紫原に比べればやや旧地形が残る。

 前述の高橋直次郎上申書には続いて24日の戦闘を記している。

「六月廿四日未明涙橋ニ当リ轟然タル砲声ヲ聞ク、思フニ敵兵ノ突出タラント、馳テ尾畔ノ丘ニ登リ、遠眼鏡ヲ以テ之ヲ望ムニ果シテ然リ、未タ幾ナラス涙橋ノ味方破レ、敵兵進テ唐湊の丘ヨリ二本松ノ丘ニ上リ劇発ス、武村辺ヲ守ル別隊頭上ヨリ射ラレ、引テ武ノ丘ニ来ル、官兵続テ尾シ来ル、即チ右小隊半隊・左小隊半隊ヲ率ヒテ之ヲ援フ、官兵猖狂死屍ヲ越テ来ル、我兵殊死シテ戦フ、暮ニ至ル丸尽キ遂ニ破ル、依テ尾畔ノ丘ニ引揚ク、本日ノ戦ヒ我兵傷者七八名、官兵死傷其数ヲ知ラス」

 二本松の場所はこの記述により唐湊の北で、武の丘(武山ともいう)の南にあると推定できる。二本松について別働第一旅団第一大隊の記録がある。

  戦鬪始末書

  明治十年六月二十三日午後第十時髙雄丸ニ乗投シ敵背ヲ迂回セント欲シテ

  翌二十四日午前第一時錦江湾江拔錨シ航海数時ヲ出テスシテ同四時過鹿児

  島城ヲ巨ル凡一里余西南脇田江村ノ灘ニ投錨直ニ艇舩ヲ以テ半大隊(各中

  隊ヨリ一小隊宛)同村落ニ揚陸セント欲スル際敵ノ目擊ニ觸レ狙擊セラレ

  為ニ艇夫驚愕狼狽シテ漕遣セサルヲ以テ僅ニ濱岸ヲ巨ル数間ニシテ忽地揚

  陸スル能ハス甚タ隔靴嘆少ナカラスト雖ノモ辛ク叱シテ漸ク陸ニ達シ直チニ

  開戦交弾數發ニシテ我兵三手ニ別レ(右第三中隊ヨリ一小隊中央第四中隊

  ヨリ一小隊左第一第二中隊ヨリ各一小隊)村落ヲ衝突スル処敵兵防戦セス

  シテ二個ノ退路ヲ取テ敗走ス(一手ハ眼鏡橋ヲ渡テ谷山ノ方ニ一手ハ村後

  山上ニ各十五名斗リ)此ニ於テ尾擊シテ同村後山上ニ攀躋シ尚モ追擊スル

  三四丁ニシテ我右翼隊敵十五名拔刀シ来ルヲ斃シ各部共ニ愈々摩利支天山

  (俗ニ二本松ト云フ)ヲ指シテ進擊シ同第七時頃残リ半大隊来着シ薺シク

  進ンテ容易ニ摩利支天山ヲ取リ該地ヲ以テ中央トシ守地ヲ撰定シテ兵ヲ配

  布ス然リ而シテ同第十一時過第一中隊武大明神岡ノ西山ヲ進擊シテ敵兵ヲ

  走シ山頂ニ到リ武大明神岡ノ左側小丘ニ在ル敵兵ト對擊シテ止マス同第十

  二時過残三中隊武大明神岡ヲ進擊スル処察スルニ敵兵寡少ナリト雖ノモ山嶺

  ニ堅牢ノ塁壁ヲ設備シ防戦甚タ勉メ我兵繞出スヘキ攻路ナク為メニ銃鎗ヲ

  以テ衝突スル四回ニ及フト雖ノモ拔ク能ハス唯勇墳激戦「彼我ノ巨ル近キ処

  二間斗」弾丸ノ交接雨麻ノ如キ際先ノ西山ニ在ル一隊中央ノ小丘ヲ衝突ス

  ルノ吶喊ト薺シク亦衝突シテ竟ニ敵兵ヲ退ケテ以テ塁内ニ侵入シ即チ山頂

  ヲ以テ防禦線ト為シ直チニ兵ヲ配布シテ守勢ニ移ル時ニ同第七時頃ナリ

   前書之通致御届候也

       第一大隊長心得

  六月廿七日     陸軍大尉上野忠恕印

  第一旅團司令長官

   陸軍少将髙嶌鞆之助殿(C09085092000「戦闘始末書 第一大隊」『戰鬪報告原稿 明治十年三月☐ 出征別働隊第一旅團』)

 これによると、二本松は摩利支天と呼ばれた場所でもある。現地には石塔があるらしいが、ネット情報では詳しい地図画像を見つけることができない。

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 この後、薩軍は鹿児島湾北部沿岸に移動したので、次に甲突川右岸が戦場になったのは9月である。f:id:goldenempire:20210410111657j:plain

【上の図は「新編西南戦史」附図。左が全体図、右が部分拡大。下は甲突川右岸の拡大図。上伊敷・小野・永吉・原良・常盤・武村などの集落名や甲突川に架かる橋が上流から玉江橋・新上橋(しんかんばし)・西田橋とある。しかし、尾畔山はない。】

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 9月1日に鹿児島に突入してきた薩軍に関して「征西戰記稿」では城山よりも東側の地域に関する記述が多い中に、9月5日から始まる警視隊の部分に次の二行がある。

「同七時山下警部(住義〇重田警部ニ代リ)第二中隊ヲ率ヰ内之丸ヲ經テ伊敷村ニ入リ六日午前八時水上阪ニ出テ明神山ノ賊ヲ擊ツ零時ニシテ賊悉ク走ル肯テ之ヲ追ハス拔ク所ノ壘ニ據ル」

 明神山は甲突川右岸丘陵にある水上阪の近くであろう。武村にある建部神社は武大明神ともいわれ、鹿児島中央駅の南西約7.5㎞に位置し、条件が揃っている。第二旅団の9月6日の記録(第二旅団)では、同じく甲突川右岸丘陵で戦闘があったことを記す。

「六日昨夜發遣セシ各團ノ諸隊共ニ進ンテ賊ヲ擊ツ賊兵初メ且ツ之ニ應ス我兵發射七八回常盤村ノ賊先ツ走ル武山尾畔山ノ賊亦從テ潰ヘ悉ク新上橋ヲ渡テ城山ニ入ル我兵其壘ヲ奪フテ之ニ據ル本團ノ三中隊ハ猶ホ進ンテ西田村ヲ略シ城山ノ賊壘ニ對シテ守備ス降賊ノ言ニ曰ク賊ノ派出本營常盤村ニ在リ諸巨魁皆此ニ在リト我兵ノ小野村ヨリスル者其進入ヲシテ早キ一歩ナラシメハ左右合擊或ハ之ヲ擒スルヲ得シナリ時ニ第三旅團ノ斥候兵モ亦此ニ會ス而シテ該團諸隊ハ現ニ大門口松原ノ沿道ヲ略シ守備ヲ置クト雖モ兵員寡少谷山街道ノ一面未タ之ヲ塞ク能ハス時ニ熊本鎭臺兵(樺山中佐及ヒ川上少佐ノ所部)阿久根宮ノ城地方ヨリ來リ我守線ノ右翼ニ進ミ踵テ別働第一旅團兵(岡澤中佐ノ諸部)モ亦來リ更ニ鎭臺兵ノ右翼ニ進ミ遂ニ第三旅團ノ左翼ニ連絡ス是ニ於テ合圍始テ全シ」

 別働第二旅団9月6日の部分にも尾畔山付近が登場する。

「是ヨリ先キ賊根據ヲ城山ニ構ヘ分遣兵ヲ尾畔山及ヒ武村ノ山上ニ置キ伊集院街道ヲ扼ス我擊テ之ヲ占領セント欲スレノモ兵員足ラサルヲ以テ果サス故ニ伊集院谿山ノ方面ハ賊容易ニ出沒スルヲ得タリ而シテ今ヤ第三旅團兵海路天保山ヨリ上陸云々」

 同じ6日に熊本鎮台もこの付近に守備を布いている。

「六日生山峠ノ一大隊(第十三聯隊第三)ハ郡山ヲ經テ小野村ニ至リ遂ニ武村ノ大明神山ヲ占領シ哨兵ヲ布ク即チ第一旅團哨線ノ右ニ在リ而シテ左ヲ別働第一旅團ニ接ス」

 9月15日、熊本鎮台は甲突川右岸丘陵地帯の一部に兵を部署している。それは「武村地方ヨリ大明神山右翼ニ至ル」・「大明神山ヨリ武町街道及ヒ二本松第二線ニ至ル」・「大明神山左翼ヨリ一本松マテ」である。薩軍を追い出した丘陵地帯で、包囲網の第二線として警戒を続けていたのである。24日の最後の攻撃には、この付近からも攻撃兵が選ばれている。

 ところで尾畔山を「おあぜやま」と読むのかと思っていたら違うことが分かった。

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C09082100700椎木村出張参謀部 密事襍書 明治10年8月4日~10年9月12日(防衛省防衛研究所)1498

「ヲクロ山タケ村山上両所之拠賊第一旅團ニ於テ明六日拂暁攻擊当團兵三中隊應援差添右掃攘ノ上ハ直ニ同処ニテ右翼第三旅團ト連絡ノ筈ニ付右時機ニ應シ聲援可致此旨相達候事

 九月五日   三好少将

  野崎中佐殿

 つまり、尾畔山はオグロ山であった。

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  上図は甲突川右岸の記録に登場する地名とその推定位置である。この地域には多数の台場が築かれたと考えられるが、冒頭に述べたようにその解明・分布調査は行っていない。

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 上図は二番目に掲げた「西南記伝」の附図のうち、甲突川右岸の拡大である。尾畔山や台場跡は載っていない。

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 上は静岡県の人から購入した手描き地図である(A図)。縦31.8㎝・横44.6㎝の和紙。城山周囲の包囲網とその部隊名・各旅団の境界・竹柵や城山に薩軍台場の分布状態を描いているのが特徴的である。誰が何時描いたのか。武村を竹村としているので地元民ではないと思う。これによく似た地図が「鹿児島県史料 西南戦争」第三巻pp.727にあるが(B図:下図)、城山一帯の薩軍台場の形は違っている。

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また、橋の記載・東西南北がなく、やや簡素な絵である。しかし山や川の輪郭、竹柵の全体形はよく似ている。A・Bは「西南記伝」(が参考にしたであろう元)の地図とは似ていない(C図)。A・B・Cすべて共通して、甲突川右岸丘陵にもあった官軍による包囲網が描かれていない点は「西南記伝」と同じである。A・B図の永吉村の南には「小黒村」とあり、おぐろむらと発音すべきことが分かる。

 アジ歴史料を検索していたら、原良村の住人から聞き取った薩軍情報と甲突川両岸の台場分布図が一緒に公開されているのを見つけた。図には半円形に台場が示されているが、分かりやすくするため〇で囲んで示す。赤丸が官軍、青丸が薩軍である。

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   以下は解読文。

原良村☐☐

勘 助

右之者當月六日城ニ入過ル九日帰来左之ケ条申立候

一城中米ハナシ皆粥ヲ喰フ

一西郷桐野佐藤ノ三名ハ去ル七日被見受タリ

一小銃弾薬ハアリ

一大砲弾薬ハ少ナシ

一人員ハ凡ソ弐百八十名ノ☐

土人(即人夫)ハ追〃城中ゟ脱シ去ル

一他縣ノ人夫ハ四五十人位アリ

一醤油ハ少〃アリ

一味噌ハナシ

 この人は9月6日に城山に行き、9日に帰宅している。そして、添付図がこれである。いつの状態なのかは判然としないが、甲突川右岸丘陵を完全に占領した9月6日以降の状態であることは間違いない。

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 描かれたのは地図の下が甲突川右岸丘陵で上が城山である。両方に多数の台場の位置が記入されている。見にくいのでアジ歴の番号で検索すればもっと詳しく見られるかもしれないが、原図は薄い。この図は第一旅団の簿冊に綴じられていたので、甲突川右岸の武村周辺に配置についていた第一旅団が把握できる範囲で作成した可能性がある。この地図により尾畔山の場所が分かった。

 この地図には部隊名が記されている。例えば次の記録に登場する八田大尉や花岡中尉、宮崎大尉などであり、この史料に附属すべき地図とみることができる。

C09083526300第一旅団戦闘景況戦闘日誌 明治10年2月26日~10年9月3日(防衛省防衛研究所)0735~

〇同三日午前第二時三十分前驅諸隊共ニ重冨ヲ発シ同不第九時三十分薩摩国上伊敷村ニ至ルニ賊鹿児島城山并尾畔山等ニ塁ヲ築キ防禦ヲナス爰ニ於テ前驅諸隊小野村ヨリ原良山ニ登進シ右翼伊集院本道ヨリ原良山ヲ経テ左翼永吉村迠ノ山上ニ塁ヲ築キ警備ヲ付ス則右翼八田大尉中央原良山ハ林中尉左翼ハ花岡中尉ノ諸隊ナリ〇翌同四日警備同上〇同五日(3字不明)シ當方面守線薄弱ニ付別働第二旅團ノ内一中隊ヲシテ永吉村山上ニ増加シ亦警視隊二百余名ヲ以テ右翼八田大尉ノ援隊ニ備フ〇同六日午前第八時進擊ニテ當方面ハ尾畔山ヲ攻擊スルニ賊僅ニ屯在スト𧈧ノモ遂ニ守ヲ捨テ新上橋ヲ越ヘ城山ヲ指シテ遁走ス因テ尾畔山及ヒ原良村等ヲ略シ八田大尉ハ尾畔山ニ林中尉ハ原良村ニ花岡中尉ハ左翼永吉村迠則宮崎大尉ト連絡ヲ保チ警備ヲ厳ニス爰ニ於テ鹿児島城山ヲ全ク取圍ム〇同七日此日ヨリ日々(略)

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  上図は上記の台場分布図を参考に国土地理院地図に台場推定位置を示したものである。城山に関しては、第一旅団側から観察できた城山の状況がこれだったのではないだろうか。城山にあった薩軍台場の配置状態は所蔵する手描き地図とは異なるが、こちらの方が真実に近い気がする。

 「薩南血涙史」に尾畔山・武山丘陵での9月段階の記述がみられないのはどういうことだろうか。  

C09083851200出征第一旅團 雑綴(防衛省防衛研究所)蔵0319~21征討総督本営罫紙

鹿児嶋縣下小野村ヨリ尾畔山并武村ノ山頂ナル賊走掃除之戦略

本月三日鹿児嶋縣管下重富口脇元ニ於テ三好少将ヨリ豫メ定ラレタル部署ニ依リ長谷川中佐引率ノ諸隊ハ拂暁白金坂ヲ超越シ川上村ヨリ上伊敷ヲ経テ小野村ニ至リ候處吾方面江ハ格別賊兵モ在サレハ直ニ原良村ノ山頂ヨリ伊集院街道ノ要地ヲ占メ守備ヲ付ルト𧈧ノモ兵員僅少ニシテ薄弱ナリ故第二旅團参謀長野津大佐ヘ兵員増加ノ儀ヲ照會セシカ尾畔山并武山ノ賊掃攘之義ニ决ス同六日第二旅團第八聯隊第三大隊波多野少佐ノ二中隊并警視一中隊援隊トシテ狙撃一中隊ヲ伊集院街道ヨリ道ヲ右傍ニ取リ水上坂ノ山脉ヲ亘リ大明神丘ノ賊ヲ反撃セシメ亦長谷川中佐ノ三中隊及東京隊第三聯隊第三大隊ノ内一中隊ノ隊ナリ(即チ花岡中尉)ヲ合シ水上坂ノ左翼或ハ原良村ヨリ尾畔山ノ頂上ナル賊塁ヲ反擊ス援隊トシテ別働第二旅團井上大尉ノ一中隊ヲ以略中村少佐ノ隊ト連絡ヲ保チ而乄援隊ハ先鋒隊ノ進入ニ従ヒ徐々前面江進軍スル約ヲナシ伊集院街道江整列ス午前第八時十分各隊同時ニ敢テ應セス官軍尠シク發射シ賊四名ヲ斃ス尚進ンテ武山及男畔山等ノ諸塁ヲ拔ク賊ク西田ウシロ方面ヨリ新上橋ヲ通過シ岩﨑越ヲ経テ城山ヘ走ル于時午前第十時十五分全ク武尾畔ノ両山共吾軍ノ有トナル故ニ各要所ヘ兵ヲ配布シ守備ヲ厳ニセリ(略)

 9月6日、武山及男畔山等から撤退した薩軍の行く先は「征西戰記稿」では岩崎越が抜け落ちているが、西田の後方面から新上橋からさらに岩崎越を経て城山の薩軍に合流している。決して城山以外の遠方に逃げたわけではない。「薩南血涙史」の筆者、加治木常樹には戦後もその情報は伝わらなかったらしい。